とはいえ、わからないでもない

2012年05月

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反撃(はんげき)の準備はできた。ほんとうは漢籍(かんせき)を素読でもして閑寂(かんせき)な日常を過ごしたいのだが、岸壁(がんぺき)から下を覗きこむのような恐怖にさらされ胆石(たんせき)ができるくらいにストレスを感じる毎日、そんな日々の間隙(かんげき)を縫って今日おれは大阪へ出かけて野田秀樹の『THE BEE』を観劇(かんげき)する予定。もちろん会場は満席(まんせき)で、公演が始まる前のがやがやと人がざわめいているあの時間におれは感激(かんげき)することだろう。電車に乗る時間は長いが、だいじょうぶ、枝雀の落語でも聴いて時間をつぶす。「何席(なんせき)くらい聴くの?」って三席(さんせき)くらいか。『延陽伯』でやもめがかんてきで茶を沸かしながら妄想するところが大好きで、癇癖(かんぺき)で『もののけ姫』のサン的に人間嫌いなおれも、そういうときだけは機嫌がいい。舞台の方はなんたってキャストがいい。端的(たんてき)に言ってコンドルズの近藤良平の芝居は見たことないけど、観たことある人からは「素敵やん」て聞いてるし、宮沢りえは、線が細いのに演技はしっかりしている感じで渡辺謙の娘の杏的、「しんぱーいないからねー」と思わずKAN 的な鼻歌が漏れるほど。池田成志の独特な演技なんて気が狂うほどに好きで、もちろん脚本・演出の野田には昔から耽溺(たんでき)していて、問題が山積(さんせき)だという状態でもわざわざ大阪へでかけるのもその斬撃(ざんげき)を食らわせるような衝撃的な演技を観たいがため。遅刻してやってきたウルトラマン、「敵もういないよ」状態の遅刻をしないように電車の乗り過ごしには注意するつもりだが、なにせまったく土地勘のないところだが会場に辿りつけないという惨劇(さんげき)も容易に想像される。それにくわえておれの方向感覚は、「バーロー」のコナンが工藤新一だってことに長年気づいていない毛利蘭的に鈍いもんだから、ちょっと気をつけて大阪見物をするつもり。よし、プランはこれで完璧(かんぺき)





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ひさびさに『カーネーション』の話。

鶴瓶の息子(糸子の旦那)と周防さん(糸子の不倫?相手)、同じような演技力で同じような出演時間だったのに、周防さんの方がやっぱり印象がよい。

他局で出演していても、「お、周防さんだ」と思わず見てしまう。

一方、鶴瓶の息子は麺つゆのCF で鶴瓶と出演しているのを見て「あ、駿河ってことはもしかしたら親子か!」とやっと気づいた次第で、それでも「ふうん」で終わってしまう。

なんか、役柄ひとつで(要因は役柄だけではないんだろうけど)いろいろと損しているなあ。



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あの例の渦中にある女子大生のような元女子大生のような方について、二十数歳の女の子に対する仕打ちとしてはちょっとひどいんじゃないのと個人的には思っているが、このちょっと同情的になってしまう感情こそ、漱石『三四郎』に書かれた「pity is akin to love」、つまり「可哀想だた惚れたつて事よ」というわけで、この感情を弄ばれたと感じ怒り狂っている男たちは顔から出た火を用いて火矢を放ち、「こんな女に簡単に騙されるなんて!」と呆れ果てる女たちは挙句生まれた嫉妬の炎で火縄銃に着火、長篠の合戦もかくやというほどの一斉射撃に及んでいるのだろうが、私はそれらの盛り上がっている様にはすでに食傷気味なので、早くみなさん忘れ去ってやってください。

ところで、こういう場面で「世間の厳しさを知らない」という批判がよく出てきて、これは若い人、特に学生に向けられるものとしては王道のけなし文句なのだが、よくよく考えてみると「世間の厳しさ」ってなんだろうって話。

まず、あの女の人より年下の人はこういう批判はしないだろうと思う。いかなませた中学生でも、「世間の厳しさを知らないよ、ねーちゃんは!」とは言わない。

ということは、やっぱり年上からのアドバイスのようなものとして用いられるのだろうが、それでも年上ならばみながみな「世間の厳しさ」を知っているのかというと、どうなんだろう。

