とはいえ、わからないでもない

2011年11月

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先日は、「アルコールが乳がんのリスクを高める話」のことを知り合いの方々に失礼のないようにメールしたのだが、今日は「肉食が結腸がんに及ぼすリスク」についてのニュースが流れた。

こんなことを気にしていたら人生愉しめませんな、と思った次第。

アンテナをもっと張っていけば、それこそいろいろなニュースがキャッチできるだろう。たとえば、私が聞いたことがあるのは、「白いものを食べてはいけない」という説。

そんな話、東京・横浜にいるときは、一度も耳にしたことはなかったが、ここらだとなぜかいろいろとそういう情報が入ってくる(私は信じていないけど)。いわく、牛乳、うどん、砂糖、白米、は身体によくないよとのこと。豆乳、そば、甜菜糖、玄米にしなさい、ということらしい。原理はよくわからないけど、なんだか良くないんだって。

この話を教えてくれた人は、一緒に食事をするという段になって私がチーズを持って行ったときに、畏れ多くもこの話をしてくださった。人間はそもそも牛乳を消化できない、だからチーズはだめなんだみたいな理窟なんだけど、私の持って行ったチーズ、かわいそうにその場でいたたまれないような表情をしていた。そのチーズだって、「おまえなんかに喰われたかねーよ」と小声でぼやいていた。いや、私じゃないですよ。チーズが言ってたんです。

あれはだめ、これもだめ、とご高説をのたまう神々しいばかりまで正しい知識に満ち溢れるそのお方であったが、四歳ほどの子どもを膝に乗せ、煙草をぷかーぷかーと吐き散らしていたのは、きっと呼吸器から吸入する煙草の煙が幼児の身体に好影響を及ぼすという、あまり知られていない知識をご存知なためであろうとひとり得心した。なにも知らないチーズは、「身体に悪いに決まってるよ、このあほんだら!」と言っていましたが。



でもまあ、かしこくも偉大なそのミスター・ヘルス・コンシャスも、意地悪や悪意をもって私にいろいろと食べ物を禁じたのではないだろうと思う。用意した食材を否定・批判するという、凡愚には想像もつかないような一見非常識かつ無礼きわまりないその行動も、裏を返せばショック療法の一種だと思えば、切歯扼腕も自ずと止む。彼の勇気に満ちた伝道者ぶりには、近隣住民もひれ伏すばかり。住民たちは有り難がり、感謝の意を込めて彼に向かって石(しかもかなり大きめ)を投げつけるが、頭にごーんと当たっても当人は気にもされていないご様子だから、その偉大さというものがわかるだろう。

まことにありがたいことである。



……で、なんの話だっけ?

そうそう。「なにを選択するか」ということだが、己の愉しみに生きてよいのではないか、という結論に至った。アルコールを摂取するがために乳がんのリスクをせっせと高めている人には、なんとかしてそのことを伝えたいと思うのも人情だが、飲みたいってのも人情。わかります。

でもあなたががぶーがぶーと飲んでうひょーと叫んでいる場所から遠く離れたところには、本当にあなたのことを心配している人もいるんですよ、ってことを私は代理で言いたかっただけ。私自身の言葉じゃないよ、それはって話。



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ふと、顔のことを考えてみた。

誰かのことをパッと思い浮かべたとき、その人は笑っているのだろうか。あるいは、怒っているのだろうか。にやにやしていたりするのだろうか。また、思いつめた表情をしているのだろうか。



私が知り合いの人たちの顔を思い浮かべたとき、その人たちはたいてい笑っていた。



彼らがその表情を私に見せていて、私がそれを記憶しているということは非常に重要なことなのではないか。当たり前の話だが、その人たちがいくら明るく朗らかな人であろうと私にその表情を見せていなければ、私はそれを記憶できないのだから。

私は、充分幸せ者なのではないか。



ただ、相手が女性となってくると話が変わってくる。彼女たちの表情を、私は強張ったものとして記憶していることが多いことに気づく。他にも、困惑していたり、腹を立てていたり、白々しかったり。

彼女たちの表情が物語っていることは、つまりこうだ。「あんたと一緒にいることがどれだけ苦痛なことか!」

これについてはもう、諦めるしかない。仕方がない、仕方がない。

うどん食て寝まひょ!



