とはいえ、わからないでもない

2013年04月

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長い、物語だった。

前作に四巻足らぬとはいえ、充分に長い物語と言えた。

男たちが、死んだ。それも多くだ。

豪傑が、智略家が、匠が、死んだ。そしてそれ以上に、名もない者たちが死んでいった。

読み終えると、苦い味がした。

長い長い時間を経てつかんだものが、思っていたものと違ったときに感じる、あの苦味がした。

目の前には、大きな夕焼けがあって、ただ、茫然と立ち尽くすしかなかった。死んだ男たちのことを思い浮かべながら、ただ、茫然と。




とまあ、北方パスティーシュはここらへんまでにしておく。この文体じゃ、内容まで規定されてしまって、私の書きたいことも書けない。



ということで、『楊令伝』全十五巻を読み終えた。

前作『水滸伝』は大傑作で、多くの人に勧めることができる。読まないともったいない、と。

けれども、今作は、容易に勧めることはできない。『水滸伝』のことを傑作と考えている人であればあるほど、「いやあ、もしかしたら読まない方がいいかもよ」と老婆心が湧き起こる。

水滸伝』は、夢に向かって誰もが一方向に進んでいく物語だ。

その途中で死のうとも、後続の誰かがその思いを継いでくれるから、安心して斃れることができた。大量の屍で埋め尽くされた梁山泊の道の先には、いつも「志」があった。

ところがだ。

『楊令伝』は、前半こそ、その「志」を追いかける物語なのだが、中盤からそれが実現し始める。正確にいえば、その「志」が具体的な形をとり始め、それが目に映るようになる。

その形は、梁山泊を混乱させる。そして、読者も混乱していく。この物語の行く先はなんなのか、と。

夢は、夢のままであるからこそ美しい、というアフォリズムはきっとどこかにあるだろう。夢が叶ってしまえば、希望は幻滅に変ることもある。大きな目標がなくなり、大きな敵がいなくなる。けれども、決して闘いは終わらない。だから、これはなんなのだ、と読者は思ってしまうのだろう。

アマゾンレビューは酷評の嵐だ。

ざっと見たところ、その酷評を批判しているレビューがひとつだけあったが、あまり同意を得られたようではなかった。

それはそうだろう。なぜなら、酷評をしている連中のほとんどは、おそらく『水滸伝』を溺愛したはずだから。多くのレビュアーたちが、「『水滸伝』はよかったのに、」という言葉を付していた。わかる。すごく、よくわかる。

けれども、だ。

まだ物語は終わっていない。『岳飛伝』が始まっているのだ。

物語について云々を言うのであれば、それは『岳飛伝』を読了してから言うのが、フェアだと思う。われわれはもう、『水滸伝』で北方謙三に大きな贈り物をしてもらっている。それは、大きな「借り」だ。関勝にとっての朱富の饅頭よりも、大きな借りだ。もう少し待つことで、われわれは作者にその借りを返せるのではないか、とそんなふうにも思う。



蛇足ではあるが(そして、おこがましいが)、小説の構造的(?)な部分について感じられた問題点をいくつか挙げておく。

アマゾンレビュアーたちのうちで言及している人もいたが、まず、物語の起伏が少ない。登場する集団(国)の数が増えて、そのいづれについても描写や説明を重ねていくものだから、物語が多層的になってしまい、その代わり、ややピントが甘くなり、求心力が乏しくなった印象はある。私自身、読むのに苦労したところがある。

また、登場人物が多く、また、その描写が『水滸伝』より少ないがために、思い入れできるキャラクターが少なかった。たぶん、人物描写より、上述した「事情」を描写することの方が多かったからだろう。

これらを含めて、苦いのである。

もはやつづかなくてもいい生がつづいている、と考えている古参の梁山泊の男がいた。その考えじたいが、『楊令伝』の物語全体の暗喩みたいなものだ。

『楊令伝』の登場人物たちは、ひっそりと、スポットライトも浴びずに死んでいくことが少なくない。けれども、『水滸伝』で、そして『楊令伝』でさんざん語られている「無名の者としての死」とはまさにそういうものではないか、と思う。死んだ者のために、読者がその男のことを憶えておいてやればいいのだ……と好意的に解釈して読めないこともない。

単純に「面白い!」と言うには少し躊躇われるし、『水滸伝』のあの後はいったいどうなってしまうのだろう、あの人物たちはどうなってしまうのだろう、と気になる向きにも無条件に勧めることができないが、それでも、読む価値はやはりあると思う。

そして、そうだといったん決めることができれば、そのときはまた、『岳飛伝』のページを繰り始めることになるのだと思う。

岳飛伝』は現在連載中だから、物語としてまとめて読むのは、もうちょっと後のことになるだろう。それまで、しばらくのあいだ私も休息をとるつもりだ。



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今朝、夢を見た。

あまちゃん』の後篇はアイドル編になるそうなのだが(本当らしい)、東京に行ったアキの憧れの対象となるアイドルとして、剛力彩芽が「剛力彩芽役」で登場する、という夢。

一方、それをスポーツ新聞が取り上げて、「剛力彩芽 史上初! 朝ドラと大河に同時出演!!」の大見出しが。

うう、実現しそうで怖いぞ、この悪夢は。




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  • 先週のつづきで、ユイの動画を見た「オタクさん」たちが、北三陸に大挙してやってきて、北三陸鉄道始まって以来の大騒動

  • リアスでは、ウニ丼が売り切れたからといって、「つなぎ」でまめぶを出す安部ちゃん

  • 三陸駅でユイの写真会をするのだが、なぜかヒビキ一郎(村杉蝉之介)が仕切る

  • そして、大騒動がひとまず落ち着き、北三陸の人たちが「反省会」をしているところにも、なぜかヒビキがいて、「これからはみなさんのプロデュース能力が問われるでしょう」ともっともらしい意見を述べる

  • 翌日も、ユイをまた一日駅長に仕立てあげようとするのだが、そのときのユイの断り文句がかわいい、「盛岡でダンスのレッスンがあるし、嵐の新曲の発売日だし、雑貨屋にも行きたいし」

  • 大吉、そんなユイをなんとか(また駅長になってもらおうと)口説き落とそうとするために、土下座で懇願、「情けねえ話だが、この北三陸にはこれといった名物もねえ、テーマパークもねえ、ファーストフードもねえ、シアトル系コーヒーもねえ、ミス北鉄だけが頼みの綱だ!」

  • そこはもう、「スターバックス・コーヒー」でいいかと

  • なりふりかまっていられない、と土下座をする大吉につられて、吉田くん、ヒビキ一郎、商工会長、菅原が頭を下げるのだが、菅原は右膝をついて、右手をその傍に置くという忍者みたいな頭の下げ方をしていた!