高い給与を支払ってくれる企業に勤め、理解のある配偶者がいて子どもにも恵まれ、家族全員が無病息災、会社での仕事も順調で、出世も確約されているという人(男女問わず)は、「世間の厳しさ」を知っているのか。それとも、知らないのか。

あるいは、高校中退、地元の企業に勤めたが数年後リストラに。二十歳で結婚した相手は一年で子どもを連れて家を出ていき、養育費を捻出するために日々ハローワーク通い。仕方なく帰った実家では両親との諍いが絶えず、最近行った健康診断では内臓に異常が見られるので再検査に呼ばれているという人(男女問わず)は、「世間の厳しさ」を知っているのか。それとも、知らないのか。

極端な例を出したけど、もし後者だけが知っていて前者は知らないというのが「世間の厳しさ」なのであれば、それはきっと幻想みたいなもので実体がない。

もし苦労や不幸が「世間の厳しさ」を構成する重要な要素なのであれば、誰がその発言資格があるのかということになってくる。そうなると、苦労自慢や不幸自慢コンテストを開いて資格基準を決定しなければならない。

……それは、なんか違う気がするんだ。

この「世間の厳しさ」というのはいわゆる「世間知」みたいなことだ、という考え方もあるだろう。若い人には当然そんなものは備わっていないだろうと仮定した上で年上の人間が、その欠如を指摘できる。それが世間知、世間の厳しさだよ、という人もいるかもしれないが、そうなると「若い人ってどういう基準で選ばれるの?」って話になってくる。

私は今年35だが、25歳の人と話すときはおっさんになるが、60歳の人と話すときは息子扱いされる。還暦といえば定年退職の年齢だが、85歳のじいさんから見ると、「まだ若くていいな」ということになる。その85のじいさんも、隣に住んでいる95のじいさんからすれば、「ようやっとるわ、元気なんやな」ということになる。

じゃあ、95歳男性がチャンピオンで決定? ……うーん、これも、なんか違うね。

やっぱり、「世間の厳しさ」なんてのは幻想なのではないかと私は思う。昔から年寄り(年上)は、「いまどきの若いもんは……」と言いたいわけでありますが、その人たちも若いときは、「くそー、ジジ/ババどもめー」と思っていたこともあったはず。「自分より年下はつねに愚か」という考え方をするようになったら、それはあなたの「老化」の始まりのサインなのかもしれない。

……というふうにそれらしくまとめて、自分はまだまだ若い気分に浸っていようってつもりで書いた記事でした。



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YouTube古今亭志ん朝の『愛宕山』に「東京の落語は笑うところが少なくて退屈」という内容のコメントがあった*1

ああ、違うんだよなと思ったので、そのことを書いてみる。




千早振る神無月ももはやあと二日の余波(なごり)となッた二十八日の午後三時ごろに、神田見附の内より、と渡る蟻、散る蜘蛛の子とうようよぞよぞよ沸き出でて来るのは、いずれも顋(おとがい)を気にしたもう方々。しかしつらつら見てとくと点検すると、これにも種々(さまざま)種類のあるもので、まず髭から書き立てれば、口髭、頬髯(ほおひげ)、顋(あご)の鬚(ひげ)、やけに興起(おや)したナポレオン髭に、狆(ちん)の口めいたビスマルク髭、そのほか矮鶏(ちゃぼ)髭、貉(むじな)髭、ありやなしやの幻の髭、濃くも淡(うす)くもいろいろに生(は)え分かる。髭に続いて差(ちが)いのあるのは服飾(みなり)。白木屋仕込みの黒物(くろいもの)ずくめにはフランス皮の靴の配偶(めおと)はありうち、これを召す方様(かたさま)の鼻毛は延びて蜻蛉(とんぼ)をも釣るべしという。これより降っては、背皺(せじわ)よると枕詞の付く「スコッチ」の背広にゴリゴリするほどの牛の毛皮靴、そこで踵(かかと)にお飾りを絶やさぬ所から泥に尾をひく亀甲(かめのこ)ズボン、いずれも釣るしんぼうの苦患(くげん)を今に脱せぬ貌(かお)つき、デモ持ち主は得意なもので、髭あり服ありわれまたなにをかもとめんとすました顔色(がんしょく)で、火をくれた木頭(もくず)とそっくりかえッてお帰りあそばす、イヤおうらやましいことだ。その後より続いて出ておいでなさるはいずれも胡麻塩(ごましお)頭、弓と曲げても張りの弱い腰に無残や空(から)弁当をぶらさげてヨタヨタものでお帰りなさる。さては老朽してもさすがはまだ職に堪えるものか、しかし日本服でも勤められる手軽なお身の上、さりとはまたお気の毒な。