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まず、下の文章を読んでほしい。






クリスマスに、オヘアのところにその運転手からお祝いのカードがとどいた。これが文面である――


貴方様をはじめご家族の皆様ならびに御友人の方におかれましても、幸多いクリスマスと新年を迎えられんことをお祈り申しあげるとともに、偶然の気まぐれにより、私達がいつかまた平和で自由な世界のタクシーのなかで出会う日が来ることを心から待ち望んでおります。

“偶然の気まぐれにより”というところが実にいい。




これは、カート・ヴォネガット(・ジュニア)の『スローターハウス5』の始まって2ページ目にある文章だ。

もし、村上春樹ファンで、「ん?」とか「あれ?」とか「おや?」と思った人は、たぶん私と同じ点に引っかかったのだと思う。つまり、この文章とニュアンスが似ているなあ、ということ。






三人目のガール・フレンドが死んだ半月後、僕はミシュレの「魔女」を読んでいた。優れた本だ。そこにこんな一説があった。


「ローレンヌ地方のすぐれた裁判官レミーは八百の魔女を焼いたが、この『恐怖政治』について勝誇っている。彼は言う、『私の正義はあまりにあまねきため、先日捕らえられた十六名はひとが手を下すのを待たず、まず自らくびれてしまったほどである。』」(篠田浩一郎・訳)

私の正義はあまりにあまねきため、というところがなんともいえず良い。



村上春樹風の歌を聴け』講談社文庫 p.82より)




え? 全然別物だって? 

ああ、それならそれでいいんです。私はここでパクリだとかなんだとか言いたいわけではないから。

だがまあ、春樹自身が書いているのを目にしたことはないが、村上作品のヴォネガットからの影響は既に多くのところで指摘されているとおりで、まあそうなのだと思う。ただ、春樹はフィッツジェラルドカポーティ、チャンドラーの影響を受けた、と言っているのみだったが(最近は違うのかな?)。



繰り返すが、私はパクリだとかどうだとか言いたいわけではなく、というよりむしろ、「ああ、春樹はヴォネガットの文体から出発したんだなあ」と感慨深い。

昨夜読み終えた『桂枝雀のらくご案内』に書いてあったのだが、はじめは、枝雀も師匠の米朝の口調そのままを真似したそうな。「米朝になりきってしまう」のだそうだ。そのうち、いろいろな師匠のところに習いに行き、そこでまたその師匠の真似をし、そうやっていろいろな人のいろいろなところをミックスしていくうちに自分の色らしきものが出来上がってくる、とそこには書いてある。たしか小林秀雄の『本居宣長』にも「学ぶ」は「まねぶ(=真似ぶ)」から来ているという記述があったように思うが、そこらへんはあやふや。

であるからして、春樹がヴォネガットの口調を取り入れていたからって、それはまったく構わないのである。影響を受けずにはいられない文体だしね。





風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)



桂枝雀のらくご案内―枝雀と61人の仲間 (ちくま文庫)

桂枝雀のらくご案内―枝雀と61人の仲間 (ちくま文庫)



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鍋の底にクリームシチューの焦げたのがこびりついていたので、亀の子たわしでゴーシゴーシしていたら、ふと、いかりや長介の告別式のことを思い出した。

たしか、ファンが『踊る大捜査線』の役名を呼んだとかで、「和久さーん」というファンの声が多かったなんて話だったと思うが、考えてみれば変な話だよなと思ったのだ。

その伝でいけば、声優の肝付兼太が亡くなったときには、「スネオー!」とか「勉三さーん!」とファンが泣き叫ぶことになるが、やっぱりおかしいよね。やっぱり「いかりやさーん」でよかったのではないか。

