とはいえ、わからないでもない

2014年05月

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近況というか。

ここ最近、なんとなく忙しいのだが、その理由のひとつが、5/22にうちにやってきたこのベビーたち。

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〆て六百本弱。

で、それから一週間ほどが経ち、花をつけたものも多くなってきた。

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それとは他の場所で試しに植えてみたえんどう豆も、大きくなってきた。こんなのどうするのかね。自分でもよくわからない。

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また、写真には撮っていないけれど、きょうはバジルを植えた。

ただ、ここ数日の暑さは、草刈りをしなければならぬ身には相当堪えた。帰ってきていつのまにか寝ているということも少なくない。さすがに昼寝を多めに取るようにはしているが、それでも身体がぐっしょりと濡れるほどの汗をかけば体力が減り、くわえて食欲も減退。

知り合いで、過去にトマトを三千本近く作っていた人がいたが、その人は、トマトは一生見たくないと言っていた。なんとなく、わかる。ほうれん草なんて、食べる気しないもんなあ。


タイトルは、わかる人にだけわかればいいってやつ。

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東京のあるビストロで働いていたとき、いつもひとりでやって来る女性のお客さんがいた。
最初に来店したとき、テーブル席でもよかったのだが隔離されたほうを好む方かと思い、カウンター席を勧めた。それ以降は、なにも言わずにカウンター席に案内した。

ほとんどしゃべらない方だった。しゃべるからよい、しゃべらないから悪い、ということはなかった。レストランには、好ましい饒舌さを持つお客さんもいたし、好ましい寡黙さを保つお客さんもいた。彼女はたまたま後者だったというだけ。
年齢は四十代半ばくらい? 左手を見る限りは結婚はされていないようだ。働いてそこそこのポジションにいる、という雰囲気をまとっていたが、それを見せつけるようなところはなかった。容姿は、NHKクローズアップ現代』の国谷裕子さんに似ていた*1。簡単にいえば美人だった。

女性にしては、わりとよく食べる方だった。ワインは必ず一杯か二杯飲んだ。ワインの味にうるさいというわけでもなかったが、ときどきスペシャルなワインを開けてカラフェでサービスしたりもした。そういうことをこちらがしても、特別な反応はなかった。つまり、女性特有の、女性性を売りにしたような喜び方、ということだが。
そういう喜び方をしないというところが僕には好ましかった。さらっとしていて、ただ食事をしに来ているという様子がよかった。だからこちらも、料理やワインをサーブするとき以外は近づかなかった。カウンターの内側には、グラスを磨いたりコーヒーを作ったりするため若手のスタッフが常時いることになっていたが、僕は、彼が余計な気遣いをしてそのお客さんに話しかけないように、できるだけ外に出るよう指示した。
スタッフと話したがるひとりのお客さんもいるが、その女性客は、ひとりを好んでいた。酒を飲むだけでなく、料理を食べるだけでなく、酒と料理をひとりでたのしむためにやってきた、という感じだった。表情にはちっとも嬉しそうなところはなかったが。

六回目か七回目、というときだったか。季節は冬だったと思う。こちらの顔を見れば、向こうもさっと会釈してくれるくらいにはなっていたと思う。
その日も前菜とメイン、それからデザートを食べたのち、コーヒーを飲んでいた。茶飲み話、というわけでもないが、春になるとメニューに並ぶ「空豆のスープ」について、彼女に話をした。「春になったら、あれをぜひ召し上がっていただきたいんですよね」とただの世間話のように伝えた。「空豆のスープ?」と彼女は訊き返す。「はい。裏漉しをするから形は残っていないんですが、あの風味とコクが、僕は好きなんです」
それからちょっとして、会計を終え、その方を見送った。いつもどおり、という感じだった。

一時間ほどして、店に電話がかかってきた。特に誰が出るということも決まっていないのだが、そのときは電話機の近くに僕がいたので、出た。
「はい、○○でございます」
「あのう、さきほどそちらで××を食べたものですが……」
女性の声、料理名、ですぐにわかった。さっきの女性客だ。
「あ、はい。さきほどサービスした者です。なにかお忘れものでも?」
「いえ……(しばしの沈黙)あのですね、空豆のスープ、」
「あ、はい。先ほど私が説明した?」
「はい、その空豆のスープなんですが…………わたし、そういうのは違うと思うんです!」
「あ……はい」
「それだけなんです。失礼します」
これでガチャン。電話が切れた。叩きつけるような切り方ではなかったが、口調から、憤慨しているのがわかった。
だが、どういうことだかわからなかった。空豆のスープという存在がそれほど気に入らなかったのだろうか。あるいは、彼女は豆が苦手で、それなのにおせっかい焼きの僕が、彼女が席に着いた途端に、頼まれてもいない空豆のスープを厨房にオーダーするような人間に見えたのだろうか。だから春がやって来る前に先手を打っておこうとすぐに電話をした、のだろうか。しかし僕が殊更でしゃばるような真似をしたとは思えなかった。数ヶ月先のメニュー内容をただ話しただけである。

僕はこの話を、長いあいだ「変わったお客さん」ということで、いろいろな人に話してきた。そしてたいてい、僕の話し方のせいも多分にあるのだろうけれど、「へーなにそれ? 変なの!」という反応を見ることになった。僕自身も実に変だよなあと思っていた。変、というよりちょっと怖いとも思っていた。
レストランというのは、装い、演じる場であると僕は考えているので、そこで、嬉しい・たのしい・おいしい以外の本音が出たりすると、僕は持ち前の警戒心をすぐに発揮してしまう。だから彼女が、なんの理由も説明しないで「違うと思う」と主張したときに、とてつもない距離感を感じてしまい、この人とコミュニケーションを取るのは絶対に不可能だと思ってしまった。そのため、それを嘲笑することで、自分の優位性を保とうとした。自分は正当であり、相手が異常なのだ、と。