上に引用したのは二葉亭四迷の『浮雲』(岩波文庫)の冒頭だ。




浮雲 (岩波文庫)

浮雲 (岩波文庫)




浮雲』は日本で最初の言文一致で書かれた小説であり、二葉亭長谷川辰之助は、そのアイデアを三遊亭圓朝の速記本から採ったと言われている。

だから、というわけでもあるまいが、上の文章はやや講談調で、音読しても心地よい響きがある。

この「響き」を愉しむということをしなければ、この文章は、ただの意味のない文字の羅列ということになってしまうが、はたしてそんなこと(=意味のない文字の羅列ということ)があるだろうか。

同様にして、志ん朝の落語(『愛宕山』に限ったことではない)にも一種の響きがある。いや、志ん朝だけではなく、東京の噺家、ひいては上方の噺家たちにも、その響きはある。落語というものが伝統芸能に属するのは、単に起源が古いということだけではなく、そこにかつての文化やら風習やら言葉やらが残っているからであり、それまでを愉しむのが落語の鑑賞の仕方なのだ。それが唯一の仕方だとは言わないけれど。



……というところまでをひと月以上前に書いてあって、改めて読み返してみたら、自分の文章ながらちょっと違うと思った。違和感のあることを言っているから、やや強引なところがある。本当はあまりそんなことを思っていないな、ということを今は素直に思う。伝統芸能だとか、そんなことを私は大事に思っていない。

「響き」はたしかにある。そこまでは私の率直な感想だ。私は以下のようにつづけたかったが、引用が面倒なので放っておいた。

桂枝雀に『八五郎坊主』という噺がある。上方には珍しい八五郎という主人公が「することがないから」と出家することを考える。相談した甚兵衛に手紙を書いてもらい、寺を訪う。そこのところの「描写」がちょっと面白い。そこの少し手前から引用してみる。




甚兵衛「ナンじゃカンじゃ言うているうちに手紙が書けましたでな。これを持って行といなはれ」

八五郎「あ、さよか。えらいおおきにありがとう、えらいすんまへんでした、へェ。あの行く先はどこでしたかいな」

「下寺町のずくねん寺さんじゃ。大きな銀杏の木があるでな。それを目印に行きなはれ」

「さよかいな、そういたします」

面白い男でございますね。紹介状を一本懐へ入れまして、やって参りましたのが下寺町でございます。(両手で空中に大木の型を描き)おおーきな銀杏の木がございます。ずくねん寺さんでございますね。「尊いお寺は御門から」と申しまして、結構な御門を内側(うちら)へ入りますというと、片方(かたえ)には釣鐘堂でございます。正面には板石がズーッと敷きつめてございまして、石畳でございますね。左右には鶏頭の花が真っ赤に咲いているのでございます。お寺の表にあんまり人気のないもんでございまして、あんまり人は居りません。くるっと裏手へまわりますというと台所。寺方ではこれを庫裏(くり)と申しますね。一間半ひとつ折という大きなガラガラ格子でございます。(右から左へ大きく戸を開けるしぐさ)ガラガラガラガラ……。




これについては枝雀の言葉を直截引用した方が早い。




(前略)

ある時、私が神戸の松竹座の楽屋にいてましたら文蝶師*2が遊びに来はって、「小米はん*3、ひとつ噺教えてあげまひょ」言うて演りはじめはったんがこのネタでした。私は「あァ、あの噺かいな」てな調子で、失礼ながらええかげんに聞かせてもろてたんです。

と、お寺の描写のところで、「左右には鶏頭の花が真っ赤に咲いております。お寺の表にはあんまり人のおりませんもんで」という一節があったんです。「これや!」と思いましたね。この一節がお寺のリアリティを出したんです。




これは、『桂枝雀のらくご案内』(ちくま文庫) の208ページからの引用。




桂枝雀のらくご案内―枝雀と61人の仲間 (ちくま文庫)

桂枝雀のらくご案内―枝雀と61人の仲間 (ちくま文庫)




