とはいえ、わからないでもない

2012年09月

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一昨晩は月がきれいに出ていたので、仕事場に車を置いて家まで歩いて帰って来た。「中秋の名月」でなおかつ満月というのはほんとは今日のことだったみたいだが、今夜は台風がきれいに去ったとしても雲に隠れて見えないだろうと思う。

以前から、月夜の道を歩きながら写真を撮りたいと思っていた。

ここいらは街燈が少ないので、月のあかりがいろいろなものを静かに柔らかく見せるのを邪魔しない。その眺めを写真に収めたかった。

結果から言ってしまえば、私のカメラではISO が低すぎて(高く設定するとノイズがひどくなる)、しかも長時間露光が15秒までと限られていたので、写真を撮ることはできなかった。それでも、私はカメラを片手に持ちながら、月光が照らす夜景を味わいながら帰った。

帰宅時間は19時をちょっと回ったくらいだったので、月は右手に見える稜線のうえに上がったばかりだった。

左手には比較的新しく建てられたログハウスがあって、そこの持ち主は、そのときにはまだ帰宅していないようだった。月光が家の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。その家の中から、電気もつけずに外を眺めたらそれもまたきれいに見えるのだろうなと思った。

ときおり車とすれ違う。たぶん運転手は、私が暗闇の中をすたすたと歩いているのを不審に思ったことだろう。不審というよりは不気味と言ったほうがいいかもしれない。

もう少し歩くと、角度の問題で月が稜線に隠れた。それでも、間接的な明るさによって右手に見えるのが資材置き場だということがわかる。山土がピラミッド状に集められていたり、大きなガラガラの石が積み上がっていたりする。クレーンやユンボ等の重機が静かに眠っている。砂利でできただだっぴろい広場は、なんだか舞台みたいだ。もし私がコンテンポラリーダンスをやっていたのなら、この照度のまま、三脚で固定されたビデオカメラの前で、白くふわふわとした衣装の女の人を踊らせたいと思った。

しばらくすると街燈がひとつ、やっと見えてくる。オレンジ色の光。車で走っているときにはまったく気づかなかったが、電燈の部分には大きな蜘蛛の巣がかかっていた。うまいやり方かもしれない。「飛んで火に入る夏の虫」らがぱたぱたやってくるところを捕まえようというのだから。でも、蜘蛛自身は眩しくて寝られないのではないだろうか。それとも夜は寝ないのか。

街燈を右に折れる。また月が山の向こうに見えるようになった。

木材を処理する工場(こうば)があった。スギ(だと思うのだが)の丸太が積まれたところが、なぜか月の下では絵になっていた。猪のなすがままになっている田んぼがあった。耕す人間が年をとりすぎていて満足に手入れできないとか、そういう噂を聞いていた。なるほど稲穂の部分部分が倒伏していた。ここもいつかはススキの荒れ野になるのだろう。そのときでも猪たちは、いや、そうなったらますます彼らは、家族を引き揃えて月あかりの下で楽しく踊りでも踊っているのかもしれない。

これぞ田舎という風景だった。

この夏はずっと忙しい思いをしてきた。楽しいことは少ないし、人間関係に面倒も多かった。引っ越してきて私が手にしたものなんてほとんどない。猫2匹だけだ。

でも、そのとき私の目の前にあった光景、灯りのほとんどなく月光だけで認識できたその光景だけは、すべておれのものだと思った。一時的にやってきて「すばらしいところですね」とか「いいところですね」としか言わない連中では絶対に手に入れることのできない景色を、ほんの少しのあいだだけ立ち止まって、私は見ていた。

車がまた通り過ぎた。私が住んでいる通りが見えてきた。

時間が時間だから、まだ何人かの人間が歩いていた。夜の散歩はおしまいだった。なぜ歩いて帰って来たのかと人に訊かれるのがいやだったので、その人たちに見つからないように歩いた。

家に着き、鍵をがちゃがちゃとやっていると、猫たちが玄関に迎えに来ていた。ただいま。



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試訳してみた。




青春の律動



海邊に馬を繋ぎ留め 須臾(しゅゆ)の間 汝(な)を抱きし麗しの夜

たとひ創痍の身となりても慈愛を手放すことなく過ごせし余は

汝の希望(のぞみ)ならば無頼を捨つる所存にあり

わが蛮勇は世に聞こえ 爭(あらそ)ひに負けた例(ためし)なし

ただ此の懸想(けそう)を失ふことのみを惧(おそ)



