とはいえ、わからないでもない

2011年07月

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俳句王国」をかかさず観ているが、7/18と7/25に放映された回のメンバー*1は特にいい句を作る人が多かった。




7/18放映分 お題「失恋」




  • 夏の夜逢いたくなって夢を待つ  生方 ななえ(ゲスト・モデル)

  • 失恋のあとのしやつくり白日傘  大木 あまり(俳人)

  • 麦秋の少年つひに許されず  外山 一機(神奈川県)

  • 失恋の顔をしてゐる胡瓜かな  長谷川 櫂(主宰・俳人)

  • 褒められし日の香水をつけにけり  矢野 玲奈(東京都)

  • これ以上愛せぬ水を打つてをり  日下野 由季(東京都)

大木あまりさんはやっぱりうまいなあと思う。しゃっくりというところを見て、作者を知る前にああこれはプロの作品だなあと感じた。

日下野さんのもいい。すごく劇的な感じがする。ご本人は「失恋の悲しいところは、嫌われるということにあるのではなく、これ以上相手を愛せなくなるところにある」と言っていた。その台詞も劇的。

矢野さんのもせつなくていい。「褒められし」ではなく「愛されし」ともっと積極的にするべきだと主宰が指摘していたが*2、大木あまりさんや他の女性陣から「いや、ここはやっぱり『褒められし』だからいい」と反駁されていた。私も「褒められし」だからいいのだと思う。





7/25放映分 お題「お金」




  • 夏雲や十円で買ふ「悪の華」  日下野 由季(東京都)

  • 虫干や妻の頼みの招き猫  長谷川 櫂(主宰・俳人)

  • 刻印の顔の涼しき銀貨かな  矢野 玲奈(東京都)

  • 金つかふ母を見てゐる半夏生*3  外山 一機(神奈川県)

  • 夏祭り百円にぎりかけてゆく  生方 ななえ(ゲスト・モデル)

  • 賞金で猫のもの買ふ時計草  大木 あまり(俳人)

猫が出てくれば大木あまりさんだろうということはわかっていて、自分でもちょっとずるい句と言っていたけど、多くの選を集めていた。

私は日下野さんの句が一番よかった。夏雲、十円、悪の華。うーん、できすぎ。

矢野さんのもやっぱりよい。みんなも、外国貨幣に刻まれた肖像の横顔はたしかに涼しいよなあと感嘆していた。金貨ではなく銀貨というところに品があっていいと大木あまりさんも言っていて、まさしくその通りだと思う。





やっぱり句会はメンバー


だいたいどの回も面白いのだが、今回は日下野さん、矢野さんのふたりと、プラス主宰のほかに俳人がもうひとりいたということで、全体のレベルが高く、勉強になった。

また、主宰・長谷川櫂さんの出したお題もよかったと思う。彼自身とても魅力に溢れた人だった。

しかし、日下野さんにしても矢野さんにしても、あんなに上手に句を作れる人が一緒の職場なんかにいたら、こりゃ困りますね。

昼休み、自分のデスクの前でぼんやりしていると、さらっと十七字が書かれた紙が置かれ、「一緒にコーヒーなんてどう?」なんて誘われたら……って、OL(オフィス・レディ)とOL(オフィス・ラヴ)する妄想にふけってみたり。惚れっぽいあたくしなんぞは、そういう人がいたらどうもいけないですね。敬遠しておきやしょう。




*1:この番組は二週にわたって同じメンバー


*2:主宰・長谷川さんは、これからの時代の女性はもっともっと強くあっていいというのが持論のよう。


*3:「半夏生」は「はんげしょう」と読む。詳細はWikipedia でどうぞ。



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今日、とある女性とベンチにすわってしゃべっていた。

少し茶色に染め上げた髪は6:4くらいで分けられ、少しクラシックな印象をこちらに与える。色は白く、全体的に細身。

最近、庭に植えているミントやタイム、ローズマリーやレモングラスなどがいっぱい採れて楽しいと言っていた。このあいだキャベツを十個植えたら九個がうまくできて嬉しかったと言う表情がまるで少女のよう。