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こんな感じ(参考: ラーメンズ『謝罪』






  • ユイは基本的には不機嫌キャラなのね

  • オープニングのキャストのところに「河井克夫」とあって、「え? まさかあの漫画家*1の?」と思ったのだが、そのまま忘れていて、あとで、とり・みきのツイートでやっぱりあの河井克夫だったと知り、なんだかびっくり(ああいう顔だったんだなあ)

  • 眠れないからといって、出て行った当時のままになっている母親ハルコの部屋に行って、いろいろと物色するアキ

  • 雑誌をめくって、'83(?)当時の舘ひろしを見て、「全然変わんなーい!」とややわざとらしい感想を述べるのだが、これは前作『純と愛』に出演していた舘へのお追従と見た

  • 1983年(昭和58年)のヒット曲ということで、吉川晃司、杏里、YMO の実映像が流れるが、吉川は『八重の桜』で西郷吉之助を演じていて、YMO坂本龍一は、同ドラマの音楽担当ということで、ちょっとした遊び心のあるシーン

  • まったくの余談だが、吉川晃司は中国史マニアで、北方謙三『楊令伝』の解説を書くほど

  • 観光協会のHP 用の素材撮りと称してアキを粘着撮りするヒロシ

  • ここでヒロシと会話するアキを見ていて、だんだんと、「アキってヘンなやつだなあ」と思い始めた

  • そして、ヒロシのことを「ストーブさん」と呼んでいることが判明、先週の秋祭りのときの呼びかけも、「ツトムさん」じゃなくて「ストーブさん」だったわけだ

  • でも、面と向かって、しかも悪意もなく「ストーブさん」と呼ぶか?

  • そういうところが、アキがヘン、というか、ちょっとネジが外れている人間だと感じたゆえん

  • 「鈍い」「空気が読めない」「天然」などと、アキのことをいろいろな呼び方で呼べるのかもしれないが、私の印象はそのいづれでもなく、ただ単に「ちょっと不気味」

  • 深読みのしすぎかもしれないが、ヒロシとのやりとりで感じられたアキの自分本位さって、夏、ハルコも少なからず持っている要素で、それをきちんと(?)受け継いでいるということなのだろうか

  • 「子どもがかわいくねえ親なんていねえと思います」とはアキの言だが、実際はいるんだよなあ(まあ、そういうことを言い出せばドラマにならないわけでして)

  • 上記やりとり以降、アキのことがかわいく見えなくなってしまったのは、自分でも不思議

  • ヒロシが回すカメラの前で、一所懸命に袖ヶ浜と北の海女をアピールするアキ、そこで画面の後ろから夏ばっばが入ってくるシーンが実にいい!

  • 本当に撮影に乱入してきたような、桶を抱えてのふらふらとした動き、そしてアキへの愛情溢れる親しさ、そしてときおりカメラの方に振り返りながらアキと話し、笑ってのけぞり、頭がフレームアウトしてしまうところとか、なんというか本当に自然なのだ

  • このシーンでアキが魅力的に映ったのは、私個人の感想としては、夏のおかげ

  • 撮影したインタビューシーンを繰り返し見ているうちに、ヒロシがアキの可能性に気づく

  • ついでに、自分がアキのことが好きだと再確認し、夜のリアスに行ってハルコに話すのだが、このときのハルコの反応も意地悪すぎるような気がするんだよなあ

  • ヒロシの一人称はときどき「自分」、この一人称を遣う人って最近じゃ結構多いみたいね

  • ヒロシの「アキちゃんのことを好きになったの、おれが一番ですから、おれが、ファン第一号ですから!」という必死の怒鳴り顔が素晴らしい

  • 小池徹平がこんなになりふり構わない役柄を演じるなんて、たまらない

  • で、今度はHP にアップしたアキの動画を見て、観光客が急増

  • NHK 作成の北三陸HP(ややこしい!)に、アキの動画もアップされた

  • アキに人気が出たことの分析がいちいち面白い

  • アイドルオタクのヒビキ一郎は、「神レベル」のユイと、「素人レベル」のアキがうまくマッチングしている、と解釈

  • ついでだが、ここでアキのことをくさすヒビキに対しての、夏ばっばの「(アキのことを)ブスって言ったな、あやまれこのやろ」というセリフに、孫への深い愛情が感じられた

  • 観光協会の方では、アキという対抗馬の登場で、ユイファンが刺戟され、また、北三陸という辺鄙な土地へわざわざ時間をかけて会いに来る、その障碍の大きさがファン心理を盛り上げる、と分析

  • これらは、AKB48 の論理とけっこう似通っているのではないか(というより、参考にしたのではないか)

  • アキを写真に収めようとする「オタクさん」たちをじっと見ていて、ずっと覚えていた違和感の原因にやっと気づいた

  • 彼らが首から提げているカメラの一部は、フィルムカメラなんだよねえ、もちろんデジカメもあるんだけど、この頃(2008年当時)はまだフィルムカメラを持っている人がいても、それほどおかしくはなかったのではないか

  • アキがやっとウニを獲れたと思ったら、それは安部ちゃんがこっそりと腰につけた網に入れておいてくれたからで、接客後、漁協の休憩室(?)で、それについてアキが疑義を呈する

  • アキ「それじゃあ、安部ちゃんがまるで落ち武者だべ!」

  • ところが、「みんな最初はそうだった」と言う安部ちゃん、そして、夏ばっばが、観光海女は接客業・サービス業だから、お客さんを第一に考えるべし、と説明する

  • ここ、すごくよくわかるなあ、サービス業って、きれいごとだけじゃやってられないし、多少の嘘は必要だからなあ

  • 少し経ってから、組合長「影武者じゃねえか? いやあ、落ち武者じゃなくて、安部ちゃんは、アキちゃんの影武者じゃねえか? ……ま、どっちでもいいが」とツッコミ

  • 安部ちゃんが、引退するということが判明

  • 岩手物産展の中で、まめぶ汁をおしゃれなカフェ(MMB カフェ)として販売する予定で、安部ちゃんが栃木へ行くことに

  • 「栃木かあ、中途半端だな」と言うみすずさんに、「北関東からじわじわ攻めて、様子見て東京に進出する気なんだと」という安部ちゃんの説明が、やけにリアル

  • アキとユイがしゃべっているのを見て、個人的な趣味として、このぐらいの年齢の女の子たちが話していても、ちっとも魅力を感じないんだよなあ、と痛感、本ドラマとはまったく関係のない感想だけど

  • で、それからそれから、リアスにいるハルコのところでアキが昔のことをほじくり返そうとするのだが、「アイドル」のキーワードがなぜかハルコの逆鱗に触れたらしく、「あんたみたいなブスが、アイドルになれるわけないでしょ!」と激昂

  • 「ごめん、言いすぎた」とすぐに謝るハルコだが、それでも、キレて娘に「ブス」と言ってしまうのは、母娘だったらまったくない話ではないのかな、とも思った

  • ハルコが、夏に対して完全に素直になれなかったり、あるいは、アキに対してときどきヒステリックな調子で厳しくしてしまうのは、同性の親子だからかもしれない

  • 同性の親子といえば、ヒロシとその父親もそうか

  • 今週がすべて終わった時点で、ハルコの激怒した理由は判然としないのだが、おそらくハルコ自身がアイドルを目指していたのだろう(『なんてったってアイドル』ですから)

  • 自分の部屋で、過去の自分すら嘲笑ってしまうようなハルコの態度って、観ていてイヤなんだけど、共感もするんだよなあ

  • 「ママになる前のママもいるんです……いや、いたんです」というセリフはよかった

  • わざわざ「いた」と言い直しているんだけど、本心としては、やっぱり「いる」なのかな

  • 過去のカッコ悪さを否定したがっているハルコは、けれども、どこかでまだ「北三陸の田舎の女の子」の部分を残しているし、そこになんとか折り合いをつけたいのではないか

  • 「東京に戻りたいと思わないの?」との質問に、「まだ大丈夫」とアキが応え、思わず、「よかった」とつぶやくハルコに、上記のような本心が仄見えたように思えた

  • 先週か先々週に、過去に自分が落書きした「東京 原宿 表参道」の文字に向かって、ひとり「そんなにいいものでもないよ」と優しく語りかけていたハルコこそ、いちばん素のハルコなんだろう

