とはいえ、わからないでもない

2011年12月

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対馬は、日本海の西の果て、朝鮮海峡に位置し、上島(かみじま)、下島(しもじま)の二つの大島と九十あまりの小島とから成る山がちの列島である。西北は朝鮮に対し、東南は対馬海峡をへだてて壱岐ノ島に対する。上島と下島とは、近接し、北北東から南南西にむかって長く、南北七十二キロ、東西十八キロ、総面積七百三平方キロ、その大きさは、わが国の主要な島島のうち、沖縄本島佐渡ガ島および奄美大島に次ぐ。島の中央やや東寄りを山脈が縦に走り、五百メートル前後の山山が幾重にもかさなって東海岸へ急劇に傾斜している。

かつて、この島は日本第一の要塞と言われた。






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『八十日間世界一周』


今年はもうなにも読めないかなと思って積ん読タワーを覗いてみたら、買ってから一度も開けていない小説、ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』を見つけて、「あれ、読んでみるかな」と思ってページを開いたのが昨日。それから、大掃除らしきようなものの一部(家全部をしようなんて思っていません)をしつつ読んでいたら、あっという間に四百五十ページを読み終えてしまった。



この小説の面白さをいまさら、あえて、あらためて言う必要はないのだろうが、私には古典の教養というものがまるっきり欠落しているため(かといって現代の教養はあるのかと問われればそれもまるっきり欠落しているわけだが)、それこそ驚くほど新鮮だった。

一般的に言って、この小説が書かれた1872年、すなわち明治五年に既にこのような小説が完成していたのかと思うと、実に感慨深い。

秘密めいた人物、冒険、スリル、サスペンス、ロマンス、ユーモア、風俗、憎めないキャラクター、幾度も主人公たちを見舞うトラブル、幸運、どんでん返しにつぐどんでん返し……百四十年も前に書かれたものだと思って馬鹿にしているとこちらがしっぺ返しを食らうほど。読者は、文字通り最後の最後まで気を抜けない。いい意味でのハリウッド映画の基本がすべてこの小説の中に詰まっている。

そして、快哉を叫ぶという表現は、まさにこの小説の最後の部分を読んだときにふさわしい。未読の方には本当にお勧めする。





はてなブログへ、移行しません


さて。今年も残すところあとわづかとなりまして、こんなブログを読んでいるどころじゃないでしょうが、昨日の記事に書いたとおり、明日から(ということは新年から)はてなブログへ移行しようと思い、昨日からちょこちょこといじくってはいたのですはてなブログが、びっくりするほど使いづらいのでひとまず移行はやめにすることにします。



ちょこっといじくっての「はてなブログ」の感想ですが、はてなが謳う「シンプル」を通り越して、「ほとんど機能がない」というのが現状です。現状である、というのをあえて強調したいのは、そもそも「はてな」という会社が、サービスを100% の状態でリリースしないという考え方を持っていて、これからのユーザーのフィードバックを取り入れつつ、最低限の機能を次々と実装していって完成を目指すということを考えているようではあります。

ですから、ブログをこれから始める、でもなにを書いたらわかんない、という向きには、できることが少ないということからかえって取り付きやすいということがある反面、少しでもブログを書き慣れている人にとっては、「え、これもできないの?」ということがあまりにも多すぎて、あるいはシステムが完成されていないため煩瑣になりすぎて「これじゃ仕事(別に仕事じゃないんだけど)にならん」と控えてしまうということがあると思います。私の場合は後者です。

ま、焦らずにこのまま静観をつづけようと思います。期待はしていますよ。



ということで、明日からも、2012年もしばらくはこのスタイルでお付き合いを願うのでございまして、私は、来年こそは「Books and You」のタイトルに相応しい読書人生を過ごせるようにいささかの努力を(私自身に対して)祈念するものであります。

来年の皆様の読書人生にも、幸多からんことをお祈りいたします。よいお年を。



八十日間世界一周 (岩波文庫)

