とはいえ、わからないでもない

2012年10月

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備忘録的目的で。

ついに13段目まで来たわがトマトだが、もうカビが生えたり割れたりで、ろくなもんじゃねえとばかばか捨てていたのだが、ふと思い立ち、その割れているトマトの割れている部分を庖丁で丁寧に除けて、食べてみたらめちゃくちゃ旨いのにびっくり!

9月の半ばに摘芯をし、それ以来肥料も水もやっていないというのに、この甘さたるや、いかに表現できようか(いや、できない)。

おそらく、日中の気温がだいぶ下がったので、熟すのに時間がかかっているということ*1と、水分が少ないことでストレスがかかり果実じたいが糖分を蓄えている、というのがもっともらしい分析。皮の部分は少し硬くなってはいるのでやや口に残る感触はあるけれど、これ、本当においしいです。

ただ、赤くなったと思ってもすごく苦味がある場合もある。これはどういうことかとちょっと調べると、低温下での未熟成が原因らしい。



熟す前に落果した緑色のトマトで、この苦さが体験できる。来年はこの緑トマトでピクルスを作りたい、などと思ってマス。



*1:トマトに限ったことじゃないけれど、生育に時間のかかった作物はおいしい、という専門家の話を聞いたことがある。



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一昨日に『筒井康隆文芸時評』を読み返した。




筒井康隆の文芸時評 (河出文庫―文芸コレクション)

筒井康隆の文芸時評 (河出文庫―文芸コレクション)




わかりやすい。わかりやすさは、理解の容易さとはちょっと異なる。共感のしやすさ、と言った方がよいか。

長々と書き連ねられた挙句に結局は「あれ、結論は出ないの?」みたいな文章に慣れ、どころか、「結論を出さないことが肝要」という昨今に流行っている見方・考え方に慣れてしまうと、このような断定口調がかえって新鮮に感じる。いや、断定といってもそこに独善的な印象を感じられないからこそ共感を覚え、そして文章のスピード感も相俟って、これまで行き着くことのなかった新たな地平へと一気に運び去られてしまう心地よさを味わうこともできた。

以下に、気に入った文章を引用していく。




文芸誌の編集者が「ここをこうすればもっと面白くなるのでは」と助言した時、たいていの作家が「面白い」と訊ね返して眼を丸くするというが、「面白さから遠ざかることこそ文学の面白さ」などギャグにもならないのだ。さらにまた文芸批評のほとんどが面白くない。文芸批評も文芸である。批評家同士が互いの批評言語や主張をあげつらってああでもないこうでもない。もういい加減にしてくれと言いたくなるが、作家までがこうした読者無視に巻きこまれるから平気で面白くない小説を書くようになる。

(28p-29p)




ここは、私がいっつも感じていることをズバッと書いていてくれて嬉しい。「日常を描いた」などという言葉でしばしば代弁されてしまうような小説もあるにはあるが、やっぱりそれは面白くないわけで、読み手としての私の伎倆不足も多分にあるのかもしれないが、それを差っ引いても、書き手の方で面白さを抛棄してしまっている小説もあるのだ。

「面白さ」については、違う箇所でも言及している。丸谷才一の『女ざかり』を、「ポスト・モダンの難解小説や新人のお稽古ごと文学によって、文学から置いてけぼりにされたと感じている読者の帰還を促す成熟(61p-62p)」のひとつの成果と賞めた後、




この本に対して出るだろうと思っていた感想がやっぱり出た。コラムというのはどの新聞も概ね小説に関していつも半可通で困るのだが「面白いだけであとに何も残らない」と馬鹿なことを書いているコラムがあった。あのねえあなた。「面白い」ということは残ったのでしょうが。小説に対してほかに何を要求するの。もっと深く思索したいのなら哲学やったらいいでしょ。それに哲学だって一種の面白さなんですよ。

つまりこういうのが成熟に水をさす議論なのである。

(63p)




