とはいえ、わからないでもない

2013年05月

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ダッシュボードにこんなお知らせがありましたが、



「トピック」って自動的にあそこにリストされちゃうところがいやなんですよね。数日内に書くと思われる『あまちゃん』第9週の感想だが、書くと掲載されちゃうのかな?

今週のお題」だったら、自分で選択してなんやかんやしたらエントリー(?)するはずなんだけど、どうやら「トピック」は、こちらが望むと望まぬとにかかわらず、任意のキーワードで抽出する、という仕組みらしい。

先日、坂本龍一のことを書いて、その途中にほんのちょっとだけ乙武くんのことに触れたのだが、そうしたら、トピック「入店拒否の是非」みたいなのに堂々とリストされていて、ああいうところに並んでしまうと、私がその是非について論じたがっているように見えてしまい、非常に困る。

「設定」で、




あなたの記事が、自動で「トピック」にリストされてもいいですか?




みたいな質問を設け、そこでチェックボックスにチェックを入れる仕組みにしたらいいのではないか、と思う。あるいはその逆(「あなたはどうしても「トピック」のページに掲載されたくないんですね?」)。

まだ書いていないけど、私がいつものように『あまちゃん』の感想を書いて、あそこのトピックに並んだら、「なんだこいつ、トピック(=流行り)だからって感想書いたりしてんぜ」みたいに見られそうで、いや。恥ずかしくて死んでしまいそうだす。

トピックじたいは面白い仕組みだと思っておりますよ、念のため。一言申したい人、議論を提案したい人、またはブログを書き始めたばかりで注目されたい人、にとっては利用する価値があるんじゃないかと思います。ただ、あたくしの場合は、掲載されない自由を求めているだけでございます。



追記

このあいだ素晴らしい回だった『八重の桜』は「トピック」にしないんですか、はてなさん!

追記2

言ってるそばからこれ(↓)ですよ!

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追記3

これ(↑)、気づいたら「はてなブログの開発ブログ」までがリストされちゃっていますよね。自己言及的というか、ちょっとヘンじゃない?



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落語に限ったことではなく、観劇でも同様のことが言えると思うのだが、観客というのは、金を払ったから「さあ、やってみろ」というものではいけない。

やはり愉しむためにはそれ相応の工夫とか努力というものが必要だと私は思っていて、観劇であれば、面白いところは笑い、驚いたところは驚き、つまり喜怒哀楽の表情を、より大袈裟に振るまい、あわよくばそれが演者に伝わるようにする。

「客なんだから、そんなことする必要ないよ」と考える人は、きっと損をする。その損の仕方は、レストランでの損の仕方と似ているけれど、それはまあ以前も書いたことなので、省略。

5/18、土曜日。大阪は梅田にまで行って、『桂雀々 必死のパッチ 5番勝負』を観てきた。落語会に行ったのは2回目なので、まだ初心者中の初心者なのではあるが、やっぱり観客の方にも「いい高座にするぞ」という気概があるべきだと感じられた。

私が観たのは、5番勝負の2番目と3番目。柳亭市馬立川志らく

会場に入るとネタのアンケート用紙が配られ、各噺家が五席づつを候補として挙げているので、一番観たいものを選んで集計箱に入れる。

市馬は、笠碁、七段目、掛け取り……とあとなんだっけなあ。すぐに記入して箱に投函してしまったので忘れてしまった。

そのときの雀々は、夢八、鷺とり、天王寺詣り、猿後家、疝気の虫。夢八は知らない。天王寺詣り、疝気の虫、は誰かが実際に演じているのは観たことがない。速記本で知っている程度。

私は、市馬は『笠碁』を希望し、雀々は『鷺とり』を希望した。

市馬の方は、小さんの『笠碁』がどのように受け継がれたのかというのを観たかったからで、雀々の方は、やはり同様の理窟になってしまうのだが、枝雀の『鷺とり』がどのように受け継がれたのかというのを観たかったのだ。

集計前に、前座として雀々が『動物園』を演じた。噺の内容よりも、マクラが面白かった。

入門したての頃、自分が雀々という名前をどうもらったのか。枝雀が、その前に命名される前の雀々をすわらせ、そこで硯を磨って、半紙にさらさらさら、と書き、それを見せる。「いいか、きみは今日から『雀々』だ」というやりとりがあったわけではないんですよ、と。

内弟子になってからいくらか経ってある昼どき、枝雀の奥さんが「ねえ、お父さん、この子に芸名をつけてやったら?」、そのときの枝雀、冷麺を口いっぱいにほうばり、「うんうん」言っている。奥さん「ねえ、お父さんったら!」、そうしたら枝雀、口の中に冷麺を詰めたまま「うん、じゃくじゃく」と言って、それで雀々が決定、という話。

一番苦手だったのは電話の受け応えで、当時の四天王からの電話は緊張した。松鶴、文枝はまだわかりやすい。米朝はただただ恐ろしかった。わからないのは春團治。電話の向こうの方でぼしょぼしょ言っているのだけれど、誰だかよくわからない。「もしもし!」とこちらで尋ねるのだけれど、変わらず向こうはぼしょぼしょぼしょ。後ろからそのやりとりを聞いて苛々した枝雀が「誰なの? 誰なの?」としびれを切らす。「いや、よくわからんのです」と雀々。「もう、切ってまえ!」と言う枝雀の命を受けて、「もしもし! すみません、よく聞こえないんで切りますよ!」と雀々が言うと、それまでぼしょぼしょとやっているだけだったのが急に大声で、春團治~!」と怒鳴った、という話(ほんとはもうちょっとつづくんだけど)。

実はこのマクラ、私は3度目くらいだったのだが、それでもやっぱり聞いて面白かった。『動物園』の本篇が終わり、近くにすわっていた高齢のおばちゃんが、娘さんらしき人に向かって「また、あのマクラやったなあ」と言っていた。「そやなあ」「ほんま、何度聞いたかわからんけど、何度聞いてもおもろいわ。よかったわ」

それを聞いていて、いいなあと思った。落語なんて、古典を何度か聞いていれば、絶対に「あ、これは聞いたことがある」ということになる。たとえば現在に残っている古典が200席あったとして、その200席を全部聞けば終わりかっていうと、そういうものでは決してない。むしろそこから、という感じすらする。

何度聞いても面白い、というのはもしかしたら事実ではないかもしれない。笑いというものは、最初に見聞きしたときの驚きが肝要だし、2回目、3回目と回を重ねるごとに、その驚きは失われ、新鮮さもどこかに吹き飛んでしまう。

それでも、「何度聞いても面白い」とそのおばちゃんは思ったのだろう。ヘンな言い方だが、面白いと思いたい、という思いから面白く感じたのかもしれない。少なくとも「あ、また同じや。しょーもな、こればっかりやな」とは思わなかったということだ。



仲入り前ということでアンケートの集計が終わり、市馬は『掛け取り』、雀々は『天王寺詣り』ということになった。

私は「んー?」という感じだった。私は、お客さんからすれば『笠碁』が一番わかりやすいのに、と思っていたからだ。

『掛け取り』は1/26の落語会で米團治が演じていたのを観て、かなり面白いものの、結構難しいのではないか、とも感じられた。

年末の借金の取り立てに来る者の好きなものをいろいろと言葉に読み込んで相手の機嫌を良くし、それで追っ払おうというのが噺のだいたいの主旨なのだが、たとえば相撲好きの人間には、「いつ返ぇせるんだい?」という問いかけに「せめて、馬富士まで待ってくれませんか」というような、いわゆる「もじり」を行う。

これは、かなり集中していて、しかもその分野、たとえば上記の場合は相撲にある程度詳しくないと、多少口調の変化で「今ここで洒落ていますよ」というのはわかるようになってはいるものの、ピンとは来ない(私は例によって「愉しむモード」に入っているから当て推量で喜んでいたけど)。

相撲好き、狂言好き、芝居好き、と来て、最後に取り立てにやってきたのが、「三橋の旦那」。この名前が呼ばれただけで、会場のごく一部から笑い声があがり、すこしざわざわした。