ここから、枝雀はこの誰もやらなくなったこの『八五郎坊主』という噺を復活させたのだが、この枝雀の「リアリティ」についての考え方、あるいは捉え方は、ちょっと面白く、ためになる。

枝雀は他にもいくつかリアリティに言及しているのがあって、たとえば、手元にはすぐに見つからないのだが、ちょっと思い出せるところを挙げてみる。

むかし、堂島の米相場師たちには相場の「上げ」を好む「強気」と、「下げ」を好む「弱気」とがあって、カンカンの強気の相場師が、人を呼ぶときに、手が下に向くのを嫌がって、下から上へ掬い上げるように呼んだという。これを「堂島の掬い呼び」といって堂島の名物だったらしい、という描写が『米揚げ笊(いかき)』という噺の中にあるのだが、この描写が枝雀は「もっともらしい」と言って特にお気に入りだったようだ。

また、『鰻屋』という噺の中で、主人公のひとりが悪友にからかわれて大阪中を引き連れ回され、最後に道頓堀にやってくる。そこで「出雲屋」という鰻屋、「井筒」といううどん屋、「柴藤(しばとう)」という鰻屋、「三洋亭」という西洋料理屋の前を通るのだが、これらはすべて実在した店らしい。だからこそ枝雀は「自信をもってしゃべれるんです」と漏らしていたらしい。

あともうひとつくらいあった気がするのだが、それが『八五郎坊主』のエピソードなのかもしれない。

なぜ枝雀はこういう細かい描写を好み、また必要としたのか。落語は会話だけでよくないのだろうか。

枝雀の師、米朝はその著書『落語と私』で、落語とは「とちゅうで演者が消えてしまう」話芸だと説明している。




(前略)

途中で、地(登場人物のセリフでない部分)にもどって説明をする場合もあります。いわゆるナレーションです。昔からこの地は少ないほどよい、短いほどよい、とされたもので、無しでやれるなら無いにこしたことはないとされています。

しかし、この地の部分が効果的なこともあるし、これがなければ、話がすすめられないこともあります。この部分はやはり、演者個人にもどって、米朝なら米朝というはなし家がお客に語りかけるわけですが、この場合、ものにもよりますが、米朝という人間がしゃべってはいけません。無人格のナレーターとしてやるのが正しいとわたしは思っています。

(中略)

明治とか江戸とかいう時代の舞台へお客を案内している以上、昭和六十年の米朝が、お客に語りかけてはいけないわけです。その雰囲気をなくさないように、いやもっと出すように、その場合においての一番適切なナレーションをはさみこむべきなのです。

(33-34p)






落語と私 (文春文庫)

落語と私 (文春文庫)




『八五郎坊主』の場合、米朝のこの「理論」は、枝雀のリアリティについての考えを阻害していない。むしろ、この理論にもとづいて、枝雀は鶏頭が咲いている描写に執着し、この『八五郎坊主』に息を吹き込んだようにも見える。

落語を原理的に演じ、全篇を通じて会話劇にしてしまえば、観客は噺に没入できるのでストーリーを加速させやすい。落語はもともと落とし噺なので、ギャグとギャグとを繋ぐストーリーを加速すればするほど笑いを生むのが容易くなるようにも思えるのだが、枝雀の落語ではときおりナレーションがまるで邪魔をするように中途で入り、読者にある種の「引っ掛かり」を生じさせる。私はこれを枝雀落語の「文体」だと思っている。

古典落語のくすぐり(=ギャグ)は昔からあるもので、米朝が復活させた際に加えたものもだいぶあるらしいが、それでもあまり変更されることはない。そして、上述したように、くすぐりとくすぐりをつなぐストーリーにも手を加えられることはあまりない。しかし、落語家が十人集まれば十人の「語り」があり、そこには演出のうまさや演技の巧みさだけではくくれない「なにか」がある。これを私は、小説でいうところの「文体」なのではないかと勝手に思っている。いや、これは本当は落語に限ったことではなく、人間の「語り」全般についても同じことがいえるのではないか、と私は思っているのだが、それは脱線してしまうのでまた次の機会に。

志ん朝でいえば、志ん朝の「文体」のドライブ感はすごい。マクラは比較的のんびりとした粋な始まりだが、噺が始まるとそこから終わりまで、テンポのよい江戸弁*4と整理された現代的な構成、演出*5でトントントトーンと持っていかれてしまう。1時間あるなんて噺も、「あれ、もう終わったの?」っていうくらい。



