とはいえ、わからないでもない

2013年12月

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以前、外資系でハケンとして働いていたときのこと。
社内PC を不適切に利用しないようにしましょう、というトレーニングで、海外でのサンプルをいくつか例示してもらった。たとえば、ポルノ画像を同僚に送った、とか、インターネットを利用してギャンブルサイトにアクセスしようとした、とか。まあ、これらは社内ルールにも明確に抵触するし、「日本でもあるだろうなあ」という感じだったのだが、ひとつ、「同僚に自分の信仰している宗教を薦めるメールを送った」というのがあって、これは日本ではあまりないかもなあ、と思った。その場でトレーニングを受講していた他の社員たちも同様に感じたらしく少しざわつく中、ある女性社員さんが「えー、ばかじゃない? わたし宗教とか大ッ嫌いなの!」と言い放ったのだが、それを聞いて僕はふたつの意味で少し驚いた。
ひとつは、その会社は「ハラスメント」という考え方に対してかなり厳密で、彼女の発言は、なんの宗教にせよ信仰を持っている人の気分を害しはしなかっただろうか、ということ。
そしてもうひとつは、彼女自身がそういうことを発言するような人間だったのか、ということ。
前者は、直接誰かに対して言ったものではないし、それほど深く考えたものでもなかったろうからハラスメントには当たらないとは思うが、それでも熱心な、あるいは敬虔な信者に対してはあまり言うべきものではないだろう。
後者なのだが、僕より少し年上の彼女は、美人で、仕事もできて、頭のいい人だと思っていたのだが、その発言を聞いて少し失望した。宗教を信じないことが現代的だと思っているのかもしれないが、誰であれどんな宗教を信じていようとその自由を認める、というのが現代的な考え方だろう。
サンプルの勧誘メール送信者は、たしかに社内PC を使ってやることではないし、勤務時間中にすることでもなかったろう。それに、相手が嫌がる可能性も充分に考慮しなければならなかったはずである。しかし、それだからといって、彼/彼女の信ずる宗教がバカにされていいはずはないし、たとえそう思ったとしても公言はすべきではない、というのが社会人として当然の配慮だろう。

このように、オウム事件以降、とかく宗教というものは煙たがられがちで、宗教を批判していれば科学的であるという態度はよく見られる。
僕は無宗教だけれど、宗教は否定しないし、信仰がある方が当たり前のようにも考えているので、どちらかというと、「宗教は阿片である」などの言葉を片手に宗教をひとくくりにして批判する人間の方を軽蔑する。


ご本人にとっては、もう「終った話」かもしれないが、ここニ、三日、なんとなく僕の頭に引っかかりつづけている話があって、それは花梨さんが書かれていた「毎晩お金を桐の箱に入れて休ませてあげて」いるという「カリスマ節約主婦」のこと。
その文章を読んだときに僕は「アホか!」と思った。その理由は、花梨さんの書かれていたように「一見、綺麗な心でつつましい清貧を気どった自慢」が鼻につくということなのだが、もし、上記センテンスに、「わたくしの家ってそういう宗派なんですの」とつけくわえたら、これほど「アホか!」って気にはならなかっただろうな、と考え始めている。
「わたくしのうちでは昔から、お財布にあったお金をいったん桐箱の中に入れて拝みますの。そうやって、桐のお力をお札にお移ししてから、それからまたお財布に入れるっていう儀式がございまして、それを欠かすとよくおばあちゃまに叱られたんでございますのよ、おーほっほっほ」とか言うのなら、「あ、はい」で終ったかもしれない。「あのう……それってなんていう宗教なんでしょうか?」「あらま、申し上げてございませんでしたっけ? お金を拝むので、『拝金教』と言いますの」

パワースポットを訪れたり、パワーストーンを身につけたり、あるいはスピリチュアルだとかいって占いの類を信じるのは、この世に実在しない「存在」であったり「力」を信じるという意味において、僕は宗教行為に近いと思っていて、それじたいについてはなにも批判するところはないのだが、ただ、こういう行為をする人たちが他の宗教を批判したり、宗教そのものを認めなかったりする態度を見ると、途端に「おいおい」と思ってしまう。「よそさんのはあきまへんで、よそさんのは。へ? うちでっか? いやぁ、うちのは違いまっさ。そんなわけあらへんやないの。かなんわぁ」っていうのと同じ。

結局、オウム事件によって排斥されたものが、違う形(「スピリチュアル」だとかそういうもの)で今も緩く信じられているというだけで、そこに無自覚なくせに宗教を批判していたりすると僕は片腹が痛い。「宗教大ッ嫌い」女性も、「桐箱」女性も、そして無宗教だと信じている僕自身も、本当はどうなのかはわからないけれど、宗教っていうのは本質的にはいいものなんじゃないかと思っている。
ちゅうことで、今から神棚ふたつを燃やしに行ってくる。
ここに引っ越してきたとき、神棚が四つあったのだが、邪魔だったのでひとつは二年前くらいに、野焼きの材料にした。
今年の大掃除で、やっぱり三つも要らないということがわかったので、残りふたつも処分するのだが、今回は野焼きではなく、お焚き上げという行事が知り合いのお寺であるので、そこで一緒に燃やす。ま、結局は燃やすのだが、心置きなく燃やせるというところで、これもまた宗教行事ですなあ。

