とはいえ、わからないでもない

2012年12月

編集

つづきは5位から。




5位 - 舞城王太郎『JORGE JOESTAR ジョージ・ジョースター




JORGE JOESTAR

JORGE JOESTAR




怪作であるし奇作でもある。

とにかくまったくの前知識なしで読むということはおすすめしない。荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』を104巻分(!)は読んでおいた方がよいだろうし、著者舞城王太郎の『九十九十九』も読んでおいたよいだろうし、どうやら『ディスコ探偵水曜日』も読んでおいた方がよいらしいのだ(私は未読)。

アマゾンレビューにはいまだに酷評が並んでいるという有様なのだが(2012.12.31現在)、これは、純文学・ミステリ系の読者がまだ読んでいないということを示しているのではないか、と勝手に考えている。



他人のレビューももちろん参考にはなるのだが、舞城王太郎の作品をこれまで愉しむことができた人なら、間違いなくおすすめできる。

なお、以下は余談になるが、『ジョジョ』の昨今の「流行り方」に、私は違和感を覚えている。たぶんテレビ番組やら芸能人やらがきっかけでこのようなブームが起こったのだろうと推測するが、そういうおかげで「うるさい連中」も増えたなあという印象。ジョジョが連載開始された当時はネットなんていうものはもちろんなかったので、その感想なんかは主にクラスメートたちと共有し合ったはずだ。それが同世代の思い出となっている。

しかし今やどうだ。ネット上では世代も関係なく、そしてリアルタイムで読んだとかそういうことも無関係に、あーだこーだと感想が飛び交い、しかも(これがネットのマイナスの点だが)それを己の意見として勝手に盗用したり、あるいは、「名台詞」なるものを連載当時の昂奮も知らずにコピペして、悦に入っている連中は実に多い。ああいうもの(名台詞)は、ちょっと前までは一種のジャーゴンとして成り立っていて、ジョジョを好きな少数の人たち(昔はそれほど人気がなかった、と記憶している)のあいだで好まれていたのが、今は気の利いた「ネット用語」に堕してしまっており、非常に寂しい感じだ。まあ、正しい読者のありよう、なんてものは存在しないのだけれど*1





4位 - 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』




暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学




昨年に出版された本で、私は今年の2月に読み終えているが、残念ながらその詳しい内容をほとんど忘れてしまっている。しかも、いま友だちに貸してしまっているので、その内容をあらためて確かめる術もない。この本にあったハイデガーの言葉にも感動した記憶があるのだが、その言葉も思い出せない。なんなんだ、この物覚えの悪さは!

あ、少しだけ本書に言及した記事があった。



読書というのは基本的にひとり旅なのだが、それでもときには、誰かと読んだ本の感想を話し合いたくもなる。それは砂漠の中のオアシスみたいなものだ。

本書も、たったひとりで読み、それで終えてしまうのはもったいない。気に入った部分に付箋を貼り、ノートをつけたりして、それを持ち合って友人と朝まで話していたい。それがきっと、明日からまた始まるひとり旅の、糧になるのだ。

ちょこちょことよかった場面や記述をうろ覚えてはいるのだが、今はどうしても中途半端になってしまうのでやめておく。いづれ再読して感想をしっかり書こう。





3位 - 宮本常一『忘れられた日本人』




忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)




これもほぼ一年前に読み終えたもの。

読んだことのない人には絶対に勘違いしてほしくないのだが、この本は、「この国にはすばらしい日本人たちがいた!」とか「日本を、取り戻す」とか、そういうバカな話じゃない。そういうバカたちを呼び集めてしまうようなタイトルになっているが、1960年に書かれたこの本には、いっさい「その手」の要素は含まれていない。

ここには、多くの人間の「語り」が収録されていて、過去に書いた記事でも言及していた。



特に私はここ十年くらいずっと「語り」とか「話し言葉」などが気にかかっているので(落語が好きなのもそのせい)、ここに収録されている「他人の言葉」のようであって実は「自分の中で変換され再生されている言葉」、には非常に興味がある。

1939年から著者が採集し始めた「語り」の中には、昔の習俗や価値観が示されている。日本がまだ貧しく、あまりにも多くの人間が貧しく他に較べようがなかったため、おそらく「貧しい」という言葉すらあまり意味を持たなかった時代である。それと「戦後」となった現代(といっても執筆された1960年当時)との乖離を称して、著者は「忘れられた日本人」と題したのだろう。

そして、それからさらに五十有余年を経ている現在。「貧しい」という言葉は日常より隠され、仮想空間で繋がりを持てるようになったために小さな共同体の中で孤独に苦しむこともなくなった(人たちも少なからずいる)、という意味では、たしかに2012年現在の私たちとも断絶している。

しかし、日本人というより、人間に通底している感覚というのはやっぱりあって、たとえば文庫版131p から始まる「土佐源氏」の章にある盲目の乞食の話は、すさまじい。この日本の五十年のあいだに生まれた小説で、このエピソードの持つ哀しみに比肩できるような作品はほとんどないのではないか。必読。





2位 - フィリップ・K・ディック『ユービック』




ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)




ディックの小説は、弱い人間のためにあるとも思えてしまう。

彼の小説に出てくるのは、説明のつかない孤独に苛まれたり、無性に愛を求めていたり、そういう人間ばかりだ。だから、論理的で自身の行動に強い正当性を感じ、しかもそれを常日頃より主張しているような人には、何が面白いのかわからないのかもしれない。



この本の感想は上の記事に書いてあるが、かつて他の記事で引用した『サロン・ドット・コム』という現代の英語圏作家のガイド本にあるディックについての記述を、最後にもう一度引用しておきたい。




文学史におけるディックの位置、という難問は、今後もしばらく議論されることだろう。確かなのは、彼が過去の偉大な作家たちと共有している資質である――ディックの小説は愛を喚起する。







1位 - 小島信夫『残光』




残光 (新潮文庫)

残光 (新潮文庫)




結局これが今年読んだ本の中のベストだった。



読み終えたときはやはり昂奮し、これはすごいとは思いつつも、しかし時間が少し経てば複雑な心境になってしまうのは、今後、この小島信夫の達成した「場所」には誰もたどり着けないだろうしそこに執着しても仕方がないのではないか、という思いが原因だ。

ここは、いわゆる文学の極北である。メモによれば、私はこれを7月20日に読み終えたことになっているが、それから5ヶ月が経ち、私は細かな部分を既にほとんど忘れ去っている。だいたいの流れみたいなものは憶えている。作者の小島信夫が自身の書いた小説を保坂和志に薦められて読み、「これを本当に自分が書いたのか」と驚き、その経緯と、その小説にまつわる思い出を書き、そもそもその小説が、それ以前に書かれた小説 ――『女流』とか『墓碑銘』(未読)――にまつわるものであったりしていて、まるで、小島信夫という小説家の人生が、小説を通じて層をなして私の前に立ち現れるようで、いや、小島信夫の小説に描かれた「わたし/小島信夫/彼」たちが、小説を経て生きているように映るというべきか、ともかく、まるで小島信夫の生きている世界は小説でできているかのようなのである。

このような構造の小説を読んでいるとき、書かれた詳細なことを憶えている方がすごいと思う。むしろ忘れるようにできているというか、憶えている方が意味がないというか、保坂和志がよく言っているように読んでいるあいだにしか存在しないというような、本質的に要約を拒む要素がこの『残光』にはある。

ただ、繰り返しになってしまうが、ここは極北であって、この方面にはもうこれ以上に高い山はないと思われる。しかしもちろん、他にも文学の山嶺は聳えているわけだから、読者はひとつところに執着して留まっているべきではなく、「少年たちはもっとナイスなもののある方へのろのろと歩きはじめ」るべきとも思うのだ。

そういう様々な感慨をも含めて、やはり今年一番面白かったのは、小島信夫の『残光』なのだと思った。それほど読書家ではない私の感想としては、これは空前にして絶後の作品という気がする。





まとめ、みたいなもの


そもそも、年末にいろいろな人が「2012年に読んだ本のまとめ」みたいなことを書いていて、その中でネット上で話題になったものをチェックしていた限りでは、ほとんど参考にならなかったという経験をした。