実は、このやりとりの謎に答えはない。彼女はその後ぼくがその店を辞めるまで、少なくとも一回か二回かは来店したと思う。だがそのときはスープの話はいっさいしなかったし、彼女もそんなことは忘れてしまったか、忘れたようなふりをしていた。僕は彼女との距離を縮めることはなく、だからといって、必要以上に離れることもなかった。


ところが数年前から、このことがときどき頭をよぎる。
たしかに彼女のコミュニケーションのやり方は、唐突で一方的で、なにより理由も伝えず、総じてまともではなかったと思う。どう考えてもまともではないのだが、ただ、それを嘲笑った僕自身を後悔するようになった。「お客はどんな人でもお客だ」とか「他人を嘲笑ってはいけない」などという優等生的なことを書きたいのではない。そんなことは思っちゃいない。金を払えば客だと勘違いしているバカを何人も見てきたし、嘲笑したってかまわないような人間は大勢いる。
そうではなくて、ふとあの女性客は、前回の記事で言うところの自分の隣人なのではないか、という思いが急激に強くなってきたのだ。

なぜだかはわからない。直観的に(しかしその直観は七、八年ほどしてから顕れたのだからいい加減なものだ)、彼女の奇妙さが受け容れられるもののように思えたのだ。
彼女がいつも孤独に見えたからだろうか。それでも自足しているようにも見えたからだろうか。そういう印象の総体がずっと澱のように沈んでいたのだが、なにかのきっかけで彼女のことを思い出したとき、それらのひとつひとつに、どこか非常に幽かな部分でシンパシーを感じてしまった。

同じ飲食で働いている同僚たちならともかく、僕がこの話をした相手には、まったくこの界隈のことを知らない人たちもいて、「たとえばね、」で始まる、それこそ茶飲み話のひとつとしてこのエピソードを挙げることも多かったのだが、そういう茶飲み話の相手が、かつて僕の「隣人」であったことなんてあったのだろうかと考えると、答えは否だった。
薄っぺらい、ごくうわべだけのつきあいの中で僕は、空豆のスープに過剰な拒否反応を示したある女性の話を、いわば「手持ちの笑い話」のひとつにしていた。近いとも感じていない人間たちに向かって、本当は近いかもしれない人間のことをからかいのネタにするなんて、間違っても上品なやり方とは言えないだろう。


直接トラックバックはしないが、どこのこさんのブログ記事にこういう文章があった(勝手に引用して申し訳ありません)。

「ここが、定休日以外はいつも開いているということがわかったから、今度からは、こちらでワインを飲みたいからという理由で奈良に来ることができます。他がみんな閉まっていても、ここが開いているから安心です。」

前後の文脈がないと、意味がわからない人にはまったく意味がわからないだろうが、別にそれでいい。僕にはわかるから。
もちろんどこのこさんと空豆女性は別人で、空豆さんはほとんどなにも僕に話しかけてくれなかったけれど、ほんのちょっとくらいは、あのビストロのことを気に入ってくれていたんじゃないか、ということを思った。
もちろんサービスマンというのはそういうふうに思ってもらえるためにあれこれするのが仕事なのだが、ときおり、「ただご飯を食べに来ているだけ」の人もいて、その人はその人で居心地よく過ごしてもらえばいい、と諒解をし、それ相応の距離の取り方を選択する。空豆さんはそういう種類のお客さんだと思っていた。
けれども、もしかしたらそうではなかったのかもしれない。無口な人間がなにも考えていないわけではないのと同様、彼女も、しゃべらないながらもなんらかの考えだか思いがあって、あの店にときどきやってきたのかもしれない。「きょうは、あそこでごはんを食べようかな」と思ってくれることじたいが、本当はものすごくありがたいことなのだ。

その彼女が電話をかけてまで伝えようとしてきたことを、なぜ僕は嘲笑ったのか。それが本当に情けないとつくづく感じている。
「お苦手でした?」とか「お嫌いでしたか?」などと、いくらでも即興で訊き返すことはできたはずだ。そうしたら、「大っ嫌いなの、あの空豆の匂いが」という返答があったかもしれない。生臭い感じしない?
僕は好きだからそういうことを感じませんが、そういうことをおっしゃる人もいますよね、うちの母なんかも、匂いが苦手ということを言っていましたよ。そう、だからそんなスープがあるなんて聞いて、ちょっと信じられない思いだったから。そうでしたか、まあ違うスープもいろいろとありますし、春とはいわず、またご来店いただければありがたいです。また時間ができたら寄らせてもらうかも。じゃあ、その時間ができたときで、ぜひ。それじゃあ。それでは失礼いたします。
そんなふうに話すこともできたのかもしれない。

この数年で、そんな「会話」は数十回と交わしている。できごとじたいを忘れてしまわない限り、それは終わることはない。そんな種類の会話は僕の中に山ほど堆積している。それがふとしたきっかけで意識にのぼり、思い出すことになる。毎日、そんな繰り返しをつづけている。


昨夜、野菜の直売所に寄ったときに買った空豆をオーブンで焼いて食べた。形が揃っていると思って買った空豆は、すべて一粒入りでしかなく、損した気分だった。もっと真剣に選んでいれば、二粒莢、三粒莢のものもあっただろう。
それから僕は、空豆のスープのことを思い出し、その女性のことを思い出したのだった。

*1:その店には実際に国谷さんも来店されたことがあった。ちょうど綿矢りさ『インストール』が芥川賞を受賞したところで、食事をしながらその内容について、おそらくNHKのスタッフたちに熱く語っていたことをよく憶えている。