話を終え、別れるときになって「またお会いできれば」という話をした。狭い町なのでまたどこかで会うこともあるでしょうということになった。



そのあと、また違う女性とメールアドレスの交換をした。その人とはそれまでもよくお話をしていて、料理のレシピなどを教えてもらっていた。

帰ってからつまらない用でその人にメールを送ると、一時間ほどして絵文字を使ったメールが返ってきた。文末の笑顔のマークがニコニコと動くのが面白い。私の知り合いの中では絵文字などを使う人は少ないので、新鮮だった。



さて。今日の教訓はふたつ。




  1. 女性はいくつになっても話題豊富であるべきだし、いくつになっても女性性を失ってはいけない

  2. コミュニケーション・ツールは、なるべく最新のものまでカバーするべし

1. についていえば、上に挙げた女性は、前者が六十を少し超えていて、後者がちょうど七十あたり。嘘だろうと思われるかもしれないが、決して冗談ではなく、両者と話していて本当に愉しかった。年寄りと話しているというのではなく、やっぱり女性と話しているという感覚を覚える。

それならみんながみんなそうかというとそんなことはなく、やっぱり「あ。いま私はお年寄りと話しているんだなあ」と感じながらしゃべることも多いし、若い人と話しているときでも、「あ。いま私は頭の中身が脳みそではなく白子の味噌煮が入っている人と話しているんだなあ」と感じていることもある。

その違いはやっぱり人間としての魅力に行き着くのだと思う。若さや容姿の美しさにかまけているだけじゃ(もちろんそれも大事だけれど)、衰えるのは早い。若くちやほやされる時代は意外と短いのだ。



2. も1. の延長にあるのかもしれないが、実際、携帯電話を持っていてしかもメールを扱えるとなると、コミュニケーションの幅が段違いに広がる。

私にメールをくれた人も、遠地にいる三人のお子さんにメールを打てるようにしろとせっつかれ、それでようやく去年からメールをするようになったのだが、今ではお子さんたちとひっきりなしにメールのやりとりをしていて、絵文字も使えるようになったのだと言う。子どもたちとよく連絡を取るおかげで得られる情報も多く、結果話題も豊富になる。

昔の人といっても、漱石たちの時代のように手紙をしょっちゅう送っているわけでもないので、やっぱりメールは便利だと思う。私の母にも使えるようにならなければいけない、と言っておこう(このブログで)。

そんな土曜日だった。



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エイミー・ワインハウスが27歳で死んだ


エイミー・ワインハウスが死んだというニュースが最近流れた。

私みたいな音楽に疎い人間でも、たまたま彼女の名は知っていた。弟に"Back to Black" というアルバムを借り、始めて"Rehab" を聴いたとき、「なんじゃこのおばさん! すげーカッコイイな!」と驚いた。




Rehab / Amy Winehouse




実は訃報を知るまで彼女の顔を知らなかったので、声質だけで判断して、きっとこんな顔をしている人だと思っていた。




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まさか27歳だったなんて。





ブルーズを歌う女の子に出会ったけど、彼女はただ笑うだけでそこを立ち去った


Gigazine の記事で、「27クラブ」という言葉を知った。要は27歳でこの世を去った人たちということだ。

記事を見ればよく聞いたことのある名前が。ブライアン・ジョーンズジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンカート・コバーン……。

あいにくこれらの歌手にあまり馴染みはないのだが、ジャニス・ジョプリンにまつわるエピソードだけはなぜか知っている。たぶん誰かの小説だかエッセイだかで読んだのだと思う。

彼女に入ってくるはずの収入のほとんどはマネージャーだかレコード会社だかが巻き上げていて、彼女は死ぬまで経済的にはあまりいい生活ができなかったという(しかも、彼女はそのピンハネの事実に気づかなかったらしい)。死んだときの所持金は、その手に握られていたタバコの釣銭4ドル半だけだったとか。本当かどうだか知らないけどね。

