とはいえ、わからないでもない

2011年03月

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「美の巨人」で酒井抱一『夏秋草図屏風』が特集されていた。おそらく再放送。




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酒井抱一『夏秋草図屏風』




これ、この画像ではくすんでいてあまり見映えがよくないが、現物は本当に素晴らしいの一言。

はじめて知ったことだが、この屏風、もとはと言えば、尾形光琳の『風神雷神図』の裏に描かれたものらしい。




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尾形光琳風神雷神図』




ちなみに、上の『風神雷神図』は模写であり、オリジナルは以下。






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俵屋宗達風神雷神図』




風神雷神図』や『燕子花図屏風』など、琳派特有の金箔調というのが私のいまいち気に入らなかったところなのだが、抱一のは違う。

銀箔が実にいい。番組ではこの「銀」は月明かりの世界を表していると解説していた。

こういう銀の良さがわかるというのが、日本人特有のものだとは決して思わないが、「わび・さび」を理解しているような気分にはなれる。

なお、参考までに『燕子花図屏風』。




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尾形光琳『燕子花図屏風』





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夜、車で山間の道を下っていたら、ガードレールの向こうに猪の足が見えた。当たりは真っ暗。

ちょっと停車してハイビームを当ててみても、猪(の足)は動じることなく、その場を動かない。顔がちょうどガードレールに隠れているところを見るとそれほど大きいというわけでもないのだろう。

そのとき、ふと『狩猟で暮らしたわれらの祖先』という小説のタイトルを思い出した。大江健三郎の中篇集『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』に収録されている中篇(短篇だったか?)。

内容にはそれほど感銘を受けなかったと記憶しているが、なにせタイトルがよい。当時二十歳近くの私に相当刺さった



ガードレールを挟んで対峙している私と獣は、かつて何百年何千年も前に同じように対峙していたことがあったのかもしれない、ということを論理的に考えた。「論理的」というのは、「直観したわけではない」という程度の意味。

私の先祖と獣の先祖は木で作った柵を隔てて睨み合ったことがかつてあり、同じ過去の記憶を持つ者同士がこうやって永の時間を経て面と向っているのはそのときの再現みたいなものだ。私はそう仮定してみたのである。

いったんそう考えてみると、相手は「害獣」などという簡単に規定できるものではなくなり、かつて命のやりとりをし合った対象に変化し、自然と敬意も生まれる。

「偉大な獣」、という言葉が私の頭に浮かんだ。この言葉を使って歌でも句でも作れやしないかと思ったが、しかし考えて見ればこの単語はスピッツが『運命の人』で遣ってしまっている。

「遣ってしまっている」というか、この言葉は草野マサムネが造り出した言葉と言ってもよいだろう。




バスの揺れかたで人生の意味が 解かった日曜日

でもさ 君は運命の人だから 強く手を握るよ

ここにいるのは 優しいだけじゃなく 偉大な獣




結局、陳腐なイメージばかりが浮かび、なにも詠むことはできなかった。



われらの狂気を生き延びる道を教えよ (新潮文庫)

われらの狂気を生き延びる道を教えよ (新潮文庫)



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古書店に注文していた本が届く。『阪神大震災を詠む』。

内容が内容なだけに、ぱらぱらとは読み進めることができない。




水の出ぬホースを叩く消防士映像なれど我も声あぐ  京都市 三木はつ子




最初の方を読んだだけなので、まだ俳句部門を見たわけではないが、この(危機的状況を詠むという)場合、短歌の方が情景をより説明できるし、力強いのではないかと、特に上掲歌を見て感じた。




わがひざに打ち慄えいる老妻*1を抱き孤独ならざる幸を噛みしむ  神戸市 友井政雄

きみが遺体の掘り起こされしそこのみが瓦礫の中にくぼみていたり  京都市 森本明子

かなしくも四五日分のひげ伸びて怪我ひとつなき遺体掘り出ず  西宮市 岩佐栄三






阪神大震災を詠む (ASAHI NEWS SHOP)

阪神大震災を詠む (ASAHI NEWS SHOP)



*1:「老妻」=「つま」



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某所で公開しようと思ったが、ちょっとマイナーすぎると思ってやめた。

