とはいえ、わからないでもない

2013年02月

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先日、当ブログの「甘い毒」という記事にコメントをいただいたのでその記事を見直していたのだが、その中に、保坂和志の著作の中からのおぼろげな引用がしてあった。

そこでは、『季節の記憶』を引用元*1と記載してあったのだが、本当のところはどうだったっけ、と少しだけ気になっていた。

その数日後、とあるところで催しものがあり、私もお手伝いをしに行ったのだが、そこで保坂和志の『この人の閾』(ハードカバー)があり、ひさしぶりに読み直した。すると、私が上記箇所で引用していた内容があり、ああこれはこの小説に書いてあったことなのか、と妙にスッキリした。

その小説には、主人公(四十代くらいか)が、大学時代の友人宅で、その子どもの洋平とサッカーについてしゃべる場面がある。




「いまはやらないけど、中学までやったよ」

洋平はソファの上で胡座になり反動にまかせて弾みながら「ワッ」とか「チャッ」とか声をあげた。

「どこだったの?」

「左のフォワード」(といっても、今と二十何年前ではサッカーのフォーメーションそのものが違っている)

「すげえ。じゃあ、左利き?」

「右利き。左利きがいなかったんだ」(サッカー部員が十五、六人しかいなかったのだ)

ぼくは本当は子ども相手にしゃべるのが苦手だ。こっちから子どもに話題を合わせなければならないのが面倒だしテレくさくもあるのだが、共通の話題があればいくらでもしゃべっていられる。

「洋平は?」

「控え」

「何だよ。ダメじゃんか」

「六年しかレギュラーになれないんだよ」

洋平は拍子をとるようにからだを揺すりソファの背に自分の背中をぶつけている。足は一回しゃべるごとに組んだり開いたりしている。

「なんで六年だけなんだよ」ぼくは訊いた。

「先生が決めたの」

「そんなのヒドいよな」


(40p)




以下こんなやりとりがしばらくつづくのだが、これを読んでいて、私も総じて子どもが苦手で嫌いということを思い出していた。

上記主人公と考えが似ているのかもしれないが、私は子どもと話す機会があれば、必ず自分本位で話すことにしている。

子どもと話すときは子どもの目線に立ってあげる、という話をよく聞くが、私の言う「自分本位」は、子どもの目線に(空間的に)立ちはするものの、子どもに合わせた会話をしない、ということだ。

子どもに合わせた会話というのは、たとえば、「ほらー、ミッキーくんとミニーちゃんが歩いていまちゅよー、楽ちいでちゅねー」みたいなもの。いや、ミッキーマウスとミニーマウスの着ぐるみがてくてく歩いているのが楽しくて仕方ない、というのなら、子どもにそう言うこともおかしいことではないのだが、心中で、「ケッ。なにがミッキーだよ。なにがミニーだよ。冗談じゃねえぜ、ったくよぉ」と思っているのなら、上のようなことは言うべきではない、ということだ。

本を読み、そんなことを考えていたら、お手伝いをしているイベントに男の子(小学3年生)がやってきて、その場に大人の男は私しかいなかったので、彼は、当然のように私にものすごく食いついてきた。

これは私の思いつきみたいなものなのだが、子どもは、自分が本気で話してもらっているのかいないのか、というのはすぐにわかると思う。「本気」というのは、言い換えれば、「敬意」みたいなものだ。

私は、総体として子どもが苦手で嫌いだが、話すときは敬意を失わないようにしている。というのはつまり、ひとりの人間として話すということだ。

私は、その小3男の子に、「なにが好きなの?」とか「習いごとなにしてんの?」などと話した。彼は歴史が好きだというので、テレビの話をしてみた。

「いま『八重の桜』やってるけど、あれ見てる?」

「うん」

「あれ、面白いでしょ。けっこう地味だけどな。わかる?」

「わかるよ。難しいとこもあるけど、面白い」

「そうだな。ああいうのが面白いなら、大人の本も読めるよ。歴史の小説とか、面白いぜ」

「ええ? ぼくね、大人の本は、大人になってから読もうと思ってるんよ」

「小3だろ? そのくらいで読めるよ。漢字読めなくても、読めるよ。ぼくだって、そうしたんだぜ。小4くらいのとき」

「そうなの?」

「そうだよ。だから、気が向いたら読んでみな」

「うん。でも、やっぱり、6年生になって、6年生で読める漢字が読めるようになってからにしようかな」

自分が世辞も愛想もなく本気で話すと、相手のしゃべっていることが本気で頭の中に入ってくるから、あんがい楽しい。こういう場合の「楽しい」は、対話じたいの愉しみみたいなものだ。また、子どもというのは大人のように知識が多いわけではないからその少ない知識の中でどういう考え方をするのか、という部分にも興味があった。

たとえば子どもは、自分の親が他人に対し「この子はこれこれこういうところがあるから……」と話しているのをよく聞いているな、ということが感じられた。それに対し、子ども自身が「違うよ、それはなんとかだからだよ」とその場で容喙する場面も実際にあったが、おそらくそれは、彼のすぐ隣に私がいたからだというのがなんとなくわかった。別に私はその子の親戚でも教師でもなんでもないが、私といくらか話すことで心的拠り所としていささか認めるところがあったのだろう、そういう新しい他人の力を借りて自分の親に日頃思っているところを告げるというやり方は、(バカにしていれば看過してしまうのだが)実は大人とあまり変わらない。また、その「珍しい意見」を聞いた親御さんは親御さんで、「ほう、この子もこういうことを言うのだな」という感じがあって、むしろそれからもっと言葉を引き出そうとしてハッパをかけるというかカマをかけるような調子で、「そう?」と返していたのを見て、なるほど親子というのも、やはり知らないところが多分にあって、それを日々見つけ合うようなものなのだろうな、となんとなくわかったような気分でいた。



本を読んでいるとき、なにかの縁のようなものを感じる瞬間がときおりある。

あ。そうそう、これのことをいま考えていたんだよ、とか、あれ、気になっていたんだよなあ、とか、気にかかっていることと本に書かれていることとが一致し、驚くことがある。

読んでいる本のページの総数や文字数の合計と偶然にも一致した事象の数とを比してみれば、ただの確率の問題になるかもしれないし、あるいは、わづかばかり似ている問題を己に都合よく解釈するという心理的な問題なのかもしれない。

しかしどうあろうと、本に書かれてあったことを仲立ちとしてなにかとなにかが結ばれ、そして意味を持ち始めるということは、その意味を生す自身の中では無視できることではないのだ。

心的な問題をあえて客観的問題として扱い、つまりこの場合は、符合したそれぞれを「ただの偶然」とし、それでなにかを片付けたような気持ちになって「はい、おしまい」という年齢でもなくなった。縁というものも、それなりに無視できなくなってきたのである。

