とはいえ、わからないでもない

2014年06月

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  • 今週前半は、醍醐さんが「女子力」を発揮したが、「天然」きどりの花子よりはよっぽど頑張ってくれい、と思っていた
  • そもそも、朝ドラヒロインっていっつも紋切り型だよな(そして僕もいっつもそれを指摘している)
    • 鈍感
    • わかりやすい
    • 運がいい
  • こういう人物像を好きっていう人たちは、尽きないんだろうよ
  • 村岡印刷の鈴木亮平は、こういう男主人公としては珍しくカッコいいよなあ
  • 小泉孝太郎のような村岡弟よりカッコいい
  • 村岡弟は、にこやかに笑っているが、その顔で平気で人殺しをしそうな怖さを感じてしまう
  • 蓮子さんとコトが起こりそうな帝大生だが、こいつはカッコ悪いし、演技下手でがっかり
  • そもそもカフェーの一隅を日がな占領している帝大生たちなんて、よっぽどブルジョワじゃねえか
  • 居酒屋の酒代だってどこから出ているんだ、まったく
  • しかも、毎日ブンガク論を戦わせているわりには、肝心の脚本は蓮子さんに依頼するって、口だけ連中だな
  • 出版社同僚の、ジョビジョバ六角慎司にちょっと似ている皮肉屋は、本田博太郎の息子だったのか
  • 編集長役の藤本隆宏は、かつて『坂の上の雲』(第三部未見!)の広瀬中佐を演じていたときはもうちょっと細かったのに、いまは丸々としていて……でも好き

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やっと最終回を観た。

野球部
  • 前回、決戦を目前に空中分解しそうになり、多くの部員たちが就職活動をしていた青島の野球部だが、けっきょく感情論で個々の部員たちが戻ってくることを決意、というのがこのドラマらしい
  • その際、猿田ってやつも就活をしていて、「こっちだって食うのに必死なんだ!」みたいに力説していたんだけれど、その前にモヒカン気味の髪を切れよ、と思った
  • そのとき、四番のウドの大木的存在、鷺宮が「おれ、イツワ嫌い、青島、好き、野球、好き」みたいな片言(というイメージ)をしゃべっていたが、これまたこのドラマらしい
  • つまり、「気は優しくて力持ち」という存在を、助詞を使えない人物(というイメージ)であらわしているのだが、これは漫画やゲームなどにもよく出てくる
  • 監督の手塚とおるの存在がすでにギャグで、彼が出てくるだけで口元がゆるんでしまうのだが、これは配役に成功したと言えるのだろう
  • 興味深いのは、制作側も彼のキャラクターを活かして日本生命とのコラボCFを作っていて、この企画は面白かった
  • 決戦前日の野球部ミーティングで、唐沢のスピーチのあとに社歌だか部歌を、しかもみんなが肩を組んで唄うところなんて昭和臭ぷんぷんのシーン
  • そして、いよいよ決戦の野球大会だが、イツワも青島も、もうちょっと運動神経よさそうな人間を撮影に使った方がいいんじゃないの?
  • ボールを追っかけていくところとか、素人(の中でも運動神経悪い方)まるだしという感じで迫力がまったくなく、ここらへんはもうちょっと配慮すべき
  • 一回裏の大ピンチの際、元部員との青島野球部員たちとのやりとりを見たジュディ・オングの「なんだか、クサイね」っていうのがこのドラマのテーマで、ありえないくらいの熱血・スポ根ものを、「クサい」と知っていながらやっているんだよ、というメッセージでもあった、と思っている
  • だから、最初は渋っていたジュディ・オングも、回を追うごとにヒートアップしていく、というのも当然のこと
  • 手塚とおるのサインは、妙にいやらしい感じに見えた(あんなもんなの?)
  • 九回の社歌を唄う場面、ちばあきお『キャプテン』で同じようなシーンがあったと記憶しているんだけれど、YouTubeでそこが見つけられなかった*1


君は何かができる

  • たしか、試合中ぼろぼろになったシーンでチームメイトがこの歌を合唱する場面があったと記憶しているのだが……
  • でも、なんだかんだいって、野球部勝ててよかったね
  • イツワに引き抜かれたピッチャーとか、工藤阿須加のライバルピッチャーなんかも、最終的には「野球が好きだってことを思い出させてくれて、ありがとう」みたいな悟りを見せて青島メンバーたちと和解する
  • このことによって、スポーツは、終わればお互いに健闘を讃え合うという理想的な形に落ち着き、これにより、観ている側もカタルシスを得ることができた
  • 思えば、こういうオーソドックスの最終形って、ベタすぎだけれども、いちばん安定感があるのだろう
  • このドラマの視聴者で、複雑な結末を望んでいる人なんてひとりもいないだろうから、これで正解なんだよ!(たぶん)
対イツワ