八十日間世界一周 (岩波文庫)





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生来の飽き性で、これがなにかの得になることはないのだろうかとときおり思い出したように考えてはみるのですが、長所短所を尋ねられて飽き性であることを長所に挙げる人はまずいないだろうと思います。

けれども、それはあまり考えないからであって、実際に深く考えてみると、飽き性は実は長所であるということがわかるはずなのですが、考えている途中に飽きてくるのでその真相に辿りつけたことは、今までありません。

けれどもそれじゃあまるでお話にならないので、飽き性である「あなた」が「これは長所だ」と思えるように、例を挙げてみようかと思います。




いろいろなものに興味を持てる


飽き性であるということは、「集中力がある」の対義語のようなものなので、なにかにコツコツと打ち込むかわりに、いろいろなものに興味が移り、つねに最新の情報をキャッチできます。ということは、この情報社会から乗り遅れることがありません。よかったね。





アイデアを次々と生み出せる


飽きっぽいということはひとつの物事に拘泥しないということなので、アイデアをどんどんと生み出すことができます。そんなあなたはきっと職場の「デキるやつ」になれるでしょう。よかったね。





「集中力のある人」にもなれる


いつかあなたは「飽きる」ことにも飽きるでしょう。そうすれば、社会的にはより好ましい「集中力のある人」になることができます。あなたはふたつの人生を体験できると言っても過言ではないのです。よかったね。





他にも……


長所は他にもあると思うけれど……考えるのに飽きた! えーい、やめやめ。





結論?


というわけで、飽き性の私は来年の1月1日からブログをはてなブログに移行しようかなんて考えています。

あ。事情をあんまりわからない人のために書いておきますが、このブログを書いている「はてなダイアリー」と、これから書こうっていう「はてなブログ」は、「はてな」という会社が提供する別のサービスです。違いはよくわかりませんが、新らしいものが好きなので(本当はそういうわけでもないけど)、そちらを試してみようかとそういう心づもりでいます。



はてなブログに未来はないという意見もないわけではないし、そもそもブログが「オワコン」(=終わっちゃったコンテンツ)だよ、みたいな意見もちらほらと聞かれますが、どうせ終わるんだったらはてなダイアリーも終わるんだから、死ぬ前にいろいろとやってみたいと思います。いや、ブログ自体が終わったって死ぬわけじゃないけど。



で、いま、少しだけはてなブログをいじくってみたのですが、シンプル過ぎて機能が物足りないところがありますが、うーんどうしよう。これからいろいろと実装されていくのでしょうか。ちと不安ではありますが、心配するのに飽きたので、とりあえずはやってみることにします。駄目だったら戻せばいいし。

こっちのブログは31日まで(ということは明日か!)つづきますよー。




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死ぬほど録り溜めて、しかも全然観ていない「日曜美術館」だが、ときどきネットブラウジングなどをしながら「アートシーン」(十五分)を観ている。その中で写真家の鬼海弘雄が紹介されていた。

どこかで聞いたことがある名前だなと思ったら、川崎の大型書店の写真のコーナーで『東京夢譚』とか『東京迷路』とかで見ていたんだ。

その彼が、ライフワークとして浅草の浅草寺で撮りつづけているのだが、その写真展が山形の美術館でやっているよ、という話だったが、その写真がものすごかった。

写真も良いのだが、キャプションというかタイトルがよい。画像がネット上に落ちていなかったのだが、「私の東北訛りに、死んだ友人を思い出し泣き出した男」というタイトルの写真があった。

それを観た瞬間、胸が詰まった。そのモノクロームの写真は、とても美しい。機会があったらぜひ観てほしい。



他の写真は、ちょっと重いが、こっちで写真が見られる。



ぺるそな

ぺるそな



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昨日、年の瀬だというのに、一時間半ほどかけて車を飛ばし(実際には渋滞にハマったが)て免許を更新しに行った。