アメリカポップスの歴史に残る名曲、ドン・マクリーンの『アメリカン・パイ』の中で、彼女について言及している箇所がある。




American Pie / Don McLean






I met a girl who sang the blues

And I asked her for some happy news

But she just smiled and turned away

I went down to the sacred store

Where I’d heard the music years before

But the man there said the music wouldn’t play







『アメリカン・パイ』


ところで、『アメリカン・パイ』の歌詞は素晴らしい。謎が多く、英語がわからない私は辞書を引いたり、解説してあるサイトを覗いたりするほかないのだが、ビートルズローリング・ストーンズのことが歌われていたりするし、宝探しのような愉しみもある。

その中で何度も何度もリフレインされているフレーズがある。以下の歌詞の一番下、"The day the music died"である。




But February made me shiver

With every paper I'd deliver.

Bad news on the doorstep;

I couldn't take one more step.

I can't remember if I cried

When I read about his widowed bride,

But something touched me deep inside

The day the music died.




ドン・マクリーン少年は新聞配達をしていたのだが、1959年の2月3日あるいは4日の朝刊を配達しているとき、どこかの家のドアの前に置いた新聞に、ある飛行機事故の記事が載っていることに気づく。

その事故ではミュージシャンのバディ・ホリーリッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーの三人が死亡していた。"read about"しているのは、その中で若くして未亡人となってしまったその三人の中の誰かの夫人のコメントだろう。

彼は、その記事を読みながら自分が泣いたのかどうかはわからなかったが、けれども、彼の心の奥底に何かが触れ、その日、音楽が死んだということに気づいたのだった。

この美しい韻の林の中に、これほど詩情に満ちた構成が入っているというのがちょっと奇跡的だし、「音楽が死んだ日」という言葉に、少年時代に感じたショックがそのままあらわれている。



あるミュージシャンが死んで「音楽が終わってしまった」と感じることは、熱狂的な音楽ファンであればあるほど、多いのだろう。

ある人はジョン・レノンが殺された日にそう感じたかもしれないし、ある人はマイケル・ジャクソンが死んだ日にそう感じたかもしれない。エイミー・ワインハウスが死んだ日に同様のことを感じた人だって、少なからずはいただろう。

でも結局、音楽は死なずにこれまでやってきたし、これからもやっていくのだろう。多くのミュージシャンの死骸と墓碑の上に新しいリズムとメロディーを積み上げ、場合によっては美しい歌詞で装飾しながら。

人と音楽を切り離すことはできないのだ。




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これも私が人によくする話。たぶんどこかにも書いたような気がしたりしなかったり。



スピッツ草野マサムネの歌詞は、取り合わせの妙が面白い。

「可愛い君が好きなもの ちょっと老いぼれてるピアノ」(『スパイダー』)とか、「浮かんで消えるガイコツが 鳴らすよ恋のリズム」(『涙がキラリ☆』)とか、「ゴミできらめく世界が 僕たちを拒んでも ずっとそばで笑っていてほしい」(『空も飛べるはず』)とか。

高校生の頃はこういう部分が嫌いだったのだが、年を経るにつれ受け容れられるようになってきた。



スピッツの『運命の人』の始まりもなかなかにマサムネ節が効いている。




バスの揺れ方で人生の意味が 解かった日曜日

でもさ 君は運命の人だから 強く手を握るよ




やはり高校時代、友達の女の子は「この部分が好き!」と言っていたが、私はどうにも好きになれなかった。「運命の人」という言葉が簡単に扱われすぎのように感じられたのだ*1

高校生私*2は、マサムネの歌詞には誠実さが欠如しているというふうに感じていた。

言葉の戯れのために歌詞があり、それ以上のものではないと断じているようなところがマサムネには感じられ、そこがやはり同世代のミスター・チルドレンの櫻井などとは異なるように思えた。いま思えば「作風の違い」という言葉で収まってしまうのだが、当時は度し難く感じていたのだ。

けれども、この『運命の人』だけは、言葉遊びだけではなく、マサムネが本当に大切に思っていることがちゃんとあらわされていると感じていた。そう私に思わせたのが下の歌詞の部分。




晴れて望み通り投げたボールが 向こう岸に届いた

いつも もらいあくびした後で 涙目 茜空

悲しい話は 消えないけれど もっと輝く明日!!




