とはいえ、わからないでもない

2012年02月

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友人に『花のズボラ飯』を勧めて、ついでにアマゾンのレビュー欄を眺めたら思いのほか低評価が多くてびっくり。

だがだが、その内容をつらつらと読むに、作品とは全然別の次元が批判している人たちの論点になっているようで、なんというか潔癖症っていうのは、どこもかしこも清潔でないと気に入らないというのだろうか(清潔というのは、なにも物理的状況だけを表しているわけじゃないよ?)。

考え方は人それぞれだけど、物事をきっちり順序立ててこなし、すべてを整理整頓し、人間関係もきちんとわきまえている人たちって(世の中にどれほどいるのかわからないけど)、なんだか非寛容だなと思う。

非寛容さというのは人間誰しも持っている性質だと思うけど、このアマゾンで批判している連中の寛容でなくなってしまうポイントは、すべて自分がこなせている(であろう)部分であって、たとえばこの『花のズボラ飯』については、「性格がだらしない」だの「旦那さんがかわいそう」だのと、登場人物の人格否定までしていて、「あんたたちの前世にこの漫画の主人公がなにかしでかしたとでもいうのか!」っていうくらいに、厳しい。さぞかしご自分はご立派なご主婦をごなさっているのだろうと思う。

うーん、批判者の多くはおそらく主婦なのではないかな、と想像できるなあ。私の出会ってきた主婦っていうのは、みんな共働きの主婦だから考え方が世間一般的というか、ああこの人たちの考えこそが一番まとも*1だなという印象があったが、専業主婦っていうのは、かなり偏るんではないかと、ときどき話題になる某なんとか小町での発言を見ていて思う。いや、あの人たちがなにも専業主婦に限るってわけでもないと思いますがね。

あと、アマゾンの批判者たち(もう面倒だから全部チェックしていません。最初の方だけ)の中には男もきっといるだろう。汚く散らかった部屋に対して幻滅している、という論理なのかもしれないけど、それもまた……ねえ。いつまで夢を見てんだよ、と。いまだに「アイドルはトイレに行かない教」ですか、と。

私は以前、あっちのブログにも書いたが、この漫画を読んだことで、かえってこの汚らしい部屋をも好もしく思えるようになった。「汚いから、いっしょに片付けよーぜ」って言ってあげたくなる人って、世の中にはいるのだろうなと思った。

昔から、病的なまでの潔癖症というのは嫌い。その人の部屋に行って私がなにかに触れようものなら、あとでそれをウェットティッシュで拭き拭きしているっていうような。そういう人間に対しては、おまえの存在が一番汚いよ、と面と向かって言いたくなる。そういうとき(って今までにそんな経験ないけど)、私は信じられないくらいに暴力的な気分に陥る気がする。

おまけ。

「ズボラ飯」って書くとかわいいけど、「ずぼら飯」って書くと、郷土料理みたい。「岐阜特産! ずぼら飯」みたいな。



*1:仕事をして、そして多くの人たちが帰宅してから家事をこなしているから、苦労は人並み以上。



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今日は閏日ということだが、二十四節気では「雨水(うすい)」にあたるので、「増殖する俳句歳時記」で「雨水」 のキーワードで検索をかけたら以下の句が見つかった。




書道部が墨擦つてゐる雨水かな  大串 章






今朝は昨晩の雪がまだ少し残っており、足下がべちゃつく中を出かけていかなければならないときの気の重さといったら。




水雪を踏み割りし朝 七回忌





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大学生ぐらいの男女が酒を飲んでいい具合に酔っ払って、ってただそれだけを書いたような小説を読んでいるんだけど、面白くない。

面白くないのには他にもいろいろと理由があるんだけど、酒を飲んでいる状態が楽しくて仕方ないというような描写が延々とつづくところがあって、まずそれが心情的に許せないんだと思う。

世の中には、「酒を飲んでいればこの世は幸せ」というような人はたしかにいて、そういう人たちは酒を飲んでいる場にあれば、誰とでも仲良しになれる、誰といたって楽しいということになるのかもしれないが、私はそんなふうに思えない。酒をあまり飲めないせいかもしれないが、私が酒を飲んでいて楽しいという場合は、一緒に酒を飲んでいる相手が好きだからであり、この場合の酒はなにかの言い訳だったり、都合のよい道具なだけであって、なんなら酒がなくたっていい。反対に、嫌いな相手とだったら、もちろんしらふでも相手をしたくないし、酒があったって仲良くなれることもない。もしかしたら悪酔いするかもしれない。