この文章を読んでいて、実は私自身がドキッとした部分があって、主にミステリを読んだのち、弟にその感想を述べる際に、「面白かったんだけどねえ……」と生意気に言葉尻を濁すことがある。たしかに私の中でなんとなく物足りなさをそのときには感じているのでそういう表現をし、面白さだけでは不十分であるということを匂わせていたのだが、上記文章を読んで、これはよくないことだと反省。物足りないのであれば面白さが足りないからなのかもしれないし、あるいは、面白さ以外のなにかを不当に要求している*1ということも考えられる。



小島信夫のことも触れられていて、この部分は非常に興味深い。




小島信夫の小説はいつも面白いが、その冗長ぶりが常に否定的に指摘されるのは不思議なことだ。長い小説の長所のひとつが「長いこと」であるのは小説というジャンル発生以来の真実なのだから、冗長を批判するのなら小島信夫ほどの作家がそれを冗長と思わないで書いた、イコール、ボケているという失礼な判断をしているのではないことを証明するためにも、それをどこが「いたずらに」長く「無駄が多い」のかを指摘しなければなるまい。そこを見極めようとすればその冗長さにとてつもないユーモアの仕掛けがあることくらいすぐわかる筈だ。

(中略)

尚、こういう凄いことは小島さんだからこそなかば無意識でできることなのであり、普通の作家が意識的にやろうとしてできることではない。試みようとされる向きには是非やめることをおすすめしておく。

(32p-33p, 39p)




小島信夫といえば、弟いわく「保坂教の教祖あるいは御本尊」だから、いまやアンタッチャブルな感じがあるけれども、そういう冗談はさておき、保坂和志がよく「不穏」と表現する、いわばシリアスな評価の仕方に対して、筒井は「ユーモア」という比較的ライトな評価の仕方をしていて、両者ともに肯定評価ではあるのだが、私としては筒井の批評の方がわりとしっくりくる気がする。

もちろん、保坂和志も、不穏さの中にユーモラスな部分があり、そのユーモアを掻き分け掻き分けしていくと、やはり深奥には不穏さがあり、とそれらが混淆となっている点を小島作品の長所と捉えているのだろうが、筒井があからさまに書いてしまっている「ボケている」というのは、実は小島作品に初めて接したときに多くの人間が思い浮かべる疑念なのではないか、と思う。

小島信夫の最後の作品『残光』も、自身が過去に書いた作品を「これを自分が書いたとはとうてい思えない」という感想を述べながら引用し、解説し、そうしてまたその引用されたテクストの中で引用されている(自分の)作品を解説し、そうしてまた自身の感想が入り、他人(保坂和志とか)の感想が入り、その混沌さがお祭り状態で、しかも小島信夫はその状態をおそらく相当に意識的に書いていて、その証拠に「ポリフォニー」というキーワードで書かれた書籍(ここらへんは失念している)の著者がやってきて、「小島作品をポリフォニックだ」と評するような箇所も出てきて、虚実*2をこれでもかというくらいに綯い交ぜたのが、すなわち『残光』であり、私はこれを読んで、『残光』は文学という分野のひとつの結晶だという感想を抱いた。この小説の底辺に流れるのは、文学を実人生として生きている小島信夫という人物の凄みと、どうしてもそこにまとわりついてしまうユーモラスな雰囲気との二筋で、筒井は後者を指摘しているのだろう。



「ハードボイルド」について解説している箇所もあった。これは勉強になったので、後学のために引用しておくが、少し長いのでまず要点を整理しておく。




  1. 語り手が物語世界の外にいて、主観的に物語る小説 → 古いタイプの物語小説

  2. 語り手が主人公または登場人物のひとりで、主観的に物語る小説 → 日本の現代文学に多い

  3. 物語世界外にいる語り手が客観的に物語る小説 → 海外の現代文学に多い

  4. 物語世界の中にいる語り手が客観的に物語る小説 → ハードボイルドに多い

これらのうち、1. と2. は作中人物の内面を描写するので、「内的焦点化」と言い、3. と4. は焦点を登場人物の外面にのみ向けているため「外的焦点化」と言う。

「外的焦点化」を行うことで、登場人物たちの行動は描写されるもののその心情まではわからず、読者が読み探ることにより、その小説は思索的になり、文学性を持つことになる。ここから正確に引用する。




