とはいえ、わからないでもない

2013年11月

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僕が俳句を作るようになった理由はいくつかある。

たまたま、新聞の文化欄で池田澄子の

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの

を目にし、それこそ雷に打たれたように、「これはすごい!」と感じたことがあった。これがひとつ。

また、大西巨人神聖喜劇』の中で、西東三鬼の

沖へ歩け晩夏の浜の黒洋傘(こうもり)

が出てきて、やはり同様に、「すごい!」と感じたことがあった。これがひとつ。

そして、当地に引っ越してきた際、引き合わせてもらった町のお偉いさんから、原石鼎の

淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守

を教わり、そのときになんとなく、「ああ、いづれは俳句を詠みたいなあ」と感じたことがあった。これがひとつ。

という、以上の三点が綯い交ぜとなって僕に作用し、なんとなく、駄作をものすということになった、というわけ。

いま改めて三句を並べてみても、脈絡がないながら、俳句らしさというものが感じられる。幻想であり、また詩でもあり、そして生活でもある。それを十七字であらわせるということを知り、あらわそうと苦心し、あらわせたと勘違いする、そのたのしさよ。


きのうは初雪。
本格的な降雪とはならなかったが、寒さに澄む中に、おそらく渋柿であろう木に生る実があかあかと見えた。

熟れ柿や 燃え盡きたかのやうな赫

また、葉の残っているものもあって、

柿の葉が柿の実色に匂ひをり

「にほふ」は、古義の「染まる」の意で用いている。

来月七日に、また家族で句会を行う。お題はきょう発表。それぞれ、

  • 椿
  • 冬至

ということになった。
むむむ。なかなかに難しいが、戯れ句だけは浮かんだ。

手唾し当事者来るまで取り調べ
てつばきとうじしゃくるまとりしらべ
鉄・椿・冬至・車・鳥・調べ(=歌)

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トラックバックはしないが、きなこさんのブログに「多目的トイレ」の利用についての話が書かれていた。
僕は、あの車椅子のマークがあるスライド式ドアのトイレを「多目的トイレ」ということすら知らなかったのだが、さらにコメントで、授乳などにも利用されるということを教わった。
きなこさんは、このトイレが「ただ広いから」という理由で使われることがあり、本当に必要としている人が利用できない場合があるということに憤慨されていて、その理由を、身近に心身に障碍のある人がいない、あるいは、想像力が欠如している、とされていた。いちいちもっともだと思う。僕も知らないことがたくさんあり、「顔火穴入」の思いをした。

以上を踏まえて。
僕は知っているけれど、他の人があまり気づいていないようなことはないかなあ、と考えていくと、ひとつだけあった。
たいしたことではないが、公衆電話の数がものすごく少なくなっている。僕は携帯電話を持っていないので、外出したところで電話をする必要があれば公衆電話からかけるしかないのだが、まず、これがすぐには見つからない。まだ駅の構内などにはあったりするのだが、それでもない場合がある。また、日本のどこかにはあるのだろうが、「電話ボックス」なんてとんと見かけなくなった。
これ、携帯電話派(というか大多数か)の人にはなかなか気づきにくいことだろうと思う。でもまあ、僕自身が田舎で暮らすようになってからは必要なくなったけど。

二日ほど前、ラジオを聴いていて、人間は知らないことには気づきにくいのだということを知ったことがあった。それは乳癌検診の話。
それによれば、日本人女性が一生のうち乳癌になる確率は、十四人に一人という割合らしい。この数字が「確率」の話なのか、それとも「実際の患者数」なのかはよくわからなかったのだが、それでも十分注意を必要とする数字である。
ラジオではさらに、乳癌検診を受診する動機として一番多かったのが、「身近にいる人の薦め」だったということを伝えていた。おそらくその薦めた人の身近にはまた薦めた人があって、その薦めた人にはそのまた薦めた人があって……とこのつながりのどこかで、乳癌で亡くなった方や、あるいは早期発見によって助かった人がいたのだろう。
実はその番組も、一年ほど前に出演者が乳癌によって亡くなっていて、彼女が出演しているときから、乳癌検診の必要性を訴えていた。彼女が亡くなっても、月に一回はそのコーナーがつづいていて、啓発活動を行なっている。
だから僕も、そういうニュースを見聞きしたりするたびに、知り合いの女性にメールを送ったりしている。余計なお世話なんだろうけれど。
いろいろと啓発活動をしているサイトはあるようで、たまたま見つけたものをリンクとして貼っておく。

