とはいえ、わからないでもない

2012年01月

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すごく下世話な話になるが、RIKACO(村上里佳子)が大人用おむつ(メーカーによれば「軽い尿もれ専用品」)のTVCF に出演していたのを見て、リカコが? という軽い驚きを覚えた。

彼女の(テレビなどで拝見するところから伺える)性格なら、20代のときであれば、「あたし、絶対そんなCM 出なーい」と言っていただろうが、45歳になった今は比較的軽い気持ちで出演できたのではないかと推測する。

私は尿もれ用品やリカコのことをバカにするつもりは全然なく(リカコは好きじゃないけど)、ああ、やっぱり誰もが年をとっていくんだなあと思ったわけで、そういえば藤原紀香もいつのまにか白髪染めのCF に出演している。

こういう文章を10代の人や20代前半の人が読めば、「なんだよ、じじい/ばばあの話かよ」と思うであろうが、その人たちも20年、30年が経てば、髪が薄くなってきただの腹が出てきただの加齢臭をどうしようだの皺やシミがひどいだのをぼやくようになるはずで、しかし、そういう「年をとった人間の気持ち」というのは、実際にその年齢になってみないとわからないことが多く、現に私は「尿もれの心配なんて実際にあるのかなあ?」と件のCF を見ても実感がわかなかった。それも今のうち、というところなのだろう。

年をとっても、自然に老けていければいいなあと思う。

このあいだ、八千草薫の若いときの写真を見て、「そうなんだよなあ。八千草薫はきれいに年取っているんだよなあ」と再認識した次第。あとは吉永小百合とかね。



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生まれつきのものも多分にあると思うけど、がちゃがちゃと顔をいじった人が年を取ると必要以上に老けて見えてしまい、結構みじめなように思う。

若く美しい時代なんて、ほんの一瞬のこと。30代になれば違う地平で勝負しないと辛いんだけど、なかなかそれに気づかない人は多い。



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『暇と退屈の倫理学』を読んでいる最中なのだが、その第四章「暇と退屈の疎外論」の中で興味深い記述を見かけたので、備忘録の意味で記しておく。

人類学者マーシャル・サーリンズは現代の狩猟採集民の研究を通じて石器時代の豊かさを論証した(p. 148)ということなのだが、この狩猟採集民への理解は比較的目新しいもののように思う(たしか網野善彦は「海民大好きっ子」だから狩猟民族を高評価していたように思うが)。
狩猟採集民は、ほとんど物をもたない。道具は貸し借りする。計画的に食料を貯蔵したり生産したりもしない。なくなったら採りにいく。無計画な生活である。
(中略)
彼らはすこしも困窮していない。狩猟採集民は何ももたないから貧乏なのではなくて、むしろそれ故に自由である。「きわめて限られた物的所有物のおかげで、彼らは日々の必需品に関する心配からまったく免れており、生活を享受しているのである」。
また、彼らが未来に対する洞察力を欠き、貯蓄等の計画を知らないのは、知恵がないからではない。彼らのような生活では、単に未来を思い煩う必要がないのだ。

(p.148)

上記文章がなぜ興味深いかというと、先日聴いた落語、桂枝雀『日和ちがい』の中での、米やんと辰っつぁんの会話を連想させるのである。
「辰っつぁん……ああ、いっしょうけんめい働いてるな」
「なにぬかしてけつかんねん。『いっしょうけんめい働いてるな』て、働いた上にも働かんならん世の中やないかい」
「なんでそない……いっしょうけんめい働いてんねん?」
「『なんでそない、いっしょうけんめい働いてる』て、いまも言うたやろ、働いた上にも働かんならん世の中や」
「なんで……そない働かないかんねん?」
「『なんでそない働かないかん』て、働かな飯が喰ていかれへんやないかい」
「なんで……飯喰わんならんねん?」
「『なんで飯喰わんならん』て、喰わなんだら腹が減るやないかい」
「なんで……腹が減んねん?」
「『なんで腹が減る』て、こないしていっしょうけんめい働いてみい、腹が減るやないかい」
「なんでいっしょうけんめい働く?」
「働かな飯が喰ていけんちゅうてるやろ?」
「なんで飯喰わんならん?」
「飯喰わな腹が減るちゅうてるやないかい」
「なんで……腹が減んねん?」
「『なんで腹が減る』って、こないしていっしょうけんめい働いてたら腹が減るやないかい」
「さあ……そこや。な? そないあくせくあくせく働くさかい腹が減んねん。な? そないばたばた働きさえせなんだら腹減れへんねん。な? 腹減らなんだら飯喰わいでもええわな。飯喰わいでもよかったら、そうばたばた働かいでもええわな? ここや」
「なにをぬかしてけつかんねん、ほんまにもう!」
このやりとりは一見ばかばかしいものに見えるが、実はこの米やんの「怠け者の哲学」は、意外に正鵠を射たものなのかもしれない。

