とはいえ、わからないでもない

2013年08月

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今はもう削除されてしまったが、日刊ゲンダイ7/18の記事が、また別のところで見つかったので、後半の『七つの会議の』部分だけ引用してみる。池井戸潤の原作によるドラマ、『七つの会議』と『半沢直樹』を比較した内容だったのだが、クソ記事である。

<生真面目が裏目に出たNHK「七つの会議」>

 一方、NHKの「七つの会議」は厳しい評価だ。中堅電機メーカーを舞台にした内部告発がテーマだ。主人公は東山紀之(46)で、業績を上げられずに苦しむ平凡な営業課長を演じている。

「これまでの企業ドラマは、サラリーマンの葛藤をシリアスに描くのがお約束でした。『七つの会議』も、生真面目に企業の内部を描写しモラルや人間模様を映し出しています。ただ、それでは今の視聴者は憂さを晴らせない。ドラマを見ても、“確かにそうだよね”と思うだけです。“企業や組織内での葛藤”の次に“留飲を下げる憂さ晴らし”がないと受け入れがたいし、救いがありません」(こうたき氏)

 NHKらしく、映像は凝っている。それも今回は裏目に出た。
「淡いブルーの薄暗い画面は気取っていますが、見る側の気持ちまで重くしてしまう。眉間にしわを寄せて悩んでいる主人公の姿も、シリアスですが面白みがない。ドラマ『カラマーゾフの兄弟』でも力を見せつけた吉田鋼太郎が、悪に足を突っ込んだ陰のある役で見応えのある演技をしているだけに、なんとも残念です」(麻生氏)

 原作はどちらも面白いだけに、演出の力量で差がついた格好である。

この麻生っていうのと、こうたきってやつ、名前を憶えておいた方がいい。こいつらなにもわかってない。
この記事が出た時点で、「半沢」の視聴率が平均21.8%、「会議」の初回のそれが6.1% という数字が出ていたらしい。まあ評論家だかなんだか知らないが、おそらくは数字をベースにして語っている時点でもう素人と変わらないし、こいつらを専門家として意見を求めているこのスポーツ新聞もろくなもんじゃない。


僕は『半沢』の方は第一部の最終回と第二部の初回しか見ていないので、第一印象程度にしかしゃべれないのだが、まあ、わかりやすい演出のドラマだなと思う。登場人物たちが、怒っているのなら怒った表情、焦っているなら焦っている表情、とマンガで言うところ「漫符(汗マークとか怒りマークとか)*1」をつけたような演出だなと思っていて、凝ったものは感じられない。
いや、貶しているように思われるかもしれないが、高視聴率を取るというのはつまり、「凝ったものを作らない」ということなのだ。
かつて、NHK の大河ドラマ平清盛』の第一回を観た元テレビアナウンサーの桑原征平が、そのラジオ番組で「われわれ一般人というのはなにも芸術作品を観たいわけじゃないんです。もっとわかりやすいものを求めているのです」と語っていて、僕はそういう「わかりやすいもの」を必ずしも評価するわけではないのだけれど、ものすごく得心がいったということがあった*2

上に挙げた「専門家」たちは本当に『七つの会議』を観たのだろうかと思う。この記事が出たときは初回だけだったのかもしれないけれど、僕はその初回からして一気に惹き込まれた。
実は、初回の半分も過ぎたあたりからたまたま観ることになり、「どうせ途中からだしなあ……」とやや不本意な態度で視聴を始めたのだが、番組の予告CM でリリー・フランキーかと思っていたのが実は吉田鋼太郎だとわかり(リリー・フランキーだと思ったから、観なくていいやと思っていたのだった)、しかもあまり期待していなかった主役の東山紀之がものすごくハマり役で、また、小さな工場の社長の甲本雅裕、その妹の遊井亮子あたりのやりとりを観ていたら、これはまずい、最初っから、しかもすべてまとめて観なければ、と思い、今まで溜め撮りをしておいて、最終回(第四回)を無事録画したところで、NHK オンデマンドに210円を払って第一回をもう一度観直した、という経緯がある。