と思って、一応Wikipedia にあたってみたら、こんな記述が。




出棺の際バッハ作曲のG線上のアリアの曲を流しながら、『8時だョ!全員集合』のファンは「長さーん」、「オイッスー」、『踊る大捜査線』のファンは「和久さーん」、「和久さーんお疲れ様」と涙ながらに叫んだ。無言で直立不動の最敬礼をしていた者も少なくない。

(註: 下線は引用者による)




「オイッスー」も相当おかしいが、見過ごしがちだが下線部も相当におかしい。




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私が思い出したのはこのシーン。





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宇宙の話で、Boston の曲について、さらっと書いてしまったが、ちょっと補足。

"More Than A Feeling" は、邦題を『宇宙の彼方へ』と言い、それが歌詞とあまり関係ないと書いた。

だが、どうして「宇宙の彼方へ」というタイトルになったかはなんとなくわかっていた。






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これらは、Boston のアルバムジャケットだが、なぜか宇宙(UFO)がモチーフとなっているのだ。



私は別に音楽通ではない。ただ、CD ショップで物色しているうちになんとなく覚えていたというだけだ。おそらく私はBON JOVI のあった「B」のコーナーでBoston を見ていたのだろう。Boston がどんな曲を演奏しているかなんてまったく知らなかった。知っているのはジャケットだけだった。

だから「宇宙の彼方へ」という邦題になる背景がなんとなくわかった。タネを明かせばそんなものだ。



本屋に行ってもそうだった。自分の好きな漫画を買うまでに本棚をいろいろと見回すものだから、興味のない出版社の漫画もなんとなく知っていたし、小説(文庫)にしても、あの作家は、新潮文庫ならあるけど講談社ではなかったな、とか、あの外文は、集英社だったっけ? とか。覚えようとして覚えたわけではなく、何度も何度も何度も何度も通うものだから、ぼんやりと覚えてしまうのだ。

いま、主にアマゾンなんかで物を買っている人には、そういう「余計な情報」を得ることができないだろう。いや、「得られなくて結構」と思っているだろう。必要なものは自分で検索するし、あるいはシステムが「おすすめ」を提案してくれる。だから、それ以上に必要な情報なんてない、と思っているのだろう。でも、非効率的に買い物が生みだす「おまけ」は、きっと豊かさを導いているはずだ。



私がカート・ヴォネガットという作家の本を最初に手にしたのは、図書館においてだった。外文のコーナーにあった単行本の背表紙に和田誠のあの特徴的な文字で、『ホーカス・ポーカス』とあって、それがどうしてもどうしてもどうしても気になったから、手に取ってみた。世界が開けた。

『ホーカス・ポーカス』を読了してから、そういえば、と大江健三郎がなにかのエッセイ(たしか『小説のたくらみ、知の楽しみ』)でカート・ヴォネガットという作家に触れていたことを思い出した。「中性子爆弾によって世界中の生き物だけが死滅し、あとは文明すべてが残った世界」を描いた小説がある、とそのエッセイで知ったのだが、ヴォネガットの名前は覚えられないままだった。ちなみに、私はそのエッセイで「上品(ディーセント)」という単語を知った。たしかヴォネガットをディーセントな作家、というふうに評していたのではなかったか。

……などなど。「おまけ」には、いくつもの「おまけ」がついてくる。そのうちのどれが正確で、どれが誤っているか知らない。けれども、この曖昧さや荒唐無稽さが、次の面白さを導いていく。そして、そんなことを私は既に書いていた。



つまりこれは、GoogleWikipedia の時代に、人間ができることはなにか、あるいは、人間がまだ人間であることに誇りを持てるにはどうすればよいか、という問いへのひとつの解答なのではないか。

私たち人間は無意味なものと無意味なものとをくっつけられる。だから詩を生むことができる。だから藝術を生みだすことができる。

なにかそれらしい問いがすらすらと出てくるのはそれもそのはずで、つい一週間前にそのようなヘッドラインを私はどこかのニュースで見ている。で、探してみる。……1分で見つかる。これだ。

新連載: Googleで何もかも調べられる時代に「知的」ってどういうこと?

