とはいえ、わからないでもない

2013年06月

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前の記事に花梨さんがコメントをくださって、それについて返答を書いていたらどんどんと長くなってしまって、しかも引用もしたくなり、引用ともなるとたぶんコメント欄での表示は難しいので、独立して記事にしていますが、あくまでコメントについてのお返事です。






その人の想いが伝われば、その情熱を傾ける対象が小説であろうが漫画であろうが電車であろうがアイドルであろうが、読む方にとってはなんでも面白く読めると思いますし、反対に、他人である読者にわかりやすいよう、客観的事実や数字やらの説明にものすごーい労力を割いているブログを見かけたりもしますが、ああいうのに限って、「おれ/わたしはこれがどうしても好きなんだ!」っていうパッションを感じないことが多いように思います。

パッションの説明に、「数字」やら「事実」を持ち出してくる人を私はあまり信用しません。

「面白かったのに記憶できない問題」へのとりあえずの態度として、記事に書いたような「不確かさを肯定する」という方法を私は採っています。

インターネットなどの通信技術が発達するまでは、いろいろなことを覚え・思い出せる人たちは「物知り」などと呼ばれていましたが、今ではそういう呼称もどことなくそぐわないものになってしまったような気もします。

そこらへんの高校生でも、「検索のやり方」さえうまければ、スマフォをパパっと扱って「事実」を目の前に取り出せてしまえるようになってしまったから。

けれども私は、そういう「操作のうまさ」が物をよく知っていることだとはとうてい思えないし、そもそも昔の「物知り」たちは、雑多な情報をただ単に無機質に記憶しているというのではなく、もっと有機的な記憶の仕方をしていたのだと思います。

小説なんかでいえば、「そうそう、A の小説で出てくるあのシーンだけど、あれはもともとロシア文学のB という小説のあるシーンがモチーフになっていて、それは、もともとはB を書いた作家の愛人C が見た夢が元になっているらしいね」というような。

事実と事実とを想像力なりストーリーなりで補うことができる人を、「あの人は物をよく知っている」って言ったのではなかったのか、とこれは願望も込めて想像します。

映画『レインマン』のモデルになったキム・ピークという人のドキュメンタリー番組を見たことがあるのですが、その人は9000冊の本の内容をすべて暗記しているのにもかかわらず、「<コートフック>と、<自分の母親の死>というふたつの概念を、等価値にしか扱えない」という説明がその番組の中でなされていて、私はその文言にとてつもない衝撃を受けたことを憶えています(と、あくまでも不確かな記憶に基いて書きました)。

いくら事実を積み重ねても、そこに人間としての大事な「情」がなければ、ただただ悲しいだけのように思います。もちろんキムの場合は病気や症状のあらわれ方のひとつであるので、記事中で言及もしたかったのですがあえてやめておきました(でも結局、書いていますが)。

ということで(と無理やりまとめるようですが)、面白いと思っても忘れてしまうということはやはりあるのだと思いますし、その忘れてしまうということ自体が面白いのでないかとも思っています。

面白さの例として、2007年9月30日の日経新聞文化欄に掲載された荒川洋治の『文学談義』というコラムを一部引用します。で、ややこしいのですが、私は2011年2月にこのブログで当該箇所を一度引用していますので、それを再引用してみます。




コラムの内容は、今の若い人は文学談義というものをしなくなったが、昔の若者たちはよくしたものだ、というところから始まる。




「文学は実学である」と、ぼくは思いますが、いまは文学をだいじにしなくなりました。

本らしい本を読む人も少ない。人が集まると、何人かは文学談義をしたものですが、いまは見かけません。



(中略)



友人から届いた七円の官製はがきに、こんなことが書かれていました。

三十六年前の、大学生の文章です。「あなたと談合するのはたのしいことにちがいありません。

おひまなときに、自由な手紙をください。本の話でもしてみたいなとおもっています」。



「談合」とは、話し合う、語り合うという意味でしょうが、いまとは語感がちがうので、おどろきます。

こういういい方があったのですね。

彼とは会うたびに、本の話をしているはずなのに「本の話でも」とあります。

もっと話したい、話し足りないということなのでしょう。




ところが、最近でも、ある大学生が思い出せない本について作者に質問をしてきて、作者がそれを愉しんだという体験が語られる。




講義のあと、学生がこんな質問をしてきました。

「あのう、何年か前、講義で聞いたのですが、なんとかという外国の作家が、近郊のいなかを、はじめて歩いて、詩でも小説でもない、とてもいいものを書いたと。ずっと気になってて。誰の作品なのでしょうか」。

うわあ、めずらしい。文学談義ではないか。

途中で、ぼくはその作品が何かに気づきましたが、すぐには答えず学生の説明を聞きつづけました。

とても貴重なひとときですから。



(中略)



いいね、とぼくは学生に話しました。文学談義といってもこの程度なのですが、話している間は、何もかもが消えて、白い光につつまれる心地になります。

文学談義は、その場にいま話題にしている本がない、参照できないときのほうがむしろおもしろいものです。




ついで、店で友人と高見順の話をしていたら若い会社員に話しかけられたというエピソードも紹介される。




この間、ある店で友人と、作家・高見順のことを話していました。

向こうにいた、若い会社員らしき人が、それは「敗戦日記」ですね、と話しかけてきました。

そして彼は言います。「うろおぼえですが、高見順の小説で、上野の不忍池の弁天様か何かの裏に回ってみたら、面白いものが見えたか、誰かが何かをしていたか、そんなの、ありますね」と。

それは「都に夜のある如く」かなとぼくは答えました。

たまたまこの作家の作品はほとんど読んでいるものですから。

でも、あとでたしかめてみようと思いました。



(中略)



文学談義は、「何か」とか「誰かが」とか「どこだったか」とか、そんなあいまいなことばを起点に、寄り道しながらゆっくりと進みます。

「知る、わかる、それで終わり」の時代に、それとはちがう、やわらかな空気がそこにはあります。


(下線は引用者による)




コラムはまだつづき、一応の結論としては、文学はひとりきりで完結するものではなく誰かと共有し対話するという行為も含めて愉しむものだ、ということでまとめられる。

しかし、私が一番感銘を受けた部分は上記引用箇所の下線部のあたりだ。

この箇所を裏返して言ってみれば、曖昧さが面白さ・豊かさ・可能性を生み出しているということにはならないだろうか。




2013年の私も、やはり同様のことを感じつづけています。



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珍しくビールでも飲みながら今夜はだらだらと書こうと思うのだけれど、かれこれ3ヶ月くらい書かなきゃと思っているお題があって、それが「酒にまつわるマチズモ」っていうタイトルだけは決まっているのだが、マチズモって言ってみたかっただけなので、それほど書きたいという欲求もなくそのままにしておいている。いつか書くかもしれないけど。

はてさて*1。とあるブログエントリーのタイトルが秀逸で、それでふと山田太一の『飛ぶ夢をしばらく見ない』という小説を思い出して、いいタイトルの小説だったよなあ、というところまでは思い出せるのだが、内容に関してはまったく思い出せず、たしか、たしか冒頭に「最近、飛ぶ夢を見なくなった」みたいな述懐から始まったような薄ぼんやりとした記憶があり、そして離れに置いてある本棚にはきっとその文庫本が置いてあるはずなのだが、なんだか確かめに行く気にはなれず、それは近所の子ども(といっても今や中3生になってしまったが)の言った、「○○さん(私のこと)の住んでいる家の離れで女の人の幽霊が歩いているのを見たよ」という発言を気にしてのことではなく、なんとなく面倒なのである。

