とはいえ、わからないでもない

2012年06月

編集

これからすごくナーバスな問題を取り上げるけど、読む側はナーバスにならないようにしていただけると嬉しいです。

先週金曜の首相官邸前の原発再稼働反対デモの参加者が45,000人ほどだったそうで、やっといろいろなところでニュースとして目につくようになってきました。といっても、新聞も取っていないし日々ニュースを厳密にチェックしているというタイプではないので、以前にもそういう報道はあったのかもしれませんが。



私がこのデモがあることを知ったのはツイッターからで、私のようなわづか二十数人しかフォローしていない人間にもその情報が流れてくるというのが面白いといえば面白いところで、ああこういうのがいま東京で流行っているんだな、という感覚で認識していました。

はい。タイプミスではなく、私はたしかに「流行」という認識をしています。

高い志をもって参加している方ももちろん大勢いらっしゃるでしょうし、そういった方々のお考えに、私も近い考えを持っていると勝手に思っています。端的にいえば原発には反対すべきだという考えです。

ただ、それでも私は上記デモを流行のようにしか思えないのです。なぜか。

デモ参加者の職業を統計にとってみれば、いったいどのような分布を見せるのでしょうか。私にはわかりません。ですが、まあ学生を除けば、正規にせよ非正規にせよ、定期的な給与を得ている方々が少なくないであろうなあとは思っています。

その方々が、仕事帰りに肩に力を入れずにデモに参加する。それが今回のデモのスタイルなのかと勝手に思っています(以下、「勝手に思っています」の文章を省きますが、基本的にはすべて推測によって書きますので、そのつもりで)。

ツイッターあるいはフェイスブックを用いた抗議行動、これらは「アラブの春」や「ウォール街を占拠せよ(Occupy Wall Street)」運動を喚起させます。ですが、官邸前デモがこれらと徹底的に違うのは、デモ参加者のリスクはきわめて低いということです(個人的には「ウォール街」の方もそれほど高リスクとも思えません)。

「ゆるい」というのは、最近の中では私の最も嫌悪する言葉ですが、そのみんなの好む「ゆるさ」が、官邸前デモ参加者同士の紐帯となったのでしょう。

さて、もう一度職業の話に戻ります。

デモ参加者は、デモを終えて家に帰り、ビールを飲むなどしてから寝ます。そして休日を過ごし、月曜日になればまた出社します。

あるとき、度重なるデモがついに結実し、再稼働が中止となるとします。彼らの生活に影響はあるのでしょうか。

つまらない話ですが、個人的なことです。

もし、夏に計画停電が起これば、私の場合はおそらく収入が減ります。私の従事している商売において、私が同業者にアドバンテージを持っているのは電気を使ったある施設を利用しているからです(わかりにくくて申し訳ないのですが、プライバシー的なこともありますのでご勘弁を)。私はコストを投じてその施設を利用していますが、それがもし断続的にでも利用できなくなれば、私の収入は減るでしょう。もしかしたら、激減というレベルかもしれません。

ですが、私は原発稼働停止という判断がもし下っても、それはそれで仕方がないと納得するだろうと思います。

ただ、私と同じような状況にある人は多いと思います。上記リンクでは、ドライアイスを製造している会社が、停電がもしあればたいへんだということを訴えていました。すごく理解できます。

デモ参加者のうち、大飯原発が再稼働停止をした場合にその収入を失う人はどれくらいいるのでしょうか、というのが私の率直な疑問です。

あるいは、その職業を失う人は?

私は、「たとえその職業を失うことになろうともデモに参加する」という人がもしいたら、愚かしいからやめなさい、と諭すと思います。理想だけで生活することはできないからです。

私は、原発には反対すべきだと思います。弟が数年以上前からこんな危なっかしいものはない、と私に言っていました。私は「へえ、やっぱりそうなんだなあ」と思い、そしてなにもしてきませんでした。弟も、実際に行動に移しはしませんでした。

去年の震災以降、原発反対者は激増しました。そりゃそうでしょう。当たり前とも言えます。

ですが、すぐさま全廃とはなかなかいかないのではないか、ということは素人ながら思います。利害関係者はやはり大勢います。重要なのは、東京在住ののんきな人たちの多くは、あまり「害」を得ないということです。「利」もないけど、「害」もありません。福井近隣の人たちにはれっきとした「害」があります。ですから、大飯町での原発再稼働反対の署名運動に対しては、心からの応援をしたいと思います。