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前の記事をアップしてからすぐ、すなわち午前六時をちょっと回ったくらいに家を出て、車を走らせた。
およそ三十分後には、商売の取引相手と挨拶をし、モノとわづかな現金を交換していた。彼とはつい春先くらいまでイレギュラーのやりとりをいくつかつづけていたが、これからやってくる夏に向けていよいよ取引が本格化してくるということで、あらためて手を握った。もちろん、比喩としてだが。

そのまま帰るのも癪だったので、できたばっかりの珈琲屋に寄った。
新しい店舗の前では水撒きをしている女の子がいて、開店してからおそらく数分しか経ていないだろうに、すでに店内には客が何人かいた。
多めのカフェオレと、サービスのモーニング。かばんに入れていたディックの小説を取り出して読み始める。トーストを食べ、ゆでたまごの殻を慎重に剥きながら、小説の気になったところのメモをとったり、あるいは、手を止めて窓の外を眺めたり。
客はどんどんと増えていった。ひとりの者もいたし、ふたり組もいた。彼らの多くは、店に備えつけられている雑誌ラックから、新聞や雑誌を取ってそれに読みふけっていた。まだ雨は降っていなかった。

モーニングの空いた器を下げに来た女の子を見て、気づいた。なんだ、この店にはかわいい子か美人しかいないのか。
実は、註文を訊きに来た別の女の子もかわいい子で、なんだかものすごく不思議な気分だった。県の人口はもちろん、この市の人口のことを考えたって、こんなに魅力的な子たちが多く集まるとは考えられないのだ。まるで町中の、そしてついでに隣町中の美人とかわいい子たちを引っ掻き集めたという感じだった。東京や横浜でだって、こんな状況にでくわしたことはないというのに。

だからなのか、周りには僕と同じようなおっさんが多かった。しばらくすれば女性客がわいわいとやってくることになるのだが、それを考えていた時点では、客の九割がおっさんだった。それも、どちらかといえば女の子たちの父親というよりは祖父に当たるような年齢の人たちが多かった。僕だって、年齢でいえば兄というよりは叔父に近い立ち位置だったろう。つまり、叔父や親父や祖父の集会みたいなものだった。

小説の中では主人公がドラッグにハマって、バッドトリップをしているところだった。延々と悪夢のような幻覚に主人公が苛まれ、それにつれて僕も半分眠っていた。客は次々と来店し、入口ドアにかかったベルがそのたびにちりんちりんと店内に響いた。
その頃には女性客も増えていたが、それでもほとんどが六十代以上だった。五十代なんていなかった。いたとしても、せいぜいひとりかふたりだった。三十代なんて天然記念物で、こいつはいったいなにをやっているんだろうか、と訝しがられたかもしれない。
昼のカラオケ屋や回転寿司屋のように、午前中の珈琲屋も「高齢者」やその予備軍で満たされていた。

八時になってシフト入りした子も、そして九時になってからシフト入りした子も、なにかの冗談みたいに美人だった。けれども、そのことは僕の心にはちっとも響いてこなかった。
新しい店には希望が満ちているのがふつうで、たいていの場合、働いているみながにこにこし、理由のないよろこびにみなぎっているものだ。川崎のショッピングモールにあったアイスクリーム屋も、オープニング当初は、幾層にも折り重なった行列のために歌を唄って聴かせていたものだが、今はどうなのだろうか。また、行列に並ぶ人のためにドーナツを無料でサービスするドーナツ屋もあったが、あれも今どうなっているのだろうか。
読んでいた小説では、フレックという登場人物が、ヤクに心を蝕まれていく友人たちから距離を取り始めているところだった。フレックもまた、ヤクで頭がどうにかなっていた。それでも、「むかしはここも楽しかったのにな」と回想にふけっていた。

あんなに良かった日々や出来事や時間が、こんなに急に汚れちゃうなんて。それも理由なし、まともな理由が一つもないのに。ただ――変わっただけ。原因もなしに。

フレックの絶望はきっとドラッグによるものだったと思うが、しかし現実でも――犯罪などに手を染めないまともな生活という意味だが――あんなによかったものが、という変容に幻滅することは多い。それらの幻滅や失望をおそれるあまり、心が動かないようになる。距離を置いてそれ以上近寄らないようになり、遠くから見つめる視線に冷たいものがまじっているのが普通になる。もちろんこれは、僕に限った話なのかもしれないが。

何十度目かになるが、本から顔を上げ、窓の外を見た。
より採光ができるようにと、窓枠は可能な限り大きく作られていた。その向こうでは雨がぽつぽつと降り始めていた。
珈琲屋の前を通る道路を挟んで、向こう側には半年か一年ほど前から無人になっているビルがあった。テナントはすべて空いていて、一階にあったへんてこなディスカウントショップも店を畳んだらしい。駐車場の入口にはずっとチェーンがかかったままで、屋上にある人の顔型をしたでっかいアイコンの表情が所在ないように見えた。


会計を済ませ店を出ると、スーパーに髭剃りを買いに行った。店内をぶらぶらしていると、冷凍コーナーでは枝豆やらえんどう豆やらほうれん草やら、それらのミックスしたものが、それぞれ冷凍ものとして売られていた。そのうち、冷凍されていない野菜の方が珍しくなるのかもしれなかった。そんな時代になったら、年寄りの口癖は「むかしは八百屋さんっていうものがあってね、そこでは生の野菜が売られていたんだよ……」となるのかもしれない。そしてその時代の子どもたちは、「野菜だけを専門に売っていたなんて!」と驚くんだろうな。
肉も魚も冷凍ものでしか売られないようになり、そのうちスーパーじたいが冷凍庫に放り込まれるんじゃないか。人々はふかふかのダウンコートに身を包み、スケート靴を履いて、つるつるに滑る店内で上手にカートを押すようになるのだ。レジカウンターのそばでは、冷凍マクドナルドで解凍バーガーが売られ、半シャーベット状のなんだかわからない製品をありがたく食べるのだろう。