参考にならない、というのは、「あ、『本』ってこういう本のことだったのね」みたいなことで、『ビジネスに大切な7つの習慣』とか『あなたの心を守る48のヒント』とか『偉大なCEOたちの言葉』なんていう、いや、こんなタイトルはいま適当につけただけで存在しないのだけれど、こういうジャンルの本を私はまったく読まないので、妙な肩透かしを食らってしまうのだ。

じゃあ、そういうお前のいう「本」ってなんなんだよ、ということになるが、私の場合は基本はやはり小説。しかし、これが今はたぶん人気がないのだろうね、「小説なんて読んだってちっとも得しないだろう」ってなことを言われてしまいそうだ。「そんなことより、こっちの本が、いや、あっちの本が、数倍ためになる」と。

けれども、読書はなにも「ためになる」から読むだけではないのだ。むしろ、ためにならないから読んでいる場合もある。「意味わかんねーよ」という人にまでわかってほしいとは思わない。さよなら。読書はライフハックのツールじゃないんです。

今回挙げた十の作品以外にも、バージニア・リー・バートン『ちいさいおうち』や安房直子『まほうをかけられた舌』、それにエーリッヒ・ケストナー飛ぶ教室』などの絵本・児童文学を知ったというのが大きい収穫であった。

また、北方謙三水滸伝』を先月半ばから再読し始めているのだが、これが面白くてやめられない。初読のときには気づかなかったこともいろいろと発見できて、次シリーズ『楊令伝』が今から愉しみだ。

来年は、絶対的な読書量を増やすことを目標とし、ジャンルもこだわらずに、いろいろと読めたらいいなと思う。「まえがき、みたいなもの」に書いたが、死ぬまであと何冊の本を読めるか、を考えると本当に恐ろしくなる。『人生に大切な10,000のヒント』なんて読んでいるほど暇じゃないのだ、まったく。




*1:ガンダムとかについても同じことが言えるのだろう。



編集

今度は本の総括。




まえがき、みたいなもの


といっても今年読んだ本は50冊にも届かず、年々読書量が減っていることに少し不安を覚える。あと何年生きられるかと考えると、自然と人生の読書総量が逆算できてしまい、怖ろしい。もっと読まねばなるまいよ。

かつて速読を(独学で)習得しようと思ったこともあったが、あれは、「心の中でも音読しない」というのが基本中の基本になっているはずだったが、いい本こそ、実際に声に出さずとも音読はすべき、と私は考えていて、ちゃんとした文章っていうのは、たいていリズムが心地よく感じられる。

リズムってなんだと問われれば、なかなか「これだ」と明確に答えることは難しいけれども、ただ「読みやすい文章」にとどまらない、それ以上に、読者をある特定のペースに乗せることのできる文章の流れ、ということになるか。

反対に、文章が下手な人は、そのリズムができていないために、(心の)音読をしていてもつっかえつっかえになってしまう。たぶん書きながら、自分の中でつぶやいたり、音読したりしていないためかと思われる。と書いている私も、音読しながら「あれ、ここどうしてもリズム悪いなあ」と思うこと多々あり。自戒を込めて。

まあ、その内容を単なる「情報」と見なし、リズムなんて無関係に速読しても構わないような本もあることはあり、個人的には自己啓発系の本とかハウツーものがそうなのだけれど、ああいうものは洒落でもなければ絶対に読まないので、やっぱりのろのろと(心の)音読をしつづけるほかない。そういえば、そんなハウツー本の中に「声に出して読みたいなんたらかんたら」ってのがありましたな。読んでないけど、たにふん(語源とその意味はお考えください)のサイトウさんはいまだにテレビなどに出て、どうでもいいことをぺらぺらとしゃべっております。

なんの話だったか。

そうそう、今年の読んだ本についてである。読書記録を見てみると、やっぱり冬の期間に読んだものがほとんどで、夏はまったく読めていない。これはもう夏の自由時間が圧倒的に少ないからで、早く晴耕雨読ならぬ晴読雨読状態になれれば、と思う。こういう田舎に引っ越して来た一番の理由って、金はそれほど要らんから死ぬほど時間に余裕が欲しいと思ったからなんだけど、いざ蓋を開けてみれば、貧乏ヒマなしの言葉どおり釜の蓋が開かないからやっぱり商いをしなければならず、「”あきない”っていうくらいだ、飽きずにやることが大切だよ」という落語の台詞じゃないけれど、「飽きずにやる」どころか、飽きが来るまでやっても”おあし”にはならない。お天道さまはついてくるけど、米の飯は勝手にはついてこないのだ。

愚痴になってしまった。話を戻す。

というわけで、今年は己の恥を晒す意味でも、トップ10*1をここに挙げてみようかと思う。





10位 - 川上未映子『乳と卵』




乳と卵(らん) (文春文庫)

乳と卵(らん) (文春文庫)




意外に本格なのである。著者の作品を読むのは、『わたくし率 イン 歯ー、または世界』以来で、この本は、(あまり意味のない情報ではあるが)芥川賞受賞作。

著者川上未映子は、かなり口語に近い文体を用いる。私はこの二作しか読んでいないが、町田康なんかに非常に近いものを感じる。影響がないとは言えないだろう。

この作品は、乱暴に要約してしまえば、女についての話である。私の嫌いな「ゆるふわ~」とか「きらきら~」などを求める「ジョシ」とはまったくの対極にある、「オンナ」の物語である。

川上未映子らしさを説明するには、引用するのが一番で、たとえば(非常に長いが)こんなものを引いてみよう。

豊胸手術を受けたいという女の子と、それについて違和感を持った女の子との会話を思い出している様子。




え、でもそれってさ、結局男のために大きくしたいってそういうことなんじゃないの、とかなんとか。男を楽しませるために自分の体を改造するのは違うよね的なことを冷っとした口調で云ったのだったかして、すると胸大きくしたい女の子は、そういうことじゃなくて胸は自分の胸なんだし、男は関係なしに胸ってこの自分の体についているわけでこれは自分自身の問題なのよね、もちろん体に異物を入れることはちゃんと考えなきゃいけないとは思うけれど、とかなんとか答えて、すると、そうかな、その胸が大きくなればいいなあっていうあなたの素朴な価値観がそもそも世界にはびこるそれはもうわたしたちが物を考えるための前提であるといってもいいくらいの男性的精神を経由した産物でしかないのよね、じっさい、あなたは気がついてないだけで、とかなんだかもっともらしいことを云って、胸大きくしたい女の子はそれに対して、なんだって単純なこのこれここについてるわたしの胸をわたしが大きくしたいっていうこの単純な願望をなんでそんな見たことも触ったこともない男性精神とかってもんにわざわざ結びつけようとするわけ? もしその、男性主義だっけ、男根精神だっけかが、あなたの云うとおりにあるんだとしてもよ、わたしがそれを経由してるんならあなたのその考えだって男性精神ってもんを経由してるってことになるんじゃないの、わたしとあなたで何が違うの、と答えたわけだ、するとその冷っと女子は、だーかーら、自分の価値観がいったいどこから発生してるのかとかそういうことを問題にしつつ疑いを持つっていうか飽くまでそれを自覚してるのと自覚してないのとは大違いだって云ってんのよ、とこう云って、その批判に対して胸大きく女子は、まあ何がそんなに違うのかあたしさっぱりわかんないけれど、わたしのこの今の小さい胸にわたし自身不満があること、そして大きな胸に憧れのようなものがあることは最初から最後まであたしの問題だってこう云ってんのよ、それだけのことに男性精神云々をくっつけて話ややこしくしてんのはあなたで、あなたが実はその男性精神そのものなんじゃないの? 少なくともわたしは男とセックスしたりするとき、例えば揉まれるときなんかにああこの胸が大きくあって欲しかったこの男の興奮のために、なんてことは思わない、ってことははっきりわかってるって話よ、ただ自分ひとりでいるときに思うってそれだけよ、ぺったんでまったいらなこれになぜだか残念を感じてしまうだけのことで。すると冷っと女子は、だからその残念に思う気持ちこそがそもそもすっかり取り込まれてんのよ、その感慨を、その愁嘆を、そういう自分自身の欲望の出自を疑いもせずに胸が大きくなったらいいなあ! なんてぼんやりうっかり発言したりするのが不用意極まりないっていうか、腹立たしいっていうか無知というかなんていうかさ、とさらに冷っ、が増した声で冷り女子は静かに云うと、は、じゃあさ、あなたがしてるその化粧は男性精神に毒されたこの世界におかれましてどういう位置づけになんのですか、その動機はいったい何のためにしてる化粧になるの、化粧に対する疑いは? と胸女子が云えば、これ? これは自分のためにやってんのよ、自分のテンション上げるためにやってんの、と冷っと女子、それを受けて胸派女子は、だからあたしの胸だって自分のために大きくしたいってそういう話じゃないの? あんたのそのそのばちばちに盛った化粧が自分のためだっていうのがあんたのさっきの理屈に沿うんならね、だいたいおんなじ世界で生きててこっちは男根主義的な影響受けてますここは受けてませんって誰が決定するんだっつの。と鼻で笑えば、何云ってんのよまったく、化粧と豊胸はそもそもがまったく違うでしょうが、だいたい女の胸に強制的にあてがわれた歴史的過去における社会的役割ってもんを考えてみたことあるわけ? あなたのその胸を大きくしたいってんならまずあなたの胸が包括してる諸問題について考えるってことから始めなさいよって云ってんの、それに化粧はもともと魔よけで始まったもんなのよ、人間が魔物を恐れてこれを鎮めるために考えられた知恵なのよこれは人間の共同体としての、儀式なのよ。文化なの。大昔には男だって化粧やってるんだしだいたいあんたはそもそもわたしの云ってる問題がまったく理解できてないわ、話にならない、と顎で刺すように云えば、は、じゃああんたのその生活諸々だけ男根の影響を受けずに全部魔よけの延長でやってるってこういうわけ、性別の関係しない文化であんたの行動だけは純粋な人間としての知恵ですってそういうわけかよ、なんじゃそら、だいたい女がなんだっつの。女なんかただの女だっつの。女であるあたしははっきりそう云わせてもらうっつの。まずあんたのそのわたしに対する今の発言をまず家に帰ってちくいち疑えっつの。それがあんたの信条でしょうが、は、阿呆らし、阿呆らしすぎて阿呆らしやの鐘が鳴って鳴りまくって鳴りまくりすぎてごんゆうて落ちてきよるわおまえのド頭に、とか云って、なぜかこのように最後は大阪弁となってしまうこのような別段の取り留めも面白みもなく古臭い会話の記憶だけがどういうわけかここにあるのやから、やはりこれはわたしがかつてじっさいに見聞きしたことであったのかどうか、さてしかしこれがさっぱり思い出せない。