  • こうなると、アキよりハルコの方がよっぽど複雑で、観ていて面白い

  • そして、ヒロシがついにアキに告白するのだが、アキは動顛するばかりで、ヒロシを突き飛ばすほど

  • 人生初めての告白によって、一睡も出来なかったアキは、北の海女の活動最終日(通称「本気獲り」)を迎える

  • 土曜日の回は、撮影がすごかった

  • アキが組合長(でんでん)に手を取ってもらってボートに乗り込み、そのあとその組合長が「みんな乗ったかー?」と何事もないように周りの人たちに呼びかけるのだが、波による縦の揺れがすごい

  • さすがは役者のでんでん、いかにも「おれは毎日船に乗ってござい」といった様子で、平然としている

  • アキ(能年玲奈)は、まだまだ素人ということで「素のまま」でいいのだが、渡辺えり、片桐はいり木野花、美保純たちは、先輩海女ということで、慣れているふりをしなければならないのがたいへんだったろう

  • ヒロシも撮影班ということで、カメラ片手に別の船に乗っていますよ

  • アキの着ているウェットスーツがぼろぼろだったので、よっぽど練習したのかもしれない(古着を借りて撮影している、というのはちょっと考えにくい)

  • アキが何度か潜って上がってくるうちに、役者たちの顔を照らす光が斜光になっていた

  • 最初、撮影中に夕方になったのかな、と思ったけど、それこそ潮の流れが急になるということなどもあるかもしれないから、これは朝の光だと判断した(ただの勘)

  • 潜る前に斜光がなかったのは、空一面が曇っていたからで、時間が経って、雲間から太陽が覗いたのだろう、と思っている

  • 漁協の部屋で、ウェットスーツの胸元を少し開けた美保純がやけにセクシー

  • ユイが、アキがやっとこさウニを獲ったということを聞きつけて漁協にやってきて、破顔する

  • 考えてみれば、ユイが本当の笑顔を見せたのは、「アイドルになりたーい!」と叫んだときと、今回くらいなんだよねえ

  • 予告篇を見るに、次週からラブコメ要素が入ってくるようで、これでやっとわだすの興味も薄まるかもすんねえ(えがったえがった)



*1:私は、青林工藝舎の『アックス』で彼の作品を読んでいた。



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さっき、笑ってしまうほどの濃霧の中、山道を車で下ってきた。

耳の奥が痛くなり、くねくね道を回ったおかげで、吐きたくなるくらいに気持ちが悪かった。

気持ち悪いついでに、暗いことを書く。



いくつもの職場を転々としたが、「男だらけ」というのはなんとなく苦手。理由は簡単で、下品だから。

何人かが集まれば、すぐ下がかった話題になってあーだこーだと盛り上がる。私からすれば、「たのしい、そんな話?」なのだが、そんなことをもし言明してしまえば、「なに気取ってんだ?」という冷たい視線で、異端視されてしまう*1。他の場所でなら異端視されようと結構なのだが、職場であれば自分の仕事がしにくくなるし、その困難を抱えてまで訴えたい「正当性」もあるわけがないので、鈍感なふりをして回避する。

下品さは、上記に挙げたようなものだけではない。当地で長いあいだ経験しているのがまさにそれで、もう嫌で嫌で仕方がない。吐き気がする。

で、とにかくそのままを鈍感人間で通す。

「ふり」をしていると自分で思えば思うほど、神経は細かく研がれていくのだと思う。

「自分は『ふり』をしているだけだ」と日々思うようになる。本当の自分は違うはずなんだ、とどこかで安心している。安心の材料を保管しているような気になって、安心する。でもときどき、「違う。それがそのままの自分なのだ」という声が聞こえてきて、その陳腐な考え方に感化されそうにもなる。どちらが正しいかわからなくなってくる。そもそも「正しさ」があるものなのかどうかがわからなくなってくる。

そうやって自意識が過剰になって、やっぱり神経質にもなっていって、それからますます鈍感なふりをする。気持ち悪さを「気づきの悪さのふり」で覆い隠すようなものだ。実際には隠せるわけがないのだけれど、他にしようもないので、そうする。

自分が高潔な人間というふうに思ったことはない。

ちょっとしたことで腹を立てるし、たぶん、その閾値は相当低い。

また、粘着質で、いつまでも根に持っていることがある。心の奥底にある暗い炎は、なかなか消えない。

だから、心根のまっすぐな優しい人がいたとしてもなかなか信じられないだろうし、もし本当にそういう人格の人だということがわかれば、おそらく距離を置くと思う。穢れさせたくもないし、面倒というのもある。



北方謙三水滸伝』では、登場人物たちがときおり「死域」というものに入る。

「死域」というのはおそらく北方の造語なのだが、死ぬ寸前の、人が人でなくなる領域のこと。そこの領域に入り込むと、まさしく超人的な働きをするのだが、どこかで気を失ったり倒れたりしなければ、死んでしまう。

登場人物たちのうち、何人かは、死域からこちら側の世界に戻ってくるのだが、何人かはそのまま燃え尽きて向こう側に行ってしまう。つまり、死んでしまうのである。

ある男が、崩れ落ちる城壁の中で、仲間が助かるために自らが犠牲となってその支えとなる。仲間が次々と脱出に成功し、「さあ、あとはお前だけだ」と振り返ると、その男の目からは真っ赤な炎が噴き出していて、そしてその直後に城壁は完全に瓦礫となる、という場面がある。『水滸伝』中でも、私が絶対に忘れられない情景だ。

このような描写を読んでいて*2、人間って本当にこういうことがあるのではないか、と思わせる。生命には、文字通りの燃えるようなエネルギーがあって、それが噴出してしまうような瞬間があるのではないか。

なお、『水滸伝』は、ものすごく写実的な小説で、間違っても「妖術」などは出てこない(原作は出てくる)。



他人の文章を読んでいて、どこか暗い炎を感じさせる人のものが好きだ、ということを最近再確認した。

(ひどい言いようだが)どこかねじれている方が、人は面白いと思う。「ねじれ」は、よく言えば「しゃれ」だ。「しゃれ」は「軽み」の方向に特化しているが、「重み」に傾けば「ひねくれ」になり、「あまのじゃく」やら「偏屈」やら「つむじ曲がり」「へそ曲がり」「拗ね者」などという、私の好きな性質が出てくる。

優しくまっすぐなものに憧れないわけではないが、私の心の底には、いつでも舌を出して「否」と言いつづけたい気持ちがある。だからこのブログのタイトルは、嘘はつかないよ、という思いでつけた……ということにしておく、今は。

誰だって嬉しいこと・たのしいこと・好きなことに囲まれて生きていたいけれど、だからって哀しいこと・苦しいこと・嫌いなことから逃れられるわけじゃない。

その陰陽の「陰」の部分に出会ったときに心の奥底に暗い炎が生じ、燠火のように長く長く残る。その炎が燃えるというのは、まさに生きていることそのものではないか。

だから、「陰」の部分をうまく描ける文章が好きなのだと思う。「うわーつらいよーさみしいよーどうしようもないよー」とただ喚くのではなく、その辛さ・寂しさ・どうしようもなさを、冷静に見つめてから書く。書きながら考え、考えながらまた書くのである。

冷静になればなるほど炎はめらめらと燃えるから、魂のこもった文章には熱さを感じる。そして、私はときどき思うのだ。その文章を書いているとき、その書き手の目からは、炎が噴き出しているのかもしれない、と。



