とはいえ、わからないでもない

2012年04月

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映画の予告編っていうのは、いつもすばらしくスリリングで、見れば必ず胸をドキドキさせるものです。

で、期待に胸を膨らませて本編を観てみると、悲しいことに予告編の方がよかったということは実に多い。

同じようなことは、本でもありますよ。

書店で手書きのポップが乱立していて、「今年の最大傑作!」とか店員さんは簡単に書いちゃうんだけれど、そういう大風呂敷の根拠は、店員さんの読書量や読書能力にかなり依存しているわけだから、きちんとした読書家の言うことなら当たるのだろうけど、趣味が偏っている人の宣伝文句は当てにならず、その結果がわかるのが実に読了後というのだから、なんとかならんのかねということで、私はたいていポップのついたもの(多くは新刊本)は読みません。保守的なんです。

アマゾンのレビューなんかもあまり見ないのだけれど、このあいだたまたまツイッターを流し見ていたらあるSF ファンの言葉がリツイートされていて、その内容が「これはどんなに時が経っても名作でありつづける!」みたいなツイートで、ついに昨日、本屋でその本を買ってしまった。

この本(文庫)、裏表紙のあらすじにさえ「永遠の名作」と書かれちゃっています。もうね、この言葉に何度騙されたかわからないのに、すっごく期待しちゃっています。ありもしない神棚に祀ってから読もうかと思ったのですが、とりあえず他の読書をさておいてこれにとりかかることにしました。

私の中では、SF はこうあったら嬉しいなというぼんやりとしたイメージがあります。

謎があって、近未来的装置があって、けれどもちゃんと血の通った人間がいて、ちょっとセンチメンタルで、最後にとてつもないカタルシスをくれるような、そんなイメージ。

どうか、この本がそういう本でありますように。どうか、この本がそんなイメージをさらに超えた感動を与えてくれますように。

もし面白かったら、このブログで感想でも書くことにします。

ひさしぶりに、ページを開けるのにドキドキしたのでこの記事を書きました。

……あれ? この文章も予告編?



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漫画家の土田世紀が死んだというニュースを見てびっくりした。

私の中では、『編集王』の作者であって、この『編集王』にはなんとも言えない思い出があった。

以下はかなりのうろ覚えなので不正確な話。

編集王』はもともと漫画業界で人気があった(=注目されていた)作品らしく、反対に、スピリッツ掲載時には読者アンケートの評価は非常に低かったという。私はこのことをたしか新聞記事で読んでいる。

そこでインタビューされた実際の編集者(だったと思う)は、「どんなに人気がなくても、この漫画は掲載しつづける」という強い意志を持っていて、たしかにスピリッツにはほとんどの場合、最後に掲載されていたのではなかったか。でも打ち切りはされなかった(はず*1)。

また、この作品を取り上げた「BS マンガ夜話」というテレビ番組があって、大槻ケンヂがこの作品を推していて、それをいしかわじゅんが「だけども、漫画家と編集者は対立構造にないから!」と反論していた。

大槻は、それに対してめちゃくちゃ昂奮して反撥していたが、いしかわは「いや、僕だって感動して泣いて読んでいるんだよ」と説明していて、そこに出演していた全員が「いい漫画」であることを認めていた。私はそれを観ていて、うまく説明できない感動を覚えてぐっとしていた。みんな、漫画が好きなんだなあと。漫画が好きな人間で、この漫画を読んで感動しないやつはいないのだ。