『ヴァリス』(フィリップ・K・ディック)についてのちょっとしたメモ。



おそらく私はこの作品の一割も理解していない。

366ページの本篇に対して72ページもある訳者の解説(これだけでも労作!)も、その大半を理解しないまま読了した。

けれども、この作品に通底して流れる「切実さ」についてだけは理解できたと考えている。




他人を助けられるというのが、長年ファットにとりつく妄想だった。かかりつけの精神科医が、よくなるためにはふたつのことをやめなければならない、とファットに告げたことがある。麻薬をやめ(ファットは麻薬をやめたことがなかった)、他人を助けようとすることをやめなければならない、と。ファットはいまだに他人を助けようとしていた。




冒頭に出てくるこの描写を読んで、「なんだ、ジャンキー(麻薬中毒者)の小説か」と判断する人も多いだろうと思う。そして、それらの人の多くは、作者のディックあるいは主人公を「気持ち悪い」と感じるかもしれない。



「神は擬態をとってこの世に現れている」ということから、神を「ゼブラ(シマウマ)」と呼びつづけるこの小説を、「気持ち悪いから」と言って一蹴するのは簡単だ。

でもちょっと待ってほしい。

主人公のファット、そして作者のディックが本気で考える「真理」には、あまりにもありふれていて誰にも検証されなくなった「一般論」などより、よっぽど切実さがある。

「神はピンク色の光となってファットの前に現れた」という描写には、「(体験した事実なのだから)そうでなければならない」というディックの切実さがよく表れていると私には感じられる。

そう。

この小説を読んで私は、人生は「たられば」で論じられるものでなければ、「因果論」で論じられるものでもなく、それを経験し、生きている限りは経験しつづけているその所有者にとって固有のものであり、それを生きるということは、非常に切実な体験の連続なのだ、というふうに理解するようになった。



あまりにも複雑すぎて、あまりにも深遠すぎて、あまりにも博識すぎて、あまりにもぶっ飛びすぎているため、内容の詳細をほとんど失念してしまっているが、それでも未だに私の中には、読んでいるあいだずっと響いていたノイズのようなものが残っている。

それはあまりにも大きなノイズで、おそらく何度読み直しても、私の中からきれいに流れ去っていくということがないように思う。そしてそれこそが、『ヴァリス』ひいてはディックの小説がれっきとした文学である証拠のように思っている。



ヴァリス (創元推理文庫)

ヴァリス (創元推理文庫)



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最近、ずっと気になっていることがある。下のツイートについて。






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千葉県の松戸市で被災地への募金を呼びかけていた高校生2人を殴って1万円奪う http://t.co/MY6PRRF コッコ、本当に悲しくなりました




これは「毎日jp編集部」のアカウント@mainichijpedit のツイートで、同アカウントのプロフィールには、




毎日新聞の総合情報サイト「毎日jp」のキャラクターのコッコちゃんこと「ジャン・ピエール・コッコ」がおすすめ記事などをつぶやきます




とある。つまり「コッコ」というのはこのツイートの主体であり、同時に一人称を表していると考えてよい。



ツイッターを始めてから、ニュースサイトの公式アカウントをいくつかフォローしていた。だが、この@mainichijpedit と、AFPBB (@afpbbcom)以外はすべてフォローを取り消した。

理由は、次々とタイムラインを埋めていく「情報」があまりにも無機質に感じたからだ*1。情報が氾濫している現在においてその情報が無機質であるということは無価値であることをそのまま意味する、これからはやはり「キュレーションの時代」であって……とかなんとかそういう偉そうなことを言いたいわけではない。

そういう云々以前に、上記ツイートが、なぜその伝えている内容以上に悲しみを催させるのか、と考えると、(少なくとも私にとっては)「コッコ」という8ビットの画像のせいなのではないか、ということに思い至る*2



なにが言いたいのかというと、情報の評価というものは、発信者のイメージによってかなり左右されるのではないかということだ。

たとえばこのツイートのアイコンが以下だったらどのように感じただろうか。






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「本当に悲しくなりました」




あるいは、これはどうか。




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「本当に悲しくなりました」




これらふたつは極端な例だが、それでもこのようなアイコンを持った発信者が真面目なことを言おうとも、あまり本気には受け取ってもらえないのではないか、と私は考える。

毎日jp のやり方がうまいなと感じるのは、「コッコ」のデザインが稚拙なためにこの「コッコ」自体(つまり発信者自体)にイノセントなイメージをまとわせているということだ。

たとえば古舘伊知郎が同ニュースを報道し、深刻な表情で「わたくし、本当に悲しくなりました」と付け加えようとも、「ほんとに? それって職務的挨拶として言っているんじゃなくて?」とついつい意地悪な受け取り方をしてしまいがちだが(私だけか?)、「コッコ」が「本当に悲しくなりました」と書けば、子どもが傷ついたのを見せられたような気分に陥ってしまう。もちろん、「コッコ」というのは架空の生物であって、ただのキャラクター設定に過ぎないというのはよくよくわかっている上での話。




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この絵に騙されているのか?