*1:もちろん、こんな人間ばかりじゃない、ということは知っているし、実際にそういう職場で働いたこともある。


*2:他にも名場面は山ほどある。ひとつひとつを思い浮かべるたびに、自然と涙も浮かんでくる。



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映画『パルプ・フィクション』と言えば、下の曲を思い出す人は多いと思う。






Misirlou / Dick Dale & His Del-Tones




サントラ(実際の映画でもそうだけど)でいうと、ふたりの強盗が「I love you, Pumpkin」「I love you, Honey Bunny」と囁き合ったあと、「エヴリバディビィクールディスイーズロバリー!」「エニィーオッビューファッキンプリックスムーヴ、アナイルエグザキューエヴリマザファッキンラストワンナヴヤッ!」のセリフがあって、いきなり始まるやつである。

でも。

私が『パルプ』と聞いて思い出すのは、この曲じゃないんだよねえ。



この映画、私はリアルタイムで映画館で観た。

まだ高校生だった。テレビ東京で何度も流れていたCF*1 が妙に胡散臭かったが、しかし、ブルース・ウィリスという知っている俳優が出ているということが後押しになって、当時の友だちとたしか新宿に行った。ちなみに、この友だちは、後年学者になって、私と仲違いをする。

たぶん、初日かその次の日からくらいだったと思うのだが、それほど大勢が来ているというわけでもなかったように思う。「だって、あのCM だもんな。あれ、なんだかよくわからなかったもん」と私は勝手に思っていた。じゃあなぜ観に行くことにしたのかというと、ちょっとマニアックそうだったから。

当時の私もたいして映画に詳しくなかったので、「クエンティン・タランティーノ」という名前なんて聞いたことがなかったし、そもそも、監督が誰かなんてことにその当時は(もしかしたら今も)興味がなかった。

映画館に入って、多少は並んだんだっけか。扉を隔てていても、並んでいるこちら側にもでっかい音が聞こえてきて、とにかく銃声の多い映画だなあと感じた記憶がある。

で、前の上映が終わって扉が開き、エンドロールが流れる中、さっさと気の早い人たちが出てきて、その入れ替わりで私たちが入る。それも流れこむという感じではなく、パラパラというものだったと思う。

で、そのとき流れていたのがこの曲。






Surf Rider / Lively Ones




カッコイイなあと感じた。

古い、というのはわかっていたが、あえてこの古さを持ち出してくる感覚がシブかった。

ウキウキしながら席に着いて待っていると、そのうち映画が始まり、それから冒頭の「アナイルエグザキューエヴリマザファッキンラストワンナヴヤッ!」で動けなくなってしまった。釘付けというやつだ。



映画が終わって、それからしばらくしてサントラを買った。

このサントラには、セリフもかなり入っていて、だから、上記の「I love you, Pumpkin」「I love you, Honey Bunny」だとか「Le BIG MAC」とか、そういうセリフがすぐに思い出される。

それを頭からしまいまで何度も何度も何度も何度も繰り返し聴いたので、映画を何十回も観た気になっていた。けれども、おそらく映画本篇を観たのは、映画館のも含めて、2回くらいだと思う。テレビなどで再放送されていても、「あ、何度も観たからいいや」という気分になってしまい、観る気がしないのだ。

こんなふうに、ひとつのアルバムを何度も聴き返して、歌詞カードを見て、「ああ。こういうことを歌っているんだな」と思ったり、ライナーノーツを読んで、関係の深いミュージシャンなり(この場合はサントラだから)映画なりを知って食指が動いたり、ってそういう興味の広がり方って今後は少なくなっていくのだと思う。

今なら、全部ブツギリで情報が入ってくる。1曲1曲をダウンロードしたり、YouTube でブラウズしたり、あるいは別のWeb サービスをつかって延々と音楽を流し聞きする、ということも可能だ。

でも、その一方で、ひとつひとつの音楽に対する思い出なり感傷なりが薄くなってきている気もする。アルバム1枚を流し聴くなんて非効率的な音楽の愉しみ方、と捉えられているのかもしれない。

いやいや。「昔はよかったなあ」って遠い目をしたいのではない。ただ、私の時代はそうだったって話で、考えてみれば、音楽の愉しみ方って、時代によってすごく変わってきているわけで。

ドラマ『カーネーション』でもあったけど、戦中・戦後直後はラジオから音楽が流れてくるのが(たぶんそれほど貧しいわけではない家庭の)愉しみ方であったろうし、それより前は、生演奏が当たり前だったのだろう。なにかの映画かドラマだったと思うんだけど、昔の日本のこと、なにかのお祝いで大勢の人間がひとつの家に集まった中、みんなの手拍子に合わせて誰かが歌を唄って、それが終わると、みんなで拍手をして、という描写があって、それを観ていたらすごく羨ましい気持ちになった。

反対に、そういう時代の人たちからすれば、移動しながら耳元でいろいろな音楽が聴ける、なんて奇跡みたいに思うかもしれない。

私には経験がないのだが、インターネットや携帯電話が登場するもっと以前には、雑誌の投稿欄でコミュニケーションをしたりとか、あるいは、文通したりとかしたらしい。80年代あたりの話だろうか。

「ええ? めんどくさーい!」とメールしか知らない人は思うかもしれないけど、私は、これらにまつわる思い出を持っている人たちも羨ましい。

宮本常一の著作にあったと思うが、戦前の田舎において、歌の名人が「歌くらべ」で勝った結果、どこかの嫁さんと一夜をともにすることができた、なんていう話があって、そういう時代に遡ってしまえば、彼らが生涯に唄った歌なんて、50もなかったのではないか。

でも、やっぱり音楽を愉しんでいたことに変わりない。そして、ひとつひとつの歌にまつわる思い出の多さ・濃さは、現代のそれと較ぶべくもない、と私は思う。



*1:探したら、YouTube予告篇の動画があった。テレビで流れていたのは、このダイジェスト版だと思うが、しかしなんでもあるな。



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  • ふと、『八重の桜』の一番のライバルは、『あまちゃん』なのではないかと思った

  • 同じ東北を扱っているドラマという観点でとらえてしまうと*1、『あまちゃん』のテンポのよさ、ギャグの多さ、派手さは、『八重の桜』のそれを圧倒的に上回っているので、視聴者離れを促すのではないか

  • でも、じっくりと腰を据えて鑑賞することの得意な「オトナ」の視聴者なら、『八重の桜』の面白さは、『あまちゃん』とは違うところにある(当たり前なんだけど)ということがわかっていると思う

  • いつのまにか、データ放送で「会津弁や歴史用語の意味を解説する機能」が追加されたらしいけど、そんなのあまり必要ないな

  • それより、ドラマ後の「八重の桜紀行」が、史実のことを解説してくれているので、それで充分面白い

  • 「遠ざかる背中」というタイトルで、あれ、いやな予感がするなと思っていたら、冒頭から、尚之助やうらに、危険フラグが立ってヒヤヒヤする(なお、子どもは絶対に死なないと思っていた)

  • 珍しく、八重が尚之助に甘える

  • 京では官兵衛が騒いでいるが、獅童の演技が大味すぎて好きではないせいか、いちいち腹が立つ

  • 生瀬安房守の江戸弁は、江戸弁に聞こえず、「べらぼうめ」が空々しく響いた

  • 慶喜は、勝安房守に長州と和議をするよう申し付けるが、その一方で、朝廷に働きかけ、長州に兵を退かせる勅を出させるという、いかにも「二心殿」という暗躍をする

  • それを知って怒る村上春嶽の迫力

  • 容保との会談で、慶喜は将軍職に就いて幕府を再建すると宣言

  • もしこれが慶喜の本意であるとしたら、慶喜もかなり複雑な人間だったのだろう(容保が疑ったような「二心」は、ここにはないという前提で)