帰りに大型書店に寄って探していた本を十分立ち読みし、「序章」を読み終えたところでレジまで持っていった。國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』である。



家に帰って来て第一章をちらと読んでみて驚いた。先日、私が「泥団子」について書いた記事とそっくりな話が載っていたからだ。

『パンセ』で有名なパスカルは、「人間は退屈に耐えられないから気晴らしをもとめる」とし、さらに、「自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる」とする。そして、たとえば退屈しのぎのためにウサギ狩りを愉しむ連中について、次のようなことを提案してみる。




(前略)

そんな狩りに興じる人たちについてパスカルはこんな意地悪なことを考える。ウサギ狩りに行く人がいたらこうしてみなさい。「ウサギ狩りに行くのかい? それなら、これやるよ」。そう言って、ウサギを手渡すのだ。

さて、どうなるだろうか?

その人はイヤな顔をするに違いない。

なぜウサギ狩りに行こうとする人は、お目当てのウサギを手に入れたというのに、イヤな顔をするのだろうか?

答えは簡単だ。ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではないからだ。

(前掲書 p.35-36  太字強調は、本文では傍点)






きちんと書いておけば、私は「泥団子の少女」がきちんと目的を知っているものとし、その目的のために、自らが泥団子を磨いているのだ、と書いた。

それに対して、上のウサギ狩りの例は、手段と目的を取り違えているとしている(=手段が目的になってしまっている)。だから、細かいところで言えば同じことを書いているとは言えない。そして、このウサギ狩りの例から、作者(國分)の論理は私とは違った結論を導き出そうとしているのかもしれない(まだ読み進めていないからわからない)。それについては、読後に感想としてまとめるとして。

しかし、それ以上に面白いことが、この第一章には書かれている。

ウサギ狩りの例で挙げれば、人の「欲望の対象」は「ウサギ」であるが、人の「欲望の原因」は「ウサギ」ではなく、「気晴らしがほしい」である。だから、ウサギ狩りに興じ(そしてウサギを手渡そうとすると嫌悪感を露わにす)る人たちのほとんどは、「欲望の原因」が「欲望の対象」ではない。

さて、パスカルは面白いこと指摘する。

ビリヤードに躍起になる人たちは、翌日、友人たちにうまくプレイできたことを自慢したいからで、それと同様に、学者たちは、今まで誰にも解けなかった代数の問題を解いたと他の学者たちに示したいがために書斎に閉じこもる。彼らは、「欲望の原因」と「欲望の対象」を取り違えている。しかし、




こうしたことを指摘することに身を粉にして入る人たちがいる。それも「そうすることによってもっと賢くなるためではなく、ただ単にこれらのことを知っているぞと示すためである。この人たちこそ、この連中のなかでもっともおろかな者である」。

(前掲書 p.40-41 太字強調は引用者による)






ここを読んでいて、私はげらげらと笑ってしまった。

なぜ「もっともおろか」なのかというと、指摘することもすなわち気晴らしの一種であるということに、指摘している本人たちが気づいていないからだという。

私が先日書いた文章を自分では気に入らなく、最後に自ら批判の文章を入れたのは、小賢しさのようなものがわれながら鼻についたからだと思う。そして、その小賢しさの背後には、上のような「指摘をすることだけで満足している者」の愚かさが私の中に感じられたのだと思う。



この本、予想に反してなかなか面白そう。

いろいろと読んでいて納得するところや反論を覚えるところが多々出てくるが、それこそがこのような本の美徳と言うべきで、知人・友人にも勧めてみて、読後感を話し合いたいものだ。



暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学




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その昔、ある男の子が、あるクリスマスの日に誰にも知られないようにそっとお願いをしたそうな。

そのお願いとは、「神様、どうか死ぬまでにデヴィッド・カッパーフィールドのマジックの種明かしを教えて下さい。ひとつでもタネをがわかるのなら、死んでもいいくらいです」というものだった。それくらいデヴィッドのマジックはすごかった。まさか彼の名を知らない人なんているとは思えないが、万が一そんな人がいるとしてちょっと例を挙げてみれば、彼は、自由の女神を消してみせたり、グランドキャニオンを飛んで渡ったり、万里の長城の壁をすり抜けたりした。