そこですぐに市馬は「三橋の旦那ってのはね、三橋美智也がそりゃあもう大好きっていう旦那で、これは若い方には通じないんだが、65歳以上には絶大なる人気があるっていうそれくらいすごい旦那なんだ」みたいな台詞を入れて、「ああ、三橋美智也を唄うな」と観客にわからせていた。

で、実際に、問答をすぐに三橋美智也の歌のメロディーに乗せて替え歌をしたのだが、これが、本当に一部だけ「うひゃひゃひゃひゃ!」みたいに手を叩いて大喜びしているお客さんがいて、さっきの近くのおばちゃんも「あらー」などという驚きをこぼしながら、喜んで手拍子なんかを入れてしまっている。ここで盛り上げなきゃ損なので、私も、三橋美智也は名前くらいしか知らないが手を打つ。結句、会場は大盛り上がりをする。

だが、だ。

一方で、やはり近くにすわっていた40代くらいの女性が「えーわからない」を小声ながら連発する。それを聞いて、そりゃそうだろうなあと思いつつも、でももうちょっと盛り上がろうぜ、と感じる。

見ていると、手拍子も打たないし、どころか、市馬が気持ちよく、しかもものすごく上手に唄っているところを、退屈そうに首などを回し始める。で、また小声で隣の同年代の女性に「わかんないんだけど」と耳打ちしている。相手はうんうんと頷く。

もうね、こういうのが視界に入るだけでシラけてしまう。なんというか、そりゃ態度が違うだろ、と思う。客を批判するなんて言語道断だよ、とかつてこのブログで私自身が書いたことがあって、それに矛盾するようだが、あんたの「わかんないアピール」はもうわかったよ、と言いたかった。

あのね、古典落語、しかも市馬は東京の古典落語だけど、もし市馬が三橋美智也を唄わなかったら、あんたはそれ以外は一言一句すべて理解できたっていうのかい? そんなことないだろ。落語なんて、時代設定によってわからないもの、わかりにくいもの、通じにくいもの、があるし、まして演者の声ひとつがたまたま聞き取れなかったというだけで、ひとつのくすぐりの意味がわからなくなってしまうということもあるんだよ。それなら、その噺はすべて「つまらないもの」になってしまうのかっていうと、決してそうじゃない。それを補うのが、想像力なんだよ。落語の観客に一番必要なのは、想像力。想像力で「ああ、たぶんこれはこういうことなんだろうなあ」と推量し、それで面白がるんだ。三橋美智也を知らないのは全然構わないけれど(私も知らなかったし)、けれども同じ会場にいて「げひゃげひゃ」と狂ったように腹を抱えて笑っているおじさんが、あんたの隣の隣にいるでしょ。それを見ているだけでも笑えない? なんでこんなにおかしいのかなって。そんなにおかしいのなら、自分が笑えないっていうことが少し悔しいとか思わない? どこかで笑ってやろう、とか思わない? ああ自分が三橋美智也を知っていたらもっと笑えたんだろうな、でもあれ、これって私の場合だと郷ひろみとかに当たるのかしら、とか、そういう想像をしてみたりしない? それがはたして面白いかどうかはわからないけれど、少なくともその想像している時間は退屈には感じないでしょ。市馬は、そこらへんの半可芸人なんかじゃなく、本当に一流の芸の持ち主だよ。それをたかがひとりの歌手を知らないってだけで、誰に対してのアピールなのか知らないけど「わかんなーい」とやるには、態度が幼稚すぎない?

市馬の唄を愉しんで手拍子を打ち、背を丸めて椅子から転げ落ちそうになっているおじさんと、一緒に唄い出しそうになるおばさんを確認しつつも、「わかんなーいアピ」女性のほんのちょっとのつまらない態度のせいで、心にさっと影が走るというような気持ちになってしまった高座だった。もちろん、市馬は悪くないです。こういうふうになるんじゃないか、と予め危惧したということもあって、私は『笠碁』を希望したんですけどね。

そうそう。あらためて断っておくけれど、『掛け取り』を望んだのはお客さんの方だから。



『天王寺詣り』に決まってちょっと渋っていた雀々。というわりにはきちんと演じていたようには思うのだが、生意気なようなことを言うが、こなれた感じというのはなかった。「こなれた」というのは「自家薬籠中に入っている感じがある」ということだ。

噺の内容じたいに、それほど笑いどころはない。けれども、後半に彼岸中の天王寺界隈の出店の様子が語られ、たとえば「早鮨握り」や「覗きからくり」の呼び声、そして「ガマの油売り」の口上(ただしそれほど長くない)などがあって、ここらへんは非常に楽しい。楽しいのだが、「うわあすげえ」という楽しさなので、笑い声はほとんど上がらない。時代考証的な楽しさなんだろう。

けれども。

くすぐりがあまりないという点から、なんとなく会場が重くなってしまっていた。声が上がらないというのはわかっていても、お客さんの持っている「気」が雀々の方に行っていない、というのは客席にすわっていてもわかった。私ですら感じられたということは、舞台の雀々からしてみれば結構辛かったのではないか。

人形の物売りだか口上だかのとき、「あのう、お客さん、ついてきてます? わたくし、ヒジョーに孤独を感じながらやっているんですけれども」と言って笑いを取り、現代人にはほとんどわかりにくいその人形の説明を行なっていたが、「孤独を感じている」という台詞はわりと本音だったのではないか、と思う。

たとえば『手水廻し』のような、誰にでもわかるような滑稽話と違い、『天王寺詣り』は、人情噺では決してないけれど、わりあい難しい噺だと思う。そんなのをやるべきだったのか、と私などは思った。

なにせ独演会であるから、毎回来ているお客さんからは、「もう『手水廻し』(は選択肢になかったけれども)はええから、いつもと違うのにしよ!」と選んだのが『天王寺詣り』だったのかなあ。だとしたら、そのチョイス、私は失敗だったと思いますよ。『鷺とり』でよかったと思うんだけどなあ……。

というのが、2番目の大まかな感想。ちょっと長くて疲れたので、つづきは次回。



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アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』を読了。







圧倒された。まさしく、「圧倒」という表現がふさわしい。

翻訳の格調の高さのために、冒頭から引き込まれる。




まさに黄金時代だった。雄渾な冒険が試みられ、生きとし生けるものが生を謳歌し、死ぬことのむずかしい時代だった……しかし、誰ひとりそんなことを考えてはいなかった。これこそ、富と窃盗、収奪と劫略(ごうりゃく)、文化と悪徳の未来の実現だった……しかし、誰ひとりそのことを認めてはいなかった。いっさいが極端にはしる時代であり、奇矯なものにとって魅惑的な時代だった……しかしそれを愛するものとてなかった時代なのである。

(9p)




それでは、いったいそれはどんな時代だというのか。

時間だけを言えば、25世紀! しかしその時間の経過以上に、この世界ではわれわれの知らない「技術」が発達していた。

木星の衛星カリストの研究所で、ジョウントという名前の学者が、ある火災事故で自らが炎に包まれている最中、20メートルのテレポーテーションを行った。それは、偶発的な「事故」だった。

それからこの「ジョウント効果(エフェクト)」は研究者たちによって徹底的に調べられ、ついに技術体系として確立されるまでに至った。人は一瞬にして空間を移動することを「ジョウントする」と言った。

ジョウントによって、世界はまったく変わり、その中で、本作の主人公ガリー・フォイルの物語が始まる。



宇宙船《ノーマッド》は、ある艦船に砲撃されてばらばらになり、そのたったひとりの生存者である機関士ガリーは、宇宙空間の中を170日間漂流していた。

171日目、その《ノーマッド》の視界内に、奇蹟的に宇宙船が通った。船名は《ヴォーガ》。

ガリーは、救難信号を発信し、《ヴォーガ》による救助を待った。《ヴォーガ》はゆっくりと接近し、《ノーマッド》を偵察してのち、それからなにもしないまま離れていった。《ノーマッド》を見捨てたのだ。




「きさまはおれを見すてたな」ゆっくりこみあげてくる激怒をこめて彼はいった。「おれを見すてて犬のようにくたばらせようとするんだな。おれをこのまま見殺しにするのだ。《ヴォーガ》……《ヴォーガ・T・一三三九》。いいか。おれはここを出てやるぞ。きさまについていくぞ、《ヴォーガ》。きさまを見つけ出してやる。この仇をとってやるぞ。滅ぼしてやる。殺してやるぞ、《ヴォーガ》。殺してズタズタにしてやる」