二日程前、花梨さんのブログで「桐の箱」という謎のキーワード検索をしたのは、僕です、という業務連絡を最後に、今年はここまで。
ついでに詠み納め。

神棚も燃ゆる夜なり大晦日

お粗末。

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かわいい……んだけど、海外の「かわいい」って日本の「かわいい」とは確実に違うよなあ。

【2014.1.1 追記】

元日バージョンになっていた。

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なんかある動画サイト(?)みたいなところ*1で「この道具を手にした我々の生活は、どれだけ相手の感情に近づき、遠くなってしまったのだろう。」という表題でこれを紹介してあったんだけど、噴飯モノだった。

これほど、「そういう文化圏の人」にだけ訴えているものっていうのもない。以前に書いたこともある「小さいサークル」ということだ。
「小さいサークル」の中にいる人たちは、そこで起こっていることが世界中のどこでも起こっていると考えがちで、たとえば上の動画にも「スマホを捨ててリアルに人と向きあおう」みたいなコメントがあったけれど、いや、スマホを持っていない人だっているし、そもそも携帯電話を持っていない人もいるからね。
その人たちの大袈裟な「気づき」はものすごい勢いで拡散されていくのかもしれないけれど、その拡散までも含めて僕の中では、小さなサークルでの小さなできごとにすぎない。その人たちの「感動」には本当に申し訳ないけれど。

靖国参拝して、それで首相のFB に「いいね!」が三万件ついたということが報道されていたけれど、たった三万という見方がこの場合は正しいだろう。日本国内の、PC やタブレット、スマホ等を利用しているユーザーで、さらにその中でFB を使っているユーザーで、さらにその中で安倍をウォッチしている*2ユーザーで、さらにその中で彼の行動を支持する人っていうのが、日本人の意見の総体であるはずがない、ということに本人は気づいているのかな。

たまたまネットで調べ物をしていたら、古書を渉猟している人のブログを見つけて、「わーすごいなあ、この人」などと思ったのだが、考えてみればその人はたまたまブログを書いていただけで、世の中には古書マニアでブログを書いていない人なんて何万人(あるいは何十万人?)もいるはずなのだ。アナログな古書マニアたちの中には、手作りの会報誌みたいなものを作っている人たちがおそらくいて、彼らはそれで充分だと思っているだろう。その人たちに「リアルに人と向きあおう」と言ったって、「は?」って怪訝な顔をされるだけだ。
まあ、「リアルに人と向きあおう」というコメントが完全に「内輪」に向けられたものであり、また、冒頭動画の紹介コメントの「我々」が「ちっぽけなサークルの中の人々」を意味しているのであればいいのだが、どうもそういう意識が感じられないので僕は飯粒を盛大に噴き出してしまうのである。

【2013.12.30 17:20追記というか余談】

そうそう。冒頭動画の主人公っぽい女性は、自身のルーツに意識的で、その民族的出自への矜持から両肩にタトゥーを入れている、という設定だと勝手に妄想していた。自然や人間らしさを重んじる考えから携帯電話を持たず、その彼女の視点に立つと周りは「奇異」なものに映った、という話かと思ったけど、原題が「I forgot my phone」だった。なんだよ、じゃあ自分がまたスマホを手にすればそんな発見も忘れてしまうってことかよ。

*1:余談だが、この動画サイト、直でYouTube に飛べないように加工してあって、クソ気持ち悪かった。しょせんは他人のふんどしで相撲しているだけのくせしてPV 信者。

*2:そもそもFB ってどういう仕組なんだっけ? フォローとかって概念があるんだっけ?

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上記のつづき。まだ、次点グループ。

相原コージ『Z』

今年の五月のこと。まだ持っていたアカウントにこんなツイートが流れてきた。

このツイートを読んだときに愕然とした。あの相原コージが、「没落した」とされるのむらしんぼを「他人事ではない」だと? 
相原コージは尊敬する漫画家だ。僕は、自分がマンガを描く技術を最初から持っていないせいか、漫画家に対して敬意を抱くということは少ない。
けれども相原に対しては、ギャグマンガの分野で相当な無理をして新たな地平を切り開いてきたというその功績を考えると、尊敬せずにいられない。その相原が、いわば「消えてしまったマンガ家」を他人事ではないだと?
われわれは、相原をそんな目に合わせてはいけないのである。
そもそも、僕がこういう記事を書くのも、誰かがこれを読んで興味を持ち、新刊を買ってほしいがためでもある。貼りつけたアマゾンのサイトになんて行かなくていい。欲を言えば、本の名前だけメモし、それからよく行く本屋に行って註文をして買ってほしいと思っている。これらは、ささやかな応援記事でもあるのだ。

話を戻すと、僕の知っている相原作品には、『コージ苑』『サルでも描けるまんが教室サルまん)』『なにがオモロイの?』、そして『ムジナ』がある。
前者三作は、メタ系のギャグマンガ(いづれも傑作!)なのに対して、『ムジナ』は、かなりハードな忍者マンガだ。ユーモラスな下ネタギャグはいつものとおりだが、ストーリーはかなり残酷で、シリアス。しかしその途中にも「実験シリーズ」と称して、パースをいじくったり、視点をいろいろと変更したりして、マンガ表現そのものについて分析・再構築しようと試みた。ストーリーもよくできていて、終盤の盛り上がり方はものすごい。数十分前までげらげら笑って読んでいたのに、いつのまにか総毛立ち、最後、血みどろになりぼろぼろに傷ついたムジナが立っているのを見ると、感動が湧き起こってくる。
最後の白土三平忍者武芸帳』からの引用、「われらは遠くから来た、そして遠くまで行くのだ」を見ればわかるように、『ムジナ』は、白土三平の忍者マンガの正統な後継なのだ*1