調べに行くことじたいが面倒なのではなく、ブログ(あるいはウェブ上でコメント・メッセージなどを載せることのできる媒体すべて)で物を書くときにはきちんと調べて、正確なことを書かなければならん、というような、どこの誰が決めたのかは知らないが、とりあえずネットリテラシーを有しているということを自負している人たちが昂然と主張している意見が、面倒なのである。別に不確かでもいいじゃないか、と。

山田太一の小説のタイトルを思い出して、「ああそうそう、『飛ぶ夢をしばらく見ない』っていう小説はさ、3万年のコールドスリープを経て銀河系とはまた別の島宇宙のある惑星に不時着したたったひとりの宇宙飛行士が、そこで様々な生物と戦いながらサバイバル生活を送っていくっていう小説なんだけど、その中の、宇宙飛行士が洞窟に逃げ込んで1週間隠れつづけるっていうシーンで、彼がつぶやくのだ、『ああ、しばらく飛ぶ夢を見ていないなあ』って」などと適当に書いても問題はないのだ。

もし問題があるとしたら、その文章が面白いか面白くないかってことが問われるべきで、正確か不正確かっていうことに価値を置くくらいなら、いっそきちんとした学術論文でも書いてしかるべきところに提出したり、あるいは、他人から金を取れるような文章を書けばいいと思う。できるのであれば。

何度も書いてきたことだけれども、もっと不正確なことを不正確なまま書きたいし、それについてしゃべっていたい。きちんと記憶していることを敢えてあやふやに話したり、または、全然憶えていないことを、まことしやかな嘘で塗り固めて話したりしたい。

そういうことが面白いのだと思っている。そういうことが豊かなことなんじゃないかと、ただただ漠然と思っている。もし誰かと話すことが、はじめから答えが用意されているような正確で整然とした問答にしかならないのであれば、その会話にはいったいどんな意味があるのだろうか。



ってことを書いていて、かつて引用した保坂和志の言葉をここでまた引用する。




小説でも哲学書でも、それを楽しんだり理解したりするために、読んでいるあいだにいろいろなことを自然と思い出したり強引に思い出したりしているもので、読み終わるとそれの何分の一かしか残っていない。それらをすべて忘れずにいられたら私たちはすごいことになっているだろう。

(『小説の自由』ハードカバー 92p)




私が1年ほど前にこのブログでこの文章を引用したときは、本当に、なるほどこれは大事なことだよなあと思っていたのだが、その後すっかりそれを忘れていて、それから数ヶ月経って、ある方がその引用をした記事にコメントをくれたおかげで、「あ、おれはこんな引用をしていたんだな」と思い出す次第であった。

つまり、引用した文章の結論としては、「忘れずにいられることはできない」であると思うのだが、だからといって「私たちはくだらない」とはならない。忘却し、喪失し、不足している感じがいいなあと、今の私はそう思っている。



と、ここまでをタイプしたら、左目に違和感を覚え、鏡を見てみたら、おとといに治ったはずのものもらいが再発している。しこりみたいなものも感じる。

「鏡」といえば、きのう父からメールが送られてきて「これを聴いてみな」と紹介されていたのが、ペルト『鏡の中の鏡』で、さっきから何度も何度もリピートして聴きながら、この記事を書いている。






Spiegel Im Spiegel - Arvo Part




それで、小説の忘れてしまった内容全般について、もう少し触れるのだが、欠落してしまった記憶というものはいったいどこへ行ってしまったのだろうかということを考えてしまう。また、間違って記憶していた場合のその記憶の歪み方を不思議に思う。

読んでいるあいだは、あれほど面白く楽しく読んで、他人にも「いま読んでいる小説、すごく面白いんだ!」などと言っておきながら、たった数ヶ月でその内容をごっそりと忘れてしまうというのは、なんかもう喜劇みたいだ(そして、山田太一のその小説の内容は、タイトル以上のものではなかったということをなんとなく思い出した)。

しかし、その記憶の欠落の仕方、もしくは、理解・誤解の仕方というのは、おそらく個々人に固有のものであって、その固有の機能の発現が、ひとつの小説について多様な認識を生み出すのではないか、などという直観が酔いどれ頭を訪れたので、ひと満足して寝ることにする。



もう一度だけ鏡で左目を確認してみた。やはりちょっとだけ赤く腫れている。抗菌用だとかいう点眼液を垂らし、1分ほど目を閉じてなじませ、それからまた鏡を見た。

鏡面の私の顔が写っている奥には、襖が開かれていて、離れへと通じる廊下が見えた。そこへ、全体的に白っぽい様子の女の人が通ったように見えた。

が、私のすぐ傍にいる2匹の猫たちが先刻からじゃれ合って騒いでいるところだったので、不思議と怖く感じない。



*1:「はてさて」って言ってみたかった。



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このあいだこんなツイートを見かけた。











わかるような、とも思うけど、それはなにも関西に限ったことじゃなく、昔のたけし軍団とか、とんねるずの石橋とかにもなんだかわけのわからない権勢を感じていたし、そもそも島田紳助が失脚するまでに人気があったのは、関西も関東も一緒でしょ。あれこそ、主従関係のお手本みたいなものなわけで。

で、それはそれでいいんだけど(よくないんだけど)、私の気になっていることも書いておく。



関西特有のものかは判然としないが、とにかくセクハラ発言が多いよなっていうのは、テレビを観たり、ラジオを聴いていたりしてよく感じる。

早朝のラジオで70歳の男のパーソナリティがやっている番組がある。そのアシスタントが23、24くらいの女の子なんだけど、その爺さん(パーソナリティ)が事あるごとにその女の子に対して、「もうちょっと女子力を上げなあかん」とか「彼氏作らな」とか「子どもを生むんでしょ? そのつもりで頑張らな」とか、番組進行とまったく関係のないところで発言をして、それが聞き苦しくて聞き苦しくて、とうとう番組じたいを聴かなくなってしまった。

セクハラは、言われた当人がそうと思わなければ批判されるいわれがないのかもしれないけど、傍から聴いてりゃあれはセクハラだと思う。というか、赤の他人の爺さんになぜそんなことを言われなくちゃならないのか。あえて「爺さん」という表現をするけれど、その年齢の男が若い女の子にあーじゃこーじゃ言うことじたいが、本当は恥ずかしいこと。その人の生きてきた70年間そのものが「いったいどんなものだったのか」と疑わしく思えてくる。

若い人が同種の発言をしたこともあった。これはテレビ番組なんだけど、20代の男性アナウンサーが、年上の30代半ばくらいの女性アナウンサーに対して、彼女が独身であることをからかうような発言を放送中にした。すごくあっさりとしたからかいではあったので、女性の方は軽く笑って流していて、おそらくそういうことに慣れきってしまって腹を立てもしなかったのだろうとは思うのだが、他人である私がテレビの前で、なんでこんな糞ガキにこの女性がそんなことを言われなくちゃならないんだ、と腹を立てた。

こういう一連の発言って、私の観測範囲の狭さによるものなのかもしれないが、関東に住んでいたときにはほとんど見聞きしないものだったように思う。個々人のプライバシーに立ち入られるということを、関東の人間は極端に嫌うと思う。ということは、他人に対しても踏み入れないという暗黙の了解が生じる。少なくとも私の育ってきた文化圏ではそうだった。