ハードボイルドは特に第四のかたち、つまり語り手が主人公であることが多く、そうでなくても語り手の視点が主人公に密着しているのでより非情さが効果的に表現される。このため、ともすればハードボイルドの主人公=非情と思われやすいが、そうではなく、非情なのは作者のパースペクティヴなのだ。

(95p-96p)






この中では、現在のこのインターネット時代を予見し、また深読みをすれば電子書籍時代をも示唆している。この評論が書かれたのは、93年のことなのだが、その中でこんなことが書かれている。「パソコン通信」に不案内な評論家たちが、パソコン通信を題材にした小説を評論している点について、




(前略)ワープロからパソコンへ、パソコンからパソコン通信へというかたちで、今後は文学者にとっても極めて重要な情報の発信・受信媒体になるだろうことは確実と思えるので、弁護しておきたい。

(84p)




インターネットの隆盛は、いまこのブログを私以外の誰かが目にしている時点で明らかである。なんといっても、筒井の書いた時点から20年近くが経過しているのであって、それだけの年数が経った甲斐があったのか、今ではツイッターで直接作者に作品の感想を投げかけたり、もし作者の気が向くことがあればそれに対するリプライも期待できる。たしかに発信・受信媒体としての進歩は目覚しい。

また、受信媒体としては紙から電子メディアへという人類の歴史においてもなかなか意義深い移行の過渡期にもある。偶然にもアマゾンからKindle 日本語版の発売が最近決定し、数年前から耳にしている「電子書籍時代元年」はいよいよ今年のことかと感じ入ったのだが、少なくとも私が生きているあいだに「紙の本」がなくなることはない、と写真のフィルムのときとまったく同じような無根拠の自信をもって現在の様子を見守っている最中だが、こればっかりは世の動きについていくしかないので仕方ない。



さて、最終章は例の「断筆宣言」にまつわる話が書いてあって、これも20年近く経つと当時の昂奮*3をまったく除外して読むことができ、筒井が実に真剣な態度であの問題と対峙していたことがわかり、結局は面白がって囃し立てた連中のその囃し立てようがまずかっただけではないのか、と感じた。

筒井康隆という小説家は文学に奉仕しているのであって、世の良識に対して忠実なわけではないし、それを移ろいやすい時勢の倫理観に則って測れば「差別的だ」とか「非人道的だ」ということになるのかもしれないが、それはまた文学とは別の文脈で語られなければならない。

たとえばある画家が幼女の裸体画を藝術作品として描き上げたとき、それを児童ポルノ規制の観点から捉えるのと、藝術的観点から捉えるのとでは、まったく話が変わってくると思う。幼女が過激に過ぎる(屋上屋を架してみた)のであれば、裸婦画ならどうであろうか。裸婦画もすべていかがわしいただの猥褻表現にしか過ぎないのだろうか。

吐き気を催すような描写で綴られた、たとえばサド『ソドム百二十日』などは、あれはたしかに小中学校の図書室に平然と並んでいるようなものであってはならないとは思うが、かといって、日本のどこの図書館・書店に行っても手に入らないようなことになってはならないとも思う。

私には、そのような世界の暗部を描く作品がなぜなくなってはいけないのか、をうまく説明できないのだが、ただ感じているのは、世界には必ず暗部があるということで、それらがなくならない限りは、どのような形でも表現・記録されなければならない、ということだ。また、必ずしも暗部である必要はない。誰かが眉を顰めるものがあれば、藝術的観点においてそれは、誰かが頬を緩ませるものと同等の価値を持っているということでもある、と思う。好むと好まざるとにかかわらず。