余談だが、私が聴いた『日和ちがい』は枝雀が小米から枝雀に改名した直後の録音のようで、声の出し方が少し高めのような気がする(となると『鷺とり』の声も高かったので、あれも比較的若い時分の録音だったのかもしれない)。

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いつもながらテレビで落語鑑賞というわけだが*1、十七日に放映された「平成紅梅亭」がつまらなかった。




桂佐ん吉「手水廻し」


噺自体は、私の中では桂雀々のものがスタンダードになっている。いわゆる爆笑もの。

佐ん吉の「手水廻し」はまったく面白くなかった。たしか米朝が『落語と私』の中で、落語の特異性は話者が消えることにあると書いていたが、つまり講談などに較べて、地の文(演劇的にいえば「ト書き」)をまったく挟まずに物語を進行できる。会話と会話だけで成立する、ということ。

しかし、佐ん吉の噺には、知ったかぶりをする主人と、正直だが少し頭のねじがゆるい喜助と、それにくわえて桂佐ん吉という話者が見えてしまっていた。つまり、彼自身が物語に没入していない印象を受けた。

その理由はさまざまにあろうが、一番の理由はこの物語のばかばかしさを真実に思っていない、ということがあるのではないか。

私みたいな落語のなにも知らない人間がこんなことを言うのも生意気だが、まだ若い彼は、主人と喜助の行為を「ま、お話しだからねえ」という思いで演じているのではないか。

そうではないのだ。落語の面白さは、一見荒唐無稽でくだらないようなことをいかに真実、本当のことに見せるか、ということにある。そのために話者は、観客よりも深く物語に没入し消えなければならないのだ。



とある田舎の旅館に泊まった大阪の客。朝、気分がいいので仲居に「手水(ちょうず)を廻してくれ(洗顔用の水を用意してくれ)」と頼む。

さて困ったのは仲居。「手水ってなんだ?」と主人に訊き、知らない主人は板場の喜助に命じて近くの寺の住職に「手水廻し」の意味を訊きに行かせる。

以下、うろ覚えの文字起こし。




「旦さん、ただいま戻りました」

「おう早かったな。で、わかったのか?」

「へえ。さすがですわ、あの住職。すぐにわかって『紙を用意せえ』って、へえ、これに丁寧に、絵までつけて書いてくださいました」

「ほうほう。それで?」

「待ってください、いま読み上げます……ええ、なになに。『刀の短いものを短刀(たんとう)と言い、長いものを長刀(ちょうとう)と言う。腰の痛いのを腰痛(ようつう)と言い、頭の痛いのを頭痛(ずつう)と言う。つまり、ちょうずというのは、長い頭ということ』としてあって、ほら旦さん、ここに頭の長ぁい男の絵まで書いてくださった」




けれども頭の長い者などおらんじゃろ、と訝しむ主人に、実は市兵衛という男が村にいるのだが、この男の頭の長いのなんの……とついにはその市兵衛を呼び出し、客の前で頭を廻させるというのが、前半のクライマックス。いかにもあり得ないほどのストーリー展開なのだが、話者が「あり得ない」と思ってしまってはこの噺は台無しになる。

雀々は、大汗を掻きながら市兵衛となり、その長い頭をぶんぶんと振り回す。するとどうだろうか、私には、実在するはずもなく「長い頭の持ち主」という漠として確(しか)とはわからない人物がなぜかきちんと見えてくる。これまた少し頭のねじが足りないお人好しの市兵衛が、「大阪の客人のため」に必死で頭を廻すシーンが眼前にあらわれるのだ。

そのとき、雀々という噺家はきちんと消えている。主人、喜助、市兵衛、客の四人しか見えない。



その雀々に較べれば、佐ん吉の「手水廻し」は話者の冷ややかな批判(「あり得ない」)が見えてしまい、こちらが物語に入ることはできなかった。

若い落語家をけなしても仕方がないのかもしれない。先に書いたが実際に演芸場に足を運んだことのない人間の言うことなんて、糞の役にも立たない、ということは「真面目な話」とことわった上で附記しておく。



本当は他の噺家のことも書こうと思っていたが、長くなりそうなので、別の日にあらためる。




*1:実は一度も生落語の経験がない。このあいだ「上方落語をきく会」に行こうと思ったらチケットが売り切れていた!