(40p-44p)




かなり長いが、川上を知らない人にも雰囲気は味わってもらえるかと思う。

川上未映子のこういうやりとりは実に演劇的である。詳しくは調べずに書くが、本谷有希子なんかより、よっぽど舞台向きだと思う*2。こういう「洗練」とはまったくかけ離れた、一分の隙間も許さないようなべったりと粘りつくような会話は、読みづらいようだが、興に乗れば、すいすいと読んでいける。

すいすいと読めるが、エンターテインメントに堕してもいない。上記引用部分も冗談めかして書かれてはいるものの一考の余地はあり、どちらが正解というものでもない。このような「純文学」らしいすっきりしなさが107ページを支配してはいるのだが、しかし、クライマックス場面はきちんとあり、物語に佳境を設けたという点で、私はこの小説を非常に高く評価したい。

これまた私の観測範囲内の感想になってしまうのだが、昨今はアンチクライマックスが純文学の主流にあって、物語性をあえて排除したり、意図的に盛り上がりを回避する話の筋が多く、この『乳と卵』の非常に劇的なクライマックスは珍しく感じられた。そのシーンはネタバレになってしまうので書かないが、「現実世界に起こりうる」という意味でのリアリティは欠如しているのかもしれないが、しかし物語の中ではそれがじゅうぶん起こりうるように構成されていて、つまり「物語的本当らしさ」は存在しており、読者は、「あんなシーン」なのにぐっと惹きこまれることになる*3

私は女性作家の作品をあまり読めないのだが、川上は読みやすく感じる。女性にこの本の感想を尋ねてみたい。私のとはまた違った感想を聞けるようにも思う。





9位 - 佐々木譲『笑う警官』




笑う警官 (ハルキ文庫)

笑う警官 (ハルキ文庫)




エド・マクベインの「87分署シリーズ」を別にすれば私は警察小説というものを読んだことがなかったので、新鮮に読むことができた。本作『笑う警官』だけではなく、その続篇『警察庁から来た男』および『警官の紋章』を併せて9位。

この話ももちろんよくできているのだが、なんといっても、北海道警で実際にものすごい事件が起こっていたというのがなんといっても興味深い。作者の佐々木譲は非常によく取材をしているという印象を得た。



上記記事に少し書いているが、これを読むと、警察がいかに怖ろしい組織かというのがわかる。「わかった気」にさせられる、というところが本当のところかもしれないが、まあヤクザとあまり変わりないなというのが感想。

いづれにせよ、このシリーズのミステリは非常によくできていて、テンポがよく、あっという間に読めてしまう。おすすめです。





8位 - 三津田信三『首無の如き祟るもの』




首無の如き祟るもの (講談社文庫)

首無の如き祟るもの (講談社文庫)




おどろおどろしい恐怖ミステリ(?)とでもいうジャンルで、京極夏彦っぽさを私は感じた。

このシリーズの第一作『厭魅(まじもの)の如き憑くもの』が洗練され、謎とトリックがさらに作りこまれたのが、本作品のすばらしさ。



詳しくは上記記事に書いたが、三津田信三という作家を知ったというのが今年の大いなる収穫。最初から最後まで、文字通り目が離せない小説。





7位 - 『現代落語論』




現代落語論 (三一新書 507)

現代落語論 (三一新書 507)




談志が亡くなってほぼ一年が経とうというので読んでみたのだが、これが実に面白かった。

たしかこれを三十歳になる手前くらいで書いているはずなのだけれど、まだ「イリュージョン」などということは言い出していないようで*4うなづけるところが多々あり、非常に勉強になった。

その感想の端々は以下に少しだけだが示している。



談志の芸が好きではないという人でも、この本に書かれてある落語論はしごくまっとうなので、おすすめしたい。





6位 - 立川談春『赤めだか』




赤めだか

赤めだか




その談志の弟子が、本作の著者、立川談春である。

しかし、この本はよくできている。ベストセラーになったというのもむべなるかな。

志らくがその著書『雨ン中の、らくだ』で、自分の落語家人生を正直に、あるいは他の言い方をすれば多少偽悪的に書いたとすれば、談春はひたすら青春小説として仕上げてきた。

そう、これはひとりの落語家の半生をつづったノンフィクションでありながら、非常によくできた青春小説にもなっているのだ。

本書のタイトルに深く関わりのある立川談秋(廃業)とのエピソードなどは、「うそぉ、こんなによくできた話が本当にあったの?」と思わずツッコミを入れたくなってしまうが、しかし談春は、真偽のほどは別として、感動的な場面をきっちりと真正面から描き、そして、みごと感動を呼び寄せることに成功している。

しかししかし、本書の白眉は最終章。談志とその師匠の小さんとのエピソードだ。最後の最後の談志の台詞を読んで、私は一瞬めまいがした。なんだ、『シラノ・ド・ベルジュラック』みたいじゃないか!