この仮説を敷衍させていけば、とにかくウェブ上で情報を発信していくにはイメージづくりが大切であり、その簡単な第一歩として適切にデザインされたキャラクターを作るということがあろう。

言葉だけで大切なことは伝えられる、というのはある一面だけを見れば真理かもしれないし、私自身も支持したい考えではあるが、残念ながら、ウェブ上ではどれだけ受信者に適切なイメージを与えられるかということが問われ、その方法として、画像を使わない手はないと思う*3

アイコンなどを作るときはくれぐれも気をつけるべし。



*1:AFPBB のニュースも無機質に近いのだが、私が個人的にAFP を好きなのでアンフォローしないでいる。


*2:この記事内では、あえて事件の「内容」についてはまったく触れない。


*3:もしかしたらここ数年でこれらに音楽という要素も加わるかもしれない。



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少し前に弟に石田波郷の句を教えてもらった。




バスを待ち大路の春をうたがはず  波郷




この句の持っているイメージには、ものすごく共感できる。

昭和十四年(1939年)作の句集『鶴の眼』に所収とのことだが、なに、七十余年が経とうとも、春の兆しを感じ、またそれに対してうきうきしてしまうような感覚というものは変わらないということなのだろう。



三月も末が近づき、学生でもなく、また会社勤めでもなくなり年度末というものに関係のない身分の私ではあるが、既に一年の四分の一が過ぎようとしているという暦の上での進み具合にいささかの驚きを覚えるとともに、今日は今日で、ちらちらと舞う雪片をかぶりながら近所のお年寄りといつになったら春が来るのかという談義に半時間を費やし、「春をうたがわず」と断言できる日を心待ちにしている。





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買い占め規制の報道がつづく中、3/8に放映された柳家さん喬の『夢金(ゆめきん)』のことを少し思い出した。



船頭の熊はドケチというより強欲者で、雪夜の突然の訪問客(侍と娘)に対して仕事を渋っていたが、「酒手(心づけ)は弾む」という侍の言葉を聞いて船頭の仕事を引き受ける。

船を出すと、娘の見えないところで、侍が熊に打ち明け話をする。

「実は、連れている娘はどこぞの大店の者らしく懐に大量の金(二百両)を持っているから連れてきただけで、身共とは何も関係ない(たしか娘は家でをしていたという設定でなかったか)。ついては、船中で娘を殺し、金を山分けしないか」

それを聞いて驚く熊だが、断ると叩き斬るという侍の言葉に怯えて渋々承諾する。しかし、いったいいくら山分けしてくれるのかと侍に尋ねると二両だと答えたので、途端に熊は怒り出す。人を殺すのに二両というのがあるか。実は金槌である侍は、熊の剣幕に押され百両づつ山分けすることにする。

さて娘を斬るぞという段になり、慌てて熊は断る。「こんなところで斬られちゃあ船内が血糊でベッタリってことになる。そうだ、あすこに中洲があるから、あすこンところに娘を降ろして、それから殺っちゃいましょう」

先に侍が船から中洲に降りたのを確認し、慌てて熊は船を出す。

「冗談言っちゃいけねえや、人殺しなんかできるか! おめェだけでそこにいろってンだ」

船を戻して娘を元の店に連れ返すと、店主からどうぞこれを、と二百両もらう。「うへー二百両!」と言うが、実は全部が夢というオチ。

夢オチというのはちょいといただけないが、いくら強欲でもそれが倫理を超えることはない、という物語の設定に一定の感銘を受けた。

なお、夢金は「ゆめがね」ではなく「ゆめきん」と読まなければならない。元のサゲを見ればわかる。それについては、

Wikipedia 参照のこと。



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親しんだ『俳句への旅』をついに読み終え、しばらく物足りない気持ちを覚えていたのだが、今日面白そうな文庫を手に入れた。山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』。