なんだ、私は寂しい人間みたいじゃないか。



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手元にある記録を確認してみたら、1998年の9月14日に読んでいた『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』。

その当時はまったく面白くないと思っていたらしく、記録にある採点(5段階評価)では2点になっていた。当時の私の耳たぶを引き寄せて、「ばかか、おまえは!」と怒鳴りつけてやりたい。



十四年前の私は、おそらく話の流れがウェットなところに落ち着かなかったことに必要以上の苛立ちを覚えていた、ということを、この文章を書いていたらなんとなく思い出した。

そう。この物語は大筋では感傷的なところに着地しない。しかも最後の十数ページが、余計なまでの混乱を読者に催させる。ディックはまるで、美しく完成した風景画にわざとペンキで一筋の線を加え、素直な評価を拒否するひねくれた画家のようにも見える。

今の私は、かつて私が立っていた場所とはまた異なる場所に立ち、そこで、感傷というだけでは足りない、もっと大きなものを感じることができた。私はこの読後感を、満足というよりはやはり困惑という言葉で表現しなければならないが、それでも、この作品が傑作だということを今回は理解できた。

そう。特に前半部分を読んでいるあいだ、私はこの小説を、二十世紀に書かれた小説の中で最も重要な作品のひとつに数えてもいいと思うようになっていた。もちろん私は、そんな判断を下せるほどの知識と、また読書経験を持っていない。だが、この小説がもしかしたらある不当な理由によって適切に評価されていないのではないか、と感じるようになったのはたしかだ。近未来、第三次世界大戦、放射性物質に覆われた地球、火星への移住、そしてアンドロイド。これらの舞台設定は、ある種の読者を惹きつけるが、ある種の読者を遠ざける。万人が好むという設定ではないのだ。

その中でディックはなにを描こうとしたのか。それは、まぎれもなく人間である。それは、『ユービック』であってもそうだったし、『ヴァリス』であっても同様だった。



『サロン・ドット・コム』というちょっと面白いガイドがある。副題には「現代英語作家ガイド」とあり、その言葉どおり、英語圏作家の簡単なガイドブックになっている。その中にあるディック評はこうなっている。




(前略)

文学史におけるディックの位置、という難問は、今後もしばらく議論されることだろう。確かなのは、彼が過去の偉大な作家たちと共有している資質である――ディックの小説は愛を喚起する。




そう。私がこの小説を通して感じつづけたことは、愛だったのだ。




【関連記事】





アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

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【参考】

サロン・ドット・コム 現代英語作家ガイド

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近所のスーパーに行ったら、各レジのそばにでかでかと

トマトジュースはおひとりさま2本まで!

ヨーグルトR-1はおひとりさま1つまで!
の表記が。まさかこんな田舎のスーパーにまで。

こういうのだけは日本全国どこへ行っても変わりはないのね。

健康意識? 違うね。ただの流行。



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読了というほど大げさなものではないが、ムーミンの幻の第一作を読了。九十ページちょっと。



幻の、というのは、もともとはムーミンの物語の原型で1945年に出版されたのだが絶版してそのままになっていて、ムーミンシリーズ(1945-1970)が終わってから二十一年後の1991年に復刻したというやや面倒な経緯を持っている。

私はあえてシリーズに着手する前にオリジナルを知っておこうと本書から読んだのだが……絶版になるにはわけがありますよ。

まず、これを見てほしい。




f:id:todotaro:20120227002456j:image

紛うかたなきトーベ・ヤンソン




この真ん中の人、誰だと思いますか?



