とはいえ、わからないでもない

2011年05月

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先週の土曜日に大阪に行ってきた。そこでお目当ての書店へ行ったときの話。

ネットで調べたら、すごく大きい(四百坪だとか)ということだったのだが、いざふたを開けてみると、それほど充実している店舗とは言えなかった。海外文学の棚が三メートル足らずしかなかった。そりゃ、モノには需要と供給というバランスがあるのは知っているけど、「タレント本」のコーナーよりも小さいだなんて。

高校生の頃、渋谷の大盛堂に初めて行ったとき、あの狭い店舗にセリーヌ全集(の一部)が置いてあるのにとても感動した。

川崎のあおい書店には二十メートル(大げさか?)くらいのひとつの棚全部が「全集」で埋まっていた。夏目漱石安部公房(あの装幀は格好良かった!)……あれ、あと忘れた。たぶん池波正太郎とか山本周五郎だとか、大江健三郎だとか村上春樹だとか、あとは日本文学全集とかそういったあたりが置いてあったのだろうと思う。私は漱石を集める予定だったので旧字旧仮名のものを下調べした記憶があるが……はて、経済的理由からその計画は途中で止まったままになっているな。



異論は多分にあろうが、本屋の「花」はやはり文芸コーナーである。渋谷の旧ブックファーストの二階(だったよな?)なんて愉しかったもんなあ。月替わりで特集されている棚があったし、なぜか外文*1のコーナーに置いてあった絵本関係で、グレン・バクスターや「自殺うさぎ」を知ったものだ。

ブックファースト渋谷店(文化村通り店、ではなく)がまだあった時代は、本屋に行くこと自体が楽しくて仕方なかった。雑誌のコーナーに行けば、他の書店には置いていない雑誌が平積みされていたし(ただし立ち読みもめちゃくちゃ多かった)、地下に行けば美術・デザイン関係や写真関係、演劇関係の本をじっくり読めた。五階だか六階のコミックコーナーはそれほどすごいというわけでもなかったが、それでも矢作俊彦の漫画(ダディ・グース名義)もあそこで買ったはず。

ま、そんな思い出話はまたいつか別のときにでもするとして。



大阪のその書店、棚のラインナップはいまいちだったが、面白いふたりの客がいた。

文庫本のコーナーでふたりの中年女性が大きな声で話しているのだ。こんな風に*2




「あら、あんた北方さんの水滸伝、読んだ?」

「読んでないわ。面白い面白いいうんはよく聞くんやけどね」

「いまなんて、楊令伝も完結した、いうやないの」

「そやわ。でもそこまで手を広げられないちゅうんかな」

「わかるわかる、かといって、つまみ食いもでけへんし」

「読みたいんやけどね」

「そやね」




私も集英社文庫の前に立ってその会話を聞きながら「うん、その気持ちわかる」と(心の中で)頷いている。




「で、なんて小説なんやっけ?」

「タイトルわからんわ」

「書いた人は?」

「作者忘れたねん」

「出版社は?」

「集英社ちゃうと思う」

「そうか」

「いっつも本屋さん来てたんならわかるんかもしれんけど、ひっさしぶりやからなあ」

「店員さんに訊いてみたら?」

「知らんのとちゃうか? ピアノだかクラシック音楽が関係しているっちゅうのと、たしか新刊ちゅうのしかわからんのやけど。でも、ちょっと前の新刊やからなあ」

ラフマニノフやっけ?」

ラフマニノフやない」

「うーん、誰か知っている人おるんちゃう?」




その「誰か」って聞こえよがしだけど、私のことだろうか? 横目でちらと窺っても周りには私しかいない。ただし、よく見てもらえればわかるけど、私はさっきから外文ばかり見ているでしょ。ハヤカワのSF、光文社の古典新訳、集英社……あとは講談社文芸文庫とか筑摩学術文庫とか。ちょっと畑違いなんじゃないの?