*1:たとえば、「殺人の動機に哲学的側面がほしい」と考えてみたり。


*2:小島作品をすべて「実」と捉えていたら、それこそ大間違いだと思う。


*3:といっても私はまだ中学生あたりだったからよくはわからなかったはずだ。



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昨日は畑仕事として鋤き仕事をしていた。鋤(す)くといっても鍬や鋤でえっちらおっちらやるわけでなく、まあそうやって「恩讐の彼方に」的状況を楽しむのもいいんだけど、わたくしは曲がりなりにも現代人であるので、機械を使って畑を鋤き起こした。

この時期(に本当は限らないのだけれど)、この作業をするとよくあるのが蛙殺し。冬眠に入りかけのカエルたちを、残酷なことに殺してしまうんですな。詳しくは書きませんが。

蛙殺しだから、殺蛙(さつあ)→活蛙(かつあ)と洒落こんでいるのだけれど、本当はちっとも笑えない。

農業と呼んでしまうには大仰だけれども、私のやっている農作業とて自然との共生を目指すものではなく、純然たる自然の中での戦い。雑草に負けぬような種子を播き、雑草の生えぬような工夫を凝らし、それから虫に食われぬようにときには殺虫剤を撒き、また、病気にやられないように予防薬を撒布したりと、これらは明確なサバイバル行為だ。

蛙たちは私や作物たちになんの害も与えるものでもないが、草刈りや、今日のように鋤き仕事をしている際に誤って傷つけたり殺したりしてしまうことがある。こういう生物たちの生命とわれわれ人間の生命とをそれぞれ同等のものととらえてしまうと、私なぞは(もし実在するならば)地獄行きが確定なわけであって、それが心苦しいために、「生きるためには仕方がない」などというありきたりな言葉を用い、「無名のものたちの死」という扱いをもって精神の安寧を得ているのだが、この概念は、日常のニュースに接する際にも私の中で簡単に頭を擡げてくる。

毎日毎日どこかで死んでいく私の知らない人たちはすべてこれ無名であり、その一点において関知しないことを自分に許しているところがある。だからといって急激にこれを反省し、「世界を救う」ことを声高に訴え始めても、隣人の喧嘩すら止めることは不可能で、無力と無能と不可能性とのあわいで、絶望にあえぐのにも飽き、やがてそういうことを心に留めておくことさえ忘れてしまう。

「考える」だけでは他者や外界に変化や影響を及ぼすことは不可能だが、「記す」ことくらいはなにかを生み出すと思い、ただ記すだけにしておく。結論はない。




秋鋤きや 今日も三匹殺めたり  活蛙





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なんだかんだで仕込んであった白菜が順々に出来上がりつつある。

今日、ためしにと引っこ抜いてみたら、それなりの形のものができていた。

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相変わらずブツ撮りは難しい



ミニ白菜なので、1kg 弱くらい。まあ放っておけば2kg くらいになるとのこと。

なかなか結球(葉が巻くこと)しなくてやきもきしていたが、なんとか順調に育っているらしい。

暖かいうちはぐんぐんと大きくなっていたが、ここ1週間は涼しいを通り越して寒くなってしまっており、噂によれば最寄りの観測地点では最低温度が5度以下になってしまったこともあるとか。こうなってしまうと、植物は一気に成長を止めてしまう。そのうち、霜が降りるのでしょうな。二十四節気でも、ちょうど現在は「霜降」に当たる。

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白菜は、この葉脈の迫力が美しい



で、たしか去年人から聞いたことだったが、白菜は霜に2回当たると甘くなっておいしいらしく、それが今から愉しみでございます。



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NHK の朝ドラ『純と愛』が面白い。

いや、ストーリーがどうこうという前に配役がなかなかチャレンジングなのである。

男の主人公、待田愛(まちだ・いとし)が、風間俊介で、女の主人公、狩野純(かのう・じゅん)の父親が、武田鉄矢。




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風間俊介



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武田鉄矢




つまり、『3年B組金八先生』第5シリーズの主人公と主役生徒(兼末健次郎)なわけであって、うわーすげー、とこのドラマを初めて観たときには驚いたのだが、ところが昨日、風間俊介の父親役が、金八同シリーズのデイサービスセンターのセンター長(堀内正美)だった。