妄想はそこまでにして、さっさと買い物を済ませた。FMラジオから流れるDJのつまらないトークにうんざりしたので、すぐに車のラジオを切った。ひさしぶりに通った道の脇の更地には、重機が入り、なにやらができる予定だという看板が掛かっていた。なにができるんだろうか、と眺めていると、隣の車線に並んだ軽バンの運転手が畑の地主さんだった。彼はこちらに気づいていない様子で、僕と同じく、なにができるんだろうか、と車の中から首を伸ばして必死に更地を伺っていた。
明日か明後日くらいに彼に会ったとき、この話をすることになるのだろう。「このあいだ、お見かけしましたよ。○○の近くで」「あんたもあそこにいたんか」「なにができるんでしょうね、あそこに」「さあな。なんやろな」などなど。
ひと月ほど前かそれ以上前くらいに、たまたま遭遇した火事現場のそばを通ったが、その痕跡は見られなかった。


家に着き、そこそこに掃除をし、いろいろと片付けものをした。迷ったが、ストーブに灯油を入れた。なんだかんだ言って、あと半月くらいはストーブが必要になる。それからしまったとしても、やがて十月にはまた押入れから引っ張り出してくることになる。こたつの登場期間もそれと同じで、舞台袖に引っ込んでいる時間の方が短いくらいだ。
諸々の用事が済み、溜まっている朝ドラ先週分を流し見していたら、水曜日ぶんあたりまでですっかり腹が立ってしまい、テレビを消した。貧しい女の子が建物の屋根部分を歩くのに代わり、吉高が歩くと言い出すのだが、悪童どもの頬が腫れるまでに引っ叩けばいいだけの話のように思えた。
子どもが無害で天使的なものである、という感覚を持ったことがない僕は、『坊っちゃん』の、というより漱石自身が松山で体験した子どもたちへの憎しみの方に、より共感を覚える。だから、子どもたちがわいわいとたのしんでいるのならともかく、ぎゃーぎゃーと騒いでいると騒音にしか感じられないんだよなあ。大人が子どもたちの視線に立って向き合う、みたいな現代的な感覚にも共感できない。教師と生徒は平等じゃないからなあ、むかしも今も(だからといって体罰ありき、とは絶対に思わない)。
ゴロゴロしながら小説のつづきを読む。読んでいるうちに眠たくなり、半醒半睡の状態がつづいた。屋根を打つ雨の音は鳴り止まなかった……。


夕方になって、完全に目が醒めた。気分を変えるために、一年に数回くらいしか使わない離れの部屋へ行って小説のつづきを読み、最後まで読み切った。うーむ。やっぱりディックの作品はすばらしいな。
ほとんどの人がそうだと思うが、時間に追われている毎日を過ごしていると、ときおり自分の大事にしていたものを手放さなくてはならなくなる。弟の妻は、『チボー家の人々』や『失われた時を求めて』を読んだ人なのに、いまは最上級に忙しい仕事に首まで浸かっていて、読書などまったくできない状態だと聞いている。
また、交友関係なんかもそうだろうと思う。どんなにSNSツールが発達したって、ある程度の努力をしなければ他人との関係なんてつづかないだろう。もちろんこれも、僕に限った話なのかもしれないが。
そういう日々の中で、小説を何ページか読み進めたというだけで、なにがしかの進捗があったと思える。「若いころは焦っていたけれど、そんなに焦る必要もなかったんだよね」のような言説をよく見聞きするが、若いときと若くなくなってからとでは明らかに受け取れるものが異なるように思う。最近では殊更に焦っている。目の前にある多くの選択肢のうち、捨てると決めたものも多数ある。「拾う」と決めたものまで諦めるようなことはしたくない。

夕食にホールトマトとしめじを使ったパスタを作って食べ、薄いジントニックを飲みながらこれを書いている。書くのに飽きたら、ディックの次の小説のページを開いて読む。
冒頭からドラッグに頭をやられた女性が自殺する場面から始まる。特別にドラッグが出てくる小説を読みたいわけではないが、晩年のディックの作品にそれは、固定化された舞台装置のひとつみたいに登場する。僕だって読むのは二回目だしそんなことはわかっている。けれども、最前読み終えた小説の登場人物たちと同様に、僕には彼らの存在がまるで隣人のように感じられる。どこの誰より、と書くと大袈裟になってしまうが、ほとんどの実在の人間より、と書いても嘘にはならない。

書いているうちに、日を跨いでしまった。ジンはもう飲み終えていた。整理できたメモはひとつづつ捨てた。それでもまだ消化できないメモは山ほどある。おそらくどこかで諦めてそれらを大量に捨てることになるのだろう。それまでは下書きにつぐ下書き。
待望の休日だったはずなのに、あまり有意義な一日ではなかったのかもしれない。少なくとも他人から見れば。「明日の仕事」はすでに「今日の仕事」になっている。その「今日の仕事」のために、もう寝る。

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横浜から帰ってきて以来、二週間ぶりに一日休みが取れる。
ふだんより三時間だけ休憩を多く取った雨の日が一度どこかであったが、フルはひさしぶり。といっても、これから外せない仕事があってちょこちょこっと出かけるのだが。
で、そのひさしぶりの休暇を言祝ぎ、レンタルしていてずっと観ることのできなかった映画『のるかそるか』をきのうやっと観ることができた。あほったれ。

のるかそるか [DVD]

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先日からNHKFMの『ラジオマンジャック』というラジオ番組を聴いている、と書いたが、この番組タイトルはもちろん、赤坂泰彦の尊敬するウルフマン・ジャックというDJの名からとられている。赤坂のことを嫌いなくせに、そういうことはけっこう憶えている。
で、そのウルフマン・ジャックは、映画『アメリカン・グラフィティ』で出演していたなあ、『アメリカン~』には、無名時代のハリソン・フォードが悪役で登場していたけれど、主役はリチャード・ドレイファスだったなあ、ドレイファスといえば……という連想で、この『のるかそるか』という映画を思い出したのだ。くそったれ。