その男の子が自分の命を引き換えに願ったのは、なにもデヴィッドのマジックすべてについての種明かしではない。いくらなんでもそんなのはわがまますぎる。彼が願ったのはたったひとつ、自由の女神消失のトリックの正体だった。自分の命を引き換えにしても惜しくないくらい、一生かかってもその謎は解けないであろうと彼は思っていた……。



だが時は経ち!(「今じゃ雑誌のカヴァー」じゃなくて*1) 私はその当時の少年に耳打ちすることができる。

映像トリックだぜ、きっとな!」と。

そして当時少年が知りたくてたまらなかったネッシーの存在(「いねーよ! なんとかって人のいたずらだよ!」)やミステリーサークルの謎(「器用な人たちがやったんだよ! 今やより複雑になっているよ!」)についても、耳打ちしてやることができる。

ということで、少年はいつ死んでもおかしくない。



*1:「変わりゆく街の中で 共に育ち」というヴァージョンもある。



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本屋へ行ってコミックの売り場をさまよっていたら、「駿河城御前試合」の文字が目に入った。ま、まさか!

コミックを取り上げてみると、[作画]森秀樹、[原作]南條範夫、とある。おお、森秀樹。かつてビッグコミックで『墨攻』を描いていた人だ。

うーん、どうしようかと思ったが、装幀がよかったので1、2巻を同時購入。ちなみに装幀はこんな感じ。






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作品タイトルは「かいな」と読みます。




ね、かっこいいでしょ。特に2巻の絵は平田弘史を思わせる。平田弘史といえば、彼も「駿河城御前試合」について描いている。



感想の前に、「駿河城御前試合」について若干の説明。これは、南條範夫の書いた小説で、駿府藩主徳川忠長の前で真剣試合が行われたという設定。真剣を遣うというわけだから、つまりは殺し合いということで、これがめちゃくちゃ陰惨。この小説はもともと有名だったみたいだが、最近では山口貴由が『シグルイ』という漫画でリメイクしたのでブームになり、小説自体も絶版だったのが復刻されたほど。



で、感想なのだが、装幀以上の感激はそれほどなかった。どうしても山口の『シグルイ』のインパクトが強すぎたので、森の絵が穏やかにさえ感じる(実際は、手も足も斬られ、びゅんびゅんと飛び交うのだが)。

私は劇画を白土三平の『カムイ伝』ではじめて体験し、それ以後、いくつかの白土作品と平田作品を除いてはほとんど劇画を読んでいないのだが、この森の作品で感じたのは、劇画が今後生き残るには新たな表現方法を模索していかなければならないのではないかということ。

森の絵も平田の絵と同様、うまいという形容が失礼に当たるほどの画力で迫力も充分ある。だが、構図に充分凝っている現代漫画に見慣れた目で見れば、物足りなく感じると言えなくもない。また、人物の表情が苦しんでいるか怒っているかのどちらかで、もう少し豊かな表情も見てみたい。全体的にもったいない気がするが、おそらくあと2冊ほどで完結するだろうから、買うことになるだろう。



そうそう。スペリオールを立ち読みしていたら、西原恵理子の漫画で、リイド社さいとう・たかをゴルゴ13の作者)が作ったということを知ってちょっとびっくり。



腕~駿河城御前試合~ 1 (SPコミックス)

腕~駿河城御前試合~ 1 (SPコミックス)



腕~駿河城御前試合 2 (SPコミックス)

腕~駿河城御前試合 2 (SPコミックス)







シグルイ 1 (チャンピオンREDコミックス)

シグルイ 1 (チャンピオンREDコミックス)



