とはいえ、わからないでもない

2011年10月

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むかし働いていたレストランで外国人のお客さんにこういうことを言われた。

「あなたのサービスはとてもいい」

「そうですか、これはどうもありがとうございます」

「あなたがもしニューヨークのレストランで働いていたのなら、ひと晩で200ドルはチップとしてもらえると思う」

当時は1ドル100円くらいだったから、ざっと日に2万円をもらえるという計算だった。

「そんなに?」

「ええ、あなたのサービスにはとても心がこもっている。アメリカだったらそのサービスに対してチップが正当に支払われます」

「はあ……でもですねえ、日本はチップを払うという習慣はあまりありませんからね」

「そうですね、とても残念ですね」

といって彼は本当に残念だというように、深くため息をついた。

そしてしばらくして、彼はチップを一銭も置いていかずに帰って行ったのだった。



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噂の桂吉朝の落語を初めて観た。




子ほめ / 桂吉朝




この年齢にして既に品と風格がある。けれども、品がありすぎてしまって、大爆笑できる噺になっていない。いや、なっていない、というのは失礼な話で、していない、というのが実のところだろう。

ちょっと前ならこの「藝が確立されている感じ」をものすごく好んでいたのだが、今は物足りなさを感じる。「藝は完成しない」と根底で考えているからだろう。

枝雀の「子ほめ」には(本当は「子ほめ」に限ったことではないのだが)、一般的に想定される間抜けな人物のさらに上を行く間抜けが出てくるのだが、その彼が存在してもおかしくない世界観を作っているために、リアリティとは言わないまでも、その存在感が揺らぐことがない*1。私は、そういう「枠が壊された感じ」をいま愛しているのであり、翻ってこのような「収まりのいい噺」に物足りなさを感じている、とこういう次第である。



ひと月前ほどの「米朝よもやま噺」(ラジオ番組)で、ざこばが「吉朝はすごく積み上げたように思うけど、積み上げたんは薄い皿だったかもしれない。そら、吉朝がそんなことを聞いたら怒るかもしらんけど」というようなことをしゃべっていた。これは普段以上にうろ覚えなので、はっきり言って私の創作みたいに読んでもらった方がいいと思うが、ざこばは、皮肉や厭味ではなく、あくまでも彼なりの真摯さで、吉朝の藝をそのように評価したのかもしれない。いづれにせよ、ざこばと吉朝の藝はベクトルが違いすぎる。



吉朝自身も、おそらく自分の藝が完成している、などとは思っていなかっただろう。まだまだ未完成、それが彼の本音だったのではないか。このところどころに出てくる過去形に、敏感な方はお気づきかもしれないが、桂吉朝は2005年に五十歳の若さで亡くなっている。



*1:反対に、あまりにもバカバカしくやってしまえば、視聴者は「そんなバカな」と言って気持ちを引いて鑑賞してしまう。枝雀はおかしな顔をしたり子どものようなしゃべり方をしたりするが、だからといってリアリティを忘れたことはないと思う。実際、速記本の「子ほめ」の解題では、主人公の行動が「不自然」にならないよう枝雀が変更を加えている話が掲載されている。



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松本清張の『或る「小倉日記」伝』を読んだ。読んだといっても文庫にしてたかだか五十頁弱。

すごい。淡々と記述されていくのがそれこそ鴎外の『阿部一族』を想起させるが、主人公耕作の母ふじの台詞、




「ねえ、耕ちゃん。てる子さんはお嫁にきてくれるかね?」




に漂う情感は『阿部一族』にもなかったように思う。

エンディングも含め、その短さにもかかわらず日本文学の中でこれからも屹立していくであろう作品。



或る「小倉日記」伝 (角川文庫―リバイバルコレクション)

或る「小倉日記」伝 (角川文庫―リバイバルコレクション)



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ちょいと遅いけど、『リリエンタール』の葦原大介の読み切り『実力派エリート迅』の感想を。



『迅』、『ケルベロス』、『競技ダンス部』と三週つづけて読み切りがあったわけだが、三者を比較すると『迅』が一番インパクトに欠けた。それが率直な感想。「うぉっ」というシーンがそれほどなかったのだ。他の二作品に較べて「地味ぃー」という印象。

でも、と三週を総括して考えてみると、『ケルベロス』も『ダンス』も読み切りは素晴らしかったが、ちょっと連載が想像できない。もう完結してしまっているというか、甲子園の爽やかな一試合を見せてもらいました、という感じ。

