とはいえ、わからないでもない

2012年07月

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記録によれば、2010年の1月の東京タワーにて。

ここにいた人たちのほとんどは、このときここにいたことをおそらく憶えていない。

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もしかしたら、ここに写っている人で、もうこの世にはいない人もあるかもしれない。なんだか不思議な感じがする。

時間がもっと経てば、もっと不思議に感じられるのだろうと思う。



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今日もそうなのだが、昨日も暑い日だった。昼にいったん帰宅してテレビをつけるとニュースがやっていて「猛暑がつづいていますよ、警戒してくださいね」との報道。当然っちゃ当然。

そのニュースの中で各地の様子が中継されたが、東京あたりだったと思うけど、とあるおじさんがこの猛暑のさなか、顔を真っ赤にしてまさに玉の汗を出してジョギングをしていたんです。

周りの様子を見ても、早朝5時だという感じではないし、どう見ても朝の9時は過ぎている。9時って言ったら、比較的冷涼な当地ならいざしらず、東京なら既に相当な暑さだったのではないか。

おそらくこのおじさん、健康を意識してジョギングをしているのだろうけれども、健康になるどころか、寿命を縮めていますよ。誰か注意してあげないとかわいそうだと思った。

熱中症をひとつのリスクとしてとらえていない人って、結構多いのではないかと思う。ふだんオフィス勤めなんかをしていると、なおさらかも。

熱中症によって病院に搬送された人が、今月だけで5,000人を超えているという事実を知るだけでも、暑いさなかにジョギングなんてしないでしょうよ。




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志ん朝の落語について、弟からメールが届いていた。ミナミで会うより前に来たメールだ。

談志の落語がスリリングなことに言及して、談志は落語を統合的な話芸として捉えていたのかもしれないとし、つづいて志ん朝について触れた。




でも志ん朝の落語の居心地のよさは、そういうこと(=談志のように、落語でお客さんにスリルを与えること)をしないで、ただただ落語を披露することに焦点を置いていたように思う。

(トーマス)ベルンハルトの『破滅者』の中に印象的な一節があって、




グレン・グールドはバッハとプレイエル(ピアノ)の間を完璧につなぐ演奏者であろうとした




というような文(うろ覚え)なんだけど、僕が志ん朝の落語を聴くときに、常にこの言葉が繰り返されている。

そして慣習を逸脱せず、破綻せず、研鑽しつづけることが本当は一番大変だ。

伝統を維持するということは、きっとただ革新的であることよりもずっと困難だろうから。




同意。

米朝落語も主にこういう点を感じる。だから、いわゆる「爆笑もの」でなくても充分楽しい。

そして、ちゃんと上記部分を理解・実践した上で、それでもアヴァンギャルドを目指した談志や、あるいは(方向性は異なるが)枝雀という人たちがいたわけで、基本の源流を踏まえた上で、枝分かれして行ったということをちゃんと理解しなければいけないと思う。まあ、いろいろなものを聴いていけば、それらのことは徐々に自明となっていくと思う。




破滅者―グレン・グールドを見つめて

破滅者―グレン・グールドを見つめて





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わたくし、勉強不足のために文楽というものを、人形を遣った表現藝術としか知らないのですよ。

それでも、




人形の劇なのに人間の顔が見えると、どうも中に入っていけない




なんてことは口が裂けても言えません。こういうのはまったく小学生くらいまでにしか許されない発言だと思うのですけれども、大衆人気を背に頑張っている大阪市長はこういうことを軽々しく口にしてしまうようです。



この人、弁護士をやっていた人間とはとうてい思えないほどに自由に関する考え方がひどい、という話をきのう弟としました。主に国歌斉唱の問題についてです。で、このニュースです。他のニュースには、こういう発言も取り上げられていました。




守るべき古典芸能だとはよく分かったが、ラストシーンでグッと来るものがなかった





言っちゃ悪いけど、相当レベル低い考えしてるな。映画を「泣ける」「泣けない」だけで価値判断するタイプか。ふつうなら「話にならねえよ、お前」と藝術愛好家たちからは無視され軽蔑されるタイプ。

このあいだの志らくの著作についての記事で、私としても反省するところが少なからずありまして、そのひとつが、本当に自分は理解した上で批判をしているのかと自信が持てない部分があった、ということです。