3行目の歌詞は、マサムネにしてはごく平凡。しかし、高校生の私がカラオケでこの歌詞を見たとき、「輝く明日」という単語のあとについたエクスクラメーションマーク(いわゆるビックリマーク)ふたつに衝撃を受けた。

本当の作意などわかるはずもないが、この「!!」には、「ふだんは言葉遊びに興じていて、歌詞なんていうものはそんなものでよく、ただの音楽に付随するものでしかないと思っているけど、たまには本当に思っていることも書いておこう」という主張が隠されているように見えたのだ。

櫻井和寿がトータス松本の『ええねん』の歌詞を評して、「ふだんいろいろな言葉をひねくり回して歌詞を考えているけれど、こういう(『ええねん』のような)ストレートで単純な歌詞に、簡単に負けてしまう」(めちゃくちゃうろ覚え)と発言していたのと同様、マサムネだって、本当は直截的な表現に憧れているところがあるのではないか、と思っていたし、いまもそんなふうに思っている。

おそらく、この「悲しい話は消えないけれど輝く明日!!」という部分に異常に昂奮を感じている人間なんて少ないだろうし、マサムネ自身もしかしたら忘れてしまっているかもしれないけれど、でも、やっぱり私にとっては彼の書いた詩の中で一番すばらしく感じられる部分なのだ。




【関連記事】





*1:けれども、今はこの部分の軽みがすばらしく感じられる。感想が180度変わってしまっている。


*2:この表記の仕方は、まさに大西巨人のやり方。



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昔っからメガネ女子が好きでございます。どうもメガネを掛けている女子というものに心なびくところがあります。

まあ、己の深層心理みたいなものを解析してみると、私自身が目がいいせいではないかという点に行き着いて、つまりは「自分にないものを欲す」、そういう欲望が「メガネ女子嗜好」を助長しているところがあるように思います。




書店のメガネ女子


書店で働いていた頃、それっぽい女の子が職場にふたりいた。

ひとりは「ザ・メガネ女子」という感じで、おーっとりしたほんわかほんわかしたタイプ。といって仕事はテキパキしているという嬉しい期待の裏切り感。文句のつけようのない、本当にいい感じの女の子だった。

もうひとりも明るい女の子だった。ちょっと縁の大きなメガネを掛けていて、お客さんへの挨拶なんかもとても自然な、厭味のないとても気持ちのいい子だった。

あるとき、レジ場でその子の隣になった。その子は新人だったので私もあまり話したことがなく、どんな人なのだろうかと話すのが愉しみだった。

しゃべると第一印象が実感に変わった。それぞれの自己紹介を踏まえつつ話したのだが、外観のとおりものすごく爽やかな女の子だった。ただ、唯一の難点がじゃらじゃらと手首につけたアクセサリーがちょっと騒がしかったこと。ま、気になって困るというほどではなかったけれども。





いつまでも残ってしまうもの


昨日、とあるセブンイレブンに立ち寄った。人を訪ねるのに差し入れとして冷たいジュースを買うためだった。

コーヒーやらお茶やらを適当に見繕い、レジに持って行くと女の子が応対してくれた。

たいていの人もそうだと思うが、私はコンビニやスーパーで買い物をするとき、キャッシャーの人(正確にはサッカーという)の顔をじっとは見つめない。どちらかというと、視線を少しずらしたり、あるいは商品のバーコードがスキャナで読み取られるのをぼうっと眺めたり、財布を適当に漁ってみたり、顔を見ないですむような行動をとる。