しかしまだ、縁とか、ともすれば宗教的機縁と呼び変えてもよいような「なにか」に対し、完全に委ねてしまえない部分もたしかにある。もしかしたらこれも、年齢によるものなのかもしれない。




お手玉の小豆こぼれて猫の追ひ  活蛙





*1:それほど大袈裟なものでもないが。



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去年の暮れに近所の人が亡くなった。

道端で会って挨拶を交わすようになり、そして、向こうが原付で通り過ぎるときも、会釈するようになっていた。かといって親しいのかというと、特に親しいわけではなく、なんとなく苗字くらいは知っている程度のものだった。

その人をあまり見かけなくなったなあ、と思っていたら、また違う近所の人が、いま病気がひどくてね、と話してくれた。たぶん、年は越せないだろうな、とその人は事もなげに言った。冷たいとか事務的とかではなく、大晦日の次の日は元旦というような、そういう事実のひとつとして言ったのだった。

結局、挨拶を交わしていた人は、年を越すことはできなかった。

一週間ほど前、年末の葬式を予言(というと大袈裟だが)した人と話す機会があった。その人と世間話をしていたところ、秋ごろから入院していたある人の病状が思わしくないということを知った。その入院している人とは、挨拶もそうだが、畑作業のなんやかやについて教えてもらったりした。その一家の誰よりも元気で気丈な人のように思っていた。

「それじゃあ、なかなか(退院して)戻られない?」と私が訊くと、その人はタバコを吸いながら、「そうやなくて、ここ数日くらいというところや。このあいだ見舞いに行ったけど、たぶんあかんやろな」と言った。

その言い方も、死ぬのが当たり前だという言い方だった。

そりゃ人間、誰しもがいつの日かは死ぬということがわかっているつもりだが、私はそれが明日だとは思っていないところがある。そのタバコの人は、明日ということもある、ということを何十回という体験上から知っているのだろう。彼自身、昨年は父親を亡くしている。

きのう、ふだんは見かけない人がやってきたと思ったら、件の人が亡くなったということを知らせてくれた。通夜と葬式の場所を知らせ回っているのだと言う。

そして今日、その通夜に行ってきた。享年を聞いても、その年齢だったということが信じられないような若く感じられた人だった。

帰りの車の中で、縁起でもないが、今年はあと何人くらいが亡くなるのだろうということを考えていた。

ここはネバーランドじゃないし、それどころか、限界集落の予備軍なのである。葬式慣れしつつある私にとっては、わりと現実的な推察なのだ。

きのう亡くなった方は、齢八十を超えることはなかった。数字の上では、平均寿命以下ということになる。

しかし、そもそも平均寿命とはいったいなんなのだろうか。個々人の死と、その平均して割り出された寿命という数字の意味のなさに、思わず笑い出してしまいそうになった。



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昨年11月9日に放映された「日本の話芸」の柳家小三治『甲府い』を観た。今頃。

出てきてちょっと挨拶をし、「なにを言い出すのか自分でわからないので、さっそくとりかかることにします」とはにかんで笑い、その言葉どおり、すぐに噺に入った。

小三治はそれまであまり好きではなかったのだが、若いころのCD を10枚ばかりレンタルして聴き、惚れた。

私が特に好きなのは、『時そば』『芝浜』。それについてはいづれまた機会を設けて書きたいが、口跡の良さ、これぞ江戸ッ子(であろう)という勢い、美学、どれをとっても天下一品の噺家であるということがわかったのだった。

若いころ、と上に書いた。

それでは、今の小三治はどうなのか。もう七十三である。

『甲府い』。ご案内のとおり、甲州は甲府の若者、善吉が江戸にやってきて、ひょんなことから豆腐屋に奉公することになる、という噺。「豆腐ぃ、ごまいり、がんもどき」と売り歩く善吉の人柄のよさもあってか、豆腐は飛ぶように売れ、やがては豆腐屋のうちの娘をもらい、そこの養子に入る。「善吉、少しは身体を休ませろよ」という義父が説き聞かせると、「それではふるさとの甲府へ行ってお参りしてめぇりやす」と夫婦連れ添ってふるさとに行くことになる。

いつも善吉の豆腐を買っているかみさん連中が、珍しく晴れ着で夫婦ふたりで旅支度をしているのを見て、声をかける。「善吉さん、どこへ行くの?」

善吉、「甲府ぃ、おまいり、願ほどき」

「豆腐ぃ」ってのは、売り口上ですな。小三治はあえて「ぃ」を強調していなかったけれども、たぶん強調する人はするのだろう。そういえば、『高砂や』の噺の中で、婚礼の祝儀「高砂や」をうたうために、豆腐の売り口上を真似るという描写があった。

今の小三治も、面白い。トントントントーンという調子のよさはないのだが、その代わりにじわっとくるような、円熟味という言葉にまさにふさわしいようなおかしさがある。

けれども致命的に、「うー」と唸ったきり、話のつづきが出てこないというのが4~5回あった。「あれだ、あれ」という調子でごまかす噺家もいるけれど、小三治はあまりそれをやらずに(少しはやってもいたけれど)、目を閉じ、思い出すようにして3秒から4秒ほど、黙ってしまうのである。3~4秒って、すごく長いですよ。

若いころの勢いを知っている人は、「小三治、もうだめだな」などと言うのかもしれない。見ていらんないよ、と。

私は、胸が痛んだ。「うーん」となんとか思い出そうとする、だなんて、あの打てば響くといった感じの、いかにもぎらぎらしていた若いころの小三治には、まったく思いもつかないことだった。

しかし、それでも小三治は話せる限り高座に上がるんだろうな、と思う。落語自体は、ど忘れさえなければまったく面白いのだから。

たぶん、小三治の中では、前座、二つ目を経て真打になり、それから、なにを演じても無敵というようなステージがあり、そこに洗練さを加えたステージがあり、そして今は円熟期か、あるいはそれよりもっと先のステージにいる、という感覚なのではないか。

8代目文楽の最後の口演は、もちろん観たことはないが、話にはよく聞く。Wikipedia にはこうある。




1971年(昭和46年)8月31日、国立劇場小劇場における第5次落語研究会第42回で三遊亭圓朝作『大仏餅』を演じることになった。前日に別会場(東横落語会恒例「圓朝祭」)で同一演目を演じたため、この日に限っては当日出演前の復習をしなかった[10]。

高座に上がって噺を進めたが、「あたくしは、芝片門前に住まいおりました……」に続く「神谷幸右衛門…」という台詞を思い出せず、絶句した文楽は「台詞を忘れてしまいました……」「申し訳ありません。もう一度……」「……勉強をし直してまいります」と挨拶し、深々と頭を下げて話の途中で高座を降りた。