どんな台詞かって? それはご自分でお読みになるこってす。損はきっとさせやせんから。



うう。長くなってきた。後篇へつづく。





*1:ベスト10とやればもっとわかりやすくなりそうだけれど、ベストっていうのはたったひとつという意味合いが強いから、ベスト10というのはおかしい、というのをどこかで読んだ記憶があるため、トップ5という表記の仕方をしている。本当のところはどれが正しいのかわからないが。


*2:本谷の作品は小説を二作ほどしか読んだことがなく、舞台は未見。


*3:私は基本的に、リアリティという言葉を「本当らしさ(≠真実味)」という意味で用いている。


*4:私は他の著書を読んでいないから、このイリュージョンという言葉の真意がよくわからない。



編集

好悪の問題ってどこかに書いたつもりだったのだが、調べてみたらはっきりとは書いていないっぽい。あれま。

私がときおり拝見するブログに、よく落語を鑑賞している方がいて、その方は、おそらくほとんどの噺家に対してケチをつけていない。で、そのブログの記事に出てきた噺家を憶えておいて、それがたまたまテレビなんかに出てきて観ていたりすると、「あれ?」と思ってしまう。思ったより面白くない。

ここでふたつの反応ができる。

ひとつは、「おもしろくねー」と思うこと。もうひとつは、「自分の鑑賞技術が足りないのでは」と反省すること。

前者については書いたことがある。



文句を言う場合でも、最低限のルール(この場合はお金を払ったか否か)を守ろうよってこと。

後者についても、書いたことがある。



いったん自分を省みてから批判はすべき、ということ。

二種類のことを書いているというのは、私が一貫した考えを持っていないということではなく、どちらも大事だよなと考えているからで、冒頭に挙げた例でいえば、どのような噺家も愛せてしまう人って(厭味なしに)すごいな、と思う反面、自分には到底できない態度だと思う。

これは落語に限った話ではなく、たとえば、どのような漫画・どのような小説でもその作者に対して敬意を払う人は世の中に多いみたいで、その態度を、私はやっぱりすごいなと思う。

けれども、すごいと思うけど……と、この「……」に私の真意はある。



これ、私だけが思っていることなのかもしれないけど、おつきあいしようなんて考えている女性とは、「好きなこと」が共通するより、「嫌いなこと」あるいは「怒ってしまうこと」が共通する方が重要だと考えている。

あれもこれもなんでもかんでも好き、というごくごく穏当な考えや嗜好の女性は、私にとってはほとんど魅力がない。八方美人だと感じてしまうからだろうか。

一方、「わたし、これだけはどうしても許せないんだよね」という意見がもし自分と一緒であれば、なんだかその人とはものすごくわかりあえるような気がしている。

もちろん、安易に一事から万事を期待してはいけないのだが、それでも八方美人さんよりは、よほど信頼が置ける。

批判、とはまたちょっとニュアンスが違うのだが、藝術作品に接していても「嫌悪感」というのは起こる。それは、己の鑑賞技術の未熟さとは関係なく、個々の人生経験*1から生じている場合が往々にしてあるので、「作品や作者への敬意の有無」とはまた別の問題となる。

漫画なり小説なり音楽なり映画なり演劇なり落語なりを鑑賞していて、「クソだな」と思うときがよくある。

その作者や演者が、作品を制作するのに必死になり多大な時間を費やしたことを想像しても、それでもやっぱり「クソだな」と思うときがある。「金を払ったのに」というけちな感情(勘定)の発露ではない。

クリエイターでない私たちも、日々なんらかの仕事をしている。そしてその仕事が評価されるとき、たいていの場合は過程ではなく結果が対象となる。もしそのことについて不満がないのであれば、クリエイターに対する批判も、もっと簡単に起こってもいい問題のようにも思える。もっと単純に、結果(=できあがった作品)に対して「面白い/面白くない」を判断していいはずだ。

鑑賞者が、自身の鑑賞技術について反省をすることは決して悪いことではない。しかし、それが前提となっているべきではないと思う。

信頼、という話に戻る。

繰り返しになってしまうかもしれないが、男女にかかわらず、きれいごと、理想論、「誰も悪くない世界像」ばかりを語って、なにも批判しない人のことを信じることができない。私は、毀誉褒貶のうち「褒」は、他人からの共感を得ようと思えば難しい、と書いた。

けれども、八方美人さんの行う「褒」は、最大公約数的なお手頃な「好き」であって、そこにエネルギーはない。エネルギーがないから、批判できない。批判をしないのではなく、きっとできないのだ。

「好き」という言葉や態度でその作品を世に知らしめる・広めるということも鑑賞者の大切な仕事であると同時に、「クソだな」などという安直な言葉ではない、鑑賞者自身の体験やその時点での知識をぶつけた批判も、非常に重要な仕事である。それは、作品に対する正当な態度であって、なんら間違っていない。

「好き」という感情も「嫌い」という感情も、他人からの共感のされやすさ(されにくさ)という点ではほぼ同程度だと思うのに、共感されなかった場合、「好き」は放っておかれるのに対して、「嫌い」はなかなか放っておいてもらえない。

「なぜ嫌いなんだ」と詰ってもよいと考えている人はなぜか多いようで、私がかつてとある漫画の批判記事を書いたら、私にとってはすごい数のコメントがあって、ひどく驚いた。

それまで、「(上記とは別の)この漫画大好き!」ということを書いたってほとんど反応がなかったのに、「嫌い!」と書いて、それがたまたま誰かの目につくと、文句を言って来る人は多かったということだ*2

おそらく人は、「嫌い」という言葉や態度に、生理的嫌悪感を生じやすいのだろうと思う。その「嫌い」が自分の好きなものに対して向けられていれば、特に。

「嫌い」を封じることはマナーだ、という人もいるかもしれない。私にとってはよくわからない理窟だ。その「お行儀の良さ」は他人のためのものだろう(そしてお行儀の良い人は世の中に実に多い……)。対して、ブログは自身のために書かれている(少なくとも私の場合は)。ここには、他人にとっては誤りだったり認めがたいことが書かれてあるのかもしれないが、私にとってはその時点での本当の感情なのであって、それを偽る必要はない。

冒頭の落語の話に戻れば、私の落語全般に対する「愛」は非常に乏しいのだろうと思う。私は落語全般、噺家全員を愛することなんて到底できない。面白い人は素直に尊敬するが、その反面、安易で下品な安っぽい計算の上で落語を成り立たせようとしている若い噺家なんかを観ているともうむかむかしてしょうがない。その人がたとえ十数年の修業をしていようと嫌いなものは嫌いであり、それを「好き」と言ってしまったり「好きにならないといけないな」と思ってしまったりするのは、私がこれまで生きてきて、少ないながらに取り込み自らの血肉としてきた価値観をすべて抛棄するのと同義だ。

私は、その価値観を守るためにも、批判する責任がある。それは他人にとっては「正しいこと」ではないかもしれないが、私にとっては正当性があることなのだ。



*1:「己の鑑賞技術の未熟さ」も、広義の「個々の人生経験」に含まれる。


*2:念のため註記しておくが、中にはしごくまっとうなコメントの方もいた。



編集

私は、人間、外観がすべてではないし、外面だけが華やかで中身がめちゃくちゃなんていうのは最悪だと思っている方ですけど、だけど、ちょっとくらいは身繕いはしようよ、という考えです。

女性についても、私はある種の偏見みたいなものを持っていまして、「自然派」と「本当になにもしない」とのあいだには大きな隔たりがあって、前者は非常に好ましいですが、後者については「うーん?」と思ってしまうところもあります。

外見といっても、先天的なものと、後天的なものがあって、(特に男の場合であれば)髪が薄いとか、(男女かかわらず)太っているとかは先天的な要素が強いから責めようがないけど(そもそも責めるという発想がおかしいけど)、髪がぼさぼさだったり、髭を薄汚く伸ばしていたり、あとは何日も洗っていない服を着ているなどというのは、なんとかしようもあるでしょ、と思います。そういうのが、上に書いた「本当になにもしない」ということです。

いやいや、こう書いていて自分でツッコんでしまうけど、私自身も、人と会わなかったりすれば(そして会わないことも多いけど)、寝癖のままだし、髭も伸ばしているままだし、鏡もほとんど見なくなっています。これじゃあいかんなあと思いつつも、やっぱり他人の視線がなければそういうことに手を抜いてしまう。でも、人と会うとなればさすがに話は別で、それ相応の身なりというものを心がけます。

これは男女ともに言えることですが、「外見なんてまったく気にしていないよ」という風でいて、その実はきちんとそれなりにおしゃれを心がけている人が私は好きです。おしゃれっていうのは、これが正解というのはありませんが、その人なりに清潔感や季節感を演出できていればそれだけでも合格なんじゃないでしょうか。流行は、若い人が追っかければいいだけで、服飾業界にでも勤めているのでなければ、多くの人は一定の年齢に達すれば自然と好みが定まるのではないかと思っています。



先日、私と年の近いある男性が仕事場を訪ねて来てくれました。半年ぶりくらいに会ったのですが、その人が一所懸命しゃべってくれているのに、私は彼の鼻の穴から2本の鼻毛が飛び出しているのを見つけてしまい、以後、彼の話している内容がまったく頭に入りませんでした。

その鼻の穴から世間を覗き、まるで「物申す」と主張しているかのような2本の鼻毛は、彼の話すビジネスの壮大なヴィジョンや、驚くほど効率的な流通手段などをすべて無効化してしまいました。それだけ、鼻毛の破壊力は絶大でした。