そのときも、スキャンをする彼女の手元をなんとなく見ていた。

今の時期のセブンイレブンの制服は半袖で、彼女の白い左腕が見えた。

……無数の傷痕。はじめはいばらで引っ掻いたのかと思えたほど、その傷痕は彼女の左腕にびっしりと刻まれていた。肘の内側から手首のあたりまで。

顔を見上げるとちょっと化粧は厚めだが可愛らしい子。いちいちの受け応えも気持ちがよく、どうにも悩みがあるようには見えない。

そう、もしかしたら自傷行為の名残はずっと昔のことで、現在の彼女はそんなことからすっかり卒業しているかもしれないのだ。しかしながら、世間の人間すべてがそのように好意的に解釈してくれるかというとそうではなく、むしろ、差別的な感情のフィルターを通さずに彼女を見ることは一般的ではない、と言えるのかもしれない。



余談だが、私は一時期ほんとうにどうでもよくなった時期があって、その頃背中に刺青を入れようと考えていたことがある。刺青といっても水滸伝の九紋龍史進のようなものではなく、単なる文字を洒落で入れようと考えていたが、思いつきだけでやめてしまった。






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歌川国芳『通俗水滸傅豪傑百八之一個 九紋龍史進




親にもらった大事な身体、ということで思いとどまったわけではなく、そのときにはとても気の利いた洒落に思えたものが長い時間が経ったらひどくつまらないものに感じるのではないかということが気にかかったのだ。

結局その思いとどまりは正しかったと思う。もしたとえ一字であろうと背中にそんな彫り物があれば、なにかのときに(たとえば白いT シャツを着ていて汗で透けて見えてしまった場合)その言い訳をしなくてはならなかっただろうから。そしてそれは非常に面倒なことだったろう。



自傷行為は、長い未来へとわたる傷を引き起こす。

そのような行為に走る人たちの心理を理解しようと務めたことはないし、おそらく理解できるはずもない。ただ、もしも「寂しい」というメッセージの代替としてそのようなアクションがあるのだとしたら、「寂しい」と声に出した方がよほどましだ。その「寂しい」という声を誰も聴いてくれないから問題なのかもしれないが、それでも、どこかにその声を聴こうとしてくれる人間は存在するはずだと思う。そう考えなければやっていけないのだ、誰だって。





今が本当でありますように


セブンイレブンの女の子の左腕を見たとき、私はたいして驚かなかった。

というのも、書店のメガネ女子のじゃらじゃらとした左腕に絡みついたアクセサリーの下には、セブンイレブンの女の子のようなリストカットの無数の痕が隠されていたからだ。

おしゃべりをしているとき、ふと彼女が、おそらく癖であろう、手首のアクセサリーをちょこっとずらしたとき、偶然その傷痕が一瞬だけ目に入った。おそらく他の人たちは気づかなかっただろう。そのとき、身だしなみにうるさいその書店が、なぜ彼女の手首のアクセサリーを認めたかということに気づいた。

メガネ女子は元気なように見えた。本当は心身ともに傷を抱えているのだが職場では健気に振舞っているのか、あるいは、リストカットは完全に過去の行為で本当に現在は心から笑えているのか、そのどちらかは他人の私にはわからなかった。それからすぐに私はその職場を辞めてしまったので、彼女のことはわからずじまいだったのだ。

しかし、今やどこにいるのかわからないメガネ女子も、そしてセブンイレブンの女の子も、いま現在は笑っていて、その笑顔がどうか本物であればいいなと思う。私ができるのはそんな熱のこもらない些細な祈り程度。他人の悲しみや苦しみを担ってやれるほど私の背中は広くないのだ。




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桂米朝の『愛宕山』を聴いていたら「弁当を遣う(=弁当を食べる)」という表現が出て来て、ああこれはいい言葉だと思って銘記していた。

それが今日、近所のお年寄りとたまたま弁当の話になったので遣ってみた。

お年寄り「なあ、その日のひる*1はどうする?」

私「そうですね、もしかしたらその日は弁当を遣うかもしれません。そうだったら人数を確認しとかなきゃなんないんで、もうちょいと待っていただけますか?」

しめしめ、うまく遣えたぞと思っていたら、相手は「ぽかーん」という表情をしていた。あまりうまく伝わらなかったのかもしれない。



*1:本当なら、午餐という漢字をあてて「ひる」と読ませたい。



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これもよく人にする話。

むかし、弟がインターネットの詩のサークルに参加していて、そおこが実際にイベントを開催したときのこと(もしかしたら十年くらい前の話かもしれない)。私もそのイベントを観に行ったのだが、その中でどうしても忘れられないポエトリー・リーディングがあった。