  • その会談が終わり、梶原平馬(池内博之)の案内によって帰ろうとする慶喜に見せつけるかのように、獅童官兵衛が暗に皮肉を訴える槍の舞をする

  • 夕景の中、黄色っぽい斜光が会津藩士たちを照らしている姿がいかにも厳粛であり、また、屋敷の内側にある平馬・慶喜たちを描く陰影にも凄みがあって、いい場面

  • 池内平馬などは、顔の右半分が陰で隠れてしまっているし、彼らの後ろにはお供が数人いるはずなのだが、すべてシルエットでしか確認できないほどで、よく計算されているように感じた

  • 腹を立てて上唇をほんの少しだけ吊り上げる孝太郎、および、建前上、自藩藩士たちを静めるために大声を出す池内、そして地に片膝をつき無表情を保ちつづける西島らのたたずまいは皆すばらしかったが、唯一、獅童だけがちゃちに映った(おそらくそれは個人的な好悪によるところが大きいと思う)

  • しかしそれにしても、官兵衛ってこれまでに一度も手柄を上げていない気がするのだがなあ(八重が子どもの頃に鷹狩かなにかで功をなしたっけ?)

  • 場面変わって会津では、薙刀道場に新キャラ、中野竹子(黒木メイサ)があらわれる

  • 八重を呼びに来る「今週のゴーリキー」が登場したところで、パブロフの犬的反応でムッとしてしまった

  • 薙刀の試合における無駄に豪華なスローモーション(あまり意味はない)

  • 聞くところによれば、中野の竹子さは江戸帰りとかで、なんだかおら気に食わねえだ(んだんだ)

  • 会津のおなごのくせして、会津の訛りがねえってのは、まったくつまらねえべさ(んだんだ)

  • 帰ろうとする中野メイサに、なぜかゴーリキーが「八重ねえさまは強ぇんですよ」と要らぬことを

  • 覚馬、平馬、大蔵、広沢の会談中に、市川実日子の二葉が登場して、場は和やかになり、そしてそのままの流れで、平馬の子を出産

  • 二葉の赤子を見て、視界の定まらぬ覚馬が近づき、「饅頭の匂いがする」と言えば、広沢が「日向の藁の匂い」と言い、それからまた覚馬がつぶやくように、「赤子は命の匂いがする」

  • 会津公、孝明帝に拝謁する

  • 慶喜が将軍職に就くのを見届けて会津に帰るという中将殿に向かって、「そうやなあ、もう引き止めるわけにはいかんなあ」とさみしげに孝明帝

  • つづけて、「京を守護するそなたの苦労、ようわかっていた。なれど、わしにはそなたが支えであった。心の深いところに通い合うものがあった。われらは、重い荷を背負うた者同士、ご先祖代々、守り培ってきたものを両肩に背負うて歩んでいかねばならぬ。その苦しさを、まことに分かち合えたのは、そなたひとりであった」

  • 打たれたように、容保が顔を上げる

  • 孝明帝「会津から教わった。『もののふのまことは、義の重きにつくことにある』と。長いあいだ、まことを尽くしてくれて、ありがとう」と言い、頭を下げる

  • 会津公、いよいよ顔を震わせて大いに涙を流し、それをとどむることあたわず

  • ここは、「おかみ」と容保とのあいだにあった主従関係や信頼関係がよくあらわれていて、すごくよかった場面

  • 帝と守護職の関係は、これまでずっと丁寧に描かれてきて、それを踏まえての「ありがとう」だったわけだから、容保が嗚咽するのも当然

  • そして、第15代将軍が決まってから二十日後に、孝明帝急逝、「遠ざかる背中」とは、染五郎の背のことであったか



*1:福島と岩手だし、時間設定も幕末と現代で、まったく異なるのだけれど。



編集
(2013/6/3 追記)
当初貼り付けていた動画は削除されたので、また違う動画を貼り付けた。そのため、文中にある時間表示に多少のずれが生じている。

某所でチャゲ&飛鳥の『On Your Mark』に言及して、それでジブリの作ったショートフィルムを改めて見直したのだが、これはやはりすごいと思う。


On Your Mark 投稿者 _Nessim_

Wikipedia なんかを見ると、いろいろと解釈があるようだが、自分なりの理解の仕方をしたほうがいいと思う(ただ、当該記述は理解の手助けにはなると思う)。初見でも、「あれ?」と思う箇所はいくつかあるだろう。
なぜか、何度も何度も繰り返されるシーンがあるのだ。そして、繰り返されるたびに、物語が少しづつ変化していく。
監督の宮崎駿は、
「歌詞を曲解して作った」「暗号のような物をいっぱい入れてある」
と言っているそうで、ストレートに受け取ってしまえば、「宮さん」の高笑いを聞くはめになるようだ(まあ、それでもいいんだけど)。
 
けれども、彼は意地悪でひねくれているところがあるから、「きっとこうだろう!」と読みきったつもりになっても、それはそれで「アニメはただのアニメだよ、きみ!」とこれまた高笑いをされそうだ。
私は、裏の裏まで考えることや、「なにかの暗示」を読み取ったりすることが非常に苦手なので、わりと「ストレート理解派」に属する方だと思うのだが、それでも宮崎駿の高笑いをどうせ聞かなきゃならないというのなら、とよく観てみることにしてみた。
  • オープニングで、美しいメロディに乗せて美しい風景が流れるが……ちょっと待った!

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  • たとえば上では、古くなったのだろうか、切れてしまった鉄条網が見え、

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  • また、放射能を警告する標識も見える(文字は読めない)ため、完璧に穏やかな風景、というわけではなさそうだ
  • そして、この一見のどかな風景を走っていると思われる車輛(ここ重要!)があらわれ、タイトル表示

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  • 場面は突然変わって、カルト教団(彼らがいるビルには「God is watching you」のネオンが)を襲撃する警察隊
  • ほとんどの教団員を、拘束というよりは殺害、と形容すべき状況は、現代の眼から見ると、当時の一般大衆のオウム真理教への弾圧感情を描写したのかと思わせるが、実際にはかの事件とは無関係にこのフィルムは作られたそうな
  • 1:33あたりで、翼の生えた少女がとらわれている部屋に、飛鳥とチャゲがモデルと思われる警官ふたりが入るのだが、ここの登場の仕方がとても奇妙で、幽霊があらわれたときのような、透明な身体が急に実体を持つ、という感じなのだ(同じシーンが、1:58にもあらわれる)

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  • ふたりが介抱し、意識を取り戻したかのように見える少女は、放射能警告マークをつけた防護服軍団に引き渡される
  • どうにも腑に落ちない様子の飛鳥とチャゲは、居酒屋で酒を飲んでいるのだが、このとき壁に張られている品書きの左側には、「塩サバ(合成)」および「バイオ蛸酢」の文字が見え、そして右側には、「やきとり」「めざし」の文字の上下には「本物」「時価」と書かれている