けれども、こういう人たちと話すのってきっと愉しいのだろうな。もうずっとしゃべっているわけよ。これ読んだけどよかったわー、あれ読んだけどさっぱりやった、あの人ならあれが代表作やろ、この人はこれ以降いいの書いてないわ……出版社別に文庫の棚を移動しながら目につく作家についての読書歴を厭味なく話していく。もう好きで好きで仕方ないんだね。いい意味のオタクです。オタクっていいよな、やっぱり。

結局わからずじまいだったようで、私もまったく思い当たる節がなかったのだが、私が岩波文庫一冊を持ってレジに向かうときも、そのふたりはあーでもないこーでもない、と話に花を咲かせていた。本屋からしてみれば、ほんとにいいお客さん。



昔、書店で働いていたときに一緒に本を探して一番記憶に残っているのは、中公文庫の『完訳フロイス日本史(全十二巻)』を探していた中年女性。

訳者の方を個人的に知っているのか私淑しているのかは知らないが、やっとのことでその棚に辿り着くと、「そうそう、この○○先生の代表作になるわ、これは」と言って、全巻買っていった。あれは嬉しかったなあ。この嬉しさをわかる人にはわざわざ説明する必要もないし、この嬉しさがわからない人にわざわざ説明することもないだろうから、それ以上はなにも書きませんが。



ところで、さきほどネットを使って調べたら、大阪のおばちゃんたちが探していたのは、これじゃないだろうか。『さよならドビュッシー』(中山七里)。宝島社の文庫版が出たのが今年の一月みたいだし、同作者には『おやすみラフマニノフ』という小説もあるらしいので、これで決まりじゃない?





やはりもう絶版のようで。

セリーヌの作品〈第2巻〉なしくずしの死  上巻

セリーヌの作品〈第2巻〉なしくずしの死 上巻



いづれはセリーヌにも手を伸ばしたいけれど、少なくとも『夜の果ての旅』の再読からセリーヌの旅は始まる。

漱石全集〈第1巻〉吾輩は猫である

漱石全集〈第1巻〉吾輩は猫である



漱石は還暦からの愉しみに取っておくか。しかしそれまでにこの全集が出版されているかというと……いささか心許ない。

安部公房全集〈1〉1942.12‐1948.5

安部公房全集〈1〉1942.12‐1948.5



安部公房も読んでいるようで、読んでいない作家。うちにも文庫だけど読んでいないものが数冊ある。

バクスターの必殺横目づかい

バクスターの必殺横目づかい



バクスター危機いっぱつ

バクスター危機いっぱつ



バクスターは宝物。このユーモアを解してくれない人は嫌い。

自殺うさぎの本

自殺うさぎの本



個人的な好みとして、あまり好きではない。

水滸伝 1 曙光の章 (集英社文庫 き 3-44)

水滸伝 1 曙光の章 (集英社文庫 き 3-44)



傑作。それだけの一言でいい。

楊令伝 1 玄旗の章

楊令伝 1 玄旗の章



先頃完結。文庫化を首を長くしてお待ちしております。



調べたら読みたくなった……だめだめ、それでなくても読まなくちゃいけない本ばかりだっていうのに。

さよならドビュッシー (宝島社文庫)

さよならドビュッシー (宝島社文庫)



おやすみラフマニノフ (『このミス』大賞シリーズ)

おやすみラフマニノフ (『このミス』大賞シリーズ)



おばちゃん、これちゃうか?



*1:外国文学の略。


*2:いつもながら関西弁はいいかげん。



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ディズニーって素直に好きと言えないのだが、たとえば以下の3分少しの動画に出てくるキャラクターは、みんな生きている。「そりゃ動いているんだから生きているように見えて当たり前だろ」ということではなく、思わず感情を移入させてしまうなにかを携えた「生きもの」をディズニーが作り出している、という意味だ。




Part of your World Japanese Version






で、ついでにこの音楽もいい。




Part of your World / Q;indivi




ちなみに私は『リトル・マーメイド』を観たことはない。



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現在が気に入らないと、未来を志向するよりは過去を振り返りやすい。過去にそれほどいいことがあったのかと問われれば、どうだろうというところだが、それほどいいことがありそうにも思えない未来よりは幾許かましということで回顧する。