で、結論としては『八重の桜』を除いて、今年一番のドラマなんじゃないかと思った。いや、他のドラマ観ていないから、こういう評価に全然根拠はないんだけど、かつて同じNHK のドラマ『クライマーズ・ハイ』を観たときと同じ感動を覚えた、ということは書いておきたい。
まず、なんといっても撮影がものすごく凝っている。全体的にローキーではあるのだが、妻の戸田菜穂の待つ家庭では温かい色調が用いられたり、あるいは、「銀残し」または「ブリーチバイパス」と言われるようなザラッとしたコントラストのキツい映像などもあり、これらを観ているだけでもたのしすぎた。
あと、役者陣の重々しさ。好きな役者たちを簡単に紹介すると、

吉田鋼太郎

やっぱり迫力が違うし、存在感がものすごい。個人的には、彼がいつも着ているスーツの色が気に入った。ポケットにつねに手を入れ、けれども背筋はピンとしている彼が、今ドラマの準主役とも言える。

眞島秀和

東山の前任の営業第一課長。彼はもともと『海峡』というNHK ドラマで知り、それ以来好きなのだが、ちょっと三枚目どころで使われることが多くてもったいなく、本当は今回みたいに目立つ役をやってもらいたい。登場するところは実は少ないのだが、その少ない機会でも、抱えている葛藤がよく表情にあらわれていて、特に最終回の最後のシーン(甲本雅裕とのやりとり)の切実さというのは胸に迫るものがあった。

甲本雅裕

東山たちの会社の下請け先の社長。彼はいつもしょぼくれた役が多く、僕は今までそれほどには評価してこなかった*3のだけれども、このドラマでの彼はすごくよかった。プライドを持ちながらも、仕事を取る(=受注する)ということはどういうことなのか、恥を忍んでもカネを手にする(=金額の前払いを依頼する)ということはどういうことなのか、ということを、叫んだり泣いたりすることなく実に丁寧な演技で表現していたと思う。

遊井亮子

その兄の甲本を支える妹が彼女で、東山に頭を下げるシーンや、生活のことを考え必死に仕事をもらおうとするところなど、全身から溢れ出る「工場(こうば)の仕事で生きている人」の生活感がものすごかった。東京の大田区あたりに行けば、本当に彼女と甲本がねじを作っているのが見られるんじゃないかと錯覚させられるほど。すごくいい女優さんだし、瓜実顔というのかな、ちょいと面長で好みの顔立ち。

豊原功補

この人も好きなんだよなあ。声がちょっと高いんだけど、独特で。彼の演じた佐野という役柄もバイタリティがある独特な人物で面白かった。彼も主役級でもっともっと活躍してほしい俳優さん。

石橋凌

ヤクザみたいな営業部長。器用な役者とは思っていなかった。一に迫力、二に迫力、三、四がなくて、五に迫力ってくらいの人で、それだけの人なのかと思っていたら、そうでもないようだ。別に画像停止して確認したわけじゃないんだけど、対話している際、しかも「ここぞ」といったときには、わざと対話相手の目線より少しだけ下を見て話しているように見え、その「目を合さないやり方」が異様な迫力を生んでいるのだと感じた。綿引勝彦が、迫力を出すためにわざと会話のテンポをずらして演技する、というのを聞いたことがあるが、それと似たようなテクニックなのかもしれない。

村川絵梨

東山の部下役なのだけれども、非常にかわいらしくてよかった。客観的に見れば、前髪ぱっつんスタイルをするには少し柄が大きいように見えたのだが(ほっそりタイプではないということ)、そういうのも含めて非常に好きなんだよなあ。あばたもえくぼ。この人もちょっと面長で好み。観たことはなかったけれど、NHK の朝ドラの主演をやったことがあった。