青春の律動 行く末をわれに託せ

血潮の鼓動 じきに汝に祝福を与ふ 之を疑ふ餘地なし






「原文」は以下。




ハイティーン・ブギ



海辺にバイクを止めて 一瞬マジにお前を

抱いた Lovely Night

俺たち傷だらけでも 優しさだけは捨てずに

生きて 来たぜ

お前が望むなら ツッパリも止めていいぜ

俺はこわいもの知らず ケンカなら負けないけど

この愛を失くすことだけ こわいのさ



ハイティーン・ブギ 未来を俺にくれ

ハイティーン・ブギ 明日こそお前を

幸せにしてやる これで決まりさ






「ブギ」がどうしても訳せなかったので、誤魔化した。ほかにもいろいろと誤魔化している。




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弟におせぇてもらった動画。






GANGNAM STYLE / PSY




再生回数が3億近い。それもよくわかる感じの中毒性。



メインのダンスがどこかで観たことあるなあ、と思っていたら、あれだ。私の好きな「Evolution of Dance」にあったやつだ。






2:50あたり




たぶん、馬に乗って荒縄を回しているところなんだろうけど、たぶんこの踊りには名前がついているんだろうな。



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メモ。

小三治の『天災』を聴いていて、やっと「ならぬ堪忍、するが堪忍」の意味がわかった。

『天災』に出てくるのは「堪忍のなる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍」のフレーズで、現代語訳にすると、「ガマンできるガマンだったら、みんなしてるじゃん? みんながガマンできないことをガマンするのが、ほんとのガマンじゃね?」ということのようだ。

あと、以前「日本の話芸」でやはり小三治が『千早振る』を演っていたのだが、そのときのマクラで、こんなことを言っていた(うろ憶え)。




わかってもいないのに、わかったふりをする奴。これはいけませんね。けれども、それ以上に、わかっているのに、わからないふりをしている奴、これが手に負えない。でも、それよりもっとろくでもない奴がいるんです。それが、わからないのに、わからないふりをしている奴。





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先日ラジオで、アスペルガー症候群のお子さんを持った方で、その子がいじめにあって苦労されたというお便りが紹介されていた。

その親御さんは立派な方で、子どもがいじめにあってもヒステリックにならず、学校側に働きかけ、いじめた子とその保護者との対話をさせてほしいと訴えたそう。はじめ学校側は断ったが*1、粘り強く交渉して話し合いに持ち込んだらしい。

その対話の中でも、その方は「なぜうちの子どもが殴られるのか、ひょっとしたらうちの子どもにも悪いところがあるのではないか」という姿勢で取り組んだため、その対話は実りあるものとなり、加害者側の子どもの「こっちを睨んでぶつぶつ言ってくる」といういじめの「理由」も聞き出すことができ*2、加害者の反省および加害者の保護者による謝罪(自分の子どもを強く叱ったそう)も引き出すことができたらしい。

加害者はひとりだけではなかったのかな、その後いろいろと動き回ったおかげで、深刻な被害には至らなかった、と何年か前を振り返って述懐する、というのがそのお便りの内容だった。

そのお便りの主は、まとめとして、「被害者はもちろんそうだが、加害者も弱い人間です、云々」ということを述べていたが、私はそれを聞いていて、それは違うだろう、と思った。

被害者の親御さんが言うことに「間違い」などあるはずもないのだが、ただ、その方がそういう主張をされてしまうと、「ああそうだ、いじめっ子も弱いんだよなあ」という論調が世間にできあがってしまう。そんなことは絶対に避けなければならない。

ときーどき、の話だが、「ヤクザも弱い人間なんだよ」みたいな言説を目にする。「弱い人間だから、社会からあぶれ、弱い者いじめをするんだ」云々というロジック。「ヤクザ」は「不良」でも互換可能。たしかに論理的には間違いないかもしれないけど、だからってヤクザを慈愛のまなざしで見るという気にはならない。その弱い者にさらに虐げられている「もっと弱い者」はどうなるんだって話。いい面の皮でしょ。

それとおんなじで、「いじめっ子も弱い人間」なんていう認識はまったく必要がない。おそらくお便りの主は、「だからいじめっ子も救ってあげよう」という意図ではないのだろうけれど、ちょっと誤解されがちな言葉なので、私はあえて反対したい。

もうちょっと言うと、いじめっ子は弱い人間ではない。いざとなりゃ弱いふりができるってだけ。親の年代からすれば、「まだ子ども」かもしれないが、その「子ども」たちがいったいどれだけの仕打ちを全国各地の学校でしてきたというのか。