なんてことを考えていたら、Mr. Children を思い出した。




くるみ / Mr. Children






良かった事だけ思い出して

やけに年老いた気持ちになる




おじさんが独りでごはんを食べながら一緒に暮らしていた人たちを思い出しているシーンに、いつも胸が詰まる。かつてそのようにして数年間の孤独を抱えていた人間を私は知っているからだ。



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外で作業をしているとなかなかに退屈。ネットも見られないし、本も読めないし、音楽も聴けない。

音楽? iPod はあるけれど、土方的な作業をしていると、イヤフォンのコードが邪魔で仕方ない。それならワイヤレスのヘッドフォンを探そうかとも思っていたのだが、防塵性だとか防水性の点でいささか心もとないところがあり、諦めていた。

ところへ、ふとこんな商品があることを知った。




f:id:todotaro:20110528095908j:image

SONY NWD-W253/W




イヤフォンとプレイヤーが一体化したウォークマンで、ジョガー(ジョギングする人)向けに作られているものらしい。一応水洗いもできるということ。

価格も定価で一万円しないので、さっそく買ってみたがこれが思いのほか良い。



何回か試してみたが、ボサノヴァだとか、ムードミュージックのようなのんびりとしたものはあまり作業効率という観点からよろしくはないので、ノれる曲を選択するようにした。たとえばこんな曲。




Sugarless GiRL / capsule




それでも、ときには聴き疲れということもあるので、そういうときには落語。志ん朝や米朝や枝雀が耳元で極上の噺をしてくれる。うーん、幸せ。



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フェイスブックを使って弟とやりとりをしているのだが、画面右上に「知り合いかも?」とか「○○さん(私の名前)、知り合い検索を試してみましょう」などという表示がされて、鬱陶しいことこのうえない。

「『知り合いかも』? そうだよ、知り合いだよ! でも連絡しないわけがあんだよ!

「『知り合い検索を試してみましょう』? 友達が少ないことを気にしてくれてんだろうけど、大きなお世話だよ!

などとモニターに向かって怒鳴り声を上げて、近所から「うるせーぞ、引きこもり!」などと罵声を浴びせられている、などということは決してなく、心静かにアルカイック・スマイルを浮かべながら、「×」印をクリックするのみ。



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「よくネコネコ言っているけど、写真を見たことがない。実在しないネコのことを書いているんじゃないの?」と言われるのもしゃくなので、うちのかわいい子たちの写真を。




f:id:todotaro:20110522062642j:image

左がモモ(♂)で、右がヒメ(♂)




ヒメは触れるようになるまで三ヶ月かかった。よくそのことをヒメに恩着せがましく言いながら撫でる。

「おまえはこうなるまでに三ヶ月かかったんだよなあ」

そうするとヒメは、「ああ、またその話かよ」と面倒臭そうな表情をしてあくびをする。

ともあれ、無事に育っています。



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「死」関係でふと思い出したこと。

小学四年で「魂」という漢字を習った際、先生が問題を出した。

「はい、この鬼というつくりを使った漢字、他になにかありますか?」

漢字が好きな小学生だった私は、「あ」と思い、挙手をした。




先生「はい、なんでしょうか」

私「木偏で『えんじゅ』です」

先生「え?」

私「『えんじゅ』です」

先生「……うーん、どうでしょうか、そういう漢字ないんじゃないかな?」

私「え?」

他の生徒「はい、土偏で『かたまり』です」

先生「正解です!」*1




当時は素直だったので自分が間違えているのかと思い、その場でたいそう恥ずかしい思いをした。で、家に帰って辞書を調べたら、ちゃんと「槐(えんじゅ)」という漢字はあった。

私も厭味な生徒だったけど、先生ももうちょっと大人だったらよかったのに。たしか三十代半ばくらいじゃなかったかな。辞書を引いてくれれば、お互いに気まずい思いをせずにすんだと思う。

翌日にはその辞書を学校に持って行って、そのページを開いて指で指し示し、「(江戸川コナン風に)あれー、おかしいなあ。ここに『えんじゅ』って字があるよー、おばさん」と言った、なんてことはもちろんしなかった

ただそのとき、先生でも知らないことがあるのだと驚いたというだけ。それまでは、今でいうところのWikipedia 並に物を知っていると思っていたところがあったのだ。