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十年ほど前、NHK で『光れ! 泥団子』というドキュメンタリーがやっていた。泥団子というのは文字通り、泥で作った団子で、どういうものかはもうGoogle の画像検索で見てもらった方が早いが、磨きに磨くと本当に泥で作ったとは思えないほどきれいな「球」になる。

こう書くと私はまるでこのドキュメンタリーを全部観たかのように思えるが、実際には最後の部分の十五分くらいしか観ていない。そのわづかな時間で感じたことを書いてみたい。



ある幼稚園だか保育園で泥団子を作るのが流行していた。子どもたちはみな、一生懸命泥団子を作って、それを毎日毎日きれいに磨いていた。きれいな泥団子を作るためには、何日も何日もの時間が必要で、子どもたちはそれぞれの団子を大事に大事に扱った。それでも、ときには力を入れすぎて割ってしまうこともあり、そうなるとまた一から作り始めなければならなかった。それでも彼らは、倦まず弛まず磨いた。

最後の最後で、ナビゲーターらしき大人が「完成品」を子どもたちに見せた。みんな「わー、すごいー、きれいー」と感心する。

その中のひとりの女の子に、「これきれい?」と尋ねてみると、「うん」とうなづく。「じゃあこれ、きみのいま磨いているのと交換しない?」とその大人は提案した。この提案、実は計画的なもの。



宮本常一『忘れられた日本人』の中で漁師の話が載っていた。




(前略)

きらわれた女子(おなご)をくどくようなもので、あの手この手で、のばしたりちぢめたり、下手をしたら糸をきるけえのう。そのかわり引きあげたときのうれしさちうたら――、あったもんじゃァない。そねえなタイを一日に十枚も釣って見なされ、たいがいにゃァええ気持ちになる。晩にゃ一杯飲まにゃァならんちう気にもなりまさい。そういう時にゃァ金もうけのことなんど考えやァせん。ただ魚を釣るのがおもしろうて、世の中の人がなぜみな漁師にならぬのかと不思議でたまらんほどじゃった。


(前掲書 p.185)




この「金もうけのことなんだ考えやァせん」という状態になれるというのは実は幸福なのではないか。

たしかに金がなければ食べるものも食べられないし、寒さをしのぐ家も手に入れられない。しかし、金があればすべてが最高、とも思えない。このあいだ都市部に出たとき、大型書店の海外文学のコーナーでちらちらと立ち読みしていたときの楽しさと言ったら! あの昂揚感は読書することでしか絶対に得られない*1



「完成品」の泥団子と、「未完成」だが自作の泥団子との交換を提案された女の子は、「いらない」と首を振って、また磨き行為に戻って行った。迷うところはなかった。

それを観たとき私は驚いた。彼女は「完成品」を目指して磨きをかけているのにもかかわらず、そこへ一足飛びすることを拒否した。子どもなのに!

子どもだから、「目的」へと至る簡単なルートを拒否したのだろうか。合理性とか効率などを考えることができないから、拒否したのだろうか。

いや、きっとそうではない。子どもにだって、合理的思考というものはきちんと備わっているはずだ。だから、次のように考えるべきなのだろうと思う。すなわち、子どもの直観で、目の前に提示された「完成品」と、自分が磨くことによって得られる「完成品」は、別のものだと判断した、と。



もし私の推測が正しいのであれば、子どもは泥団子の価値の中に、「自身が磨いた」というプロセスを加えているということになる。というより、そのプロセスが含まれていない(大人が提示した)「完成品」は、彼女にとって価値のないものに映ったのだろう。

「子どもの目は純粋だからすべてのものごとを正しく判断できる」なんていうあほくさいことを考えたことはないが、その女の子の選択は、幸福とか価値観とかを考える際に、実に重要なことを示唆していると思う。

ある行動を、「価値のあるもの」としたり、「幸福を導くもの」としたりするのは、すべて自己の判断によるのだが、もしかしたら多くの人たちは(私も含めて)、その判断基準を画一化しようとしているのではないか。その画一化された判断基準というのが、簡単な例を挙げれば金だ。