野球に詳しくないくせに野球の比喩をつづけさせてもらえば、『迅』というより葦原作品は(と書きながら私は『リリエンタール』を思い浮かべているのだけれど)プロ野球のペナントレースのようなもので、年間通しての試合(=連載)でこそ、その実力・滋味を味わうことができるのではないか。それは、短所ではない。むしろ長所である。

と考えると、やけに作り込まれた設定*1とか、しかもそれがあんまりメインに来ないキャラ中心のストーリーなんかは、連載の布石なんじゃないかとも思えてきた。連載、切に希望します。



なお、一点だけ苦言を呈するとするならば、今回の主人公のキャラクターはもうひとひねりすべきような気がした。いわゆる「ユルさ」にウェイトが置かれすぎていて、葦原大介にしてはちょっと陳腐に感じられた。『リリ』でいえば「お兄さん」の位置づけにおさまってくれればいい。主人公は別に作るべきなんじゃないかなあ、と無理難題。あの女の子にストーリーテリングをさせればいいのかな?



*1:と書きながら、ちょっと忘れています。誘導率がどうとかこうとか。妙にリアルでした。



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三崎亜紀の『となり町戦争』を三日ほど前に読了。

この作品が新人賞を獲ったくらいのときから有名であり、知ってはいたが、どうにも読もうという気になれなかった。

設定は知っていた。ある日、となり町との戦争が始まり、主人公がその見えない戦争に静かに巻き込まれていく……うんぬん。もう、設定を聞いただけで「ごちそうさま」な感じだった。

と、そういう状態が何年もつづいていたのだが、このあいだ古本屋に行ったらこの文庫本があったので、安いということもあり、買ってみた。私は歯を磨く時間がわりあい長いので、その「歯磨きタイム」のお伴にしようと思ったのである。



思った通り、読みやすかった。設定は以前から知っていたとおり。主人公の対応もこちらが予測するとおり。

で、こういう主人公の「世界で起こる異常をあるがままのものとして受け容れる」というスタイルは、おそらくカフカがそのパイオニアなのではないかと簡単に考えてしまうのだが(厳密にいうとカフカも誰それの影響を受けている、とかそういうの抜きでね)、でもこの『となり町』の主人公と、たとえば『城』のK は明らかに違うということは感じられる。

そのことをちょっと前まではうまく言語化できず、感覚的に「これは偽物、これは本物」というひどく曖昧な分け方をするだけであったが、最近、偶然に保坂和志の『世界を肯定する哲学』を読み直していて、ああそういうことかと自分の中でその「感覚」がうまく説明できるようになった。

つまり、カフカは「世界」というものを「俯瞰」せずに書いているが、三崎亜紀はちゃんと「俯瞰」してこれを書いているということであり、彼の作品から感じられる「頭の中で作られたもの」という感覚は、その「俯瞰」という操作から生じるものであろう。

保坂は、カフカは俯瞰せずに小説を書くものだから読者もその小説世界の全体像というものがどうにも把握しにくい、あるいは把握できない、というようなことを書いている。それがすなわち「世界に投げ込まれた状況」そのものということなのだろう。

私たちが、もし「ある異常な世界」にひょいと放り出されたとしたら(たとえば恐竜の跋扈する時代)、




私が目を開けると、目の前をトリケラトプス*1が乾いた土の上を鈍重に、しかし確固とした目的を持つように走っていた。全長8メートルほど、その体重は3,500kg というところか。皮膚の色は思った以上に薄灰色であり、見ただけでいかにもごわごわとした感触をこちらに伝える。その走り方は勇猛そのもの、一歩一歩がどすんどすんとかなり大きな振動を引き起こした。空気がやけに乾燥しているせいだろうか、音がよく響くように感じた。空の遠くの方で雲がぽっかりと浮かんでいたが、その雲の形だけは「私の知っている世界」と同じだったので、そのことが奇妙に感じられた。トリケラトプスの起こす振動のせいで、私の焦点はなかなか定まらなかった。私は危険を察知し、その場から逃げることを決意した。




などというふうには観察できないということ。




うわー、やべえーっ! トリケラトプス? でっけえ! 踏み殺される! 逃げなきゃ!!