胸をやきつくす激怒は、これまでガリー・フォイルをつまらない人間にしていた残酷な忍耐と不活発さを食い荒らし、つぎつぎに爆発する連鎖反応をうながして、ガリー・フォイルを地獄の機械へと変えた。彼は誓った。

「《ヴォーガ》、おれはきさまを徹底的に殺戮してやるぞ」


(35p-36p)




かくして、既述したように、ガリーの物語が始まるのだが、それは、ただの物語ではない。暴力と破壊と狂気と呪詛とに彩られた復讐譚なのだ。



あらすじに触れるのはこれくらいまでにしておくが、本書は、文章・文体の強度、揺るぎない世界観の他に、それらを支えるSF 的装置がたまらない。ジョウンティング、謎の物質「パイア」、ときおりあらわれる燃える男、外衛星同盟と内惑星連合、気違いじみたサーカス、精神感応者テレパス、科学的民族、憤怒とともに浮かび上がる刺青、エルスウェア、エルスウェン、そして、加速装置。

そう。ガリーは物語後半あたりで「加速装置」を使う。たしか歯に設置しておいて、それを舌で触れると自分ひとりが加速した世界で行動できるというものだが、これ、わかる人にはわかると思うのだが、石ノ森章太郎サイボーグ009』の主人公、島村ジョーの必殺技とほとんど一緒なのだ。ジョーも奥歯を噛むとスイッチが入る、という設定だったはず。

いやあ、これには読んでいてびっくりした。あのジョーの「加速装置」という技はかっこいいなあと思っていたので、ちょっとがっかりしたくらい。

『虎よ、虎よ!』は1956年(!)に刊行され、日本では58年に『わが赴くは星の群』のタイトルで翻訳された(その後64年にこのタイトルとして再刊)から、おそらく石ノ森は、「これは!」と思ってアイデアに用いたんだろうね。あからさまなパクリだとは私は言わないけれど、まあでも、「丸パクリ」と誰かが言ったってそれを咎めることは無理。それくらい、重要で魅力的なアイデアだと思う。

物語の最後の50ページでものすごい表現が行われる。有名なのでその「ページ」をアップしてみる。




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え? え? え?

誤植? いや、そうじゃない。これがただのハッタリなんかではなく、必然性のある表現というのだから、感服・心服・敬服し、そして驚倒し、圧倒されてしまう。

しかし残念ながら、この作品はかなりわかりにくくなっている、と思う。私が先の展開を急いでページを早く繰り過ぎたせいかよくわからない点がいくつかあるし、そもそも、ラストをの部分をはっきりと「わかった!」と言うことができない。時間が、空間が、いまいちどうなったか把握できていない。

けれども、予定調和という観点にまったく背を向けているような、この小説の爆発するような展開の仕方が好きだ。作者の情念が主人公に乗り移り、そこに主人公の激昂が加わり「加速」した結果が、このエンディングなのだと思うことにした。またいつか読むこともあるだろう。

なお、翻訳家の浅倉久志は、本書の解説で「十年に一度の傑作」としているが、いやいや、そんなもんじゃないでしょ。分母は「半世紀」だと思う。

ちなみに、タイトルの「虎よ、虎よ!」はウィリアム・ブレイクの詩からとられている。




虎よ! 虎よ! ぬばたまの

夜の森に燦爛と燃え

そもいかなる不死の手 はたは眼の

作りしや、汝がゆゆしき均整を




これが、本書のエピグラフとして掲載されている詩の冒頭部分だが、これが他の訳ではこのようになっているようだ。




虎よ! 虎よ! あかあかと燃える

闇くろぐろの 夜の森に

どんな不死の手 または目が

おまえの怖ろしい均整を つくり得たか?






さらなる蛇足になるのかもしれないが、最後に、解説に記載されていた作者本人のコメントを引用しておく。




わたしの奇妙な信念からすると、本を読むことは、本を読む以上の何物かでなくてはならない。それは、全感覚的な知的体験でなくてはならないのだ。

(436p)





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いろいろと時間がなくて、なにもできないまま……。

ところで、はてなブログのスターコメントってなくなってしまったのかな。

私の見ているところだけの話かもしれないけれど、気づいたら、なくなっているような気がする。

あと、ここ数日の話なのだが、YouTube 上の操作で不具合が生じている。

現状としては、下の画面での「共有」だの「追加」だのをクリックしても反応しなくなってしまった。




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私は、Google Chrome に、「はてブのエクステンション」(はてな公式)を入れていて、最近、これが更新されたようだ。

更新理由は、ブラウザで戻りすぎてしまう原因になっていた、ということで、それを知ったとき、「あれってこれのせいだったのか!」と少しムッとした。単なるブラウザ上の誤動作と思っていたものの意識下ではかなり苛々の原因となっていたのだ。

それで、今回そのエクステンションが新しく更新された時期と、YouTube が動かなくなり始めた時期がちょうど一致するような気がして、「またか!」と思ったのだが、いちおう、エクステンションを外したり入れたりと実験した結果では、エクステンションとの競合という可能性は低そう(つまり、どっちにせよ動かない)。

原因はなんなんでしょうか。あまり複雑なことをやっているつもりはないのだけれど、単純な操作すらできなかったりすると、時間がないぶん苛々しますよ。



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  • いよいよ忠兵衛さんが出立

  • みんなで家族写真を撮るという段になって、天野家(夏、春子、アキ、忠兵衛)にくわえて正宗さんもそこに加わる

  • 写真の中央は夏ばっばで、その前の忠兵衛さんが「天野家の家長は、夏ばっば」という台詞をきちんと反映している

  • 先週から、ネット上で『潮騒のメモリー』に関する考察やらレビューやら*1がいろいろと見受けられ、「なんでみんなそんな歌詞が聞き取れたのかなあ」と思っていたら、「字幕あり」で観ていたということが判明

  • 今週は、字幕つきで観ていない人たちのためにもちゃんと歌詞が出ていて、そうでなくても「ふんふふーん、ふんふふーん、ふんふんふんふんふーん」と鼻歌をよく唄っている私としては、この曲じたいが欲しくなっている

  • で、2008年ももう終わりで、クリスマスツリーのうしろに隠れてユイが種市先輩を待ちぶせ

  • 「アキちゃんのことどう思ってるんですか!」と種市くんを詰るユイだが、こんなに鼻声だったっけ、橋本愛って?

  • 「アキと私は『いちれんたくお』」と言ってはばからないユイだが、直後にヒロシに訂正されたように、それは「一蓮托生」でしょう

  • というより、「一蓮托生」という言葉まで知っているのに、その「読み」を知らないっていうのも不思議だよなあ(本で読んで知ったってことか?)

  • 「生」を「お」と読むより、「托」を「たく」と読む方が難しい

  • いわゆる「百姓読み」で「たく」が読めたとして、そう推察するくらいの知識があるのなら、「生」を訓読みすることはないと思うんだけど(ま、ギャグだからいいんですけれども、ちょっと無理を感じたので)

  • 「アキちゃんは先輩のことが好きなんです、それなのに気づかないフリして『頑張ってるな』なんて残酷です」というユイの台詞には、一理ある

  • でもそれだからといって、種市先輩がアキに話しかけるたびに「天野、おまえのことは別に好きじゃないんだけどな、」といちいちことわっていたら、それはそれでやっぱり残酷なわけで、きっと「気づかないフリ」には、残酷さと優しさが同居しているのだろう

  • その頃アキはテストをしていて、結果、磯野先生に「頑張っているおめが大好きだ、でも(100点満点中)3点だ、おつかれ」と言われる

  • スナックリアスで、水口琢磨(松田龍平)のあだなは「ミズタク」になる

  • みすずに上手を言うミズタクの台詞にみんなが盛り上がり、それで苛つくアキだが、こういうところをもってしても、アキってやっぱり自分勝手な人間なんだよな

  • アキ嫌いの私からすると、彼女は決してイノセントというわけじゃない

  • 周りの状況が見えていないから察しが悪く、それはよく言えば「自分の思いに純粋」ということになるのだが、裏を返せば自分のことしか考えていないってことになる

  • ミズタクっていうか松田龍平の持っている気持ち悪さってすごいな(悪い意味で)