これが文楽最後の高座になったというのだが、悔しかっただろうなあと思う。名人文楽は美学を通した、は周りの人間の言葉であって、本人はそんな簡単な言葉で済ませられないものがあったのではないか、とこれまた容易に忖度してみる。

小三治文楽と較べてどうのこうの、という話ではない。

ただ、最盛期のように言葉が出てこない小三治を観ているのは、率直に言って辛いものだった。みっともないということではなく、観ているこちら側が悔しさを感じてしまったのである。

こういう思い通りにいかない悔しさをも含んで演じるのが、芸というものなのか。私なんかにはとうていわからない。ゆうに半世紀は落語をしている人間の考えを、どうやって思いはかれるだろう。

サゲを言って頭を下げたとき、小三治は少しにこっと笑ったような気がした。それは、暗い笑いではなかったように思えたのだが。



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本当にメモ。

このあいだ、1月26日の落語会の最後に、ABC の伊藤史隆さんの案内、笑福亭松喬の音頭で、「大阪締め」というのをやった。

史隆さんは、「みなさん、知っていますよね?」と言っていたが、私と弟はまったく知らず。「大阪締め? なんだそれ?」

で、実際にそれをやったのだが、まったく知らない作法(?)だったので、それだけでもうたのしくて、帰り道、弟と「あんなのが、あるんだねえ」と昂奮した。

で、きのうそれを思い出してWikipedia を調べてみたら、記載があった。






  • 一般的な流れ



  1. 「打ーちまひょ(打ーちましょっ)」 パンパン

  2. 「もひとつせ」 パンパン

  3. 「祝うて三度」 パパン パン(天満・船場周辺)、パン パン パン(生玉神社周辺)、パン パパン(平野郷)

  4. 「おめでとうございますー」パチパチパチ…(拍手)



うむ。書いていて、やはりめでたいという感じがある。

これで次の「大阪締め」の機会があっても、もう安心、なのだが、たぶんそのチャンスは非常に薄い。来年、同じ落語会に行けばできるかもしれないけど。

関東の人にはわかりにくいかもしれないが、「祝うて」は「いおーて」と読みます……と思ったけれど、もっと厳密にいうと、「iwoote」なんだよな。「いをーて」か。それよりは「いうぉーて」の方がいいか。思わぬところで、表記と音があまり一致していない問題が発生してしまった。



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演劇部5分前 1巻 (BEAM COMIX)

演劇部5分前 1巻 (BEAM COMIX)




百名哲の『演劇部5分前』を読み終えて、あることを思い出していた。

数年前、宅間孝行(当時はまだ、脚本はサタケミキオ名義だった*1)をテレビで見かけるようになった頃、その主宰する劇団、東京セレソンデラックスを観に行った。知り合いの知り合いが客演しているということで連れて行ってもらった。

だいたい小劇場系の演劇のお客さんというのは、有名なところでなければ、20代~30代のやはり役者志望者みたいなのが多いのだが、そこは、いわゆるギャル系のチャラチャラした女の子たちがたくさんいた。おそらく主宰が人気のあるテレビドラマに出ているということで、こういうお客さんも来るんだな、とちょっと遠巻きに彼女たちを眺めながらそんなことを考えていた。

いい舞台だった。脚本がよく練られ、笑いと感動のバランスが取れていた。いじられやすいタイプの俳優を徹底的にいじるという、今であれば新喜劇系とわかる笑いを私は好ましく思わなかったけれども、他のお客さんたちにはよくウケていた。

芝居が終わり、客電が点くと、Primal Scream の"Rocks" が大音量でかかり、出演者全員がモンキーダンスを踊って出てきた。「うわっ」 と思った。カッコイイ。圧倒されてしまった。

劇中、ずっといじられていた俳優が挨拶としてこういうことを言った。

「ぼくたちは、まだちっぽけな劇団です。千秋楽は明日です。きょうの芝居がよかったというのであれば、みなさんのお知り合いに教えてあげてください。応援、よろしくお願いいたします!」

聞いていて、よく言うぜと思った。こんな洗練されたところが、まだ「ちっぽけな劇団」と名乗るのか。ずるいくらいの低姿勢で、そんなこと言われれば応援したくなるじゃないか。



さて、話は『演劇部5分前』に戻る。

この漫画、とある方のブログ記事で知ったのだが、実は私、その記事にほとんど目を通さなかった。おそらくよいことが書かれてあるということはわかるのだが、たぶん内容が少しわかってしまうような書かれ方であったので、(比喩ではなく文字通り)焦点を少しずらすような読み方で、さっと目を通し、「高校演劇部マンガ・オールタイムベスト」の言葉を信じて、とにかく買ってみることにした。

※読後に、当該記事を読んでみたら、やはりいい記事でした。



ネタバレ(そんなにひどいものではないけど)があっても問題ないよ、という人だけ読んでみてください。



私もネタバレを回避するつもりなので、あらすじも詳細には触れない。

ごくごく少人数の女の子たちで構成される高校演劇部の話。あとはもう読んでください、としか言えない(ストーリーは複雑なわけではない)。

絵はあまり上手ではないと思う。古い絵柄で、デフォルメされたときのキャラたちは、コロコロの『つるピカハゲ丸』とか、初期のにわのまこととか、初期のつの丸を思わせる。

コマ割りも見にくい部分がある。「あれ? この人、この場にいたの?」みたいな箇所もある。

けれども、これらは強いて挙げた短所であって、それ以外のすべては、すばらしいとしか言いようがない。



最初は、アッコ、ワシさん、トモの3人がドタバタを繰り広げるのだが、この描写に「つまんねー」と思う人は少なくないのではないか。意味もない、というか、本当に無目的な感じのドタバタ。

けれども、ここでまず私は引きずり込まれてしまった。私の高校時代のごくごく個人的な体験を思い出してしまったのである。

高校2年になって、はじめて演劇部があることを知った。部員は女子2名。ふたりとも同学年だという。「どういう子?」と部長の子と同じクラスの人間に訊くと、「うーん。かわいくていい人なんだけど、ちょっと変わってるよ」

ん? 「変わってる」の意味がよくわからなかった。

とある放課後、私が校内をうろちょろしていると、演劇部のふたりが空いている教室を使って大声でおしゃべりをしていた。

もちろん立ち聞きするわけにもいかないので、通り過ぎながら、ふたりの話している感じなんかをつかもうとしたのだけれど、その雰囲気がこの漫画の3人、正確には、ワシさんとアッコのやりとりにすごく似ていた。同じ人間をモデルにしてるのかなっていうくらい。

笑うときは「ぎゃはははは」という感じで、話せば「マジで? うわー、ひでー」などという、私の学校では珍しい男言葉遣い*2、なおかつ、部長ももうひとりも、一人称が「おれ」。おれッ娘だったのである。ちなみに、漫画内では、ワシさんの一人称は「ワシ」。