死にたれば人来て大根煮きはじむ  下村槐太 




やっと本題*2。この句を「増殖する新歳時記」で知った。あいにくと読み仮名が振っていなかったが、おそらく「煮きはじむ」は「たきはじむ」と読むのだろう*3

「死」と「大根」という組み合わせの妙がこの句の主眼であろうが、この死は誰の死であろうか、とも思う。当然のごとく「誰か別の人」の死であろうと読んでしまいがちではあるが、作者自身のことかもしれないし、ひょっとすると鑑賞者の死かもしれない。「私」の死は、「私」にとってみれば世界中の誰の死よりも特別なことではあるが、それは他者にとってみれば、大根を煮る契機のひとつでしかない場合もあるということ。

大根を見るたびに自らの死への覚悟を改めるというのは、洒落が効いてはいるものの陰気に過ぎるか。



*1:塊という字は知っていたがそのときには思い浮かばなかった。


*2:マクラは槐太の「槐」からの連想。


*3:関西に来て、「煮る」とはあまり言わず、「炊く」と言うことの多いことを知った。関東で「炊く」といえば、ご飯と風呂くらいなものだろうか。



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ふと、




木曜はなにも愉しみがないので、一週間のうち、木曜だけ死ぬことにした。




という一節が思い浮かんだ。どこかの小説の書き出しにありそうだ。

そこから聯想*1されたのが、よく覚えていないのだが、『はてしない物語』(エンデ)に出てくるライオン*2。このライオンは、夜だけ死んでしまうという設定ではなかったか。たしか、夜だけ死んでしまい(石化するんだったっけか?)、朝になるとまた復活する、というはずだったが、そもそも眠りとは死のようなもので、死と眠りの違いは、朝に目覚めるかどうかにあるだけで、おそらくエンデもそこからこのライオンの設定を創り上げたのだろうと思う。

だが、「眠りは小さな死である」とちょっと気取った言い回しを遣いたい人は、少しだけご留意を。フランス語における「小さな死」には、ちょっと卑猥な意味があったはず。これは開高健のエッセイで読んだんだっけか。



*1:「連想」に同じ。この「聯」という字を遣ってみたかっただけ。


*2:Wikipedia で調べたらグラオーグラマーンと言うらしい。



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生来の胃弱なのか、モモはよく吐く。普段はいたずらをしていて手を焼かせるが、「あれ? やけに静かだな」と思っていると、妙な声を上げてえずき始める。




うしみつどき猫の嘔吐で目を覚ます




一方、ヒメはなにをやっているかというと、モモの吐いたものの後始末をしているところへやってきては飛び跳ねて遊んでいる。いま見遣ったら、ちょうど自分の尻尾を追っかけて高速で回転しているところだった。

これはヒメに限らずモモにも当てはまることで、もしかしたら猫全般に当てはまることかもしれないが、猫というものは、他の猫の具合が悪いと、ここぞとばかり甘えた声を出したり、身を摺り寄せてきたりして、飼い主の寵愛を一身に集めようとする。

かと思っていると一方では、調子の悪い猫の傍に寄って行って「大丈夫か?」とでも言うように身体を舐めてやるときもあるので、猫自身、罪悪感のようなものを覚えながら生きている、というようなこともあるのかもしれない。



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「秋の田の」といえば、間の「七・五」は忘れていても「わがころもではつゆにぬれつつ」という言葉を思い浮かべる人は多いのではなかろうか。天智天皇の歌で百人一首の第一番目。




秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ  天智天皇




とある用があって、この歌の解説を読んでいたら、長年わからなかった(調べてこなかった)「苫をあらみ」の意味がわかった。

「〜を + 形容詞語幹 + み」は、「〜が〇〇だから」という意味になるらしい。つまり上掲歌は「苫が粗いので」ということになるらしい。

と思うと、ついであの歌を思いだす。




瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ  崇徳院*1




つまりこの上五も、「瀬が早いので」の意となる。



この語法、すでに過去のものとなってしまっているが、ぜひ使ってみたい。




夜を若み幻の女に逢ひに行く





*1:ちなみに、「崇徳院」という噺がある。



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