本作『Z』も、『ムジナ』のようなシリアスさとをベタベタの下ネタギャグにあふれている。ただしこちらはゾンビマンガ。

ある山小屋にゾンビに追われた男女ふたりが逃げ込むが、男の方はすでにゾンビに傷を負わされてやがてゾンビになるのが目に見えている。そこで女の方に自分を殺してくれ、と頼む。その前に。

最後に裸を見せてくれないか


『Z』一巻のレビューにおいて、かなりの高確率でこのエピソードが紹介されるのだが、僕は第4話、「登山者の場合」が気に入っている。
山から滑落して死亡したと見られる登山者が、死後しばらく経ってからゾンビとして生き返る。が、山奥のために周りには誰もいない。カラスがやってきてその脳みそをつっついたり、マムシに足を咬まれたりもするのだが、依然として周りには人間はいない。彼はぎくしゃくとしたあのゾンビ特有の動きで、「ウガァー」と唸ったまま直進して行き、やがてまた崖から滑落し、川へと落下する。
彼はそのまま仰向けの状態で流されていく。両手をぱたぱたと前後させ水面をちゃぽちゃぽと鳴らしながらどんどんと流されていく。やがて川から海の入り口へ。彼の存在に気づいているものは、やはりいない。彼は死なずに両手をぱたぱたと動かしているまま。ちゃぽちゃぽ。そしてついに、彼の身体は大海の沖合へと出る。あたりには依然としてなにも見えない。船もないし、空を飛ぶ鳥もいない。それでも彼は生きており、手を動かす。ちゃぽちゃぽ。物語はそこでおしまい。
この、「誰にも遭遇しないゾンビ」という抒情的な設定に鳥肌が立った。グロテスクなゾンビが愛おしくさえ思える。やっぱりすげえな相原コージは、と思った。

上記でわかるように、基本的には一回ごとの完結になっている*2のだが、その時系列が入り乱れているのが面白い。その中でキャラクターたちがちょこちょこと話を跨いで登場するために、「あ、この第3話に出てくるヤクザゾンビって、第2話に出てきたヤクザだ」などと細かい発見ができる。何度読み返してもたのしめるのだ。
そして、一巻のラストでは、今後のストーリーが大きく展開しそうな予感が示され、目が離せない。

そうそう。冒頭のツイートのあった数日後、こんなツイートが流れてきた。

本当によかった! 二巻もたいへんたのしみな作品。お世辞じゃなくて。

松田奈緒子重版出来!

重版出来! 1 (ビッグコミックス)

重版出来! 1 (ビッグコミックス)

さて。マンガ好き界隈では、今年はこのキーワードがけっこう流行語になったのではないだろうか。重版出来。「しゅったい」という言葉は知っていたが、「重版」が上にくっついた場合はずっと「でき」と読むものだと思っていた。恥ずかしい。
この作品は、マンガ編集者の話である。オリンピックを目指していた女の子が、けがのために柔道を諦め、出版社に入社し、マンガ雑誌の編集に携わる。感傷的に言ってしまえば、2010年代の『編集王』である。土田世紀の魂はここに引き継がれた。

いろいろと見どころはある。まず、作者が女性のために、全体的にかわいい! ヒロインの黒沢心は体育会系でいわゆる女子っぽさは少ない。でも、かわいい。
それから、ひとりひとりのキャラクターが非常に魅力的。ヒロインはもちろん、先輩編集者の五百旗頭(いおきべ)、壬生、それから阪神ファンの和田編集長。その生い立ちがまるごと一話になっている社長。このエピソードは、これだけでひとつの小説にすることだってできるんじゃないかってくらいに凄まじさを感じさせるし、本好きであるなら、『雨ニモマケズ』を読んだ若かりし頃の社長と一緒に落涙することだろう。
あまりにも各々のエピソードがよくできているので、これは二巻になったらテンションダウンするかと思っていたら、さにあらず、二巻も面白く、期待を裏切らない!

第一巻のクライマックスは、営業と編集が共闘して『タンポポ鉄道』第三巻をセールしていくところだろう。
返品本をバラバラにして試し読みの冊子を作り、全国の書店に配布する。それだけでなく、書店に出向いて、コミックコーナーだけでなく、関連性のある鉄道コーナーにも置いてもらうように交渉する。作家にサインを入れてもらった本を書店に置いてもらう。

僕は書店のアルバイトを(短期間だけど)やったことがあるからなんとなくわかるけれど、出版社の営業さんの熱意に動かされるってことはよくある。雑誌(男性誌中心)担当だったのだが、註文すると必ず翌日に持ってきてくれる阪急コミュニケーションズの雑誌に対しては、「絶対に売ろう」という思いはあったなあ。
具体的に言うと『pen』だったけれど、デザイン特集であれば、美術の担当の女の子のところへ行って「今回、一冊分のスペースでいいから、平積みさせてくれないかな?」と相談したり、レストラン特集だったら、女性誌担当の女性のところへ行って、「これもちょっと……」とお願いしたり、それが売上にちょっとでも効果があったりすると、やっぱり嬉しかったなあ。なんだろう、自分の給料なんて一銭も増えるわけじゃないんだけど、すごくたのしいんだよな。
余談だが、弟の勤めていた書店では、地図の昭文社の方だったけかな、いい営業さんがいたと聞いたことがある。売れて「抜け」てしまったものをチェックしてくれるだけでなく、棚の整理もしてくれるし、探しものをしているお客さんに案内してくれたりする*3。それが、自社の本を薦めるのではなく、お客さんが本当に必要としているものであれば他社のものでも薦める。理由を尋ねると、業界全体で売上が上がっていくことが大事とのこと。

