とはいえ、わからないでもない

2011年06月

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結婚式のダンスの動画が気に入りすぎてずっと見ている。




JK Wedding Entrance Dance




最後に出てくる花嫁がほんとに楽しそう。よろこびが身体中から溢れ出ている。こういうのを幸福というのだろう。




コウフクトフコウ


日中、この花嫁の笑顔を思い出していたら、下の写真集を思い出した。田沼武能の『人間万歳』。




f:id:todotaro:20110630191454j:image




この写真が表紙にもなっているのだが、これには「人生最高の幸せという笑顔のブルガリアの花嫁」というキャプションがついていた。

単純に、すごくいい写真だなあと思う。この人も「幸福」を体現していて、そればかりか、他人にも分け与えんというほどにやはり身体中からよろこびが溢れている。



よく言われることだが、




人間が不幸なのは、自分が本当に幸福であることを知らないからである。ただそれだけの理由による。

ドストエフスキー*1




これ、不幸と幸福を入れ替えてもいいと思う。

つまり、




人間が幸福なのは、自分が本当に不幸であることを知らないからである。ただそれだけの理由による。




脳内のどこかにあるスイッチをON / OFF にしたり、あるいは(カート・ヴォネガット風に言えば)脳内のある種の化学物質が一定量を超えれば、人間は「たのしー」と「つまんねー」の切り替えが簡単にできるのかもしれない。

しかし、「つまんねー」から「たのしー」に切り替えるのには、なかなかの努力を要する(であろう)のに対し、「たのしー」から「つまんねー」に急転直下するのはわりあいに簡単である。つまり、人間の脳内においては、「たのしー」より「つまんねー」の方がウェイトがある(=重要視しているきらいがある)、ということになる。





クライワダイ


そこで思い出すのが、志賀直哉の『暗夜行路』。

私は大学に入って、この本で初めて「小説らしきものを読む」という経験をした(それ以前は、児童文学程度しか読んだことがなかったのだ)。この本を読んで私が一気に「小説」という世界に引き込まれたのは、一にも二にも、主人公が不機嫌だから。漱石を好きなのも、基本的に不機嫌だから。結局、不機嫌で不機嫌で仕方のない自分(私自身)を投影して読んでいたのだろう。

最近、そんな不機嫌さをときおりふっと思い出すようになった。ぎすぎすした感じが自分の中に戻って来たのを強く感じる。ちょっと懐かしさすら感じる。





アカルイワダイ


と、そういうネクラな内容だけでも面白くないので。ネアカなお知らせを。

7月3日〜7月10日の期間中、高野山ハッピーメイカーが開催されます!

「ハッピーメイカーってなんだ?」という方は、こちらをどうぞ。

高野山は避暑地としてもお勧め。下界と気温が数度違うので、本当に涼しく感じます。





タネアカシ


え? 「それにしてもずいぶん高い写真集を持っているんだな」だって? そりゃ本には金をかけますよ……と言いたいけど、ヤフオクで500円で買いました。





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人間万歳

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暗夜行路 (新潮文庫)

暗夜行路 (新潮文庫)




*1:もちろん、なんの小説あるいは評論での言葉かは知りませんよ。この言葉だけ独立して有名だけどね。



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タイトルだけを見ると、いちゃもんみたいだけど、別にそんなことはなくて。

The Bangles の"Eternal Flame" を聴いていた。「Do you feel the same?」の部分が特に耳に残る。




Eternal Flame / The Bangles






Close your eyes, give me your hand, darling

Do you feel my heart beating, do you understand?

Do you feel the same, am I only dreaming?

Is this burning an eternal flame?