戸田菜穂

この人も、朝ドラの主演をしていた。観ていないけど。東山の奥さん役なんだけど、すごくよかったなあ。東山と年齢も合っていたし、従順な良妻賢母というわけでは決してなく、きちんと独立した女性として、東山を精神的に支えているというのが非常に感じられたのだけれど、これはたぶん脚本家が女性(宮村優子)ということもあるんだろうね。ちょっと脱線してしまうけれど、僕は男側に都合のいい女性という設定が非常に嫌いで、そういう幼稚な表現・描写というのはもう時代に合わないだろうと思うのだが、なぜかまだまだ多い。これも余談の余談だけど、半沢の妻を上戸彩がやっているというのを観て、僕は目を疑いましたよ。演技うんぬんの前に、年齢が合っていない。

中村育二

カクスコの育ニさんですよ。製造部長役だが、この人も迫力があった。もともと声がいいというのは知っていたけれど。僕はもうこの育二さんと井之上隆志がテレビに出てくるだけで嬉しくなってしまう。カクスコは、最終公演(2002年)をたまたまテレビで観ただけなのだが、あの映像は5、6回は繰り返し観たよなあ。今も活躍しているけれど、もっともっとテレビに出てほしい。たとえば彼の名前は、NHK の公式サイトの「おもな登場人物」には記載されていないのだが、こういうのがファンとして悔しいよ。

東山紀之

そして、主役。彼の芝居をはじめて観たけれど、非常によかった! 彼の役どころは、ハンサムでなんでもできるスーパーマン、ではなくて、どちらかといえば凡庸な課長。第一回では、部長の石橋凌に、「おまえの武器は顔だ! その顔で女社長、女丁稚を落として売ってこい! それができなけりゃおまえはクズだ」とまで罵られるくらい。
その外観も、もみあげとかあるいは髪の分け目あたりには白髪があって、きちんとした年相応のサラリーマンという感じ。そしてその性格は、優柔不断であり、なかなか決断ができないのだが、「あること」が発覚して以来、「引き返せない場所」までずんずんと足を踏み込んでいき、それにともない彼自身の言動も変化していくのだが、それを見事に演じきっていた。前半と後半とでは、その眼力(がんりき)が全然違うんだ。

このほか、北見敏之、小野了、神保悟志など渋いところも出演していた。神保(『相棒』の大河内監察官)の部下に小野(『相棒』の刑事部副部長*4)という設定がちょっと笑えた。
基本的にヘタは出演していなかったが、ひとりだけジャニーズ枠の男だけが、これがもうどうしようもなかったのだが、まあ仕方ないか。そのぶんを東山がみごと補い、お釣りがくるぐらいだったのだから。


ストーリーについて。
エリート集団である営業第一課の課長が突然更迭される。凡庸な原島(東山)がその後任となるのだが、上司から受けた指示が、「転注せよ*5」というものだった。
調べれば調べるほど、その指示には裏がありそうで、やがて原島は真実の緒(ちょ)を見つける。ねじの強度偽装。
ねじ製造をする甲本が原島の持ってきたサンプルのねじの強度検査をするシーンなど、これはもうサスペンスといってもよく、そこから、事件を隠していたヴェールが徐々にほどかれていって……。
このドラマを観ていると、あまりにも原島を応援するあまり、途中、隠蔽工作がすべてうまくいってくれれば、と願ってしまうところもある。真実は暴いた方がよいのか、それとも隠蔽した方がよいのか。会社は潰れた方がよいのか、それとも、生きながらえさせるべきなのか。
ドラマのはじめの段階からわかることなのだが、原島は内部告発をする。物語はその原島の回想を中心に進むのだが、しかしその内部告発じたい、それを完全に「よいこと」と言えないのがこのドラマの面白いところ。エンディング近く、原島が部下たちに内部告発をしたことを謝るのだが、部下たちは、その原島を称讃するどころか、逆に散々ののしる。このドラマの中では誰もきれいごとの中では生きておらず、つねに、自分たちの生活を考えていて、それは現実そのものだ。
原島がエンディングで味わうのは、ひとことで言ってしまえば「苦さ」だ。真実の苦味を口にしながら、それでもなお彼は会社に残って、仕事をする。ドラマの中ではそこにわづかながらも仲間が残っているのだが、実際は孤軍奮闘ということもあろう。そういうリアリティを描くドラマってそうそうないような気がするから、僕は非常にたのしめた。
冒頭の引用文には、「溜飲が下がらない」ことをこのドラマの短所として挙げていたが、たとえば半沢のようなとにかく意志も強く頭も切れる男が悪い上司を懲らしめる、という設定の方が、よほど現実との乖離を感じてしまうのではないかと思うし、それ以前に僕は、テレビドラマに単純なカタルシスを求めていない。