さっそくページを開いてみると、細見綾子の句が。




女身仏に春剥落のつづきをり  綾子




これはもう同書の該当部分をそのまま引用する。




昭和四十五年作。詞書「秋篠寺」。集(伎藝天)の「あとがき」に、作者の自注がある。

……この日に見た伎芸天は実にすばらしかった。外は春雪の舞い降る冷え冷えとした堂内でこの像を仰ぎ見たのだが、その立ち姿に脈うてるごときものを感じた。黒い乾漆がはげて下地の赫(あか)い色が出ている。遠いいつからか剥落しつづけ現在も今目の前にも剥落しつづけていることの生ま生ましさ、もろさ、生きた流転の時間、それ等はすべて新鮮そのものだった。

(中略)

見事な永遠なものの前での時間の流れを切実に感じた
」。付け加える言葉はない。集の名にも選んだ、作者自讚の句である。




通常は老朽の意味をしか持たない剥落という即物的な単語に、まったく異なるイメージを持たせるこの作用こそ、詩の真骨頂であり、あらためてわづか十七字(当句は十八字だが)が持つ力に感嘆する。






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これが秋篠寺(奈良県)の伎芸天だそう。






ところで、上記の中で「永遠」という言葉が出てくる。

今回の大地震で、茨城県にある岡倉天心が作った「六角堂」がそのまま津波に流され跡形ものなくなったということが起こっている。作った天心にせよ、六角堂を今まで好んで鑑賞してきた人たちも、まさか消失してしまうという事態など想像もつかなかったに違いない。

上記自注を読んだとき、(揚げ足を取るわけでは決してないが)「永遠」という言葉が持つはかなさにも思いを巡らさざるを得なかった。



俳句鑑賞歳時記 (角川ソフィア文庫)

俳句鑑賞歳時記 (角川ソフィア文庫)



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五歳の女の子に教えられた


先日、とある場所で五歳の女の子がいる近くで作業をしていた。彼女は折り紙を折っていた(ように記憶している)。

作業中、ちょっとしたミスをした私は無意識に「ちっくしょ」と呟いたのだが、無意識ゆえに自分では気づかなかった。そこへ、その女の子がぺたぺたと歩いて私のところに寄ってきて、ちょっと言いにくそうに、

「あのね、わたし、きたないことばをつかったらだめだとおもうの」

と言った。

「あれ? いまなんか汚い言葉遣っていた?」

「うん、ちくしょーっていってた」

「ごめん。たしかに汚い言葉だね。ごめんごめん。もう言わないようにするね」

「うん」

そう言って、彼女は折り紙の方へと戻って行った。





「奇跡」は、複雑な要素によって構成されている


遣う言葉に人格が出るというのはその通りなのだが、私はまた別のことも考えていた。

その五歳の女の子が、十五歳になっても二十五歳になっても、「きたないことばをつかったらだめ」と思う人間でいつづけられるのかどうかということ。

彼女個人については、悲観的な予測などまったく思い浮かばないのだが、それでも、まっとうな感覚のまま大人になるということは非常に難しいことなのだろうということに考えが及んだ。

そりゃ、若い頃から犯罪に手を染め、四十あたりで人殺しをして刑務所に入り、それから二十年近くしてから出所して、教会で洗礼を受けて以降ずっとボランティア活動に従事して、九十になる頃には「マザー・テレサの再来」と呼ばれるようになった、という人生も否定はしませんよ。

否定はしないけれど、素直に肯定もできない。更生は難しいことだけれど、それ以上に難しいのは、道を外れないということだからだ。

「昔は悪いこともした」なんて、たとえ照れ隠しであろうと口にするのは愚かしい。むしろ、「昔から優等生のままでした」と堂々と口にできるようにならないと。

そんな考えが次から次へと浮かび、一所懸命に折り紙を折っている五歳の子に「どうぞそのままで」という気持ちになった。

女の子が「ちゃんとした女性」になるまでには、両親の行き届いた躾だけではなく、よい友人関係や、学校・職場などでのよい人間関係も必要になるだろう。それらはすべて環境の問題で、それ以前に、まず当人の人格や考え方が歪んでいてはいけない。そう思うと、「まっとうな女の子*1」ってのは、様々な障害に打ち克ってきたもうそれだけで奇跡と考えていい存在なのではないか。

ということで、今度からそういう女性に出会ったら、内心で拝むことにする。ありがたやありがたや、ついでにご利益がありますように、と。




*1:ここでは成人女性のことを指す。



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事情をわからない人には唐突であろうが、"We are the World"のメイキングを少し追うことにしてみる。