理解していないわけではなかった、とは思う。けれども、相手のキャリアを余りにも無視しすぎてはいなかったか。つまり、批判している相手が、自分が鑑賞している以上の年月を実践にかけていることをしっかりと踏まえてはいなかったのかな、と思います。

いわゆる、「ブーメラン」というやつです。私が立川志らくという四半世紀のキャリアを持つ噺家を「おまえ程度の噺家」とやれば、その言葉は、そのまま私に返って来て、「お前程度の客」ということになります。志らくがそういう指摘をしなかったということは、表現者として最低限の礼儀をわきまえているのだなと感じ入ったし、反対に私自身の小ささを突き付けられたような気がしたので、以後は、いつ誰につっこまれても「はい、そうですよ」と応えられるように、自身の文章に注意をしていこうと思いました。それは、矛先を鈍らせるということではありません。相手のキャリアや努力を認めつつ、私自身は好悪だけで判断せず、もっと大きな、落語全般、あるいは藝術全般に関わる視点でもって批評をしていこうと思ったのです。

橋下市長は、文楽を批判する資格を持っていないように思います。この人が生きてきて知り得たものだけで文楽を判断しようとしている。

この鑑賞態度って、実に現代らしいような気がします。みんながブログやらツイッターで、自らを顧みずに批判できてしまう(含む私)のと、あまり変わりありません。

そもそも、藝術とは即座に誰にでも感得できるものなのだろうか、という大きな問題があります。

落語を例にとってばかりで申し訳ないが、私も、初めは小さんの良さがよくわからなかった。小三治然り。談志然り。どうしてかといえば、私はつねに志ん朝をモデルとして他の落語を判断していたから。志ん朝をスタンダードとすると、この表現はおかしい、とか、このやり方は現代的すぎる、とか。

落語に興味のない人なら、かえって私の鑑賞態度に偏りがあることに気づかれるだろうと思う。他の例を挙げるならば、カラヴァッジョの絵が好きな人(たとえばうちの母)がゴッホの絵を見て、「カラヴァッジョにくらべると、下手。だからダメ」というのには、どこか稚拙な態度が仄見える。正しい態度としては、「わたしはカラヴァッジョの絵みたいなのが好きで、ゴッホみたいな絵は嫌い」という点で留めるべきだ。両者の違いは、「好悪」を「価値基準」とごちゃまぜにしているか否かだ。

よい藝術は、それだけ鑑賞者にも技術を要請するものだと思っています。これもきのう弟と話したことですが、昨今は、「わかりやすい『わかりにくさ』」が流行っているような気がします。小説に関していえば、一見読みにくさはないものの、けれども読めば読むほど、「あ、わかった!」というカタルシスはなかなか得られにくく、結果、「わかりにくい。けれども面白い」という感想をもたらすのだと思います。

村上隆の絵とか奈良美智の絵、あるいは、石田徹也の絵*1なども同様で、入り口は広いが、はたしてその書き示すものを正確に説明することは難しいように思います(と書いていますが、前二者については、ただのかわいいだけのイラストだとしか思えませんがね)*2

けれども本当は、「わかりやすい『わかりにくさ』」の先には「わかりにくい『わかりにくさ』」が控えているのではないかと思うのです。古井由吉の文章を数ページ立ち読みしましたが、その難解さ、けれども、その示しているものの壮大さに圧倒されました。文字通り目がくらむ思いでした。そういう藝術的眩暈を、橋下市長は実生活において感じたことがあるのか。

泣けるものはよい、泣けないものはだめだ、とかそういうレベルに引き下げることなく、彼は文楽というものを鑑賞すべきだと思うし、おそらくそのためにはそれ相応の勉強時間が必要になると思います。

「面白い!」と発言するのに、資格は必要ありません。けれども、「つまらない!」と発言するのには、ある程度の資格が必要です。「だって、面白くないから面白くないんだよ」以外に用意した理窟が冒頭のようなものだとしたら……恥ずかしいですよ、市長。せめてもう少し高尚なものを。