営業のプッシュが実り、各書店がフェアを仕掛けてくれて独自のディスプレイを設けてくれるシーンがある。ヒロインがその写真を撮り、ちょうど打ち合わせ中の作家のところへ送信する。受信した担当編集は、作家にそれを見せ、ふたりで泣いてしまうのだが、ここは、読者の方も泣かされてしまうのではないか。
実は、この『重版出来』の一巻が発売されたときもフェアが仕掛けられ、その写真が作者によってリツイートされたことがあった。

この幸福感はものすごいものだった。僕はもう一消費者でしかないけれど、すごく「いいもの」をリアルタイムで体験している感じがあった。

ヒロインたちの努力は実り、『タンポポ鉄道』はヒットする。その最後のところに、営業の責任者の言葉がある。

…なんで売れたかわかんないって?
「売れた」んじゃない。
俺たちが――売ったんだよ!!!

これ、文章だとわかりにくいんだけど、「俺たち」のところには、営業と店員さんがずらーっと並んでいる。
もしかしたら、ここに「なにを偉そうに」と違和感を覚える人もいるかもしれない。でも、これは(ほんのちょっとの)体験的に言って事実だと思う。作家は作るのが仕事。そこから先は、営業や販売の仕事なのだ。そのことについて胸を張ることは全然間違いじゃない。
本のセールスは作品の良し悪しとは完全には一致していないと僕は考えていて、それについては前回の『斬り介とジョニー四百九十九人斬り』のところで島田虎之介の言葉を引用したけれど、面白いからといって売れるとは限らない。売れないものもあるのだ。
このマンガでは、「売れないマンガ」についてはひとまず目をつむり、「売れたマンガ」についての考えを、ある書店員のセリフでもって示している。

「なぜ売れないか」はわからないけど、ひとつだけハッキリ言えるのは――
売れる漫画は愛されてます。

愛されるように仕向けるのは、作品がほんらい持っている力とプラスアルファがあって、そのプラスアルファの部分が編集者、営業、全国の書店員、そして作品のファンたちの力だと僕は思っている。そういう意味での「俺たち」なのだ。

最後に。この作品自体も、めでたく重版出来された。

この実際の編集者さんのツイートが流れてきたときも、ちょっと目頭が熱くなった。
本当ならトップ10に入れたい作品だが、すでに売れているだろうからよしとする。

業田良家機械仕掛けの愛

機械仕掛けの愛 1 (ビッグ コミックス)

機械仕掛けの愛 1 (ビッグ コミックス)

業田良家らしい優しさに満ちた作品。すべてロボットを扱った短編集。ハッピーエンドの場合もあるけれど、「心を持ったロボット」という言葉からすぐさま連想されるように、せつない話が多い。そのひとつひとつに、目からウロコが落ちたり、度肝を抜かれたりすることはない。オーソドックスということなんだけれど、じゃあ読むほどではないかというとそうでもなくて、なんというか、「こういうマンガが必要なんだよ!」と思わせるマンガ。マジメな話、『ジャンプ』はこういう作品を掲載させるべし。

それとはまた別の話なのだが、ロボットというほんらい無機物なものに対してまるで人間のように感じてしまうことと、フィクションというほんらい仮想のものに対してまるで現実のように感じてしまうこととは、構造的には一緒なのだと思う。だから、フィクションが存在する限りは、ロボットもののストーリーはなくならないだろうし、ロボットはイノセンスの象徴でありつづけるのだろう。
現在、二巻まで刊行されている。漫画界の良心だね。

*1:『ナルト』は忍者マンガではなく、忍者コスプレマンガだと思っている。

*2:シリーズになっているエピソードもある。

*3:お客さんにとっては、書店員か出版社の営業か、なんていうのは区別がつかないので、棚を整理していれば店員だと思ってしまう。

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ときどき湧き起こってくる敬称への違和感。

ネットなんかで、つまり本人に面と向かっているわけでもないのに、落語家の名前の後ろに「師匠」をつける人の基準が知りたい。

  1. 自分が好きな人にだけつける
  2. 実際に会ったり話したりした人にだけつける
  3. 好きも嫌いもなく、みんなにつける

1. はわかる。「米朝師匠とは言うけれど、ざこばはざこばだよ」みたいな*1
2. もわかる。「米朝師匠とは、一度だけお会いしたことがあるよ」みたいな。うらやましい!
3. がよくわからないのだが、これをなにかのマナーだと思っているのかもしれないけど、それじゃあ宮川大助・花子のことを「大助・花子先生」と呼ぶのかな。オール阪神・巨人のことを「阪神・巨人先生」っていうのかな*2。「先生」「師匠」をつけないまでも、たぶんきちんとした人なら、「大助・花子さん」、あるいは、「阪神・巨人さん」と呼び、さらに、「ダウンタウンさん」とか「明石家さんまさん」とか「タモリさん」とか「ビートたけしさん」とか、「さん」づけをするんだろうけれど、これを徹底していなかったら、すごい片手落ちだと思う。でも、そういう人は多そう。