編集王』のエンディングには、「漫画の神様」が後ろ姿で出演する。めちゃくちゃネタバレになってしまうけど、その部分を書いておく。

場面は、物語の重要人物であるマンボ好塚が編集者とアパートにいるところに、「漫画の神様」が訪れる。「神様」は、好塚の執筆中の漫画を読んでから、好塚に質問をする。




「マンボさん………『第九』を知ってますか………?」

「え……ハイ、あのベートーベンの交響曲の……」

「僕の勝手な翻訳ですが………」

「…ハイ」



この地上で………

真に私のものと言える……

たったひとつのたましいを勝ち得た者は、

集い……

歓喜の歌を歌う資格がある。



「出来なかった者は泣きながら我等の集いから立ち去れ……と、なかなか手厳しい内容の歌詞です。…僕も同感です」

「先生…僕は、僕の作品にはその資格が………」

「たましいは……肉体とも感情とも別の……僕等の気付かない所にあって……試練の時にのみ、反応し、成長するものだと思います。

僕の事を競争心の強い子供じみた作家だと言う人が居ますが、互いの自己陶酔を競い合ったって何にもならない。

たましいを、下げないように…その事だけを…僕は競いたいのです……

競いましょう、マンボさん。あなたには、その資格があるのだから」

あなたにも、そして誰にでも……



「最終話 さよならの朝」より




この漫画を読むたびにこみ上げてくる感動を、他の多くの人たちにも味わってもらいたいと思う。

漫画をひとつの幻想としてとらえているきらいがあるかもしれないけれど、けれども「漫画を描くこと」の目的が、商業的あるいは恋愛的成功にあるのではなく、なにもなかった時代に子どもたちが集まって「早くめくれっちゃ」と次のページをめくることを急かした、その感動を作り上げることにあるとしたこの幻想を、私は非常に大事にしたいと思っている。

土田世紀は、『編集王』を描いて漫画史に残る作家になったと思う。だからといって死ぬのにはまだ早すぎる。その死を悼む。



*1:あの最終回は打ち切りではないと思う。



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ちゃんとやらなければいけないことがあるときに限って、「なにか書かなきゃ本能」がむくむくと沸き起こって、気づけばキーボードをかたかたとやっている。こりゃ病気だな。

ひと月ほど前ですが、mame-tanuki さんが面白い記事を書かれています。



これ、非常によく共感できますね。

私の場合、もうね、リアルでの友達がいないもんだからメールとかないわけですよ。そのくせブラウザにMail Checker*1を入れて、今か今かと待ちわびています*2。でも、だいたい来るのは数年前に買い物をしたきりの楽天からの「ポイントの有効期限が迫ってますよ」的などうにも冴えないメールばかりで、そのたびに起こるおそろしい程のがっかり感のあまり、人より余計に老けていっている今日この頃です。

だから、メール(リアル)に期待しなければどうするのかっていえば、もうネット(ヴァーチャル)に頼るしかないわけです。

これは、言うまでもなく承認欲求の問題で、ツイッターにはまっている人も、フェイスブックにはまっている人も、本質的には同じ欲求が潜んでいます。「誰かから認められたい!」、この一言に尽きます。いや、気にしない人は気にしないんでしょうけど、Wikipedia で承認欲求を調べると、




承認欲求は、主に子供や何らかのハンデを抱えている人々などの社会的弱者、劣等感に悩んでいる人間、そして情緒が不安定な精神病患者やパーソナリティ障害を持つ者に強いという傾向がある。




とあり、私もいくつかが該当するようだから、当然のごとく気になってしまうわけです。

私は去年の9月にSNS の「快感」について書きましたが、考察の詰めが甘かったと言わざるを得ません。



本当の快感を呼んでいるのは、単にメッセージを送ること(アウトプット)ではなく、それに対する他のユーザーたちのリアクションだったのです。具体的に言えば、「いいね!」だったり「リツイートする」です。

で、わが「はてな」にも、「はてなブックマーク」と「はてなスター」という二大ツール(?)があって、これがあるからこそ私は「はてな」を使っているんだな、とこの記事を書きながら気づきました。フェイスブックはやめてしまっているし、ツイッターも数人くらいしか見てくれていないから、ほとんどはてなに全面依存している状態です。

そして、このはてなユーザーのアクションが、はてなのヘッダーに「あなたへのお知らせ」という形で表示される、これがヤバイ*3(=中毒になる)ということをmame-tanuki さんが書かれています。

これ、おそらくフェイスブックなんかにも同じような仕組(=「あなたへのお知らせ」として更新通知があること)があって、なにも「はてなじゃなくちゃダメなんだ」というわけではないのですが、はてなにははてなのカルチャーというものがあって、私はユーザーとしてまだ全然日が浅いから詳しくはわからないのですが、でもまあ嫌いじゃないな、なんて思っています。

ですからね、はてながこれからやることは、はてなユーザーをとにもかくにも増やすってことです。はてな色は薄まってしまうかもしれませんが、どんな手を使ってもはてなアカウントを作らせるべきなのです。