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今日、野菜を買うために大きめのスーパーに行った。

横浜に住んでいたときには気づかなかったけど、ここらでは「地元の野菜」みたいなコーナーが設けられていることが多くて、そこで比較的安価で新鮮な野菜を購入することができる。もしかしたら東京や横浜のスーパーにもあったのかもしれないけど。

で、その地元野菜のコーナーでなにかを買おうと思ったら、あまりにも「モノ」のクオリティが低くて買うのをやめた。そこのコーナーは地元の2軒の農家が主になってほうれん草とかチンゲン菜とか大根とか人参とかを出荷していたのだけれど、よくこんなものを売れるなという品質のものをそれなりにいい値づけをして店頭に並べていた。

農家のプロフィール(棚のところに大々的に貼ってある)には、「有機栽培」という字がひときわ大きく書かれていた。

あーなるほどー。

ほうれん草は、草丈が15cm もなかった。それをいくらかパックに入れて180円! チンゲン菜は痩せた1把で120円! 人参に至っては、中央から見事に割れたみすぼらしいものが1本120円!

これはもう、有機栽培という名前をつかった霊感商法みたいなもんだと思う。

都会なら「うわー、有機栽培だー、(よくわからないけど)ありがたいー、高くても食べよー」という人も多いかもしれないが、そういうちょっと騙されやすい人たちでも「え?」と思うくらいに、外観が貧相。簡単に言えば、しょぼすぎ。養豚所の豚でももうちょっとましな残飯をもらっているよ、ってくらいな「失敗作の野菜」に高い値段をつけて売っているという姿勢に疑問を持つ。

私が客観的にそれらの野菜を見て感じたのは、栄養を与えていないから貧相になるという実に単純なこと。

人参が割れたのには別に理由があるんだろうけど、細い理由は栄養不足。または、発育不足。早く収穫しすぎってこと。

こういうのは、近所の畑をいじくっている人たちに聞かなければまったくわからなかったことだけど、有機栽培っていっても肥料をやることを禁止しているわけではない(自然農法っていって、それすらを禁止する考えもあるけど)。肥料が不足しているということがわかれば、成分内容が保証された油粕とか鶏糞とかをやることになにも問題はない。つまり、その農家は肥料をやる手間かコストを惜しんだ失敗作を「有機栽培」の名前で正当化して売っているということ。

そういう人間が「有機栽培のやり方」を本当に遵守しているのか、という疑問は、都会の人にはなかなかわかないだろうねえ。私にはすぐに連想されることだけど。農薬の残留濃度の検査だって、きっと全量検査しているわけじゃないだろうし。

田舎の人は善良で正直、というのが私からすると幻想なんだよね。善良で正直な人は、都会にも田舎にも同程度の割合で存在するのだと思う。特に田舎に多く見られるということはない。悪人の比率もまたしかり。

私は有機栽培の実践者や、そうやって栽培された野菜の購入者のどちらも否定しない(ちゃんとやっている人がほとんどだと思うし)。でも今の状況は、消費者側を騙す論理にうまく使われているよなあというのが素直な感想。

「安全という神話に騙されていた!」なんてフレーズは去年いろいろと耳にしたけど、そういう人たちのほとんどが、「騙す方が悪い」という言葉に隠れて検証を怠っているんだと思う。いちいち検証なんてしていられないけど(そして私もそうだけど)、検証できないことについては諦めるというのもひとつの手段のような気がする。で、いざっていうときにぎゃあぎゃあ喚かない。それが品位ってもんかもね。



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結局これまた一日で読了してしまった佐々木譲『警官の紋章』。道警シリーズ三部作の完結作(スピンオフのようなシリーズ第四作も刊行されている模様)。



なにがすごいかというと、第一作『笑う警官』にあった事件が本作でやっと解決を見るというこの伏線の張り方。第一作は第一作で完結しているのだが、実際には……というのがわかるのがこの『警官の紋章』、という凝りよう。おそらく作者は第一作を書いている時点で、おぼろげながら本作までの三部作をイメージしていたのではないか。それほどの整合性がきちんとある。



佐々木譲の他の作品は読んでいないので知らないが、このシリーズの読みやすさ・テンポの良さの理由のひとつに、ストーリー展開が並行に進んでいくというところがある。主人公である佐伯を中心に描かれているのは間違いないのだが、他の刑事や、ときには犯人側の視点で進行していくので、読者は飽きることなく、それどころか読むのを止めることができない、ということなのだろう。そういう構成ひとつを考えてみても凝っているといえる。