今回のデモの参加者たちは、その運動を、断続的ながらも十年以上はつづけていくつもりなのでしょうか。それとも、「子どもが心配だから」と言っている人たちは、その子どもが大きくなったら「別にどーでもいいけどー」と言い出すのでしょうか。

「ゆるさ」はいいよね、と私は思います。ゆるさは危険を呼び寄せないし、もし危険になったりあるいは面倒くさくなったら、みんながそれを理由に諸々を手放してしまうだろうから。

原発に反対している人たちは、昔からいました。それは弟に教えてもらっていたので知っていました。私は、内心その人たちを少しだけ小馬鹿にしていました。けれども、馬鹿にされるべきは私の方でした。彼らの活動*1に敬意を払ってこなかった私たちの方でした。

いま、官邸前で運動の中心となっている人たちの多くに、昔からの活動家たちがきっといるでしょう。特別なシンパシーを感じているわけではありませんが、それでも彼らには心からの敬意を贈りたいです。

もう一度、最初のところに戻ります。

東京では、デモに参加することが流行っているようです。私はデモの目的自体は、長期的な観点から賛成すべきだと考えています。

ですが、参加者の大部分の方とはおそらく価値観を共有することはできないだろうと思います。半鐘の音が聞こえたら真夜中でも火事を見に行ったという江戸っ子たちと、あまり違いを見つけることはできないだろうから。

最後に、先日聴いたラジオで紹介されたおたよりを引用します(正確には覚えていないので、ちょっと脚色もしています)。




今週末、夫が福島に行きます。夫は35歳です。

はじめてのボランティア活動なのですが、夫はふだんから体力的なことはすごく苦手で、いろいろな人に迷惑をかけると思いますが、それでもけがなどしないよう帰ってきたらありがたいなと思っています。




45,000人のうち、今日、明日と福島に行ってボランティア活動をしている人はどれくらいいるのでしょうか。もちろん、私は行っていません。恥ずかしいことに、私は震災以後、ちょこっとだけ寄附をしただけで、あとは指ひとつ動かしていません。

罵倒されるべきは、どうか私だけでありますように。45,000人が、そのゆるさをもって、福島でいろいろなボランティアをしている姿を想像すると、世の中もそう捨てたもんじゃないと思います。すばらしい世界だと思います。

どうか(そんな夢想をした)私がずっこけることがないように、と願います。



*1:ただし、どれくらいリアリティのある活動をしていたのか、については知りません。



編集

きのうはものすごく光が強かった。夏の光って感じで。ここいらはずっと雨だったり、そうでなくても曇りつづきだったから、ああいう光を感じられたのがすごくひさしぶりで、「わ、梅雨明けちゃったの?」って思ってしまった。もちろんまだだけど、でも、夏はもうすぐ。






サマージャム '95 / スチャダラパー





編集

ネットのニュースで、飲酒運転の後部座席に乗っていた17歳の男の子が死亡したというのを見て、「あらら」と思った。まだ若いのになあ。かわいそうになあ。そんなことをちょっと他人事(事実、ひとごとなのだが)のように思った。

ふと思い立って、被害者の名前を検索にかけてみたら、その人の写真なり、プロフィールなりがネットにいくつか見つかったので、それをほんの少しだけ覗いてみたら、やりきれない気持ちになった。「あらら」という以上のなにかが私の中で起こった。

テレビのワイドショーでも、その少年の画像なり文章なりは紹介されたのかもしれない。けれども、その紹介の仕方はかなりセンチメンタルな編集をされているだろうから、私などは妙な反撥を覚えてしまい、私の中でその少年のリアリティがあまり生まれなかっただろうと思う。

リアリティという言葉にもいろいろな定義の仕方があるだろうが、この場合のリアリティは、「編集」の対義語だ。私がネットで見つけた情報は、報道用に編集されたものではなく、「生(なま)の素材*1」だった。当然のことだが、その少年の書いた文章には、数ヶ月後(?)に自分の身に降りかかる不幸の予感はなく、希望と幸福に満ちていた。