たしか25分というかなり長めの朗読だったのだが、まったく聞き飽きなかった。こんな内容だったと思う。




公園でブーメランを投げて遊んでいた

ブーメランを投げて、手許に戻ってくるたびに、1、2、3、4……と数えていった



「運命の女」と書いて「ファム・ファタル*1という

ファム・ファタルファム・ファタルファム・ファタル……



むかしぼくには好きな女の人がいて、その人のことをこっそりファム・ファタルと呼んでいた

ファム・ファタルファム・ファタルファム・ファタル……



その人のことを思い出してブーメランを投げる

ファム・ファタル1、ファム・ファタル2、ファム・ファタル3……



その人は、結局ぼくではなく、違う人を選んだのだった

ファム・ファタル4、ファム・ファタル5、ファム・ファタル6……





あれからずいぶんと時間が経ち、ぼくも今では結婚して奥さんがいる

ファム・ファタル5、ファム・ファタル6、ファム・ファタル7……



そして、ふと気づく……

その奥さんにだって

彼女のことを「ファム・ファタル」と呼んでいた男がきっといたのだろうと



そう

彼女もまた、きっと、誰かにとっての「ファム・ファタル」だったはずなんだ!



そのことに気づいたぼくは

なんだか嬉しくなってしまって

彼女の待つ家に早く帰りたくて、思いっきり自転車のペダルを漕いだのだった




もちろん、もとの詩はもっと詩的だったし、もっと細かいエピソードがあったように思う。だが骨子ははずしてはいまい。

細かい感想や解説は不要だろう。



*1:フランス語。femme fatale。ただし辞書を引けば、ただの「運命の女」というわけではなく、「男を破滅させずにはおかない女、妖婦」とある。



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昨日の午前中は山に入っていた。「登っていた」のではない。「入る」ということはつまり、山で作業をしたということ。

ちょいとした理由から丸太が必要になり、近所の人に「どこかにあります?」と訊いたら、「そんなら山いこら*1」ということで山入り。

腰のベルトに枝落とし用のノコギリを引っ掛ければ、気分だけは「山の者」。しかしまあえらい*2ところですよ、山道といっても幅20cm もない道(もちろん滑り止めもなんにもないので、足を滑らせれば下にずさーっ! ま、死なない高さですが)を十五分ほど歩いて行く。一昨日、一昨昨日と雨が降ったものだから土が柔らかくなっていてよく滑る。それでも足元に慣れれば山道ってのはもう格別な気持ちよさがあって、杉や檜の背の高い幹が日光をうまい具合に遮り、木漏れ日が若い雑木やらサワガニやら足の長い奇妙なクモやらを照らしている。

余裕が出てきたので深呼吸をする。森林浴。なんだかいい匂いがするなあ、あれ、なんだっけこの匂いなんだっけこの匂いと考え考え歩くが、どうしても思い出せない。



目的地に着くと、数十本の杉が谷間に向かって倒れている。その谷に降りていくのに整備された道などあるわけがないので、足場のしっかりとしていそうなそれらしいところを片足で踏みしめ確認しいしい降りていくのみである。

案内してくれた人は地下足袋を履いて数十年のキャリアを感じさせる足取りをご披露してくれているが、当方、不用意にも長靴を履いていたために滑る滑る。そのたびに切り株につかまってはみるものの、五本に一本は切り株の方も腐っているとみえて、引っこ抜けてしまった切り株と一緒に2m ほどずるずるずる。