また、このシリーズすべてに通じている「郡司事件」という道警裏金事件は、通称「稲葉事件」という実在の事件が基になっているとういことで、そのリアリティがものすごい。私は不勉強なのでこんなことがあったなんて全然知らなかったが、上記Wikipedia をざっと見てみても未解決という印象は拭えない。

さて。物語と同様、実際に道警*1には不正が横行している*2というのはわかった。それでは、物語と同様、佐伯や津久井のような自らの正義を貫き不正を暴こうとする刑事はいるのだろうか。残念ながら、物語の中でしかわれわれは溜飲を下げることができないと、私はそんな風に考えている。

なお、この稲葉事件で実際に服役した稲葉圭昭の告白本が出ているらしく、読んでみたい。



最後に。このシリーズを読んで(本筋とは関係ない部分で)女は怖いなあと感じた。どの部分が、とは書かないが、自分の知らないところでいろいろと画策して秤に掛けたりしているのだなあと思った。「あなただけ」なんていう言葉(言われたこともないが)の後ろにどれほどの企みがあるのか。騙されちゃならんね。ふとんかぶって寝よう。




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警官の紋章 (ハルキ文庫)

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参考

恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白

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*1:道警だけじゃなくて警察機構全体、ひいては官僚組織全体の話だろうけど。


*2:「していた」と思うほどナイーヴじゃない。



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たったいま、はてブ人気エントリーを読んだところで、その内容については触れないけど、「なんか正しいことを言っているんだろうけど、正しすぎて目新しさがない」という印象を持ってしまい、「というか、目新しくないことを別の言い方で書いているだけなのかも」という感想まで浮かんできて、要するに気に入らなかった。

まあ気に入らないのはいい。気に入ることの方が少ないから。

で、それではてブのコメント欄を覗くと、今のところは「概ね賛成」って感じなんだけど、ブックマークが増えれば増えるぶん、「そうかぁ?」みたいな、私からすると「待ってました!」的なコメントが出てくるのだろうと思う(自分でコメントしろよって感じだけど、ずるいからしない)。この賛否両論がつくってことが、一応いい姿なのだと思う(それでも、「はてな」はだいぶ偏っていると思うけど)。

なぜって、「面白い!」とか「私もそう思います!」ってコメントがずらーっと並ぶところって、なんか気持ち悪いでしょ。

ところが、画面の下の方まで見ていったら(私の嫌いな)facebook アカウントのコメント欄があって、それがまあ実に「お行儀の良い」コメントばかりで気持ち悪くなった。

有名人でもない限り、本人写真と実名が附記されたコメントって、なんだか気色悪い。ちょっとひねくれた見方をすると、優等生の宣伝行為にも見える。だって、ほとんどが「賛同します!」的なコメントだし。

なんかね、「ネット上に自分の顔を晒してそのうえ所属も晒して意見が言える」という、このことひとつを取ってみても、もうエリート感ぷんぷん。気持ち悪いっていうのは、つまり妬み嫉みのたぐいでまったく褒められたもんじゃないんだけど。

ネットって、一応誰にでも開かれた世界であるわけだ。そりゃ世界にはPC なんて見たこともない、触ったこともないって人もたくさんいるけど、そういうことを意図的に無視して、「誰にでも門は開かれている」ってことになっている。

オープンであるから、そこではかなりいろいろな意見を発言したり、聞くことができる。そのためには匿名であるということが重要だった。匿名であるからこそ、批判的なことが自由に書けた。ときには、緊急時に顰蹙を買うような意見も言えた。いいことばかりじゃなかったけど、悪いことばかりでもなかった(© ブルーハーツ?)、と思う。

でも、今後実名がメインになっていったらどうなるかというと、「私もそう思います!」的な意見しか聞かれないのではないかと思う。

いや、そういう「意見の多様性が損なわれる」みたいな義憤の方が世間には通用しやすいのだろうけど、それ以上に、「世間に実名を晒せない」私みたいな人たちはどうなるのかと、たいした実害も想像できないが、危惧したくなる。

もしかしたら、今後「意図的に無視される」のは、私のように匿名を選択したユーザーだったりして。



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また一日で読了してしまった。前作『笑う警官』同様、こちらも道警シリーズ。