*1:例としてわかりやすいものを挙げたけれど、僕は、米朝はもちろんだけど、ざこばも大好き。

*2:芸人の中でも、「先生」よりは「師匠」の方がスタンダードなのかもしれない。しかし、柳亭市馬の音源では、そのマクラで夢路いとし・喜味こいしのことを、先生をつけて呼んでいたので、古い芸人のうちでは、いまだに先生をつけることがあるのかもしれない。

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僕の中だけで恒例となっている「このマンガを買ってよかった! 2013」を近々メモしておくつもりだが、その前に、トップ10から漏れた作品をメモしておく。いわゆる「マンガ好き」ほどマンガは購入しないので、買ったぶんはなるべく記録しておきたい、というセコい根性。
以下が「次点グループ」の前半。ほんとうはあと三作品あるけれど、力尽きたので、明日以降に回す。今年中に本編に入れるのかな、とちょっと不安。

九井諒子『竜の学校は山の上』

竜の学校は山の上 九井諒子作品集

竜の学校は山の上 九井諒子作品集

たしか昨年末あたりに話題になっていたので下の作品と一緒に購入。
短編集なのだが、なんか全体的に「惜しい」という印象。そこかしこに「お」という驚きもなくはないのだが、けれども「どこかで見たような」という既視感を覚えてしまい、作者の個性というものがいまいち感じられなかった。
前半に出てくる、帰ってきた勇者、魔王とお姫様の恋、誰もいなくなった魔王城の処理、宇宙人によって作られた(という設定の)地球の文明、等々の話は二次創作って感じで、わざわざ買って読むほどではないよなあ。
馬人(ケンタウロス)と猿人(ふつうの人間)が同居している社会での差別やらすれ違いの話もそれほど深刻な内容ではなくて、「ファンタジーの日常化」が主眼にあるのだろうけれど、それなら別に本気をだして読むほどのものでもないと感じられた。これは僕の好みの問題。
タイトル作『竜の学校は山の上』は、日本で唯一「竜学部」がある大学の「竜研究会」というサークルの話なんだけれど、ラストのヘンに落ち着かせてしまった感じがもったいない。ディテールは細かくてそこらへんは面白いのだけど、「ま、こんな感じかな」って結論で終ってしまう。「不思議な世界の『日常』を切り取った」といえばそれっぽいだろうけれど、逆にいえば、これ以上ストーリーを展開させると話が収束しないと見て、キリのいいところで終わらせたんじゃないかと邪推してしまう。
いちばんできのよかったのは「代紺山の婿探し」で、時代設定はおそらく中世日本と思われる。たしかに民話とかを漁ればこの話のモデルみたいなのはすぐに探せそうだけれども、ラストの村長の描写がちょっとアンバランスなくらいに長いのだが、台詞とともに響くものがあった。これはよかった、とはっきり言える。
ただ、他の作品も含め、総体としてはやっぱりどこか中途半端というか、未成熟・未完成な感じが否めない。たぶん作者の興味の範囲は広いのだろうけれど、どこかに絞って深く掘り下げていくと面白い長編が描けるようになるのではないか、と期待する。

九井諒子竜のかわいい七つの子

九井諒子作品集 竜のかわいい七つの子 (ビームコミックス)

九井諒子作品集 竜のかわいい七つの子 (ビームコミックス)

これが作者の第二作目なのかな。
今回も「これでもか、これでもか」ってくらいにいろいろなパターンを見せてくれるが、その範囲が広くなればなるほど、作者の印象をうまくつかめない。器用貧乏に思えてしまう。
この中では「金なし白祿」がいちばん面白かった。自分の描いた生き物に瞳を入れてしまうと、命を持って絵から飛び出してしまうという高名な絵描きの話。このじいさんが金がなくなったので、かつて自分の描いた絵に瞳を入れ、生き返ったところをつかまえそれを売ろうと目論む。やはり中世の日本が舞台なのだが、プロットもしっかりしているし、絵に迫力もあって、ものすごくいい。このマンガの価値はこの一作ひとつでまかなえるとは思う。
あと、「子がかわいいと竜は鳴く」も佳品。これは古代中国、という設定なのかな。前半と後半で主人公が入れ替わるのが面白いし、ハッピーエンドで少し嬉しくなる。
なんだ面白いんじゃん、と思ってしまいがちだが、それでも「はずれ」の作品も多くて、「はずれ」といったって、おそらくレベルはまったく低くないのだが、どうしてもテーマが散漫というか、時代設定なんかに統一性がなくて、印象が弱まってしまうんだろうなあ。
一回、中世日本にテーマをしぼってコミックを一冊出してみたらどうだろう、と提案してみたい。これも、上掲作品とともに悪いマンガ・つまらないマンガでは決してないので、長編(といっても単行本一巻分でよい)に挑戦してもらいたい。

真造圭伍『ぼくらのフンカ祭

ぼくらのフンカ祭 (ビッグ コミックス〔スペシャル〕)

ぼくらのフンカ祭 (ビッグ コミックス〔スペシャル〕)

青春マンガ。これも去年話題になったはず。どうだろうなあと思って読んでみると、とても面白い。
ひなびた田舎町で突然火山が噴火した。温泉が湧き、町は賑やかな観光地になるが、高校生男子の主人公、富山と桜島の日常はいまいちパッとしない。そのうち、大学の文化祭と噴火をかけた「フンカ祭」が企画され、富山と桜島の平凡な生活が少しづつ変化していき、ふたりの距離も微妙なものに変化していく。
「おまえといると、なんかたのしいよ」という思春期男子の感覚をみごとに表現してみせたこのマンガは、「田舎町の日常」を描いているはずなのだが、その舞台が、田舎道、商店街、桜並木のある土手、大学の構内、体育館、学校の屋上、ひとり暮らしの部屋、橋の上、そして火山の火口(!)まで、と実に広い。九井諒子がファンタジーの世界をミニマムに描いたのに較べれば、この作品はリアルの世界をマキシマムに大きく描いている。
エンディング近く、とある場面での富山のセリフ、