「はてなOne」とか「はてなアルバム」とかって、ただでさえ少ないはてなユーザーのサークルを作ろうとしてどうしようっていうのか(そりゃ、熱心なファンには嬉しいことかもしれないけど)。そんなのは『ガロ』の同好会を作るようなものです。そうじゃなくて、『ジャンプ』の部活(同好会じゃなくて)を作るべきなんです。

で、ひとりでも多く承認してくれ、と。この「社会的弱者」で「劣等感に悩んでい」て「情緒が不安定な」私を救ってくれ、と。

そんなことを考えていました。



*1:メールが来るとリアルタイムで「チロリロリーン」って教えてくれるやつ。昔でいうところの「You Got a Mail」ってやつ。


*2:この感覚は、元旦の年賀状を待っているのと同じです。


*3:ふだんは絶対に遣わない「ヤバイ」ですが、最近ちょっとニュースになったので。



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私の直接の知り合いでこのブログを読んでいるのはおそらくふたりで、ひとりは東京にいる先輩で、もうひとりは横浜にいる弟。たぶんこれは誤っていないだろうという認識にもとづいてこの記事を書くけど、だからといってなんか知られちゃまずいことを書くってわけじゃないので、別にどきどきしながら読む必要はないです。

とある人からメールをいただいたのだが、それがすごく丁寧できれいな言葉でととのえられていた。でもその反面、内容ははたしてほんとうなのかなという思いがよぎった。

最近はずっと意地悪な感情ですごしてきたから、意地悪な見方や考え方がしみついてしまっていて、なんだか懐疑的になっている。でも、その文面に何度か目を通しているうちに、その美辞麗句にはそれなりの思いやりが込められていることがなんとなくわかってきた。

優しいふりは、おそらく優しさがなせる業で、そういえばバンプオブチキンもそんなことを歌っている。




優しさの真似事は優しさ

出会えたら 迷わないように

(『透明飛行船』 / BUMP OF CHICKEN




自分の気持ちに正直に、というのは一種の子どもの論理なのかもしれない。

みんなが、優しいふりでもいいから心配りのあるやりとりをして、優しい社会を意識的に作りあげているんだと思ったら、ちょっと優しい気持ちになれた。



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ミギーが新一に言った言葉を信じるのであれば、私はヒマで、それこそが私の取り柄のようだ。

ばかみたいにブログを連チャンで書いても、たぶんいいことだと自分で考えるようにする。

で、これもまあ思いつきなんだけど、今週のジャンプの『めだかボックス』で、安心院さんが1京のスキルの中から600のスキルを使って敵を瞬殺する、というシーンが描かれた。詳細は以下のサイトを当たってみてほしい。



上記サイトでも絶讃の嵐なのだが、『めだか』を知らないために意味がわからない人は仕方ないとして、これを普段から読んでいて、「なにこれ、たいしたことないじゃん」と簡単に言い放てる人間とは、生涯友達にはなれないと思う。たぶん、そいつがたいしたことない。

これを読んでいて私が思い出したのは高橋源一郎の「功罪」の「罪」の部分で、「表現しないことによって表現する」ということがあまりにも氾濫しているということだった。

高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』の「第二部 詩の学校」の「II おかえりなさい」の「1」において、こんな話がある。

主人公の「わたし」がいる「詩の学校」におばあさんがやってくる。彼女は鳥籠に入った「あばれどくとかげ(ヒーラ・モンスター) 」の格好を言葉であらわしたいと願っていた。

けれどもその「あばれどくとかげ」はどのように言葉で言い表そうとしても、その書いた言葉とはまったく違う姿に形を変えてしまう。「わたし」もおばあさんも途方に暮れてしまう。




「無理なのでしょうか?」とおばあさんは言った。

詩とは無力なものなのか?

