とはいえ、わからないでもない

2013年03月

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現在、当地では桜散らしの雨が降っているが、肝腎の桜花はまだ開いておらず、雨の方からすれば降り甲斐のないというところ。

で、写真はわが庭にある梅の木を撮ったものだが(ごちゃごちゃしているけど)、これはほとんど剪定をしていないために、数年前に切ったところから真上に、枝が何本も何本も伸びており、ある意味、燃え立つような梅の花を見ることができる、ということを今年になってやっと気づいた。

それまで、隣のおじさんが、「梅の木、適当に切っておくぞ」と言っていたのを、「あ、はい。よろしくお願いします」と応えておいたのだが、どこにある梅の木のことかわからず、たまたまきのう、庭を眺めていたら、青空に際立つこの花を見つけたので、写真に収めたという次第。どれだけ庭に入っていないんだ、ということがわかる話。



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以前にも書いたが、松本英子『荒呼吸』の1巻に、『La vie en rose』を鼻唄でふんふんやっているシーンがあって、「あれ? 『ラ・ヴィ・アン・ローズ』って曲、思い出せないけど、どんなのだったっけ?」と思い、YouTube で探すと、Edith Piaf の文字があり、この人が有名だよなと思ってそれを聴き、思い出す。そうそう、こんな曲だった。

で、「関連動画」としてルイ・アームストロングの『ラ・ヴィ・アン・ローズ』が提案されていて、それを聴いた。






La vie en rose / Louis Armstrong




この中にときどき入るピアノのポロポロポロン(←ひどい)という旋律が、ある曲を思い出させてくれた。






Il Postino




『イル・ポスティーノ』のサントラにある、テーマ曲であり、たしかエンディングにも用いられていた曲でもある。

0:50あたりからピアノがまたポロポロポロンと歌うのだが、この部分が、似ている似ていないに関係なく、ふと頭を過ぎったのだった。

この映画は、たしか日本で公開されたときに映画館で観たはず。映画館で映画を観るだなんて私にしては珍しいことだが、当時はまだ大学生で、勉強のつもりで映画を観に行っていた時代。いや、でもこの映画は本当によかったんだ。今からもう二十年近く前になるんだなあ。



……なんていう話を、なんだか突然、誰かに話したくなったりもする。でも、そういう相手はなかなかいない。

『桐島』の中で、主人公の神木隆之介が、クラスメートの橋本愛と映画館で出会い、そこでの意外な出会いにも昂奮して、「ねえ、タランティーノではなにが好き?」みたいな映画好きの会話をするのだが、相手は神木ほどその会話に熱中したものを見せない、という場面がある。

映画内で神木は、相手とのそういう熱量の差にあまり気づいていない様子なのだが(そしてそこが非常にかわいらしいのだが)、実際にはそういうことはすぐに気づく。で、後になって「ああ、しゃべりすぎた。失敗した」と思うことが多い。私なんかもよくやる。30代も半ばを過ぎようというのに、そういう機微というか、ここまでにしておけば話はスマートに収まるのに、というポイントがわからなくなってしまうことが多い。で、相手が引いてしまう。

今は、みんな忙しい。メールがあったりSNS があったり、と会わないで済ませられるツールはいくらでもあるから、余計に会わなくなる。いや、厳密に言えば、「相手がきっとそう思っているだろうから軽々に会おうとは言えないな」とこちらが思っているということで、それは相手にしても同じ理窟なのかもしれない。

それぞれがそれぞれに対して発している「忙しいムード」が、それぞれを縛り、自粛させている。学生時代なら、異性同性にかかわらず、毎日会って話しても飽きることはなかったが、それが社会人になって、生活環境、家庭状況、経済基盤などが変化すれば尚更。

ま、私はフリーター時代が異常に長かったので、ずっと学生みたいなものだったが、高校の同級生たちは社会人(いわゆる正社員)になると、遊んでくれなくなった。……これも本当のことを書けば、彼らが就職活動をしだしたあたりからものすごくつまらなくなってしまったので*1、こちらからもう会わないようにしていたのだが。

しかしそうは言うものの、やはり私とてたいていの人たちと同様、労働に従事して糊口をしのがなければならぬ身であるからして、そうそう遊んでもおられぬ。で、そこそこに忙しくなって他人の忙しさを知ることになる。相手のことを慮ってしまう。



このあいだ、とあるところで「リアルで友達がいたらブログなんて書いてねーよ」という文章を読んで、全員が全員そうだというわけではないと思うけれど、自分の場合はそうだなあ、と感じた。

食べたり飲んだりがむかし好きだったのは、飲食業界で働いていたということもあるのだけれど、やっぱり食卓の場ではいろいろなことがしゃべれるからで、カフェで10時間とか、レストランで6時間とか、私の中ではちっとも苦にならなかった。私がいまブログに書いていることは、その長い長い食卓でのおしゃべり、の延長にあるような気もする。

今は私の食卓には誰もいないから、その空隙を埋めるためのおしゃべりが、これらの文章なのかもしれない、と思った。



*1:相手にしたら、こちらの方がつまらない人間ということになると思うけど。



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東西名人揃いぶみ第四巻 八代目圓蔵/小圓遊/圓窓/六代目志ん馬