この歌詞で思い出すのは、宇多田ヒカルの『虹色バス』*1




小さなことで 胸を痛めて

Everybody feels the same

Everybody feels the same

虹色バスで 虹の向こうへ

みんなを乗せて 青空PASS で

虹色バスで どこか行こうぜ

大きな声で 歌を歌って




歌詞全体でいえば、"Eternal Flame" と『虹色バス』の「the same」の指している部分はまったく違うが、宇多田の言っている「Everybody feels the same」は、「だからたいしたことじゃないんだよ、もうちょっとポジティブにいこうぜ」っていう意味が込められているのか、あるいは、「みんなが同じことを感じて苦しい思いをしている、でもそれを共有したりすることは結局はできないんだ、悲しいけど」っていう意味が込められているのか、そのいづれかが判然としない。

判然としないのは、宇多田の詞が悪いからということではない。普通に考えれば、「虹色バス」という語感やそれにまつわるフレーズ、曲調などを勘案するに、前者の「ポジティブにいこう」と読めるのだろうが、宇多田ヒカルはもうちょっと意味を込めているんじゃないか、とこちらが勘繰っているだけなのかもしれない。というのも、「みんなを乗せて」「虹色バスで どこか行こうぜ」と歌っているくせに、そのすぐ後では、「誰もいない世界へ 私を連れて行って」という歌詞が出てくる。「人は孤独だ」ということなのか、あるいは「孤独でありたい」と願っているのか、宇多田がこの曲の歌詞に込めているものは、意外に深いと思う。だから私はこの曲が好きなのだが。



最後に、"Eternal Flame" 、つまり「永遠の炎」という言葉から思い出された曲を。




永遠の嘘をついてくれ / 吉田拓郎 中島みゆき




恋愛もので「永遠」なんて言葉を聞くと、その言葉に対する無責任さに憤慨してしまうが、中島みゆきの歌詞はもっと大きいところにある。こんな歌詞を書ける人は、ちょっといない。



*1:YouTube では動画を見つけられなかった。



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最近、気が滅入って辛い。

睡眠不足で十時間くらいしか寝られないし、食欲不振で三食とそれに間食二回くらいしか口に入れることができない。

人と会えばとめどなくしゃべられるし、いくら働いても疲れない。どうかしたのだろうか。



ひきこもりにもいろいろとあって大変なのだが、これを機に、自分のことを深く観察することを決意。

「ヒューマン・ウォッチングが趣味です」なんて広言する人をいろいろなところで見聞きするように思うが、品性が下劣に感じられるので、少なくとも広言はしない方がよいと思う。「ヒューマン・ウォッチング」と言ったって「人間観察」と言ったって結局は同じことなのだが、要は、「自分を一段高みにおいて、他人を盗み見し、あれこれと評価したり批判したりする」ということだから。

「セルフ・ウォッチング」であれば、「自分を一段高みにおいて、自分を盗み見し、あれこれと評価したり批判したりする」のであるから、気遣いは要らないだろう。

だが、これもこれで、自己及び自己を取り囲む状況を安易に劇場化するきらいがあるので、要注意。私の場合は、「自分のことを深く観察しようと思っている自分」を観察するつもり。榎本俊二ムーたち』でいうところの、「サード自分」だ。

そうすれば、安っぽい自己憐憫に陥らなくて済む。



ある小説のこんな一節を思い出す。




生まれてからずっと、いやなかんじだった。

どうしてそのことを忘れていたのだろうな。でも。

思い出しつつあるんだ。

それにしても、わたしの声は実に嗄れてしまっているぞ。哀れなほどに。

こんな声は大嫌いだ。わたしの好きなのは。好きなのは。好きなのは。

もっとちがった声なんだ。




まるで、詩だ。





ムーたち(1) (モーニングKC)

ムーたち(1) (モーニングKC)



ムーたち(2) (モーニングKC)

ムーたち(2) (モーニングKC)



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GIGAZINE で見つけた動画。







上記動画の説明は、GIGAZINE からそのまま引用する。




マルチスクリーンを使って2005年に作られたビデオ・インスタレーション作品です。ファンサイトなどから募集して集まったマイケルの熱心なファン16人がスリラーを歌って踊る内容となっており、プロのスタッフによって撮影されています。