だから、男が女性に対して「いまつきあってるやつ、いるの?」みたいな質問は、セクハラではないけれど、下心が見え透いていてしまって、心底いやらしく恰好の悪い発言だと思っていたし、今でも「うげぇ」と思ってしまう。で、私の経験上、そういう奴に限って外観も格好悪いことが多い(これ、すごく重要よ)。

関東・関西と居住地によって峻別できる問題ではないと思うが一般に、他人に対してその個人生活に立ち入った発言をすることは、現代社会では好ましいアクションではない、ということくらいは知っておいた方がよいと思う。

年をとったことを理由に、「おれくらいの年齢になったらもうすべて許されるだろう」とずるく甘ったれた考えを持つ人間は日本国中のそこかしこにいるのだろうが、私はそういう人たちには早くお迎えが来りゃいいのに、と思う。だって、いくら高齢になろうと、しっかりと紳士たる振る舞いをつづけてらっしゃる人も少なくないのだから。

また、高齢の人間に限らず、若い人間でも気持ちの悪い発言をするやつは多いし、セクハラ言動をしているのに、「相手も喜んでいる」とか言ってしまえる鈍感マンにもまとめてお迎えが来てくれれば、精神衛生上、私が助かるので、死神関係者各位にはくれぐれもよろしくお願い申し上げます。



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自分の使っている範囲でのWeb サービスについてのメモ。はてなブログ関連がふたつ。YouTube 関連がひとつ。




はてなブログのスター


一時期なくなっていたスター激押し問題が再発。スターを1クリックしただけで怒涛の何連発になってしまい、賛同や同意を示すつもりが、あまりにも度を超えてしまって、からかいや嘲笑のように受け取られても困るので、多い分をぽちぽちと消したりしている。不毛なアクション……*1





はてなブログ グループ


なんだか始まったみたい。誰かがブックマークのコメントに書いていたけど、ブログ一個にラベルを貼る、というのではなく、ひとつひとつの記事にタグづけすればいいのに、とは思う。そうすれば、もっと実情にあったものになると思うけどな。その代わり、運営側は「いま、参加ブログはいくつです」という表示ができなくなるけれども。

でもまあ、個人的には流行って賑やかに盛り上がってもらえればな、と思う。

私は参加しませんが。しないんだけど、そういうのが盛り上がって、その喧騒がごくおぼろげに聞こえてくる、そういうシチュエーションが好き。みなが楽しく踊りの輪を作っていて、それを遠くから眺めるのが好き。その輪に入れない、入らない、ということを確かめるのが好き。それでも、いつまでも眺めていたい*2





YouTube


以前、「共有」がうまくできないと書いたが、あれ、調べてみると、シークレットウィンドウ(Chrome ならば「Ctrl + Shift + N」で開く)でまずきちんと作動したので、やっぱりエクステンションで競合するものが入っていたらしく、いくつか整理したら、普通のウィンドウで「共有」できるようになった。かなり快適。




*1:でもこれってきわめて個人的な、たとえばマウスとかのデバイスの問題なんだろうか。


*2:といって、スペースはたのしんでいるけど。



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ある方のブログを読んでいて漠然と感じたことと、それとこのあいだの白虎隊隊士のエピソードを絡めてトッピングしてみたら、ひとつの結論がぽんと出てきた。

「今度さあ、一緒にごはん食べに行こうよ。うん。来月のはじめくらいに。うん。そうそう。ね。絶対だよ? よし、じゃあまた」とか言っておきながら、その日が近づいて来てもなんにも言わず、こちらから「あの、来月のあたまなんだけどさ……」などと話題を振ってみると、「え? 来月のあたまがどうしたの?」とか言うやつ。こういうやつ、絶対に嫌い。

あえて単純に二元論にしちゃうけど、世の中には、こういう約束をすぐに忘れるやつと、忘れるどころか気になって気になって仕方がないのふたつに分かれると思う。前者みたいなタイプはどうにもダメ。苛々する。すっぽかされたときなんか、罵倒したくなる。そういうやつはきっと、自分がつねに「求められている側」にいると誤解しているんじゃないかと思う。そういう性格の人間で求められているなんてこと、本当はないんだけどね。あったとしてもごくごく短い期間、誰でも若けりゃそれなりにちやほやされるっていう、そういう一種の「ボーナス状態」以外では、だいたい嫌われるんだけどね。でも、そういう人間は鈍感だから嫌われていることにさえ気づかない。

私などは、思春期の時代に相当すっぽかされを経験したので、約束関係についてはナーバスもナーバス、大ナーバスになってしまった。ひと月前くらいに人と会う約束なんかをすると、「本当にこの人はひと月後でも約束を覚えているんだろうか」と、そういうことが気になって気になって仕方がなくなる。で、その期日が近づいてくると、「あれ、一度連絡して、『覚えてる?』みたいなことを確認した方がいいかな? でも、それだと『こいつ、なにそんなに熱心になってんの。あほじゃなかろか』と思われるのも嫌だからなあ」などと気を揉む。揉みすぎて揉みすぎてぐにゃぐにゃになって、しまいには「ああもう! こんなんだったら、会おうなんて言わなきゃよかった!」みたいな結論になって、機嫌悪い状態でおれ登場! になることもしばしば。

こういうのが嫌だから、なるべく早い時期に約束をするということをしなくなってしまったのだが、それでも20代の頃とは違って、「明日どう?」「いいね」みたいなことはまずなくなって、「もうちょっと早く言ってくれないと……」みたいな反応も怖いので、やっぱりそれ相応の時間的余裕を見て連絡をすると、上みたいな羽目に陥る。で、最近も実際に苛々した。

もう十数年のつきあいになる人と去年に会ったとき、やっぱりひと月半くらい前に連絡していて、そのときに会う場所、会う時間も決めてしまった。そうなると、あとは会うだけということなのだが、45日前の約束ってやっぱり不安だよなあ、と事前に連絡しようかしまいか、とまたうじうじしていたのだが、なんだかいろいろと仕事が忙しくて、しかも横浜までに移動するのに夜行バスとかに乗っていたから、連絡したのはなんと当日の午前中になってしまい、おそるおそる電話口で「今日、覚えてる?」と訊いたら、事もなげに「当たり前じゃん」と即答して、なんだかその「当たり前じゃん」の当たり前な言い方が、十数年の重みも相俟ってすごく嬉しかったのを憶えている。

自由になる時間はどんどん少なくなって、いろいろなツールが発達したためにより複雑さを増す交友関係。それらを考慮すると、ひとつぐらいの約束をすっぽかしたりすっぽかされたり、そんなことに一喜一憂するのはナイーヴすぎる、という見方もあるのかもしれない。

けれども、私の好きになるタイプと、どうしても好きになれないタイプを分かつのは、「ナイーヴすぎる」と一蹴してしまう、一蹴できてしまうその鈍感さなのだと思う。



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匠 / 松谷卓




バカにしながらも、面白いのでウォークマンに入れて聴いている。これを聴いていると自然と加藤みどり*1のナレーションが聞こえてくる。

「光をめいっぱい採り入れるため、天井を大きくくりぬいた採光窓は、いざというときには収納力抜群」とか「大勢のお客様が見えても大丈夫なように広く作られた玄関は、いざというときには夫婦の寝室に」とか「奥様の憧れだったアイランドキッチンには食器洗浄機があり、いざというときには中に入ってシャワーを浴びられます」とか。