たとえば、上の漁師の逸話のうち、漁師の「世の中の人がなぜみな漁師にならぬのかと不思議でたまらんほどじゃった」という言葉を読んで、「ほほう。それじゃあいっちょ漁師をやってみようかな」と考える人は、大人では少ない。熟慮の上の判断ではなく、ほぼ即決するだろう。「それでも漁師はやらないな」と。

海辺の町で育った人なら漁師の大変さを知っているかもしれない。「ありゃたいへんな仕事だよ。命がけだし、不漁のときもある。ラクじゃないよ」という見聞きしたものを基準に判断するということもあるかもしれない。けれども、即決する人たちのみながみな海辺に育ったわけではない。私も海を知らずに育ったが、「漁師はやらないな」と即決する。なぜだろうか。



手段と目的とがあって、目的ではなく手段を尊ぶことそれ自体がすばらしいことだとは思っていない。よく「プロセスこそが大事だ」という論があるが、それは時と場合とがあって、一概には断言できないものだ。目的はやはり大事だと思う。

泥団子の女の子は、目的をしっかりと見据えている。その目的とは、自分の泥団子を作るということだった。自分の泥団子を作るためには、プロセスとして「自分が磨く」という行為が必須であり、だからこそ、他人が磨いた泥団子を拒否した。「完成品」と簡単に括ってしまう見方で判断を曇らすことはなかった。

一方、漁師もやはり漁の本当の目的を知っていた。洒落や遊びで魚を獲っているわけではないということは、(貧乏だった昔ということもあり)肌身をもって知っていただろう。だが、漁の楽しさもきちんと楽しんでいる。「目的」に主眼を置くばかりに「手段」をおろそかにしたりはしなかった。きちんと自分で判断し、その上で手段を愉しんだ。ときには手段の持つ価値が目的の持つ価値を上回るということに喜びながら。



いちいちその都度にものごとを判断するというのは、億劫で面倒だ。簡単な関数に当てはめてしまった方がいろいろなものごとを処理しやすいのは事実。でも、「最近なんだか楽しくないなあ」と思っているのなら、どこかを見なおした方がよいと思う、と私は私自身に向けてこれを書いた。



……と、こういう話、本当につまらないと思うが、メモがわりに記録しておく。よくこういうつまらない話を書くことに時間をかけるなあと自分でも驚く。自分で批評もつけておくが、最後、無難なところに落ち着いてしまうところがこの文章の意味のないところ。



*1:ただしふんだんに金を持っていれば、本棚に並んである書籍を次から次へと買えるし、しかも働かないで済むから好きなだけ本を読んでいられる、というのも事実。



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テレビやラジオに耳を傾けていると、「ほっこり」という言葉をよく聴く。「ああ、でもこれってたしか誤用じゃなかったっけ?」と思って調べてみる。




広辞苑では




ほっこり

(1) あたたかなさま。ほかほか。 (2) (上方方言)ふかし芋。 (3) もてあまして疲れたさま。

広辞苑 第五版より一部省略して抜粋。







ネットでは


ネットでは「はてなキーワード」の「ほっこり」がわかりやすい。




(1)京都ことば。

基本的に「つかれた」と言う意味。肉体的より精神的疲労の場合に使われる。

例→ほっこりしたから、カフェいこか?