正解は、この人。




f:id:todotaro:20120227000948p:image

ムーミンママ






あと、結構、話が粗い。

たとえば、この話の前半にはほとんどムーミンパパは出てこない。というより、ムーミンとママとによるパパの探索譚といっていいのだが、そのパパは、ママに言わせると、




ニョロニョロがパパをだまして、つれていってしまったのよ

(文庫版 28p)




ということになっている。

ところがそのママ自身が後に、




ニョロニョロは口もきけないし耳もきこえないということを、すっかりわすれていたわ

(47p)




と言い、また同じページの地の文では




ニョロニョロはあんまりかしこくはありませんからね




と書かれている。そんなニョロニョロがどうやって、パパをだましたというのか。

結局パパは見つかり、みんなで住むための家を建てていたということがわかるのだが、けれどもなぜムーミンとママにそのことを告げずに家を出たのかはついにわからない。というより、普通に読めばこのパパ、放浪癖ありということになる。

また、パパを探している場面の描写。




ずいぶんながいこと、コウノトリは、いったりきたり、水の上を飛びまわりました。

お日さまはかたむきはじめています。

パパは見つかりそうにありません。

とつぜん、ママがさけびました。

「パパよ!」


(84p-86p)




この太字強調部分、突然すぎないか? 直前で「見つかりそうにありません」と書いてあるのにもかかわらずいきなりママがパパを見つけてしまう。こういうときは、「パパは見つかりそうにありません、誰もがそう思いかけたときでした」と書くべきだと思うのだが。



まあ、オリジナルなんてこのくらい粗っぽいものなのかもしれない。かえってシリーズ化した方に期待を持つことになった。でもシリーズ一作目はまだ手元にない。



小さなトロールと大きな洪水 (講談社文庫)

小さなトロールと大きな洪水 (講談社文庫)



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最初に断っておきますが、オチは落語ネタなんでつまらんですよ。



YouTube でランダム再生したら、



のまさかの初音ミク連チャン。



気をよくして、iTunes でランダム再生してみたら、



のまさかの「崇徳院」連チャン。



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ちょっと用があるのだかないのだかで大阪へ久しぶりに行った。ちょっと自由になる金が手元にあったので、後先考えずに本を買った。





アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))



たぶん、家の本棚を探せばあると思うのだが。



これは楽しみ。

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)



装幀がすばらしすぎる!

地を這う魚 ひでおの青春日記 (角川文庫 あ 9-3)

地を這う魚 ひでおの青春日記 (角川文庫 あ 9-3)



これは傑作! 今度詳しく。

新装版 たのしいムーミン一家 (講談社文庫)

新装版 たのしいムーミン一家 (講談社文庫)



今年はムーミンを攻略する予定。

小さなトロールと大きな洪水 (講談社文庫)

小さなトロールと大きな洪水 (講談社文庫)



これもムーミン。

乳と卵(らん) (文春文庫)

乳と卵(らん) (文春文庫)



川上未映子、ひさしぶりに読む。



もう立春は過ぎたんだけど。



こちらはまだ冬なんだけど。



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太宰『ダス・ゲマイネ』の中で、主人公である「私」(=佐野次郎*1)に紹介された東京美術学校*2の生徒、佐竹の言葉が、馬場という紹介者によって批難される部分が出てくる。




「おめえ(佐竹のこと)は会話の語尾に、ねえ、とか、よ、とかをつけなければものを言えないのか。その語尾の感嘆詞みたいなものだけは、よせ。皮膚にべとつくようでかなわんのだ」私(佐野次郎のこと)もそれは同じ思いであった。




その批難された佐竹の言葉というのが、




「あんたのことを馬場から聞きましたよ。ひどいめに遭ったものですねえ。なかなかやると思っていますよ」




であり、現代の東京言葉としてはわりと普通の話し方だったので興味深く思った。



この作品は昭和十年(1935年)に発表されたもので、今から八十年ほど前になるが、当時は「ね」とか「よ」などを語尾につけるしゃべり方は「きざったらしい」ということで、バンカラを装っている男子学生からは煙たがられていたのかもしれない。

「私」もこの馬場の批難に同調しているが、「私」はおそらく作者太宰治と同じ青森出身*3で、一方馬場の生家は、東京市外の三鷹村(!)下連雀ということになっている。

じゃあその馬場はどういうしゃべり方をしているかというと、件の批難の前後で、




「おい、この帝大生が佐野次郎左衛門さ。こいつは佐竹六郎だ。れいの画かきさ」




とか




「ちぇっ! 菊ちゃん、ビイルをおくれ。おめえの色男がかえっちゃった。佐野次郎、呑まないか。僕はつまらん奴を仲間にいれたなあ。あいつは、いそぎんちゃくだよ。あんな奴と喧嘩したら、倒立(さかだ)ちしたってこっちが負けだ。ちっとも手むかいせずに、こっちの殴った手へべっとりくっついて来る」