最終コンペでは、デジカメの動画の描写力で青島が勝利するが、この場面は、原作者である池井戸潤の技術者たちへの敬意がよくあらわれていると感じられた。
談春が謀った引き抜き工作や、買収戦略など、ビジネスの裏技というか影の部分も、結局は技術力の前にひれ伏すのだ、というのがこのシーンのもっとも伝えたかったことであり、これは、ねじ一本を大事にする原作者の根源的な思想なんじゃないかと思う。最終回の冒頭の峰竜太も言っていた。金じゃなくて人だ、と。
このシーンを観ていて、唐沢が物語が進行するごとにどんどんとその存在感が薄くなっていった理由もわかったような気がした。唐沢の印象の薄さは、単に脚本のまずさかと思っていたけれど実はそうではなかったのかもしれない。
コンペに勝利し、開発部長の努力を褒める唐沢社長に、「そうじゃない、青島の風土があったからこそ(この勝利があった)」と開発部長は応え、そこに江口専務も「青島製作所全員で勝ち取った勝利だ」と畳み掛けるが、このやりとりの意味するところは、個ではなくチームへの礼讃である。
宮川一朗太を泣かすほどの豪腕ぶりを見せた唐沢の印象が弱くなるということはつまり、彼が独断を避け、青島製作所と融和することによってチーム(=組織)の論理を尊重するようになった、ということであり、彼が柔和な表情になりアクの強さを失うことこそが青島の逆転の象徴なのだと僕は思った。

その他
  • 平井理央檀れいが、それぞれライバル社の秘書を演じていたのだが、このふたりって女性に人気なさそうだよなあと思った
  • 試合中、「あと一点を取れば、ルーズヴェルト・ゲームだあ」という山崎努のセリフ、まさか、クライマックスシーンでタイトルコールをするとは
  • そして最後の方で、唐沢に向かって「プレイボール!」とも言っていた
  • ここらへん、やっぱり脚本にちゃちさを感じてしまう
  • どうせ香川の顔芸がどうのこうの、と騒がれていそうなのでそこには触れないが、今回の香川は見せ所が少なくて面白くなかった
  • 『半沢』のときの香川がよかったのは、セリフの吐き方とか間の置き方の妙であって、あのときも「顔芸」が主ではなかった
  • 540度じゃなくて「900度見誤った」っていうセリフがあったけれど、900度なんて、スノーボードハーフパイプじゃなきゃ聞かれない数字
  • このドラマが「9回」で終わった、というのは野球と絡めてのことなんだろうな


こんなところかな。
良くも悪くも、漫画的ドラマだった。
わかりやすいキャラクター配置に、勧善懲悪の論理。悪役も、イツワの談春以外は(平井理央でさえも、「きれい」とつぶやいたことで「浄罪」していた)だいたい改心の様子が見て取れたので、視聴者はスッキリ。
派遣社員で野球の夢を捨てていた工藤阿須加は、社員登用され、プロ野球からのドラフトの可能性も芽生え、まさにジャパニーズ・ベースボール・プレイヤーズ・ドリーム。そう考えると真の主役は、やっぱり工藤なんだろうな。
そしてやっぱり、ハッピーエンドってのは基本中の基本!

ひとつ。ものすごく印象深かったのが、工藤を野次っていたゴシップ誌系(?)のカメラマン。あの野次の感じってのがかなりリアルで、実際にあんなのがいたら、たまんないだろうな、と思った。
もしあんなのが実在していたら、今度は都議会の自民党議員たちを、ひとりひとりたっぷりと徹底的に野次り倒してもらいたいものである。

それにしても、最後、工藤がボールを投げて、そのボールが画面にズームアップされて、「このドラマはフィクションです」という表示は、いささかシュールだった。ゲームセット。

*1:これを探すために、しばらくYouTubeでキャプテンのアニメをちらちらと見ていたが、やっぱりいい漫画。僕の中の「スポーツはこうあるべき」という感覚ってこの漫画で醸成されたのだと気づいた。