以前もちょっと書いたかもしれないけど、どんなにおしゃれをしていようと、鼻毛が出ていればすべてが台無しになってしまう、というところがあります。

その人が50代あるいは60代であれば、鼻毛どころか耳からもなにかが覗いているという場合も少なくないのですが、30代であるのなら(そして可能であれば40代も)少しくらいは鏡をチェックした方がいいのかな、と個人的には思っています。

こんなことを書いていて、「いやいや、あいつも昔、鼻からなにかが出ていたことあったぜ」と言う私のことを直接知っている方もいらっしゃるかもしれませんが、その場合はどうぞ心にしまっておいてください。

たかが外見の話です。たかが外見の話ですが、ちょっとだけ大切なことだとも思います。

私はこれまで、若い女性で鼻毛が出ているのを2回見たことがありますが、それはそれで哀しいものでした。注意できるわけもなく、その方が、どうか私以外の誰にも見られずに帰宅し、それから家で気づいてくれればいいなとひたすら祈りました。

男の場合は、それこそ数えきれません。中年の段階に突入している人はもちろん多いのですが、若い人でも、出ている場合はあります。

実は、私を訪うた件の男性は「鼻毛伸ばし」の常連で、半年前にお会いしたときも、たしか2本出していました。

彼がひたむきに話してくれているあいだ、私はその2本に対して、「きみたちとは半年前にあったかな? それともあのときとはまた別人なのかな?」と話しかけていました。

鼻毛というのはなぜか、その持ち主とは別の意思をもって存在しているように思います。

年の瀬に毛の話がつづきましたが、髪の毛がなくなり、鼻毛もなくすことができれば、読んでくださっているみなさんが、怪我ないよい年を迎えられるのではないかと思いまして。……って大山詣りか!



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10月にほぼ1年ぶりに会った友人の女性は、会った瞬間に、「久しぶり(A)。薄くなった?(B)」と言った。

あのね。(A)と(B)の発言のあいだには、もっといろいろな言葉が必要だと思うんだ。「今年の夏は暑かったね」とか、「わたしは最近太ってきたみたいだけど、そっちはどう?」とか。で、ひとしきりしゃべったあとで、「あ、ところで、薄くなった?」と、これならわかる。

ま、いいんだけどさ。

今年はバリカンでずっと坊主刈りに近いような髪型にしていたので、髪がほとんどなかった。そりゃ前髪は年々と後退しているわけだから、「濃くなった?」と思われることはまずないと思うのだが、これだけで終わるのはあまりにも悔しいので、これからしばらくは髪を切らないでちょっと長髪を目指すことにした。

私はストレスが溜まるとバリカンでウィーンとやる方なので、これをどうにか我慢せねばなるまいが、また1年後に、もさもさっと伸びた髪をなびかせ彼女と会い、その感想を聞いてみたいのである。「どうだい、濃くなったろう?」と。うへへ。



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さて、前回のつづき。




5位 - 『ハイキュー』




ハイキュー!! 1 (ジャンプコミックス)

ハイキュー!! 1 (ジャンプコミックス)




個人的な思い入れが強いために『ジョジョリオン』より上のランクづけだが、作者古舘春一には本当に「ありがとう」という拍手を送ろう。

ジャンプスポーツ漫画としては『アイシールド』の系譜に属していて、この作品はその正統な後継としたい。大きな視点で見れば、この系統を辿っていくと、松本大洋『ピンポン』が鎮座していて、つまり、「敗者の物語」を描く漫画、ということになる。特にピンポンは、敗者の物語が中心になっていて、敗者こそが主人公である。

何週か前のジャンプでは、まさに敗者の物語が描かれていた。トーナメントで勝ち上がっていき、「最強の高校」が決定していく過程の中で、「最強の高校」以外は、すべて敗者だ。彼ら/彼女らは、努力が足りなかったのだろうか? いや、そうではない、と作者は言っている。彼ら/彼女らにだって、それぞれの物語があって、その中で努力を尽くした。足りなかったのは勝利だけだ。彼ら/彼女らもまた、拍手と賞讃を送られるべきなのだ。それをきちんと描くかどうかが、きちんとしたスポーツ漫画か否かの分岐点だ。

『アイシールド』は、「天才」たちと「努力する凡才」たちのストーリーであったが、今のところ、『ハイキュー』に天才は登場していない。

それでいいと思う。『ハイキュー』はあくまで等身大の高校生(それでも才能に恵まれてはいるのだが)を描けばいいと思う。

リアルタイムで高校生活を送っている人たちは、それをリアルなスポーツものとして読めるだろうし、私たちのように、いくぶん薹が立った世代でも、「青春もの」として読める。




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ひとつだけ注文があるのだが、どうか「引き際」は潔くしてほしい。

現在は、インターハイに出場したばかりで、ライバルとなる高校もこれからたくさん出てくるというところだし、なによりチーム内も不安分子(ツッキーとか)や不安要素(レシーブが下手くそな問題)もある。しかし、スポーツ漫画の宿命として、一試合一試合ごとに必ず困難(ex. 破れない必殺技を用いる敵、とか、チーム内で喧嘩して分裂、など)が提出され、それを解決しなくてはならず、それを経ていくと、自然、主人公および主人公のチームは強くなっていき、「提出される困難」のレベルもインフレ化する。

たいていのスポーツ漫画は、人気があれば引き際が延々と延ばされるので、どんどんと不自然になっていく。

先に出た『アイシールド』でいえば、関東大会くらいまでが面白かったのに、全日本、それからアメリカ代表との戦いなど、かなり荒唐無稽な感じになってしまって、それまでコツコツと作者が積み上げた価値観が一気に崩壊していた感があった*1。非常にもったいない。

もちろん、全体的に見れば『アイシールド』の傑作性は揺らがないのだが、連載を少し長引かせたことはかの作品の「玉に瑕」となった。

ぜひ『ハイキュー』は、終わるポイントをしっかりと見定めて、現実的で最後まで共感を持てるまま物語を終えてほしい。いささか早すぎるが、この作品が傑作となるのを見越したうえでの要望だ。






4位 - 『谷岡ヤスジ傑作選 天才の証明』




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天才の証明―谷岡ヤスジ傑作選

天才の証明―谷岡ヤスジ傑作選




谷岡ヤスジ『天才の証明』は99年刊で、現在絶版である。南伸坊の装幀がよい。

アマゾンになかったのでオークションで手に入れた。500~600円くらいだったと思う。

私はこの作者の作品というのをほとんど知らずにいたので、「アサ~~~ッ!!」とか「鼻血ブーッッ!!」とかそういうものを、パロディのネタ的に知ったのが初めて。で、温故知新的「オリジナルを求めて」的な読み方をしたからかもしれないが、やはり面白い。けれどもこの面白さって、「ぶはははははは」っていう面白さじゃなくて、「ううーむ、そうかあ。ネームっていうのはこう描くんだなあ」みたいな研究資料的な面白さであって、それを証明するかのように467p からは、相原コージいしいひさいち江口寿史泉昌之唐沢俊一しりあがり寿東陽片岡とがしやすたかとり・みき、芳井一味、中崎タツヤ、和田ラヂヲら錚々たるメンバーが谷岡ヤスジへのトリビュート作品を描いて、谷岡の「偉大さ」をそれぞれに謳っている。

谷岡作品は、基本的には猥雑で、粗っぽく見えるが、コマ割りや構成などはかなり練られているような気がする。まあ、その緻密さをあえてぶち壊すようなコマもあったりするのだが。

あと、谷岡作品は言語感覚が非常に特徴的なのだが、これを文章で表すのは難しい。あんといっても、マンガで読まなきゃあかんねーんだもんねーッ。





3位 - 『外天楼』




外天楼 (KCデラックス)

外天楼 (KCデラックス)




それでも町は廻っている』を漫然と読んでしまえばなかなか気づけない石黒正数の才能。この作品では、高い画力、緻密なストーリー性、飽くことのない「トリック」への志向など、その能力は全方面へ遺憾なく発揮されている。

ネタバレはしたくないので、ほとんどそのストーリーについて触れないつもりだが……ああ、どうしても言いたくなってしまう。

とにかく、げらげら笑っていたらいつの間にか話は展開しているので、おそらく2回か3回は読み返してしまうに違いない。ラストは、1話目からは想像もできないほど、せつない。非常に地味ではあるが、今年の傑作作品のひとつだと胸を張って推奨できる。