ニュースに初めて触れたときは、「死んだりけがを負ったりした同乗者も、運転者が飲酒していたのをどうせ知っていたわけでしょ……」と、同乗者に責任の一端を感じたのだが、ネット上で少年の情報(画像・文章)を見つけたときには、少年の死が「どこかの誰かの死」ではなく、「知り合いの死」のようにとても身近なものに感じられ、責任なり違法性を追及するよりまず同情の念が感じられた。もちろんそれは本当の遺族や関係者のものとはまったく質の違うものではあるが、こういう感じ方はおそらく重要だ。

当地で、誰かの死があったときのその伝え方を幾度か耳にしたことがある。

私が誰かといるとき、そこにまた違う誰かがあらわれ挨拶をしているときに、「おい、あそこの○○さんとこのせがれ、死んだなあ」というのがきっかけ。

「○○さんて、あそこの○○さんか?」

「そうよ」

「おいほんとかよ? なんで死んだ? いつ?」

「首吊ったんやと。2日前」

「ほんまかよ。商売うまく行ってなかったんか?」

「そんなことないでよ。そら不景気やさけね、ええてこともないかもしれんけどね、悪いことなかった思うで」

「ほんまかよぉ。あれ、いくつだった?」

「まだ四十五だと」

「若いなあ」

「若いよぉ。あそこの親父、途方に暮れとったぞ。この世には神も仏もないのかと」

「そらそやのぉ。それにしても、若いなあ。四十五かあ」

「そうや」

「大阪行ってたんやなあ、たしか」

「四十で戻って来たからな」

「親父さんがぶっ倒れたときか」

「ほうよ、あんときよ」

「商売そっから継いだんか」

「そうみたいやで。親父も元気になってからは手伝うたりしてたみたいやけどな」

「ほうか。ちっとも知らんかったで」

「そや、急やからな」

「ほうか。若いなあ。昔は、頭えらい子やったもんなあ」

「そうや。なにせ、線が細いちゅうことは昔から言うとったでな」

「そうや、親父とちゃうからな。せがれは線が細かった。いろいろと知らん苦労もあったんじゃろ」

「そやな。先のあのごたごたでも、やっとまとめたのになあ」

「そうや、あれ、えらい金つこたんちゃうか?」

「借金はせんかったとは思うけどな。いろいろと苦労したんちゃうか」

「なんせ、若いなあ」

「そうよ、若すぎよ」

もちろん、上記はフィクションだ。いつもどおりのうろ覚えを再現したものでもない。

しかしこのようなやりとりをもって人から人へ、また違う人から違う人へと伝わっていき、人の死や不幸が伝播する。リアルタイムで情報が積み重なっていく感じが、きっちりとした構成の「編集された情報」と異なり、胸を打つ。

ニュースの情報を客観的にとらえて客観的に批評するのが好きな人は多い。それが正しいとさえ思っているのかもしれない。だが、そのニュースに登場する当事者が、自分の友人や家族、知り合いだった場合も、彼/彼女はいつもどおり客観的な判断をもってそのニュースに臨むのだろうか。もしそうだとすれば、その客観性にはいかほどの値打ちがあるのだろうか。

いちいちの事件や事故について主観的にとらえることなんてできねーよ、という理窟はわかるけど、それならなぜそんな多量な情報が入ってくるような環境に身を置いているのか、という自問はない。私も、ない。

「世界」が広がりすぎで、それでもって、みんながそれを知りたがりすぎているせいなんだ、たぶん。






Too Young To Die / Jamiroquai





*1:raw materials なんていう言い方がおそらくぴったりだと思う。



編集

結局、きのうの阿佐ヶ谷でのライブはさんざんな出来で、来ていただいたお客さんには申し訳ないことをしたと反省している。

私のチューニングがそもそもおかしかったとか、あるいはヴォーカルのマイクの調整がしっかりとしていなかったとか、反省会(=飲み会)ではいろいろと責任のなすりつけ合いをしたが、そんなことでお客さんの感じた失望を回復することはなかなかできないわけで、あっちのブログの方では、ひたすらお詫びをするという姿勢に徹したが、もしきのうのライブに来ていただいて、なおかつこちらのブログを見に来てくれているお客さんがいたら、「あ、こいつ全然反省していないな」と思われるかもしれないけど、それはそれで仕方ないよね……。