私が子どもの頃でさえ、隣の中学校では、いじめられっ子の口の中にティッシュを入れて、それに火をつけたっていう噂を聞いた。その火をつけるクソガキが弱い人間ですか? こんなのを「いじめ」という言葉で表現するのもおかしい。傷害事件。学校の問題ではなく、もはや警察マターだ。

「弱い」って言葉をどう捉えるか、が問題だけど、もしそこに少しでも「助けてあげよう・救ってあげよう」というニュアンスがあるのだったら、繰り返しになるが、そんな言葉は遣うべきではない。そいつが弱い子どもだから助けてあげなきゃっていうのだったら、火をつけられた子どもは救われない。火をつけられた子からすればだ、火をつけたいじめっ子は火あぶりにしたっていいと思っているはずだ。そういう憎しみが心に生じてしまっている子どもたちを救わずに、救えずに、加害者なんかのことを考えるべきじゃない。たとえポーズだったとしても、そういう態度(「いじめる人間も救おう」)をいじめられている子どもたちに見せてしまったなら、子どもたちは悲観する。その結果、どうなるか。自殺しか道が残されていないじゃないか。

昔はおれも悪さをしてね、みたいな言葉が私は大っ嫌いで、おまえはそれに対してちゃんと償ってきたのかよ、と必ず思ってしまう。

井上三太の『隣人13号』という漫画があって、昔いじめっ子だったヤンキーが、今は更生して立派な家族を作っているのだが、いじめられっ子だった人間が二重人格だかなんだかで、そいつとその家族の命を狙う、という話だった……と思う。




隣人13号 1 (バーズコミックス)

隣人13号 1 (バーズコミックス)




私は、復讐する二重人格のキャラクターを応援しながら読んだ。更生したからどうなんだよ、おまえの更生と、傷つけられた方の苦しみは無関係なんだよ、いいぞ、やれやれ、殺してしまえって感じで。

昔からある言葉に、「憎まれっ子、世にはばかる」というのがある。意味はちょっと変わるが、「いじめっ子、世にはばかる」でもいいのではないか、と思う。私は、多くの人がびっくりするくらいのこの言葉の実例を知っているが、それをここで書くとちょっと問題があるので書かないけれども、世間ではたいてい、いじめっ子が成功する。いじめっ子は、図々しく厚かましく調子がよく嘘つきで他人のことを脅かし騙す術に長けている。こんなのはただの技術だ。

一方、いじめられっ子は、子どもの時代に傷つけられたせいでなにをやっても自信が持てず、もしなにかがうまく行きそうになっても、やがて目の前に大きな悪意の壁が立ちはだかるということを、なんとなく予感するものだから、結局行動力がなくなる。

私は金八先生というテレビドラマをけっこう楽しんでいた方だが、あの「いじめっ子にもつらいところがあるんだよ」という予定調和がどうにもいやだった。世の中、それ相応の原因があるから結果がある、だからその悪因を取り除いてあげれば子どもたちはみないい子なんだ、っていうのは、絵空事だ。子どもたちが更生することもあるだろう、けれども、更生しない場合もあって、原因なんてはっきりしないことも多い。もしかしたら原因はないのかもしれない。人間の心を、なにかの方程式にはめ込もうというのが、おそらく間違っている。

いじめられた子といじめた子が和解することもあるかもしれない。けれども、ほとんどの場合がないと思う。なぜなら、いじめられた子どもたちのうちに生じた復讐の炎は消えないからだ。残念ながら、その炎は復讐を完遂することでしか消せない。

お便りの例で、「ぶつぶつ言ってくる」から腹が立ち、殴ったという加害者は、その説明が自分でもよくできた嘘だということをわかっていたのではないか、と私はラジオを聴いていて思った。本当の殴った理由は、残酷なことに、「単純にむかついたから」だと思う。これは私の邪推だが、間違っていないような気がする。

多くの人間は美化しがちだけど、子どもは信じられないくらい残酷だ。

誰かも書いていたけれど、子どもは、大人と同じように残酷な発想ができるくせに、大人と同じようには抑制が働かない。学校みたいに狭い社会では、その残酷性・残虐性がエスカレートしていき、究極まで追い詰める。もう少し加えると、大人(教職員)も、教室内でなにが起こっているかは気づいている。もし気づいていないというのであれば、その大人は、精神的欠陥を抱えている。心情的な意味ではなく、あくまで病理的な意味合いとして。