*1:Wikipedia で見たら、現時点で73歳というのに驚いた。



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  • もう、前回終わりの予告篇を観たときから「あーあ」って感じだった二本松少年隊の顛末

  • 今週は覚馬が意見書を暗誦し、それを書き取らせているところから始まる

  • 覚馬、その声は嗄れたままで、視力がないために視線は定かならず、しかしその胸のうちにある思いはますます熱くなるばかり

  • 会津では八重が、大蔵の弟である山川健次郎とその仲間(伊藤悌次郎、高木盛之輔)らに鉄砲を教えている

  • 伊藤悌次郎は白虎隊に入隊、と嬉しそうに伝える

  • ところで、北村有起哉演じる秋月悌次郎も同じ「悌次郎」で、この「悌」という字、今ではあまり遣われないが特別な意味があるのだろうかとネットで調べてみると、こんな感じ



てい 【×悌】

年長者に柔順に仕えること。また、兄弟や長幼の間の情が厚いこと。

(コトバンク)






  • つまり、悌次郎、悌三郎ということはあっても、悌太郎という名前はほとんどなかったのだろう(まあ、親父に従えよという意味でつける場合もあったろうが)

  • 山川健次郎を演じている勝地涼という役者、どことなく藤原竜也に似ていて、劇中、彼に対して「青瓢箪だな」という台詞があるが、これにはちょっと無理があった(どちらかというと細いながらもしっかりしている印象)

  • 高木盛之輔は、時尾(貫地谷)の弟みたい

  • 尚之助の説明によれば、白虎隊は「備えの隊」ということだったのだが……

  • 白河を奪取した大山弥助のところに板垣退助が合流

  • 板垣は日光口の戦いにおいて、大蔵の部隊を突破できなかったという逸話が紹介されるのだが、そこで玉鉄の勇姿が見られた

  • 会津では、若殿様(容保の養子)の警護のために白虎隊と新撰組とが猪苗代に出陣

  • その夜、白虎隊の若い隊士たちが新撰組の土方・斎藤を囲んで盛り上がるが、盛り上がれば盛り上がるほど、のちの悲劇への前フリとなってしまう

  • 新撰組の名は、会津の古い隊の名前ということが判明するのだが、そうなると、京での官兵衛たちにつけられた別撰隊の名もそれほどおかしくなかった、ということになる(たしか過去の記事でツッコんだけど)

  • 奪われた白河は奪い返すことができず、総督の頼母が会津の鶴ヶ城に報告にやってくるこのシーンが、今回のメイン

  • まず、インターネット情報をもとに、慶応4年(1868)時点でのメンバーの年齢を記しておく(参考程度)

    • 神保内蔵助(52)

    • 田中土佐(49)

    • 萱野権兵衛*1(41)

    • 西郷頼母(38)

    • 松平容保(32)

    • 内藤介右衛門*2(29)

    • 梶原平馬(26)


  • 頼母、家老一同の首を差し出して恭順すべしと主張するも、土佐、平馬に強く反対される

  • 土佐(佐藤B作)と頼母(西田敏行)のリアル福島弁(母音が濁っている)での掛け合いがまずすごい

  • 時も金も兵力も兵器の質も、新政府軍に対してなにひとつ優るもののない会津はただ気概のみで戦っているのであり、恭順というもはや叶わぬ選択肢を再び持ち出す頼母に業を煮やす土佐らの気持ちは痛いほどわかる

  • もちろん、頼母とてそれがわからぬではないのであろうが

  • この場面、頼母→容保→頼母→土佐→頼母→平馬→頼母→権兵衛、というようにアップのカットで繋がれていく

  • 途中、頼母の背中越しに介右衛門が頼母を詰るシーンがあり、ここでは一座が画面内に収められるのだが、しゃべっている介右衛門すらぼかし気味で映している

  • これらはみな、後からやってくる演出のためだと2回目に観直したときに気づいた

  • 土佐との口論の末、「だからあのとき! 一刻も早く、京を出てれば!」と頼母が床を叩いたところがきっかけで、容保に一番近いところ(ということは、頼母から一番離れているところ)でそれまで黙していた内蔵助がアップになり、静かに、しかし重々しくしゃべりだすという凄まじい迫力の演出

  • 内蔵助「にしゃになにがわかる。おれは京で戦った。血も流した。筆舌に尽くしがたい屈辱も、ともに味わった。なにも知らないにしゃあ出過ぎた口をきくな」

  • この内蔵助の思いが、この軍議の場を支配していたのだと思う

  • 内蔵助は特別に息子の修理を亡くしているが、そうでなくても、それまで蟄居をし、藩の一大事の最前線から退いていた頼母に「なにがわかる?」という思いは土佐・平馬にも強かったのだろう

  • そして、藩の命運を賭してまで武士の面目を保つ、というこの会津を覆っている気風はまさに前近代的であり、積極的に合理的な選択を採ってきた薩摩、および、会津の切り捨てもやむなしとしてしまうこのドラマにおける慶喜などとは、徹底的に相反する

  • 漱石『坊つちやん』もそうなのだが、この『八重の桜』も、古い考えに固執し滅んでいく者たちの物語であり、それが(感傷的であるということはわかっていつつも)日本人的情緒および琴線に触れる

  • 結局、容保は頼母の白河総督の任を解き、介右衛門に与える

  • 八重、尚之助の手伝いにやってきて列藩同盟の損傷した武器を検めると、火縄銃が多いことを確認

  • 健次郎、棚倉藩の火薬の調合が旧式であるいうことを突き止め、そこから火薬に用いる硝石の調達方法まで話が及ぶのだが、このシーンの妙にマニアックな説明が面白かった

  • 秋田藩が新政府軍に降伏したとの報が入る

  • そしていよいよ、新政府軍は二本松藩にまで兵を進め、あの二本松の少年たちも出陣

  • 京の太政官(官庁名)では、越前の春嶽が、岩倉具視木戸孝允をつかまえ、「万機公論に決すべし」という約束が守られていないと詰問

  • 春嶽は、「会津討伐取り止めの建白書を提出しているが、それが取り上げられない」と不服を述べるが、それに対する岩倉の、というか、小堺一機の返答が不気味で面白い

  • 俳優としての小堺一機の演技を観たことはこれまでほとんどないのだが、(役柄としての)茫洋としていてつかみどころがない気持ち悪さがよくあらわれている

  • 木戸孝允というかミッチーの「僕」という一人称がヘンに合っていて、これまた面白い

  • 春嶽がいくら訴えようとも、岩倉は「ご叡慮」と言い、春嶽もそこから踏み込めなくなってしまうようだ

  • 春嶽の言っていることは至極もっともで、そもそも外国の脅威から自国を守るために新しい政府を興したのだから、不要な内戦は早く終わらせるべきなのだ

  • 覚馬、牢獄内で「管見」(口述筆記)を完成させる

  • このとき、筆記者でもなく、牢役人でもない声で「山本様、おめでとうございまする」とか「感服仕った」とあるのだが、これは隣に投獄されていて、覚馬が口誦しているのをずっと聴いていた人たちの声なんだね