「プロのスタッフによって撮影された」のかもしれないけど、かなりしょぼいなあと感じた。率直な意見だけど。



16人が揃ってなにかをやるのであればもう少し見所があるのだろうけれど、16人の素人たちがてんでばらばらに歌って踊っても、鑑賞者はなにも感じるところはないのではないか。

もし全員がバシッと揃ってダンスをしたのなら、この動画はもっと素晴らしいものになったのだろうと思う。

たとえば、(有名だけど)これとか。




Thriller




「これってどこだっけかなあ、たしかタイの刑務所だったはずだけど……」と思って見ていたら、ハゲたおっさんが女装していたので、「やっぱタイだ!」と確信した。

やっぱり全員揃って踊るとカッコイイでしょ。



銘々が好き勝手になにかをやることって、実は世界そのものであって、世界というのは、人類とされる人々がそれぞれ思い思いに生きていることによって成り立っている。すごく当たり前のことだけど、誰かに強制されてひとつの歌を歌ったり、踊りを踊っているわけではない。




みんなちがって、みんないい




と言うと、一見いいことのような気がするが、本当は「自然の状態」(=好き勝手な自由運動)のままでは、感動は鑑賞者のもとまでやってこない。この16人の動画がそれを物語っていやしないか。



ところで、動画を見ていたらこんなのを発見した。




JK Wedding Entrance Dance




クソかっけーな、おい!

新郎と新婦の登場するシーンが最高。センスいいです、ほんとに。



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むかし流行った本に『ゾウの時間ネズミの時間』というのがあった。

うろ覚えに覚えているのは、寿命の長い動物ほど、心臓の鼓動はゆっくりで、寿命の短い動物ほど、心臓の鼓動は早い、というものだった。



布団を敷いて枕を置いておくと、自然と猫が枕で寝ている。気持よさそうに寝そべっていて目を閉じているものだから、私もその寝ているところに顔を寄せて、脈動を聞いてみた。

「トクントクントクントクン……」

思っていた以上に早い。モモもヒメも、早い。

ああ、こんなふうにしてこの子たちは私より先に死んでいっているのだなあと思うと、少し悲しくなった。



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ああもう

いっつもふざけてばかりのあなたが

いつもそのままだったらこんな気持ちになんかならないのに

あなたがときおり真面目なことを言うとき

その表情がいつになく真剣なものだから

だからわたしは恋に落ちてしまうんだ

ああ

真剣な表情なんて、どうか見せないで




などという「銀色夏生」的世界のことを私は言いたいのではない。私がしたいのはそんな話ではない。全然別の話だ。



こんな引きこもりの私でも、新規移住者というレッテルが貼られることがあり、ときおり取材を受けたりする。

まあだいたいそんなもんだろ、と思っていたとおり、インタビュアーというのは、ある程度答えの予想がつく質問を投げかけて、インタビュアー自身が納得しているストーリーを作り上げようとする。

たとえば、こんなやりとりは許されない。




記者「こちらに移住しようと思ったきっかけは?」

回答者「いや、特に……」

「なにかあるでしょう、都会から田舎へ来たわけですから」

「いや、特に理由があるわけじゃ……」




記者は、この回答を素直に受け取って、




○○さんは東京から××県へ移住してきた。その理由は、特にない。




という記事にはしない。もしそんなふうに書いている記者がいたら、記者失格だ。

それならば、どうするか。プロの記者だったら、次のように質問をつづけるだろう。

「都会での暮らしはどうでしたか? 毎朝仕事へ行くのに、たいへんではありませんでしたか?」

この質問に対し、回答者が比較的「空気の読める」人間であれば、以下のようにやりとりがつづく。




(回答者の察しがいい場合)



記者「都会での暮らしはどうでしたか? 毎朝仕事へ行くのに、たいへんではありませんでしたか?」

回答者「そういう点では、ちょっとたいへんでしたね」

「そういう状態に疲れた、と感じたことはありませんでした?」

「あったかもしれません」

「それじゃあ、都会の生活に疲れたってことかもしれませんね」

「そうかもしれませんね」




このやりとりが既成事実として行われれば、あとはこんな記事にしておしまい。




長年暮らしてきた都会の生活に疲れた○○さんは、心機一転、田舎暮らしを決断。

今では自然と地域の人たちの温かさに囲まれて、ストレスのない毎日を送ることができ、満足気だ。




はいおつかれさんでしたー、いっちょ原稿を仕上げてビールがうまい、ってなもんである。



ところが、世の中には察しの悪い人間というのはいるものでして。




(回答者の察しが悪い場合)