1年生のときはどうだったか知らないけれど、2年のときはすでに2人で、3年になっても、1年生は入らないままで、ふたりっきりのままだったようだ。くわえて、うちの学校は学園祭時にはクラスごとに演劇をやるのが盛んで、演劇部がどこでどう発表していたのかは、ついにわからずじまいだった。もし学園祭当日にやっていたとしても、おそらく観客はほとんどいなかったろうと思う。各クラスの前評判とプログラムとを突き合わせて、どれだけ多くの(演劇部ではない)クラス芝居を観られるのかに、生徒みんなが夢中だったから。

初めて練習風景を見たその後も、ふたりがどこかの教室で練習らしきことをしているのを何度か見かけた。失礼ながら私は、たったふたりで芝居したって、いったいなんの意味があるのだろうと思っていた。

卒業するまでに、この部長の女の子と、2度ほど声を交わしたことがあって、たぶん伝言程度の内容だったと思うのだけれど、そのとき彼女は普通に「わたし」と言っていたような気がする。話すと、ちょっと顔を赤らめるような、照れ屋だった*3

いま考えると、ふたりにはふたりだけの世界があって、それを3年間ずっとたのしんでいたんだと思う。彼女たちは、いじめられるということはまったくなかったが、「変わっている」というのが多くの人間の共通認識になっていて、周りとは少しだけ距離が置いてあった。体育なんかで一緒になると、みんなが彼女たちのことを苗字に「さん」づけしているのを知った。誰も名前で呼びはしていなかったし、渾名もなかった。私は遠くから、「かわいいんだけどなあ。けれど、きっと話が通じないんだろうなあ」といつも思っていた*4

実は、この漫画内にも、似たような描写が出てきて私はドキッとした。

主人公(のひとり)であるアッコのことを、かわいいと認識しているフツーの男の子がいて、「あいつ(アッコ)は周りからは『バグっている』という評価だけど、単に子どもなだけで、おれが変えてみせる」みたいなことを遠くから見て思っているのである。

その後、彼はアッコにアプローチするのだが、そこのやりとりも、ぜひ見てほしい。アッコの気持ちが、今の私には痛いほど感じられた。

演劇部というのは、野球部とかサッカー部、バスケ部なんかに較べたら、もしかしたら花形の部活ではないのかもしれない。

全国大会に出場するレベルならいざしらず、全国にある高校演劇部のほとんどは、規模が小さいと思う。そして、規模が小さいものを、特に10代の思春期にある若い人間たちはバカにしがちだ。

「話が通じない」と思っている底には、「自分の話が通じないのだろう」というおこがましさがあるのだが、相手からすれば、「わたしの話が、この男には通じない」であるはずなのだ。その部分を客観的に見られないからバカにするのである。「変わっている」と思うのである。

周囲からは理解されないけれども、独自の世界がきちんとあって、その中の価値観で充分にたのしんでいる。そういう描写が、『演劇部5分前』冒頭におけるドタバタなのではないか。

私は、この冒頭の騒がしさに、なんとなく懐かしさと苦しさを感じた。



3人しかいない、という危機的状況は、ある事件を境に加速していく。廃部の危険に陥るのだ(結局、あらすじに触れ始めている)。

そこで、教師連中の廃部検討を撤回させるべく、中部大会出場を目標とし、本格的な練習を始めるようになる。やがて、役者を目指している女の子(これがもうひとりの主人公みたいなもの)が登場し、そのほかにも何人か登場し、場が盛り上がり始める。

こういう徐々に登場人物が増えて物語が複層的になっていく感じも、舞台っぽい。人物が動き、ストーリーの歯車が回り始めるのである。

ストーリーには、意外に伏線が張られていて、それらは丁寧に回収されていく。

しかし、登場人物たちひとりひとりにあるらしい独特の背景については、それほど深くは掘り下げられない。なぜなら、彼女たちの生きている場は、演劇部であるからだ。

この構図は、演劇そのものにも似通っている。

役者たちは、個々に人生を抱えてはいるものの、舞台の上では、ひとつの「役」を演じ、その「役」が集まって大きな芝居を成立させる。そこでは、役者A が最近離婚したんだ、とか、役者B の健康診断の結果が思わしくない、とかはいっさい関係ないのだ。

これ以上書くとネタバレになってしまいそうなので、あとふたつだけ、心が震えたシーンを。

ひとつは、アッコが東京で有名とされている劇団のDVD を演劇部のみんなと一緒に観て、その帰り道になって、突然ぼろっと泣くシーン。はじめて彼女が演劇を観て感動して泣くのだが、そこがちっともいやらしい涙じゃない。「あれ? なんで涙がでてくるんだろう」という感じで、みんなに泣いていることを隠すためにその場で別れ、ひとり、歩いて帰るのである。

ここを読んでいて、私がはじめて演劇に感動した日のことを思い出した。

私はそれまで、弟が買ってきたキャラメルボックスのビデオとか、あるいは高校演劇の全国大会のビデオ*5などを観てきたが、どれも魂を揺さぶられるような感動をしたことがなかった。私と演劇の相性はきっとよくないんだろうな、と思っていた。今のところは感動できたことはないが、いつか理窟で理解することができるかもしれない、とも思っていた。教養とかその類での理解の仕方をするのではないか、と漠然と考えていた。

ある日、深夜番組で、相島一之渡辺いっけいが出演する『LOVER SOUL』という作品を観た。

テレビをザッピングしていたところなので、「あ、演劇か」という感じで、つまらなかったらすぐに観るのをやめるつもりで眺めた。

すぐに引き込まれた。「眺める」が「食い入る」になり、あっという間に時間は過ぎた。エンディングになり、気づくと私は泣いていた。嗚咽しつつ、自分で驚いていた。なんなんだ、これは。

いい芝居に反応したのは、頭ではなく、どちらかといえば身体だった。あまり馴染めなかった劇団では、没頭できなかったスタイル ――日常的感覚からすると大きな声*6、大仰な動作、爆発させる感情など―― が、自然と諒解できたのだ。舞台上にある空間がリアリティそのものになっていた。

それから、演劇が一気に好きになった。自分にとって、いいものと悪いものがわかるようになった。それから何年か経ち、野田秀樹の4人芝居『赤鬼』をシアターコクーンで観たとき、あのコクーンの会場*7に鳴り響いた拍手をたった4人で受けている、という事実に気づき、驚愕し、そして憧れた。

『演劇部5分前』のアッコは、ひとりで帰ったその日が、はじめて憧れを抱いた日だった。

私は、彼女の気持ちが、なんとなくであるがわかる。きっと、演劇が好きな人だったら、共感できるだろう。ああ、そうそう。わたし/おれもそんなだった。初めて体験した感動を、ひとりでじっくりと、いつまでもいつまでも噛み締めていたなあ。それから何日か経っても、ふとしたときに思い出して、じいんと胸に熱いものを感じていたよ、と。