2位 - 『僕らの漫画』




僕らの漫画 (ビッグ コミックス〔スペシャル〕)

僕らの漫画 (ビッグ コミックス〔スペシャル〕)




まず、この「漫画」を知らない人のために書いておくが、この本は、有志の漫画家、編集、デザイナーらのによってノーギャラで作られ、売上から必要経費を覗いた利益は東日本大震災からの復興のために募金される。

どのような漫画家が描いているのか。

掲載順に、私が気に入った漫画家だけを挙げてみるが、



ここに挙げた作品のすべてがあの大震災に関連するものでもない。※印をつけたものは、特に「良作」以上の評価をしたい作品で、傑作と言っていいだろうが、この中でも、『君の女の子』と『ダンのこと』は、直截的には震災は無関係だ。

この本には一貫したテーマがあるわけでなく、それもよかった点だと思う。あまりにも震災を直截扱ったもの、あるいはそれをメタファーにしたものなどは、かえって読みづらく、それは作者の考えや思いがまだ未消化で暴力的ともいえるエネルギーに満ち溢れているからだろうと思う。

そんな中、トリを飾ったとり・みきだが、短いページ数なのに最後のコマには圧倒されるようななにかを感じた。この漫画で示されているのは一見、福島への祈りのようでもあるが、静謐な怒りのようですらある。

この漫画ほど、ある意味で、2012年を如実にあらわしているものもないだろう。

私たちは、今年から「震災以後」を生き始めた。原発推進派にとっても脱原発にとっても、つまりどのような利害関係にある人だろうと、去年の3月11日に起こった一連のできごとによって、人生や人生に対する観念のようなものを大きく変えられたに違いない。

この本には、「あの日」のことを、哀しみで表現する人もいれば、笑いで表現する人もいるし、怒りで表現する人もいる。漫画家によってそのリアクションは様々なように、おそらく私たち自身も様々なリアクションで「あの日」以後を生きているのだ。

掲載されているすべての作品が傑作、とは言わないが、参加した漫画家の心意気に対して、ふだん漫画好きを自称しているのであれば、心意気で応じるというのもまた一興だろう。





1位 - 『よつばと!




よつばと! (1) (電撃コミックス)

よつばと! (1) (電撃コミックス)




これはいつかきちんと書かなくちゃいけないなと思っていたのだが、大傑作。

「ほのぼの系」とか「癒し系」という言葉でこの作品が評価されているのをよく目にしたので、これまで食指がまったく動かなかったのだが、実際に読んでみるとまったく印象が異なった。




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私が感動したのは、一話一話が、どうやらほぼ、一日一日に対応しているらしいのだ*2

たとえばWikipedia を参照してみると、第1巻はこうなっている。







これは、実はものすごい試みだと思う。「子どもは日々成長している」などという言葉は巷間でよく聞かれるが、その日々、つまり本当の一日一日を意識している親はほとんどいないだろうと思う。その成長が意識されるのは、ある程度のスパン、たとえば一年経つなりかして、「ああ、去年の大晦日にはこんなだったのに、今ではあんなになっているなあ」などという仕方で「成長」を発見するのだと思うが、この作品では、文字通りの一日一日を丹念に描くということで、本当の「日々の成長」あるいは「日々の変わらなさ」を描写し、しかもそれに成功している。

また、この作品は、間が良く、よつばが散歩しているあいだも、その街や公園の風景が丁寧に描かれる。コマをじっくりと使って性急に物語を進めず、ある程度の時間の流れを読者に体験させる。これはもう、保坂和志がこの作品を知ったら手放しで絶讃するのではないだろうか。

ちなみに、私は子ども嫌いなので、主人公の子ども(よつば)をかわいいとはあまり思っていなかったのだが、それでも、作者の心が込められた一話一話にこちらもゆったりと身を任せて読んでいくと、次第によつばに対して、知り合いの人間に対するような親しみが私の心のうちに湧き上がってくるのを驚きをもって発見した。これは、私にとっては非常に驚くべきことなのだ。

「かわいい」とか「癒される」だけではない、もっと異なった点からの評価があってしかるべき作品(既にあるのかもしれないけど)で、これは、新しい漫画の形を提示していると思う。






その他


その他に特記するようなこともないのだが、『へうげもの』『ハチワンダイバー』『宇宙兄弟』は途中で購入が止まってしまっている。前二者は、ただただタイミングがずれてしまっているだけで、いまだに面白く読んでいるのだが、最後者は、どうも読む意欲が失せてしまった。ムッタが宇宙飛行士になるくらいまでは面白く読んでいたのだが、それ以降はどうもダラダラ傾向にありはしないだろうか。映画化とかムック本が出たりとか、やけに世間から騒がれ始めたと同時に、ストーリーのテンポの良さも失われ始めたと感じられたのだが、それはただの偶然だろうか。

そういえば、つい最近に終わった『バンビーノ』もドラマ化あたりから迷走が始まっていた。名作であるには、だらだらと物語の引き伸ばしを図るのではなく、さっさと終わりを迎えさせる必要があるのだ。

ヴィンランド・サガ』はあいかわらず面白い。作者幸村誠は『プラネテス』にひきつづき、またもや「愛」という、これ以上ないというほど普遍的な、言い方を変えればこれ以上ないほど陳腐なテーマを述べるためにあの壮大な物語を描いているのだとしたら、こちらはただただひたすら敬服するしかない。いや、きっとそうなのだろう。今のトルフィンはカラマーゾフのアリョーシャより輝き、神々しささえ感じられる。

なにを思ったか西村ツチカの『なかよし団の冒険』『かわいそうな真弓さん』を購入したが、これが大失敗。絵だけは文句なしにうまいと思うので、フライヤーやポスターなどを描く仕事などにはものすごく向いていると思うが、ひとつだけちょっと面白い話があったのを除けば、それ以外はどれもこれも感覚に拠りすぎていて面白くない。また、いじめの話が興味本位に描かれているような話があったが、あれは不愉快そのもの。あの一作だけを以てしても、大きなスケールの漫画を描ける人物ではないと判断できる。あと、いかにも作者は女性だと思っていたので*3、「ふうん、女の人でもこんな感じなのかなあ」と不思議だったのが、実は作者が男だったということがわかると、作品全体に流れるロリコン嗜好が腐敗物のように鼻につくようになり、二度とページを開いていない。

来年は、こういう「一本釣り」的に購入した漫画が当たればいいなと思う。私の勘、それほど外れないはずなんだけどなあ。今年はいまいちでした。




*1:私は個人的に村田雄介を尊敬しているので、あの展開は編集が望んだものではないかと思っている。


*2:正確には、昼と夜に分かれているということもあるのだが。


*3:あとがきにも、女性っぽいイラストが描かれているので、おそらく意図的。



編集

さても晴れ晴れしいタイトルだが、私は言うほど「漫画読み」ではないので、漫画雑誌も「週刊少年ジャンプ」くらいしか購読しておらず、あとは立ち読みできるときに立ち読みする、といったところ。だから当然、月刊誌などは押さえていないし、隔月刊、季刊誌なんてもってのほか。

リアル・ネットの双方において漫画コミュニティ(?)に積極的に参加したこともないので、新刊や過去の名作などについても疎い。

「トップ10」と書いたが、よくよく本棚を見てみると、今年買ったもののうち、新しく読み始めた漫画は12本しかなかったので、ほとんどそのままということになる。




私の観測範囲内での2012年


第何次になるかはわからないが、ジャンプは黄金期に入っているのではないかと思う。




  • ハイキュー

  • 暗殺教室

  • 斉木楠雄のΨ難

  • ニセコイ

これらは、ニセコイ以外はすべて今年連載開始。ニセコイの方も連載1周年とちょっとくらいだ。

今のジャンプが持っている新鮮さは、おそらくこれら4作品が支えていると思う。ベテラン勢では、ワンピースは言わずもがなだが、トリコが人気あるみたいで、個人的に嬉しい。漫画内に、戦闘のハイパーインフレーションから少し離れた価値観を持たせたという一点だけでも、充分評価に値する漫画であるし、たいしたことがないと思っていた画力も、ここ最近では非常な「伸び」を見せている。作者がよく勉強をしていると感じさせられる。