東西名人揃いぶみ第四巻 八代目圓蔵/小圓遊/圓窓/六代目志ん馬






八代目橘家圓蔵(月の家圓鏡)『猫と金魚』


出た。私の中で「メガネクリーンビュー」と呼んでいる当代の圓蔵。子どもの頃、なぜかこの圓蔵の名を知っていた私は、父に「タチバナエンゾーって知ってる?*1」と何度も訊いたが、そのたびに「圓蔵? ああ、月の家圓鏡だろ? 知ってるよ」と答え、「違うよ、エンゾーだよ」と私は言い、「だから、むかしは圓鏡って言ったんだよ」という父の説明がよくわからないままだった。

今ならよくわかる。名跡というのがあって、噺家はときおりそれを改め、襲うということを。

圓蔵(ここでは圓蔵で統一)。何度かその高座をテレビやら動画やらで観たが、なんか「わちゃわちゃ」していて、あまり好きでない。

この口演も、高座に上がるなり、「ええーっ、というわけでぇー!」と言って、いきなり客をつかむ。でも、現在の私にとっては、そのつかみのなにが面白いのかわからない。「ああ、相当人気があったんだな」というのはわかる。おそらく、当時は当たるべからざる勢いというものをたしかに持っていたのだろうと思う。

マクラをわちゃわちゃとした感じでやるのだが、本題に入ると、きちんとした落語(ただし6分程度でかなり短い)。しかしそのノリだとかテンポにどこか漫才のような勢いのようなものを感じる。笑いに、どこか「現代」が加味されている。たとえば、トラさんという男を呼び、猫を退治してくれと頼むのだが、トラさん、理由をつけて逃げようとするその場面。




旦那「おまえそんなこと言って怖いんだろ?」

トラ「こわーいー!?

旦那「おまえ、ウケないと大きな声出すね」




この「ウケない」というのは、このやりとりの前のくすぐりがそれほどお客にウケなかったためだが(本当は、それほどウケなかったわけでもないのだが)、こういうちょっとしたメタな笑いというのは現代的であり、おそらく初心者でもわかりやすく笑いやすいのではないか。しかも、落語から逸脱しているわけでもない。こりゃ人気出るのも当然かな、と思った。

この『猫と金魚』という噺ははじめて聴いたのだが、なんと『のらくろ』の田河水泡の作とのこと。……と、念のため確認するためにWikipedia を覗いてみたらやけに充実した記事になっていて、笑った。





三遊亭小圓遊『狸賽』


私はまったく知らなかった小圓遊。笑点メンバーで、桂歌丸とライバルだったらしい。たしかに、このシリーズでは歌丸の口演も収録されているのだが、その中で、醜い男のことを、「小圓遊の先祖みたいなやつ」と表現していた。一方その小園遊は「まむし(おそらく毒蝮三太夫)に似ているって言われるけど、あたしとまむしじゃ品が違うんだけどねえ」とマクラでしゃべっていた。

マクラは毒舌風で、ちと好みではないかなと思ったのだが、いざ噺が始まると、江戸前の気持ちのいい落語。

最後の「五」を「天神様」という理由だが、噺の中にもあるように、サイコロの「五」の目は、梅鉢の紋に似ていて(以下の画像参照)、




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加賀梅鉢




だから、これを家紋に使っていた加賀前田家から「加賀様」、あるいは、梅から「天神様(菅原道真)」*2と言ったらしい。

だから、賽を振る男が、「天神様だぞ、梅鉢だぞ」と狸に謎をかけたときに、パッと壺を開けると狸が天神様に化けていたサゲになる。

なお、小園遊はこの録音の翌年に急逝している。享年43。





三遊亭圓窓『武助馬』


噺家も演目も初聴き。

一聴したところ、古今亭志ん輔を思い出した。志ん輔じたいもあまり知らないのだが、ああいうちょっととぼけたようなところがこの圓窓にもある。

現在の東京の中堅どころの落語もときどきテレビで観たりするのだが、押し出しが強い割には噺は二流、というのが多く、ああいうのよりはよっぽどこういうとぼけた方が好み*3

そもそも笑いっていうのは、演者が「ほれ、笑え」という態度を取っていれば笑えない、というのが基本にあるのだが、どこかで誰かが、そのパターンを壊して、わざと悪態をついたり毒舌を吐いたりしたのだろう。でも、それはあくまで異端としての笑いであって、それがメジャーになるわけでもなく、また、異端であっても受け容れられるためには、憎まれ口を叩いてもどこか可愛らしさがあったり、そういう「プラスアルファ」があって初めて通用するものだと思うのだが、あまりそういう部分もないくせに若手の噺家が客をいじって、却って引かれるというシーンを、何度かテレビで観て、ああ、もうこういうことが感覚的にわからんようであれば、商売として向いていないんじゃないの、と呆れること多し。

いやいや、圓窓の話だ。

噺じたいも大らかなもので芝居もの。話の本筋にはないのだが、客と役者がケンカして、あまりにも客が少ないために役者連中の方が勝ってしまう、というエピソードがちらと入っていて、そののどかさ・間抜けさが、ああいかにも落語だなあ、という感じがして心地よい。