もうひとつだけ。

アッコたちが練習のために合宿をするのだが、その夜のシーン。

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彼女たちの見ていたのは、実はなんということのない光景なのである。しかし、アッコは「一生忘れない気がする」と思った。そして、この場面を読んでいた私も「あ、ヤバイ」と思った。

周りに誰もいなくて、よかった。



ネタバレをしないようにしたために、なんだか自分語りになってしまったが、とにかくすばらしい漫画。

この漫画の中でも語られているが、演劇とは、一回性の表現藝術であって、一回きりであるからこそ価値がある。ということで、この漫画はまだ一回きりしか読んでいない*8。その状態で、この感想を書きたかったからである。おそらく読み込みも甘く、中途半端にしか理解できていないのだろうけれども、その「生(なま)っぽさ」が演劇と少しリンクしているようにも思うのだ。

少しでも興味を持った人、演劇をやっていた人、漫画が好きな人なら、おすすめします。明日にでも、書店に行って「『演劇部5分前』って本、ありますか? なければ注文します」と言おう。エンターブレインを驚かせて、増刷させようぜ。

さて。実際に買って来た人は、ここまで書いてあったことを全部忘れよう。そして、静かにページを開き、彼女たちの舞台の幕を開けよう。



東京セレソンデラックスの話に戻る。

終演後、知り合いは、その知り合いに挨拶をしてくると楽屋に行き、しばらく戻って来なかった。なにをしているんだろう遅いな、と思いつつ、私は外に出たところで自販機で買ったジュースを飲みながら、仕方なしに、劇場から出てくる人たちをなんとなく眺めていた。

ギャル系の女の子たちが集団になって、わいわいと騒いでいた。もう周りはすっかり暗くなっていたけれども、ちょっと興味があったので、怪しまれない程度に一歩だけ踏み出して彼女たちの話に耳を澄ませた。

「ヤバイ! ちょー感動したんだけど」

「わたしもー」

「わたし、○○に連絡するわ。明日来いって!」

「あ、わたしもー」

「ほんと、すごいよかったんだけど!」

「わかるわかる。最後のところでしょ?」

「そう!」

「あの最後のところ、わたし泣いたわー」

「わかるわかる! わたしも泣いていたし!」

「あ、ヤバイ。話してたらいま涙でてきたんだけど!」

このやりとりを聞いていたら、不意に、胸を衝かれる思いがした。

まずい。私は一歩下がり、自販機の明かりの届かないところに立った。そして、誰にも見つからないように、息を潜めた。

女の子たちは、泣き笑いだか笑い泣きをしながら、その場を去って行った。やがてひと気がなくなっても、私はしばらくその場を動かなかった。まだ、私の中にこみ上げるものがあったのだ。あともう少しだけ、知り合いが戻って来るのが遅れてくれればいいな、と思った。鼻をすする音が、やけに大きく響いた気がした。



*1:サタケミキオは宅間の脚本時の名義。


*2:今となれば、女の子の汚い言葉というのは珍しくないが、当時は一部に限られていた気がする。特におとなしいタイプの女の子たちの言葉には、たとえ汚くても上限があったような気がする。「うめー」とか「ひでー」とかは、絶対に遣わなかったのではないか。


*3:と書いている私だって、当時は女の子としゃべることなんてほとんどなかったので、こういうのはほぼ「イベント」みたいなものだった。だから、私も彼女に負けず劣らず、ものすごく緊張して話していたと思う。


*4:といっても、私の心の中でそういう「かわいい」フォルダに入っている同学年の女の子は、たっぷり1ダースはいた。


*5:わが家では、毎年NHK で放送されるこの全国大会の番組を録画し、愉しむという慣習があった。


*6:キャラメルは特に声がデカイが。


*7:そのときの舞台は、会場の中央に舞台が設置され、四方からお客さんが囲むようになっていた。いまこれを書いていても昂奮してくるような舞台だ。出演者は、野田、大倉孝二小西真奈美、外人さん。


*8:厳密にいえば、上掲画像をスキャンするときに、一回だけ当該部分を開いたが。



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このニュースにびっくりした。「ええっ!?」という感じだった。

どうせ消えてしまうだろうから、スクリーンショットをとっておく。




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これ、気づきましたか?

写真の下に




小泉進次郎(=郎の旧字体)氏




とある。なんと、小泉進次郎の「郎」は旧字体だったのだ。それに驚いた。

でも、「郎」の旧字ってなんだよ、とすぐに思った。で、いちおう調べてみると、ニコニコ大百科が引っかかった。




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右が旧字体




ああ。こういう字があるのね。たしかにうちにあった古い漢和辞典で見たことがあるような気もする。

フォントの問題などで、こういう文字っていうのは、徐々に消えていくのだろうな、と思う。ウェブのデザインがどうだこうだという話がよくされているが、日本人なら、こういった漢字がOS やブラウザによって表示されたりされなかったりする問題(機種依存文字)にもっと留意し、改善してほしいよなあ、と思い〼。(←も表示されない場合があると思う。升記号)



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『八重の桜』がたしか第7回くらいまでやっていて、今のところまだ全然面白いです。どうしよう、毎週日曜がたのしみになってきている。





登場人物も徐々に増えてきて、ますます地味な役者が勢揃い。前回触れなかったところで言えば、



いやあ、なかなかこんな面子揃わないですよ、ほんと。特に、北村有起哉小市慢太郎なんて、よだれが出るくらいだ。

ところが、だ。

剛力彩芽がなぜかポンと出てきた。うむむむむ。

基本的に、ドラマ全体が地味ーな演出で成り立っているものなので、剛力の「ザ・おてんば娘(?)」的演技が入って来ると、危うい。今回は特別な害はなかったが、非常に危うい。

早逝する役ならいいなあ、と思ったがそこそこ長生きするようで、うむむむむ。剛力さん、(演技は観たことなかったけど)嫌いじゃないからこのドラマでは視界に入らないようにしてほしいんだけどな。あのぶりっ子の貫地谷*1でさえ、比較的押さえ気味に演技しているのだから。

今回、京都守護職を任命された松平容保は、その御役目どおり京都へ行くことになるのだが、(よく憶えていないんだけど)たぶん容保自身は江戸の上屋敷に既にいて、会津藩士たちがまず江戸に立ち寄り、容保に会っていた。

そのシーンも、屋敷内で蝋燭の灯りだけで容保(綾野剛)の姿が浮かび上がっていて、非常にきれいだった。撮影はすべてアベイラブルライトでいく、という方針なんだろう(もしかしたらごく微量の人工灯も当てているのかもしれないけれど、それも自然だった)。