上にも書いたように、聴いていたラジオで出演者が現実に亡くなってしまったという事実が、僕が「乳癌は怖い」と思うようになったきっかけで、このことがなければ、「ああ、ピンクリボンってあるよなあ」というところで終っていたはずである。その出演者であった牧野エミが泣きながら「悔しい」と言っていたことは、今でも忘れられない。


知らないから、気づかない。それはそうなんだろうが、知らないから仕方がないだろうとはならない場合がある。知らないために行なった行為が、他人や自分自身に害を与える場合がある。自分自身のことだったら、自分ひとりが諦めればいいだけかもしれないが、他人となればそうもいかない。
人間は、「あるもの(=存在)」についての注意機能は発達していると思う。無根拠に言ってしまうが、これは動物としての本能であって、視覚情報あるいはそこから予想される結果に注意を働かせる能力は優れているのではないか。もし優れていないのであれば、ここまで人類が発達はしてこなかったろうと思う(※)
それに対し、「ないもの(=不在)」に対して注意を働かせることは難しい。「不在」は、意識していなければすぐに忘却してしまう。しかし、いま目の前に存在していないからといって、この世界からまったく存在しないというわけでもない、というのがこの難しいところだ。ためしに「不在」で辞書を引くと、「その場にいないこと」とある。非存在ではないのである。

「おれ/わたしは、他人の迷惑になることだけはやっていない」と断言できる人は、おそらく高確率で他人に迷惑をかける可能性があると思う。まだ、「他人に迷惑をかけているかもしれない」と思っている人の方が見込みはある。前者は、たぶん不在に気づいていない。後者は、それを予想だけはしている。その違いだ。
このブログは啓蒙ブログではないので、「さあ、みんなで情報をシェアして、世の中で困っている人がひとりでもいなくなるよう頑張りましょう!」とは言わない。
きわめて個人的な感想を個人的に書いているだけなので、僕自身が銘記するだけである。
冒頭に書いたように、きなこさんは気づかなさの原因として、「知らないこと」と「知らないことへの想像力の欠如」を挙げられていた。反対に言えば、「知ること」と「想像力」だけが気づきに至る道ということなのだ。

(2013/11/30追記)

(※)の部分を記述しているとき僕は、「視覚情報あるいはそこから予想される結果に注意を働かせる」と書きながら、「もし視覚に障碍のある人だったらどうなのか?」ということを一瞬思い浮かべたのだが、そこに執着することはなく、話を進めた。これこそ、不在への無関心である。もし僕自身が全盲者であったり、あるいは家族に全盲者がいたら、そんなぞんざいな書き方はしなかったろう、と反省した。
そこで改めてここに追記するが、たとえ視覚から情報を得ることができなくても、聴覚なり触覚なりを駆使して周囲の状況を察知することは可能であろう。

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やっぱり、最近はてなスターまわり(?)の調子がおかしいと思う。

  • スターをつけて、その場は表示されていたのに、それが消えていたりする
  • ブログのテーマ(デザイン)によってか、ふつうにクリックしたのに、ダブルクリック状態になってスターを連打してしまうことがある*1
  • 細かいことだが、自分のブログ記事へのコメントにスターをつけたとき、「お知らせ」が出てしまう*2
  • (11/28 追記)特にコメントに関するスターに不具合が多いような気がする……と思ったら、トップページからの表示がおかしいのかもしれない。個別のページ(パーマリンク)にはきちんとスターが表示されていたりする。

オート・ダブルクリックはずいぶん前からだけど、それ以外は、以前は「できていたこと」だというのに、退化してどうすんのよ?

あとは、ダイアリーにはまだあるようなのだが、はてなブログにもスターコメントを復活させたらどうか、と思う。このあいだ、「なくしたのではなく、隠しているだけだ」というような文章を読んだけれど、復活させればいいのに、と思う。あってまずいものじゃないでしょ。

*1:まったくならないブログもあるので、僕のマウスのせいだとは思えない。

*2:以前にはそういうことはなかった。

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試しにこの記事をダイアリー*1にアップしてみようかと思ったのだが、なかなか書きづらくてたいへんだったので、こっちに書く。

財布を届け出たホームレスに対する支配人の言葉から、「ホームレスの生活」というものが少しリアリティをもって察せられる。

ごみ箱から食べ物を探して回る生活は本当につらかったに違いない。それなのに他人の財布を見つけて正しいことをしてくれた人は、ふさわしい行為で報いたいと思った」

このホームレスの男性の行いは非常に立派で、それに対してきちんとした感謝を示したホテル側も立派だが、しかし、人生はそこでは終わらず、ずっとずっとつづいていく、ということを記事の最後の一文で知ることになる。