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午後八時半。仕事が終わったので帰ろうと思ったら、夕方に降った雨のせいで山の方からものすごい霧が出ていた。あたりはすっかり真っ暗になっていたので懐中電灯を点けて帰ろうとしたのだが、ふと思いついて、川向うにある田んぼのあたりにLEDの光を向けてみた。
ビンゴ!
こちらの光に反応するように、蛍の明滅が目に入ってきた。
ひとつひとつの明かりに目を向けるというよりは全体をぼんやりと眺めてみる。これは、星の見方と同じで、焦点の合っているところより、そこから少しずれている方が光を捉えやすいのだ。
懐中電灯のビームに目を覚ましたかのように、蛍が光の当たる中心にゆらゆらと集まってきた。それほど多いわけでもないが、あちらにふたつ、こちらに三つ、向こう側に五つ、といった具合で、当然まったくの無音だが、ざわめきさえ感じられた。
蛍は意外に高いところを飛んでいるということを知った。
山にある針葉樹の頂点近くにも煌きがあったので、十数メートルくらいをぷかぷかと浮かんでいるのだろう。稜線に電灯を向けると、実際はすべて手前側にいたのだろうけれど、真っ暗なために遠近の感覚が大雑把になり、山がいくつかの輝きをその懐に抱えているようにも見えた。

いいものを見た、と帰ろうとすると、川のあたりと土手の境界線あたりでパキパキっとなにかを踏みしだく音が聞えた。河原には背の高いススキ(?)があって、そのあたりにイノシシがいる可能性があった。土手の上に立ったまま二十メートル以上離れている方へ光を向けてみたのだが、獣の姿は見えない。それでも、パキパキという乾いた枝などを踏む音が聞えてくる。さきほどより場所を移動しているようだ。
怖い。怖いけれど、その姿を見て、追い払いたくもあったので、土手を少し下ってみようと、その勾配に足を掛けてみると……ドテーン!
後ろにひっくり返ってしまった。
土手の傾斜部分のことを法面(のりめん)と言うのだが、うちの法面は勾配がキツく、そのうえ、帰り支度をしていたから僕の足元はサンダルだった。ただでさえつるつる滑るサンダルで濡れた斜面を歩き、しかも手元の光に気が行っていれば、ひっくり返るのは当たり前のこと。尻もちはつくし、両手もついたのだが、しばらく左手が痺れ、痺れを覚えたまま右手に持った懐中電灯の汚れを落とすのはまったく情けなかった。
土を落としているあいだも、ガサガサ・バキバキ、は聞えていたが、もうどうでもよかった。雷もゴロゴロと鳴り出していた。はよ帰ろ。

蛍を見られて、プラス一点。転けて、マイナス一点。都合ゼロ、の日だった。

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あまり恰好のいいことではないが、時間がない。

別のところでも説明(?)したことなのだが、いまの生活の中で、ブログを書く時間とブログを読む時間とそれから読書をする時間、この三つともを鼎立させていく時間の余裕がない。
時間はあまりにも早く流れていき、上の三つがだんだんとプレッシャーになってしまっている。自分以外の誰もそれを望んでいる・課しているわけでもないのに、逃したことばかりを考えるようになってしまっている。三日前から考えていることを書かなくては。四日前から読み逃しているブログを読まなくては。一週間開いていない文庫本を読まなくては……などなど。

思えば、おしゃべりが過ぎるのである。小学生くらいの頃、母になにかを話すとき、起こったことを一から順に追って説明していくと、「もっと話をかいつまんで!」と言われた。「話が長すぎる!」とも。
中学生・高校生になっても同様の注意されつづけたことを考えると、当時の僕は割愛する部分を見つけることが非常に下手くそだったようだ。どれもこれもが話に必要なディテールであり、ひとつとして欠くことはならない、と思うからこそ話は長大になり、そもそもの話の目的や結末を忘れてしまって、「あれ、で、結局なんなんだっけ?」ということで終わってしまうことも度々だった。

ブログを書くのに時間がかかるのも、きっと饒舌にすぎるからなんだろうと思っている。といって箇条書きにして淡々と書いていくのなんてまったく面白くないので、思いついたことを列記して適当に配置し、それを書きながら構成している。これは非常にたのしい作業なのだが、時間がかかる。
世の中には(もしかして僕以外はみんなそう?)、思いついたことを頭からぺたぺたぺたと入力できてしまうヘンリー・ミラーみたいな人もいるようだが、僕にはムリ。悪戦苦闘していることの方が多い。