脱線するが、綾野剛は運がいいなあと思う。キャリアを考えたら大抜擢。特にうまいというわけではないんだけれども、気持ちがすごく入っていて、思わず魅入る。安定した演技でないぶん、かえって儚さが出ていてよいのではないか*2。たぶん、これでまた株が上がる。

今回はもうひとつきれいなシーンがあって、それが容保が孝明天皇に謁見する場面。

孝明天皇が容保の目を気に入って、自身の着物*3を賜るのだが、そのシーンも陰影をうまく扱って非常に美しく撮影されており、まさに「帝がお召し物を賜るとは!」というような神々しさが演出されていた。

あと、孝明天皇誰がやるのかな、と思っていたら染ちゃんでちょっと笑った。染五郎は現代劇だと大仰すぎるから全然似合わないけれど、時代劇なら申し分ない。

前にも書いたかもしれないけれど、本当に撮影が凝っている。

2回目か3回目くらいだったけれど、早馬がやってくるというシーンで、細い一本道を向こうからパカラッパカラッとやってくるのだが、それを望遠レンズで撮っていた。望遠だから圧縮効果がものすごく、すごく躍動感があったなあ。そういういちいちに気を取られてしまうのがたのしくて仕方ない。だから、毎回ドラマというよりは映画を観ているような気なので、観終えると結構疲れる。

あとは、ジョーつながりの新島襄役のオダギリジョーが自慰的演技をかまさなければ、成功するのではないかと思う*4

気になったことふたつ。

件の剛力出演シーンが百人一首かるたをやっているところだったのだが、その場面、読み手の風吹ジュンが下の句から詠み始めていて、それをみんなが、やはり下の句のみが書かれたかるたを取っていたが、昔はそういうやり方だったのかな?

あと、とあるところのコメントで知ったのだが、実際の西郷頼母(西田敏行)は、山本覚馬西島秀俊)より2つ年下らしいです。




2013/2/21 12:30 追記


弟から、「下の句かるた」についての情報があった。

下の句だけを詠んでする木の札のかるた、というのが現在でも北海道などで残っているらしい(マンガ『ちはやふる』に少し書かれているそう)。

また、母(北海道出身)からも、むかし、木の札でできた下の句かるたで遊んだ記憶がある、という情報が。

劇中にあったのと同じく、行書体で下の句が書かれていて、読めなくても、形を覚えて取って遊んだ、とのことです。





*1:別にそういうわけじゃないのだろうけれども、どうも彼女は『ちりとてちん』の印象が強すぎる。


*2:それにひきかえ、『江』の向井理徳川秀忠)はひどかったなあ。向井理がただそこにいるだけ、って感じだった。まあ、あれはドラマ全体がひどかったけど。


*3:御衣(おんぞ)というらしい。


*4:私の中では、オダギリと窪塚洋介が二大勘違い俳優に認定されていて、彼らが出演しているととにかく観ないようにしている。



編集

ツイッターにも書いたのだが、昨日は、朝の6時頃にちょこっとだけ雪が降るよ、という予報だったのに、蓋を開けてみれば午後2時までたっぷりと大降り。おそらく今年2番目の積雪になった。

雪というとかなりトラウマになってしまっているので、積極的に雪下ろしをするものの、雪の降っているさなかに、3.5m ほどの高さに登るとやっぱり寒い。その寒さを克服すべく、厚手のニットキャップをかぶって、その上からウィンドブレイカーのフードをかぶり、耳にワイヤレスのウォークマンを突っ込んで、2時間ほどせっせと雪を掻き落とした。バックミュージックは、三遊亭圓歌の『坊主の遊び』だ。舌っ足らずだが、若かりし頃の圓歌はすごかった! 

滑り落ちないように、足元には地下足袋を履くのだが、当然防水防雪の備えなどしておらず、すぐに感覚がなくなる。といっても零下2~3度くらいであれば、寒くて感覚がなくなり始めるくらいから、ちょっとラクになる。「ラクになる」ってったって、「パトラッシュ、僕、もう眠くなってきたよ」ということではなく、そこらへんから、「あれ? 寒くないや」という、おそらくコールドハイみたいな状況になる*1

その状態になると、寒いとか重いとか疲れたとかいう感覚がほとんどなくなってしまうのだが、そのぶん、地上に降りたあとでどっと疲れがやってくる。

高いところにのぼっていると、普段目にできない視点から、周りを眺めることになる。傍の道路を走っていくパトカーだとか、ダンプトラック、それに農機具メーカーの軽トラが見えた。こんな日まで呼び出しがあるんだ、とか。

西側の山裾には竹林が広がっていて、その笹の葉に積もった雪塊がときおりドサッと落ちていた。「ドサッと」と書いたが、音はしなかった。そのときにはウォークマンのイヤホンは耳から外していたのだが、吹雪くその雪が遮蔽して、音がこちらまで届いてこない感じなのだった。




竹林や雪塊落ちて音もなし




(2013/2/21 3:00 追記)

いやあ、びっくりした。実はこの記事、途中まで書いてあったのだが、そのまま寝てしまい、起きると、キーボードの上にネコがすわっていて、「コラ」と追い払うと、それまで書いてあった文章がどうしても途中からなくなってしまっていた。あれ? 書いたと思っていたのは夢だったのかな、と仕方なくそれを書き直して、それでも「たしかに書いた気がしたんだけどなあ」と狐につままれたような気分のままアップし、それで今さっき、たまたま当該部分を見てみたら、改行されたずっと下に、書いていた部分が残っていた。お恥ずかしい。現在はきちんと削除してあります。

ブログを書いている時間は、たいていネコが私とキーボードのあいだにすわろうとするので、こちらが身体を動かしながら、画面を見ているので、上のようなトラブルは、珍しいものではないのです。



*1:これを私は、「お、死域に入った」と呼んでいる。



編集

隕石の件の関連で、ニュースなどで「ツングースカ大爆発」も取り上げられているのだが、「『ツングースカ(つんぐーすか)』じゃなくて、『ツングース力(つんぐーすりょく)』だと思っていたよー」というのは、あるあるネタすぎるので、言及しない(と言いながら言及する手法*1)。



むかし、小劇団がその舞台を撮影したものを見たことがあったのだが、そこに「力二」という役があって、その登場シーンでその「力二」というテロップが出たとき、笑った。

「力二」、この字をなんと読みましたか?