単純な物語である。
貧しいギャンブル好きのタクシードライバーのドレイファスが、競馬のいかさまレースの情報を入手し、妻に内緒で友人と競馬場に出かける。
情報を信じ、持ち金のありったけをかけたドレイファスは次のレースも、そしてその次のレースも大穴に張る。倍々ゲームだ。
しがない競馬場の酒場で1ドル2ドルの話をしていたドレイファスも、二度目のレースからは「ジョッキー・クラブ」で紳士淑女にまじって予想。はじめのうちは上品にしているのだが、レースが始まりゃそんなものはどこかに抛ってしまい、当ったときには大声で叫ぶ。あほったれ、くそったれと。
この言葉はさすがに周囲のレディース・アンド・ジェントルメンの眉をひそめさせ、ドレイファスは再びしがない酒場へ。

字幕はないが、こんな雰囲気。なんだかエンディングみたいだが、このあと別にもう一レースあるのだ。
つまり、倍々ゲームの行く先はいったいどうなるのか、という話である。ドストエフスキー『賭博』に出てくる老婆(だっけ?)は、最後の最後でスる。じゃあ、ドレイファスは?
最後の最後にコーナーを回ってきた自分の賭け馬の目を観たドレイファスが、「わかっていたんだ……」とつぶやくところが好きで、もう二十年以上前の映画なのに、「あほったれ、くそったれ」の台詞とともに、憶えていた。いい映画である。あほったれ。

あと、邦題っていうのがいい。原題の「let it ride」というのは、そのまま賭けをつづける、という意味のようだが、それを「のるかそるか」と翻訳するセンスに拍手。

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  • 車なんかのテレビCMで、いろいろと車が変った走り方をしたあげく、その画面右下に「CM上の演出です」とちっちゃく表示するのとか、
  • 歯磨き粉なんかのテレビCMで、当該歯磨き粉で歯が磨かれ、最後に水で洗い流されるイラストレーションで、なにかの言い訳のように一部が必ず洗い残されるのとか、
  • 健康食品なんかの通販番組で、出演者たちがそのサプリメントを服用したためにどんなに健康になったかを滔々と語っているその画面右下に、「個人の感想であり、商品の効能を保証するものではありません」とちっちゃく表示するのとか、

もう、やめようよ。

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  • 今回は有村架純の死で幕開けだが、この死はけっこうでかい
  • 有村の役柄って、いちばん死に遠いような人間だと思っていたのだが、これが死ぬとなると、他のキャラクターも死ぬ可能性があるということを意味して、視聴者は安穏と観ていられなくなる
  • まさか安穏と観ている人も少ないとは思うが、たとえば香川の娘や妻だって、これから死ぬ可能性が出てくるということ
  • ふと思ったのだが、西島の上司である生瀬がいる部屋って、『ダブルフェイス』のときに香川がいた部屋と同じじゃないか?
  • 二度目に観たときに思ったが、生瀬の部屋のロッカーがなんか怪しい
  • 喫煙時の西島と生瀬のタバコの持ち方は対照的で、これはわざとなんじゃないかと思っている
  • 生瀬の娘が入院している病院、調度や部屋のインテリアが大袈裟すぎ!
  • 生瀬が立ち去ろうとする西島を呼び止めて「待て倉木」「なんでしょう?」「……いや、なんでもない」って、これは生瀬の死亡フラグと見た!
  • 池松と品川徹との邂逅シーンがよかったのだが、観ているあいだずっと気になったのは、会話の内容もそうだけど、品川が殺されやしないだろうか……ということだった
  • 品川の「ホットミルク入れてやるけん、飲みなさい」の一言で、あ、助かるのね、と安心した
  • 池松がむかしを思い出しながらブランコに揺られ、それから隣の空のブランコを揺らすシーン、いいなあ
  • 不思議なもので、有村が夜の新谷邸を訪れたときはものすごく怖かったのに、池松自身のときはまったく怖くないんだよな
  • 池松がハセヒロを狙ってやってきたレストラン、不思議な照明のテーブルだなあと思っていたが、後で装置としてすごくうまく使われていて感心した
  • 西島の頼んだ「フルコース」っていうコース、今もあるのかな?
  • そんな註文の仕方だと、「お客様、コースには二種類ございまして、Aのコースがこれこれで、Bのコースがこれこれとなります」みたいな訊き返しをされて、ふたりの緊迫した会話がだいなしになってしまうような気がする
  • そこで西島が丁寧にコース内容を確認していたら面白い
  • 「え? Aコースの魚料理って、Bコースにないの? Bは肉だけ? 肉はなに? 羊ないの? おれ、羊好きなんだけど」とか
  • スーツを着た池松が、何回かフィギュアの高橋大輔に見えた
  • 池松が広げた写真を際立たせる、テーブル中央の間接照明
  • 石田ゆり子の写真を見たときにすべての音が止まる、という演出は面白く、こちらまで息を止めてしまった
  • そもそも、ここ数回、いやもしかしたらずっとかもしれないが、このドラマを観ているときの僕の呼吸回数は少なくなっている
  • 池松がなにも言わず消え去ってしまい、あとに残された西島……ここで想像したのは、フルコース二人前(前菜は食べ終わっていたと思うが)を、西島ひとりで食べきろうと頑張っている図
  • 「く、苦しい……すみません、残りはドギーバッグに入れてください、あと、『警視庁』宛ての領収書を」
  • 予告篇を観た上で言うわけじゃないけれど、やっぱり小日向は怪しいんだよなあ
  • 石田ゆり子がそれと知って爆弾を田中要次のバッグに入れたとは思えないので、きっとそれも誰かにハメられたと考える方が自然だろうな
  • となると、怪しい人物はもうハセヒロか小日向しかいないような……