と、落語には文体があって、その文体を楽しめなければ、長いものだと40分ほどもある落語を楽しむことは容易ではないだろう。

東京落語と上方落語の違いとして、やはりくすぐりの少なさというのは厳然として存在する。上方落語に慣れてしまうと、東京落語はいささか物足りないし、つまらないと勘違いもされやすい。これは東京落語の噺家たちにも責任の一端があると個人的には考えている。

しかし、これだけは強調しておくが、志ん朝の落語を聴いて「つまらない」と言っているようじゃ、鑑賞者としての鑑賞技術が足りないと批難されても仕方がないと思う。

また、この東京落語を退屈と思う背景には、近年のテレビ番組における「M-1型」の「お笑い」の影響も多分にあるのではないかと思う。

「M-1」以前にも漫才番組はたくさんあったと思うのだが、私は「M-1」くらいしか知らないものなので「M-1型」と書くことにするが、この短時間でできるだけギャグを連発し、客席をどっと湧かせるというスタイルは、そもそも落語にはない。

この点も落語の鑑賞において大切なことで、桂枝雀なり、あるいは(寸毫も評価しないけど)林家三平*6なりのいわゆる「爆笑落語」に慣れてしまうとたいへん。あれはどちらかというと特殊なパターンなのだと思う*7。若い噺家たちは一所懸命にギャグを連発して小銭を拾うように小さな笑いを拾おうとしているが、あれはどうも空回りしてばかりでやめたほうがいい。かえってお客さんが減る。そんなにギャグを連発させたいのであれば落語じゃなくていいのだからね。

漫才のようにギャグが怒濤のように連続でまくしたてられるのを見ているのも面白いが、枝雀の言う「緊張の緩和」を楽しむことができれば、「落語つまらねー」ということにはなかなかならないと思う。

そういえば、緊張の緩和と書いて思い出したが、数年前、東大駒場前のアゴラ劇場で前田司郎の五反田団を観に行ったとき、公演後の対談かなにかで、「劇中での笑いをどう作っているのか」という質問に対して、前田は「特に意識して笑わせようとは思っていません。緊張部分で、ちょっと緩んだところを作れば人は笑えるのではないでしょうか」というような答えをしていたと思う。当時は「へえ、そういうものかな」と思って聴いていたが、それが数年後に枝雀とつながるとはびっくり。あの死ぬほど密集したアゴラ劇場での観劇も決して無駄ではなかったのだ(劇自体は面白かった)。酸欠で本当に死ぬかと思ったけど。



こんなふうにばかな鑑賞者(含む私)があーでもないこーでもないと言いはするものの、、落語はやっぱり愉しむものだから、楽な気持ちで見るなり聴くなりすればいいのだと思う。本当は、プイグ『蜘蛛女のキス』に触れて、岡田利規『三月の5日間』まで話を持って行きたかったんだけど、途中で力尽きた。これもまた別の機会に。



*1:わざと正確には引用していない。


*2:引用者註: 桂文蝶。


*3:引用者註: 枝雀の前名。


*4:父に言わせれば志ん朝のものは正調ではないそうな。


*5:これは師匠であり父親でもある志ん生のものと較べるとわかりやすい。志ん生のものを聞くとわりあいに粗雑であり、どうにも説明不足なところや、順序を変えればすっきりするだろうなあと感じる部分が多い。


*6:考えてみれば先代もそうだけど、当代も観る気も聴く気もしない。これは余談の余談みたいなものだが、このあいだ桂南光がテレビ番組の生放送で「わたしは正蔵(こぶ平)なんてまったく認めないですからね」と断言していた。これ、東京でも放送されればいいのに、と思った。


*7:特に「日本の話芸」などで放映されるようなベテランの東京落語家の噺は、くすぐりが古典的すぎてなかなか若い人(これには私も含まれる)が大笑いできるようなものでもない。



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ホームセンターで五本指ソックスの10足セットをふたつ買って作業用に使っていたのだが、穴が開いたら穴が開いた方だけを捨てていって、残った片割れ同士でまた一組にするというセコい算段でいたら、なぜかいま手元には左足の靴下だけが5つある。