それに、自分が書いていることが面白く思えなくなってきた。
埴谷雄高の随筆だかで、何万年か何十万年も経てば、星は星であることに飽き、海辺の砂粒も自らを否定し始める、というような文言があったと記憶している。十五年以上前の話なのでかなり不確かなのだが、自分自身に飽きてしまうというのはすごくよくわかる感覚。もともと飽き性だから、自分にも飽きて当然。

そんな四苦八苦、つまり二千五百九十二の悩みから解放されるためには、黙ることしかない、というのがひとまずの結論である。
ということで、このブログを無期限で休止しようと考えている。ブログを離れる理由としてはほかにもある、ということは以前にも書いたので、繰り返さない。
やめるということを具体的に考え始めたのはふた月半ほど前くらいで、実際に一週間くらい書くのをやめている時期がある。ちょうどそこらあたりから日々の生活に追われるようになって、たぶんこの状態は、十一月あたりまでつづく。
僕自身の生活はこれまでと変っていない。状況が急変したということはない。やらなければならないことは列をなして僕を待っているが、それでも、自分で仕事を差配できるということは幸福なことだと思っている。毎日、昼寝を取ろうと思えば取れるっていうのは、それほど不幸なことじゃない。


完全に黙ってしまうというのも面白くないので、文字数制限(といっても、あくまでも自分での「縛り」)のブログを新たにつくった。
マックスで三十一文字程度。十七文字に落ち着くかどうかわからないし、非定型がたのしくなってそっちにハマるのかもしれない。でも、一日にひとつだけ、と決めている。できないときもあるだろう。でも、黙るのが目的だから、それで構わない。

アカウントを削除するつもりはまったくない。ついこのあいだ、前のアカウントのグリーンスターがなくなったので、こちらのアカウントでスターを購入したばかりなのである。
また、このブログじたいも、もう少しはつづけるつもり。この期に及んで、まだもうちょっと書きたいことがある。それにくわえて、冬くらいになったら時間があり余ってまた戻りたくなるかもしれない。先のことはどうなるかわからない。

新しいブログへの行き方は、本来ならいろいろと(本人が望まない形でも)あるようだが、一定期間、↓のスター(どこのスターでも同じなのだが)をクリックすれば行けるようにしておきます。ご興味があればどうぞ。
(もう閉じました)

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どうやら、上の車(と同型)がうちの畑の近くを走っていたらしい。というのも、グーグルマップストリートビューに僕の姿が載っていたのである。

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去年の年末くらいのことだろうか。
この日はたまたま野良着を身につけていたが、いつもはタキシードを着て作業をしている。


実際にチェックしてみたが、現状ではこの画像(ストリートビュースクリーンショットし、さらに拡大・切り抜き加工をしたもの)からグーグルマップ上の地理的位置を確認することは不可能のようだ。つまり僕のおそれたのは、上の画像にかぎらず、ある画像をGoogleの画像検索に放り込んだら、グーグルストリートビュー上の画像とマッチングを図り、その場所を特定してしまうような技術がすでに確立されているかもしれない、ということだった。
僕はGoogle画像検索でしかそれを試していないので、別会社の画像検索システムであれば可能、ということもありうる。こういうのは実際に軍事目的として利用できるので、その技術開発がなされていないと考えることはとうていできないのだが、現時点では、容易にそれはできないということがわかり、ほっとしている。

しかし、いづれそういうことが簡単に検索できてしまう時代がやってくるのだと思う。
詳しくは知らないが、スマホで撮った写真にはGPS情報が埋め込まれていることがあるらしく、はたしてそれが選択してできるものなのか、あるいはデフォルトのものなのかはわからないが、軽々に自分の家の附近の写真などはネット上にアップしない方がいいだろう。どこで誰が見ているかわからないのだ。
そういう用心をしていても、なにげなく撮影した画像の背景から場所情報が特定されてしまう時代にやがてなるのだろうという予感がある。ストーカーにとってはますます便利になり、いい悪いは別として、注目されやすい人物にとってはますます生きにくい世の中になっていくのだろう。考えただけで、げんなりする*1