メジャーで長さを測り、ノコギリで切る。そのあいだにもうひとりは鉈で樹の皮を剥いでいく。皮を剥ぐと軽くもなるし、それに腐りにくくなるということを教わる。

つるつるの5m の丸太をふたりで担いで急勾配を登る。おそらく30度以上はあったと思う(気温ではなくて、角度の話ね)。

(私だけ)ひいこらひいこら言いながらなんとか山道まで丸太を運ぶと、もう体中が土だらけの樹の皮だらけで、おまけに汗だらけ。結局そんなふうにして8本ほどの丸太を運んだのだが、そのすべてを持ち帰ってくることはできなかった。

先日の雨にまだ濡れていたため、切り株や剥き出した岩などに斜めに掛けておいて乾かす必要があったのだ。



しかし昔の人は立派なものだ。昨日私が入った山にはもともと樹(針葉樹)は植わっていなく、山田といって田圃を作っていたらしい。文字通り「山にある田」というわけ。道とも言えない道を拓いていき、米を作っていた。それくらい米というものが大事だったのだ。

今だったら、「米がなければスイーツを食べればいいのに」と思われるだろうが、昔はそういうわけにはいかなかったのだ。

米についてのちょっとした余談を。

その日の午後、とある場所に行ったのだが、そこのおじさんと話していたとき、地名が気になったので尋ねてみた。

「ここか。ここは“神さんの田”って書いて神田(こうだ)ちゅうな。あそこにでっかい神社があるやろ? あそこに米を納めていたみたいやで」

なるほど。つまり東京の神田(かんだ)って地名も神田(しんでん)というところから由来しているわけなんだな*3

地名やら歴史やら、やっぱり日本は米と深い関係があったのだなあ、と思った。



そうそう。山で気になったいい匂いの正体。あれ、よく考えてみたらトリュフの香りでした。

あそこで弁当をひろげて、塩で味をつけただけのおむすび*4でも食べれば、立派な「トリュフむすび」の完成。うまいかどうかは保証しませんがね。



*1:「それならば山へ行きませんか?」の意。


*2:「えらい」ってのは関西弁の代表格みたいなもので、おそらく関西の人は共通語だと思ってしゃべっているかもしれないけれど、関東の人間にとっては意外なまでに通じないことが多い。かく言う私も引っ越してきた当初は「あれ? 横浜から来たの? そらえらいわー」などと言われ、よくわからなかった。「なぜ、みんなこんなにも褒めてくれるのか」と。


*3:参照: [http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0:title=Wikipedia]


*4:あえて「おにぎり」とは書かないでみる。



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『高津の富』という名前では知らなかったが、東京の落語でいうところの『宿屋の富』。

ずっと志ん朝のもので親しんでいたが、今回枝雀の口演を聴いて、枝雀の噺の方が面白いと感じた。




高津の富 1/3 - 桂枝雀






高津の富 2/3 - 桂枝雀






高津の富 3/3 - 桂枝雀




上掲動画(音声のみだが)は、私が聴いた版ではない。こういうことを書くとなんだが、そちら(私の聴いた版)の方がもっと面白い。「当たり」がわかるところを焦らして焦らして焦らして焦らす。その演出のすごさに私も、途中から笑っているんだか泣いているんだかわからなくなってしまった。

志ん朝の名誉のために註記しておくが、志ん朝版が決して劣るのではない。下に挙げる参考動画を参照してもらえればわかるが、志ん朝のものも名演である*1

しかし、志ん朝の口演は正統のものをあくまで忠実にストイックに演じているのに対し、枝雀のそれは、正統をひん曲げ過剰に演出している。志ん朝の藝が名人のものとすれば、枝雀の藝は鬼のものである。

枝雀を観ていると、笑うという行為は非常に明るいものであるが、笑わせるという行為は非常な深淵に根差した暗いものなのではなかろうか、と感じる。歯を食いしばって、腹の中で鬼の形相をして笑わせているのだ。きっと。




宿屋の富 1/4 - 古今亭志ん朝






宿屋の富 2/4 - 古今亭志ん朝






宿屋の富 3/4 - 古今亭志ん朝






宿屋の富 4/4 - 古今亭志ん朝





*1:ただし私がかつて聴いたのは、やはり違う版。もっと若かった時代のもので、そちらの方がもっとよかった。



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