(ホームレスの男性は)ホテルを出た後は列車でアラスカに向かうつもりだと話している。

記事には記されていないが、特に当て所(あてど)はないのだと思う。


ホームレスといえば、下の動画を思い出す。たしかこの人も本当のホームレスだったはず。歌が評価されたとかで……、でも「成功者」とまではなっていないのだろうな。

数年前のNHK のドキュメンタリーかなにかで、アメリカで有名な大学を卒業して大企業にエンジニアとして就職したのに、ある日とつぜんクビになって、それで公園でホームレスとして暮らしている、という人がインタビューされていた。彼は、仕事に就いていたときとおそらく同じ服を着ていた。つまりY シャツにベージュ色のコットンパンツという出で立ちで、どう見てもエリートでばりばりのキャリアを築いているという感じだったのだが、そのインタビューが終ると、公園に林立する多くのテントの中のひとつに戻って行くのだった。

こういうニュースを見たり聞いたりすると、「だから、早急に○○すべきなのだ」と言いたくなるのだが、僕はそれがなにかを知らないから、なにも言えないのだ。

*1:ダイアリーの話はまた今度書くつもり。

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冗談のつもりなんだかどうだか知らないけれど、タモリはミュージカルを嫌いだと公言し、その理由を「だって、いきなり歌い出すんだもん、おかしいでしょ?」としていた。ミュージカルに馴染みのない人であれば、「そうだよねえ」と思うのかもしれない。でも、僕はその批判の仕方をフェアに感じない。
単純に、性に合わないとか好きになれないというのならわかる。それなら「好き嫌い」という単純な話になってくるからだ。
ただ、ミュージカルを、「いきなり歌い出す」という点で批判するというのは、ミュージカルの、いうなれば「ミュージカル性」を批判するということだ。僕はミュージカルについてまったく詳しくないというのにこれを書いているのだが、ミュージカルとは、台詞部分を歌で代替し表現することがある、と定義することができると思う。その根本の部分について批判するというのは、かの音楽劇をよほど研究し、その結果、表現藝術のひとつとして認めることができないと結論づけた、ということを意味するはずだ。もし批判者にその意図はないというのであれば、批判態度を改めるべきだと思う。

人間個人について、先天的性質(背が低いとか肌の色が黒いとか)を取り上げて批判することが卑怯なように、ある表現藝術に対して、根本の部分を取り上げて批判するのは、非常に卑怯な態度である。
詩を「わけわかんない言葉を並べているだけ」とくさしたり、俳句を「十七文字でなにが言えるの?」と貶したり、絵画を「写真を撮ればいいじゃん」と茶化したり、小説を「中二病」とこきおろしたり、そういうことを言ったり書いたりするやつは、はっきり言ってクソだ。そう言って悪ければもうちょっと品よく言って排泄物だ。そいつの撒き散らす悪臭が世の中をどんどんと耐え難いものにしていく。僕は、そういうやつらにこそ言いたい。「おまえの存在じたいになんの意味がある?」と。そして同時に、かつて笙野頼子の評論集かのオビにあった文章を思い出す。「文学に意味はないというお前に意味はない」。この文章内の「文学」は、他の多くの概念に代替可能だ。

僕は後期村上春樹作品を好きではないが、それでも、彼の作品の「表現」のいちいちを取り上げてあげつらうのは、下の下の所業だと思っている。ところが、最新作『多崎なんじゃらほい』に対するアマゾンのある「下の下の所業」レビューが「好評」を博し、あろうことか、そのレビュアーの戯言集(ハルキ作品レビュー集)が今度出版されるというニュースを知った。
実は僕は、そのレビューを読んでいない。『多崎なんじゃらほい』が出版されたあとにちょっと話題になったので、ちらちらと読み始めてはみたものの、数行目で「愚の骨頂」と判断し、それ以降は読まなかったのだが、そこに感じられたのはワナビーの嫉妬・怨嗟・憎悪でしかなかった。それについてワイワイと盛り上がっていたのは、(喩えにもなっていないが)喩えるなら、ビートルズを前にして「こんなのだったら、ぼく/わたしにもできるよ!」と言って歌い出した子どもを、「そうだそうだ、この子の方がうまいぞ!」と囃し立てるのと変りない。
ちなみに、最近ハルキをネタにして記事を書いていた人がいて*1、この人がハルキファンだというのに、このレビュアーの文章を読んで笑えた、みたいなことを書いていて、ははーん、ここでファンなのに怒らない、というのが「見て見てブログ」の秘訣なんですな、と思ったのだが、いや待てよ、余裕こいて「ははーん」とか言っている場合じゃないぜ、この似非ファンの代わりになって、ハルキのために怒らにゃならんと思い、早朝、眠気と戦いながらキーボードをタイプしているのである。