でも私は、この記事を読まない。たぶん、私が知りたいことはここに書かれていない。こういう記事を読んで「知的」になることを企むという行為(=安直なハウツーに従う)から少しでも遠ざかること、が私にとって重要なのだ。




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昨日のラジオで「いま、宇宙がアツい」みたいな話題が取り上げられていた。

世界初の商業用宇宙港が完成して(その名も「スペースポート・アメリカ」)、そこから、近い将来、個人の宇宙旅行(ただし、旅行代金は1,500万円也)が体験できる、とか。まあ宇宙開発時代の入り口の入り口くらいにはやって来ているのかもしれない。

また、宇宙飛行士の野口さん(*追記参照)は日本人として最長宇宙滞在記録を更新したし、ちょっと前の「はやぶさ」が大盛り上がりに盛り上がってその「はやぶさ」をテーマにした映画が三本作られるし、『宇宙兄弟』も映画化される。もうちょっと細かい話だと、「少年ジャンプ」にも宇宙飛行士を目指す漫画が始まったし、少し前の日産セレナのCF にもJAXA がコラボしていた。

民間の宇宙旅行の話は別として、宇宙関連の漫画はこれまでにもいくつか作られてきたし、そこにはおそらくJAXA が絡んでいたのだろうと思う。『プラネテス』『度胸星』『ふたつのスピカ』などなど。




宇宙の彼方へ / Boston



この曲はラジオ番組でかかっていた。歌詞から「宇宙の彼方へ」は想像できないけどね。






しかしまあ、なんで「宇宙もの」ってのは切ないのかねえ。

メインテーマである宇宙という存在が、人間にとっては時間的にも空間的にも大きすぎてしまって最初から勝ち目がない(=征服し得ない)というのが底に流れているからだろうが、それにしても、感動作品が多い。

ちなみに、最近の『宇宙兄弟』は読んでいない。宇宙飛行士になってからあたりがダルくなってしまい、読もうという気にならなくなってしまった。

ところでところで、『ふたつのスピカ』をWikipedia で見ていたら、アニメ版のエンディグにBEGIN の『見上げてごらん夜の星を』が使われていたらしい。もう、この記述を見ただけで泣けた。ぴったりすぎる。ニコニコ動画のアカウントを持っている人はこちらを。

宇宙漫画の最高傑作は『スピカ』かなあ(私個人としては『プラネテス』も同じくらい好き)。




見上げてごらん夜の星を



見上げてごらん夜の星を

小さな星の 小さな光が

ささやかな幸せをうたってる



見上げてごらん夜の星を

ボクらのように名もない星が

ささやかな幸せを祈ってる



手をつなごうボクと

おいかけよう夢を

二人なら苦しくなんかないさ



見上げてごらん夜の星を

小さな星の 小さな光が

ささやかな幸せをうたってる



見上げてごらん夜の星を

ボクらのように名もない星が

ささやかな幸せを祈ってる




作詞は永六輔なのね。「せき・こえ・のどに浅田飴」。




追記


あとあとニュースを見て気づいたのだが、野口聡一さんではなくて、古川聡さんだった。訂正します。たぶん、「聡」の字で勘違いしていたのだと思う。




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タイトルは、弟に教えられた。

ツイッターでも呟いたが、柳家小三治立川談志についての「感想」が興味深かった。

全文については、「NHKかぶんブログ」の当該エントリを見てもらうこととして、私は好き勝手を書くのだが、まずこのインタビューから感じられるのは、小三治は正直だなあということ。