わたしはおばあさんにそっと耳うちした。

おばあさんは立ち上がると、黒板の前に行き、チョークをつかんだ。

わたしは黙っていた。

おばあさんは考えていた。

「あばれどくとかげ」は静止していた。

おばあさんは黒板にはっきりとした字で、ていねいに書いた。そして書き終わると、鳥籠を見た。「あばれどくとかげ」は、おばあさんが黒板に書いたものになっていた。

「まあ、すてき」

おばあさんはチョークを置くと、興奮して熱くなった唇で、わたしの額にキスしてくれた。

わたしはおばあさんが帰った後、おばあさんが黒板に残した詩をながめていた。

おばあさんがどんな詩を書いたのか、きっとあなたたちも興味があるだろう。でも、それをあなたたちに伝えることはできない。

それをあなたたちに理解できることばに翻訳することはわたしにはできない。

そんなことはだれにもできない。



(下線部は引用者による: 講談社文芸文庫 154p-155p)




上記下線部は、いま読んでも巧みな文章だと思う。昔は単純に美しい文章だと思っていたが、今では美しさも感じられると同時に、「うまさ」も感じられるようになった。「うまさ」というのは、表現しないことによって表現してしまうテクニックのことを言っている。

あるいは、こんな例がわかりやすいかもしれない。

(ネットでよく使われるネタだが)漫画で、主人公が苦労に苦労を重ねて強敵を倒すと、そこに新しい敵キャラがやってきて「ふっふっふっ、あいつは四天王の中でも最弱の男……」と発言し、その発言内容で、相対的に他の四天王の強さをあらわす、というやり方。

高橋源一郎自身には、(少なくとも『さようなら、ギャングたち』執筆時点では)そういうずるいやり方を意識してはいなかったと思うが、残念ながらこの表現方法は、またたく間に広がった。

もしかしたらこのやり方は、高橋源一郎が嚆矢ではないのかもしれない。ブローティガンだとかリルケだとか、『ギャング』に影響を与えた作家たちがすでに似たようなことをその作品でやっているのかもしれない(ブローティガンならありうる)。

ともかく、強さや美しさやせつなさや悲しさや嬉しさなどを描く方法は簡単になっていた。まともに描くことを避ければよいのだから。そんなやり方がずっとつづいていた。ずっと長いあいだ。

で、この西尾維新がやったことに戻る。

西尾維新がやったことは、「表現することによって表現する」というしごく真っ当なことだった。真っ当すぎて誰もが敬遠することだった。おそらく西尾は「だからやってみた」と言うに違いない。

「600のスキル(≒必殺技)がある」として、実際にそのスキルに名前をつけて紙面に載せるというのは、上野顕太郎が「5万人の客がいる」というアイデアを実行に移したことと、本質的には一緒だ。



この行為に拍手を送らずしてなんとする。バクマンの最終回? どうでもいいんです、そんなこたぁ。



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たいしたことじゃないんだけど。

今月のFM802ヘビーローテーションがHeavenstamp の『Decadance』という曲。



悪い曲じゃないです。というか、いいなあと思った。

だけども、どこかサビが聴いたことがあるような気がしていて、それをずっと思い出そうとしていた。

で、さっきやっとわかった。

Jamiroquai の『Canned Heat(Album Version)』に似ている部分があるのだ。



上の動画で、3:26あたりからのメロディと、おそらくコード進行が似ているのではないかと思う。

いや、別にパクリとかいうわけではない。

Heavenstamp の人たちもたぶん若いと思うし、ジャミロクワイなんて知らないかもしれない。ましてやアルバム・ヴァージョンなんて*1

それより、ジャミロクワイのデビュー当時から好きだったのに、一昨年だったか日清のくだらねえCF*2 に出て、一気に嫌いになったことをなんとなく思い出した。



*1:シングル・ヴァージョンというか、オフィシャルのPV では、ここの部分はない。


*2:あのCF のシリーズ、本当に大嫌いだった。



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どうでもいいことを急に思い出したんだけど、「3年B組金八先生」の第5シリーズ*1で、なにかの問題が勃発してそれを金八が解決しようとしてクラス全体に協力を求め、生徒の多くが泣きながらそれに応えようとしていた場面のこと。

たしかヨシタカというガリ勉生徒が、ひとりその集団号泣に加わらずに参考書を開いて勉強していた。それをクラスのみんなが泣きながら批難して、金八も批難することを止めはしない。で、結局そのヨシタカは「僕だって怖かったんだよ!」みたいな台詞で、そのガリ勉的「我が道を往く」スタイルを崩すことになるんだけど、観ている当時は、その態度を「正しいもの」だと感じていたが、いま考えてみれば、ヨシタカを批難するクラスの態度というのは問題だよな、と感じた*2