*1:これも、たまたま弟と話題にのぼった。


*2:そもそも説明し得ると思うことが間違いのような気もします。



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こう見えて(どう見えて?)非常に短気です。

少しは治ったつもりでしたが、そうでもなかった。短気ってのは、「他人の鈍さ」にストレスを溜める性質があります。これ、ほんとうに直した方がよい性格なのですが、このストレスは、気配りのある人に出会ったりすると「ああ、世の中も捨てたもんじゃない!」と一気に解消されるので、東京に住んでいたときはうまくバランスが取れていました。

ところがこっちへ来てからというもの、このストレス解消の暇(いとま)がない。溜まる方はものの見事に溜まっていくのですが、そのはけ口がない。いつもニコニコしているふりをしているのですが、その笑顔の強張りにも誰も気づかない。だから、「放っといてくれよ、もう」ということになる。

きのう、弟が横浜から大阪に来るということだったので、ミナミに行って会いました。

外を少し歩いたのですが、すぐに暑すぎて死にそうになったので、高島屋に入っているアフターヌーンティーに行き、軽い食事とお茶を飲むことにしました。

店の前には既に幾人かが椅子にすわって待っており、私はあえて店内に声をかけずに、そのまま弟と椅子にすわり、雑談をつづけました。

すぐに、店のスタッフの方が私たちの存在に気づき、つづいて店内をさらっと見渡し、それからすたすたと静かに近づいてきて、「何名様でいらっしゃいますか?」と訊いてきました。

「ふたりです」

「少々お待ち下さい。ただいまお席をご用意いたしますので」

そう言うと、彼女はまた店内に戻り、それから2、3分のうちに私たちを呼びに来ました。

この一連のやりとりで私が気に入ったのは、まず店の前に名前を書かせる紙のようなものが置いていなかったことです。「山田様 5名 喫煙」というように名前を書いていって、それで店内に案内したら、その名前に棒線を引っ張るというあの紙がなかったのです。

私は以前にもこの店に来ていい印象を得ていたので、この店だったらすべてスタッフの頭の中で処理できるだろうな、と踏んでいました。もちろん何十名という行列ができていたらそのやり方も変更を加えるのでしょうが、数組の客がばらばらと来たくらいなら、人数とその順番を把握できるだろうと思っていました。そう、順番です。私たちは、「並んでいる順番に端から椅子におすわりください」というようなことも言われませんでした。私たちを端から順にすわらせることができれば、スタッフは効率的に順番通りに案内できますが、あえてスタッフたちはそうしなかった。それはなぜか、というのがサービスの根本です。

サービスとか思いやりとか気配りというものは、往々にして合理的・効率的思考から逸脱します。私は飲食店のアルバイトを都合8年近くやっていたので、どうすれば人が喜ぶかということにはいささかの自信があります。反対に、どうすれば人が嫌がるかということにも詳しいつもりです。

たとえば、上の場合で「端から順にお並びください」というのは、突き詰めれば、店の都合を客に押しつけるという行為なのです。店がそれを客に求めるのは、ただ単に「待っているお客さんを効率的にコントロールできるから」という目的からであり、そしてそんなことは、客自身にとってはまったく意味を持たないことなのです。

そしてまた、「端から順に並んでほしい」という説明は、たとえば店に入ることを心待ちにしている中年女性3人組のおしゃべりに、ささやかながらも水を差すということを意味します。

私は、客を完全に自由にさせるべきだと言っているわけではありません。繰り返しになりますが、何十人という「待ち」がいる場合に同じことをする必要はないのです。待っている客が数組の場合、自分ですべてコントロールできるとスタッフが判断した場合において、客を自由にすわらせておいて待たせればいいのです。

そういう自律した判断が怖いから(=自信がないから)、多くの人間はマニュアル化を求めます。「こちらにお名前を書いてください」という小さな立て看板とともに、名前と人数を書かせる紙を置き、端から順にすわらせればいい。それがファミレスの考え方です。

ファミレスにおいては、その思考方法は間違っていません。ですが、アフターヌーンティールームにおいてもそれをするのかどうか。私が思うには、アフターヌーンティーは、ファミレスより居心地のよい空間を提供すべきです。清潔感に満ちた女性スタッフ*1、かわいらしい意匠をほどこした什器、紅茶に特化したメニュー、そして店内に静かに漂うちょっとした高級感……これらを支配しているのが、店自体のポリシー、あるいはコンセプトです。スタッフひとりひとりのそれ(ポリシー/コンセプト)への理解が、高いクオリティのサービスを生み出していきます。