それにしても、予め視聴率の結果を知っていて、それに基いてもっともらしい解説をしている「評論家」は、もう必要ないだろう。そんなのは「後出しジャンケン」に過ぎず、もう少し踏み込めば、高視聴率の尻馬に乗った売名行為でもあるのだ、こいつらの仕事ってのは。インターネット上では、無名の人の「逆張り行為」というのはよく見られるが、こいつらがそういうリスクを冒すのを見たことがない(まあ、注視していないっていうのもあるけど)。たとえば『あまちゃん』をボロクソにけなすやつが全然出てこないっていうのも気持ち悪いし、それだけテレビ批評のレベルが低いってことなんだろう。というか、「テレビドラマ評論家」って肩書がもう既に噴飯物。
そんな連中の言うことを真に受けるのではなく、それこそブログなんかでいい批評をしている人たちはおそらくたくさんいるとは思うから、今後はそういう人たちの批評を信頼した方がいい。まあ、ほんとはその前に自分自身の批評というのがあるべきで、僕は検索してまで他人の批評を読んだことはない。引用した文章などはたまたまYahoo のヘッドラインに上がっていたから見ただけで、「世間の評判」とか知らない誰かの批評なんてほとんど信じていない。

『七つの会議』について言えば、最終的な視聴率がどうだったのかは知らないのだけれど、こういうのが評価されていないというのは実に寂しい現状だと思う。「よいドラマを作ったって……」と現場が萎縮してしまうのではないか。このドラマを観てよかったと思った人は、どんどんとその感想をネット上で広げてほしいもんだ(別にそれを読もうとは思わんけど)。
NHK のオンデマンドでは一回につき210円だから、全部で840円か。まあ、映画くらいの迫力があるので、PC で全画面表示してたのしむっていうのはアリだと思う。

【同日追記】

とアップしたら、たまたま、きなこさんの記事を拝見した。

「私怨」をテーマにして、注意深い考察をされている。なるほど。
保坂和志が、自分の生活は別として、作品では義憤ではなく私憤を書かなければならない、そうしなければ読者が共感を得られないと書いていたが、まさしくそのことを書いていらっしゃると思う。
僕は上の記事で、「このドラマの中では誰もきれいごとの中では生きておらず」と書いたが、たしかに、ゆいいつ原島だけは正義を実行しているのかもしれないなあ。彼は、自分の生活と正義を秤にかけて、迷いに迷った挙句、「正しいこと」に向かってジャンプをした。その逡巡もありながらの跳躍が、最終的に周囲から受け容れられなかったというところが、なんだか「正義の敗北」のような感じがあって、僕は気に入ったのだった。

あと、きなこさんのおっしゃるとおり、半沢は正義のヒーローじゃないと思います。「半沢の正義」を実践しているだけであって。


P. S. きなこさん
いきなりのトラックバック、申し訳ありません。昔の名前で出ていません男です。この通知って、きちんと届いているのでしょうか?

*1:あれ。僕はこの「漫符」という言葉を、相原コージ竹熊健太郎の『サルでも描けるマンガ教室』で知ったのだが、念のためWiki で調べたら、初出も『サルまん』なのね。

*2:たしか『清盛』の初回は、頼朝が平家を滅ぼしたところから、頼朝が清盛のことを回想していく、という構成だったと思う。

*3:「朴訥でマジメ」というイメージを超えられないという印象だった。

*4:実際は参事官という役職。

*5:はじめて聞く言葉だったが、発注を変えよという意味らしい。

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はてなブロググループで、指摘されていた問題点を改善した由。カテゴリーごとに、グループに投稿できるようになったみたい。まあ、要望が受け容れられたことはよかったことだとは思う。