金八は、基本的には問題児がクラスにあって、それを教師(=金八)が処していくうちにだんだんとクラスが団結していくという「教育スタイル」を旨としているのだが、私はそれについては反対意見を持っているし、武富健治鈴木先生』でも、鈴木先生がまったく反対のやり方でクラス運営をしていくことを考えている*3

私が反対するのは、問題児の問題は、クラスで解決するのではなくて、教師とその問題児当人、それに問題児の家庭で解決すべきなのではないか、と思うようになったから。「クラスのみんな」ができることなんて、実際は少ない。

「みんな」でなにかをしよう、「みんな」でやればなんでもできる、など、「みんな」を主語にすることが私は嫌いで、たとえば、もし中学生とか高校生の誰かをクラスメートが救うことができるのであれば、それは個人の誰か(たとえば、友人。たとえば、恋人)であるはずで、「みんな」ではない。「みんな」というのは、実際無力だ。

けれども、熱意に燃える教師ほど、「みんな」が好きだ。そして、「みんな」でなにごとかを成そうとする。最近では、こんなニュースがあって話題になった。



このニュースの伝えるところは、美点だけを取り上げれば、高校のあるクラスが1年間無欠席という記録を達成したという話。悪い点だけ取り上げれば、その記録を作るために(見ようによっては)かなりの圧力をかけて欠席者を出させなかった、という話。40度近い熱を出しても、クラスメートがメールやら電話やらで「励まし」なのか「脅迫」なのかわからないメッセージを送った、なんてことが議論を呼んだ。形は違うが、同調圧力みたいなことか。

話が変わるようで、ちょっと似たような話。

先週の「少年チャンピオン」の『空が灰色だから』で、ある熱血教師が、ある物静かな生徒のことを勝手にいじめられていると解釈してしまい、その彼を「救う」ためにいろいろと画策するのだが、それがかえって裏目に出てしまうというエピソードがあった。「積極的差別*4」が差別を生んでしまう好例だと思うが、教師の方も悪意がないぶん、話は複雑になる。

この漫画はギャグというか、「とほほ……」というところで、わざと落としている(=オチをつけている)が、本当はもう少し掘り下げられる問題*5

このいじめに遭っていると思われている男の子は、現時点ではいじめに遭ってはいないが、今後いじめられる可能性は秘めているという点では教師も間違ってはいない。漫画の中では、男の子は男の子なりのポジションでクラスに溶け込んでいるのに、そのデリケートな立ち位置を教師が「救う」と称して破壊してしまう、という点がこの話の「とほほ感」を作っているのだが、問題の根源は、教師の「空気の読めなさ」ではなく、教室における「空気そのものの醸成」にある。

KY という言葉が流行語になったとき、あれは単なる流行語ではなくて、「ある組織や集団における各構成要素の役割分担は堅持されなければいけない」という一種の強迫観念が非常に視覚化された瞬間だったように考えている。

「ユリイカ」の『鈴木先生』特集において、精神科医の斎藤環がその評論で、実際の教育現場(=クラス)でそれぞれの生徒たちが「キャラ」を演じているということに言及していたように記憶しているが、それはなにも若い人間に限ったことではない。そのキャラの役割や関係性を若い人たちは「空気」と呼んでいるのであって、これが社会人になれば、「チームワーク」などと名称が変わるだけのことだ。

で、件の男子生徒は、いじめられる直前の「いじられ気味のキャラ」という立ち位置を必死で固守しているように私には見えて、それはおそらく男子生徒自身も意識していないだろうことだが、その位置からの転落だけは絶対に避けたいがために目立たないようにしている。そこを教師が突っついたものだから騒動が起きた、という仕組みである。

このエピソードは、教室という小さな社会の中で個人が個人のままではどうしてもやっていけないということを暗に示している。これは、「クラス」という不気味な集団が「1年間無欠席」という個人にとってはなんの意味を持たないタイトルを目的として、その結果、個人を縛りつけるのと、根本では同じ問題を有している。また、金八でのヨシタカへの圧迫も同様だ。

あほらしいという一言で片付けてしまうには、難しい問題だと思う。私個人はそういう縛りがいやなものだから人のいないところへ引っ越してきたつもりだったが、そこでも当然に「社会」というものはある。

それならば、と孤高を守るために意地を通せばやっぱり窮屈なわけで、とかくに人の世は住みにくい。私の中で、うまいこと「詩が生まれて、画が出来」ればいささかの慰めになるのだが。