実はこれ、「りきじ」という役名なのである。これが、素人制作の字幕のせいか、どう見ても「かに」にしか読めなかった。だから大笑いしたのである。

試しに、ワードで拡大表示してみた。




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MS 明朝 500% - Microsoft Word




これくらい大きくすれば、判別できるが、このブログ程度のサイズであれば、




力二(りきじ)

カニ(かに)




となり、わかりにくい。



これと似た問題(?)で、「へ」と「ヘ」がある。前者がひらがなで、後者がカタカナなんだが、ちっとも区別がつかない(カタカナの方が、こころもちキュッとしているか?)。




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MS 明朝 500% - Microsoft Word




このスクリーンショットをとっているときに妄想が浮かんだ。

財務省に勤める主人公は、若くして出世争いに敗れて倦んでいる。彼は、その職場へのややふざけた復讐として、自分の担当するすべての入力業務において、ひらがなの「へ」の代わりにカタカナの「へ」を入力して、日々の憂さを晴らしている。ある日、そのささやかないたずらによって、偶然にも国家機密に触れることとなり、そして、巨大な陰謀にも巻き込まれていくことになっていくのだが……という感動巨編(泣けます! せつないです! 世界を愛で救います!)。

そもそも、「カタカナ(かたかな)」という字も「力夕力十(りきゆうりきじゅう)」っぽいよね。



*1:同手法として、「自慢じゃないが」という前フリで、しっかりと自慢話をかますというのもある。



編集

『あの花』を見終えた。本当は昨年の12月半ばに見終えていたのだが、ちょっと忙しかったので、メモが整理できなかったのと、あと、書いている途中に何度か面倒になってしまい、ほったらかしにしてあった。

(はじめから予防線張っておくけど)ファンの人はがっかりしたり腹を立てたりするかもしれないので、読まない方がいいですよ。



面倒なのでWikipedia のあらすじをそのまま引用しておく。




幼い頃は仲が良かった宿海仁太本間芽衣子安城鳴子松雪集鶴見知利子久川鉄道ら6人の幼馴染たちは、かつては互いをあだ名で呼び合い、「超平和バスターズ」という名のグループを結成し、秘密基地に集まって遊ぶ間柄だった。しかし突然の芽衣子の死をきっかけに、彼らの間には距離が生まれてしまい、それぞれ芽衣子に対する後悔や未練や負い目を抱えつつも、高校進学後の現在では疎遠な関係となっていた。

高校受験に失敗し、引きこもり気味の生活を送っていた仁太。そんな彼の元にある日、死んだはずの芽衣子が現れ、彼女から「お願いを叶えて欲しい」と頼まれる。芽衣子の姿は仁太以外の人間には見えず、当初はこれを幻覚であると思おうとする仁太であったが、その存在を無視することはできず、困惑しつつも芽衣子の願いを探っていくことになる。それをきっかけに、それぞれ別の生活を送っていた6人は再び集まり始める。






ある程度の読書経験なり、あるいは映画・舞台などの鑑賞経験を持っている人間にとっては既視感あふれまくりの設定かな。

簡単にいえば幽霊譚で、オープニングのアニメーションなどを絡めてみれば、芽衣子(=めんま / 死んだのに幽霊となってあらわれる女の子)はやがていなくなるというのが容易に想像できる*1

で、ストーリーのわりと早い方で生きている5人がばらばらになっているというのがわかるんだけど、これも物語の最後では仲良くなっているんだろうな、ということも容易に想像できる。

つまり、




ばらばらになってしまった5人のもとに、死んだはずの女の子があらわれる




ところから、




5人がふたたび仲良くなって、死んだはずの女の子が消える




までの話なんだろうなということがすぐに予想できる、ということだ。

これをベタと呼ばずしてなんとする、というくらいにありふれた話だとは思う。ありふれた、というのは実世間によくあるということではなく、ストーリーとしてよくあるということ。言い方は悪いが、わりと思いつくストーリーだと思う。

じゃあベタが悪いかっていうと、別にそんなことはなく、私はむしろ、この「ベタ具合」をどう克服するのかということに期待して観ていた。

世の中にあるフィクションで、奇抜なストーリーというのはそうそうあるわけではなく、漫画雑誌では毎週と言っていいほど新連載が始まるというのに、それらがすべて見たことも聞いたこともないような設定だったら、そっちの方が反対にびっくりする。それでも、新連載始めたって仕方ないよなどとは思わないし、似たような設定の中でも、作者の個性というのは発揮・表現できるはずで、そこを注目して新連載を愉しみにしているわけだ。

そして、このアニメに対しても同様の期待を込めていた。



結果は、その期待どおりのものでもなかった、というところ。

ベタがベタベタベタと進んで、ベタッと着地した感じだった。

ミステリなんかの場合、




  • 登場人物

  • 事件

  • 手がかり

という重大な要素があって、作者は、「事件」と「手がかり」をできるだけ近づけないように工夫する。つまり、謎解きの手がかりを作中に記さなければならないのだが、それが読者に容易に発見されないように、手がかりが手がかりだとバレないように記さなければならない。

ミステリについてはまったく詳しいことはわからないのだが、おそらく、その「手がかり」を隠す方法の進化が、そのまま、ミステリというジャンルの進化の重要な要素になったのだろうと思う。

幽霊がいづれまた消えるのだろう、という予測をもって視聴者はそのドラマを追っているわけだから、製作側は、その予測をできるだけ忘れさせるか、あるいは、勘違いさせたい。

前者であれば、めんまが幽霊であるということを忘れさせてしまうような表現をいくつも重ねてみる、とか。めんまが出てくるシーンは、つねに主人公とふたりっきりにして、「主人公以外にはめんまは見えない」という設定を視聴者に意識させなかったり、めんまが外出するときには靴を履くようにしたり、とか。大事なのは、そこで少しでも主人公に、「あ、そうか。めんまは幽霊だったんだよな……」と気づかせてはならない。視聴者が「めんまはいづれ消える」という予測を思い出してしまうからである。

後者の「勘違い」を誘うのであれば、たとえば、テレビのニュースなどで「行方不明の女の子がいる」という情報が流れ、その子がめんまと非常によく似た子で、「もしかしたらこの子は、めんまじゃなくて、行方不明になった女の子なのかもしれない」と主人公たちに思わせる、とか。これもまたベタベタのミスリードだとは思うのだが、主人公たちの勘違いの期間が長ければ長いほど、視聴者も勘違いをし、その結果、事実(=やっぱり彼女はめんまで、幽霊だった!)が発覚したときの衝撃は大きくなるのではないか。

けれども。

そういう工夫は見られなかった。というか、ずっとめんまは幽霊だということになっていたし、主人公たちは「成仏させなきゃ」みたいなことをつねに口にしていた*2

その構成の所産が、長ーい中だるみである。まあ、中盤はバラバラになった5人が集結するというところに焦点が当たっている、といえば聞こえはいいのだが、はっきり言ってそれは、「幽霊が登場している」という事実に較べれば、些細に感じてしまう!