ドラマの感想記事を書くとき、ぼくは基本的には役名ではなく役者名を書く。それは、あとで読み返したときに、「ん?」となるからだ。かといって、倉木(西島)などと書くのも面倒でかなわない。
そうだからといって、実際には西島の役は倉木であり、香川は大杉、池松は新谷、ハセヒロは東、吉田鋼太郎は中上、ということくらいはわかっている。小日向文世は「ツキ」という名前らしいということはわかっているが、漢字は不明。だが、真木よう子の役名だけはほんとうにわからない。一度か二度、出たような気もするけれど憶えられなかった。
実際に登場しているときは、「あんた」とか「おまえ」ばっかりで、脚本の方でもあえてその人物の名前がわかるような「本」にしていないんだろうな。それがいいことなのか悪いことなのかわからないけれど。

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前にも書いたような書いていないような、な話だけど、きょう仕事をしているときにふと思い出したので、メモ。


山の音楽家

「山の音楽家」という童謡があるが、この歌詞がずっと意味不明だった。

わたしゃおんがくか やまのこりす
じょうずに バイオリン ひいてみましょう

小学校低学年で習う歌だから、たぶんこんな表記だったろう。
ただ、音楽で習う場合には、五線譜に音符が載っていて、その下に平仮名の歌詞が振られるという体裁を取っているはずだから、それを歌っていくと「わったっしゃ、おんがーくかやまのこりすー」と聞える。「おんがく」はわかる。「かやまのこりす」ってなんだ?
「山の音楽家」というタイトルだから、などというふうに、その当時は論理的には考えなかった。まず音があるからだ。「かやまのこりす」。当時の僕の頭のなかで必死に考えた結果が、「加山(というような名前の山があるのだろう、と思っていた)の子リス」だった。
小学校高学年になってもその間違いには気づかず、どころか、すべて「わたしゃおんがく、かやまのゆーぞー(加山雄三)」と替え歌にしていた。こうまでしているのに、音楽のリズムに隠れているせいで、「音楽家」という言葉はやはり僕の頭にはまったく浮かばなかった。
これが、「私ゃ音楽家、山の子リス」という意味だとはじめてわかったのは高校生くらいのとき。それまで七、八年ほど忘れていたというのに、いきなり「あ!」と気づいたのだ。そして、なぜ「おんがくか」と「やまのこりす」のあいだに、ブレスひとつでいいから入れなかったのか、とやっぱり妙に思った。

いまひとつ思い浮かぶのは、むかしの「出前一丁」のCM。

この中の「あーらよ、出前一丁」というジングル(?)の意味が、ずっとわからなかった。ずっと、「あーら、よってまえ、一丁」に聞えていたのだ。「よってまえ」ってなんだ? いま上の動画であらためて聴いてみると、「あーらよ、出前一丁」と少しブレスが入っているが、子どもの頃はそれがよくわからず、やっぱりリズムにとらわれてしまって、「よってまえ」が一丁、ってどういうことだと不思議に思っていた。不思議に思っているわりにはそれ以上考えないのが僕の悪い癖、なので、ずっとそのままになって二十歳前後まで気づかなかった。

あとは……前のブログにも書いた、キャプテン翼のオープニングソングの歌詞を「ちょっとアレ味な」に勘違いしていた、という話くらいかな。
こういう歌ってたぶんほかにもあると思う。

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きのう、ブログを書き終えた時間が午後九時をちょっと回っていたので、これから焦ってリアルタイムで『MOZU』を観るよりは、録画したやつをじっくり観た方がいいわい、と他のチャンネルをかちゃかちゃとやっていたら『ボーダー』のオープニングがあって、クレジットを観ていたら、遠藤憲一滝藤賢一古田新太、とあって、腰抜かしそうになった。
おいおい、『ロング・グッドバイ』をそのまま持って来たみたいなじゃないか。たぶん、両方ともを観ていた人には「なにをいまさら」な話なのかもしれないが、これはひどすぎる。

ひどすぎる、といえば、先週の『MOZU』で「あれ? あれ?」と言っているうちに刺殺されて、そのまま頭を大きなガラス窓にぶち込まれた吉田鋼太郎
彼はこのシーズンのみで、「寒い寒い」と言ってばかりの弁護士(『ロング・グッドバイ』)、サディスティックな変態殺し屋(『MOZU』)と役を替え、現在は伯爵令嬢と再婚した炭鉱王(『花子とアン』)に落ち着いている。めちゃくちゃすぎるな。
以前、ニューディール的ドラマというのが必要だ、と書いたことがある。つまり、職業俳優の俳優生命を少しでも長くするために、公共事業的役割の強い(視聴者としてはクソの役にも立たないほど面白みのない)ドラマが必要である、と。けれどもそれは、一部の俳優たちのみが優遇されるような状況を期待してのことではない。もっと多くの映画やドラマに、多くの俳優が起用されるべきだ、と思ってのことである。
聴けば、吉田鋼太郎は『半沢直樹』で半沢の上司をやっていたことからブレイクしたようで、それを知って「なあ~んだ」という感も強かったが、まあ、もともといい役者だったからそれはそれでいいのだけれど、各番組のプロデューサーは、もうちっと工夫をせいよ、と思う。

わたくしは、『半沢』の堺雅人という役者をむかーしから評価していないのだが、それはかのドラマを観終えたのちも、変わることはなかった(ただ、『リーガル・ハイ』を一回だけちらと観た限りでは、ものすごくハマっているんじゃないかと思った)。どう贔屓目に言っても、そこそこ癖のある役者である。
そういう堺を多用しつつあるこの現況って、堺自身にとってもよくないことなんじゃないか、と思うんだよなあ。ぐっさんを押しのけて『のどごし生』のイメージキャラクターに起用するほどの価値、あるか? あれじゃあ、いくらなんでもすぐに飽きられると思うのだが。