  • アキでなくとも、「なんだこいづ?」ってなってしまう

  • ミズタクにアキを「ふつうにかわいい」と言われて春子が立腹、「『ふつうにかわいい』と言われて喜ぶ親がいると思う? 親は『異常にかわいい』と思ってるのよ」ってまさにその通りなんだと思う

  • 虫が入っていた琥珀をなんとなしに捨てたミズタクに、「じぇーっ!!!」と驚く勉さん*2だが、その捨て方に、ミズタクの「琥珀なんてほんとはどうでもいいんだよ」と思っている感じがみえみえ

  • これでもう何度目になるかわからない種市くんとの妄想にふけるアキに、苛つくユイ

  • アキの焦らなさに、ユイはかえって焦りを感じてしまうのだろう

  • ヒビキ(というか、こいつは北三陸住民なのか?)の「ジモドル(地元アイドル)」論が面白い

  • 人気が出ると、稀少価値がなくなるということで、いったん人気が落ち着く(地元アイドルだけじゃなく、地下アイドルなんかもそういう傾向があるよね、たぶん)

  • 「ブス」という匿名の書き込みに怒ってヒビキの胸ぐらをつかむアキだが、こういうアキが一番面白い

  • 一方、天野家では、なぜか大吉を交えて正宗さんと春子が離婚の談判をしている

  • 要約するに、春子は北三陸の町で変わりたいと思っているのだが、正宗がいることで変われなくなってしまう、だから別れてっていうことらしい

  • 「サンタクロースがいる」と発言するアキに、ヒビキが「目に余る不思議発言が痛々しい、天然ぶってんじゃねえよ、天然ブス!」とすげえ批判

  • 吉田くんもアキに「いいかげんにしろよ」と声を荒らげるのだが、たぶん私は、ヒビキとか吉田くんの視点に立ってアキを見ている

  • 吉田くんに「なんでカッパがでてくんだよ!」と顔を歪めて怒りをあらわにするアキだが、やっぱりこういうアキが一番自然で面白いと思う

  • クリスマスイブの夜、サンタクロースになった正宗さんの変装がプロ級で、夏が腰抜かしそうになるのも無理はない

  • サンタの口から、アキに離婚を告げる正宗さん

  • で、ほんとのほんとに正宗さんと春子の離婚は成立し、正宗さんはイブの夜に天野家を出て行く

  • みんなと握手をして別れる正宗は、この物語中では際立って不思議な存在

  • 春子がアイドルを目指していたということがアキに顕れたとき、あのとき、なにくわぬ顔で『潮騒のメモリー』をカラオケに入れたのは正宗だった

  • 多少の逡巡は見せるものの、春子の「わがまま(離婚)」に最後までつきあってみせるのも正宗

  • そういう意味では、春子と同等に位置にいるというよりは、もうちょっと俯瞰した立場にいるのが正宗なのかな、と思う

  • 正宗にとっては春子が幸せになるのがなによりも大事なことで、それだからこそ春子の主張(離婚)を聞き入れた

  • (正確なことは言えないが)おそらく無趣味そうな正宗は、春子とアキという家族がいなくなってしまえば誰よりも辛いはずなのに、だ

  • そういうことを斟酌して、最後に春子と別れるときの「春子さん、幸せにしてやれなくてごめんなさい、アキと一緒に幸せになってください」という台詞を聞くと、なかなかこみ上げてくるものがあった

  • 三陸のほとんどの人たちは、(春子の態度も鑑みてか)正宗に対してちょっと小馬鹿にしたような、見下したような態度を取っているのだが、それは彼の意外に大きな器を認めてしまうのが怖かったからではないか

  • 春子もずっとその器の大きさを認めてこようとしなかったけれども、最後の最後でそれを素直に認めたから、「なんか泣けてきた」と思わずこぼしてしまったのだと思う

  • 以上が、私の好きな黒川政宗像*3

  • なお、ここで細馬宏通さんの面白い記事がちょっと話題に

  • 「潮騒のメモリー」クロス・レビュー(『ミュージック・オン』誌/1986年) - FISHING ON THE BEACH

  • こういう知的でユーモアのある文章を書きたいものですねえ(元ネタをよく知らないけれど)

  • 年も明けて2009年も2月

  • 磯野先生による潜水士試験の合格発表

  • 「青木……大野……坂本……(と3人を喜ばせておいて)以外は、全員合格!」というくだりは、実に舞台っぽい(で、もちろん楽しい)

  • 合格と聞いて喜び、教室を出て行くアキの背中に向かって、先生「そんなに自由か!」

  • その飛び出して行ったアキは、種市くんのもとへ直行し、あげく誤ってプールへどぼん

  • ここで私はいつも通りげんなりしてしまうのだけれども、このげんなりをより多くの人に共有してもらうために、「もしもアキが男で、種市くんが女だったら」という想像をお勧めする

  • 「先輩が、先輩が」とつね日頃にやにやしているのが男子高校生だったら、「純粋でかわいい」とはあまり思えなくなるんじゃないかなあ

  • でもどうなんだろう、かえってその場合の方が、女性は素直に「かわいい」と思えるのかも

  • というと、女のアキに対してどうしようもない苛立ちを感じてしまう私には、根本的な女性的視点が含まれているのだろうか

  • さっそく、「合格したので今日デートしたい」と種市くんに申し出るアキに、「頑張りゃいいってもんじゃねえべ!」

  • このやりとりを棚に隠れて(隠れてないけど)じっと見ている磯野先生の子どもらしさ

  • 種市くんに突き放されてしまったアキの足元だけが映され、そこには、プールに落ちたために身体中から水がぴしゃぴしゃと滴っていたが、これはアキの泣いている心象表現だよね

  • 足立先生、大吉っつぁん、吉田くんとで北鉄廃線の危機を論じる

  • 大吉が北鉄は市民の大事な足だ、と主張すると、足立先生「バスでまかなえる」(過疎地域あるある)

  • 北鉄開通25周年ということで、お座敷列車の案が出るが、これはモデルであろう三陸鉄道のお座敷列車のことだろうと思うので、以下もご参考に

  • 企画列車一覧 - 三陸鉄道

  • ウニ丼1,300円が「新発売」ってあるから、これは『あまちゃん』の影響かも(いづれにせよ、こういうのをきっかけで盛り上がってくれればいいなと思います)

  • 観光協会で、足立先生、大吉、吉田くん、菅原、ヒロシ、「5時わん」のディレクター、それにアキとユイたちが企画会議

  • ヒロシ、というか小池徹平、左利きなんだあ!

  • お座敷列車がわからないアキとユイに栗原ちゃんが説明するのだが、ちっとも伝わらない

  • ユイの「座敷わらしが走るんですよね?」という発言は、「天然アピール」を意図したものかと思っていたけど、あとでディレクターに「カットしておいてください」と言って、「あ、素だったのね」と思った

  • アキとユイたちは、そこで「ファンの集い」という名の「お金集め」に協力してほしいってわけ

  • 企画段階から取材するためにディレクターがカメラを回しているのだが、しかしこの人たちってカメラに未だに慣れないらしく、吉田くんと菅原はカメラを直視してしまう癖が抜けない(で、それがいちいち面白い)

  • ユイと口喧嘩しているときに、「いや、キレてねぇし!」と人差し指をちっちっと左右に振るのだが、これって長州小力のネタで、あれって2008年に流行ったんだっけとWikipedia を見てみるが、記述を見るに、活躍していたのは2005年~2007年のことだったみたい(だから、ヒロシのギャグは、ちょっと時代遅れってことになる)

  • この企画で北鉄は大逆転しなければいけない、という大吉の発言に、ユイ「重ッ」

  • でも、この「重ッ」とか「早ッ」とかいう表現って、2009年の時点であったのかなあとちょっと気になった(私自身が絶対に遣わない表現なので、いつ頃から遣われだしたのかはわからないんだけど)

  • なんだかんだで、「JJ ガールズ」のふたりに歌を唄ってほしいということに

  • ここで、『潮騒のメモリー』を唄ったのは鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)だということが判明、いまや日本を代表する実力派大女優だそうで