桂三枝がテレビでのインタビューの最中、嗚咽するまでに泣いていたが、ふたりの関係はまったく知らないのだがなんとなしに嘘臭く感じた。嘘臭いというかやけに芝居がかったというか。まあ三枝は、良い意味でも悪い意味でも、テレビが望む姿を演じられる人なのかな、と思った。でもそんなのは、天邪鬼の談志自体は鼻白むと思ったけど。



小三治は小さん門下で談志の弟弟子。でもインタビューを見るかぎりは「仲のいい兄弟弟子」ではなかったように思う。でもそれは、小三治ならではの「ひねくれ」であり「天邪鬼」であるのかもしれないし、談志がもしこのインタビューをどこかで聴いていたら、「おもしれーよ」と言いながら実際には腹を立てたり、そんなふうに、談志も小三治も、表面上で言っている言葉と腹の内があべこべであるという可能性を否定できなくて、つまり、それが両者の「ひねくれ」や「天邪鬼」の真骨頂なのだろう。

それではその真意というと、




江戸っ子は五月(さつき)の鯉の吹流し 口先ばかりで腹わたは無し




という川柳よろしく、実はなにも考えていないというところが本当なのじゃないかってところで、結局みんな「しゃれ」の内に収まってしまう、あるいは収めてしまう、というのが彼らが選択した生き方なのだと思う。



でもやっぱり、小三治は正直さをも残していて、




人間はいつか死ぬものなんだからということはこの年になれば淡々として、受け入れられますから。




という言葉はおそらく本当のところで、談志であろうと誰であろうと、誰かが死ぬことで動搖するような人生をもはや送っていないし、だからこそ「○○が死んで驚いた。悲しい」なんてことは口が裂けても言わないよ、という気概が感じられる。言い換えるとそれは、「思っていないことを『演じられる』ようなお兄(あに)ィさんとお兄ィさんのできが少ォしばかり違うよ」ってことかもしれない。それを私は「正直だなあ」と感じたのだ。



総体に、追悼のインタビューには哀悼の念を示すのが普通である。普通というのは、あまり熟慮せずに選んだ「答え」の謂いであり、最大公約数の人たちが意識下で望んでいるものでもある。文学作品でいえば、エンターテインメントの部類に入る。

そういう意味では、桂三枝の号泣は極上のエンターテインメントだ。よく演じている。演じているのが悪いのではない。それが彼らの仕事だと思うし、それをテレビ画面に写すのが、あそこに大勢集まったマスコミの仕事なのだから。

だが、小三治のインタビュー結果は、その「普通」を無視してしまっている。「誰かが死んで悲しい」という「普通」の状況を、「待てよ、おれは本当に悲しいのか」と考え、その結果「別に悲しいとは思わないけれど、それでも悲しくないわけではない」というありのままの心が見えそれを素直に述べた、というのが小三治の回答の実際かもしれない(でも単なるひねくれの可能性も否定はできない)。この姿勢は、文学作品でいえば純文学的というか、あるいは単純に哲学的というか、「『バカ』を演じる小賢しさ」をあえて選択せず、「『考える』愚か者」になることを選択したのだろう。

いづれにせよ、ひねくれ具合では兄弟子といい勝負なのである。




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突然だが、なんでfacebook の実名登録が嫌なのかってことを考えてみるに、過去に関係した人たち(別に深い意味はない)と今さらことさら知り合いになったり連絡を取り合ったり、近況を把握したりされたりしたくないよな、というのが一番強いということがわかった。

過去の人はもう過去の人であって、いくらそのとき一緒に学生仲間をやっていたとしたって、あるいは一緒に職場仲間をやっていたとしたって、現状で連絡を取り合っていないということはつまりそういうことであって、私の人生にとってその人の存在ってあまり重さを持たないよ、ということなのだ。本当のところ。