*1:そもそも、この記事のタイトルだって、本来なら「グーグルストリートビューに自分が写っていた!」なんかの方が僕の心情をより伝えているはずなんだけれど、そうすると興味本位だけの有象無象の連中を呼び寄せることとなり、そういうのが好きな人間(朝のワイドショー番組の中継場面の後ろで「ピースピース」とやっている小学生的感覚の持ち主たち)ならいいが、僕はそういう不用意な注目は避けたいと考えているので、「検索避け」の意味で、明治の小説かと思えるくらいの地味なタイトルに変更した、という経緯がある。

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再就職した。

やはり飲食業ということで、とあるレストランで働くことになり、なにごとも勉強じゃ、ということでキッチンに入った。と言っても恰好は白シャツ(ノータイ)黒ズボン、それに腰に白いタブリエをつけたまま、シェフに仕込みのいちいちを教えてもらう。「いいか、これはこうやって繊切りにするんだぞ」「こうですか?」「おまえ、下手くそだなあ」「はい、すみません」
オープンキッチンということもあり、シェフは腰に手をやってよくカウンターの向こう側を眺めている。そしてときおり、サービス側に指示を出したりもする。
スーシェフ(二番)はとぼけたおっさんで、シェフがホールに気を取られているあいだに、冷蔵庫から取り出したフローレンスフェンネルを見せてくれて、「これ、おれがきょう八百屋から直接取ったやつで、あとでマンジェ(まかない)に使って食わせてやるよ」なんて言ってくれる。
あ、それ僕も作っていたことがありますよ。と思ったのだけれど、結局それをどう食したのかを忘れてしまったので口にはしなかった。
もうひとりのコックは、僕より年下だがここでは先輩。小さい大根を僕に見せてくれて、「これ、どこかの伝統野菜らしくて、とてもおいしいですよ」なんて教えてくれる。ここは優しい人間ばっかりだ。

ふと、ホールの若い男の子がやって来て、僕に手伝ってもらいたいことがあると言ってくる。シェフの顔を見ると、顎で「行きな」と示してくれる。
「なに、どうしたの?」「団体のお客さんがワイン選びに迷ってるんですけれど、よくわからなくって」
おれがわかるわけないじゃんか、と思いつつも、ワインリストを持って来てくれと頼む。男の子がそれを取ってくるあいだに店内をざっと見渡す。豪華すぎず、かといって安っぽくない空間。これぞレストラン。四人席テーブルを四つくっつけて、その上を真っ白なテーブルクロスで覆っている。十五人ぶんほど用意された席に着いているお客はまだ三人だけのようだ。真ん中より少し左に外国人男性。そこからふたつ空けて右側に日本人と思しき女性がふたりすわってワインリストを見て悩んでいる様子。これか。
いちおう、小僧(若い見習いをこう呼んだりする)に尋ねる。「外国人の方じゃないよね? 僕、英語しゃべれないからね」「あ、だいじょうぶッス。あちらは、"Yebisu Beer"をもう頼んでいますから」
そいつの「Yebisu Beer」の発音、わざとやっているのだろうが、クソ生意気に感じたので睨みつけてやった。お客をからかうなんて百年早ぇよ。

さて。フロアを横切って女性の席に向かいながら、ワインリストをぺらぺらとめくり考える。あ、まずい。料理はなにを註文するか聴いてなかった。もう決まっているのか? それともこれから決めるのか? あるいは、ワイン込みで相談するつもりか? もしそうなら、おれはこの店の料理をまだ知らないから、説得力がなくなってワインが売れないぞ。さてどうしようか。それにしてもこのワインリスト、見辛ぇー。
そう思いながらも、自然と背筋を伸ばし気取って歩いてしまう自分に気づいた。この職業にまた就くことができた、ということを考えると、笑みがこぼれてしまってどうしようもなかった。全身の内側から喜びがあふれでてくるのだ。

思えば、前の仕事にそういう喜びはなかった。喜ぶときなんて、せいぜい売上速報がメールで入ったときくらいだ。前日の売上結果が翌日の昼頃に届き、昼休み中、Gmailでそれをチェックして、その売上金額に少しだけニマッとするくらいである。方や「喜びがあふれでてくる」で、方や「少しだけニマッ」。

とりあえず白かな。あるいは、はじめはスパークリング系にして乾杯をしてもらい(そもそも全員で何人なんだ?)、それから後は思い思いのドリンクをご註文されますか、といったん提案してみようか。たいていは「じゃ、それで」となる。そこで、「でもそうなると、けっこうお高くつきますよ」ともう一度不安を与えてやればいい。すると「じゃあ、どうしましょう」となって、「ボトルのワインであれば……」とスムーズに話を運んでいくことができる。まあ、これ(ボトルワインを註文した方が、特別高いワインを頼まなければ経済的)は事実なので最終的には親切になるのだから、提案する方に罪悪感はない。だって満足させる自信あるしー、とルンルン気分。