語り口も、そののどかさをたいへんよくあらわしていて、ああもっと聴いてみたくなる噺家だなと感じた。





八代目古今亭志ん馬『粗忽長屋


この人も初聴き。これも、志ん輔のようなちょっととぼけたところがあって、その感じが、この『粗忽長屋』を面白く感じさせていた。

三遊亭遊三『堀の内』を聴いたときには、粗忽噺というのは難しいなあと思ったのだが、この志ん馬のものを聴けば、「あ。それでも面白くはできるんだな、やっぱり」と思った(それでも、どこかに違和感を覚える部分は、ストーリーじたいにあった)。

はっきりと思いついたわけではないが、粗忽ものは、ボケを徹底的にデフォルメすればいいのではないか(まあ、『粗忽長屋』では登場人物のほとんどがボケなんだけど)。「いくらなんでも」とか「んなあほな」などという良識すら浮かばないくらいに、いわゆる「まぬけ」を演じれば、聴いている側は「ああ、そういうものなのかもな」と納得できるように思う。反対に、ボケがどこかに常識を残しているふうを見せれば、聴いている側も、そのかすかな常識を盾にとって、悪い意味でのツッコミをしてしまい、噺が成立しなくなってしまう。

枝雀の噺なんて、枝雀だから成立しているんだろうなあ、と思うことがしばしばあって、枝雀を天才と呼ぶのは簡単なのだが、大仰に転がったり面白おかしい顔をしたりというのは、上方でいう「あほ」のデフォルメを徹底させるためであり、考えに考え抜いた結果が、あのパフォーマンスだったのだろうなあ、と思った。





*1:タチバナと言えなかった。


*2:おそらく「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」からの連想だろう。


*3:脱線してしまうのだが、東京の噺家の押し出しの強さって「必要か?」と思うことがよくある。しかも下手なやつに限って威勢がよい。どうにかならんのか、あれ。



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昨日のABC ラジオ『征平・吉弥の土曜も全開!!』で、先日亡くなった坂口良子さんについて触れていた。

私は、たぶん金田一耕助ものの映画で彼女の若い頃を観たことがあるのだが、そのかわいさに驚いたことがある。そうしたら、昨日のラジオでもいろんなアナウンサーたちがその当時のかわいらしさについて言及していて、聴いていて、「ああ、やっぱりそうだよね」と同感していた。

桂吉弥も番組内で、ほんとに可愛らしい女優さんやった、とドラマ「池中玄太」を例に挙げ、また、その彼女の娘さんのことに触れていた。(私は娘さんのことはよく知らないのだが)吉弥によれば、なんでも天然キャラを演じているそうなのだが、考えてみればお母さんが具合よくないということを知りながらああいうふうに明るく振舞っていたんだと思うとえらいもんだよなあと発言したところ、そこへ桑原征平が、「いや、そういうもんやで」と言う。「われわれの知っている牧野エミかてこのあいだ亡くなってしもうたけど、身体が苦しいのに仕事へ来れば、ニコニコしてたんやから、そらえらいもんやで」というような内容だった。

いつもふざけてばっかりいるような桑原征平だが、こういう優しさが好きだ。以前にもちょっと書いたが、こうやって誰かが想い出してくれることで、人は生きられる、と思う。きれいごとなのかもしれないけれど。

死んでしまった牧野エミも、今は痛みや苦しみから解放され、微笑みながらあのちょっと甘えたような声でつぶやいているかもしれない。「あ。征平さんがわたしのことしゃべってくれてる。嬉しいなあ。へへへ、もっとしゃべってえ」と。



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1979年の古今亭志ん朝『お若伊之助』のマクラに、以下の部分がある。




あたくしの死んだ親父の志ん生が、いろんな話を飲んでいるときにしてくれましたけれども、まあだいたいが嘘つきの人でしたから、八割方は信用して聴いていないんですね。うなぎがうんと年を取って古くなってくると、耳が生える。で、ある池にいたんだそうです。子どもの時分、それを見に行くっていうと、池の真ん中からうなぎがすっと首を出して、耳をそばだてて、辺りをこう、様子をうかがっているのを、おれァ見たことあるよ、なんて言ってましたけども、……ひょっとすっとそんなのもあるかなあ、なんて思ったりしますね。不思議なもんです。




もっと笑いを優先させるのであれば、うなぎに耳が生えるという話を聞かせた志ん生について、「こんなことを平気で言う人だったんですから、めちゃくちゃです」とでもツッコミを入れれば、客からもっと笑いを取れたのではないか、と思う。

だが、上にあるように、この話では(「ひょっとすっと」という部分に志ん朝らしい愛嬌があるので客もつい笑ってしまっているが)志ん生の話を肯定しているのだ。つまりこれはある種の「ボケの肯定」であり、志ん朝があえて笑い最優先のくすぐりにしなかったところが、私の興味を惹く。

志ん朝は「落語の魅力は狸や狐が出てくるところ」と明言していたらしい*1。私もそう思っている*2

そういうふうに考えている志ん朝だからこそ、上のマクラでも、「ただの冗談」にしなかったのだと思う。「ね、これから話す噺っていうのは、こういう『ひょっとすると』という部分からできていて、ここが落語の一番たのしいところなんですよ」と、さも言いたげだ。