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堀内正美






ここで、俄然妄想が膨らむわけです。ああ、もっと金八キャラたちが登場しないかと。

まだるっこしいことは飛ばして、今後配役の可能性がある人たちを列挙してみます。



※それぞれの画像については、一番下の【参考画像】をご参照ください。



で、彼らの配役を麻雀でとらえた場合、どんな「役」になるか考えてみました。



以上で、数え役満(13飜)。そうそう、頭は高畑・倍賞の「保健室コンビ」で。




【参考画像】




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田島令子



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須藤公一



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金田明夫



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山崎銀之丞



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深江卓次



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星野真里



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佐野泰臣



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赤木春恵



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木場勝己



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浅野和之



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高畑淳子



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倍賞美津子






*1:クレームをつけるホテルの客役で登場か。


*2:ホテルの従業員に紛れていそう。


*3:金田明夫はいろいろなドラマに平然として出演していて、逆にいないと驚くほど。


*4:武田鉄矢との絡みが見たい。


*5:舘ひろしが出ているので、石原軍団つながりで。


*6:ホテルで結婚式を挙げるとか、そういう回で登場しそう。


*7:エキストラ。


*8:宮古島の「おばあ」の役で。回想シーンか、写真立ての中で微笑む役。


*9:金八のドラマでは、鳶職の棟梁と学校長という二足のわらじも(本当の話。全然違う二役をやった、というだけなのだが)。『純と愛』でもお偉いさんの役で出てほしい。


*10:この人は器の小さい人間の役、が多いから、たぶんそんな役で出演。


*11:舘ひろしの奥さん役とか。


*12:梅ちゃん先生』に出演したばかりだから、2クール連続は難しい。



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いや、某都知事が新党結成したからといって、右だの左だのの話をしたいわけではない。

AM ラジオを聴いているとよくある話なんだけれども、ある楽曲がたとえばリクエスト番組かなにかでリクエストされて流れると、その一週間で、いろいろな番組でその曲がリクエストされることがある。わかりにくいかな。

実例をうろ覚えながらに記すと、ABC ラジオの月曜正午~の『上沼恵美子のこころ晴天』で山口百恵の『曼珠沙華』という曲がかかった週かその次の週だと思うのだが、日曜の『日曜さくらい倶楽部』か、土曜の『芦沢誠GO!GO!サタデー』でこの曲がリクエストされていて、その同じ週くらいの平日の『武田和歌子のぴたっと。』でもリクエストされていた、ように記憶している。少なくとも、その2週間くらいに山口百恵の『曼珠沙華』を3回も聴いて、「この曲って、こんなに頻繁にラジオにかかるような曲か?」と突っ込んだのを憶えている。いや、たしかにその時期は彼岸花が咲いていた頃だからその連想も多少は手伝ったのだろうが、この『曼珠沙華』の曲以外にも似たような経験はあって、おそらく、ラジオユーザーというのは同じ局(私の場合はABC)を聴きつづける人が多いから、どこかの番組で懐かしい曲がかかったりすると、「ああ、この曲、やっぱりいいなあ。また聴きたいからリクエストしよう」と考えて同局他番組にて実際にリクエストし、その結果として同じ曲がわりあい頻繁に流れるのではないか、と私は考えている。

で、今日も同じようなことがあって、それはプリンセス・プリンセスの『M』なんだけれども、この曲もなぜかここ1週間で3回くらい聴いている。そのうちの1回は、自宅でのYouTube においてなので、上に記したリクエストスパイラル問題とはまた別種の出来事なのだが、とにかくある種の偶然というか奇蹟というか、なぜか『M』が私の人生にまとわりついた1週間なのであった。