私の右足になにか問題でもあるのだろうか。



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もう5月も終わりだけれど、FM802の5月のヘビーローテーション曲のひとつが、小南泰葉という人の『嘘憑きとサルヴァドール』という曲。



嘘憑きとサルヴァドール / 小南泰葉



曲の終わりに「©Apple Inc.」って表記されてあるんじゃないかっていうくらいに椎名林檎っぽい。で、歌詞にはRAD WIMPS の風味も加味されているという印象。

いや、皮肉じゃなくていいと思いますよ。自分がどういうミュージシャンに影響を受けたのかということがわかるというのは新人歌手としていいことなんじゃないでしょうか。オリジナリティっていうのは、真似て真似て真似て、そこからはじめて生まれてくるものだと思います。

私が唯一気になるのは、こういうちょっと頽廃的なニュアンスの曲を歌う女性たちは、なぜかきれいな感じの人が多いということです。

まあ、「きれい」というのも主観的なもので、私はもともと美人/不美人の判断があまりうまい方ではないらしく、「え、そう?」と真顔で問い返される可能性は大いにあるのですが、あまり納得できない人もこの記事を読んでいるあいだは彼女を美人だと思っていてください。

で、こういう美人が頽廃的な雰囲気を持っているというのは、すごく面白いことだと思います。

これはもう私の妄想に近いのかもしれませんが、美人には、




  1. 自分のきれいさをコントロールできる人

  2. 自分のきれいさをコントロールできない人

  3. 自分のきれいさをわざと抛棄しようとする人

の3種類があると考えています。

1. は、昔から「○○ちゃんは美人だねえ、べっぴんさんだねえ」と褒められ、その言葉を疑わずに育った人で、性格美人にもなります。こういう人に「おきれいですね」と言うと(言ったことないけど)、素直に「ありがとうございます」と返してきます。よほどの性格が捻れた人でない限り万人が好むタイプだと思います。

2. は、自分自身が美人なのかそれとも不美人なのか判然とせず、その境界上にあると強く意識するがあまり、他人の評価に対してものすごく敏感に反応してしまう人です。だから、褒められてもそれをお世辞だと思ってしまい「そんなことない!」と本気で怒ったり、あるいはちょっとしたお世辞を本気に受け取ってぬか喜びをしたり、と喜怒哀楽が激しい。こういうタイプは、端的に言って「悪い男」に憑かれると思います。また、「悪い男」の方でもこういう美人を好みます。ある意味、騙しやすいとも言えるのでしょう。

3. は、2. の亜種なのかもしれませんが、自分が美人だということを知っていて、あえてそれを抛擲するということが特徴。私は個人的にこの小南泰葉さんをこのタイプにくくってしまうのですが、こういう人たちは、なぜか、自分が美人であるということに我慢がならないような態度を取ります。ですから、わざとそのきれいさを損ねるようなファッションを選択することが多いです。

たとえば、顔を大きく隠してしまう眼鏡をかけたり(そういえばアラレちゃんメガネが最近また流行ったようですね)、古典的な「女性らしさ」を象徴する長髪を否定してショートカットを選んだり、また、容姿全体を薄汚く見せてしまうグランジファッション(最近は流行っていないと思いますが)をまとったりします。

これはおそらく、自己顕示欲の倒錯的な表出なんだろうなあとおっさんの私は思います。グランジなんて、年を取ったらできません。60歳、70歳になってグランジファッションをすれば、「あれ? ホームをレスした方かな?」と思われるのがオチです。若く、そして美しいことに自信があるからこそ、あえて身を貶めるような恰好を選択できるのです。

だからちゃんちゃらおかしいよね、ということを言いたいわけではありません。そういうことが選択できるというのは、やっぱり若い人間の特権であって素晴らしいことなのです。その特権を思う存分振りかざせばいいと思います。

美人が美人であることを正しく受け止められずにやきもきしたりあたふたしたりしている様子は、外から見ている分にはけっこうキュートです。おそらくその「可愛らしさ」だけは本人も捉えきれていないから、動物や人間の持つ「無意識の愛嬌*1」として、私は彼女たちのそういう点を好きになれるのでしょう。これからも、美しさに苦しみ、悩んでいってください。