でもfacebook というツールを使ってみたりして「旧友」や「旧同僚」が次々と見つかっていくと、そういう「存在の軽さ」というのはどこかに追いやられ、実はその人がものすごく大切な人だったのではないか、という記憶のすげかえが起こり、熱に駆られたような親密さを取り戻すことになる。

その親密さがいつか本当の親密さになり、本当の友達になれればそれはそれで結構なことなのだが、そんなふうにうまく行く確率はせいぜいのところ五割という気がする。



ちょっと前に手紙の話を書いたが、あの当時、手紙に注がれていた濃度は、いまのメールのそれとは比較にならない。連絡を取り合うという意味では、メールの方が数百倍ラクだ。でも、得られるものが違う、と私は思っている。

誰かからもらったメールの内容でこれだけは消去したくない、と私が思っているものはない。その多くは朧気に記憶しているが、十八年近く保存しようと思うものは、ない。おそらく私が送った何千というメールもその程度の価値しか持たないだろう。

めったに手に入らないものだからこそ、ありがたいということがある。「ありがたい」という言葉ももともと「有り難い」という意味である。



旧友なんていうものも、長い年月によってその瑕が洗い流されてこそ光るものなのではないか。普段から目につくところにいれば、やがてすぐに没交渉になった理由に思い当たる。十何年か、あるいは二十何年かぶりに同窓会で会う、程度で充分。

なお、これらは私の場合に限っての話で、facebook を十二分に活用されている方はそれはそれでよいことだと思う。




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今日、久しぶりに本屋に行って漫画を仕入れた。




  • スマグラー
    新装版 スマグラー (アフタヌーンKC)

    新装版 スマグラー (アフタヌーンKC)

    真鍋昌平は『ウシジマくん』をずっと立ち読みしているけど、よく描いているなと思う反面、そこまで表現しなくてもいいんじゃないかっていうところもあって、手放しの賛辞は送れない。でも、この『スマグラー』は、かなり過激な暴力が描かれているんだけど、どことなく読後感がすっきりしていて好感が持てた(『ウシジマくん』でもそういう感動する話は何回かある)。アクションシーンも見づらくはあるが、ドキドキして面白い。



  • ヒストリエ 7』
    ヒストリエ(7) (アフタヌーンKC)

    ヒストリエ(7) (アフタヌーンKC)

    もうこれはかなり最初から大傑作が描かれつつあるのだということを(おそらくファンならばみんな)知っているのだが、その物語のゆったりとした進行には、嬉しいやらもどかしいやら。けれども、個々のエピソードと、特に岩明均の独特な画力の迫力は健在。どころか、ますます魅力的になっている。もう八年も連載されているんだなあ。




  • 花のズボラ飯
    花のズボラ飯

    花のズボラ飯

    今回買った漫画の中で一番「収穫!」と思った。『ヒストリエ』も『チャンネル』もつづきものだからその良さはもちろん知っていたし、真鍋昌平もそこそこ評価しているので(偉そうだけど)だいたい「予想通り」だったのだが、この漫画はマンガ大賞関連のニュースで久住昌之が原作だと知って読みたいとは思っていただけで、ここまで面白いとは思っていなかった。ともかく、主人公の花子がかわいいのである。ダジャレをつぶやいたり、鼻歌を歌ったり、変なダンスをしながら、料理を作る。しかもその料理が全然手の込んでいないもので、タイトルどおり「ズボラ飯」。そもそも部屋自体も取っ散らかったままで、生活自体がかなりズボラ。女の独り暮らし(結婚しているのだが、旦那は単身赴任でいないという設定)ってこういうものなのかなあ。でも、「そんなのがいったいどうした」ってくらいに食欲に燃える花子が純粋にかわいいし、「ちょっと片付けられない女」ってのもかわいいかなあと思えるようになった。「ちょっと」くらいまでならね。とにかく描かれる料理がおいしそう! 読んでいる間はお腹が鳴りっぱなし。


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