こういうことが技術的に可能であれば、記事ごとの公開・非公開の選択もできるんじゃないか、と素人は思ってしまう。僕はGoogle+ を利用していてそれ以外のSNS がどうなっているのかわからないけれど、サークル(自分の投稿が送信される先)を設定してから投稿できる、というのは現在ではごく当たり前の機能なのではないか。
逆の考えでもいいんだよ。通常は限定公開なんだけど、この記事だけは完全オープンにするよ、というような。

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国道傍のワークマンに行って作業用のワークパンツを買ったら、その場で裾上げしてくれて、嬉しかった。折しも、急激な大雨で、店内でぼうっと待っているあいだに雨雲は去り、北の空には半分の虹が見えた。

裾上げを待つ身に雨の捨てた虹

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今夜、当ブログをプライベートモードにする予定でしたが、それでも、過去の記事をさかのぼって読んでくださる方がいらっしゃって、これは文章を書いた側からすれば死ぬほど嬉しいことなので、当初の「閉鎖する」という予定を変更し、このまま放置することにしました。ゆっくりと好きなようにご覧になってください。

で、嬉しさのあまり死んでしまった私は、ID のアイコンを遺影に変えておきました。




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実はこのネタ、2回目




こいつ(id:todotaro)は二度と目を醒まさないとは思うのですが、過去に記事についてありがたいコメントなどがもしあったら、そのたびにゾンビのようにむくっと起き上がってニヤニヤしながらコメント返しをすることがあるかもしれません。

また、こいつ(id:todotaro)は意外にカラースターを多く抱えているので、よそさまのブログを拝見して特に感銘を受けたときには、「妖怪色星くばり」として腐敗臭を漂わせながらカラースターを撒き散らしに伺うこともあるかもしれません。

なお、当ブログの過去記事に対して「名無し」とか「通りすがり」の心ない落書きがあった場合は、最新鋭のイージス艦よろしく「全力でやってやんよコラ」のポリシーで、排除あるいは徹底した攻撃に務める所存です。



で、結局なんだかんだを書き散らす「場」がすぐに必要になってしまったので、別ID を作成し、そこでささやかなブログを書き始めています。

これまでコメントをくださった方には、おそるおそるトラックバックなりID コールなりでお知らせできれば、なぞと考えております。こういう「お知らせ」は、私がもっとも毛嫌いする自己宣伝行為で非常に羞ずかしいのですが、恥を忍んでお伝えしたいと思います。

また、人見知りの私ゆえ、今までこちら側がスターをつけるだけだった方に対しては、留守を狙う空き巣のように忍び込み、そっと別ID でスターをつけますので、ヒマでヒマで死にそうで死ぬのだけはイヤだという際には、ご一瞥を頂ければ有難く存じ上げます。恐惶謹言。

これでほんとうにおしまい。とっぴんぱらりのぷう!



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深夜になって目が爛々としてくるわが二匹の猫たち、台所の食器棚の上に置いた神棚の前に上っては、磨りガラスの向こうを凝っと見つめていた。

硝子むかふ 白腹ヤモリに猫うなる

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きのうの朝、ラジオ番組にフォーク・クルセダーズきたやまおさむが出演していて、「AKB48 なんて、あいつらどこ向いて歌ってんだ」と苦言を呈していた。「どこ向いて」とは、つまり実際の人間に向けて作られた歌を唄っているのか、ということ。そういうきたやまは、『あの素晴らしい愛をもう一度』を唄っているときには本当に愛の素晴らしさを唄っていたんだ、われわれはそういう世代なんですということを言っていて、なるほどなあと思った。
AKB48の音楽を作っているのは、ヨカラヌオトナタチであって、あの女の子たちはおそらくなにも頭に思い浮かべずに唄っていて、それはファンだったらわかっていることだし、AKB に熱を上げている連中はそんなことは百どころか万も億も承知だと思うのだが、それとは別に、きたやまの言ったようなこと、つまり「愛について唄っているときは、本当に愛について考えているんだ」という姿勢は、なんというか素敵だ。