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  • これは、海が放射能で汚染されて、簡単には漁獲ができないということをあらわしていて、おそらく、家畜類も容易には飼育できていない、ということもあらわしているのだろう
  • この「動物が本物」という表現は、ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を想起させる
  • ふたりは防護服軍団の施設に変装して侵入し、なにやら特別な仕掛けで守られ、そしておそらく監禁されていた翼の少女をそこから救出する
  • 追われるふたりは、冒頭に出てきた大型重車輛に乗って逃走する
  • 警察の飛行艇(?)に圧し潰され、道路から落ちてしまう車輌、その落下していくさなかに、飛鳥は少女を飛ばして逃がそうとする(チャゲが、「飛ーべ、飛ーべ」といった様子で促す)
  • そして、車輛も、少女も、ふたりの警官もともに落下していき、歌は最高潮に(「そして、僕らは」)
  • また、少女をあの施設で見つけるシーンに戻り(3度目)、ふたりは、防護服軍団のいる施設にとらわれている少女の奪還を試みる(再挑戦するというわけではなく、パラレルワールドとして、描かれているように思う)
  • 同じ重車輛で逃走し、やはり警察の飛行艇に押し潰され、道路から落ちてしまうが……今度は、重車輌が落下せず、ジェット噴射かなにかで、そこから脱出することに成功する
  • そして僕らは、黄色いスポーツカーに乗り、あいだには翼の少女を乗せて、「(ここを抜ければ)生命を保障しない」と中国語で書かれた(と勝手に解釈した)警告のあったトンネルを出る
  • そして、私がすごく重要だと感じたシーンなのだが、まず、トンネルを出たばかりのところは、血の色すら連想させる紫やら赤やらのいかにも不毛といった色彩で描かれた土地があらわれるのだが、

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  • 画面が90度回転し、

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  • くわえてもう90度回転すれば(つまり都合180度回転)、生命の燃える緑色を主とした世界が展ける

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  • 彼らが疾駆しているその背景には巨大な施設が見えるのだが、この施設を見て、私は手塚治虫の『火の鳥 未来編』にあった核戦争後の地上の世界を思い出した(しかし、手元にそのマンガがないので確認不可、記憶違いかもしれない)

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  • 3人の行く先は、「EXTREME DANGER」と表記した巨大なアーチの向こう
  • そこには、冒頭にあった風景が流れていくのだが、ここで、タイトル表示時にあらわれた車輛を思い出してみる
  • Wikipedia にも書いてあるが、冒頭では、ふたりが施設から盗み出した(?)重車輛が走っているのだが、ラストでは、3人はスポーツカーに乗っている
  • ともかくも、ふたりは少女に「ここで自由に飛んで行けばいい」と促し、少女は思い切って空に飛び上がるのだが、

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  • 空には暗雲が立ち込め、そしてずっと向こうには、廃墟と思われるようなビル群が並んでいるのが見える(そのうち、1棟は傾いている)
  • けれども、彼女がもっと高く飛ぶと、雲は大きくきれいな入道雲となり、青く澄んだ色の空も見える

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  • 彼女はその雲の上を飛んでいき、そしてそこには、なにも遮るものはない
  • 以上を踏まえて深読みすれば、ここで描かれているのは、「放射能に汚染され回復がもう望めない世界」のことであって、しかも、「物語の一部分あるいはすべてが、ふたりの幻想である」ということは言えると思う

そして、だ。
私はこれ以上、解釈を深めようとはあまり思えなくなってしまう。
というより、なぜ宮崎駿は、二度も、しかもパラレルワールドという表現を用いてまで、ふたりの警官に少女を救わせたのか、きちんと救って無事に逃がすというところまで描写したのか、ということが気になってしまったのだ。私は、「物語」やら「フィクション」やら「虚構」やらという、つまり「現実世界」に対応する「架空の世界」は、そもそも、「いなくなった誰か」を救うために生まれたものなのではないか、と考えている。
もちろんそれだけではない、というのは自分でも反証を挙げられるくらいに理解しているつもりだが、しかし、(もっと直截的に言って)「死んでしまった誰か」を救うために「物語」は作られたのではないかという直観が、私の中で揺るがないのだ。

もう何年も前に読んだアメリカの小説家のエッセイなので、すっかりその中身を忘れてしまっているためにそのタイトルは伏せる。
そのエッセイは(作者いわく)実話で、幼年期に知り合いだったある少年(もしかしたら大人かもしれない)のことを描いていた。彼は冴えなくてみんなからも疎んじられているのだが、あるとき、彼の家で火事が起こる。
作者は、消防車がサイレンを鳴らして彼の家に駆けつけるのを見るのだが、その消防車は間に合わず、哀れなその少年は焼け死んでしまう。
作者は書く。小説を書くということは、その少年の家に消防車を走らせ、そして彼を救い出すことだ、と。そのために、何度でも何度でも、消防車にサイレンを鳴らさせ、猛スピードで駆けつけさせるのだ、と。
たしか、そういう内容だった。もしかしたら、私が曲解して、ああ、こうだったらいいなあと思って一部を捻じ曲げて記憶している可能性はあるけれども。

翻ってジブリの『On Your Mark』だが、これは、いるかどうかもわからない翼の生えた少女を救う物語である。
と、ここで監督の言葉を思い出す。
「歌詞を曲解して作った」「暗号のような物をいっぱい入れてある」
で、たとえば『On Your Mark』(作詞: 飛鳥涼)の歌詞のこんな部分を見つける。
この手を離せば 音さえたてない
落ちて行くコインは 二度と帰らない
これは、一度目に車輛が道路から落ちていくシーンのことではないか。
しかし、彼らは失敗しても、何度でも、何度でも立ち上がり、彼女を救いに向かう。
そしてそのことは、以下の歌詞の部分と符合するのではないか。
On Your Mark 僕らがそれでも止めないのは
夢の斜面見上げて 行けそうな気がするから
実際に、施設を抜け出して行く道は、上りになっている。……という、何度でも、何度でも、ふたりの警官が、不屈の精神で少女を救い出そうとする物語であるはずなのだが、宮崎駿は、ここで、「ふたりの幻想」を否定しない表現*1をいくつか仕込むことによって、ストレートな純粋さ(努力すればきっと誰かを助けられる、というような思い)を嘲笑しているのではないだろうか。その思いこそが、幻想だというように。
具体的な根拠はないのだが、あまりにも表現が複雑なところから、そう感じてしまう。
けれども。
ここで、「ああなんだ、この物語はすべて皮肉なんだ」と思ってはいけないのだと思う。
やっぱり、もう一度「ひっくり返し」があるのだと、私は信じる。
歌詞中に、
君と僕 全てを認めてしまうにはまだ 若すぎる
という言葉があるが、この「若さ」をもって幻想や不可能性に怯まず、向こう見ずに斜面を駆け上がっていくことでしか得られないものがあるということを、最終的に宮崎駿は言いたいのではないだろうか。たぶん、このひねくれたおっさんは、そういうメッセージをとても意地悪に突きつけているのだと思う。6:01あたりで、浮かび上がった少女が、視線の先になにか見つける。
それがなにか、私にはちょっとわからないのだが、少女のその後の穏やかな表情から察するに、そこにあるのは、放射能に塗れた絶望なんかではなく、希望なのだろう。
宮崎駿というとても意地悪なクリエイターもやはり、何度でも何度でも、少女を救い出し、そして彼女が希望を見つけるまでのことをずっと描いてきたのだ、と思っている。いや、そう信じたい。

*1:少女を見つけるときの登場の仕方とか、トンネルを出てから世界ががらっと変わる表現とか。

編集

いやいや、こんなの定期的に書くつもりないんだけどね。




  • わい、やっと気づきましてん、「天野アキ」っていうヒロインの名前、「海女のアキ」のシャレなのね

  • 登場人物を眺めていて、俳優名ではなく役名が出てくるようになったが、これはドラマが私の中で定着した証

  • で、今週の始めに、東京へ行かずに戻ってきたのはやっぱりハルコの思いが強かったから、ということがわかる*1

  • アキの物語でもあるけれど、ハルコの物語でもあるし、で、やっぱり夏ばっばの物語でもあるんだろうね、これって

  • アキもユイも、一人称は「アキ」と「ユイ」なのね

  • アキの語尾、「けろ」はかわいすぎるでしょ

  • ヒロシ、今週の初登場は、あの「ヒロシのテーマ」とともに(ややこしい!)