  • 試しに唄ったアキに、ナレーションまでもが「なんとも言えません……」

  • 「笑えるほど下手でもねえんだよなあ」という吉田くんの評

  • ついでユイも唄うと言い出し、大吉「これは期待していいんだよなあ?」、ヒロシ「ええ、ボイストレーニングとかやってましたから!」というこの壮大な前フリ感

  • これも結局、「微妙」という烙印を押されてしまうユイだが、唄ったのは(私の大好きな!)原田知世の『時をかける少女

  • ここで、本物を聴きましょう(ボサノヴァ・ヴァージョンで)





時をかける少女 / 原田知世






  • アキの歌もユイの歌も、大感激した人がひとりだけいるのだが、それが勉さん

  • 「北三陸越路吹雪」こと弥生さんが、ふたりに歌の特訓をすることに

  • 3月になり、学校では磯野先生が生徒たちに、ビートたけしのモノマネを熱心に教えています

  • 三陸駅では、ユイと種市くんが急接近(しかしそれにしても橋本愛は鼻声だなあ)

  • アキは高音になると白目を剥く

  • 種市くんの「ちょっといい?」をデートのお誘いだと思ったアキは、北鉄の車輛倉庫へ

  • そして、都合よく電源ブレーカーが落とされて真っ暗に

  • 夜の観光協会で、誰もいないと思いひとり窓ガラスに向かって踊る栗原ちゃん(頭の中ではTM ネットワークの『Get Wild』がかかっていたんだとか)

  • そこへ、デートに行ったアキを思い傷心したヒロシが登場、踊る栗原ちゃんを無言で見つめている

  • ヒロシの存在に気づいた栗原ちゃん「死にたい……」、ヒロシ「海、行きませんか?」、栗原ちゃん「ぜひ……」

  • スナックでは、「このへんでデートするって言ったら」「モーテルしかないでしょ」のやりとりが、勉さん、菅原、吉田くんの順番で、いわゆる「天丼」

  • モーテルの話題に、「別に平気ですよ」とうそぶいていたユイだが、最後の吉田くんの台詞には「さすがにイラッとしてきたなあー」

  • で、この「イラッとする」の表現にも引っかかる

  • 「イラッとする」ってのも、わりと最近の表現のような気がして、2009年に遣われていたのかがよくわからない(これも私自身が絶対に遣わないので)

  • 春子の「逆に、東京に住んでいると原宿には行かないけどね」というのはすごくよくわかる

  • その「原宿」のキーワードがアンテナに引っかかるユイ、いつもの「原宿には表と裏があるんですよね」

  • 真っ暗になった車輛倉庫では、種市くんとアキとが焚火をして話している

  • 「東京へ行くのは、ここ(北三陸)が一番いい場所だと確認するため」という種市くんの台詞は、忠兵衛さんと一緒

  • いきなり唄いだすアキに、「ぶっ壊れたのかと思ったべ」という種市くん

  • 『潮騒のメモリー』という言葉で、三島由紀夫の『潮騒』について話す種市くん、ミシマを読むんだねえ

  • そして、種市くんの言葉を「火を飛び越えて来い」と勘違いして受け取り、実際に焚火を飛び越えようとするアキ

  • 「おまえが飛び越えるのか?」という種市くんの発言は、きっと観ているみんなも感じたこと

  • スナックで、大吉の「1984年といえばこれがあるべ!」のきっかけで流れるイントロにぞわっとした





Jump / Van Halen






  • いやあ、うまいぜクドカン、この場面でこういう使い方をしますか



1984

1984






  • 説明するまでもなく(といって説明するけど)、このヴァン・ヘイレンVAN HALEN)の『1984』というアルバムの2曲目に、この大ヒットした「Jump」が収められている

  • サビの歌詞は、"Might as well, jump! / Go ahead jump!"で、「ジャンプした方がマシさ、さあジャンプするんだ!」ってな意味だと思うから、歌詞もアキのシチュエーションにぴったり

  • でも実際に飛んできたのは、携帯電話を取りに来た吉田くん

  • ここで、音楽担当の大友良英のツイートで、ちょっと気になるものが








  • ということで、6/19に発売されるサントラ「第一弾」の売れ行きが好評であれば、「第二弾」として、『潮騒のメモリー』そして「南部ダイバー」の入ったサントラが発売されるかも(出たら、たのしみ)

  • 今年の紅白で、もしかしたら能年玲奈橋本愛とが出場し、『潮騒のメモリー』を唄ったりして

  • そのアキとユイのユニット名は、「潮騒のメモリーズ」に

  • お座敷列車の5,000円のチケットは完売し、増便

  • 観光協会に、またカメラが入っている

  • 大吉、吉田くん、菅原、そして遅れてヒロシと栗原ちゃん

  • で、その撮影中に、妙に勘のいい吉田くんが、ヒロシと栗原ちゃんに「ふたりは、つきあってるんですか? ふたり揃って遅刻とか怪しいと思うんですが」

  • おそらくヒロシとつき合い始めた栗原ちゃんが、すっかり可愛らしくなっちゃいまして

  • アキとユイの猛特訓はつづくのだが、アキは白目を剥くし(「5時わん」のディレクターいわく「ぎりぎりアウト」)、ユイは心ここにあらず

  • 練習が終わり、反省するユイの「うまく唄おうとしちゃダメなんだよなあ、きっと」という台詞は面白い

  • 「アイドルには特別な歌唱力は要らない」っていう考えに基づいているでしょ、この発言は

  • これは、「カフェには特別うまいフードメニューがなくてもいい」という友人の持論に通じるものがある

  • どちらも、下手すぎだったり不味すぎであったりしてはもちろんいけないのだが、本質的に、勝負するポイントはそこじゃないっていうことなんだよね

  • そういう視点を持っているユイに対して、ただただ「たのしみ!」と言ってしまえるアキの存在が苛立ちの対象になるのは当たり前

  • そこへもって「種市先輩」のキーワードで、ユイの怒りは沸点に到達、机を叩いて「遊びじゃないんだよ!」

  • けれどもすぐに怒ったことを謝ってしまえるユイは、「自分をどう見せるか」「自分がどのように見えるか」ということに対してものすごく意識過剰なのだろう(もちろん、純粋にアキに対して申し訳ないという気持ちもあるのだが)

  • そういうトータルを全部さらけだしてしまえるのなら、彼女のアイドルとしての魅力はもっと増えると思うのだけれど、ユイはそこに気づいていない

  • つまりセルフプロデュースができているようで、できていない

  • あ、机叩いたときに、ユイが持っていたのがコントレックスっぽくNHK が作った偽物だと判明(continax みたいな文字がかろうじて読み取れた)

  • ユイを怒らせたと家で落ち込んでいるアキだが、種市くんのことを思い出してにやにやにや

  • そこへ、階下から春子の呼ぶ声、「アキ、ちょっといらっしゃい」が聞えてきて、この台詞だけで、「誰か客が来ているのだな」と判断することができる

  • ふだんの春子なら、「アキ、ちょっと降りて来な」とか「アキ、ちょっと来て」と言うだろうから

  • つまり春子も、よそ行きの言葉をしゃべることがあるのだなということがわかる

  • で、来ていたお客さんというのはユイのお母さんの八木亜希子

  • 八木亜希子、やっぱりきれいだよなあと思った

  • 小泉今日子も若いけど、八木亜希子は40そこそこくらいかなあと思ってWikipedia 見てびっくり、小泉も八木も、ふたりとも同い年で、47歳!