記者「都会での暮らしはどうでしたか? 毎朝仕事へ行くのに、たいへんではありませんでしたか?」

回答者「たいへんではなかったですね」

「でも毎日毎日、人混みに囲まれて、ストレスを感じることもあったんじゃないですか?」

「いえ、それはもう、まったくありませんでした」

「(攻撃のやり方を少し変えて)こちらの地域に住んでいる方は、みんな親切ですか?」

「そうですね……普通だと思います」

「でも都会に較べて、人と人とのつながりがあるっていうか、温かいっていうか」

「一緒だと思います。都会も田舎も」

「(くっ、手強いなと思いつつも)自然に囲まれた生活には、以前から憧れてらっしゃったんですか?」

「いえ、特に」

「ちっとも? 空気がきれいだとか、川がきれいだとか?」

「はい、特になんとも」

「(なんなんだこいつは、と思いながら)なにもない生活、に憧れていたということは?」

「……ああ、たしかになにもないというのはラクかもしれませんね」

「(こいつのポイントはここか! と内心狂喜しながら)いいですよね、都会と違ってごちゃごちゃしていないというか」

「あ、でも、都会にもなにもないところってありますからね」

「(全身これ殺気の状態になりながら怒ったように)でも都会の『なにもない』と田舎の『本当のなにもない』は違いますからねえ」

「いや、一緒だと思います」

「まったく?」

「まったく一緒だと思います。寸分違わず同じだと思います。美輪明宏と丸山明宏くらいに同じだと思います。都会も田舎も変わりません」




ペンを投げつけてやりたい気分を抑えつつ、記者はインタビューを終え、会社に帰って原稿を作り上げる。




○○さんは東京から××県へ移住してきた。その理由は、特にない、と言うので記者はたいへんに驚いた。しかし、インタビューを進めていくうちに、○○さんには並々ならぬ決意があることを記者は知る。

○○さんは、一見、いまどきの若者といった印象を受ける(失礼!)。へらへらと笑っていて、どう見ても田舎でやっていけるようには見えない(失礼!)。

しかし、たとえば「自然」ということが話題になったとき、○○さんの表情はさっと険しくなった。

「僕はこの地域の自然を守っていくことによって、日本の、ひいては世界の自然保護を訴えていこうという考えがあるんです。もっとみんな、マジメに考えていかなければいけないと思うのです。森林伐採のこととか、代替エネルギーのこととか、電気自動車のこととか、脱原発のこととか、脱化石燃料のこととか、脱農薬のこととか、脱化学肥料のこととか、最近増えてきた脱毛のこととか、食品に含まれる添加物のこととか、捕鯨のこととか、TPP のこととか、PTA のこととか、脱原発のこととか、リサイクルの問題とか、食品のトレーサビリティーのこととか、安心安全な食べ物のこととか、宇宙船地球号のこととか、ロハスのこととか、『口八入』って「くち・はち・はいる」って書いているけど一見『ロハス』に見えるってこととか、持続可能な社会のこととか、あと脱原発のこととか」

そう一息に言うと、○○さんの表情は、また柔和なへらへらとしたもの(失礼!)に戻った。

「まあ、一歩一歩、生活をしていくところから始まるんですけどね。地域の人たちの優しさに包まれて目にうつるすべてのものをメッセージと受けとりながら、自然に対して愛おしいという気持ちを大切にし、ときどき切ない気分になりながらも、それでも心強く生きていきたいと考えているんです*1