などと話している。当時はこういうのがバンカラなしゃべり方だったのだろうか。



私が馬場と「私」の出身地を書いたのにはわけがあって、関西の人が東京言葉をばかにするときに「ボクさぁ、それでさぁ」という「さぁ」言葉が気持ち悪いというような発言を何度か耳にしたが、「そうか?」という思いがあったからである。

言葉というのは、それを使用している地域以外では奇妙に聞こえるのは当たり前で、私からすれば大阪言葉で「やねん」が語尾につくのが珍妙に感じられて仕方がないのと同様、ツッコミだしたらキリがない。ボクさぁ、東京出身だからさぁ、大阪のもっちゃりした言葉がおかしいんだよねぇ。

佐竹がどこの出身だかは、調べるのが面倒なのでよくわからないのだが、馬場や「私」は若干のコンプレックスを感じながら佐竹の言葉に厭味を感じたのだと思う。その善し悪しは別として、言葉から劣等感を受けていたという状況が今では興味深く感じられるほどなのだ。

というのは、先日、ラジオで桑原征平が言っていたが、「今は大阪の子どもでも標準語を使いよる」ということで、それを聴いていた私は、「え? 大阪弁をちゃんと遣っているでしょ?」と思った。しかしそれにつづけて桑原が言うには、「今では子どもたちも、謝るときには『ごめんさい*4』ですが、昔なら、『すんまへん』とか『ごめんやっしゃ』などと言ったもんです」、思わずなるほどと感嘆した。たしかにアクセントは関西独特のものに変わりはないが、言葉自体は標準語になってしまっている。

私が大阪落語を好きなのは、登場人物の本当の大阪弁が聴いていて気持ちよいというのがあって、子どもの頃、笑福亭仁鶴の落語をちらと聴いて、「うわあ、テレビで漫才をやっている人たちの大阪弁って汚くて嫌いだと思っていたけど、この人のしゃべっている大阪弁はなんてきれいなんだろう」とびっくりしたことを、その桑原征平の話を聴いて思い出した。



『ダス・ゲマイネ』の中で、「私」は一度も方言を遣わない。なんと太宰治という人物も登場する(!)が、この人間も方言を遣わない。

私が思うに、一番きざったらしいのは、自分の国の言葉を隠匿して標準語をバンカラ風に振り回し、そのくせ実の東京言葉に接するとそれを批難する輩だったのではないかと思うのだがどうだろう。



相原コージの漫画(たしか『コージ苑』)にあった話。

田舎から東京にやってきた学生が、やってきた当初は電車を見て「汽車」と言ってしまい周りからバカにされていたのが、それが数年経って、やはり田舎から出て来たばかりの学生が思わず「汽車」と言ってしまったのを過剰にバカにする。その後、ひとりで猛反省するというオチだったと記憶しているのだが、「田舎」という言葉にマイナスのイメージを植え付けていったのは他ならぬ田舎出身の人間だったのではないかと、勝手に思っているところが私にはある。

これを書いていて、昔つきあっていた女の子がかなり長いあいだ「汽車」と言っていたのを懐かしく思い出した。



*1:これは渾名。


*2:のちの東京芸大


*3:作中に「東京から二百里はなれた本州の北端の山の中にある私の生家」という記述がある。


*4:たぶん、「な」にアクセントがある。



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で、一日で『ユービック』読了。「止まらない止まらない」の言葉どおりノンストップでエンディングへ。



ディックの小説の特徴として、「なにが起こっているのか完全にはわからない」というのが(私の中で)あって、この作品も、時間退行現象が主人公たちに(あるいは世界に)降りかかるのだが、その彼らのいる状態が、現実なのか、あるいは死者の世界のものなのかが判然としない。

死者の世界というものを少し説明すると、作中では、死者は完全に死んでしまう前に冷凍保存され、やがて完全な死がやってくるまで生者と交流を持てたりする。この状態を「半生(ハーフ・ライフ)」状態と呼ぶ。