オレ多分、一生忘れねーわ。この光景。

は、百名哲『演劇部5分前』にも同様のものがあった。

あ……ヤバイなんだろ
アタシ この光景 一生忘れない気がする

そして多くの読者たちにも同じような瞬間がきっとあったのだろう。良作。

榎本俊二『斬り介とジョニー四百九十九人斬り』

斬り介とジョニー四百九十九人斬り (KCデラックス)

斬り介とジョニー四百九十九人斬り (KCデラックス)

これ、今年の前半あたり、僕がまだツイッターのアカウントを持っていたときに、マンガ家の島田虎之介が「ほんとうに面白いマンガは売れているはずだ」という誰かのツイートをリツイートをし、そのあとに、「いやそんなことはない。榎本俊二の『斬り介とジョニー四百九十九人斬り』は2010年発売だけど、まだ初版のままだ」とコメントしていた。
実はそれ以前にこの作品は立ち読みしていたのだけれど、そのツイートを見たら無性に手元に置きたくなって、ジュンク堂に註文した*1
ストーリーは、ない。タイトルから察するに、おそらくは斬り介とジョニーと思われるふたりの男が、大勢の悪党を斬り殺すというだけの話である。文章で説明できるのは、ここまで。あとはもう読むしかない。
とにかく、ものすごい勢いで人が死んでいく。タイトルから察するに、おそらく五百人近くが死ぬ。生首がすぽぽぽぽーんと飛び上がっていき、その離れた首と胴体のあいだから、つぎの悪党が斬り殺されるのが見えたりする。構図・構成がものすごい。
いったいに、榎本俊二はものすごく絵がうまい。『えの素』しか知らない人は下ネタギャグの人、という印象かもしれないし、『ゴールデンラッキー』しか知らない人は、シュール系ギャグの人、という印象かもしれないが、僕はその『ゴッキー』時代から、抜群のデフォルメ力(りょく)に心酔していた。
そんな作家の書く「虐殺」には、大量に流れる血が臭ってくるような凄惨さはあるものの、それ以上にリズムや音楽性が感じられ、ページを繰る手が止められなくなる。ドキドキさえしてしまう。
まさに、マンガでしか表現できないという点で、素晴らしい作品。グラフィック系をやっている人だったら必携。

*1:ちょっとした経緯から、本はすべてアマゾンではなくで、ジュンク堂で購入している。

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本年最後の句会もつつがなく、終了。

【師走】土間に並べり 宿儺(すくな)かぼちゃの師走かな

一にもニにも、「宿儺かぼちゃ」を遣いたかった。上七という破調になっても、ぎりぎりでバランスは取れているか。ただ、「十二月になっていたら、かぼちゃもカビ生えていることあるよ」とか「大根とか白菜ならわかるけれど、かぼちゃを土間に並べても……」という批判あり。実景がないから、そういう指摘が出てくるのは当然かもしれない。
点数はそこそこ集まった。

もともとは

孫きたる まさる目尻のしはすかな

を用意していたが、「どこに孫がいるんだよ!」のツッコミや、「目尻のしわ」と「師走」をかけているところに「川柳じゃないんだから!」のツッコミが怖くて、上掲句に替えた。掛詞には、今後も挑戦してみたい。

【みかん】屑籠の陳皮に鼻寄す猫二匹

「みかん」の語を用いずにみかんを詠んでみたかった。「屑籠、陳皮と来るとやっぱり落語の『紙屑屋』を思い出してしまうね」との指摘が弟から。
これもなかなかの高得点。猫を詠むとだいたい点数を高くつけてくれるから簡単じゃわい。

【夕暮れ】ユメニミ夕暮ラシ カナワナカツ夕暮ラシ

「これのどこが『夕暮れ』なの?」という疑問が多かった。これは、カタカナの「タ」と漢字の「夕」をわざと混同させている。

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上が、「ゆめにみ 夕暮 らし かなわなかつ 夕暮 らし
下が、「ゆめにみた暮らし かなわなかつた暮らし

人生の夕暮れどきに立てば、若い頃に夢見た暮らしが、今はもうかなわない、という回顧の仕方も当然ありうるわけで、そういう情景を詠んでもいる。ダブルミーニングとかトリプルミーニングとか。よくわかっていなイングだけど。
このしょうもない仕掛けに気づいたのはひとりだけ。あとは、可もなく不可もなく。実は、みなの最低点を集めれば投句した甲斐があると期待していたのだが、けっこうスルーされてしまったので、哀しかった。句会は、目立たなければつまらないのよ。

これも元々は

数へ日や 夕暮るるあひだわづかなり

を思いついていたのだが、もっとアグレッシブにたのしみたかったので、上掲句に替えた。

【きず】皿の欠け あれから千十九日経ち

震災句。僕自身は被災していないけれど、ふちの欠けた皿を捨てずにいる人もあるだろう。
また、テレビなどでは「あの震災から二年です」とか「ちょうど千日です」とかキリのいい数字をもって紹介するけれど、それはキリのいい数字だから思い出しているということでもあって、直接被災して家族を亡くした人たちは、わざわざカウントはしていないだろうが、あの日から「震災後」を連続して生きつづけているのだろう。千二十日、千二十一日、千二十二日……と。
ただ、ちょっと暗いということであまり評価をもらえなかった。