……というところで目が醒めた。

なあんだ、夢かあ。
けれども、起きてからしばらくのあいだ、ずっとあの昂揚感はつづいていた。やっぱり好きだったんだよなあ、あの仕事。
夢の中でフローレンスフェンネルが出てきたのは、いま畑で作っているからだろう。現在順調に生育中、というところだが、最終的にどうしようこれ、と悩んでいる。

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いよいよ最終回。例によって一週遅れ。

  • 捜査一課で香川が吠えているのだが、なーんか空回りに感じちゃうんだよね
  • で、前回腹部を撃たれたはずの真木もいつの間にか病院を脱出しているんだが、このドラマの登場人物たちはタフすぎてちょっとリアリティを欠く
  • 伊藤淳史が空港内のサーバー(?)にハッキングしてアクセスし、空港の様子をリモートで知る、というこの設定が、なんだか『ダーク・ナイト』にちょっと似ているんだよなあ
  • それにしてもこの伊藤、緊急時でもやけに落ち着いているっていうのはこういうハッカーキャラにありがちで、ポテチなんかを口にしながら無線で指示するところなんて、いかにも「ゲーム感覚の若者」って感じで、陳腐すぎる
  • ダイ・ハード』の時代から(ほんとはもっと遡れそう)いたよ、こんなやつ!
  • その伊藤のまったり感が、香川の緊迫感を打ち消していて、道化のようにも見えてしまう
  • けれども、西島が拘束されていった、その車の中でのアクションシーンがすごかった!(後述)
  • 香川ほか捜査一課チームがレセプション室に乗り込んできて「爆弾があるんだ、逃げろ!」というシーンだが、警察手帳の提示をしているようには思えず、SPなんかは反対に香川たちをテログループと認定するんじゃないか?
  • で、今回のホラー要素として生瀬が乗り込んだエレベーター(例によって『ダブルフェイス』オマージュ)で向こうを向いているスチュワーデスの姿が……
  • てっきり彼女が池松の女装かと思ったら別人で、「なあんだ、別人か……」とほっとしたところで上のガラスをドカーンと突き破って池松の乱入
  • これはホラーのお約束表現(ゲームのバイオハザードとかでもこんな場面があった気がする)なのだが、「来るぞ来るぞ」とはわかっていたのに「うわっ」と声を上げてしまった僕は、ある意味優秀な視聴者
  • 池松と争っているときでも、生瀬にラスボス感はちっともないんだよなあ
  • 空港がパニックということで、フロア四階分を使ってエキストラが右往左往
  • この人数の多さは、初回の爆弾事件によって運ばれてきた患者で騒然とする病院の場面を思い出すが、このエキストラの多さには本当に拍手を送りたい
  • で、池松はまさかの心臓串刺しエンド……
  • しかしこうまでめちゃくちゃをやっている生瀬だって、空港の監視カメラが捉えていないはずはないだろうに
  • それも「公安省」ならすべて情報をもみ消すことができるってか?
  • 前回の話になるが、小日向が「公安省」の名前を出したとき、香川が「公安省?」と訊き返したのだが、そのセリフの言い回しが、『プリンセストヨトミ』のある場面を思い出した