オリジナルのPV


まずは、オリジナルの"We are the World"を観てみよう。




We are the World / USA for AFRICA




ただし、この動画に表示されている日本語訳には少々の難があるように思う(理由は後述)。





ボブ・ゲルドフの言葉


メイキングの動画は5つに分割されている。

まず、#1

はじめにこの番組の案内人(キャスター)によりこの曲のあらましが語られる、と思ったら、このキャスターはジェーン・フォンダという女優で有名らしい。

#1の見所は、1:25あたりで登場するライオネル・リッチーマイケル・ジャクソンのティアドロップタイプのサングラスから始まる(ちょっと経つとスティーヴィー・ワンダーも登場)。今またリバイバルしている感があるこのサングラスだが、私の中では、「ザ・レイバン」という印象がある*1

なお、日本の場合だとこの人たちが有名かもしれない。




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この西部警察のレコードがパート1のものだとしたら1980年前後のものになるようだが*2、ジャケットでは8人中4人がこのタイプのサングラスを掛けている。よっぽど眩しかったのだろうか。



話を戻して、このパート(#1)はレコーディングの準備を主に映している。そして、ミュージシャンたちが続々とスタジオ入りして徐々に緊張感が高まっていくのが見ている方にも伝わる。

真面目なことを言うと、6:56あたりから始まる発起人のボブ・ゲルドフの言葉だけでも観ておいた方がいい。この歌の背景になにがあったのか、少なくとも歌ったミュージシャンたちがなんのために歌ったのか、が理解できる。





ポケットに手を突っ込んだままの知性


#2

1:08あたりから始まるマイケル・ジャクソンの「We are the world、シャーラー」のメロディが耳から離れない。

2:57から『バナナボートソング』が始まる。

それまでの交友関係などもあるのだろうが、このシーンを観ていると、本当に黒人とラテン系民族は陽気だなあと感じる。レイ・チャールズなんて子どもみたいに飛び跳ねている。

私がこの場面で気になったのは、レイ・チャールズの後ろの後ろに立っているボブ・ディランだ。

『バナナボート』が盛り上がっていくにつれスタジオはみんながげらげら笑っている状態になっていくが、ボブ・ディランだけは、はじめの方で歯を見せて笑っただけで、あとは静かに立っていた(ように私には見えた)。

つまらない、と感じている風には見えない。歌の歌詞じゃないけど、「早く家に帰りたい」と思っているわけでもなさそうだ。ただ、騒々しさや賑やかさには流されずに、ポケットに手を突っ込んだまま、手拍子も打たず歌も歌わず、そこに立っていた。ほんの少しだけ、身体を動かして。

映像が不鮮明ということもあり、またカメラワークの問題で、歌っていなかったように見えただけかもしれない。

しかし、既に私の中のボブ・ディラン像は、このシーンのイメージで固定されてしまった。神格化するわけではないのだが、彼は騒々しさの中で黙っている男、ポケットに突っ込んだ手を出せない男なのだ。

どこで読んだかも忘れてしまったが、ある有名な作家が、パーティーかなにかの最中に(また別の)ある有名な作家と初めて会ったとき、名乗りもしないのにその相手のことがわかったという。そのことをたしかこんな風に表現していた。




彼は、その沈黙ゆえに、彼だとわかった。




うろ覚え過ぎて、名言も台無しだけど。

ともかく、このときのボブ・ディランは私に上の言葉を想起させた。そして、ボブ・ディランのことが好きになった。





ソロパートのレコーディングが始まる


#3

0:52からエチオピア人女性の言葉がある。英語ではほとんど挨拶だけなのだが、この女性が泣く姿を見て、さきほどまで『バナナボート』を歌ってげらげら笑っていた連中がもらい泣きしているのにもらい泣きしてしまう。もらいもらい泣きだ。

さて、いよいよソロパートのレコーディング。

ここまでオリジナルPV を何度も観てきた私には、2:43から始まるソロパートが、それぞれ本番テイクに使われたかどうかわかる。

まあ、3:56のジェームス・イングラムが歌詞を間違えているのは誰でもわかると思うけど(このシーンを観て笑うとき、なぜか声をひそめて笑ってしまう。大声を出すとプロデューサーのクインシー・ジョーンズに怒られてしまいそう)。