と、このようにいっとき注目されると、すぐさまいろいろなところで遣われるということが多い昨今ではあるが、これじゃあ若い人間やうまくても名がない役者は育たないと思う。そっちの方がギャラが安いんだし、演出でビシビシ鍛えていくという方針を採ればいいと思うんだけどねえ。作りがどうも保守的になってしまっているのかねえ。よく知らないけれど。


先週分の『MOZU』で新谷に殺戮された悪者グループのひとりで、水槽に入れられ電流で感電死した人があったけれど、ふと、あの俳優さんのことをなんとなく想像してしまった。
実家への電話。何回かのコール音ののち、受話器が取られる。
「もしもし、かあちゃん? あのさ、おれだけどさ、こないだ言ってたドラマ、観てくれた? そう、『モズ』って言って、きのうの夜九時から……え? 観てくれた? そう、おれどこいたかわかった? ……そうそう! あの、女装した男にちっちゃなプールに入れられて、電気バリバリーって食らった……そう、あれよ! あれだけじゃなくてさ、最後、ごっつい警察隊がやってきたときに、もう一回プールのところに出てきたんだけどさ、気づいた? そうそうそう! 最後、ぽちゃんって浮かんでたでしょ? ぎゃはははは! そう……そう、え? とうちゃんも観たって? え、ケンジも? ……みんな気づいてた? ハハハハ! そうなんよ……うん、うん……うん、そりゃあんなもんよ、出番なんて……まだおれも若いけんね。もっと有名にならんとなあ……心配すんなよ、かあちゃん。大丈夫だからさ……次はもうちょっとみんながわかりやすいね……ハハ! そうそう、せめて『いいもん』を演れるようにお願いしてみるけん……うん、うん……とうちゃん元気か? ……いやいいよ、話すことないし。コメは? ああ、そう。そりゃよかったね、ヨシアキおじちゃんも手伝ってくれとるんか、よかったね……うん、うん。まあ、心配せんでええけんね。また電話するから、うん……うん、元気よ、おれは……うん……うん、わかったよ。うん、じゃあね」
という、いったい何弁だかわからない会話が想像された。
これはまったくのフィクションだけれども、役者は世に数人しかいないってわけじゃないからね。もっといろいろな人をつかってほしいもんだぜ、まったく。

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今年のはじめあたりに、ツタヤの古書部門で『中国怪奇小説集』というのを百五十円で手に入れた。『半七捕物帳』の岡本綺堂が作、ということになっているが、実際は中国のアンソロジーを翻訳して編集しているようだ。そのことは作中で説明されている。
ちょこっと読んでいてそのままになっていたのだが、さっき花梨さんのところのブログを読んでいて、思い出した話がある。

少々長いが、全文引用。

宿命


陳仲挙がまだ立身しない時に、黄申という人の家に止宿していた。そのうちに、黄家の妻が出産した。
出産の当時、この家の門を叩く者があったが、家内の者は混雑にまぎれて知らなかった。暫くして家の奥から答える者があった。
「客座敷には人がいるから、はいることは出来ないぞ」
門外の者は答えた。
「それでは裏門へまわって行こう」
それぎりで問答の声はやんだ。それからまた暫くして、内の者も裏門へまわって帰って来たらしく、他の一人が訊いた。
「生まれる子はなんという名で、幾歳(いくつ)の寿命をあたえることになった」
「名は奴(ど)といって、十五歳までの寿命をあたえることになった」と、前の者が答えた。
「どんな病気で死ぬのだ」
「兵器で死ぬのだ」
その声が終ると共に、あたりは又ひっそりとなった。陳はその問答をぬすみ聴いて奇異の感に打たれた。殊にその夜生まれたのは男の児で、その名を奴と付けられたというのを知るに及んで、いよいよ不思議に感じた。彼はそれとなく黄家の人びとに注意した。
「わたしは人相を看ることを学んだが、この子は行くゆく兵器で死ぬ相がある。刀剣は勿論、すべての刃物を持たせることを慎まなければなりませんぞ」
黄家の父母もおどろいて、その後は用心に用心を加え、その子にはいっさいの刃物を持たせないことにした。そうして、無事に十五歳まで生長させたが、ある日のこと、棚の上に置いた鑿(のみ)がその子の頭に落ちて来て、脳をつらぬいて死んだ。
陳は後に予章の太守に栄進して、久しぶりで黄家をたずねた時、まずかの子供のことを訊くと、かれは鑿に打たれたというのである。それを聞いて、陳は嘆息した。
「これがまったく宿命というのであろう」

この話、なかなか不思議な感じがあって好きなのだが、最後の下線部、これを蛇足と言わずしてなんと言おうか。なくてもいいじゃん。いや、ないほうがいいじゃん。
ただ、これは岡本綺堂が書いたわけではなく、あくまでも出典である『捜神記』に忠実に従った記述なのだと思う……でもねえ。

なお、このエピソードも収められている『捜神記』という作品集には、三国志でもおなじみの糜竺という蜀の文官が出てくる話がある。
彼が若い頃、車で家に帰ろうとしていると若く美しい娘が載せてくれ、と頼んだ。何十里か一緒に進んで、それから彼女と別れるという段になると、彼女は「わたしは天の使いで、これから糜竺という者の家を焼きに行くのだ」という。糜竺が、それは困る、なんとかしてくれ、と懇願すると、彼女は「焼かないわけにもいかないのだが、ゆっくり参るので、わたしの行かないうちに、荷物を運び出しなさい」と言った。その言うとおりに糜竺は、急いで家に帰って家財道具をすべて運びだすと、それからすぐに大火が起こり、家は全焼した、という話。
実はこれが、宮城谷昌光の『三国志』で糜竺が登場した際に紹介されていて、その記述を読みながら、「読んどるがな。『捜神記』やろ? 知っとるがな知っとるがな」となんだか嬉しくなってしまった。