実際、この『お若伊之助』という噺には狸が出てくるのだが、狸が話の中心になっても、「ああ、たしかに昔ならこういうことが『ひょっとすると』あったかもしれないなあ」と思わせるものが、志ん朝の噺にはたしかにある。語り口だったり言葉だったり。



テレビを観ていたら、東京の噺家で、古典に現代風のくすぐりを入れて鬼の首を獲ったようにしているのがいたのだが、そういう現代のキーワードを持ち込んで古典の雰囲気をいとも簡単に台無しにしてしまう人に、それならなんであなたは新作をやらないんです、と質問してみたい。古典を用いている必要性が感じられないのだ。

かつて立川談笑の『薄型テレビ算*3』をYouTube で観たとき、頭が下がるほどの演出の工夫がなされていて、あそこまでやってはじめて「現代風アレンジ」と名乗れるのだなあと思ったものだが、そういう努力もせずに、しかも直球の古典でも勝負できない噺家がなんかちょこまかとやっていると、単純に、「それなら、漫才とかコントの若手でもっと面白いことやっている人いるよ」と思ってしまう。

私は、「落語が好き」というよりは、志ん朝なり枝雀なり米朝なりっていう、藝術家とでも呼ぶべき噺家たちが好きなのであって、もう落語さえしていれば誰でもいい、なんていうふうにはとうてい思えない*4

すごく感覚的な話だが、そういう「落語さえやっていればOK」という不必要に優しい応援が、上記のような(私としては)面白くもなんともない噺家を生んでいるのではないか、と思ってしまう。

そういう意味では、上方の噺家の方が、妙に古典にこだわることもなく、大胆に笑いを取るタイプが多いような気がするし、実際に聴いていて面白い。それはもしかしたら、関西のお客さんの方が笑いに貪欲なせいなのかもしれない、と思ったりもする。



*1:立川志らく『雨ン中の、らくだ』より。


*2:少なくとも、「人間の業」だとかなんだっていうのは後づけすぎると思っている。


*3:元は古典の『壺算』。


*4:これは、マンガについても同じことが言える。どんな内容のものであっても、それがマンガでさえあれば、「○○先生の作品」と表現する人がいるが、無節操だなあと思ってしまう。評価する基準みたいなものを持っていないのかしら。



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話題になっているみたいなので、『桐島、部活やめるってよ』をDVD で鑑賞した。ツイートしたのと重複もするが、以下にネタバレありの感想を思いついたままに、書いてみる。

いい映画だった、と思う。

しかし鑑賞を終えてもなお、日本アカデミーの作品賞を獲ったというのは驚き。同賞授賞式は日本テレビで放映され、また『桐島』の方も「日本テレビ放送網」の企画・製作だということを踏まえても、こういう青春映画*1によくグランプリを与えたなあ、とアカデミーの姿勢を称讃したい。

とにかく、最初の20分くらいは胸糞悪くなりっぱなしだった。途中で「ああ、観るのもうやめた!」ってなる人もいるだろうと思う。私も「文句を言うため」に観つづけたのだが、すべて観終えて、我慢してよかったと思っている。




私もひとこと、ふたこと


批評したくなる映画なんだろうな、と思った。ちょっと思いつくだけで、




  • モテ/非モテ

  • リア充/非リア充

  • 運動部/文化部

  • 男子/女子

  • 派手/地味

  • 部活所属/帰宅部

  • 人気者/オタク

  • ビッチ/童貞

みたいな対立項に満ち充ちている。いま風のキーワードばかりでようございましょ? 私が前半部分で非常に耐えがたい思いをしたのは、この対立があまりにもあらわだったため。

手塚治虫『ブッダ』で覚えたインドのカーストの仕組みだが、あれが、






  1. バラモン(僧侶)

  2. クシャトリヤ(武士)

  3. ヴァイシャ(平民)

  4. スードラ(奴隷)

  5. バリア(不可触賤民)



だったのに対して、『桐島』内に限らない多くの学校では、






  1. 人気者

  2. 目立つ者

  3. 可もなく不可もない者

  4. 地味な者

  5. いじめられる者



という階層(ヒエラルキー)が基本としてあって、その各層の中でも、さまざまな力関係が展開していて、『桐島』はこの部分を丹念に描いている。

たとえば、カスミ(ヒロイン)が「いろいろと大変なんですよ、女子も」と男子に話す場面があるが、しかし、彼女の本音はそれだけでもないように思える。

構成上(これが本作の一番の魅力だと思うのだが)の理由からきちんと確認・確信はできなかったのだが、彼女の本当に感じていることは、男子に打ち明けたり、もちろんリサ(桐島の彼女)やらサナ(菊池の彼女)やらに話している内容だけではカバーできない、と私は感じた。

好意とまではいかない、けれどもある種の敬意を彼女は主人公の映画監督(神木隆之介)に持っているが、それ(神木へのほのかな敬意)を誰かに伝えることは、彼女の選択肢の中には、ない。それが彼女の学校生活を善くするものとは思えないし、善くするどころか、害をもたらす可能性の方が高いからだ*2