そう言って、彼は少し恥ずかしそうに頭をかいた。

しかし、記者には○○さんの見せた真剣な表情がいつまでも忘れられないのであった(笑)*2




はいおつかれさんでしたー、水増し、捏造もなんのその、いっちょ原稿を仕上げてビールがうまい、ってなもんである。



というわけで、私はインタビューでは当たり障りのない無難な回答を心がけている。しかしそれでも、「……そう笑いながらも、目の奥にある大きな希望の光を記者は見逃しはしなかった」とか「彼の真摯なまなざしに、記者は圧倒されんばかりであった」的な文章は、恥ずかしいからやめてちょうだい。

どうか、勝手に人を「真剣な表情」にさせないで、っていう話。



*1:余談だが、ネット上で酒と泪と男と女部屋とYシャツと私と俺とお前と大五郎と愛しさと切なさと心強さと糸井重里という言葉を見つけて大笑いした。前半部分(大五郎まで)は以前に思いついたことがあったが、糸井重里の絡みは絶対に思いつかなかった。


*2:この(笑)の破壊力を見よ。たったひとつで全部の文章をひっくり返す。



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FB をなんとなく見ていたら、「友達」が4人なことに驚いた。しかもそのうちのひとりは弟。なにを驚いたかって、その人数の少なさとかそういうことではなくて、私の中では5人いると思っていたのだ。

それでは誰のことをカウントしていたのだろうか。

よくよく考えてみると、どうも私自身のことらしい。私が私の友達。

そう考えると、自分でも得心する部分がある。自分の書いた記事を読み返しているとき、私はよく「へえ、こういうことを考えていたんだ」と思うことがある。同じ記事を書けと言われたっておそらく無理。そのときの私は、今の私とは全然別の人。だから友達みたいなもの。

いやなところを知っている。いいところは知らない。でも腐れ縁がある。死ぬまで一緒。そいつがいれば、一生孤独にはならない。私の友達(のひとり)は、私。われながら、結構いい考えだと思う。



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ウォークマンで音楽を聴きながら仕事をするのは楽しい。そのときそのときにかかった音楽で、いろいろと考えが飛び跳ねる。あと十年くらいしたらマイクに向かってしゃべればテキストになるっていうツールができるんだろうな。とりあえずは携帯電話に附属しそうな機能。

そうなりゃ私のブログは一日に何十記事って更新できることだろうが、私自身は、言葉を全部吐き出してしまって中身がどんどん空虚になっていく。うわっつらの言葉だけがだらだらと並べ立てられ、その全部が気の利いたふりをしているだけ。ただのスピーカーだ。



ジャクソン5の『I Want You Back』を聴いたら、昔つきあっていた女の子を思いだした。




I Want You Back / Jackson 5



ダンスもすばらしい




ちなみにこれ、邦題は『帰ってほしいの』なんだけど、読み方を変えると、「すみません、さっきから言ってるとおり、うちにはお金なんてないんです。どうぞお引き取りください」ってことになる。『帰ってきてほしいの』か、語呂を合わせるなら、『戻ってほしいの』の方がいいのではないか。



まあ、この『I Want You Back』があまりにもよかったものだから、目から汗が……。思い出に浸りすぎたかな? おっと、そう思ったら、急に仕事をしているのがだるくなったぞ。ちょっとお茶でも飲もうかと適当なところに腰を下ろす。

しかし、さっきからお茶ばっかり飲んでちっとも手を動かしていない気がする。少し動いただけでも、「ふう、お茶お茶」ってなってるけど、いまいったい気温何度なの?

労働環境というものに著しい関心を寄せている私は、近くの倉庫に行って温度計を持って来て、それを私の腰を下ろしているところのすぐ傍に置いた。

はたして結果は?