というのが実際のところであり、




目を開けると、私の目の前を走っていたのは、おそらくトリケラトプスだった。私は、私の感覚を壊すくらいの巨大さを持ったその生き物から、少しでも遠くに逃げようと思った。




というのがせいぜいのところである。



もちろん、表現力に大きくよるのであるが、実際はありえない状況についてでも、「本当に感じられた感覚」のように描写することができれば、あるいはそれに少しでも近づけたら、読者はそこに妙な生々しさを感じることができるだろう。それがリアリティということなのだと思う*2

だが、三崎亜紀の作品を翻ると、生々しさはなく、すべてが「つくりごと」のように感じられ、その「つくりごと」(=設定)の中で「つくられた主人公」が「つくられた思考」を積み重ねていき、読者の感情は置き去りにされてしまう。それに、この『となり町戦争』の主人公は頻繁に「思考」するのだが、それもリアリティの生成を阻害していると思う。

ここで註記しておくが、私は、論理的な思考が一般にリアリティの生成を阻害する、と言いたいわけではない。たとえば大西巨人の作品において、その主人公はいやというほどに思考を繰り返す。それではそこにリアリティがないかというと、たしかに一般的にいうリアリティとは異なるののかもしれないが、でもやっぱり小説の持つ生々しさは立ち上がっている。大西巨人は、主人公に「そのときその場所にいればどのように考えるだろうか」ということを徹底的に課しているからだ*3



ということで、最初から最後まで、「設定」の上に乗っかってしかもそこからちっとも動かない小説、として読んだ。感想もそこにとどまる。設定ありき、以上、と。

ただし、一般には受ける作品かもしれない、ということを附記しておく。映像化なんかしやすいだろうし、と思ったらやっぱり映画になっていたみたい。わかりやすいもんね。

この「わかりやすさ」にとどまるか、あるいはさらにその上(もしかしたら上ではないのかもしれないが)を目指すのか、が純文学とエンターテイメントの分かれ目なのかもしれない。もはやその線引きに意味がないとは充分にわかっていることだけれど。



となり町戦争 (集英社文庫)

となり町戦争 (集英社文庫)



世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)



*1:トリケラトプスには、ちょっと面白い争論がある。Wikipedia 参照。


*2:保坂の『世界を肯定する哲学』での「リアリティ」の定義は異なるが。


*3:実際には、作家自身の考えを表明させるために小説世界を構築している、というのが大西作品を通じて言えることなのだが、それはまた別の話になる。



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ちょっと前*1宮本常一の『忘れられた日本人』のエピソードを書いて、そのときに「ハサ」という言葉を知った。気になりはしたものの、「ハサ」というカタカナ表記だったので、きっと「その地方独特の風習に基づくなにか」だろうと、調べることをしなかった。

で、最近角川ソフィア文庫の『俳句歳時記 第四版増補 秋』を読んでいたら、「稲架」と書いて「はざ」とあった(別の読み方として「はさ」もあった)。このとき、「はざ」という言葉と、その指し示すものが私の中で結びついた。カチーン。




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この稲がかかっている木で組んだものが、「ハサ」あるいは「ハザ」




ちなみに『歳時記』には、




刈った稲を掛けわたし乾燥させるための木組み。普通は一段の稲架だが、北陸・出雲地方などには段数の多いものもある。乾燥した地域では田の面や畦に並べて干すことができる。




とある。



こりゃええことを知ったわい、とさっそく一句ひねってGoogle+ に投稿。一日一句は、遅れながらもまだつづいております。




黄金の波の退いて稲架の残れる






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いま、過去の記事を見てみたら、ちゃんと「ハサ(稲架)」と書いてあった。稲架という漢字を見ても、そのときにはピンとこなかったようだ。




*1:調べたらもう三月半も経っていた。



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変わらないもの / 奥華子






この動画を観るだけで泣けてしまう。「未来で待ってる」のシーン、この台詞を思いついた人(誰だろ)、思いついた瞬間ガッツポーズしたんじゃないかな。

この歌もそうだけど、この映画全体に流れる「こわれもの」っぽさはなんなんだろうか。

十代の終わりからせいぜいが二十代の前半までのあいだ、へたしたら八十年はあろうかという人生の中のほんのわづかな期間を非常に重要に感じているいま現在のこの感覚は、私が年齢を重ねていっても同じでありつづけるのだろうか。それとも、やがては「そんな時代もあったね」という一語でまとめられてしまうようなはかない運命を有しているのだろうか。



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かつて『月・水・金はスイミング』を絶讃した記事で、私は同作品を、




2011年の「週刊少年ジャンプ」に掲載される読み切りの中で、おそらく最も優れた作品のひとつとなるだろう。




と記した。これはかなり控えめな主張のつもりであり、実際は「これ以上のものはもちろん、これと同等のものも絶対に出てこないだろうね!」という確信があった。

ところが、だ。



同等とまではいかなくとも、相当にいいものが読み切りで登場した。それが横田卓馬競技ダンス部へようこそ』。というわけで、今週のジャンプは見逃せない。

簡単なあらすじを書くと……。

ちょっとしたトラウマが原因で女子と接することが苦手な高校新入生の土屋くんが、「合法的に女子とお近づきになれる」競技ダンス部に入部する。そこには、少数ながら面白い先輩たちがいて、同じ新入部員の亘理(わたり)さんもいた。