私はといえば、菊池とかその彼女たちに象徴される「なにか」に対して、今は学生時代以上の敵愾心を持っている。





匿名性


はじめは、女の子たちの名前が全然覚えられなかった*3

カスミだのミカだのリサだのサナだのキヌだのヨネだのウメだのチヨだのと言われても、まったく違いがわからない。

彼女たちのうちでは当然、その判別しにくい名前でも通用するわけだが、外部の人間(=視聴者)にとっては、名前があるのにもかかわらず匿名性が強い。これは意図的なものなのではないか。

細かく見れば、彼女たちは個々人の生をそれぞれ生きているのだが、粗っぽく外部から見れば、全員が代替可能に映る。

たとえば、4人グループ中のミカは、教室で映画部の神木をバカにすることで自分の保身に走る(保身という意味だけでなく、本当に愚弄しているのかもしれないけど)。

結局、カーストやヒエラルキーの構成員っていうのは、どこまで行ってもカーストなりヒエラルキーの制度を維持するための行動しかできなくて、ミカより上位にある(とお互いに思っている)サナのご機嫌を損ねないように、下位にある(と彼女が考えている)神木を叩くという構図は、まさにスクールカーストの世界。





笑うな


私の中では非常に印象的だった、神木属する映画部ふたりが朝礼で表彰される場面。ここで彼らは多くの生徒たちの嘲笑にさらされるのだが、観ていてなぜか悔し涙が出てきた。いいんだ、いいんだ、きみたちは今は耐えればいい。最後に嗤われるのは、いま笑っているこいつらの方なんだから。そんなことを思っていた。

けれども、高校生当時の私自身が、一所懸命に頑張っている人間たちに対して心からの敬意を抱えていたわけではなかった、ということも同時に思い出され、二重に辛かった。

こういう嘲笑っていうのは、他人を自分のレベルに引きずり下ろして安心する心理から来ているのだろう。たしか桐島が選抜に選ばれたというアナウンスの後に映画部が壇上に上がったのだと記憶しているのだが、象徴的な構成。

桐島はカースト上位にあるため栄光はふさわしいものと考え、一方、カースト下位にある映画部に称讃はふさわしくない、とカースト一般構成員たちは思ったわけだ。

この構成員たちの安直な思考法を、私たちは嗤ってやろう。





観客(視聴者)の共感を覚えるポイント


たぶん多くの人は、神木たち映画部か、あるいは吹奏楽部の沢島*4に感情移入をするのだろうが、桐島の彼女や菊池の彼女に共感する人もたしかにいるはずなんだよな。

でも、そういう層に対してこの映画は厳しい。彼女たちに救いは用意されていないのだ(別に私も必要だとは思わないけれども)。

つまり、あらゆる価値観を認めるという文学的な作りではないという意味で、この映画はよくできたエンターテイメント。

学校という社会での「弱者」であり、ほとんど見向きもされない存在である映画部の神木、あるいは恋の実らない沢島は、おれ/わたしの分身である、という見方を思わずしていると気づいた時、やっと、導入部分の気持ち悪さ・腹立たしさが報われることになる。それらは実に計算された「前フリ」だったのだ。

まあ、その期待に応えて、後半は密かに、じんわりと、価値観の逆転が行われていく。まあ、その過程でも神木の淡い失恋みたいなものがあったりするので、私の神木たち映画部に対する共感は尋常なものではなくなっていた。なんていうか、かわいくて仕方がないんだよね、彼らが。





なんで方言をつかわなかったのか?


で、こんなによくできた映画だっていうのに、すごく不満に感じたのが、なぜ方言が出てこないのか、ということ。

エンドロールを見た限りじゃ、撮影場所は高知だったと思うし、屋上の場面だったかな、遠くに大きな山並みが映って、「ああ、都会じゃないんだな」とは思った。

しかし、誰も方言をつかっていないんだよなあ。これがおかしい。

別に舞台が地方である必要もないのだが、都会である必要もないはず。原作者は岐阜出身みたいだが、岐阜弁でよかったと思うよ(原作がどう表現されているか知らないけど)。恰好悪い? そんなことないでしょ。たぶん、標準語にしちゃったことの方が、恰好悪いと思う。すごくもったいない部分だった。





承認の問題


菊池たち3人男子組も、桐島の彼女も、菊池の彼女も、そしてバレー部の連中も、不在の桐島に振り回される。ラストシーンで走っていた連中はみんなそうだ。

彼らは、桐島に承認をもらうことで、学校社会内で存在している。いや、社会内の彼らのポジションを成立させている、と言った方がより正確か。

菊池は「桐島の親友」であり、他のふたりも「桐島を待つ男」であり、リサは桐島の彼女であることで、サナは桐島の彼女の親友であることで、それぞれの地位を確立している。意識的か無意識的かに関わらず。

一方、吹奏楽部部長で菊池に片思いしている沢島は、いろいろあってから演奏を終えた後、すっきりとした表情をしている。その表情から、彼女が桐島の承認やそこから生まれる別の承認を必要としていないということが読み取れる。