ガラスの部屋 / ペピーノ・ガリアルディ






  • アキが死にかけたことで、ハルコと夏ばっばがケンカをするが、これは見ていて嫌な気分にならないケンカ(前作への皮肉)

  • そういえば、今週は鉄拳のアニメーションがなかったけど、あれ、作るの大変なんだろうな

  • オープニングクレジットの「岩手ことば指導」に、ときどき*2「だるま太朗」の名前が出るが、この人が現場でどう呼ばれているかが気になる(だるまさん? 太朗さん?)

  • 三陸(架空の市)には有名人がいない、という話になり、勉さんが「天狗!」を挙げたときの吉田くんの「なんも言えねぇ」は、2008年(ドラマにおける現在)の流行語

  • 「北三陸をなんとかすっぺ会議」の面々がリアスに集まったときに、キャラクターに振り分けられている「役目」の傾向がだいたいわかった

    • あんべちゃん: まめぶオチ

    • ヒロシ: 名前思い出してもらえないオチ

    • 勉さん: 琥珀オチ

    • やよいさん: カタカナが出てこないオチ


  • でも、こういう「落とし方」ってあまり頻繁に使わないで、週に1回くらいに抑えた方がいいと思う*3

  • 岩手県久慈市は、もう「まめぶ」を「日本一微妙な味のご当地グルメ」ということで売りだしちゃいなよ

  • なにせ公共放送で、しかも毎朝、これほどまでに宣伝をしてもらえるのだから、大チャンスですよ!

  • ユイの母親は、元フジテレビアナウンサーの八木亜希子

  • きれいなままの八木亜希子だが、役柄でも、仙台の地元テレビ局の元アナウンサーという設定

  • ハルコをミス北鉄に参加させようとする四人衆(大吉・副駅長・商工会長・組合長)の「いやいやいやいや」「まあまあまあまあ」が楽しすぎ

  • 相変わらずアキちゃんを「モーレツ推し」するヒロシの提案(アキをミス北鉄に推薦)に、「アキちゃん? いやいやいやいや、こどもこどもこども」と声を合わせる四人衆

  • 上記のシーン、きっと撮影がたのしかっただろうなと推測、スタッフもにやにやしながら見守っていたと思う

  • ユイの家では、前菜にテリーヌが出てきて、夏ばっばのところでは、漬物とかせんべいとかを食べていた

  • ハルコが夏に皮肉を言ったとき、夏が言い返さないものだから、ハルコは一瞬寂しい顔をするのだが、そういう小泉今日子の演技が非常にいいんだよねえ

  • 高校生の頃のハルコの担任をしていたユイの父親は、「天野はツッパリだったから」とアキに話すのだが、ハルコは今でも、そのやり方が正しいとは思っていないくせにツッパっているのだ

  • 夏の「旦那が死んでから24年間というもの、黙って暮らしてきた」という台詞は、ドラマという枠組みを超えて、こちらに訴えかけてくる

  • 実際に、60歳のときに奥さんを亡くして以来、24年間ずっとひとりきり、というおじさんを知っている

  • ユイの家の晩餐にて、「こんな脂のしたたるサーロインステーキ」というナレーションがあったものの、画面にあったのは、ちょっと冷めて硬くなったように見えるステーキ

  • で、アキが晩くに帰ってくると、夏ばっばとハルコが談笑しているのが聞こえる(見える、ではなくて)

  • 他に誰もいないホームで、ユイとアキが話している会話が、胸に刺さる

  • ユイ「きょう、訛ってないね……アキちゃんが訛っているの、不自然だし、バカにされているような気がするし」

  • 私が当地に来て、いっさい訛りを覚えない(身につけない)のも、実は上のような考えがあるから

  • 軽々に訛りや方言を覚えて、それをすぐに使い回してみせる人間なんて、私はなんだか信じられないんだよなあ

  • 言葉は、ファッションじゃないから

  • 「『田舎も東京も変らない』とか、わたしは言えない」とつづけるユイ

  • 人間の本性としては変わらない部分が多いと思うが、それ以外はやっぱり変る、というのが私のいまのところの感想

  • 賃金とか、求人状況とか、病院の数とか、移動に伴う燃料代とか、ユイやアキの想像もつかないような点でも、都会と田舎にはずいぶんと差がある

  • ユイの言うとおり、見たことのないものをこの目で見るというのは大切なことだと思う

  • 「すっぱい葡萄」にしてしまうのではなく、ランボーの詩にように、「人が見た気でいたものを / 僕はこの目でしかと見た」(『酔いどれ船福永武彦*4)とする方がいい

  • そして、ユイが「アイドルになる」という夢を告白する

  • そして、アキはそれが聞こえなかったふりをするのだが、この表情がかわいかった

  • ユイは自分がかわいいことを知っている、というナレーションがあったけれど、私個人も、美人がその美しさについてなるべく堂々としている方が好き(ひけらかすのでもなく卑下するのでもない、ちょうどいい塩梅に振舞うことができる人が最高)

  • なんだかんだで、ユイと栗原ちゃんはミス北鉄に出場することになる

  • 一方、ユイの兄ヒロシは、大吉の紹介で観光協会にウェブ担当者として就職が決定

  • そしてものすごい勢いでホームページ(広義)を作成するのだが、なんと実際にNHK がこの「偽ホームページ」を作ってアップした、というのが金曜日のネット上でのビッグニュースだった

  • 北三陸市観光協会ホームページ - NHK

  • 大吉と菅原に「アキちゃんがかわいい」と激推しするヒロシだが、ふたりの反応は、「じぇじぇ」

  • 大吉「それはあれだね? おたまじゃくしがかわいいとか、チンパンジーがかわいいとかっていう、そういう類いの『かわいい』だよね?」

  • そんな会話をしている合間に、ホームページ上で自分の写真を猛クリックする栗原ちゃんに、狂気の片鱗を見た

  • で、あっさりミス北鉄のティアラは、ユイの頭上に

  • 秋祭りの夜、ヒロシの名前を「ツトムさん」と平気で間違えるアキ

  • そしてアキは、おそろしく下手くそな「おねだり」でヒロシをそそのかし、ユイの乗っている山車を間近で見ることに成功

  • ユイを見て嬉しそうにヒロシに話しかけるアキは、「おたまじゃくし」とか「チンパンジー」とか言われていて、その話しかけられたヒロシは、「暗くて顔色が悪ぃ」と言われているのだが、どこをどうとっても美男美女(というより、「かわいい男の子&女の子」かな)じゃん、と私は思いますよ

  • 「記念にサインけろ」とうちわを差し出すアキに、平然とサインを書くユイ

  • ここ、見ている側が「もうサイン書けるのかよ!」ってツッコむところなんだけど、そのあとにユイが、「人に頼まれて書いたのは初めて」と言い、それから、はにかみながらとても嬉しそうにアキと握手をするところ、すごく感動的だったなあ

  • 心ない中傷や批難がそこらへんにごろごろと転がっている現代だから、夢を持ち、それを口にすることの難しさというのはすごくよくわかる

  • でもユイは、アキのことを友だちと思っているから、夢を教えたのだし、それに向かって邁進する姿は、とても美しい(容姿の話ではなく)

  • 今週最後に劇中でホームページにアップされたユイの北鉄アピール動画だが、上記「北三陸市観光協会」のホームページで、見られる(じぇじぇじぇ!)