土屋くんも亘理さんも初心者だが一所懸命に練習を積み、そして、文化祭でデモンストレーションのダンスをすることになったのだが……。



まあ、この漫画の中心に置かれているダンスだが、別にダンスじゃなくてもいいわけですよ、この際*1。それよりこの作者の意図は、こういう主人公がこういう女の子に出会って、そしてこういう台詞を言わせたかった、おそらくそれに尽きるのだと思う。そして、それは見事に成功している。



「ジャンプ」なんて読んでいると、だいたいの主人公たちは「なんらかの能力」を持っていて、それをさらに真似のできないほどの努力によって磨き上げ、困難を克服する。あるいはどんなに冴えないやつだって、いざというときにはなぜか急に肝が据わり、剛胆な台詞を吐き、大胆なことをやってのける。だから、ついついそれが当たり前だと思ってしまう。これ、「ジャンプ・シンドローム」ね。

けれども、本作の主人公、土屋くんはなんの取り柄もない男の子なわけです。「海賊王になる!」と宣言するような器じゃないし、勉強もできなさそうだし、スポーツもできなさそう。おまけに、女の子としゃべるときもたどたどしい。それじゃあ、「いざというとき」には変われるんだろうと読者は期待するんだけど、その「いざというとき」でさえ、決まったカッコイイ台詞を吐けない。でも、それがいいんだ。

なぜなら、私を含めた多くの人間がこの土屋くんと同じだから。特段恵まれたものを持っていなくて、堅い意志もなく、カッコつかなくて、いざというときだってうまいことを言えない、それが私たちだ。



ちょっと反則だが一番重要なシーンを説明してしまう。

亘理さんが小さい頃のトラウマを土屋くんに告白する。好きな男の子に告白したら「チビのくせにはりきって、恥ずかしいやつ!」と言われてフられ、それ以来ひっこみ思案になってしまったという。それを励ます土屋くんの立場に立ってみたら、あなたはなんと言っただろうか?

クールに「そいつ、わかってないね」とか?

あるいは、「見る目がなかったんだよ、そいつは」と言いながらわざとらしくため息をついてみる、とか?

それはそれで有効な言葉かもしれないけれど、そんなふうな台詞を私たちはサラッと言えるのだろうか。

土屋くんは、こう言ったのだ。




っは…っ

恥ずかしいのはッ…

そっ その男の方じゃんねっ!?

バカだよそいつ!! バカバカ! だって…!

わたりさん めちゃくちゃっ… かっ… かわいいしねッ!!!

いやなんつーか先輩たちと違ってカワイイ系っつーか!?

いや正直 ドレスすんごい似合ってるし!?

チビとか言って僕もチビだし!?

いやもう普通にタイプ!? みたいな!?

なんならもう僕が告るし!!? みたいな!!?






恥ずかしながら、ここは読んでいて泣けました。上で私は、多くの人間は土屋くんと同様「いざというときだってうまいことを言えない」と書いたが、少しだけ訂正する。

多くの人間は、土屋くんと同様、うまいことは言えなかったが自分の言葉をしゃべって小さななにごとかを成し遂げてきた。

そしてそれと同数くらいの人間が、うまいことも言えず、そして結局はなにも口に出さないで、小さいけれども重要ななにごとかを逃してきた。私は後者に含まれる。



青春とは、当然のことのようにカッコ悪さを内包している。その主成分と言ったっていいくらいだ。

私のようなちょっとステップを踏み間違えるのをおそれてなにもしない人間には、青春はなにも与えてくれない。おかげで、私の手の内にはなにも残っていない。そんなのは、踏み間違えたステップが引き起こすことよりくだらない。

そうではなく、土屋くんと亘理さんのように、たとえステップをかなり間違えたとしても、ダンスを始め、ダンスをつづけるということが重要なのだ。そんなことをこの年齢になって気づかされました。うへえ。

本当にお勧めの作品です。機会があったらぜひ読んでみてください。

ちなみに、先週の『ケルベロス』もかなり良かったので、葦原大介の読み切りと『月・水・金はスイミング』をすべて「'11 ジャンプ読み切り短篇集」とまとめて単行本化してほしい。




*1:私個人としては、すごく新鮮でいいけど。



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今日、本当にあったラジオのニュース。




財務省が24日発表した2011年度上期の貿易統計速報によりますと、輸出額から輸入額を差し引いた貿易収支は1兆6000億円の赤字となりました。

赤字は、リーマン・ショックが直撃した2008年度下期以来、ゴキブリです










……5期ぶりです。



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