わたくし、この曲をあまり知らなかったのだが、今日たまたま聴いていたら以下のような歌詞が耳に飛び込んで来た。




あなたのいない右側に

少しは慣れたつもりでいたのに

どうしてこんなに涙がでるの




この部分、あれを思い出しますね。




さよならと言った君の

気持ちはわからないけど

いつもよりながめがいい

左に少し とまどってるよ




槇原敬之の『もう恋なんてしない』です。

おそらく、マッキーはプリプリの『M』を念頭に置いて、そのオマージュとして「右側」からの風景を描いたのかなと思った。いや、こんなことファンにとっては当たり前のことだったのかもしれませんけどね。



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弟に借りた『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』のDVD だかブルーレイだかを見始めたのだが、もうOP からしていい。

第1回は、最初ちょっとした導入部があって、そこでめんまというヒロインが出てきて数分で「あ、これは幽霊譚だな」ということがわかり、そのことが劇中でも隠されてはおらずすぐにそのことは明かされるのですが、その流れでオープニングに入っていって、もうなんだか素晴らしい感じ。

ガリレオ・ガリレイの『青い栞』はメロディラインが非キャッチーで、なかなかつかみにくく覚えづらいが、少なくともオープニングに流れている部分は、清涼感があってアニメーションの雰囲気とマッチしています。

で、エンディングはなにかなと思っていると、あれですよ、『secret base』ですよ。






secret base




これ、登場人物のうちの3人の女の子がそのキャラクターのままで歌っているバージョンで、この音楽が流れているときの映像とこれまた雰囲気がぴったりなんですよ。最初にこのED のアニメーションを見たとき、「ベタベタだぜ」とツッコミつつも、鳥肌が立ちました。

このアニメーションはまだ全11話中3話しか見ていないので詳しい感想は控えますが、非常に演出がうまいなあと感じています。

ストーリーはわりと予想がつきやすいし、キャラクターもわかりやすいのですが、それをすべてひっくり返すくらいに演出で魅せてくれています、今のところは。あと、男好みの話かもしれないなと思います。

あとの感想は、すべて観終えてから。



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ある方のブログを読んで感銘を受けたのでアマゾンで註文してみた絵本。




ちいさいおうち

ちいさいおうち






面白かった。なんといっても、絵がすばらしい。1ページの隅から隅まで見ていても飽きない。「ちいさなうち」のある場所がまだ「まち」になってしまう前、小さく描かれた人間のひとりひとりがそこで呼吸し生活をしているようなリアリティを感じる。絵のタッチが劇画であるとか、そういうこととリアリティは関係ない。

やがて、「ちいさなうち」の周りが「まち」へと急速に変化していくと、そこに登場する人間たちも急激に表情を失うように感じられる。みながみな、どこかへ行かなければならないと急いでいる。そして「まち」自体も、工場から吐き出される煙のために暗く灰色に染まっていき、季節とその色合いを失っていく。

「まち」が発展を遂げたとき、人々の服装はこれまでになく華やかになっているのだが、その風合いがいかにも画一的で不「自然」で、読みようによっては、大量生産・大量消費社会への突入を窺わせる。

なるほどこれは、大人の観点からも読もうと思ったら読めるのだが、だからといって、その点だけに価値があるという本ではないと思う。

この本を取り上げて説教臭く「自然のすばらしさ」を謳うだけでは、かえってこの本の価値を貶める。一番重要なのは、この本が刊行されてから70年も経過しようというのに*1、いまだに子どもたちが愉しめる(および考えさせられる)内容になっているということ。それは、ハッピーエンドであったり、色彩豊かな絵であったり、細かく工夫された構図だったり、そういったすばらしい絵本であれば必ず持っている美点を、この本も持っているからではないか。少し逆説的かもしれないが、これらの美点は「テーマ」すら超越するように思う。

アマゾンのレビューに書かれていて知ったことだが、この本には廉価版も出ているらしい。しかし(もし購入する際には)ぜひ大判型のものを購入した方がよいと思う。カバーをめくると表表紙(?)の部分が凝ったレリーフ造り(?)になっていたり、あるいは、タイトルや作者名の飾り文字が手の込んだ作りになっていたり、また、カバーの裏表紙はひなぎくと太陽が一緒になっていたりと、繰り返しになるが、とにかく飽きさせない作りになっている。