  • (撮影的な意味における)ボケ気味ながらも、牢格子の向こうで正座している時栄が右側をそっと見遣り、少し頭を下げている、というところが丁寧でいい演出だなあ

  • この完成版については、牢役人も見逃すことにし、時栄に早く持って帰れと急かす

  • たまたまなのだが、Wikipedia で仙台藩の大槻磐渓(おおつき・ばんけい)の項を斜め読みしていたら、ちょっとだけ似たようなことが記述されていた

  • 仙台藩の主戦派の大槻は、戦争後に逮捕・投獄され、終身禁錮の刑に処されていたのだが、



1870年元旦には病を理由に仮出獄を許されが、これは磐渓を先生扱いしていた牢の医師・同室者・獄吏らとの謀りごとであり、本人はいたって健康、出獄当日には大酒を飲んだという






  • 放っておいたらとんでもないことをする、という人間でなければ、政治犯(?)の扱いというのは存外鷹揚なものだったのかもしれない

  • 二本松では少年隊が鉄砲・大砲を構えて、板垣軍を迎え撃つ……が、まったく歯が立たずに退却

  • ここでの戦況は、徳富蘇峰近世日本国民史 第72冊』に詳しく書かれているので、かなり長いが、それを引用してみる(旧字についてもできるだけ再現してみるが、機種依存文字は避ける)

  • 構成としては、引用したものについて蘇峰が簡単に解説を入れている、となっているらしく、少し読み辛い漢字については私が適当に読み仮名をつけておいた



當時の少年隊の一人水野好之は、更らに語りて曰く、




余等の命と頼みたる彈丸除けの疊も、今は敵彈の爲に四分五裂して用を爲さず。

止むを得ず、畑中に全身を露はして猛烈に應戰せり。然れども砲彈の爆發に堪へ難く、傍の竹藪に驅け入る。竹藪に一彈入るや、竹幹に中りて、所謂外れ丸となり、からからと物凄き音をたてゝ飛び去るを以て、危險更に増さりぬ。余(水野)鐵砲を取直して打たんとすれば、こは如何に。曩(さき)に竹藪に驅け入りし時、敵彈に引金を打ち貫かれて、用を爲さず。如何はせんと躊躇ふに、不圖(ふと)見附けたるは砲車の側に横はれる一大木材なり。一抱もありて、長さは四五間に餘れり。是れ幸いとひたと身を寄せ、ほつと一息吐きて戰況を窺はんとしける刹那、「隊長討たれたり」と呼ぶ聲あり。周章(あわて)て、驅け行けば、左の二の腕を貫かれて用をなさず。豫(かね)て用意の白木綿を取り出して驅け付けし人々、隊長の傷口を卷けば、隊長はいでや人々引きあげよとて、大砲の火門に釘打ち込み、小高き所に馳上りて、隊長自ら合圖の太鼓を打ち鳴らす。いざとばかりに馳來る人々、咄嗟の事とて、討たれし人は、明かならざりしが、殘れるは半數(はんすう)にも足らじと思はれたり。見方の陣地如何にと見れば、何時の間に退却せしにや、少年隊の他には人影なし。敵は愈々(いよいよ)肉薄し來れども、隊長騷がず、悠然として、何事をか訓示せんとせしに、狙撃に遭ひて、腰部を貫かれ、後(しり)へにどうと倒れたり。




此の少年隊にして、此の隊長あり。




(たちま)ちに起き直り、聲鋭く、此の重傷にては、到底入城叶ひ難し。「疾(と)く首を取れ」と。我等は互に顔見合せて、「隊長の傷は淺し、肩にすがりて退却せられよ」と言へば、「今は無益の押問答する時にあらず、疾く疾くと首さし伸べて、「斬れ、斬れ」と云ふ。副隊長二階堂衛守、聲に應じて大刀引き拔き、眞向に構へて切り下したれども、手許狂ひて落ちず、斯くてはならじと構へ直して、三太刀目にて落しぬ。首を持ちて退かんとせしかど、重くして持たれず。因りて髪を左右に分ち、二人して持ち行きぬ。




如何にも悲壯の最後であつた。




隊長木村銃太郎は、砲術師範貫治の長男なり。藩命を受けて、江戸に出で、砲術を學ぶ。歸藩(きはん)するに及び、少年子弟就いて學ぶ者多く、訓練數月にして、其技頗(すこぶ)る上達しき。この役率ゐる所の少年隊は、何れも其の門下生なり。少年等呼ぶに小先生を以てし、敵を射撃するに及んで、「狙ひが高し」「構へが嘘」と、銃太郎が命ずるがまゝに、恰(あたか)も平素射撃場に於て、銃を學ぶに異ならず。大壇の戰、我が射撃の精確なりしは、亦此の故に因るといふ。




一個の木村、大壇口の官軍をして、逡巡せしむるに至る。二本松藩の爲めに氣を吐くに足る。彼死するや、齢二十二。




初め少年兵の出陣するや、父兄多くは從軍して家にあらず。母姉相祝して曰はく、幸に家名を揚げよと。戒めて曰く、注意して縛り首となる勿(なか)れと。曰く大將と見ば刺し違へよと。其の戎裝(じゅうそう)*3を整ふるや、せめては衣服だけもとて、母姉は手づから戎服を縫ひ、華かに裝はしめたりきとぞ。成田才次郎が、長藩の隊長を刺し貫きたる、岡山篤次郎の敵に看護せられながら、斫死(しゃくし?*4せんとしたる、小澤幾彌が敵將を感ぜしめたる、何れも千古に傳(つた)ふべき美談なり。




如何にも美談である。






  • 散々時間をかけて引用してから、ネット上に「二本松戊辰少年隊記」と題した文章が落ちているのことがわかったが、それに関して少し不明の部分がある

  • その「二本松戊辰少年隊記」の作者は上記文章の引用元になったとされる水野好之となっているのだが、この内容、すべてに目を通したわけではないのだが、上記に引用したものとだいぶ内容が異なる(そのため、どれが正しい史料なのかわからなくなってしまった……)

  • なお上掲書には、劇中で一番目立った少年、岡山篤次郎についての記述もあるが、リンクを貼るだけにとどめておく(左ページの5行目より)

  • さて、少年兵たちが町中に逃げ帰って来たところで大山の率いる薩兵と出会うのだが、ここも印象的

  • 欲を言えば、少年兵たちがもっと薄汚れて、痩せこけ、ぎらぎらとした目をしているとよかったのだが、それは酷か

  • 大山に目こぼしを受けるところで、副隊長が刀を収め、去っていく大山らにそっと頭を下げるところなんかも、本当らしくていいよなあ

  • 二本松、落城

  • 二本松が陥落したと知り、頼母は自邸で妻や母に覚悟を伝えるが、覚悟していたのは、頼母だけでなかった

  • 一昨日の「歴史秘話ヒストリア」の予告編だけをちらと見て、「こんなの観るかーい!」と思った

  • と思ってNHK のサイトを調べたら、妻の千重子役を宮嶋麻衣が演じたのね、わー、観ておけばよかった

  • で、頼母がおそらく今生の別れのつもりで子どもたちを呼び寄せるのだが、ここで出てくる子どもたちがやたらとかわいくて、死亡フラグが100本くらい立っているよ!