また、われらが映画部も、桐島の承認を必要としていない。彼らは、自足しているのだ。

エンディングというか、エンディングの一歩手前で、菊池が神木にインタビューするところは、ものすごくいい。

構成上、まったく無理がなくああいう特殊なシチュエーションを仕上げてしまうというのもすごいのだが、そういうことよりもなによりも、神木のインタビューへの答えがいいのだ。

けれども、あの神木のセリフだけではなく、彼の表情とか、屋上にある光線の具合とか、観ているわれわれの方の心地よい虚脱感とか、聞こえるか聞こえないかわからないくらいの静謐なノイズとか、われわれの感動を構成している諸々の要素はすべて、桐島の承認とは無縁なのだ。

あのシーンで、菊池ははじめて神木たち映画部を理解する。映画部に感情移入している視聴者は、「ああ、菊池が理解した」と思うだろう。もしかしたら、「菊池が理解してくれた」と思うかもしれない。

でも、そう思ってしまった時点で、結局それはヒエラルキー内部での、上位層から下位層への一種の承認になってしまうのだ。優れた者、栄光にふさわしい者に近しい者に承認を与えられることで、既に自足しているはずの映画部が新たな地位を獲得するというのは、本当にわれわれが望むことなのだろうか

私は、菊池の感情湧出とあの神木のセリフは、それぞれ別の独立したものであったらよかったのに、と思った。

ひとつの演奏が終わったときに沢島に訪れる満足感は、神木たちが自分たちの好きなものとつながれたと思えた瞬間にもやってくる。「それでも俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」というセリフを覚えられないあの後輩に、神木がちょっとだけ自慢気に話す。それだけでよかったんじゃないか。

いやいや。そんなのはやっぱりないものねだりなのかな。

そんなことをしないでもあそこは本当にいいシーンで、観ているあいだ、私はずっと胸を詰まらせていた。





いい映画の条件


映画を観終えて、いろいろと思い出しながら考えて、ちょっとメモを取って、ツイートして、それでもなにか足りないような、それだけじゃもったいないような気がして、そうしてさっきからずうっとああでもないこうでもない、と推敲しながらこれを書いている。

優れた映画というのは、優れた小説と同じく、観終えてそこですぐに消え去ってしまうものではなく、そこからまたなにかが始まるものなのだろう。

映画好きの誰かが、いや、小説好きでもいい誰かがそばにいたのなら、ひと晩中、この映画の話をしたのだろうな、と思う。

うん。やっぱり、いい映画だった、と思う。





他の気になった瑣末な部分




  • 野球部のキャプテンが素振りをしているシーンがあったのだが、なんかスイングの位置が高すぎるような気がした

  • カスミ(橋本愛)がバドミントン部の練習中、スマッシュするシーンがあるのだが、そっちは一見して「あ、経験者だな」と感じられた(調べてみると、実際にバド部に所属していた様子)

  • 調べてみてわかったのだが、橋本愛は、いまドコモダケのCF に出ている女の子なのね

  • ミカ役の清水くるみは、髪型と顔が『3年B組金八先生』第2シリーズの迫田八重子(川上麻衣子)によく似ていたと思う*5

  • 吹奏楽部のことを「吹部(すいぶ)」と略していたと思うのだが、うちの学校では「ブラバン」だった*6

  • オトナの私は、菊池とその彼女がキスをするシーンで、「おら、ちゃんとキスしろよ」と腹を立てた

  • (追記)あのキスというのは、ストーリー上、もっと生々しく情念に満ちたものでなければならないのに、実際のそれは、役者同士にどこか遠慮のあるもので、違和感を覚えた



*1:本当は、ただの青春映画で終わっていないのだけれど。


*2:余談だが、カスミの神木への敬意は、ミカ(バド部)の小泉(桐島の代わりのリベロ)への敬意と相似していると思う。


*3:だから、Wikipedia で確認しながらこれを書いている。


*4:ただし、私には彼女の行動原理がいまいち理解できないのだが。


*5:画像検索してみると、あまりそう思えないのだが。


*6:ブラバン」は中学のとき。高校は「オーケストラ部」だったから「オケ部」だった。



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JOY / YUKI






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ずいぶん遠くまで流れ流れてせつないんです

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大切な思い出さえ忘れていきそうです

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確かな君に会いたい 百年先も傍にいたい

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どんなに離れ離れでも

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ぼくらをつなぐ呪文は、攘夷!





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今週も愉しんだ『八重の桜』。




  • 冒頭から風雲急を告げる展開

  • 長州、御所攻めてくるってよ

  • OP を挟み、会津ではついに、覚馬の提案により八重と尚之助の縁談話が持ち上がる

  • 尚之助との縁談を断るつもりだったのに、いざ尚之助に「私もお断りするつもりでした」と言われると、「え?」となってしまう八重の乙女心

  • このシーン、後ろで聞こえるヒグラシの鳴き声が場を盛り上げる

  • でもって、三郎に八つ当たりするまでが、ラブコメシチュエーションのお約束

  • 一方、蛤御門の緊張したシーンに

  • 孝太郎一橋慶喜は、なんだか騎乗が下手に感じたが……?

  • そしていよいよ、蛤御門で覚馬が来島又兵衛を迎え撃つ

  • 敵の鉄砲隊が前列に並び、しかも銃口をこちらに向けているというのに、「槍隊、進め!」は無策すぎでは、風間会津隊?