人間個人個人に対して個別に応対できない人たちの振る舞いの有りようを、私は「鈍い」と言っています*2。すべてを一括り。気配りも思いやりもあったもんじゃない。

この1、2年間、そういうのを目の当たりにして、もうすっかり嫌気が差してしまいました。愚痴をこぼした弟には「もう全部放り出しちまえばいいのに」と言われ、まあそれも正論といえば正論で、なにも私がいろいろと我慢して気を回すこたァないんですから、癇癪がよっぽど溜まれば自然とそうなるでしょう。そういう諸々が嫌で人のいないところに引っ越したというのに、かえって田舎の方がそういう諸々に出会(でくわ)すというのは、壮絶な皮肉。ま、しばらく様子を見ることにいたしますが。

そういえば、「鈍さ」ということでいつも思いだすのは、それを自認しながらも直さない人間が、わりと若い人に多いような気がします。

あるときウェブ上で見かけたのですが、20代後半くらいでIT 系のベンチャーを立ち上げた人が、自分のことを不器用とし、そのことをまるで美徳だというように書いていました。それを見たときに、他人とのコミュニケーションが得意ではないということを自分の長所と捉えている人間が、少なからずいるのだということを思い知らされました。

「自分は不器用だから」だとか「自分に正直でいたい」という主義主張(?)は、一見立派なようにも聞こえるのかもしれませんが、実はそんなことはない。そんなポリシーは、他人にとってはまったくゴミみたいなものだと私は思っています。というのは、その意見は換言すれば、「あなたたちは、他人とつきあうことについて、ばかみたいに心を砕いたりしているのかもしれませんけれども、ぼく/わたしは、そんなことは一切しませんからそのつもりでよろしくお願いしますよ」ということに他ならないからです。

その主張にどれほどの思い入れがあるのかどうかわかりませんが、「たとえ他人に『ゴミみたいなもの』と言われようとも、おれ/わたしはそれを貫いて堅持していく」というほどの固い決意がその人たちにあるのであれば、それはそれで構わないと思います。これは皮肉とか厭味ではなく、本当に。

ですが、だいたいにおいてその人たちは「あんたが大事に抱えているのは、ゴミみたいなものだぜ」と言われたことがありません。私は、それに近いことを言われたことが何度かあります。20代の半ばくらいのことでした。それが、私が「社会の厳しさ」というものを知った最初だったのかもしれません。

話はちょっと脱線しますが、この「不器用ですから」という言説は、おそらく某俳優のものとして人口に膾炙したのでしょうが、きわめて狡猾に利用されていると思います。

上沼恵美子がそのラジオ番組で、「ほんとにそんな風に(=「不器用ですから」と)言ったんでしょうかねえ? わたしは、あの人はすごく器用な方だと思いますよ」と言っていました。彼女は、その俳優を貶す意味でそう言ったのではなく(おそらく敬意すら持っていると思う)、あの言葉の一般的な(=流行している)遣われ方に疑義を呈していたのでしょう。私も同感です。そんなことを言うほど、あの俳優は厚顔ではないだろうと思うのです。

他人と円滑にコミュニケーションを取ることに努力することは、私はけっして悪徳だとは思わないのです。小賢しいだとか、つまらないことに苦心しているとか、割りとそういう見方をされがちなのかもしれませんが、すべての人間が我を通してばかりいる社会というのは、けっして居心地はよくありません。

私が多少とも気に入っていた職場では、多くの人間たちがお互いに気遣いをしていました。私は東京や横浜で働いていたのでそれ以外を知らないのですが、その多くでは地縁や血縁に結びついた関係性というものが非常に希薄だったので、それがために、却って心配りを重要視し、それを旨とする雰囲気があったのかもしれません。

当地では、それが反対なような気がします。まず、地縁と血縁とのしがらみがあって、人間個人個人に重きを置いていない。信じられないことですが、「あの地域は、ここより下だから……」みたいなセリフを耳にしたことがあります。「下」というのは地理的なことではありません。「格が下である」と、その発言者は言っているのです。ま、本当はどっちが下なのかは明瞭なのですが、そういうことの是非について客観視できる考え方を持っていない。