なんてね。

ネット上の人格というものを考えると面白い。

私は、「こう見られるのではないか」というある程度の予測をもとにこのブログを書いているわけだが、その予測(=表現したい<私>)と、ネット上での私(=解釈された<私>。つまり、閲覧者の想像するid:todotaro 像)との乖離はおそらく存在する。

そしてまた、私が意図して、あるいは無意識に表現してしまっている「ネット上での私」は、「現実の<私>」とも少なからず乖離しているわけで、できの悪い伝言ゲームじゃないけど、「現実の<私>」から「表現したい<私>」、そして「解釈された<私>」へと過程を経るうちに、ズレはどんどんと大きくなっていく。

私の場合は、「現実の<私>」と「表現したい<私>」とのあいだにそれほどの「差」をつけないようには留意しているつもりだが、だが、そこに大きな飛躍がある人もいるでしょう。家で引きこもっている人が「リア充」を振舞ったり、あるいはその逆のパターンも考えられる。

「ネカマ」という言葉はあまりもう目にしなくなったように思うが、ネット上で「現実とは違う<私>」を表現することは、おそらくたまらなく面白いだろうと思う。コスプレみたいなもので、多少の苦労はあるものの、いい意味でも悪い意味でも他人を騙し欺くことは非常な快感を生むだろう。

で、冒頭の数行に言及するわけだが、もし私のブログをある程度の周期をもって見に来てくださる方がいたら、「あれ?」と思ったのではないだろうか。

阿佐ヶ谷? ライブ? チューニング? あっちのブログ?

ふだんせっせと日記の姿をして書かれていることが事実であるという保証は、実はどこにもない。プロフィール欄に書かれていること*1が事実であるという保証も、実はどこにもない。私たちは、仮想空間で各個人の幻想を見ていると思った方が、事実には近いと思う。だからといって不必要に疑うことはないかもしれないが、不用意に信じすぎることは不用心だ。

というのも、ある若い女の子が書いている(ということになっている)ブログでのコメントで、いかにも年上の男性の立場からのコメント、というよりは、忠告が書かれてあったのを見たのだが、「あ、これってもしそのブログの書き手であるはずの18歳女の子が、48歳男性が生み出した架空の人格であったら、ちょっと恥ずかしいよな」と思った。

これはいわゆる「釣られる」という状態を指すが、ここまで露骨ないたずらはなくても、擬似的な人格を生み出して他人の注目を呼ぼうとする企みは、おそらくそこかしこに(そして、「ここ」にも?)ある。

これらのことに特段の教訓はない。だからネットでは疑ってかからないといけないんだ、とは思わない。いやそうじゃない、人を信じるところからすべては始まるんですよ、とも思わない。前にゲームについてちらと書いたことにも関係するけど、ネット上で過ごす時間が多い人にとっては、この仮想空間も現実なのだ。

実際には会ったこともない人間のブログやツイートを読んだり見たりして、励まされたり、腹を立てたり、同情したり、好きになったり嫌いになったりするということは、すごく面白い。ただそれだけの話なんです。



*1:私の場合は、ほとんどなにも書いていませんが。



編集

さきほどまで、音楽に疎い私も生意気にYouTube で音楽を聴いていました。そこで流れた曲が、急に私の記憶を刺戟しました。



当たり前のことですが、私も6年ほど前までは二十代だったわけで、それなりの青春があったものでした。

仕事の帰り、後輩にDJ の男の子*1がいたので、何度かクラブに連れて行ってもらいました。なんだかよくわからない理由でただで入店し、ただで酒をもらい、ただでCD をもらったりしていました。何度かここに書いたこともありますが、私はときどき、男に異常にモテることがあります。