「つかれた」以外に行動に対する達成感も含まれ、今日はがんばったな〜という肯定的な意味になる。意味の無い疲労感は含まれない。それらはただ、しんどいとなる。




これがもともとの意味だったみたい。それが、




(3)標準語:あたたかいさま。ほっとするさま。ふかし芋。

最近定着しつつある使用例:

ほっとする。

いやされる。

落ち着く。




とあるように、変化したようだ。

ここで注目したいのは、「ふかし芋」ということで、私自身の「ほっこり」の語感は、さつまいもやかぼちゃをふかしたときの様子がふさわしいのだが、まさか「ふかし芋」そのものを指すというのは知らなかった。





「○っ○り」づくし


少し思い出話でもしよう。

日暮里で一緒に暮らしていた女の子と別れたときのことだ。彼女は東北の子でいわゆるじょっぱり。私も意地っ張りだったので、折り合いがつかなくなってしまい、「もう、これっきりにしよう」と結局喧嘩別れとなった。ざっくり見積もって三年の同棲生活だった。

がっくりきた私は、思い出のぎっしりと詰まった部屋にいたたまれなくなり、ぽっかりと空いてしまった穴を埋めるべく傷心旅行へと出かけた。



鳥取に行き、適当なところで宿をとった。部屋に入るとすぐ、「お茶請けです」といって焼き芋をたんまり持って来てくれた。おいしかったので、私は三本ほど口にした。

日が暮れ、旅情というものにどっぷりと身を任せた私は、てっちりを肴に徳利を傾けてみた。まだ年若い私がそんなことをやったって似合わないのははっきりわかっていたし、自分自身でもしっくりと来なかった。ただ、そういう気分にひたってみたかったのだ。

ふぐの身はぷりっぷりで、「うまいうまい」とぱくぱく食べていたら、出っ尻*1でっぷり、いや、ぽっちゃりとでも形容すべき仲居さんがにっこりとして、「やっぱりふぐはおいしいでしょう、どうぞゆっくり召し上がってください」とゆったりとした口調で言うものだから、「こんなにたっぷりがっつりどっさりとふぐを食えるなんて幸せです。ごっそりと身を口に含んでも、あっさりさっぱりとした風味で、全然ねっとりとしていません。シャッキリポンと舌の上で踊りますなあ」とお世辞を言っておいた。




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ヒラメだけじゃなく、フグにも使えるゾ。




すると仲居さんも、「お客さん、男っぷりがよいだけやと思てましたら、食いっぷりまでよろしいんで、すっかり惚れてしまいますわ」とお世辞返し。そのまましばらくのあいだ、おしゃべりがつづいた。



諸々の支度が済み、仲居さんが部屋を出て行ってしまうと、なんだかすっかり寂しくなってしまったので、テレビをつけてみた。相撲がやっていた。どっしりとした身体の力士が対戦していた。突っ張りのあとにがっぷり四つ、そしてうっちゃりが飛び出し、抛り投げられた力士は観客席へ。とばっちりを受けたお客さんはびっくりしたことだろう。よく見ると額がぱっくりと割れ、ワイシャツに血がべったりとついた。私は気持ち悪くなり、テレビを消した。



誰かがまた部屋に入ってきた。時刻は午後八時きっかりだった。

先ほどのずっしりがっしりとした仲居さんとは別の、ほっそりとした仲居さんが入ってきて、どっきりとした。てっきり仲居さんはひとりだけだと思っていたのに、これは嬉しい驚き、たっぷりとこの幸運を愉しもうと話しかけてみる。

「どこかでお会いしたことはありませんでした? どこかの街角でばったりと会ったような、そんな運命的な出逢いをしたような記憶があるのですが」、考えてみれば冷や汗でびっしょりになるような歯の浮くような台詞。口からでまかせのはったりだった。

「いややわあ、そんな嘘ばっかり。お客さんとは初めてですわ」ときっぱり言われたが、笑いながら手を振る様子がまんざらでもなさそうだったので、もう少しアタックしてみることにした。

「そうかなあ。あ。芸能人に似ているからかもしれない。女優さんにそっくりな方がいたような……よく言われません?」

「ほんま冗談ばかり。そんなこと言われません」

おっとりと応える口調、もっちりとしてほんの少しだけむっちりと弾力のありそうな白肌、すっきりとした顔立ちに、くっきりとした眉。私は思わずうっとりとしてしまう。むっつりと黙り込むふりをして私は思う。こんな美人とまったりとした時間を過ごせたなら、そこでぽっくりと逝ったってかまわない。