だが、これらの設定をじっくり考察しても、わかったようなわからないような、結局は堂々巡りとなる。ミステリーのように、「犯人はおまえだ!」と言って解決、というわけではないからだ。一応、犯人みたいなものはわかることになっているが、それを知っても主人公を取り巻く謎の状況はいまいちはっきりしないし、ましてや最後の二ページを読んでしまえばますます読者は混乱するだろう。

Wikipedia(英語版)のUBIK の項を見ると、前妻の「解釈」が記載されてはいるものの、これは前妻の解釈であって、また、訳者あとがきにはディック自身が『ユービック』について言及したエッセイの一部が紹介されているが、これもまた作者の考えの一部の表明にすぎないのであって、これもまた、「正確な理解」への一助とはなりがたい。



いや、そもそも「正確な理解」を求めようという読み方がどこか的外れなのだ。ユービックはなんの隠喩なのか。時間退行現象がなにを意味するのか。半生とはなにか。それらは読者が思うほどには重要ではない考察である。カフカの『変身』を高校生向けにごくわかりやすく「解説」したものをわれわれが読んでも、その解説が「謎解き」に丁寧であればあるほど、われわれの中にあった『変身』から受けた面白さがどんどんと失われていくように、小説の中には、解釈があまり意味をなさないものがある。

解釈が不要ということではなく、解釈をつけることで「わかった、おしまい!」と全部を把握したつもりになってしまうことが的外れなのである。すぐれた小説はひとりの人間の人生みたいなもので、要約を拒む。



ディックの小説の登場人物たちは、なぜか皆がみな孤独を感じている。そして意外なほどに、互いが互いを重要な存在としてとらえている。

主人公のジョーはあるとき女性の急激に時間退行した死体を見つけることになるのだが、それまでに一切、その女性とのコミュニケーションが描かれなかったのにも関わらず、その死に多大なショックを受ける(この唐突さが妙にリアリティを感じさせる)。そして、その死に関して以下のような考察を巡らせる。




(前略)

しかし、あの古い理論では――プラトンは、なにかがその衰退を生きのびる、内なるなにかは滅びることがないと、考えたのではなかったか? 古代の二元論。霊魂から分離された肉体。○○*1が死ぬのといっしょに肉体は滅び、そして霊魂は――塒(ねぐら)を失った小鳥のように、どこかへ飛び去ったのか。たぶんそうだろう、と彼は思った。『チベットの死者の書』がいうがごとく、ふたたび生まれかわるために。あれは真実なんだ。たのむ、そうであってほしい。なぜなら、もしそうなら、おれたちみんなはまた再会できるからだ。ちょうど『クマのプーさん』にあるように、森のどこかでは、少年と仲よしのクマとがいつも遊んでいる……それは滅びることのない一つのカテゴリーだ、と彼は思った。われわれみんなとおなじように。われわれみんなが、いずれはプーさんと落ちあうのだ。もっとはっきりとした、もっと長持ちのする、新しい世界で。

(212p-213p)




この主人公の感じている世界や死に対する切実さが、ディックがつねに抱えつづけていたであろう切実さであり、私が特にディックに惹かれつづける理由なのだ。



そうそう。

本作は浅倉久志*2の訳になるのだが、奥付を見る限りは1978年のもののようで、ちょっと古臭さを感じる。たとえば、主人公が属するランシター合作社を「良識機関」と作中で呼ばれているのだが、これに違和感を覚えた。で、たぶん機関は"organization"だろうと思って検索をかけたら、前述したWikipedia(英語版)のサイトがヒットし、それによれば"Prudence Organization"というのが原語らしい。"prudence"には「抜け目ない」とか「思慮分別のある」という意味があるようだが、それでも「良識機関」というのは、あまりピンとこない。

そういう訳語がいくつかあって、ハヤカワ文庫は装幀を新調するのと同時に新訳版で刊行してくれればなお良かったという感想を付け加えておく。




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ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

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*1:ここには死んだ女性の名前が入るのだが、いちおう名前は消しておく。


*2:ヴォネガットの翻訳でも有名。2010年に死去していたらしい。



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