  • 篤次郎は春英のところで死ぬのだが、子どもたちの死を、省略法(たとえば、隊長の銃太郎が「かかれー!」とやって、それから銃声がパーンと鳴って、その次のカットで既に少年兵たちが病院で寝ている、というような演出)や、抽象表現(やはり銃声がパーンと鳴ってのち、無関係のなんらかのカットを挟み、次のカットでは血まみれの紙のダルマがくしゃくしゃになって落ちている、というような演出)でなかったのがいいと思った

  • 子どもたちの死を悲しんだ八重が、夜、鉄砲の試し撃ちをしているところで、今週はおしまい

  • 小市慢太郎も出演しているし、前回、木下政治も出たんだから、(同じM.O.P. の)三上市朗も出演してほしいよなあ、と思っていたら、予告編でその姿が!

  • 八重の桜紀行では、二本松少年隊の出陣の様子を、生き残った隊士である武谷剛介の「修学旅行前夜のようなはしゃぎよう」という言葉で紹介していた

  • 上掲した水野好之の談話にも、似たような記述(左記リンクの左ページ9行目)がある



何となく江戸見物にでも行きたらん心地し、浮浮として夜半に至れども寢られず






おまけ


ネット上でいろいろと探しものをしていたら「戊辰百話」というサイトを見つけた。

この中で白虎隊士の篠田儀三郎(今回、劇中で登場)についての記述がある。私はこの逸話を小学生の頃に「白虎隊のおはなし」みたいなもので知ったのだが、以来、Wikipedia などを調べても出てこず、記憶違いだったのかなあと思っていた。それがやっと確認できて、非常に嬉しい。

そのエピソードを引用しておく。




六、七歳のころ友達と日を決めて蛍狩の約束をした。ところがその当日は日暮前から大風雨となり、あいにく蛍狩には思わしくない日となった。しかるに、儀三郎は蛍籠を提げて友達のもとに行った。友達は驚いて「このような雨天に蛍が飛んでいる筈もない。なんで態々(わざわざ)やって来たのか」と言った。すると儀三郎は、君と一旦約束したからその約束を守って来ただけであると言って、その約束を解いて帰っていった。またあるときは、友達の家で寄り合う約束をした。ところがその日に至って、雹(ひょう)が降りしきり、寒さもことのほか烈しかったので、友達は今日は誰も来ないであろうと思って悠々と構えていた。するとそこに、儀三郎は足駄を手にし従跣(はだし)*5のままやって来たので、友達は大層愕き、かつ謝し、その後篠田の正直といえば誰も知らないものはなくなったという。




私自身は、残念なことに嘘つき者になってしまったのではあるが、子どもの頃にこの逸話を知り、どうあっても約束を違えない人間にならなくてはならない、と思ったものである。





*1:「権兵衛」は役職名なので例によって、「ごんのひょうえ」が正しい読みだそう。『坂の上の雲』にも登場する山本権兵衛も同じ。


*2:調べてみると、この人、梶原平馬の実兄みたい。平馬は、もとは内藤家であり、梶原家に養子に出ている。


*3:軍装のことのようだ。後に出てくる「戎服」も同じ意味だろう。


*4:おそらく斬死の意であろう。なお、「斫」だけであれば「はつる」と読ませることがあるようで、上方落語で、「(顎が長すぎることをからかって)カンナではつってもらったらどないや」みたいなくすぐりがときどき出てくる。


*5:「徒跣」の誤記と思われる。



編集

左目が痛くて、ぼうっと起きている。

ネット上をあてどもなくブラウズして人の文章を読んでいると、「ああ、この人はよくこんなに簡単に言葉が次々と出てくるなあ、すごいなあ」と思うことがしばしば。それに較べて自分の書くスピードの遅さよって悲観的になることもしばしば。

何度も書いたことだけど、いづれ遠くない未来で、ぺらぺらっと喋った言葉がリアルタイムで文字化していくということができるようになると思っている(現時点で簡単なものは既にあるみたい)。書くこと(タイプすること)の遅さもそうなのだが、考えたり思いついたりする早さに対して、技術的な出力方法が根本的に追いついていない、というのがアウトプットの遅い私の言い訳である。

けれども。

もし技術が進歩し、思いついたことを、ジャパネットたかたが宣伝しているようなIC レコーダーにそっと呟いていくだけで、文章がどんどんと生産されていくことになれば、うわ、いろいろと記録することができて幸せ、などと早合点しがちであるが、そのときはそのときで、話し言葉と書き言葉の齟齬を苦々しく感じているのではないか、なんて思っている。

話し言葉は話し言葉としてもちろん成立しうるのだが、ある程度の長文になってくると、ただただ書いていくのではなく、ある時点で、それまで書いたことを読み返すという行為を無意識のうちに行なっていて、その書く→読む→書く→読む、という作業は、レコーダーかインカムか、あるいはもっと特化された小さな機械につぶやくだけではなかなか果たせないのである。

また、書き言葉を話し言葉に下すことは簡単にできるのだが、話し言葉を書き言葉に即時的に下すことは、なかなかできないように思う。というのは、ふだん一般的な人(という定義も曖昧だけど)が頭に思い浮かべているのは、文章というよりきれぎれのフレーズみたいなもので、それを「えい、それ」と糊貼り切り貼りして繋げているのが、日常会話なのだと私は思っていて、それに対して、いまこうやって書いているものは、浮かんだ切れ端をとらえて整え、それからきちんと磨き、あらためて丁寧に繋げていくという作業を行なっている、と思う。

(あ、いや、頭の中に浮かんでいるのが、フレーズなんかではなく文章そのものなんじゃないか、と思う人もたしかにいるんだよなあ……)

そのいわば「編集作業」が、私の場合は、文章を書く際に一番時間がかかる部分であって、そのことに途中で嫌になって「下書き」のまま塩漬けになっているものは、50を下らない。

そもそも、この記事じたい、「あ。ええっと……あれと、これとで……よし、ちょこちょこっとで書けるな」とある程度のあたりをつけてから書き始めたのだが、この時点で既に予め立てた予定時間を過ぎている。もっと具体的に言えば、最初に頭の中に浮かんだのは、「Twitter の文章を繋げていく……IC レコーダーの進歩……技術……でも無理……話し言葉と書き言葉の性質が違うから……齟齬は埋まらない」みたいなイメージの羅列であって、「あ、よし、これなら」と思ってタイピングし始めたらこのざま。「予定時間をオーバーしていること」なんて書くつもりは、当初はまったくなかったというのに!