【酒】上燗の徳利らうたし恋すゞめ

「らうたし」が遣いたかった。漢字でいえば「臈たし」。「恋すゞめ」は、要は「恋バナ」に興じるおしゃべり女性連をイメージした。「楽屋すずめ」の語からイメージした造語。
これは「なんだかよくわからないけれど」という註がついたものの、点が集まった。

【パズル】数独の答へほどけぬ冬の雨

これも意外に点をもらえた。下五を、あえて凝らない季語を用いたところが工夫といえば工夫。「ほどく」にはそもそも「答える」という意味があるので、厳密にいえば「こたえほどけぬ」は冗語か。


というところで今年ももうおしまい。歳時記的にいうと、一週間後には「新年」になるんだよなあ。けっこう「冬」の歳時記に飽きていたので、たのしみ。

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そういえば、とtumblr. のアカウントが残ったままになっていたので、一分で削除した。削除したら、こんな画面になった。

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フォントの問題かもしれないけれど、最後の「す!」だけがやけに気になりま
す!

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このあいだのラジオ番組でのこと。「最近、キラキラしたことはなんですか?」というテーマに応募したあるリスナーのメッセージがこんな感じだった。

「うちの主人のことです。キラキラしています。主人は毎朝散歩をし、そこで必ずゴミを拾って帰ってきます。空き缶があれば、きちんと洗い、それから分別して捨てます。わたしは主人のことを立派だと思っています」

この女性は五十代くらいというところか。夫もおそらく同年輩であろう。
聴いていて、なんだかもやーんという気持になった。

うん、たしかに立派なんだよなあ。でも、「立派」というよりは「ご立派」って感じだし、もっと言うと「ゴリッパ」で、さらに言えば「はい、ゴリッパゴリッパ」になってしまう。行為になんの「落ち度」もないのに(そりゃそうだ)、この女性が「わたしは主人のことを立派だと思っています」と言った瞬間に、「さあ帰ろうぜ、なに食って帰る? あそこのもんじゃ、うまいんだって」って気持になった。いうなればドッチラケだった。

これが、「死んだ夫のことです」となると、話が全然変わってくる。「生前は伝えることができなかったのですが、いま思えば立派な人でした」っていう。まあ本音からすると公共の電波に乗せることかという気もしないでもないが、そういう故人の悼み方もあるのかもしれない。
これが、「お隣の家の旦那さんのことです」となると、話がもっと変ってくる。「面と向かってお伝えすることはできないので、代わりにメッセージをお送りしました」っていう。それならわかる。世の中にはそういう立派な人がいるんですね、と。

つまり、他人のことを言うのならともかく、また、身内が当人に向かって言うのならともかく、身内が他人に向かって「この人は立派ですよ!」と喧伝するのって、僕の感覚からすると、けっこうなマヌケなんだよなあ。この人の夫は、なにも奥さんに立派と言われたいからそういう行動をしているわけではあるまいに。ましてや、奥さんが他人に言いふらすのを期待しているわけなんてないのに。

まあ、身内を褒めるのは一律しておかしいということはなく、やっぱり人によるし、その表現の仕方によって受け手の印象はだいぶ変る。十代二十代でもあるまいし、いい大人が無邪気に身内自慢をしていてあほじゃなかろか、という印象を冒頭のキラキラメッセージから僕は感じたけれど、この女性に話を限定して言えば、身内自慢ついでに、そんな家族を持ったわたしってなんて幸せなんだろう、と自分自慢しているんだろうね。それがきっと鼻につくのだろう。
家族愛は美しいのかもしれないけれど、それをわざわざ他人に見せつけるところまでが愛ではないだろう。本当の愛なら、それは個々人のうちで完結しているはずだ。

最後に。僕がインターネットで読んだ文章でいまだに忘れられないフレーズ。
ある方の文章で、おそらく成人前後くらいのお子さんについて触れられ、そのお子さんが「いま○○を目指していて、」と書き、そこに「(笑い)」をつけたしていた。で、さらにそのあとに、「いや、笑うことはないか……」とちょこんと言葉が添えてあって、なんだかそれにものすごく感動してしまった。
そういう文章を書く人、というか、そういう誠実な姿勢の人を、僕はもう100% 信頼してしまう*1
身内に対して愛情があるのは当たり前のことで、(繰り返しになるが)それは他人に「見せる」必要はない。けれども、それがふとしたことで「見えてしまった」瞬間は、こちらまでも幸せな気分になる。


※なお、上の文章の「こちらまでも幸せな気分になる」の箇所を、「こちらまでもほっこりしますね」とか書くのは大っ嫌い。これはごくごく個人的な拘泥によるものだが、芋でも食ってんのか、って思っちゃう。あと、ほっこりしてばっかりいる人(ほっこらー)って、「ほっこりします」というふうに、最後の「ね」で無言の同意を求めることが多い気がする。これは、僕がいつまでも「ほっこり」の持つニュアンスに実感が持てないためだと思うのだが、どうなんでしょうね。←あ、「ね」って書いてる!
以上蛇足。