  • (追記)たしか先週末で夏ばっばとアキの関係が不穏になったが、それが今週中に回復してよかった

  • (追記)朝ドラという枠組みを鑑みるに、特に諍いの部分は何週にもわたったものにすべきではない、というのは多くの視聴者の希望であり、そういう意味で、ふたりの早々の関係回復は、今後の当ドラマの方針も垣間見えたようで、非常に喜ばしい(前作への皮肉)



*1:先週の伏線がきれいに回収されているけれど、そこを再現するようなあざとい演出でなくて、よい。


*2:毎回じゃないみたい。


*3:古畑任三郎』の後期で、今泉役の西村雅彦に対するイジメみたいな「イジリ方」があったが、私は大っ嫌いだったな。あれで、三谷幸喜という作家を信用しなくなった。


*4:これは、舟崎克彦『ぽっぺん先生と笑うカモメ号』のエピグラフで、話の中身はすっかり忘れているものの、この文章だけは私の頭にしっかりと残っている。



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ふと思い出したこの曲。






ポワロのテーマ




ほら、これを聴きながら耳を済ませば、熊倉一雄の声が聞こえてくるでしょう?

「ムッシュー」とか、「モナミ」とか、「ヘイスティングス、きみはどうもせっかちでいけませんね」とか、「私の灰色の脳細胞が、あなたがここにいた動かぬ証拠を見つけ出したんですよ!」とか。

そうこうしていると、富山敬もあなたの耳元でささやき始める。

ポワロさん、見つけました。彼女はやっぱり犯人ではありませんでしたよ!」とか、「警部、おかしいですね。被害者の女性は右後頭部を襲われたんでしょう? けれども、この男は左利きです」とか。

くわえてこの映像。観ていた当時は全然気づかなかったが、ものすごいアールデコ調だったんだなあ。カッサンドルみたいで、非常にセンスがよい。



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先日、たぶんローカルのテレビ番組なのだが、あるタレントが、「フレンチレストランで、料理の説明をされるのが嫌い」と言っているのが気になった。彼女がその理由として挙げているのは、自分が友だちだか家族だかと話しているし、それにお腹が空いているのに、わからないことをべらべら言われてもしょうがないから、ということだった。

言っていることの半分くらいは理解できる。ドラマ『王様のレストラン』の最終回で、小野武彦演じるメートルがやはりぺらぺらとしゃべっていて、松本幸四郎にダメ出しされるというのがあったが、それと同じこと。必要のない長ったらしい説明は、サービスマンの技術の未熟さをあらわす。

けれども。

私がそのタレントの発言で気になったのは、「フランス料理の説明なんてもん、わかるわけないやん、ねえ?」というような、自分の無知を誇示するような言い方だった。

また、とある場所で本を読んでいたときのこと。「へー、本なんて読むんだあ。よくそんな難しいの読むねえ。おれ頭悪いから全然読まないよ」と言ってくる人がいた。

伝えにくいのだが、彼の言い方からは「頭が悪い」ということへの「自負」が感じられて、聞きようによっては、本を読んでいる人間なんて頭がおかしいんじゃないか、というような口ぶりだった。

こういうことがあるから人前で本を読むのは嫌いなのだが、「本なんて」と言ってしまうこの人って、いったいなんなんだろうと思ってしまう。あと、「おれ頭悪いから」って堂々と言えるって、ある意味すごいな、とも。



ここで長い脱線。

むかーし、新宿の美容院に行って髪を切っていたときのこと。

わざわざそんなところへ行って髪を切っていたのは、長いあいだずっと気に入っていた美容師さんがそこに異動になったからで、私が彼女を一番気に入っていた理由が、余計なことをしゃべらないということだった。

しかし、美容院もひとりで切り盛りするわけではないから、シャンプーなどは新人に任せる場合もある。

で、ある新人が私の髪を洗っていたときのこと。彼女が私の髪をひとしきり洗ってドライヤーで乾かしているあいだ、私は自分で持ってきた小説を読んでいた。

すると彼女(新人)が言うのである。「なんですか、その本?」

おそらく彼女は研修を受けたのだろう。なるべくお客さんと会話し、お客さんをリラックスさせろ、と。だから彼女は話すきっかけとして、私の読んでいる本で会話の糸口を見つけようとしたのだ。

私は、消極的な気分を隠しつつ「○○という(タイトルの)本です」と応えた。

「ごめんなさい、知らないです」と即答。

つづきを読もうとすると、「どんな内容なんですか?」と訊いてくる。めんどくせーなーと思いながらも、これこれこういう小説です、と応える。

その挙句に彼女が言ったのは、「へー、難しい本を読まれるんですね」

なんで?

なんで読んでもいないのに、難しい本だとわかるわけ? きみはあれか、「男なんて、『すごいですねー』とか言ってりゃいいのよ」的な意見を持つ人か。「男が本読んでりゃ、『難しいのを読んでますね、わたしわかんなーい』とか言ってりゃかわいいアピールできるわよ」なんていう必勝テクニックみたいなのを女友達に吹聴してるタイプか。

もしそうだとしたら全然わかってないよ、きみは。

脱線終わり。



福田和也だったと思うが、こんなことを書いていた。

昔、学生といえば、級友とどんな本を読んだか、読んでいないかで競い合ったものだ。誰かがトルストイの『アンナ・カレーニナ』を読んだと言ったら、たとえ読んでいなかったとしても、「おれも読んだよ」と応えておいて、三日三晩徹夜して慌ててそれを読む。「読んでいない」なんて恥ずかしくて言えなかった。

ところがだ。いまの学生は、平気で「読んでいません」と答える。「これは?」「読んでません」「あれは?」「読んでません」といった調子。ちっとも恥ずかしいことだなんて思っていないみたいだ。

だいたいこんな内容だったと思う。

人間、知らないことは多い。というより、ほとんどが自分の知らないことばかりに決まっている。だから「物知り」なんていう言葉はたいていの場合、限定的な意味で用いられる。

でも、だからって「知らない」ということの上にあぐらをかいていてどうすんだよ、という思いが私にはある。知らないことは多いけれども、知らなきゃならないことも多いのではないか。

無知を誇るというのは、知らなければならないことを知らずに済まし、なおかつ開き直るということである。その理窟がわからない。なにも知らない方がいい、ということなのだろうか。

彼ら/彼女らの無知のひけらかしは、好奇心(「知的」を冠さなくてもよいと思う)の抛棄で、まあそれはそれで個人の価値観の範囲にとどまっているからいいのだが、問題は、冒頭のタレントの放った「わかるわけないやん、ねえ?」というような同調圧力であって、「おれたち/わたしたちは、そんなことを知らなくてあたりまえなのだ」という意識の低いところでの横並びを暗に強制している部分だ。

無知の知」という言葉があり、それのもじりで「無知の恥」というのがあるが、無知を少しは恥じることを知っている文化の方が好ましい。デルフォイの神託を受けたわけではないけれども、そんなふうに私は考えている。



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