当地にいるすべての人間がそうではない、ということがある種の救いを生み出すようにも見えますが、実際のところはそんなきれいごとじゃないのです。他人を侮蔑し、踏みつけようとする人間の心は、すぐに他人に影響を及ぼし、巻き込んでいきます。いじめ問題の渦中にある大津市での一連の報道が教えるところは、世間から批難を浴びている当事者たち(加害者ではなくて)は、その対応のまずさにあまり気づいていないようだということです。それくらい、「しがらみの中」にある人たちは世間知とはずれたものを持つようになるということを意味しています。

私がそれほど不幸ではない、ということが現在のところの不幸中の幸いですが、当地のこの旧弊な体質が早く崩壊すればいいと願っています。



*1:客のほとんどは女性です。その彼女たちに好印象を与えるのは、きらびやかに化粧した女性ではないはずです。


*2:もちろん、そういう障碍/病気がある人たちのことはここでは含めません。



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このあいだラジオで流れていて、「懐かしい!」と思った曲。

調べると、永六輔と中村八大の「六八コンビ」。いいねえ。






初めての街で / 西田佐知子




30代半ばでこの曲がいいってのは、だめですか。



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不幸っていうのは相対的なものです。

私の記事には、よく愚痴っぽいおばあさんの話が出てきますが、このあいだも散々っぱら聞かされました。

だいたいの話はもう暗誦できるくらいに聞かされているもんだから、『住吉駕籠』のようにこっちが全部代弁してやろうかと思うくらいなのですが、そういうわけにもいかず、自分を「そうですね、大変ですよねえ」をただただ繰り返す機械だと思い込むようにして、聴いているふりをして話を聴いていませんでした。

これが、「足が痛くてねえ」という話であれば、「そうですね、大変ですよねえ」というセリフはちょっとおかしいところもあるけれどそこそこ通用するのですが、そのときは、相手が「わたしはどうも頭が悪くて」と言ったもんだから、ついうっかりと「そうですね、大変ですよねえ」と言いそうになって慌てることとなりました。やっぱりオートリプライマシーンになるのは、生半なこっちゃできないようです。

で、その中で「わたしは片方の目が悪くて……字をよう書かんのよ」という話をされました。

これも初聞きではなかったのですが、話を聴いている限りじゃ今にも失明間近ということなんだけれども、その目を見ればそのような風でもない。そこで「視力はいったいいくつくらいなんですか?」と訊いてみました。そうして返って来たのが、「0.4」という答え。

ふむむ。0.4じゃ、今日び、目がいい方かもしれませんね。そのおばあさんは昔は目がよかったのでしょう。それで、病気か何かで目を手術した。その結果、目は大事に至ることはなかったのだけれども涙がよく出たり、あるいは視力の低下を引き起こしたということのようなのですが、視力の低下が、もし0.4程度になったというくらいならば、老眼鏡をかければ解決する問題のように思うのです。少なくとも、毎回話すたびに私の時間を5分10分毟り取るネタにするほどではないと思うのです。

私がお付き合いしたことのある女性は、両目とも0.03でした。メガネ・コンタクトレンズなしじゃ生きていかれないと広言するほどでした。

ある日、彼女がコンタクトレンズを頼むだかで一緒にメガネ屋に行ったことがありました。

彼女が店の人と話しているあいだ、私はどうにも手持ち無沙汰だったので、視力測定機というのか、あの顕微鏡のでっかいやつに目を合わせて視力を測っていました。

結果はレシートみたいなものにプリントアウトされていました。それによれば両目とも「1.2」。「問題ないようです」というメッセージまでついていました。そうです、私は視力がよいのです。けれども、少し低いなと私の中では感じられたので、もう一度挑戦。今度は右目が「1.5」、左目が「1.2」のままでした。メッセージは、「問題ありません」とありました。

彼女が「なにやってるの?」と話しかけてきたので、「ああ、いま視力を測っていたんだけれど1.5と1.2だった。いいでしょう、いいでしょう?」と大きな声で答えました。あまりにも大きな声だったようで、店内にいた人がみんなこちらを振り返りました。みんな、それぞれに眼鏡をかけて、「自分の視力のなさ」を恨んでいるはずでした。そこへデリカシーのない男が大声で「1.5と1.2だった。いいでしょう、いいでしょう?」と叫んでいます。その男は、目いいのでしょうが、どこか別のところは悪かったようです。