ハイキュー、暗殺教室については後述するので、斉木楠雄とニセコイについて少し述べるが、前者は、弱者に光を当てているという点で、今までのギャグ漫画の「弱肉強食(=漫画内マイノリティが叩かれつづける)」の構図を塗り替えている点で評価したい。

燃堂がキモイとか、海藤が中二病とか、一見彼らを嘲笑するような描写が先行するのだが、主人公の斉木も、内心では彼らをそれなりに評価したり気にかけたりしているし、それどころか、彼らが窮地に立たされると陰ながら救うこともある。そして、いつも痛い目を見るのは、彼らをバカにし、騙そうとする連中なのだ。昨今のいじめ報道の連発*1も踏まえると、ここにひとつのカタルシスがある。

あと、これは私自身の年齢が少し上がったからかもしれないが、この燃堂と海藤が非常にかわいい。そう思いながら読んでいる読者は少なくないのではないか。

ニセコイは、それほどかわいい女の子が描けるわけでもない古味直志が、なぜかヒットさせてしまったラブコメディ。恋の三角関係どころか、今は五角形くらいになっているけれど、最大のヒットの要因は、エロ要素が非常に少ないことだろうと思う。

これは私がずっと主張してきたことだけど、ラブコメにエロは必要ないんですよ。エロが必要なのは、エロコメだけで、それはジャンプという表現場所では、どうしても物足りなさが生じてしまう。だから、画力先行の漫画(『パジャマな彼女』『恋染紅葉』)が次々と連載を終えるのに対し、高校生らしい範囲での正統ラブコメ的ドタバタをつづけるニセコイが生き残ったということになる。『パジャマ』も『紅葉』も、後半はお色気路線を捨てて、わりとマジメに恋愛ものを描いていたが、その頃にはもう打ち切り街道を突っ走っていたわけで、もったいない話*2

ジャンプ以外についていえば、『テラフォーマーズ』が「このマンガがすごい」で1位になったらしく、これは「面白いらしいよ」と人に薦めていたくせに本人は未読という非常に情けない状態。これはぜひ、来年はじめにでも購入し、読もうと考えている。




テラフォーマーズ 1 (ヤングジャンプコミックス)

テラフォーマーズ 1 (ヤングジャンプコミックス)




あと、今年は長期連載漫画の終了というニュースが多かった気がする。

『岳』『静かなるドン』『範馬刃牙』『リボーン』『バンビーノ』『さよなら絶望先生』『タフ』『エア・ギア』『あたしんち』……中にはまったく読んだことのないものもあるけれど。くわえて、『無限の住人』は来年のアフターヌーン2月号で終了らしい。

あと、漫画に直接関係があるわけではないが、Amazon からKindle が発売されたのも今年。CD はまったく売れなくなってしまったが、漫画は今のところ電子書籍の波に押しやられているということもないようだ。

私みたいな機械音痴にはタブレット(?)みたいなものは使いこなせないし、漫画もあれでしか読めなくなったら寂しいかぎりだ。まあそんなことはないと思うんだけれどもね……。

というところで、総括はだいたいおしまい。以下にいよいよランキングを示す。

繰り返しになるが、今年買った漫画のトップ10なので、古い作品もある。





10位 - 『あさひなぐ』




あさひなぐ 1 (ビッグ コミックス)

あさひなぐ 1 (ビッグ コミックス)




スピリッツに連載中の高校生女子なぎなた部のスポコン物語。女性作家こざき亜衣が、スポコンものを青年誌に連載しているというのも面白いが、主人公の旭を中心とする1年生トリオと、真春を中心とする2年生トリオのキャラ分けが非常によくできている。

このキャラの描き方は女性ならではで、特にお嬢様ぶっているさくらの腹黒っぷりといったら。どれだけの毒を吐くのか、彼女の毎回の台詞が楽しみでならない。

なぎなたというマイナーなスポーツを題材にしたのも吉と出ているのではないか。主人公の旭と同様に、読者のわれわれも、「ああ、なぎなたってこんなに恰好いいスポーツなんだ」とひとつ、またひとつと惹かれていくことになるのだ。

個人的には、キャプテンの野上が女の子していて、好き。あと、主人公の旭は髪切ってショートにしてくれると、最高なんですが。





9位 - 『暗殺教室』




暗殺教室 1 (ジャンプコミックス)

暗殺教室 1 (ジャンプコミックス)




ジャンプで『ネウロ』を描いていた松井優征の新作であり、当然のごとく怪作(今のところは)。

一にも二にも、主人公(?)の殺せんせーがかわいい。にゅやっ!

本来なら多くの謎がちりばめられたミステリー漫画(殺せんせーがどんな生物であるかすらわからない!)であるはずなのに、基本的にはギャグ路線。しかしそれでもきちんとストーリーが展開していっているところが、松井優征の鬼才たるゆえん。謎つづきでも、実際には読者は飽きが来てしまうのだ。

コミックは年内に第2巻が出る予定だが、ジャンプの新しい看板漫画として、多くの読者にそのつづきが期待されていると思う。

なお、コミックの装幀は特筆に値する。





8位 - 『銀の匙 Silver Spoon




銀の匙 Silver Spoon 1 (少年サンデーコミックス)

銀の匙 Silver Spoon 1 (少年サンデーコミックス)




北海道の大蝦夷農業高校(通称エゾノー)で生活する八軒勇吾の物語。

少年サンデーをたまたま読んだときにこれを知ってすぐに購入した。いわゆる「農業もの」に属すると思うが、作者の荒川弘(♀)は、実際に北海道の農家で育ったらしく、いい加減な描写がない(っぽい)ところが本作の問題提起(ex: 生き物を食べるとは?)を真摯なものとしている。つまり、都会の人間から見た、宗教的信仰的非現実的な農業とは一線を劃している。

私がこの漫画を気に入ったのは、とにかく主人公に感情移入できるということ。

八軒は、非力で知識も経験もないのに、いろいろな物事を抱え込みすぎるタイプ。けれどもそれで沈鬱になるというわけではなく、ときに疲弊し、ときに誰かに助けられ、そしてときに誰かを助ける、というポジティブなおせっかい屋さん。それに引き換え、ヒロインらしき御影(みかげ)の「ううん、わたしはいいの」的なあの感じは非常にネガティブで、個人的には私は嫌いだぞ、御影。

第1巻を読んだ人間は、必ず卵かけごはんを食べたくなるはず。「ああ、自然が近くにあるっていいなあ」と主人公たちが言わないところも好感がもてる。私も都会から田舎に引っ越してきてはじめてわかったけど、自然って、人間に対してめちゃくちゃ厳しい。だから、一概に「いいなあ」っていう感想はなかなか出てこない。まして北海道ならなおさらでしょう。

どちらかというと八軒たちエゾノーの生徒たちは、「ああ、自然ってうまいなあ」みたいな感じなんだけど、そっちの方が正直でいいよね。それなら私も共感できます。

食に携わる仕事(たとえばレストラン勤務とか)に就いている人たちにも、読んでほしい漫画。





7位 - 『ヒーローカンパニー』




ヒーローカンパニー (1) (ヒーローズコミックス)

ヒーローカンパニー (1) (ヒーローズコミックス)




御大島本和彦の新連載漫画。島本の『アオイホノオ』は、連載中にして既に伝説化しているので、あえて触れない。あの傑作を読まなかったら、あなたの漫画人生は確実に損をしていますよ。

さて。そんな島本の『ヒーローカンパニー』だが、設定からして面白い。ヒーローを派遣(?)して平和を守る「ヒーローカンパニー」という株式会社に、ひとりの男が入社しようとする。その男の名前はアマノギンガ、この漫画の主人公だ。この入社試験というのは非常に単純で、時間内に会社にたどり着けばいいというものなのだが……。

今や、ヒーローという存在が無条件に認められる時代は、漫画の世界の中でも終わったのだ。その存在意義は解体され、再構築され、あらためて問いが提出される。すなわち、ヒーローとはなんなのか。

もちろん、これは哲学漫画ではなくて、純粋なギャグ漫画だから安心してほしい。この漫画の中では、ヒーローは業務が終わればタイムカードを押すひとりの社員となっている。そういった世界で、悪と戦うというのが今後のこの漫画の展開となっていくのだろうが、1巻では入社試験に合格するところまで。つづきが非常に愉しみである。