ちょっと脱線すると、こういう「書きながら考える」というやり方とは異なり、予め起承転結に分け、「起」にこの分量、「承」にこの分量、「転」にこの分量、「結」にこの分量、と最初のうちに配分し、それから書くというやり方もある。

そういう文章は、長文でもかなり読みやすく、あっという間に読めてしまう。世間ではうまい文章ということになっているし、おそらくそういう評価がふさわしい技術も必要とされるのだと思う。でも、私は面白く感じることが少ないんだよなあ、そういう文章って。

うまく言えないのだけれどその人は、「起」の部分を書いているとき既に自分の中で「結」論が出ていて、たとえ「これこれという現象が起こるのはなぜだろうか?」などと書いていても、自分の中では数十行先に出てくるであろう「つまりかくかくしかじかだからである」という答えを知っている。つまり、「なぜ?」の問いに真剣さや必死さがないように見えてしまう。

論文を書いているのならまだしも、非営利目的で書く文章なんてもっと気楽であってよいのだと思うが、しかし、「なぜか?」と書いたときに本当に「なぜだか」を不思議がっていたいと思うし、他人の文章にもそれを期待してしまう。

「なぜ」と書いておきながら「実はね」という答えが既に用意されているようなクイズみたいな文章は、あまり読みたくない。それならば、あれこれと問いばかりが生じて結局答えが出てこないような文章の方がよっぽど面白いと思う。書きながら考えるっていうのは、つまりそういうことなのではないか。

話を戻すと、書き言葉のうちには「読む」「考える」という行為も含まれているが、話し言葉のうちには主に「連想」があるだけで、それをいくら機械的に積み上げていっても自分の満足するような文章は書けないだろうなってこと。いやいや、世間には話し言葉のメソッドのままで膨大な文章をものしているように見受けられる人も少なからずいて、そういうのを読むにつれ、どうしようもない憧れを抱いてしまうのだ。

なんだかいつかも書いたな、こんな内容。以下あたりが関係ありそうなんだけど、やっと眠くなってきたのできちんと読み返していない。




編集

ほぼ1週間遅れで観ている。物語は暗く重い状態がつづいているが、面白さはいよいよ増している。




  • 今週の感想に入る前に、素晴らしかった前々回をより深くたのしめるように、『八重の桜』公式サイトにおける斎藤工(修理)のインタビューのリンクを貼っておく

  • 斎藤 工さんインタビュー - NHK『八重の桜』スペシャル

  • ブックマークでもコメントしたが、上記ページにおける最下段の写真と「楽しくて幸せな現場でした」という章タイトルによって、斎藤工自身が故人になってしまったようにも見える(以下の写真参照)

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  • さて本題、新政府軍がいよいよ会津に迫っている、というところから今週は始まる

  • 新政府より遣わされた異常に顔の薄い奥羽鎮撫総督は、仙台藩藩主(伊達慶邦)に会津の討伐を命じる

  • このやり方、新政府(といっても薩長中心であろうが)の兵力を減らさないというのと、奥羽への服従を誓わせるというふたつの目的を満たすという意味で、よく考えられているなあ、やっぱり

  • 仙台藩、伊達、ということでWikipedia を見てみると、やっぱり政宗の子孫ということがわかり、つまり仙台は江戸時代のあいだ配置換えみたいなことは行われなかったのね

  • ついでに、上のWiki で知った「だて」の読み方について引用



伊達の名は陸奥国伊達郡に由来する。この地は古代には「いだて」または「いだち」、中世以降は「いだて」と呼ばれた。伊達氏の読みも本来は「いだて」であり、暦応2年(1339年)の文書には「いたてのかもんのすけ為景」、慶長18年(1613年)に支倉常長ローマ教皇に渡した伊達政宗の書簡には Idate Masamune とある。15世紀に「だて」という読み方が畿内で発生し、江戸時代を通じて「いだて」と「だて」が混用された。






  • で、この奥羽鎮撫の参謀に長州の世良修蔵(小沢仁志)がいるのだが、こいつがまた腹が立つのだ

  • それに加えて、小沢の声がひどく聞きづらくてなにを言っているのかわからないところがあり、二重に腹が立った

  • 会津では、不作・凶作の心配をしていて、東北は農業ひとつをとってもたいへんな土地だったのだよなあと感じた

  • 覚馬が死んだという報を受けたうらは、くさくさしているが、八重が薙刀道場に連れて行く

  • 道場には、中野竹子、頼母の妻、そして神保雪(修理の妻)もいるのだが、この人たちはみんな……

  • 道場での場面というのは、これまでは剛力彩芽が気軽に登場できるほのぼのとした雰囲気だったが、今では深刻な、そしてここにいるひとりひとりの壮絶な運命を暗示するシーンになってしまっている

  • 場面は上野の、われらが「けいき」さん、慶喜公のところへ

  • 慶喜、将軍職を辞め、そして幕府を終わらせたことについて、「さしたる感慨もないものだな」とひとりごちる

  • 勝海舟との問答の中で、慶喜は自らが、慕ってくれる家臣がおらず孤独であったことを確認する

  • その孤独についての認識は、近代人らしいのかなと思った

  • 徳川家および江戸が救われたが、「では、会津はどうなる?」と慶喜は根源的な問いを勝に問い、そしてすぐに「いや、よい」とひとり得心する

  • この割り切り方が、このドラマで描かれた慶喜の一番の特徴であると思うし、そして一番大きな目的を満たすために合理的にならざるを得なかったという点でも、やはり近代人らしさを感じてしまうのだ

  • 会津の平馬、大蔵、悌次郎、尚之助たちは、仙台藩、米沢藩の主立ったものたちと談判し、会津の生き残る道を模索する

  • 仙台藩の代表が言うには、恭順の証として、鳥羽伏見の首謀者の首級を3つほど差し出すのがよかろう、と

  • このシーン、狭い一室に10人ほどばかりがまさに膝突き合わせる恰好で、唾を飛ばし、ときに怒声を上げながら談義を進めていくのだが、閉ざされた障子の向こう側にある光源(夕景のものか)が逆光となり、正座している各人の表情が隠れたりあらわれたりするという凝った撮影

  • 上記演出のせいか、平馬や仙台藩代表者がアップになったときの迫力が地味ながらもすさまじく、平馬がその場で腹を召そうとしたときに全員が立ち上がり止めようとするシーンには鳥肌が立った

  • 会津の「なんとかした生き延びたい」という思いと、仙台・米沢の「なんとかして助けたい」という思いがひしひしと伝わってくるこのシーンは、懇願・脅し・透かしなどの駆け引きを描いてうまく引き伸ばしたら20分ほどのショートフィルムが作れるのではないか、というくらいに秀逸な場面

  • この会議の結果、仙台・米沢の連盟で奥羽諸藩に通達、「会津を救済せよ」

  • 会津も、兵を進める新政府軍に備えるため、容保の前で、頼母、官兵衛、大蔵をそれぞれの地に遣わすことを決定するのだが、この場面、田中土佐、西郷頼母以外は月代を残していない

  • 新撰組は頼母の傘下に就くことになるのだが、ここで近藤勇の死が視聴者に報され、また、斎藤一山口二郎*1と偽名を用いていることが判明する

  • 斎藤は、三郎の月命日のために線香を手向ける時尾(貫地谷しほり)と初めて出会う(のちにこのふたりは結婚する)

  • 山本家では、奥羽25藩が会津救済の嘆願書に署名したことを喜んでいる

  • ところへ、若い米沢藩士らが新式銃の調練のために、尚之助を訪ねて来る

  • その藩士の中に、米沢訛りの朴訥な内藤という男がいるのだが、どこかで見たことあるなあと思ってしばらく考え、沼田爆*2に似ていると思いつき、「ああ、沼田爆の子どもも役者になったのだなあ」としみじみした



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沼田爆






  • が、念のために、とオープニングのキャストを確認したら、劇団M.O.P. の木下政治だということが判明、道理で見たことあるはず!