  • で、そのユイちゃんママが作ってくれた海女をモチーフにした衣装は、痩せている能年玲奈が着ていれば、まあかわいいと言えなくもない、というところだが、これ少しでも太った人が着ちゃえば、今くるよ(人名)ですよ

  • そしてユイママが語る素のユイ像およびユイのスケッチ(衣装デザイン)は、アキだけでなく視聴者も多少は驚いたのではないか

  • その話に感動してしまったアキは、泣きながらポーズを取って衣装撮影

  • そして、春子とユイママは、振り付けまで考えるのだが、子どものことなのに親の方が盛り上がっちゃうっていうのもよくある話

  • このふたりのシーンはものすごく楽しそうで、アドリブっぽいのだが、正面からカメラを固定しているところから見ると、「すみませーん、小泉さん、八木さん、おふたりでちょっと実際に振り付けを考えて、カメラの前で実演してみてくださーい」と指示されたのではないか

  • ところが、アキと電話するユイの後ろには種市くんが……

  • ヒロシと栗原ちゃん(それにしてもネイルアートが麻雀牌って……)の関係は公然のものとなり、みすずさんとミズタクがなにやらいい感じなのだが、ミズタクの胡散臭さ、松田龍平の胡散臭さは、まったく消えない

  • 歌の練習の休憩中に、アキが東京を懐かしく思う、とユイに言うのだが、たしかにそういうことってあるよなあ

  • 私も東京やら横浜をバカにして、関西の田舎村にやってきたが、ここはここでいいというのがわかっているけれど、それとはまったく別の感情として、東京・横浜が懐かしいなあというのはよく思う(というより、単に「今この場所/今ここにあるもの」が嫌いなだけなんだと思う)

  • 場面転換し、アキが泣きながら自転車を漕いでいるシーンに

  • そして、潜水土木科の準備室で、アキがついに種市くんに「つきあってほしい」と告白し、ものの見事にフラれて、どころか、こてんぱんにノックアウトされる

  • 「自分(ずぶん)、ユイが好きなんだ……つかもう、つきあってる、正式につきあってる、バリつきあってる、遠距離恋愛だ、遠距離恋愛バリバリだ!」

  • ユイが「あの人、本当のことなかなか言わないから」と言っていた種市くんが、いざ「本当のこと」を言ってしまうと、笑ってしまうくらいの総攻撃になってしまっていて、やっぱり噴き出してしまった

  • アキはノックアウトされてしまった、というか、倒れて伸びてしまったところへ観客の投げたリンゴやらジュースの缶やらが顔にぶつかり、昂奮したセコンド陣が大挙してリングに上がりアキのことを踏みつけ、踏みつけたまま種市くんのことを肩に担いでワッショイワッショイやっているようなもの

  • で、アキが泣きながら自転車を漕いでいるシーンに戻る

  • つまり、上の告白のシーンは回想だったというわけで、面白い構成

  • で、さらに回想が挿入され、種市くんとユイがつきあい出した理由、というより、ユイが種市くんに傾いた理由は、種市くんが「おれ」と言ったことと、種市くんが東京に行ったらお台場に住むことになる、という2点のみ、ということがわかる

  • かつておつきあいしていた九州出身の女性が、「標準語に弱い」と言っていたことがあるが、種市くんの「おれ発言」に揺れたユイの心も、きっとそんなもんだろう(反対に、私は方言女子に弱い)

  • 「東京のどこに住むの?」と訊くユイは、「練馬とか……」と例を挙げ、そこで種市くんが「お台場」と言ったら突然態度急変(練馬だったらつきあわなかったとでも言うつもりか!)

  • お、おまえに練馬のなにがわかるっていうんだよー!(私もわかりませんが)

  • そして自転車を漕ぐアキは、失恋の失意によって『E.T.』('82)状態で突堤から空に浮かび……「んなわきゃない」とばかりに、ぼっちゃーん、と海に落下し、つづきは来週に



*1:そういうのを見る限りじゃ、とても「5分」で考えたと思えないくらいの「仕込み」がいろいろとあるらしい。


*2:虫の入っている琥珀は非常に貴重らしい。


*3:「くろかわ・まさむなかた」じゃなくて「くろかわまさむね・ぞう」



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2013年の英ブッカー賞の「国際版」を受賞したリディア・デイヴイスの著作を読みたい、とジュンク堂のネットストア*1で『ほとんど記憶のない女』を註文していたのが、きょう届いた。




ほとんど記憶のない女 (白水Uブックス)

ほとんど記憶のない女 (白水Uブックス)




これは短篇小説集で、これに限らず、彼女は主に短篇を書いている作家とのこと。



たとえば、上掲書には、こんなのがある。






ある女が何年も前に死んだ男に恋をした。男のコートにブラシをかけ、男のインク壺を磨き、男の象牙の櫛を指でなぞり、それでも足りずに男の墓の上に家を建て、来る夜も来る夜も湿った地下室で男のそばに寄り添って過ごした。

(50p)




以上である。物語の冒頭の一文、というわけではなく、これだけなのである。

これが面白いのかどうか、よくわからない。私個人の率直な感想としては、この文章にすぐ評価を与えるのではなく、私の中でしばらく醸成させておきたいと思った。それがいつかなにかに変るのかどうかはまったくわからないし、そんなことは全然期待もしていないのだが、上記だけでなく、この短篇集に収められている「『ぽんと膝を打つ感じ』のまったくない感じ」は、嫌いではない。その感触を無条件に信頼してしまうのは、おそらく自動筆記などとはまったく由来の異なる、きちんとした教養・思想に裏打ちされた文章のせいだと思う。



*1:最近私はアマゾンを利用していない。



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朝5時起きがずっとつづいていて、そのくせ早寝は嫌いなので、「実質睡眠4時間」を一週間ほどつづけていたら、まず喉が痛くなった。

はじめは、あまりにも暑いために自販機で購入したウィルキンソンのエクストラドライのジンジャーエールのせいかと思っていたけれど、そのあとラジオでの天気予報で「今日はPM 2.5が少し飛散しているようです」などというアナウンスメントを聞くと、「ああ、この喉の痛みはきっとそれによるものなんだな」などと解釈していた。

それが、翌日になっても、そして翌々日になっても治まらない。どころか、昨日になって洟水がずるずると出るようになり、それにくわえて咳も出るようになった。そして、やけに疲れる。たぶん、風邪だ。

一方で、私が借りている畑の傍に毎年お茶を摘みにやってくるおばさん(といっても70歳は優に超えているはず)が、昨日、その年に一回の茶摘みにやって来て、一日中、野外で他のおばさんたちと一緒に仕事をしていた。

いちおう昼飯どきにはいったん家に帰っていたとはいえ、8時から17時までずっとお茶っ葉を摘んでいて、あの人たちはぶっ倒れないのだろうかと少し心配になったが、そんな心配をよそにするくらい、彼女たちは私などよりよっぽど元気だ。

近所の人に聞いたそのおばさんの噂っていうのは、「女にしておくのは惜しい」という、今の時代でいえばフェミニストが眉をぴくっと顰めるような評価に基づいていて、戦後直後からいろいろな商売をやってきていた。

たとえば米作りをした後にできる村中の藁を集めてブドウ農家かモモ農家に売ったという話や、あるいは鶏をたくさん飼っていて卵や鶏肉を売っていたという話、そしてお茶っ葉を村中で摘み集めて乾燥し、それを大きな商家に持って行って売っただとか、その近所の人の話では「まあ、いろいろと商売をやっとったよ」ということであったが、しかしそれはなによりも時代による貧しさに衝き動かされるようにして馬車馬のように働いたのであって、いくら「商売熱心」だといったって、それで身代を築いたというわけではない。ここらは中山間部と言われるところで、どこか大きなところへ売りに行くためには片道数時間という道程を徒歩で行かなければならなかったのだ。その噂話をしてくれたおじさんも、子どもの頃は、家の電球を変えるのに、隣の村の電気屋にフィラメントを交換するため片道1時間を歩いて行ったという。

もし彼女が都会部に生まれて、同様の働きをしたならばと仮定すると、今よりもっと苦労をしなくとも済む老後を送っていたのかもしれない、と思う。このあいだのフリーランスについての記事でも少し触れたかもしれないが、客商売や百姓なんていうのは、退職がないぶん(=厚生年金や退職金がないぶん)一生働きつづけなければならなくて、それを「ずっと生きがいがあるということだから、とても幸せなことだ!」なんて短絡的な感想を持つのはきっと他人だからで、なかなかたいへんなことなのではないか、とより近い位置にいる私は、思う。

このあいだも、私に畑仕事の技術を親切に教えてくれたおじさんが、齢86にして、やっと百姓を辞めることを決意した、と私に報告してきたが、そこまで身体を動かしつづけなければならないのは、百姓仕事がたのしいとかそういう以前に、金銭的な理由が厳然として存在する、ということくらいは無視しない方がよいと思う。



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きのう、坂本龍一のことに少し言及したおかげで例の「たかが電気」という発言を思い出して、あれの全文を探していたら、実際の動画に行き着いた。