まあ、いくつもの世代にわたって愉しめるという意味では、家宝とはこういう絵本のためにある言葉じゃないでしょうか。



*1:この本は1942年に刊行されている。



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最近はジャンプを読んでいないので、モモノスケがゾーン系の悪魔の実を食べたから龍になっていたり、高校生たちにやられたカルマが本気で怒っていたり、四獣に食べられたと思っていた人間たちが救われたり、燃堂が世界の終りをもたらす者になる可能性があったり、ハリウッド系の先生たちが意外に面白いやりとりをしたり、本当はビンタした千棘の心の方が痛かったり、結構面白かったまじないものの話は意外と人間のダークなところを描いていたり、白哉が泣いて尸魂界を救ってくれと頼んだときに立ち尽くしている一護の表情がベタで恰好よく隠されていたり、ラクロスのマネージャーとして本格的にがんばろうとしている櫻井の許へサッカー部の美人マネージャーがやってきてちょっと打ち切り感が漂い始めたり、マネージャーの潔子さんという共通の好みを見つけて猛虎と龍之介ががっちりと握手をしたり、残念が両津にバイトに連れられていくときに『カイジ』のエスポワールみたいな状況を想像したり、贄波生煮が舵樹のところへ来たのはあわよくばお金をもらおうとしてのことだったり、武尊校舎がそう簡単には攻略されないのだけれどそれはそうと展開が急すぎたりすることは、よくわからないんです。



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同年代の女性が現在外国で生活をしているのだが、その人の将来のことが近所でなんとなく話題にのぼったときのこと。

私は、「その人が(もしそう望んでいるのであれば)向こうの人と結婚できれば遠慮なく向こうで暮らせるんですけれどね」と近所の人に言うと、相手は、「それだと両親が悲しむでしょ、特に母親が」と答えたのだが、その回答って私にとってはけっこう恐ろしい。

こういう考え方(=親の意にそぐわない行為は親不孝だ)は世にいろいろとあるのだろうけれど、「どうせ親は先に死ぬのに?」という疑問が湧いて仕方ない。

親は子どもにどこまでを期待できるのか。それは、扶養の状態にも深く関係があると思うのだが、子どもが扶養状態から脱している場合、つまり自前で稼いで自立している場合は、原則として束縛してはいけないのではないか、と私は考えている。

ただ、「養ってやった」という恩着せがましいなにやらをもしその親が抱えているのだとしたら、「<親が子を養っていた時間>と<子が親から独立してから経過した時間>の関係性は充分考慮するに値する」という一文を附記しておいてもよいが、私の本心としては、親は子どもを自分の思いどおりにできると考えてはいけない、と考えている。

けれども、「親に悪い」とか「親が反対する」っていう感想(?)を耳にすることは実際に多い。特に、当地に引っ越してきてから頻繁に耳にする。

家族とか家庭っていうものは、自分のところ以外は深い部分を知り得ないので、どうしても偏見を持ってしまいがちではあるのだが、それを重々承知の上で、やっぱり、なんなんでしょうねと思ってしまう。

親が束縛するのは仕方ないとして、その子どもの方は、親から受けた恩(こういう単語を安易に使いたくないという思いがあって、子どもへの愛情は無償のもの・無条件のものとして存在しているからそれを恩とさえ思ってほしくない、と思っている親御さんも世にたくさんあるだろうから)は、自分の子どもに返す、という割り切り方をすればいいのでは、と思う*1

子どももいないくせに偉そうなことを書いているけど、冒頭のような話(あれはただの噂話で、本人とその家族がどう思っているかはまた別だけど)を聞くにつれ、なんかかわいそうだなあと思ってしまうのである。愛情は、リターンを望まないで注ぐ方が幸せなのではないか。



*1:ただし、子どもを生まない・生めないといういろいろな考え方・状況にある人もたくさんいて、その人たちについては除外して考える。



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