彼がよく連れて行ってくれたクラブで、レモンハート(75度)やスピリタス(96度)をショットグラスで一気飲みするという文化を初めて知りました。「DJ は酒に強くないとやってられないス」と言っていた彼も、よくトイレで食べたものと一緒に血を吐いていました。私は、ジントニックやモスコミュールを飲みながら、そんな彼の姿を見ていました。私は、その頃には無理な飲み方というものをいっさいしないようにしていたので、わりと冷静にクラブ文化というものを部外者ながら味わっていました。もちろん、ここでも私はよそものであり、客人(まろうど)でした。私に話しかける者は、女の子は当然(そもそも女の子が少ないところではありましたが)、男もいませんでした。私は、踊れるわけでもないのに身体を揺らし、アルコールの雰囲気に身を浸し、名前も知らなく聴いたこともないけれど心地の良い音楽を聴いていました。誰かが怒鳴ったり、ぶっ倒れたり、血を吐いてトイレで伸びていようと、あまり気になりませんでした。

そんな体験のうちのひとつですが、あるイベントに誘われて、ひとしきり気持ちのよい音楽を聴いたのち、後輩の男の子がステージ(ちょっと大きい場所でのイベントだったのです)に上がってDJ ブース(とでも言うのでしょうか)にあるマイクを使って挨拶をしていました。その日は彼主催のイベントで、彼が主役だったはずです。しゃべっている内容の半分以上は、べろべろに酔っ払っているせいでなにを言っているかわかりませんが、そういうちょっとダメなところも、彼がみなに愛されているゆえんでした。私も少しだけ気分が盛り上がっていました。百数十人ほどが集まるイベントの主役が知り合いだなんて、ちょっと鼻が高くなってもよいと私は考えたのでしょうが、よくよく考えてみれば、そのイベントに集まったほとんどの人間が、彼の「友達」であったり「先輩」であったり「後輩」であったりしたはずでした。私ひとりが特別に昂奮していたのかもしれません。

彼の行きつ戻りつの挨拶もそろそろ終わりを迎えようとしていました。なんといっても、夜は開け始めていたのです。おそらく外へ出れば、ゴミ箱とゴミ箱のあいだをネズミがうろちょろと走り回る渋谷にともる街灯も、消えているはずでした。東の空が白々とし、文化村前のスターバックスからは、店員に追い出された宵越しの連中が、眠い目をこすって駅へ向かい始める時間でした。

「今日はほんとに来てくれてありがとう! 最後にこれを聴いてください」と彼は言い、レコードに針を落としました。そして、この曲がかかったのです。






You Can't Hurry Love / Phil Collins





*1:調べたら、なんと今でもDJ をやっているみたい。お互い全然違う道を歩いているけど、ちょっと嬉しいものです。



編集

なんでこうもいらいらしているかっていうと、やらなければならないこと、やりたいことが山積していて、それはつまり時間がそもそもないからってことで、時間がないっていうのはつまるところ私自身の「時間管理能力」の欠如をそのまま意味するので、それを指摘してはい終わりってなればいいのだけれど、そう簡単にはいかないのが人の心ってもので、なんというか自分自身の問題というより、他人や社会的環境などにその責任を転嫁したくなっちゃうのだが、そういうことをすればしたで、正しくないことをしているという悖徳感も生じるから諸刃の剣になる危険性もあるんだけど、それでも「誰かのせいにしたい」と考えつづけると「そういえば」と思い浮かぶ人がある。

私はふだん、坊主頭でときどき髭を伸ばしてそこらへんを昼日中ぶらぶらしているものだから、ときおりヒッピーに間違えられる。

で、ある「いい人」がそんな私を見つけ、ヒッピー=オーガニック的思考の持ち主、という簡単単純なメモリーならぬ簡単単純な方程式をもって、私を「オーガ系住民」として認識・認定してしまったのがそもそもの勘違いで、ふつう勘違いというものは何度かにわたる会話だとかによって修正されていくものだが、その人とはまだ3度しか会ったことがなく、それも向こうから一方的に走って来て(文字通り、走って来る)、「元気ぃー?」みたいな感じでやってくるものだから、こちらはもう辟易してしまってふだんの千分の一もしゃべれず、相手は私の印象を初対面のままに修正せず、結果その人にとって私は「オーガな人」のままで、「はいこれ」と3度目に会ったときには私に本を手渡し、「すっごくいい本だから。いい人、立派な人が書いているの。これね、○○(地名)の××さんって知ってる? そう、その人にも貸したらもう気に入っちゃって気に入っちゃって、『3回も読み返しました』って言ってたくらい。あ、あとで返してもらわなければならないけど、うん、いいからいいから、うん、ぜひ読んで。ね、お忙しいところ悪いんだけど、はい、じゃあねー」と言葉のマシンガンを撃たれで穴だらけになって立ったまま死んでいる私に向かって手を振った。