  • 槍隊が二段やられた会津隊、さすがに覚馬が槍隊を止め、「鉄砲隊、前へ!」の掛け声

  • のたのたのた、と鉄砲隊が並び、覚馬の「構え! 撃て!」の掛け声および発射、その間、長州鉄砲隊はなぜか待ってくれて、案の定、撃たれる

  • ここらへん、戦がのんびりとした印象に感じたなあ

  • 膠着したところに、覚馬が来島を鉄砲で討ち取る(直前のCG の弾丸が画面中央に飛んできて、思わず避けた)

  • 染五郎孝明帝の御前で慌てふためき「ただちに和睦の勅を」と奏上する廷臣たちの許へ綾野会津中将、(いい意味で)大袈裟な演技で「それはなりませぬ!」

  • ふたたび、場面は蛤御門へ

  • 覚馬らの率いる会津隊が長州勢に押し込まれようとするまさにそのとき、薩摩の加勢がやってくる

  • 薩摩を率いる馬上の人こそ、「チョコモナカ、ジャーンボ!」の吉川吉之助さんだ!

  • 覚馬と吉之助がかなり遠い距離で会話をするのも面白いのだが、話している最中に覚馬が、飛んでくる弾丸をひょいと避けるシーンも面白い(ハリウッド映画でこんなの見たことあるよ!)

  • 「薩摩の新式銃(ライフル)は強ぇ」と眼を輝かす覚馬に砲弾が飛んで来て、その右目を潰す

  • 長州勢が逃げ込んだ鷹司邸の前で孝太郎慶喜があらわれるのだが、やはり馬にしがみついている感じが(気のせいなんだろうけれど)

  • 覚馬の指揮により、鷹司邸の土塀(?)に向かって砲兵が大砲を打つのだが、かつて対馬重砲兵連隊に所属していた作家大西巨人は、たしか発射するときは耳を塞いで口を開けるということを書いていたように記憶している

  • 長州の久坂、自刃

  • 京の街にも火が燃え移り、民衆が逃げ惑う中で、ミッチー「逃げの小五郎」も逃げおおせる

  • 逃亡途中で、親兄弟を失ったと思われる女の子が川沿いで泣いているのだが、その横で同じように涙を流すミッチーが、情けないようでいて、でも哀れなようで、こちらまで泣けてくる

  • ミッチー、特別うまいというわけではないが、この桂小五郎役、いいなあ

  • 日は明けて、玉鉄山川の目の前で嶋田久作真木和泉)も自刃

  • 戦の報告が会津にも届き、山本家も喜んだり不安に陥ったり

  • その夜、兄を思って涙を流す八重の涙を拭ってあげる尚之助、「立った! フラグが立ったよ!」

  • 一方、焼け跡の京を見回る覚馬らに、「会津は鬼や!」と石を投げつける京の民衆たちを、「これ、やめんか」と止めたのが遠山の金さん(たぶん、あとで「その金さんとやらを出してみろ!」「そうだそうだ」とか言われる)

  • 今回、桜吹雪は見せなかった



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きょうはイベントに参加してきて、それが無事終了したので、ひとり祝杯を上げる。珍しく眠くならない。

2年半(?)ぶりに会った女の子(といっても、本当の少女なんだけど)が、6歳から9歳に。当たり前のことなんだけど、すっかり大人っぽくなっていて驚いた。

前に会ったときは、ケラケラとよく笑い人懐っこいところがあった天真爛漫さはちょっと陰を潜め、少しだけ照れ屋になっていて、私などのむさ苦しいオッサンには近づかないようになっていた。私も無理に話しかけない。ふむう、思春期の前にも、やっぱりこういう「照れ」の時期っていうのはあるんだよなあ。

60代後半の女性と方言について話していたら、「うちのお婆さんは、子どもたちが騒いでいるのを見て、『うたてぇ』と言うてたなあ」と言うので、「ええ? 『枕草子』に『うたてし』という単語が出てきましたよ」と驚いたら、「そうなんよ。わたしも大人になってそれに気づいて、へええ思たんよ」と言う。

枕草子の内容を全部憶えているとか、そういうことはもちろんなく、この「うたてし」という単語は、ごくごく初めに出てくるので、それで知っているというだけのこと。




第四段

三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花のいま咲きはじむる、柳などをかしきこそさらなれ、それもまだまゆにこもりたるはをかし。ひろごりたるはうたてぞ見ゆる。




辞書を引いてみる。







  1. がっかりする。いやだ。情けない。気にくわない。

  2. いたわしい。気の毒だ。心が痛む。



ここには、「うるさい」というような意味はないが、たぶん「ええい、鬱陶しいわい!」みたいな気持ちがあったのではないか、と勝手に推測してみる。

その方のご実家は丹波のようだが、古語が残っていたんだなあと感慨深かった。なお、そのお婆さんは「うたて」を遣っていたものの、それから下の世代はまったく誰も遣わなかったのだとか。そういうことが全国どこの地域でもあったのだろうな、と思いを馳せた日曜日。