素敵、と書いたが、本当は当たり前のことのようにも思うし、それは文章を書いていてもきっと同じことなのだろう。
どこか絵空事の文章を書く人がいる。ああそうなんだろうけれどもね、と僕なんかは思ってしまう。もうちょっとだけ本心が出てくればな、と僕は添削するような気持ちで読んでしまう。いや、たぶん終いまで読みきれないと思う。そういう文章はどこまで行っても美辞麗句が並ぶだけで、生意気なことを言えば、その行き着くところ、つまり結末なりオチなりは途中でだいたい読めてしまうのだ。
「絵空事」は、なにもポジティブなものだけではない。ネガティブな内容で成立させることも可能だ。いかにおれ/わたしは辛いのか、苦しいのか。それをどこかで聞いたような言葉で書いても、読み手にはなかなか伝わらない。ちょっとでも文章に触れたことのある人間なら、「あ、テンプレートに乗せて書いているな」というのがわかってしまう。無論、そうと意識して文章をテンプレ化している人は少ないだろう。けれども、結果は一緒。そして、テンプレ化した文章の行き着く先は、テンプレ化した思考のだらしのない表明で終わってしまうだけだ。「ひとりはさみしい」とか「ふたりはたのしい」とか。

たとえば、野田秀樹『半神』では、サリドマイド児の女の子が主人公で、彼女はもうひとりの姉妹とつねに一緒であることに苦痛を感じており、天地真理『ひとりじゃないの』の音楽が多少ユーモラスにかかった後、「ひとりじゃなくないってことは、もっと素敵よ」という台詞を役者に言わせている。


2:25あたりから見るとわかりやすく、3:40あたりに件の台詞が

みんなの書いたり口にしたりする文章が、すべてこんなふうに逆説的で劇的で詩的であったならば、たぶん僕たちは今とは全然違う世界を生きていると思うのだが、まあそんなことはなく、テンプレートがたくさん用意された予定調和の世界があるだけ。あるだけ、なのだが、でもそこにクサビを打ちたいじゃないか。
そのクサビが、ある人にとっては文章だったり、またある人にとっては音楽だったり、絵を描くことだったりするのだと思う。

自分の文章をテンプレートにハメ込まないためには、つねに、自分の書いた言葉をチェックしていくことが重要だ。いま、モニターに表示された言葉は、本当に自分の書きたいことなのか。もしかしたら、鼻歌を唄うように指先が勝手にタイプしてしまった言葉じゃないのか。
自分の文章に甘くなってしまってはいけない。自分の文章をいったん自分から突き放し、数秒前、あるいは数分前の自分を、冷たく見つめる。そういう冷たさを持たなければいけない。そうすれば、自分の文章に陶酔することもなくなる。自分の考えに陶酔することもなくなるということだ。
……なんてことを考えていて、その一方で、「不特定多数の他人の視線にさらされている」ということを意識してしまうと、「気にしない」ということを選択するより、「気にしないで済む環境にした方がええんじゃないか。そうだ、そうだそうだ。ええじゃないかええじゃないか」と思い、一気に前のブログを閉じ(ようとし)た、という経緯があるんだけど、それはいくつかある理由のひとつに過ぎないし、もう過去のことはええじゃないか、という思いもありマスク(©広川太一郎)。

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きのうの朝は、いわし雲が美しかった。

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こういうとき、一所懸命に句をひねろうとするのだが、まあ無理だね。日頃の修錬がいかに足りないかと痛感させられる。

ごちやごちやと言葉はいらぬ いわし雲

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けっこう前から畑を飛んでいるトンボ。一羽一羽を見るにはきれいで愛らしいのだが、群れをなして飛んでいるところは、圧巻。

悪童の尿(しと)浴びてをり 秋茜

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