*1:私は勝手に「健次郎シリーズ」と呼んでいるが、一般的に言えば「亀梨シリーズ」なのかもしれない。


*2:設定では、ヨシタカもなにかの事件に「傍観して止めることがなかった」という形で加担していたということで批難されていたのだと思う。


*3:鈴木先生は、「優秀な子(たとえば小川蘇美)をクラスの原動力にする」という考えを持っている。


*4:私も詳しくわからずに使っています。詳細はWikipedia を。


*5:掘り下げないのが、この漫画のいいところでもあり、限界でもあるのだろう。そのことを私はあまり評価しない。



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たまに晴れたりもすれば、暇を持て余している私のこと、身体を動かして少し退屈しのぎをしている気分に浸りたくて車で遠くに出かけた。

以前、ちらと見かけたとあるスポーツのジムの門を叩き、私のほかはひとりしかいない、そのとあるスポーツを楽しんだ。

身体はひどい凝り固まりようで、思ったようには動かず、すぐに肩で息なんかをしたりして、なんだか、「スポーツを楽しむ週末」を体現しているようだった。

背中から、ときおり店のスタッフの声がかかる。「だいじょうぶですか、休憩しながらしたほうがいいですよ」

その言葉の意味は、「ひとりで寂しくありませんか? 退屈していませんか? もしなにかあれば、僕に話してくださいね。あなたを退屈させないようにしますよ」だ。悪いが、そんなふうに気を遣われるのは面倒で、いっそ無視してくれればいいと思う。私に妙なサービス精神は不要だし、私はひとりで大丈夫だ。というより、ひとりが好きなんだ。

世に「おひとりさま」という言葉があって、私も男だけど、その「おひとりさま」の一員のように映ったのかもしれない。そのスタッフは知らないようだったが、本当の「おひとりさま」は一人で自足しているのだ。一人を大切にしているのだ。だから、取って付けたような声がけはいらないんだ。

その日は、スタッフと常連さんとでバーベキューがあるということで、ジムは途中から貸切になるということを聞いていた。

たしかに、途中から、私服姿の若い男女が「こんちわーっす」という明るい様子で訪れてきて、どんどんとその数を増やしていく。みんな、何年かにわたる関係性と共通の話題をもって、楽しそうに話していた。

私は、彼らをいっさい見なかった。本当に興味がなかった。彼らに興味がないという自分の心理については、ちょっと興味があったが、おそらくそれは嫉妬の部類ではなかった。私は、本当はひとりっきりで、ずっとそのスポーツに埋没していたかった。身体を動かしているあいだ、自分の息しか聞こえないような、そんな状況を望ましく思っていた。

やがて、私は手を怪我した。ヤワになっていた指の皮がベロっと剥けただけだった。絆創膏が欲しかったが、スタッフに言って大袈裟に処置されてもいやだったので、そのまま黙って、借りていた装備(靴やら)を返却し、ひとつ挨拶だけをして帰ることにした。

私が出入口を通り抜けるとき、集まっていた若い男女はとても親切な雰囲気をもって、私の後ろ姿を見守っていたと思う。そういう損得なしの優しさを、若い人たちは持っていることが多い。

「もしかしたら、寂しい思いをさせてしまったのではないか」と彼らのうちの何人かは考えたかもしれない。その心配を、また他の誰かが打ち消す。「そんなことないよ。たぶん、身体を動かすのに一所懸命みたいだったから」

彼らのなかでは、私はかわいそうな人になっているかもしれない。あるいは、無口な人になっているのかもしれない。どっちにせよ、幸せな人とは思ってもらえない。ところが、私はなにより幸せだったのだ。

私は大勢のなかで、ひとり壁に向かって、身体を動かしていた。黙って。それが、そのとき私のやりたかった唯一のことだった。幸せでないわけがない。

途中、車のなかで何度も眠りそうになりながら、私は帰路をたどった。頭の中では、うぐいすについて俳句が詠めないか、ということがぐるぐる回っていた。

うぐいすの声を聞けば、人間はつい長閑に感じられてしまうが、うぐいす自体は、長閑だから啼いているのではない。そういう句を詠みたかった。理屈っぽいね、と私の中で批評があった。



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