……ぐんぐん上昇しております。じゃじゃーん、38℃! あ、そういやビニールハウスの中にいたんだっけか。

遮光シートで覆われている近代的な造りとはいえ、そこはビニールハウス、農ポリで覆われた激アツ空間をなめちゃいけません。さっきからそこで一所懸命に鍬だのレーキだのジョレンだのを振るっていたわけだけど、汗が滝のように流れて、身体中から失禁しているみたい。汗もアンモニア以上に臭いしね。

そりゃお茶ばかり飲むわ。生命の危機に対する正しい自衛行動だわ。

といっても、人生はゆるやかな自殺と定義づけている私のことなので、そう慌てはしません。いったんビニールハウスを出て、頭から川の水をかぶり、再び入室して作業。能率は悪いけど、かといって、「じゃあやめた」というわけにもいかなくて。



なんとか堪えていると、「やまない雨はない」の言葉どおり、落ちない陽はない。日射しが弱くなってきた。

私のいた畑は山と山に挟まれ、ちょうど谷間のようになっていた。特に、畑の西側にはすぐ近くに杉や檜などの針葉樹で構成された山があるので、陽の落ちるのは早い。

午後三時を回れば、西の山の頂上近くに大きく伸びきった杉が、その樹影をビニールハウスに落とす。

それだけで、身体はかなりラクになった。気温はまだ30℃ を維持していたが、軽井沢にいるような感覚。汗はまだ引かないが、作業効率がぐんと上がる。連続作業をしても身体が悲鳴を上げないのだ。

女性アーティストのコンピレーションアルバムを聴いていたので、いろいろな歌手の曲が耳を通り抜けていく。




Ex-Factor / Lauryn Hill




樹影を山影が飲み込み、ビニールハウスはもっと暗くなっていた。ハウスの内側からは、南側にある一段高くなった畑が見えた。そこにはまだ陽が燦々と降り注いでいるようだった。刈られていない雑草がきらきらと光っていた。

突然、その陽の当たっている畑が「生の世界」、日陰に入ったこちら側が「死の世界」のように感じられた。向こうではまだ生き物がさかんに活動していて、生命の煩わしさとともになおよろこびがあるのかもしれない、と感じられた。こちら側は平穏で静寂な世界。冷たく凍りついていくようなイメージはそのときの私にはなかった。たまたま、とばりが「向こう」と「こちら」を分けているだけのように感じられた。

『今日は死ぬのにとてもよい日だ』という詩を思い出した。

「死ぬのにもってこいの日だ」という訳を見たこともあるが、それだと少し死に急いでいる感があるので、やはり「死ぬのにとてもよい日」という訳の方がよい。丸元淑生訳。

私はこの訳を十数年前、どこかの図書館にあったなにかの雑誌で読み、そのタイトルと丸元淑生という名前だけ覚えておいた。それが奏功して、いまネットで見つけることができた。




今日は死ぬのにとてもよい日だ



あらゆる生あるものが私と共に仲よくしている

あらゆる声が私の内で声をそろえて歌っている

すべての美しいものがやってきて私の目のなかで憩っている

すべての悪い考えは私から出ていってしまった

今日は死ぬのにとてもよい日だ

私の土地は平穏で私をとり巻いている

私の畑にはもう最後の鋤を入れ終えた

わが家は笑い声で満ちている



子どもたちが帰ってきた

うん、今日は死ぬのにとてもよい日だ



プエブロ・インディアンの一老人の詩






今日は死ぬのにいい日だった明日もまた





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音楽の潮流にまったく乗り切れていないので、今さらながらデスティニーチャイルドの『サバイバー』が恰好いいなあ、なんて思っている。




Survivor / Destiny's Child




曲はカッコイイのだが、PV を見ていて、この人たちがどういう女性像を追求しているのかがわからなくなった。

よく日本で「強い女性」といえば、「芯のしっかりとした(嫌いな表現だけど)凛とした女性」ということを指しそうなものだけど、この人たちは、「K-1に出ても相手をKO できる自信はある」っていうような文字通りの「強い女性」を目指しているのだろうか。たぶん、喧嘩したら殺される気がする。

ま、カッコイイからいいんですけどね。



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高野文子の『黄色い本』についての感想文を書きました。



よろしければ、どうぞご覧ください。



黄色い本 (アフタヌーンKCデラックス (1488))

黄色い本 (アフタヌーンKCデラックス (1488))



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