こんなことを書いているが、私は、かつていじめっ子だった。集団で誰かを傷つけるということはしたことがないが(集団が苦手だったので、したくもなかった)、誰かを傷つけるということはしたことがある。精神的に人を追い詰めることをするタイプだったと思う。「だった」と過去形を遣えるのかどうかはわからないが。私は、かつての同級生にある日突然にナイフで脇腹を刺されても文句が言えないな、とも思っている(もちろん、それに見合うほどのひどいことをしたとは思っていないけど、恨みは増幅するものだから)。それはクッシーとかヨッシーとかでも同じことだ。



そして、たいしてひどいことをされたわけでもないが、いじめられっ子の側に立ったこともあった。

中学生のとき、部活で女子の先輩にあまりにも可愛がられたのが同級男子の気に入らなかったらしい。ある日から突然無視。

しかし、私はわりと強い人間だったので、この無視が辛くなかった。クラス全員に無視されたというわけでもないし、あくまで部活の同級男子(2人)からだったので、屁でもなかった。というより、その原因が嫉妬だとわかっていたので、精神的に優位に立っているくらいに思っていた。

そのあげく、嫉妬男子は私の生徒手帳を破り、私はそいつを殴って、いちおう片がついた。以後、私は男と仲良くなるのが苦手になったのだが、その原因は同性の嫉妬が怖いからだ。

余談だが、私は、可愛げがあるようで可愛げがなく、意地悪で、残酷なことをすぐに思いつき、しかもそのうえ嫉妬深いところがあった。嫉妬がなくなったのは、人間への執着がなくなったから。上の三要素だけで、語弊があるが、私がよく「女っぽい性格」と言われていたことが納得できる。いい意味でも悪い意味でも、と言いたいが、たぶん悪い意味しかない。余談終わり。

話は戻るが、いじめっ子は弱くない。相手の弱点はすぐに見つけられるが、自分の弱みはなかなか見せない。見せたときには、それを武器にすることすらある。

だから、いじめっ子は、なるべく若いうちに叩きのめした方がよい。いじめっ子も救ってあげたいというのであれば、精神的に叩きのめすのが一番だと思う。暴力ということではない。自分の行なっている残酷さがもし自分の身に降り掛かってきたら、という恐怖を覚えさせるのだ。自分がふだん弱い者に対して見せつけている悪意を、見せつけ返してやればよいのだ。

それはともかく。

いじめられっ子を救ってあげなければならない。いじめっ子の狡猾さや陰険さから救ってあげなければならない。そのために、親御さんや兄弟は、彼/彼女の味方になってやってください。友達はあてにならない。学校もあてにならない。警察もあてにならない。信じることができ、頼ることのできるのは、おそらく家族くらいなものだ。

でも不幸なことに、その家族すらあてにならないときもある。そうなると、その子どもはどうすればよいのか。今の子どもたちは、可能性という観点に立てば、みな、そのような状況を生き抜こうとしている。



*1:学校の反応ってどこも同じなのか。昨今のいじめ関連のニュースで、教職員全員と言わないまでも、かの職業に対しては相当な偏見を持つようになった。


*2:その後、子どもがアスペルガー症候群だということを知ったという。ぶつぶつ言っていたのは、文句ではなく、ひとりごとだった。



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弟に薦められて聴いた川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう)の「笑話歌謡史」。






笑話歌謡史1/3 - 川柳川柳








笑話歌謡史2/3 - 川柳川柳








笑話歌謡史3/3 - 川柳川柳




「茶色の小瓶」のところは一聴の価値あり。まさに藝の世界。

この話、笑い話のように話しているけれども、底に悲哀が流れている。軍歌を歌えば「右翼?」と見なされる時代、だから川柳も「わたし、右翼じゃないですよ」とわざわざ断っている。私も全然詳しくは知らないが、軍歌にもいい歌がある。けれどもそう言ってしまうと、なんだか違う捉え方をされてしまうので、どうにも扱いにくい話題。音楽を単純に音楽ととらえれば話は簡単になるのだけれど。

この噺(?)は「ガーコン」(オチの部分に関係あり)と呼ばれているみたいで、先日の圓丈の「前座さら口の夕べ」でも、前座が立ち上がったとき、「お、あれは『ガーコン』をやるのでしょうか?」と実況が叫び、解説が「『ガーコン』なんて言ったってお客さんの中でわかる人すくないんだから!」と突っ込んでいた。





【追記(2012.9.27 19:00)】


以上を踏まえて、下の動画を観る(聴く)と至福。「かわいそーなのが、田舎のお父さん」






ガーコン - 古今亭右朝




この右朝さん、初めて聴いたのだがすばらしい声・話し方をしている。調べると志ん朝の弟子ということがわかり、なるほどと得心。

だが残念なことに、もう亡くなっている……。




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私のところだけの問題かもしれないけど、日付表記がおかしい。