ワタクシも、いろいろな記事にいろいろな意見を書いているので、矛盾なんてしょっちゅう、自家撞着なんて当たり前なのであるが、人の価値観は多種多様でありそれらは互いに認められなければならない、とは思っていつつも、真のファンであるならば、その作家の作品が貶されたら怒れよ、と思う。自分が好きなものを貶められて、そうですよね、そういう見方もありますよねとか言ってんじゃねえよ、と傍から見ていて、自分にはまったく関係がないのに腹が立ってしまう。
阪神ファンが、阪神ファン以外に阪神を貶されて、「ハッハッハッ、せやなぁ」と笑っているだろうか。
繰り返しになるが、他人は他人、自分は自分である。それが第一の基本原理である。しかし、口に出したり書いたりするのは別として、せめて、腹の底では「このクソガキゃ、なにぬかしやがる!」くらいの心意気は持っていてほしい。それが本当のファンというものだろう。「ファンである私も、思わず吹きました」って、勝手にオカリナでも吹いていろよ。それはファンじゃねえ、ただのミーハーだよ。

僕は村上春樹のために怒っているようだが、本当はもっと違うもののために怒っているようにも思う。
批判するだけなら中学生にもできる。彼らは失うものがないから、いつも好き放題言うことができる。人間が、場合によっては何百年という時間をかけて築き上げてきたものを、僕は、そういった中学生みたいな連中に易々と手渡したくない。べたべたと触りまくって手垢まみれになったもの指して「ほら、こんなに汚い」と嘲笑うのを、また拾い上げてきれいに磨き上げたい。彼らががやがやと騒々しく去っていくその後ろ姿に、いつまでもいつまでも呪いをかけつづけたい。

*1:こいつもすげー過剰なタイトルをつけていたことがあったから、それ以来嫌いで、その記事も最初のさわりの部分で脱落した。というか、プロフィールに書かれていることからして、かなり辛い感じ。

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或る夜中に、ぼとん、と云ふ音がしたので廊下に行くと、守宮がひたひたと這ひ囘つてゐたので、ひよいと摘み上げ、窗から外へ投げて遣つた。
また或る夜中に、ぼとん、と云ふ音がしたので廊下に行くと、百足がごそごそと這ひ擦つてゐたので、割箸で摘み上げ、厠の便器に抛り込んで遣つた。
更に或る夜中に、ごとん、という音がしたので廊下に行くと、女の生首がぐらんぐらんと轉がり囘つてゐたので、兩手で掴み上げて、「おい。お前が此處にゐることは誰も知らないのだからね。もう一寸我慢してゐなさい」と言い聞かし、其の儘、小さな丸椅子を踏み臺にして、天井の隱し部屋の方に投げ戾して遣つた。
女の生首は、「もう、此れ切りにして下さいね、屹度、屹度ですよ」とやや聲高な調子で叫んでゐたが、それも軈て聞こえなくなり、後は靜かな夜が殘る許りであつた。

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「倍返し」でも「じぇじぇじぇ」でもどっちでもいいのだけれど、「お・も・て・な・し」だけは、嫌だなあ。
前のふたつは、民間発で、民間で流行った言葉、という感じがある。それに対して、後者は、あからさまに「つくられた流行り」に属する。官発信で、(おそらくは委嘱されて)メディアが盛り上げた言葉。
別にどれがどうなっても僕は痛くも痒くもないのだが、「つくられたもの」が認められる、というのはあまり気持のよいものではない。

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アマチュアの書く文章で「あなたは~だろうか?」と大上段に構えているのを見てしまうと、恥ずかしさにいたたまれなくなる。

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ちょっと確認したら、やっぱりあいつは生きていた。どうであれ、生きていてよかったんじゃない? 語尾が疑問形なところに、僕の気持を読み取ってください。