あと、6:10でクインシーに怒られるシンディ・ローパーがめちゃくちゃかわいい。

そして、8:03からボブ・ディランのソロの部分が映されるが、これを観て、ボブ・ディランのソロパートの歌い方(現代風にいえばかなりラップ調)がクインシーの指示によるものだということが判明する。「半分歌う感じだ」(クインシー)。まあ、私の父も「ボブ・ディランってのは大昔からラップみたいなことをやっていたよな、当時は念仏だと思っていたけど」と言っていたくらいだから、"We are the World"以前からも、彼の「読み上げ調」は有名だったのだろう。

たとえばこれとか。






これはボブの"Subterranean Homesick Blues"を使ったGoogle のCF。




レコーディングが終了してクインシー・ジョーンズライオネル・リッチーと抱き合うところを観て、やはりボブ・ディランは別格に扱われていたのかという印象を持った。





彼が嬉しそうに笑うのは、音楽の神と出逢っているから


#4

始まると同時にブルース・スプリングスティーンが熱唱している。PV を観ている限りは(「腹を下しているのか」と思うほど顔をしかめて歌う姿が)暑苦しくて苦手だったのだが、このシーンを観ていたら好きになったのだから、いい加減なものである。

2:11にレイ・チャールズが登場。レコーディング後、数日経ってから再録音するために招集されたのである。

YouTube のコメントに「レイチャールズ神すぎる」とあるが、まあそのように感じるのも不思議ないほどの変幻自在ぶり。音楽とはこんな風にバラバラにでき、そして再構成できるものなのか、と素人の私はただただ感嘆するばかり。

後に出てくるスティーヴィー・ワンダー(5:24から登場)も同じだが、彼らが目が見えないのは、その代わりに与えられたものがあまりにも巨大すぎるからだと、少しだけファンタジックにも考えたくなる。こんな風に言ってしまうのは、本当の彼らの苦労をあまりにも理解していないということになるのは重々承知しているが。

いや、よくよく考えると、やはりレイ・チャールズが音楽の神なのではない。それはスティーヴィーも同じことだ。彼らは神ではない。

しかし、バッハやベートーベンやモーツァルトの目の前に現れた音楽の神は、レイやスティーヴィーたちの前にもきっと現れている。

彼らが歌っているとき、身体中から溢れるリズムやビートに揺られながら、音楽の神との邂逅を果たしている。そして、この世では機能していない目で、神の姿を見ている。だから、彼らは嬉しそうに笑うのだ。





誰が死んでも私は縮む、私も同じ人間だから


#5

0:40から始まるエピソードは知らなかった。なんだか今では信じられないよう話。そして今では信じられないくらいに、当時は価値のあった「事件」だったのだろうと思う。

1:47で詩人ジョン・ダンの言葉が紹介される。




誰が死んでも私は縮む 私も同じ人間だから




おそらく原文は以下。




any man's death diminishes me, because I am involved in mankind




つづいて、"We are the World"の歌詞が紹介される。




選ぶのは僕らだ 自らの命を救おう




原文は以下。




There's a choice we're making. We're saving our lives.




私がこの記事の最初の方で紹介した動画の日本語訳がおかしいと書いたのは主にこの点である。

当該動画では上記箇所を、




私達にはいくつもの選択肢があったのに それなのに自分達のことばかり考えていた




と訳している。訳者の個人的感情に基づく意訳とするのならいいのだが、原義とはかなりかけ離れていると思う。

最後は、ライオネル・リッチーの言葉で締め括られる。





後夜祭はいつも悲しいけれど


昨日の余韻が未だに残っているため、気分がまだ高揚している。そういえば昨日はまるで文化祭のようだったと思い直し、となれば、本記事にはさしづめ「後夜祭」の役割を担わせたいと考えた。

その企みは、私の中では奏功したようには思えるが、はたして他の人たちにはどうだったのだろうか。

後夜祭につづくのは悲しみである、と私は考えている。だから、後夜祭自体にも悲しいイメージしかない。

トリュフォーの『アメリカの夜』でもそうだったが、いくら昂奮がうちつづこうとも、やがて別れと静寂と沈黙がやってくる。それは新たな昂奮の前触れでもあるのだが、なかなかそう簡単に切り替えることは難しい。

別れを少しでも引き伸ばすため、後夜祭をやっていた。そんな風に高校の文化祭をいま思い出し、あのときの胸の詰まるような思いを想い出してみる。

そして、その当時にはこんな音楽を知らなかったけど、こんな音楽が流れていたんだと思い込むようにしている。










*1:[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%B3:title=Wikipedia の項目]を見るに、アビエイターというモデルに近い(か同じ)かもしれない。


*2:私自身はこの番組を全然知らない。



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