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赤枠で囲んでいるところのように、日付が「○月○日」という表記ではなく、「○時間前」あるいは「○日前」になってしまっている。



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他の記事でも。





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他のページでも同様の表記。



他のユーザーさんで同テーマを利用しているであろう方のを見に行ってみたら、上のようにはなっておらず、通常のままだったので、私のところだけ(?)おかしくなっている可能性が高い。

一応、はてなには連絡しておく。




追記(2012.9.26 20:50)


修正されたようです。





本日(2012年9月26日)11時から15時半ごろまで、ブログの日付表示がおかしくなる不具合がありました。現在は修正済みです。






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ここに来る前に働いていたのは外資系の会社でありまして、私はそこでいわゆる「ハケン」をしていたのですが、いろいろと「ハラスメント(いやがらせ)」についての講習を受けました。また、事あるごとに上司から「こういう場合はハラスメントに当たるよ」というアドバイスなどももらったりしていました。これは、私がパワハラやらセクハラをしていたというわけではなく、そういう事例をまとめたりして社内に通知する資料なんかを私が作っていたからです。

その中で言われたことのひとつに、「なにかの集まりがあって、そこに来た外部のお客さんに名前や住所を書いてもらうことがハラスメントに当たる場合があるよ」というのがあって、それを聞いたとき、「ええ、さすが嘘でしょう、それは」と言ったのですが、「いや、ほんとに」と上司は真面目な顔をして答えました。その理由は、「名前にしても、住所にしても、漢字で書けない人がいるといけないから」



むかし、宝島社の「VOW」で、飲食店の看板等における「キャベ」などの誤植が掲載されていて、げらげらと笑ったものです。

けれどもあの誤植にはそれ相応の意味があるらしく、たしか高島俊男のエッセイだったと思います、ある年代(高齢者)は初等教育できちんとカタカナを習わなかったということが書かれていた、とうろ覚えに憶えているのですが、戦時中の国語の教科書といえば、なんとなく「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」みたいなものをイメージするくらいですから、私の記憶違いということもありえないわけではありません。けれども、ある年代のお年寄りが、たとえば「シ」と「ツ」を書き違えることにはやっぱり明確な理由があったはずで、それはげらげらと笑い飛ばす性質のものではなかったように思います。

今、小学生のうちから外国人の先生が教室にやってきて「Hello, everyone!」とやってくれ、それに対してネイティブな発音でやりとりをしている世代と較べて、(語学留学や特別な英語学習を体験していない)一般的なわれわれの世代は、「あー、ハウワーユー?」みたいな片言でしか応じられなく(応じられるだけでも「御の字」だと思います)、それを小学生に「おじちゃん、だっせー!」みたいに言われれば、その頭をゴチンとやるくらいの憤りは生じるはずです。

先日、近所のおばあちゃん(70代)が手書きしたものをたまたま見る機会があったのですが、そこには「キャベシ」とありました。また、「きゆり」だとか「サラザ」などの単語も。

「きゆり」が「きゅうり」を示しているのはおわかりだと思います。後者ですが、和歌山では「ザ」行と「ダ」行の互換が多く見られます。つまり「サラザ」は、「サラダ」の和歌山的発音であり、その音のままを表記したわけです。

これは差別ではなく知っておいた方がよいひとつの事実なのですが、常識的な文字表記を日本人の誰もができるとは限りません。日本人に文盲はおらず、識字率も100% であろうというのが共通了解されている一般通念だと思いますが、統計上の数字はそうであっても、実際には、「読み」はいざしらず「書き」を苦手とする人は少なからずいる、ということです。冒頭に書いたような「名前と住所を漢字で書くことのできない人」もいないわけではないでしょう。

それから、(一部の)お年寄りのカタカナが苦手なことについても知っていたので、「キャベシ」「きゆり」「サラザ」等の誤記については、「まあ、そういうもんだよな」程度にしか感じませんでした。もちろん、笑うこともありませんでした。

しかし、です。ベビーリーフの誤記で「ベビービーフ」の文字を見たときには、さすがに吹き出しました。そりゃ「仔牛肉」です。



最後にちょっと余談ですが、「VOW」には、海外での「奇妙な日本語」等も掲載されていましたね。ネット上では下のような画像が見つかりました。




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280の「うーxこ(辛口)」。よく考えればなにを意味しているかわかるのですが、どうにも違う単語を連想してしまいます。



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