で、渡された本が、まあ有機農法の実践者による宇宙のあり方みたいな内容で、いやあわたくし農業技術とかに興味ないですからと思ったのだが、それ以前に、農業をやっている人が宇宙を語りだすというスタイルにもうノックアウトされてしまったのだった。いや、文字通りの意味でね。

だいたいにおいて、人間が考えだすことなんて所詮はそれ以前の誰かに影響を受けたものであるであるから、文学や哲学、あるいは藝術関係以外においては、びっくりするようなものはない。で、「農業から宇宙へ」なんてものも、過去にそれに似たようなものを一度でも目にしていれば、「あ、ああいう感じだな」とピンとくる。

だから、私の場合は読まなくてもよかった。そう考える人たちはいるのだろうし、別にそれを否定しないし、勝手にやってくれ、こっちも勝手にやるから程度の認識だったのだが、いざその著作を読み、しかも返却するときにその感想を言わねばならないとなれば(別に強制されているわけではないが、なにせ前回に貸した人は大感動したわけだから、相手は私もきっと大感動すると期待しているのだろう)、いろいろと変わってくる。

今まで宗教の勧誘を玄関先でやんわりと断っていたのが、ドアを開けたらいきなり、「邪魔するで」とずかずかと部屋に乗り込んできて、食事中のテーブルを見渡し、「おれの飯どこや?」と言われるようなもので、私の平穏な生活を望むという第一の、そして本当にささやかな願いが、今日も破られる。悲しい。

で、ほぼ3週間くらいかな、読みたくもない本を文句言い言い読んでいたわけですよ。文句がすぐに頭に浮かぶから、すらすらと読み進めることができない。おかげで他の読書はすべてストップ。借りている以上は早く返したいし、そうなると適当に斜め読みもできない。その人は「あの部分のああいうところがよかったでしょ? でしょでしょ?」と平気で言いそうなものだから、いちおうこちらもそれに対応できるようにしておかなければならない、とこういうふうに考える私の思考法がそもそも間違っていると思うし、こういう自分を顧みずに他人をケアするやり方はいつか身を滅ぼすということも重々わかっているのだが、何の恩義もない、気まぐれでふらっとやってきた騒がしい来訪者に対しても、その人に悪意がない以上は、私には邪慳にできない。そういう性格をしているのだと思う。もし、少しでも悪意があったり(いかな年上でも)生意気なところがあれば、めちゃくちゃに喧嘩するのだけれど。喧嘩できるのだけれど。

そして読了。読前と読後に、私の中でなにか変わったところはなかった。そう考える人たちはいるのだろうし、別にそれを否定しないし、勝手にやってくれ、こっちも勝手にやるから、ということである。

誤解されたくないのは、私は、なにかを信じるということは非常に大切なことだと思っている。信仰は大事だ。私には信仰がないが、あればきっともっと幸せだったのではないかと思う。なにかを信じ、それにいい意味で依存できることは、非常に簡単な人間の救済法だ。

だから私は他人の信仰を否定したくないし、実際に否定しない。一所懸命信じている人を、信じているという点において尊敬することすらある。私に本を貸してくれた人にも、一所懸命その考えを普及させようとするところに、少しの敬意を覚える。たとえ信仰があったにせよ私にはそんなことはできないからだ。

でも私の場合は、信仰を持つにしてもそれを自分で見つけますから、大丈夫です。どうかお気遣いなく。誰かが持って来た簡単な一冊を数日読んだだけでは、私の考えはたぶん変わりません。生活が乱れるので、かえって反撥を覚えるだけです。私にとってこの3週間は辛かった。非常に。