それより、前のブログに、くだらないコメントを「匿名」と名乗って書いてきたやつがいて、たくさん言い返したいことがあったのだが、そもそもそういう便所の落書きコメントを残すやつって、だいたいがアホだから、アホでどうしようもないから、なにかを言い返したって無駄だし、そもそもそいつのような、センシティブなものを差し出さずになにかを言おうと思っているやつ*1には、徹底的にやり返してもいいというのがうちのムラの掟なので、削除してやった。
そうしたら、下のようなダイアログボックスがでてきた。

f:id:doroteki:20131122212007p:plain

もちろん、「今後、この抜作野郎からのアホみたいなコメントを拒否する」にもチェックを入れておいた。

ただ、文章としてコメントは消えたけれど、「書かれたこと」そのものが僕の中でけっこう残っている。そいつが匿名で偉そうに抜かしていたことは、ぜんぜん的外れだと僕は思っているんだけど、そのこととは別に、気が重くなってしまっている。

おそらく「読むだけ人間」っていうのは山ほどいて、別にそれじたいは悪いことじゃないのだが、ときどきそいつらが偉そうに意見を言い出すことがむかつくのであって、おいおい、おまえはおれと同じ土俵にすら立っていないんだよ、ということや、おまえが数分で数行だけ書いたコメントの本文に、少なくともおれは何時間か費やしたんだぜっていうことを言いたいのだけれど、言えないし、たぶん言ったって通じない。

こういうのを読むと、深夜、生ごみをきちんと処理していないシンクの三角コーナーにゴキブリが発生するように、「スルーできないなんて」とか「世界に向けて公開しているんだから当たり前」とか言い出すやつが出てくるんだけど、とりあえずそいつらには界面活性剤を原液でかけてやるから、安心して窒息し、七転八倒の苦しみを味わってくれ。

はっきり言って、価値観や育ってきた環境、それから体験してきたことがまったく違う人間にわかってもらおうと思って書いていないのだ。どちらが正しいとか誤っているとかではなくて、違うのだ。なぜそのことがわからないのだろうか。その便所の落書きコメント野郎は、それが「わからない」ということによって、その愚かさを証明してしまっているわけだけど、そういう愚かしい人間を拒否する機能は、いまだ発明されておらず、おそらく今後も発明できないだろう。
そして、意味のない疲弊した感情だけが残る。なんだこりゃ。

きょうはいろいろと書くことがあったのに、気力が奪われてしまった。

*1:つまり、ブログなりなんなりの、自分の意見を発信するプラットフォームを持っていないということ。

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2ch まとめに、よく「悲報」と前置きされたタイトルがあって、バカらしいと思うことが多々あるが、きょうはそれをやってしまうよ。それぐらいショック!

上の記事で、マンガ『寄生獣』の映画化は絶対にないだろう。あったら哀しいということをコメント欄で話していたら、実写化が決定したというニュースが。

主役の男の子は知らんけれど(よく見りゃ知っているのかもしれないけれど)、ヒロインらしき子に橋本愛がキャスティングされていて、本当にがっかり。橋本愛は、もう全然ダメ。一時期の浅野忠信みたいなもので、下手なのに重宝されるっていう最悪のパターン。たびたびの登用で天狗になって、今後も演技の精進なんてしないだろうし。橋本愛に限ったことじゃないんだけど、イキフンで演技するのはもうやめにしませんか、俳優のみなさん? 観ていて腹が立って仕方ないのよ。

ではあるものの、この映画化で、原作がより売れれば嬉しいとは思っています。もうそれしか期待することないよ!


それともうひとつ。
このあいだ、それっぽい速報が出ていたけれど、いよいよ本決まりらしいモンティ・パイソン再結成のニュース。

こういうね、かつて「前衛的」で「挑発的」なことをやっていた人たちが、年取ってから再結成するのって、観ていてなんか痛ましいのよ。某家電量販店のテレビCF に、年取ったドリフターズいかりや長介除く)が出てくるのを見るのと同じで、辛い。
ただ、上記ニュースによれば、パイソンメンバーのひとりが、

「すごく興奮している。たくさん稼いでローンの支払いに充てたい」

とコメントした、というところに少しだけ「らしさ」を感じられた。

【追記】

映画『寄生獣』の脚本には、古沢良太が絡むのか。
はじめて映画版が公開されるあたりで本格的にブレイクした、という印象のドラマ『相棒』だが、その頃の面白かった回には、たいてい「脚本」のところに、櫻井武晴か古沢良太戸田山雅司の名前を見た気がする*1
このあいだ、たまたま『リーガル・ハイ2』を一回分だけ観てみたのだが、これもよくできている。で、脚本の名前に古沢とある。
ふーむ。少しくらいは期待していいのかもしれないけれど……でも、やっぱりダメだろうなあ。

*1:今は観ていないので、どうなっているかわからない。

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