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ラジオを聴いていて気になったふたつの言葉。

ひとつは朝日新聞のCM。

ふたりの会話。




「絶対、合格しような?」

「うん、頑張ろうな」




この会話が、男女のものと知ったら、関東の人は驚くだろう。

前者が女子高校生のもので、後者が男子高校生のもの。「な」は、関東では男の遣う語尾で、女性が遣うとはちょっと考えにくいだろう。



もうひとつは、ある通販会社の生CM*1 での商品紹介の前に行う、簡単な説明。




当社では、CM を行いました日とその翌日は、いっさい送料をいただきません。

ですから、本日ご紹介する商品、(そう)なんですが、過去にご紹介した商品についても、送料無料となっておりますので、気になっていた商品があれば、この際にご検討ください。




気になったのは、上の下線強調部分。

引用文を頭から読んだものを聞かされている、と想定してみればわかると思うのだが、下線部での省略されている「そう」がなにを示すかは、実は、その「そう」があらわれた時点ではわからない

たしかに、その前に「CM を行いました日とその翌日は、いっさい送料をいただきません」というセリフがあるわけだから、まったく想像できないわけでもないのだが、しかし、確実に「そう=送料無料」ということがわかるというものではない。

この文章、おそらくは以下の文章が基にあったのだと思う。




当社では、CM を行いました日とその翌日は、いっさい送料をいただきません。

ですから、本日ご紹介する商品についても送料無料なのですが、過去にご紹介した商品についても送料無料となっておりますので、気になっていた商品があれば、この際にご検討ください。




だが、この文章を(おそらくはMS Word かなにかで)作ったときに、作成者は、「あれ? 『送料無料』という言葉が2回出てきているから、煩瑣な印象になるかな?」と思ったのではないか。

だから、前半の「送料無料」という言葉を省略して「そう」という言葉で補い、しかもその「そう」も省略し、青字で示した「も」の一語で代表させた、という流れなのだと思う。

でも。

これは、書き言葉の考え方であって、話し言葉とは性質の異なる考え方になるのだと思う。

実際に、初回で、「も」が指し示すことをパッと直観的に理解できる人はほとんどいないと思う。ただ、「あれ?」と思った直後には「送料無料」というキーワードが出てくるので、それを頭の中でくっつけて、「ああ、『今日の商品』も当然送料無料なのね」と理解するわけなのだが、これって、聴取者にとって優しくないやり方だよなあ、と聴いていて思う。

これがテレビ放送だったら、テロップで情報を補完するというやり方をとれるから、しゃべる前にどうしても文字を読んでしまう視聴者は、「ああ、なるほどね」と一瞬の疑問もなく、広告者の意図を読み取れるのだが、それも「書き言葉のやり方」の力を借りているだけのこと。純粋な「話し言葉」ではない。

ラジオのニュースを読むときに、たとえば、「私立大学」という言葉を「しりつだいがく」と読んでおしまいにはしない。おそらく、「しりつだいがく、わたくしりつだいがく」とするか、単純に「わたくしりつだいがく」と読み、「市立(いちりつ)大学」と区別するのではないか*2

単純に耳で聞く場合では、入ってくる情報が違う。話し言葉というのは、たいてい流れていくものだから、前後の文脈が飛躍していたりしても、意外に気にならない。たとえば講演などにおいて、話があっちこっちへ行ってしまう講演者だったら、「今日は、大切なことを7つ伝えたいと思います」と話し始めたとしても、その7つをカウントしきれる聞き手は少ない。

けれども、文章であれば、何度も読み返せるものだから、「あれ? こいつ『7つ』とか言っておきながら、実際には6つしか話してないぞ」ということがバレてしまう。だから、講演集などを出版する場合にはゲラ(?)などを読んで、「ああ、ここは『大切なことを6つ伝えたいと思います』に直しておきましょう」ということになる。

また、すぐ上の文章で「たとえば」という単語を2回遣った(下線あり)が、これは話していればわかりにくいことだが、文章で読むと、「なんか『たとえば』が多いなあ」と思われてしまう(でも直さない)。

書き言葉は、基本的には整理された文章になる。だから、宮本常一の著作に収録された多くの語り部たちの「語り」は、広義において、おそらく宮本常一の言葉なのだ。

整理された文章だから理解もしやすいのだが、しかしこれをそのまま話してしまうと聞き手は理解しにくい、という場合が生じる。

なんだかそういうことにまで考えが及んでしまう、ラジオCM の言葉だったのだ。



ところで、よそのブログなどで文章を拝見していると、「流れるように、それこそ話すように書き言葉がつらつらと出てくるんだろうな、この人は」と思わざるを得ない文章に出会うこともあるし、また反対に、「この人は話す感じのそのままを文章にしていてすごいな」と思わせる文章に出会うこともある。

前者もすごいが、実は、後者も負けず劣らずすごいことなのだ。書き手というのはどうしても読み手を意識してしまうから、わかりやすさというものを考えて、整理するための「手」を加えてしまう。

その誘惑を否定しきって、(まさに)吐き出す。なかなかできることじゃないんだよなあ。私もそうしたいんだけど。



*1:スタッフあるいはその代理者が、生出演あるいは電話出演して、商品を宣伝すること。


*2:余談だが、国立大阪大学大阪府立大学大阪市立大学とがあることを最近知り、びっくりした。



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