さよなら原発スピーチ / 坂本龍一




これを聞いてみたら、それほどおかしいことも言っていない。むしろ、あの震災・事故があったらこういう発言が出てくるのは当たり前のようにも思う*1

それじゃあ、なんであのとき、あんなにツッコミが入ったのか、ということを今日の日中、ぼんやりと考えていた。

橋下に端を発し、石原、西村、といった維新の面々の発言は、そりゃあもう、日本全国はおろか世界中のどこへ出しても恥ずかしくない恥ずかしさ*2だから、これが総ツッコミ、という状態はわかる。

で、最近じゃ乙武くん。あの一連のツイートとかそれに関する考察とか、ハッキリ言って面倒だから全然ノータッチにしていたけど、トラットリアに事前に連絡もなく車椅子で行ったら入店を断られた、という事実認識で正しいのであれば、リストランテとかグランメゾンならともかく、トラットリアレベルだったらそれくらい許してやってほしいな、と思う。

けれども、「議論」はそんなもんじゃ収まらなかったようで、なんであんなに盛り上がるのかっていうと、事象そのものというより、「乙武くんの最近の態度に物申す」的な連中のフラストレーションの臨界点と炎上案件とがちょうどマッチしてしまった、ということなんだろうね。それがために、ちょっとしたつむじ風がビッグトルネードになってしまった、と。

坂本龍一の「たかが電気」発言も、乙武くんのと同様の理由で叩かれたのではないか。

「たかが~」というレトリックは、電気に限らずいろいろと遣われるでしょう。で、そういうときの「たかが~」のあとに来るモノが、まったく必要ない、ということはたいていの場合、ないのだ。「たかが金だよ」とは私も高楊枝をくわえてよく言う言葉だけれど、「じゃあ、おまえは明日から財布いらないね?」と私の財布を持って行こうとする輩がおれば、ワタクシ、顔を真赤にして怒りますよ。フー!

これらは単なる修辞の問題であって、じゃあ明日から原始生活に戻りますっていうことではない、というのは聞き手には本当は容易にわかっていることなんだよね。

けれども、多くの人間は(私含む)そういう解釈をしない。したくないから、しない。

多くの人たち(私含む)は、「全文」を読んだり聞いたりせずに「又聞き」の状態で判断をしたのだろうな。しかもその判断には、坂本龍一個人に対する「含み」もあるのだから、公平であるわけがない。

公平でなくてもいいのだけれど、公平でなければ、はじめっから「ああ、おれはもうサカモトってやつが大っ嫌いだから、やつの言うことは1から100まで全部信用しないよ!」っていうのならよくわかるのだが、これまた少なくない人たちが、見かけ上の公平さを仕立てあげるために窮屈な論理をもって「たかが電気」発言を批難しているのが、興味深い。

こんなふうに書いている私も、坂本龍一が好きではなく、なんでかなあと少し首を捻ってみたら、あの丸メガネが原因だ、ということに思い当たった。

あの文化人ぶった、ジョンレノンとか大江健三郎のモノマネみたいなあの丸メガネを掛け始めた頃(いつ?)から、私も、坂本龍一の言葉をいよいよ信用しなくなったのだと思う。

でもそれは、「サカモトさんだってぇ、YMO 時代にぃ、電気バリバリにつかって演奏してたわけじゃないですか~」っていうのとはちょっと違うんです。



*1:前々から書いているが、関西に住んでいる私は、テレビやその他のニュースで報道をいちおう見聞きしてはいるのだが、東日本に住んでいる人たちが驚くほどに、その「実感」がない。あの年の9月、台風12号のせいで和歌山県内で50人の人間が死んでいる、ということを強く憶えている人が東日本に少ないのと同じことだと思う。


*2:このあいだ落語会で桂雀々が言っていたフレーズ。面白かったので拝借。



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  • 前回のラストからのつづきで、佐川官兵衛、林権助、山川大蔵(露国帰りですっかり勇ましい感じが板についている)らが、容保を慶喜から引き離すべ、と大挙して主君のところへ駆けつける

  • そして彼らは、容保のところにやって来て、あろうことか、その上座にいる慶喜へ直談判をするのだが、これ、実際にはないだろうねえ

  • 主君の主君に対して意見、諫言をするっていうのは、己ひとりが腹を切って済む問題ではなく、主君(容保)まで責任がかかるわけで、当然、「おそれながら!」の一言では済まされない(平田弘史の漫画なら、陰腹を切った状態であらわれるだろうけれど)

  • 結局、慶喜公、会津藩はともに御所を追われ(当人たちの気分では「(自らで)下る」だろうけれど)、大坂城

  • 覚馬、悌次郎、広沢らは容保と同行することはできず見送りしているのだが、そのことはおそらく彼らの身分の低さを物語っているのだろう

  • その3人が話している中で、覚馬が慶喜の「二枚舌」を批判するけれども、慶喜は、是非はどうあれ、覚馬の考えている以上のことを考えねばならなかったのだと思うよ

  • 梶原平馬の妻、二葉も、京を出て平馬のいる江戸の会津藩邸へ

  • 会津鶴ヶ城にも、京の政変が伝えられ、戦争の可能性が身近に

  • そして諏方神社では、八重、頼母の奥さん、修理の妻、大蔵の母・妻、そしてゴーリキーら女性陣が幟を縫って奉納しようとしている

  • ところへ、照姫様がいらっしゃる

  • 稲森いずみの所作の美しいことよ、広間に入ってくるときに、御髪の簪の部分が鴨居に当たらないように少し頭を下げるのだが、その動きが非常にきれいだった

  • その御前様は、みなが平伏している中をしずしずとお歩きなさり、そして上座におすわりになってから、お手づからお縫い遊ばしたという幟を渡して「みなの幟とともに奉納してください」とおっしゃると、一同さらにかしこまって、平伏

  • いやいやいや、八重が「一枚でも多く縫うべ」と勢い込んでいたのに、照姫様が来てから、みなの手が止まってしまっていますよ(こういうことって実際でもよくあるよねえ)

  • そのくせ照姫様のおつきの方々は、中野竹子の遅参を厳しく責めるんだもんなあ

  • あげく、竹子は歌を詠めと言われて「もののふの猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」とものす

  • これにいたって感激された照姫様、「みなも歌を詠んではどうであろう? 幟とともに奉納しましょうぞ」ってすごい提案!

  • これによって、筆と硯の準備をしなければならず、幟づくりはいよいよ「趣味の時間」へ(まあ、奉納って気分みたいなものだからどうでもいいのであろうけれども)

  • 竹子に請われて八重も詠む、「父兄のをしへたまひし筒弓に会津心の弾や込めなむ」

  • ちょっと茶化したけれど、ここにいる女性たちの一部は実際に会津戦争で戦死あるいは自刃しており、そう考えると、この場面は死を目前にした最後の微笑ましい一幕と見ることもできる

  • 大坂の慶喜(洋装!)は諸外国の公使に、外交はこれまでどおり徳川が行う旨を通達

  • 薩摩の西郷と大久保は物静かな口調で戦の決定を行い、江戸で騒動を起こすことを画策(後ろで琵琶がべんべん言っている)

  • そんな物騒なお江戸へ梶原二葉は戻って来て、MEGUMI会津藩出入りの能楽師の娘らしい)と出会う

  • 不逞浪士たちが逃げていく場面で、壁に立てかけてある梯子で道を塞ぐ、というアクションがあったが、あれってジャッキー・チェンプロジェクトA』かなにかへのオマージュ?

  • 平馬に薩摩の挑発に乗らないでくれ、と釘を刺す勝安房守だが、「西郷という化け物に火をつけちまったのも、おれの失策だ」とさりげなく「おれってスゴイ」アピール

  • でも結局、庄内藩がぶち切れてしまって、江戸の薩摩屋敷に砲撃(やったれやったれ!)