だからもう、どうか私のことは放っておいてください、と強く、強く思うのだった。



編集

そういえば、『知恩院の忘れ傘』にあった鶴光の小咄。註記しておきますが、不正確な思い出し引用です。




あまり器量のよろしくない方を褒めるのは難しい。

昔からおばあちゃんの知恵袋ゆうて、ありがたい言葉があります。

「あんた、人間は顔やないで……ここや(と言って胸を指差す)」。おっぱいちゃいまっせ。そやなくて、ハート。心や。

ありがたいですなあ。涙が出ますわ。

それをこのあいだ間違えた人がいて。

「あんた、人間顔やないで……」





編集

弟からレストラン関係の話みたいだよ、ということで教えてもらったニュース(?)。



まあ、読むのが面倒だと思うので(私も斜め読みしたので、正しい理解かどうかはわかりません)、てっとり早くかいつまむと、本物の高級料理人が本物の高級料理を低価格で提供していて、回転率2.0を超えればトントンというビジネスモデルだよ、すごいねー、みたいな話だと思ってもらえればいいと思います。回転率2.0というのは、店をオープンしてから閉店するまでにお客さんが1回総入れ替えするということです。客席の回転率は、




総入店客数/客席数




という計算式で求めるようです。



で、この記事を(斜め読みとはいえ)読んで思ったのは、こういう「ビジネス」が推し進めていく先には不毛の土地しかないということ。

まず、技術者(この場合は料理人になるのでしょうが)の多くがその職を(半ば強制的に、あるいは自発的に)失うでしょう。なぜなら上のやり方では、既に評価を得ているシェフたちはいいのでしょうが、見習い連中の賃金はほとんどが頭打ちなのは目に見えていて、そこそこの給与を得るには相当のサバイバルレースでしのぎを削らなくてはいけません。提供価格がほぼ決め打ちで、客数や回転率で勝負をするということは、つまり最大収入に限界が(しかも低いところで)定まっているようなもので、そこから様々なコストを逆算していくとなると、一番しわ寄せを食いやすいのは人件費だからです。働く側がそれを見越すと、早いうちから転職を考える連中が続出し、おそらく後継者は育ちません。




追記

実は、上記記述は「俺の~」モデルに限らない話で、ほとんどのレストラン・飲食店でも、最大収入は見えています。つまり、「営業努力による売上の恒常的な増加」はなかなかあり得ないということです。ですから、斯界では転職者が多く、また離職者も多いです。



また、消費者(お客)のレベルも頭打ちとなります。そして、こちらの方が問題はより深刻です。

「『客のレベル』だなんてひどいことを言う」と思う人もあるかもしれませんが、もしあなたが5,000円のディナーを誰かと食べに行くとなったとき、その隣の席で赤ん坊がぎゃーぎゃーと泣き、そこでおむつを取り替え始めたらどう思うでしょうか。

私の場合は、牛丼屋で同じようなことをされても許せないことはありませんが、レストランなら許せません。お客にしかるべき場所でのしかるべきふるまいを期待するとき、金額や雰囲気をもって、お客をある程度の篩(ふるい)にかけているのです。

貨幣価値しか見ていない人、つまり「金は払っているんだからこっちは客だ」という人は、上記モデルのレストラン(?)に出かけたらよいでしょう。でもたぶんその人は、牛丼屋へ行ってもファミレスに行っても、それから知り合いのうちに行ってでさえも、「安い」とか「ただ」という感想以外は出てこないでしょう。その人が最大の価値を置くのは、「得したかどうか」だからです。味がどうこうとか雰囲気がどうこうとか、あまり関係ありません。

こういう人たちは、最低価格のところを基準にしてすべてを測るので、他はすべて「ぼったくりだ」という結論をすぐに導きます。

いや、そういう価値観もアリなのです、まったくの話。ただ、彼らがその声を大きくし、違った価値観を持った人間まで仲間に呼び入れてしまうことを私は恐れます。違った価値観を持った人たちというのは、たとえば、クリスマスなり恋人の誕生日なりに、張り込んでレストランに夕食を食べに行くような人たちのことです。

レストラン文化は、お客によって支えられてきました。これは間違いのないことです。そしてその文化は、担い手である今のお客の後継ぎを必要としています。

少しだけ背伸びをして、少しだけ贅沢をして、少しだけ恰好をつけようとしている将来の文化の担い手をいま大事に育てなければいけないというのに、目の前にニンジンをぶらさげていったいどこへ連れて行こうというのでしょうか。

まあ、興味本位で一度くらいは訪れてみたいと思うのは、誰しも同じ心情だとは思いますが(当然、私も行ってみたいです)、それでも「立って食べるフレンチ」ってのも……、あ、そうか。立ち呑み屋って考えればいいのか。