*1:ちなみに、「うちの夫は立派です」夫人の信頼度は10%。非常に胡散臭い。

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今朝ラジオを聴いていたら、あるアナウンサーの言葉にめちゃくちゃ腹が立った。
きのうのフィギュアについて。そのアナウンサーは、「フリーの演技」というべきを、「ショートプログラム」と勘違いし、しかもその名前をきちんと言えずに、「ランダムなんたら」みたいに言って、それを慌てて言い直すっていうレベルだったんだけど、ソチに行けるメンバーのひとりに高橋大輔が選ばれたことに触れ、当然だと思います、とコメント、それから「いやあ、高橋が選ばれたというとき、会場は割れんばかりの歓声が起こっていましたね」と言い放ち、あげく、「でも、こう言ったらなんですが、ぼくの興味のあるところは真央ちゃんがソチで金メダルを獲るかどうか、とこの点だけなんですよ!」と断言していたんだけど、その程度の関心なら、わざわざ番組でそのニュースを取り上げんなよカス、と思った。


僕はフィギュアスケートのファンではない。フィギュアは、あのジャンプで転倒するのが痛ましくて、できればニュースの速報なんかで「完璧な演技でした」と太鼓判を押されたものでなければ怖くて見られない。ライブなんて直視できない。
そんな僕ですら、今回の全日本選手権には、男子も女子も*1、それぞれの選手にドラマを感じることがあって、安藤も小塚も信成も明子さん*2もカナちゃんも真央ちゃんも高橋大輔も、みんなすばらしかった。
五輪に行く選手として、最後の最後に高橋の名前が呼ばれたときも、会場の期待はものすごいあったであろうにもかかわらず歓声は思ったほど少なかった、というのが僕のリアルタイムで観ていたときの感想だ。立ち上がって「GO! GO! ダイスケ!」みたいなタオルを大きく揺らす女性たち、まるで自分の息子のことのように大きなリアクションで泣く女性たち、隣の友人と手を取り合って「信じられない!」というように歓喜する女性たちもいたけれど、相当数の観客は、選ばれなかった小塚、そして信成、あるいは引退が確定していた安藤たちのことを思い、複雑な心境で控えめな喜びを示したのではないか。僕にはそんな空気が感じ取れたのである。
大声で喜んだ人たちを批難するつもりなんて毛頭ない。だって彼女たち(ほとんど女性だよ!)は実際の会場に足を運び、それぞれの選手に同等のスタンディングオベーションを送り、選手と一緒に泣き、笑っているのだ。彼女たちの支えがあるから、選手たちはリンクを滑ることができるのだと思う。「テレビの前で声援する」なんて聞えはいいけど、彼女たちのアクションに較べればごくごくちっぽけなものだ。だから、大声で喜ぶ人も、他の選手のことを思って小さく喜ぶ人も、みな等しく「正しかった」のだと思う。

羽生のフリーの演技が終ったとき、リンクに投げ込まれる花束を回収するために集まったちっちゃい女の子のフィギュアスケーターたち(おそらくボランティアであろう)のうちのひとりが、羽生を見つめながら「うわー、羽生さんすごかったー!」みたいな感じで飛び上がって拍手をしていたのがテレビカメラに映ったが、それが実に印象的だった。
安藤がすべての演技を終えたとき、キス&クライ(実に劇的な名称だ)で涙を止めることができなかったのも忘れがたい。
織田信成は、鈴木明子が金メダルを穫ったとき、文字通り号泣し、口を抑えて彼女以上に泣いていた。自分が現役のスケート選手としてリンクに上がることはもうないということが決まったばかりのそのときに、他人のために号泣する男なのだ、彼は。
高橋のフリーが終った際のインタビューは見ていて辛かった。うまくできなかったことが悔しくて泣いているのではなく、失敗したのにそれでも応援してくださる方がいて嬉しくて(泣いている)という表現をしていたのに胸が熱くなった。
失敗した真央ちゃんは、珍しく怖い顔をしていた。余計なお世話だが、このことがいい経験になってくれればいいと思った。
SP で面白い泣き顔で会場を湧かせたカナ子は、フリーで演技を終えたときは自信に満ちていて、観ているこちらの胸がすくようだった。
みなにドラマがあった。人生が凝縮されていた。

そういうものが、冒頭のカスアナウンサーには受け取れなかったと見える。彼の網膜にはなにが映っていたのか。彼の鼓膜にはなにが響いていたのか。
なにも感じることのできないのなら、せめてそのことについて語るなよ、と思った。お前のレベルに他人を引き下げるなよ、と。


きょうも痛ましい交通事故のニュースがあった。僕は知らないが、きのうもあっただろうし、おそらく明日もあるのだろう。きょうが特別な日とは僕は考えていないが、きょうを特別な日と思う人たちのことを祝福してもいい気分だ。


Christmas time in blue / 佐野元春

佐野のこの歌の中には以下の歌詞がある。

愛してる人も 愛されてる人も
泣いてる人も 笑っている人も
平和な街も 闘ってる街も
メリー・メリー・クリスマス
Tonight's gonna be alright


大切な人も 離れてゆく人も
よく働く人も 働かない人も
うまくやれる人も しくじってる人も
メリー・メリー・クリスマス
Tonight's gonna be alright


お金のない人も ありあまってる人も
古い人達も 新しい人達も
教えてる人も 教えられてる人も
メリー・メリー・クリスマス
Tonight's gonna be alright

僕はこれに、「生きている人も / 死んでいる人も」を加えたい。読んでくださった方にも、メリー・メリー・クリスマス。

*1:最初、「談志も女子も」と変換された。

*2:なぜか鈴木明子だけ、さんづけにしている。

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