蛇足の蛇足。
花梨さんのところでロシアの超能力学校の話がちらと出てきていたが、それについても思い出したことがあった。
超能力を人間の能力のひとつとした場合、やはり好調不調の波はあるのではないか。たとえばウサイン・ボルトは、9.58秒/100mという世界記録を保持しているが、この記録をつねに出せるわけではない。しかし、彼が100mを9秒台なかばちょっとで走れるということを疑う人間はいない。少なくとも、かつては走れたのだ、ということを疑う人間は。
また、「悟り」というものはつねにその状態に没入できるものではなく、あるときにはその世界に入れて、あるときには入れない、というものらしい、というのをあるところで読んだことがある。なるほど、そう考える方が合理的のようにも思える。
僕はオカルトな考えというものをあまり信じはしないが、これに対して盲目的に否定する人に出会うと、猛烈な反撥心が湧き起こってくる。
花梨さんが書かれているような、「小さな『謎』が心にぽちっとあるのも面白いじゃないか」という気分が強くなるのは、そういうときなのだ。

編集

先週分。

  • 開始早々に有村架純死亡フラグ
  • こういう状況で「少し眠ります……おやすみなさい」って、ふつうは「寝ちゃだめだー」って返しになりそうなもんだけど、池松の「おやすみなさい」には「へ?」ってなった
  • ということは、死なないのかと思いきや……死んでいた!
  • 有村架純は、もともとは池松とはなんの縁もゆかりもない無辜の人間だというのに、わざわざ遠くからやってきて、グレーチングでぶん殴られて、拉致されて、あげく拷問死って、救われないにもほどがあるな
  • ま、物語構成上、吉田鋼太郎グループがそういう「残虐な殺害」という罪を犯したからこそ、その後の新谷の「殺戮ショー」を視聴者が許容できるわけなのだが……
  • 新谷は、二重人格者だと思っていたが双子だったのね
  • なんだか辻褄が合わないときや、重要人物が絶体絶命になったときは双子を疑えっていうのは、『カムイ伝』で学んだ
  • 二重人格を疑っていたので、女装の可能性は考えていたが、池松ってわりと男っぽくてゴツゴツしているんだよねえ
  • それを見抜けなかった真木の公安捜査官としての能力を疑うよ!
  • 女装をしている人って、街なかにいればすぐにわかると思うんだけどなあ
  • 田中要次と会っていた謎の女だけど、考えられるのはもう石田ゆり子しかいないんだよな
  • ライブではなく録画ものの女子バレーの試合結果を、残り時間を見て推量するのと同じやり方で(「もう八時四十五分だから……逆転はねーな」)
  • それだからこそ、田中が石田を見て「おい!」と声をかけて走って行った、ということも考えられる
  • まさか「謎の女」が小日向文世が女装していたもので、くわえて「だるま」でもあった、みたいな「なんでもアリ」の展開になったら笑えるが
  • しかし爆破のシーンは、何度見ても凄まじくて、結果を知っているのにいつもどきどきしてしまう
  • 女の子が女装池松をバケモノと見なしたのはわかっていたが、そうとわかっていても、前屈した池松の姿は怖かった
  • 池松の回想シーンで、新谷拉致の場面で、森の中を走っていた人影の意味がやっと腑に落ちた
  • 池松が海に墜落するところで、画面向こうにたくさんの海鳥が飛んでいて、手前では波立っているところの映像がきれいだった(このために特別に撮影したのだろうか?)
  • 新谷殺戮ショーは、ジャッキー・チェンのアクションものや、刀を使ったゲーム(「戦国無双」とか)へのオマージュらしきものがいくつか見られたが、前回のものに較べると陰惨だし(ただそれだけで悪いってことじゃないけれど)、見えづらすぎてしまって、多少評価は落ちる
  • 吉田鋼太郎は最後まで撮影をたのしんでいたんだろうなあ
  • 口の周りを血だらけにして笑う池松だって、バットマンジャック・ニコルソン版ジョーカーを意識してるでしょ
  • そのあとに、いきなり突入してくるSATっぽい特殊部隊だけれども、こいつら、どうやってこの場所を知ったの?


今週、このドラマの喫煙シーンに賛否が、みたいなヤフーニュースのヘッドラインに上がっていたけれど、なんつうくだらない議論だと思った。
タバコを好きな人と嫌いな人が世の中にいる、というのはそりゃそうなんだろうというだけの話だが、ドラマでの喫煙シーンを、「教育によくない」みたいな次元で問題にするやつって頭のなか、どうなっているんだろうと思う。
たとえば前回の吉田鋼太郎が池松を拷問する場面で、電気流してギャーとかやっているとき、部下のひとりがタバコを吸おうとして、吉田が「こら! タバコは身体に毒だぞッ!」とか注意して吸わせないようにしたとしたら、満足なのかね、そういう人たちは。「うむ、タバコを否定しているとはいいドラマだ」とか「教育的なドラマだ」とか言うのかな。批判するならそっちじゃねえだろ、と思うけどね。
そんなこと言うのなら、マンガ『ワンピース』のサンジだっていつもタバコ吸っているけれど、こういう「運動」をする人たちって、サンジ批判もするのか? 宇多田ヒカル『First Love』の歌詞のはじめに、「最後のキスはタバコのflavorがした」というのがあったが、この曲がセンバツのテーマソングになった際、この「タバコ」の部分が問題になったんじゃなかったっけ? そういうつまらないところを指摘して世の正義を果たしたと勘違いする輩は昔から多いのだ。

とりあえず今日も『MOZU』観るぞ。

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