「ところで、サラダは要りませんか? ブロッコリー茹でたんがあります。お飲み物はいかがなさいます?」

「うーん、サラダはどうも……。口の中がもっさりとしそうですし。飲み物は追加しましょう。最近はマッコリに凝っていまして。あります?」

「ございます」

酔いのせいか少し口が回るようになってきた。かと思うと、急に喉の奥が鳴った。「ひくっ」。しゃっくりだった。私は構わず話をつづけようとしたが、どうにも止まらない。仕方ないので息を止めてみたら、力みすぎて私の尻から「プ」という鳴るまじき音が鳴ってしまった。

緊張の糸がふっつりと切れた。少しの間があり、私は堪えきれず大笑いをした。美人の仲居さんもつられて笑った。二人して大笑いした。大笑いするしかなかった。

やがて静寂が来て、「あのう、やっぱりお酒はもういいです。もうお膳を片付けてしまってください」と言った。彼女はこっくりとうなづき、きっちりと仕事をこなした。

「布団を敷きましょうか?」と彼女が言ったので「お願いします」と言った。

彼女がぎっちりと寝具が詰まった押し入れから布団を取り出しているあいだ、私はがっかりしていた。「もしかしたらうまくいくかもしれない」と妄想を逞しくしたぶんだけ、ぐったりするような思いだった。

これから彼女とじっくりと、しっとりとした大人の時間を過ごせるかもしれなかったのに。ひょっこりと目の前にあらわれた運命の女神にちゃっかりとお近づきになれるかもしれなかったのに。ひっそりと小声で愛をささやき、こっそりと愛を実践できたかもしれなかったのに。

彼女が「それでは」と言って部屋を出て行こうとしたので、「明日の朝、八時ちょっきりに起こしてくれるようお願いします」と声を掛けた。彼女は静かにうなづき、ふすまをぴっちりと閉めて出て行った。



私は部屋の窓ガラスにぴったりと額をつけて外を覗いてみた。風景は夜の闇にとっぷりと沈んでいた。昼間見たときは東の方に山がにょっきりと聳えているのが見えたが、それももう見えなかった。手でつかめそうなしっかりとした暗闇だった。

それから私は、まだ冷たい布団にすっぽりとくるまり、そこから顔だけをちょっこりと出した。めっきりと寒くなっていた。季節はもう冬に入ろうとしていた。



ぐっすりと眠るつもりだったが、夜中に寝汗をぐっしょりとかいて目を覚ました。悪夢にうなされたのだ。うっかり寝過ごしてしまい、慌てて飛び乗った電車が、太ったスーツ姿のサラリーマンがぎっちりと詰まった満員電車。そこに無理矢理身体を詰め込もうとしたらぎっくり腰になってしまい、汗ばんだ豊満な肉体の中にずっぷりと沈み込んでいくという、考えただけでげっそりするような夢だった。



朝の八時かっきりに、のっぺりとした顔(ただしマスカラだけはバッチリ)の仲居さんに起こされた。「朝やで、お客さん」

なんとも色気のない起こし方だが仕方ない。寝ぼけた頭で彼女に料金を尋ねた。「一泊二食つきで一万円ぽっきりです。赤字やけどしゃあないわ」

「なに言ってんの、取りすぎ取りすぎ。がっぽり儲けてるくせに」

「ほほほほほ」

朝食を済ませ、チェックアウトをした。フロントには頭をかっちりと分けた黒服の男が対応してくれた。男の後ろには額縁が飾られていて、そこには、




○○旅館が提供するもの




  • お客さまがほっとできる空間

  • お客さまが落ち着ける空間

  • お客さまが癒される空間



とあった。

「当宿はいかがでしたか? ほっこりとなされましたか?」と男が尋ねたので、私は答えてやった。

「そうかもしれない。なんせ、芋の食い過ぎだった」




*1:でっちり。文字通り、尻が出ていること。



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