予定通り古本で手に入れたのだが、ページを開いてなんとなしに見ていたら、もう止まらない。テンポがよいということなのだろう。



この道警シリーズ、おそらく警察内部の腐敗を暴く、という構造が面白いのだろう。この分野の小説を読んだことは少ないのだが、「警察小説」というとき、どうしても警察内部での争いを期待してしまう。すなわち、警察 vs 悪という単純な二元論ではなく、善良な警察 vs 腐敗した警察 vs 悪という三すくみが読者を興奮させるのだと思う。テレビドラマ『相棒』も、ときおり内部監察が描かれるのが人気の要因のひとつだと考えているのだがどうだろうか。



ラストはびっくりするくらいにあっさりとした幕切れで、ストーリーはスムーズに進むのだがのちのち振り返ってみると「ん?」と思うところがないわけではない。殺人の動機にいまいち納得できなかったりね。でもまあ私自身が警察内部の仕組みに詳しいわけではないし、細かいところをつぶさに検証するというよりは勢いや謎解きを愉しむ小説だと思うので、全然よしと思う。

さて。この勢いで同じく古本屋で仕入れてきた三作目『警官の紋章』も読んでみるとするか。




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警察庁から来た男 (ハルキ文庫)

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今日のできごと


今日は雪が降っていたけど、家でごろごろしすぎるのもアレだったから、LOUIS-J には接続しないで、VootEco ver2.4 に任せるままにしておいた。

最近買ったばかりのロウターニャ(カスタムバージョン)に乗っていつもの作業所に行くと、近畿中央電設のおじさんが先に来ていた。そのおじさんは、もう旋書盤を試運転してあたり一面に金屑と紙屑を撒き散らしていて、私はその掃除から始めなければいけなかったのだが、これまた買ったばかりのルーム・スウェイザー(PC でアプライアンス・ルーマーの評価を見てから市内の和電ホームで購入)を試すいい機会、と愉しみながら掃除することができた。スウェイザーの調子はすごく良かった。AR(アプライアンス・ルーマー)レビューの評価を信じてほんとに良かったと思う。

おじさんが帰った後、ちょっとバージョンが古くなってはいるものの未だ現役というサーライザーF09s の電源を入れると、ザ・ブックカバーズの往年のヒット作が流れてきて、思わず「渋い!」と唸ってしまうが、音楽に集中しすぎて作業に身が入らない。普通の人にとってはもう化石レベルのF09s だけど、私にとっては思い出が染み込みすぎていて、中のターラー(インターラーションの略称)がモーズするまでは使い倒したいと思っている。しかも、最近噂で聞いたのは、ターラーをcoliation してから、α ビットを書き込むんじゃなくγ ビットを入力すれば、サーライズ・アップするとか。となると、去年暮れに出たF11sx(お金があればほしい!)より、ウムド(ほんとに使えるモードです)が使える分、こっちの方が上位機種(ほんとは違うけどね)になるらしい。あくまでも噂みたいだけど、明日にでもトライしてみようかな、なんて思っている。





解説


なんじゃこれ? と思われた方もあるかもしれません。

上記文章に出てくる固有名詞(らしきもの)はすべて創作したものなので、「ホーム・スウェイザーってなんだろう?」と思われて当然。私にだってわかりません。

実はこれ、私がプログラマー系の人のブログを見て感じたことを、そのまま表現してみたものです。固有名詞どころか、なにをやろうとしているのか、そして実際なにができているのか、が列記されたコードからはまったくわからず、興味がなくたまたまそういう記事を見ただけなので無視すればいいだけなのですが、「まるでわからないことってまるで藝術だな」とちょっと感動し、短いながら上の文章を書いてみました。

こういう新しい固有名詞を作ると、ほとんどが似非外国語(ロウターニャとかインターラーションとか)に頼ってしまうのですが、あまりにもカタカナばかりだとすぐにばれてしまうので、そこそこに日本語っぽいものも混ぜてみました(近畿中央電設*1とか旋書盤とか和電ホームとか)。

私自身は、最初の一行が気に入っています。まったくなにがどうなっているのかわからない点で。「LOUIS-J には接続しないで、VootEco ver2.4 に任せるままにしておいた」という文章は、詩的でさえあると自負しております。




*1:最初は近畿電設にしたのですが、調べたらその名前の会社が実在したので「中央」を入れました。



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最近、(自分では撮らないんだけど)なんか参考になるような写真を見たいなあと思って、それを効率よく集めるのにずっとほったらかしにしておいたtumblr が便利なんじゃないか、と思ってちょっと触ってみたんだけど、リブログの嵐すぎて「元ネタどこにあんのよ」状態ですぐに見るのをやめた。というか、flickr 漁った方がよっぽど効率いい。



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