でもやっぱり、立ち呑みもいいけど、レストランで夕食を5時間くらいかけて食べるっていうのも、一度経験すれば病みつきになると思います。「5時間だって? なんてバカらしい!」そう思う方も大勢いらっしゃるでしょう。ですが、おいしい料理とおいしいお酒、すべてが行き届いた満足の行くサービスと、それに気心の知れた相手(異性同性問わず)との心ゆくまでのおしゃべり。人生の最高の時間の使い方のひとつだと思いますが、それらは、貨幣価値だけを基準にしては絶対に得られないものです(もちろん、多少のお金は必要ですが)。

どうか、冒頭の「ビジネスモデル」がずっと「特殊な一例」のままでありますように。これ以上デフレを加速させていったいどうしようというのでしょうか。商品価値だけでなく、文化の価値までも、行き着くところまで下落していきます。

私は、贅沢を味わえるレストラン文化が、せめて私の生きているあいだだけでも存続するよう強く希望します。




編集

ふた月ほど前の『平清盛』を流し見していたら、中井貴一が死ぬ回だったが、中井貴一と中村梅雀がよかった。特に清盛の親父(貴一つぁん)が遺言みたいなのをみんなの前で言うときの、それを聞いてかしこまる梅雀の目線の動かし方に感動した。もちろん、それは舞台ではとうてい通用するやり方ではないが、映像というものをうまく利用した巧みな演技。すげーなーと思った。そのあとで、なんか薄汚い芸人(極楽なんとかの人)がニヤッと笑って台無し。もうレベルが低い低い。まあ、彼にどんな演技を求めるのかっていう話がまずあるけど。

『清盛』の視聴率が低いってことがもうずっと話題になっていて、もう聞き飽きたってくらいの次元にまで落ちに落ちているが、その原因を、真面目に観ていないなりに考えてみるが、やっぱり松ケンの知名度なのではないかと思う。

演技云々より以前に、「松ケンって誰?」っていう年輩の人は多いのではないか。松ケンの名前が通用するのは、若い人だけなんだと思うんだよね。冗談じゃなくて、ある年齢以上の人に「松ケン」といったら松平健の名前が挙がると思いますよ。

若い世代には魅力的な松ケンも、もう若くない世代(含む私)にとっては、あまり華のない一役者にすぎない。華がないだけならいいのだが、演技力もないんだよね。皆無ってほどじゃないけど、ぐっと惹き込まれるほどの力量は私には感じられません。まあ、これは演出や脚本によるところ大だとも思う。

でも、最近感じるのは、ドラマを、役者の演技ひとつだけを取り上げて面白い面白くないと論じるのは、それこそ面白くないのではないか、ということ。『梅ちゃん先生』なんて、かなり早いうちに「茶番だぜ!」ってことで観るのをやめてしまったが、朝ドラにしても大河ドラマにしても、これほどお金のかかった茶番もなかなかありませんよ、ということに留意すれば、愉しみ方はいかようにも広がるというもの。いろいろな役者がいろいろなところに出ているから*1、そういう見方をしても、なかなか愉しめるのではないでしょうか。いや、私には時間がないので失礼いたしますが。

そうそう、私は、松ケンじゃなくて藤原竜也だったらよかったんじゃないかと思っています。



*1:『清盛』にかわいい女の子が出演していると思ったら、柊瑠美だった! もう25歳かあ。



編集

過去形なところがミソ。






Final Fantasy IV Prologue




今でも、そんな昂揚を毎日味わっていたいと思う。いや、ゲームの話じゃなくてね。

でも、ゲームってやっぱりすごいよね。どんな人間でも、主人公になれて英雄的行為ができる。しかも今や、それをオンラインで共有できるというのだから。

仮想空間で昂揚感を味わっても……と言う人もいるかもしれないけど、そういう人は現実生活が充実しているからそう言うのであって、もしもゲームがなかったら、現実生活では言うに及ばず、仮想空間の中ですら充実した経験を味わえない人もいたということになる。彼ら/彼女ら(そしてもしかしたら私も?)を救った(ている)のはゲームなのかもしれないのだ。



このページのトップヘ