  • こういうことを鑑みるに、挑発に乗って激情の赴くままに行動を起こすことは、我慢をしつづけることより実は容易いということがよくわかる

  • しかし、挑発をする側は、その「行動」が起こるのを手ぐすね引いて待っているわけであるから……蛮勇は、結局は愚かさと同義なのだ(当然『八重の桜』とは別の事象も示唆している)

  • 15,000人の兵が湧き上がり、その憤怒に背中を押されるように、薩摩との戦を決意する慶喜

  • 八重と竹子が仲直りをするシーン、八重の強がり(「まあ、竹子様は会津言葉が下手くそだなし」)を言うところが可愛らしい

  • 田中土佐、林権助、山川大蔵佐川官兵衛らは出陣の前に軍議らしきものを開いているのだが、この簡素さが、戦がなくなって260年という時代にふさわしく、かえって本当らしいと感じられた

  • 大坂では、会津藩がいよいよ出陣し、容保、大仰な「えい、えい、えい、おー」をする

  • 鳥羽伏見でついに開戦

  • 会津は、先に手を出しては朝敵ということで、相手の攻撃待ち、というのが奇妙だけれどやはりそれらしい感じがある

  • 八重の弟の「なで肩の三郎」も参戦

  • 幕府歩兵の隊長(?)が「難所ゆえ」と配置換えを申し出に来て、林権助は「難所だからこそ」とそれを断るのだが、このときの幕府の隊長の恰好が蝶ネクタイをしていて、なんだか芸人みたいで面白かった

  • 開戦の報を聞いて飛び出した覚馬は、「とんがり帽子」の薩摩兵に袋叩きに(そりゃそうだろう、生かしてくれただけで御の字)

  • 林隊、火力の差が大きすぎるために劣勢に立たされるものの、「みな、死しても会津の名を汚すな」と士気を鼓舞する

  • 私はこのとき、『坂の上の雲』で、日露戦争当時、日本全国で最強と言われたのは、熊本師団と仙台師団だったということを思い出した

  • 会津と仙台とでは多少の差こそあるかもしれないが、東北人の気骨は凄まじいものであったのかもしれない

  • 直接的には関係ないが、Wikipedia で面白い記述を見つけたので、引用する



昭和61年(1986年)には長州藩の首府であった萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は「まだ120年しか経っていない」とこれを拒絶した。






  • 私は、こういう気概は非常に好きである

  • あわれ林は撃たれてしまい、新撰組は回り込んで薩摩兵を奇襲するのだが、なんだ迂回路があるんじゃん、林隊、もうちょっと考えて行動しようよ!

  • 林権助、目を見開いたまま死ぬという凄絶なシーンで、乾いて色を失った唇、すすにまみれた陣笠もリアルで素晴らしかった!

  • 林は、定期的に登場したキャラクターじゃなくて、初回はたしかにいたけれど、あとは出たり出なかったりで、前回覚馬に「うちに来い」と誘った印象が際立っていたが、よくよく考えてみればあれが死亡フラグだったのか

  • 勝利を確信した薩摩は錦旗(自作)を掲げる

  • 三条実美篠井英介)がついに朝廷に復帰(泣きながら都落ちしたもんねえ)

  • 林の死亡の報告を受けて、容保、烈火のごとく怒る

  • 考えてみればこれ(=「家臣が戦死する」ということ)も、260年近く経験してこなかったこと

  • 「八重の桜紀行」で、明治新政府の記した『復古記』という書物の中に「槍ヲ振テ銃丸ノ中ヲ進ミ來ル」という文章が紹介されていた、「勢甚銳シ」とも



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去年の夏くらいからだったか、首相官邸前で反原発の運動が盛んだった。何万人だかが集まってツイッターやらフェイスブックやらが盛り上がったらしい。東京の話なので、よく知らないけれど。

今はどうなっているのだろうか。

私は、考えとしては原発には反対であるが、あのようにSNS を利用して集まってデモをするというファッション的なスタイルが気に入らなかった。指一本すら動かしていない私が言うのもなんだが、あれはただのブームに過ぎなかったのではないか。

行動というものは、一過性のものであってはならず、つづけてこそのものであるべきだと私は考えており、「だからといって動かないのはもっと悪い」というアジテーションによって焚きつけられあたふたと腰を上げることにも極めて懐疑的だ。私には、たとえば継続的に10年、20年、あるいは30年と活動している反原発運動家(もちろん彼らは東日本大震災以前から活動していた)たちと同じ活動を行う覚悟がない。

で、あの「大飯原発再稼働反対運動」(ほかになんて呼べばいいのだろうか)で、なにが残ったのかなあと、皮肉ではなく、考えていた。

坂本龍一? ああ、そうだった。



「再稼働反対!」のシュプレヒコールをサンプリングして、楽曲をつくったんだっけ。

本当に皮肉や嫌味ではなく、この曲を聴いて、20年後、30年後、少なくない人たちは胸を熱くするのかもしれない(私はまた違った感慨を持つだろうけれど)。

坂本龍一以外の人たちはなにをしたのだろうか。

ツイートした?(で、たくさんの「お気に入り」にしてもらった?) フェイスブックでメッセージをポストした?(で、たくさんの「いいね!」してもらった?) それともブログに書いた?(で、たくさんのコメントをもらった?)

詩にした人はいるのだろうか。俳句は? 短歌は?



私が上記の連想に至ったのは、『新・百人一首』に何作か学生運動の歌が載っていたからだ。




血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする(昭36)  岸上大作*1




永田和宏の解説によれば、彼は実際に60年安保闘争に参加し、そこで頭部を殴打され出血したという。

かなりヒロイックなイメージで詠まれた歌だと思う。「無援」の言葉が、当然のように樺美智子の死を連想させる(私ですら)。解説にも書いてあるが、この歌の詠まれた同年6月15日には、東大生の樺美智子は機動隊との衝突で死んでいる。

ただ、私にはこの歌から流れこんでくるようなナルシシズムが、少しきつい。




一隊をみおろす 夜の構内に三〇〇〇の髪戦(そよ)ぎてやまぬ(昭44)  福島泰樹




歌集『バリケード・一九六六年二月』(すごいタイトル)に収められた作品。解説によればやはり60年代の学生運動が背景にあるとのこと。

これはものすごいと思った。「三千」の髪が「そよぐ」のではなく、この歌では「三〇〇〇」の髪が「戦ぐ」必要があるのだ。

妙な連想に思われるかもしれないが、私は北方『水滸伝』で夜襲をかける直前の梁山泊軍の息を止めている様子が思い浮かんだ。兵も馬もみなが枚(ばい)を噛んでいる様子が。

学生運動のもたらしたもの、というのは私にはなにもわからない。ただ、結局はあさま山荘事件に帰結してしまった、と私の両親などはある種の挫折感を持ったらしい。そういう人は決して少なくないのではないか。それと同時に、「あれはおれ/わたしの青春だった!」という人も多いだろう。

ただ、それだけでは「思い出のアルバム」の中の1ページにしかならない。個人のアルバムであるから、個人の思い出で完結してしまう(それはそれで悪くないのかもしれないが)。

その一方で、上記のような歌を詠む人間がいる。個人の「思い出」が藝術に昇華している。

熱くホットになっているものに触れようとするのは、人の性だろう。けれども、藝術家は一歩引いて、もう少しだけクールになって、創作活動にその熱さを活かしてほしい。彼らは、現実社会に対して冷淡であってもいい、と私は考えている*2




催涙ガス避けんと密かに持ち来たるレモンが胸で不意に匂えり(昭55)  道浦母都子(みちうら・もとこ)  




こちらは70年安保。催涙ガスにはレモンが有効と当時言われていたらしい*3。ちなみにこの歌が収められた歌集のタイトルは『無援の抒情』というらしい。ここにも「無援」だ。

「レモンが不意に匂う」というイメージが艶かしい。また、運動に身を投じる一個の「同志」から、ひとりの「女」に戻る一瞬を感じさせもし、そして、熱狂に浸っている心身を不意に呼び覚まされる一瞬をも感じさせる。

この冷静さ、俯瞰、観察が、詩をかたちづくる。それが単なるツイートやブログエントリとは違うところなのだろう。



*1:作品に直接関係があることではないが、作者は、昭和35年、21歳の若さで失恋を理由に自殺している。


*2:私の好きな人たちは、だいたい人道的ではあるけれど、もっと根本の原則的な話として、創作家であるからといって倫理的である必要はない、ということ。


*3:ただし、Wikipedia によれば、効果は不明らしい。でしょうね。



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