なお、偶然ではあるが、この作品とほぼ同時に、嵐田佐和子『鋼鉄奇士シュヴァリオン』という作品も購入した。




鋼鉄奇士シュヴァリオン 1 (ビームコミックス)

鋼鉄奇士シュヴァリオン 1 (ビームコミックス)




この作品は、世界平和を達成したのち、変身が解けないヒーローの話が描かれている。このあらすじだけを読んでせつないストーリーを連想し、喜び勇んでアマゾンに註文した私は、読んでみて、「あ、ギャグだったのね」と少しがっかりした。でも内容はすごく面白い。ヒーローの過剰な力は、平和な世の中ではむしろ「公共の福祉」に反する存在となってしまい、周囲に迷惑ばかりかけて警察官に「またあんたか!」と怒られる。

この作品もまだ1巻しか出ていないのだが、『ヒーローカンパニー』と併せて、読んでいきたい。





6位 - 『ジョジョリオン




ジョジョリオン 1 (ジャンプコミックス)

ジョジョリオン 1 (ジャンプコミックス)




ジョジョを第1部からリアルタイムで追っかけている人ならいざ知らず、最近になってファンになった人たちは、過去の第3部とか第5部とかの話で永遠に盛り上がっている雰囲気があるが、荒木飛呂彦は、過去にとどまっていない!

これは持論だが、過去のジョジョを超えられるのは新しいジョジョだけ。私の中ではジョジョ史上最高傑作となった『スティール・ボール・ラン』を超えるべく、本作は開始されたのだが、まず、あの東日本大震災が「起こったもの」として作中に描かれていることが私には新鮮な驚きだった。

これは、荒木が宮城県出身ということにも深く関係があろう。過去に拘泥するのではなくそれを乗り越えていくというのは、ジョジョに一貫したテーマである。物語の中での話だけではなく、リアルの世界においても、震災を克服していく物語を荒木自身が選択したということなのだろう。

しかしこの作品の謎の多さよ。

謎。謎。謎。

というか、わかっていることはほとんどない。主人公は、東方定助(ひがしかた・じょうすけ)と名づけられるが、これも仮の名前であり、本名ではない。本人も、自分がどこから来たのかわからない。スタンドは自分で名づけた。「ソフト・アンド・ウェット」。

現在のところ、3巻までしか刊行されていないが、読めば読むほど謎は深まっていくばかり。しかし、それらは名人荒木に手になる上質の謎であり、読者をとらえて離さない。昔のジョジョのセリフなんかをパロっている暇があったら、これを読むべし。



つづきは明日。





*1:顕在化しただけであって、いじめはずっと存在してきたはず。


*2:『パジャマ』は前半で見切っていたけど、後半読んでみたら結構よかった。エンディングは記憶に残る良場面。



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呼称の問題のつづき、みたいなもの。

本来、「苗字/名前」という意味での「名前」は非常に大切なもので、昔の中国であれば、父親か師(君)でなければそれを呼べなかったという。もしかしたら知らせることもなかったのかもしれない。そのために「字(あざな)」があったそうだが、これもどうやら軽々と呼べるものでもないらしい。

まあ日本にも似たような文化があって、やっぱり名前を直接呼ぶのは避けたらしい。部下が「羽柴秀吉様」と言うことはあり得なかったようで、「羽柴筑前守様」と呼んだそうな。

たしかに現在においても、上司の山田太郎さんのことを、よっぽどのことでもないかぎり、「山田太郎さん」とは呼びかけないと思う。「山田部長」とか「山田さん」だろう。



ル=グウィンの『ゲド戦記』では、「真の名」を知ることが魔法の重要な秘密になっていて、もし「真の名」を知ることができれば、それを魔法で操ることができる、という設定になっている。

たとえば主人公のゲドは、本当の名前をゲドと言うが、通常はハイタカ(灰色の鷹)と名乗っていたはずだ。「ゲド」という名前を知られてしまうと、善からぬ者に操られてしまうから、よほど親しい者でない限り、それを教えることはない。

これは非常によくできた設定だなあと思っていたのだが、もしかしたら、名前の禁忌性というのは世界中にある慣習なのかもしれない。



私の本当の名前は「しょうへい」という。けれども、私のことを「しょうへい」と呼ぶ人は、非常に少ない。確認できるところでは、両親と、宮崎の元カノさん、それに前職のときの上司くらい。この人はなぜかそういうタブー感覚というのが非常に鈍い人で、私のことをそれほど長いつきあいでもないのに、「しょうへいちゃん」と呼んではばからなかった。最初それが嫌で嫌で仕方なかったのだが、しまいには慣れた。が、他の人が私のことを「しょうへい」と呼ぶのは、自分自身に触れられる感じがあってやはり気持ち悪い。

あとは、もしいるとすれば、中高のクラスメートたちくらいなものか。

という諸々があるから、私は女性の名前というのをほとんど呼んだことがないと思う。おつき合いした人以外では、下の名前を呼んだことがあるのは、同じ職場に同姓の人がいる場合くらい。「鈴木桃子さん」とか「山田さくらさん」とか。

それに、名前を呼びたいとも思わないんですな。自分自身の場合と同様、名前を呼べば、その人に直接触れてしまう感覚があって、そういうべたべたした感じが嫌いなのだ。

たとえ、「わたし、みんなにもそう呼ばれているから、『ユキ』って呼んでくださいね」と言われても、「そうですか、山本さん」と応えると思う。そうすれば、彼女の気味の悪い自己愛に巻き込まれずにも済む。

だから、というわけでもないのかもしれないが、私は偽名・仮名の世界が好き*1。嘘が好きなんですな。




*1:いちおう「はてなID」はtodotaro で、ユーザーネーム(?)は「東堂太郎(仮名)」になっているけれども、これらは本名とはまったく関係ないので。



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ラジオでこんな曲がかかっていた。






クリスマス?なにそれ?美味しいの? / ヒャダイン




動画を見ればコメディ調だということは一目瞭然だが、ただ、その歌詞の中に、「みんなハッピー!!ってわけじゃないんだってば クリスマス!!」というのがあって、この台詞は本当はなかなか重い。

「仕事が入っているから(みんなハッピーってわけじゃない)」とかそういうこともあるけど、クリスマスを喜ぶ文化圏にいて、いちおう平和で、経済的に余裕があって、といういくつかの条件の上に、時間的余裕を見つけてデートしたり家族と一緒に過ごしたりしている、ということをこそ、キリスト生誕の日に考えるべきなのかもね、と思わせる。

まあ、愉しんでいる人にわざわざ水を差すという気はないんだけれども、キリストという人が聖人なのであれば、「あなたが喜んでいるときこそ、あなたの周りに悲しんでいる人がいることを想像してみなさい」みたいなことを言うのではないか。

「そういうことを言い出すと、必ず世の中のどこかでは不幸な人がいるわい!」って文句が出るかもしれないけれど、キリの字さんは、「わたしの生誕を祝ってくれるというのなら、すべての者が幸福でないかぎり、その必要はない。それ以外のお祝いであれば、あなたは好きに喜んだりするがいい」と言うのではないか。少なくとも、「わたしの生誕のお祝いの場合だけは、全力で喜びなさい」とは言わないのではないか。

かの宗教を全然知りもせず聖書も読んだことのない人間の意見なので、気にすることはないと思うのだが、世界というのは、幸と不幸とがアンバランスに存在するのなら、より不幸の方に引っ張られるべきだと私は考えている。たとえば先日の無差別乱射殺人事件があって、それだけでも、アメリカでは手放しでクリスマスを祝うという気分ではないのかなと思う。

自分の周囲で起こったことではないのに、そのことを考えれば、幸福な気分に黒い影がさしてしまうというような不幸なできごと。

もちろん、「それはいったん忘れて、祝おう」という気分の人も多くいるだろうし、それもいいと思う。ただ、どこかに不幸な境遇の人間(あるいは動物)がいると考えること、そしてそれを忘れないことは、やっぱり大事だと思う。

なんだ、マジメな文章になってしまった。



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あまりH2O の『想い出がいっぱい』は知らないのだが、ただサビは有名だからときたま鼻歌を歌おうとするのだけれど、いつも変なことになってしまう。




大人の階段昇る 君はまだシンデレラさ

しあわせはだれかがきっと

運んでくれると 信じてるね

誘い涙の日が落ちる

エリー my love so sweet





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