そういえば去年、椎名林檎が資生堂のマキアージュのCF に出演したのは、ちょっと驚きでした。



デビューした当時は、こういうことをしそうな人には見えませんでしたよね(一部の勘の鋭い女性ならわかったでしょうが)。資生堂の化粧品のCM 出演なんて、まさに美人の王道を行く行為だからです。でも、林檎も大人になったわけです。ちょっと顔をいじくりすぎで表情がなくなてしまっているのでは、という危惧もなきにしもあらずですが、今の林檎は堂々と女らしさを体現していて、それはそれで恰好いいことなのではないかと思います。ま、林檎は私の中では美人ととらえていないので、扱いがどうしてもぞんざいになってしまいます。すみません。

なお、小南さんの公式サイトには「嘘憑新聞」というページがあって、「虚構新聞」を模したものになっています。「虚構新聞」がそもそもパロディサイトなので(最近、いろいろと話題になりました)、パロディのパロディとなります。



*1:これの正反対に属するのが、テレビなどに出てくる子役がふりまく愛嬌です。ああいうのが私の子ども嫌いを助長するので、少子化社会に少しでも歯止めをかけたいのであれば、ああいう子役の出演をひとつでも減らすことがテレビ会社やCM 制作会社の使命だと思っております。



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関西に住んでいて土いじりなんかをしていると、「農業屋」というホームセンター(?)の存在は近しいものになるのだが、その近くの「農業屋」で、「うなう」と「さくる」という言葉を見た。これらは、三十数年生きてきて初めて見た言葉で、その意味するところもちょっと想像できない。

たしか鍬なんかを置いているコーナーにあるポップに、「うなう」とはこれこれこういうことです、「さくる」とはこれこれこういうことです、と手書きで書いてあったが、その意味を読んでもあまり頭に入ってこないぐらい、このふたつの言葉は衝撃的だった。

で、家に帰ってきてネットで調べてみると、あった。




うな・う〔うなふ〕【×耡う】

[動ワ五(ハ四)]田畑の土を鍬(くわ)で掘り起こして、畝(うね)を作る。耕す。

「―・ってあっちへ行(え)ってからにしろ」〈長塚・土〉



(デジタル大辞泉)






さく・る【▽決る/×抉る/×刳る】

[動ラ五(四)]土などをすくい取る。また、掘りうがつ。掘る。

「枝は挫(くじ)けて其先が庭の土を―・った」〈長塚・土〉



(デジタル大辞泉)






「うなう」の「耡」という漢字は初めて見た。この漢字の偏、「すきへん」と言うそうだが、この「すきへん」の漢字は今まで「耕」「耗」「耘」の3つしか知らなかった。最後の「耘」は「耕耘する」という場合にしか用いないのではないか。読みは「こううん」。これも、知っている人は知っていても、知らない人はまったく知らない漢字だと思う。

たとえばホンダの公式サイトでは、自社の耕耘機を「耕うん機」と表記している。おそらく常用漢字にないためだろう。

また、このホンダのURL で「tiller」という単語を知ったのだが、これをアルクで調べてみると、




tiller

【1名】

耕す人、耕作者

耕運機、耕す用具



(太字強調は引用者による)




とあって、このように「耕運」という言葉に置き換えられることも多いが、正しくは、というか古くは「耕耘する」と書く。

「さくる」の方は、まだ漢字からの類推はしやすい。「えぐる」とか「くる(『くりぬく』のくる)」とか、そういう意味なわけだが、しかしこれにしたって「決」という字に「掘る」というような意味があるとは知らなかった。

ところで、この「うなう」と「さくる」、デジタル大辞泉では用例を両方とも「長塚・土」を出典元としている。おそらく長塚節の『土』という小説のことだろう。




土 (新潮文庫)

土 (新潮文庫)




こういう言葉が出てくるとは、相当きちんと書かれた小説だと思われる。「きちんと書かれた」というのは、憶測などではなく、そこで生活した者でなければ書けない小説だろうという意味だ。Wikipedia によれば、茨城の人のようだが、なんと35歳で病没しているらしい。機会があれば読んでみたい。

蛇足ながら、上の漢字表記での「×」や「▽」のそれぞれ意味するところは、「凡例」に記載されていた。




×

常用漢字表にない漢字


常用漢字音訓表にない読み


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深夜、ツイッターでこのツイートを何気なく見た。



寝ぼけた頭でパッと読んだら、「上方(かみがた)の「いいね!」ボタン」ってなんだろうと思った。

ええな!



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