彼女は「ふうん」と興味なさそうに答え、私はあらためて、両目を1.5にするべく何度も何度も測定してみました。

いま考えてみれば、メガネ屋が必要としているのは、視力の悪い人間です。ですから、0.5とか、0.3とか、そして0.0いくつ……と低い方はかなり小刻みに数値が用意されているのに、高い方には、1.2とか1.5とか2.0とあるだけで、どうにも扱いがぞんざいです。メガネ屋からすれば、「1.0以上ならどうでもええわい」というのが本当のところなのです。

しかしそのときはそんなことに気がついていないものですから、何度も何度もトライする。けれど何度やっても1.2と1.5のまま。メッセージは「視力は大丈夫です」とか「視力について心配することはないです」と変化してきました。それでも何度も何度も挑戦する。メッセージはどんどんと過激になってくる。

「問題なしや。目のこと気にせんでええて、自分」「もうええって」「もうええちゅうとるやろ」「もうやめとけ」「時間の無駄やで」「時間の無駄やて言うとるやろ」「自分、耳ないんか。時間の無駄やって言うとるやろ。やめてもう帰れや」「はよ去ね」「去んでクソして寝てろ、このボケ、カス」

私は思わず、「なんだ、ずいぶんとひどい言いようだな」とつぶやきました。すると、測定もしていないのに測定器に内蔵されてあるプリンターからカタカタカタとメッセージがプリントアウトされて、読んでみると、「なんや自分、ちゃんと耳ついとるやないかい」



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22:00にやっと帰宅。

仕事を優先すると畑の仕事がついつい疎かになってしまい、口にLED ライトをくわえて晩飯用のレタスを収穫してきた。

真っ暗な中を、LED の光は驚くほど明るくしてくれるのだが、いかんせん私の持っているのは、映画でトム・クルーズがくわえてそうなペンライトではなく、どちらかといえば細めの懐中電灯みたいなもので、口が疲れる疲れる。あががががが。顎が攣るかと思いました。

しかしこれで誰かに見つかったら、レタス泥棒に間違えられるのかと思うとえらく癪にさわる話なのだが、レタスは安いのでそういう心配はない。

今日はピーマンも収穫した。それにしても、ピーマンの香りってのは、実にいい香りだ。ぶどうの一品種であるカベルネ・フランはよくピーマンの香りと評されることが多いが、そのときにはピーマンの香りってどんなもんだろう程度にしか思っていなかった。しかし、いざ採りたてのピーマンを鼻に近づけると、うひひひひひ、と思わず声が漏れるくらいに好みの香り。まあ、この香りが実感できる今となっては、反対にカベルネ・フランのワインをすぐに飲める状況じゃないっていう、世の中、実にうまくできてるもんですな。

レタスもトマトもルッコラも、そしてピーマンも自家製で、その他は、にんにくが隣の村の人が作ったもので、きゅうり、なす、そして(自分のところで作っているから要らないっていうのに)トマトは近隣の人にもらった。こうやってあらためて書くと、「すげえ」って感じだが、慣れてしまえば「こんなもんでしょ」となる。冷蔵庫の中が野菜でパンパンになっていて、うまい消費の仕方がないもんかね、と思案にあぐねるほど。

どころか、こんなに「自然派」みたいな生活をしていながらもときどきは、マックに行ってあの匂い立つフライドポテトを飽きるまで口に放り込んでいたいと思うもんだから、人間ってのは贅沢なもんです。



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この人、アメリカでは相当に人気者みたいで、たしか『ナイトミュージアム2』にも出てきた。残念ながら当該作品を鑑賞中に寝てしまったが。

で、最近もニュースになったなあと調べてみると、CNN のニュースが出てきた。そう、たしかこのニュースで、彼女の名前を知ったのだった。



Wikipedia にも遭難についての仮説が掲載されているが、そういうことよりも、とにかくまだ若い女性が事故に遭い、その結果死んでしまったというのは可哀想な話。



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