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木下政治






  • 仙台藩主、米沢藩主の両名が嘆願書を鎮撫総督に渡すのだが、世良が目の前でそれを握りつぶす(で、相変わらず世良がなにを言っているのか伝わりにくい)

  • 一方、江戸では広沢富次郎(岡田義徳)が会津救済を西郷に申し出るために総督府を訪れるのだが、騙され捕縛されてしまう

  • 福島では、傍若無人の振る舞いをする世良は、仙台藩士(福島藩士か?)を愚弄・罵倒し、ドラマ的にも「あ、この世良ってやつは殺されてもいいんだな、小沢仁志だし」みたいな雰囲気を醸成

  • そして、世良が武力討伐を押し進める内容の密書を送っていたことが判明したために、両藩藩士らは、世良を暗殺する

  • この世良暗殺の報が、平馬によって会津の容保のところに伝えられ、容保、観念したように「もはや戦は避けられぬ」

  • 結局、たったひとりの粗暴な男が挑発をつづけ、そこに爆発してしまった奥羽勢がその挑発にうまく乗せられ、薩長の新政府にいい口実を与えてしまったという構図は、現代でも充分に通用するやり方なのだと思う

  • 「たったひとりの死」という言い方もおかしいが、それがために奥羽戦争が勃発するというこの世良という男の「導火線」っぷりも、歴史の大きなスパンから俯瞰すると、すごいものがある

  • 大山弥助が砲兵を率い、頼母たちのいる白河を攻め入るのだが、相変わらず、反町が贅沢につかわれている

  • 火力の差により頼母たちは退却をせざるを得なくなるのだが、「吶喊あるのみ」とひとり死のうとしたその頼母は、もしかしたらこのときになって初めて、新政府軍の実力というもの、そして自藩の武力が時勢に適していないということを知ったのではないか

  • 官兵衛は長岡藩に行き、同盟を持ちかけるのだが、このときの家老を演じているのが扉座の岡森諦(個人的に懐かしい)で、官兵衛に「ガットリング砲」の設計図を見せて、「越後5藩とともに、奥羽同盟に加わりますがいや」

  • 語尾の「がいや」がいいね

  • というわけで、31藩からなる奥羽越列藩同盟が結成

  • ここらへんの描写を見るに、東北というのはやはり中央(江戸なり京なり)から疎外されていたのだろうなあと痛感した

  • (2013/6/20追記)そうそう、「東北疎外」が現代でもつづいていた証拠にサントリー社長の「東北熊襲発言」を再確認しなきゃいかんと思っていたんだっけ

  • 東北熊襲発言 - Wikipedia

  • 維新ものといえば、どうしても薩長側から描かれることが多いが、「追い込まれた」と言わざるを得ない東北側の心理というのを今回のドラマで初めて知ることができ、理不尽な状況に陥りながらも、しかしどこかで面目を立てて武士の一分を示さなければならないという東北勢に100% のシンパシーを感じてしまい、翻って薩摩・長州の憎いこと憎いこと

  • このドラマを観た東北の子どもたちは、一生、鹿児島、山口出身の人間を赦すことができないのではないか、とも思う

  • 理不尽なことから追い込まれてしまった、という状況は、震災に遭った東北のそれとまさに同じで、判官贔屓気質の日本人であれば、やはり応援しなければならないだろう

  • まだ投獄されたままの覚馬は、悪夢を見るのだが、この悪夢の描写も前衛的で面白かった

  • しかしこのシーン、なにか似ている情景があったなあと必死になって思い出してみたら、'84の映画『フィラデルフィア・エクスペリメント』でのタイムスリップの描写とちょっと似ているのだ(興味のある方は、下記動画の再生場所あたりをご参照あれ)








  • 目を醒ました覚馬は、どこで道を誤ったのだと振り返り、「おれにはなんもできねえ」と涙を流すのだが、このシーン、西島秀俊の演技はいいのだが、台詞にいまいち実感が湧かない

  • 「なんもできねえ」のは当たり前で、個人がどうこうしてひとつの藩、あるいはひとつの国を変えることができたのだろうか、と思ってしまうのだ

  • そこに懐かしの吉田松陰の台詞が響き、「(おれにできることが)ひとつだけある」と覚馬が確信するのだが、それがはっきりするのは次回以降のことのようだ

  • 八重とゴーリキーは白河での負傷者を救護、医師の春英が「もうそろそろ(帰りなさい)」と勧めると、ゴーリキーは「はい」と返事をするが、八重は「もうちっと……やらせてくなんしょ」といつづける意志を伝える(ゴーリキーは帰ろうとしたけどね!)

  • 『八重の桜』紀行で紹介されていた頼母直筆の掛け軸にあったかたつむりの絵がかわいかったよ!



*1:これはまあ、父の姓が山口ということと、その次男であることから、ある意味本名と言っていいのだと思うが。


*2:この名前を思い出すのに非常に時間がかかった。はっきりと記憶しているのは鬼平犯科帳で料理好きの役ということだけだったからである。なお、我が家では、この人は「大和田獏じゃない『バク』」ということで通っていた。



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朝が早いとはいえ、昼は普通の人に較べれば結構な時間を休憩に注ぎ込んでいる。昼寝することも少なくない。

2日前か3日前だかにちょっとした雨が降ったけれど、それ以前も、それ以後も、信じられないくらいの高温乾燥がつづき、関西は夏ですよ、夏。

夏なので、蚊らしきものも昼のうちからぶんぶんと空中を旋回しておるのです。それが、やっと片付けたこたつがあったところでごろごろと昼寝している私の耳をおびやかす。うぅうーん。うぅうーん。

それこそ心眼を以ってして箸でバシッと捕まえることができれば安眠を妨げられることもないのだが、そういうわけにもいかず、仕方がないので蚊取り線香を取り出し、火を点ける。煙が出る。

はっきり言って効果のほどは知らない。「効くのかな?」と怪しく感じるときもあるのだが、もともとは除虫菊の成分で作られているということだから、キクのだろうやっぱり。

で、起きて仕事にでも行こうと、玄関で靴を履いていると、T シャツに蚊取り線香の匂いがついているのに気づく。




線香の香(か)も憎からず 空梅雨の






外はやっぱり暑い。カラッカラに乾いた野外ではなにもかもが乾燥していて、よその村ではひび割れてしまった田んぼもあると聞いた話が実感を帯びてくる。事務所の中に避難して空調をつけてほっと一安心。そこからえっちらおっちらと仕事をするフリをして、なんだかんだですっかり7時を回っていた。

事務所の外に出ると、日はすっかりと沈んでいた。沈んだものの、この時期は日没時間が遅いので、まだ空には夜の黒に染まる前の青が感じられた。BLUE NOTE レコードのジャケットのブルーみたいだった。




午後7時10分 BLUE NOTE ブルー






それから事務所に戻ってなんやかやの後片付けをし、さて帰るかとふたたび出ると、今度はやけに明るい。中空に半月が浮かんでいるのである。軽トラの停めてあるところまで歩き、乗り込もうとすると蜘蛛の糸が顔に絡んだ。いつものことだ。軽トラは柵があるところの傍にいつも停めているのだが、この柵に住んでいる蜘蛛が、ほぼ毎日、柵から軽トラの運転席ドアのあたりに蜘蛛の巣を作ろうとする。

けれども、私はドアを開けて車に乗らなきゃならないわけだから、暗闇の中で手を振って糸を振り払う。これが毎日。少しは学習してくれよ、蜘蛛くん。きみが投げ渡しているその蜘蛛の糸は、永遠に巣にはならないんだぜ。




蜘蛛の糸絡む 半月でも明かし*1




まだ、本格的な夏にもなっていないのである。



*1:追記。「明るし」を「明かし」に変更。おそらく文語的な遣い方では、「明るし」はおかしいような気がしたので。



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