もし自分の場合だったら、と考えてみてほしい。いきなり、まだ成仏していないのかもしれないという幽霊が身近にあらわれ、一緒に生活しているという最中に、むかし仲違いした友人と仲直りすることに専念できるだろうか。私だったら、とりあえず幽霊のことを考える。

まあ、作品の中では、めんまの存在を通じて5人の旧交が徐々に温まっていく、という流れではあるのだが……一視聴者としては、もどかしい限り。

で、最終的には、やっぱりめんまは幽霊として消失してしまう。率直に言って、「もうちょっとひねれよ!」と思った。

あと、エンディングや、それに至るまでの登場人物たちの「激白」がクールではないところが好ましくなかった。

誰もこの作品がクールですよ、と謳ったわけでもなく、私がこのタイトルから勝手に想像しただけだったのだが。そうそう。この作品の正式なタイトルは『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』。




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このタイトル、フォントも含めてけっこういい




余談だが、このタイトル、ちょっと字余りで気になった。

「あの日見た 花の名前は まだ知らない」だったら、五七調におさまるんだけど、なぜか、「五・七・五・六」となっていて気持ちが悪い。せめて「五・七・五・七(八)」だったらよかったものを。「あの日見た 花の名前を 僕達は 知らないままで」とか。これにあと七字がくっついてしまうと、交通標語みたいになってしまう。「あの日見た 花の名前を 僕達は 知らないままで 左右確認!」



なお、下の記事は3話目までの感想みたいなもの。



ここまでは、期待もそれほど裏切られていないようだ。

裏切られている、といってもさほどではない。おそらく、中高生、そして大学生くらいなら、見ても素直に感動すると思う。視聴者の想定年齢層もそこらへんをターゲットとしているだろうから、アニメとしても成功していると思う。

ただ、私はとしては「うーん?」とちょっと引っかかってしまった、という話。

繰り返しになるが、結局は、めんまとの別れが、最終的にどんでん返しもなく遂行されてしまうというところに不満は残った。あと、上記記事でも触れているように、オープニングとエンディングは素晴らしいのだけれども、その洗練された感じに対して、あのエンディングは熱すぎたっていうのがある。これはもう、ほんとに趣味の話としか言えないのだが、ただ、キャラクターがぼろぼろ泣いてしまうと、観ている側はかえって冷静になってしまう、ということは言えると思う。

あと、最後にもうひとつ。

実は、見終えて1、2週間経ってからふと気づいたのだが、『あの花』のストーリー全体が、inspired by "secret base" なんじゃないか、ってこと。

エンディングの『secret base』を最初に聴いたとき、ぞわっと鳥肌が立ったのだけれど、私はそれを「うわっ、懐かしい。ひさしぶりだけど、やっぱりこの曲はいいなあ!」とわれわれの世代に特有のノスタルジーを刺戟されたからだと思ったのだが、製作者が、はじめからあの曲のイメージをベースにしてこの物語を作っていたとしたら、どうなんだろう。そりゃあ、あの曲が物語にマッチするのは当たり前だよね、っていう話になる。

ま、これは私の仮定であるし、たとえそうだったとしても、「だからどうなの?」程度のことでもあると思う。

いちおう、それらしい部分をピックアップしてみる。




君と夏の終わり 将来の夢 大きな希望 忘れない

10年後の8月 また出会えるのを 信じて




まず、ここは物語の核となる部分。子どもの頃の約束が大きくなったときにどうなるのか、というのがひとつのテーマ。年齢も、だいたい「10年後」くらいかも。




嬉しくって 楽しくって 冒険も いろいろしたね

二人の 秘密の 基地の中




「二人」ではないが、「秘密基地」というのも物語中の重要な装置。




君が最後まで 心から "ありがとう"叫んでたこと 知ってたよ

涙をこらえて 笑顔でさようなら せつないよね

最高の思い出を…




エンディングそのままじゃないの、これ?

じゃあこれはパクリかっていうと、私はそうは思わない。やはり、インスピレーションを得たというレベルであり、問題ないと思う。



でもって結論。

人に勧められるアニメか、と問われれば、素直な人になら勧めます、と答えるだろう。この記事ではケチをつけた恰好になっているが、良心的な設定だし、オープニングとエンディングはいいし、なにより『secret base』のカバーヴァージョンがいい。

なんだよ、エンディングテーマがいいってだけかよ? って言われるかもしれないけれど、かつて『スタンド・バイ・ミー』についても触れたように、たった1曲で物語のイメージ全体が覆ることも、あると思う。少なくとも私はそういうふうに感じている。







映画『スタンド・バイ・ミー』のエンディングシーン




いま、『スタンド・バイ・ミー』の件のシーンをあらためて見てみると、これこそが演出という気がする。静謐なまま向こうからかすかに近づいてくるようなイントロ。窓の向こうでは、子どもたちと、外へ出たドレイファスがはしゃいでいるが、その騒がしい声は、窓のこちら側には聞こえてこない。なぜなら、こちら側は死者の世界だからだ。

蛇足になるが、私はもともとのZONE の『secret base』を全体ではいいとは思っているが、その歌詞はひどい、と長いあいだ感じてきた。

いちゃもんつけではないが、「10年後の8月」とわざわざ限定しているところを見ると、「二人」は約束をしているように思えるのだが、だとすれば、「また出会えるのを 信じて」というときの「出会える」っていうのは、ヘンじゃないか? 「出会う」というのは、かなり「偶然性」に寄りかかった言葉だと思う。だからもし、約束をしているという前提なのであれば、「また会えるのを 信じて」の方がすっきりする。

また、もし「約束はしていない、でも、希望としては10年後に会いたいと思っています」というのであれば、「8月」に期間を限定する理由が見つからない。それともあれか、10年後には大学生くらいになっているから、8月の夏休みを利用して帰省し、そのときにでも偶然出会えたらいいですね、みたいなことを言いたいのか。そういう意図であれば通じなくもないが、奇妙な感覚だとは指摘しておきたい。

それに、「涙をこらえて 笑顔でさようなら せつないよね」という歌詞。自分で「せつない」って歌っていたら、聴いている方はちっともせつなくないんだよ。これ、アニメでも一緒のことだけど、こういうせつなさの押し売りは、やめた方がいい。でも、けっこう多いんだよねえ。こういう部分に対しては、観ている側も積極的にブーイングを出していった方がいいと思う。

この記事は、上記「蛇足」部分に共感してくれる人向けなのかな、といま思った。

上っ面の部分では「まあ、面白いアニメですよ」と言いはするものの、「『10年後の8月に出会える』っておかしくない?」とツッコんだり、「『せつない』とか言うな」と怒ったりする人なら、このアニメは「ふうむ」と首を傾げるのではないか、とそんなふうに感じている。



*1:オープニングの最後で、めんまが他の5人に背を向けたところで色を失い、灰色になる。この演出はめんまだけ別の存在(死人)ということをあらわしていて、もうちょっと深読みすると、皆に背を向けるということが離別をあらわしている(はず)。


*2:厳密にいえば、そこの葛藤はきちんと描かれているんだけど。



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