  • 上記動画でいうところの0:50あたり、中井貴一が「大阪国総理大臣」と名乗ると、堤真一が「大阪国?」と訊き返すのだが、その場面の、訊き返すイントネーションと、話のむちゃくちゃさとがよく似ていた
  • で、負傷した手をかばいかばいハシゴを登っていこうとする生瀬のところへ、西島が登場
  • 西島ともみくちゃになっているときに生瀬が「(昏睡状態にある娘が目を覚ましたときに)この国に絶望しないためにも、おれがこの国の未来を変える!」と言うのだが、警察の幹部が警察組織が変われば絶望がなくなると考える、という設定に、リアリティをまったく感じないんだよなあ
  • これって第二部になってはじめて完全解決されるのか?
  • 西島が撃たれてもう逃げられる、となったときに池松登場(しかしこいつ、どこへ行っていたのだろうか?)
  • 西島は池松の血を辿って行ったというのに、その先には生瀬しかおらず、あとで池松がやってくる、というのが奇妙
  • まあ、完全に死んだとしか思えない池松が生きていた方がよっぽど不思議か
  • 拳銃で撃たれた西島だってとうてい生きているとは思えなかったのだが、しれっと真木とお茶していました
  • で、この場面が引っかかったんだが、真木が西島に話した、石田ゆり子は爆弾のことを知らなかった・写真を田中要次に見せなかった、という話は本当ではないんじゃないか、と思った
  • 本当にそうだとしたら、視聴者が期待するとおり(=石田は西島を裏切らなかった)で、まったく驚きがなかったんだよなあ
  • で、西島がその話を聞いて去っていくところ、真木のアップのカットが長すぎて、これは「わけあり」に見えた
  • つまり、真木は西島に対して「都合よく歪めた真実」を伝え、西島にある種の救いを与えた、と見るのがこれまでの流れから妥当なのかな、と
  • ラスト、香川と同席していた「現在の西島」がはじめて笑顔を見せた、というのは視聴者への救い
  • クレジットロールのところで、資料室と思しきところへ今回のテロ未遂事件の資料を運んでいるやつが一瞬だるまかと思った
  • で、東映のオープニング、もとい、『MOZU』シーズン1のエンディングで、池松兄がやっぱり生きていたっていうのが確認されるのだが、これは僕には読めていた
  • 以下の懐かしのCFを思い出しましたよ


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カーアクションについて。
アメリカだと、強盗犯などを警察車両が追跡している、などの報が入れば、テレビ番組の内容を急遽変更し、そのカーチェイスを生中継するということを聞いたことがあるが、そういう背景から、彼の国の映画においてカーチェイスの場面が多いのだと思っていた。あちらの国民からすれば、馴染みやすいものなのだと。
その一方で、日本人からするとリアリティを感じることが少なく、よほどうまく撮影したものでなければ、「ふうん、早く終わらないかな、この場面」と退屈してしまうのだ。
だが、今回の、カーチェイスではないが車を使ったアクションシーンは迫力があって、非常によかった。狭い車内でのごちゃごちゃした格闘、ひび割れる窓ガラス、タイヤ音を軋ませながら蛇行する車、飛び散る火花。これらがすべて実際のものとは思わない。うまくCGも使っているのだろうけれども(たとえば窓ガラスのひび割れるところとか)、撮影にスピード感があって、退屈せず手に汗を握って観ることができた。


全体の感想。
なんといっても映像が素晴らしいドラマだった。よく練られた撮影。そしてムードを出しまくっていた音楽。
それに対して脚本には一部不満があったが、製作側としては、すべてはシーズン2を観終えてからお願いします、と言い訳できるもんだから、しょうがない、その口車にうまく乗ってやることにするか……とは思わなかった。
ああ……まあいいや、そんな感じで、うん。だるまも、どこかにいるんでしょう。池松兄もなんやかやをするんでしょう。真木の父親もどこかにいるんでしょう。でも、特別に金を払って観るほどではないかな、僕は。
僕が一視聴者としてショッキングだったのは、なんといっても西島の子どもが死んでいた(殺されていた)こととか石田ゆり子がはじめから死んでいたこと*1とか有村架純が拷問死してしまったことなんだけれど、製作側としては、ストーリーの焦点を「隠蔽されつつある大きな黒い企み」に当てようとしていたように感じられ、そこに乖離を覚えた。僕からしてみれば、「公安省」とかそういう経緯の方こそ「コップの中の嵐」であって、そんなんどーでもえーわい! という感じだった。
ま、ゆっくりとDVD化されるのを待つことにしますか。チャンチャン。

*1:考えてみれば、僕は途中で集中力が切れてしまったせいか、田中要次石田ゆり子のところへ「おい!」と駆けて行った理由がよくわからないままなんだよね。

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「官」の人たちと話していると、年号を「平成」で言うので、頭が追いつかないときがある。いわく、「平成二十四年度の事業では……」。
僕の現実認識の甘さも相俟って、それが何年前の話かがピンとは来ない。しかも、四月を始めとする「年度」の感覚も持ち合わせていないので、「あれ、ちょっと待ってくださいよ」と「待った」を掛けなければならなくなる。

平成になってずいぶんと経つんだよなあ。
年号のことを言うと、必ず天皇の死について触れなければならなくなるので狂信的な右翼が「なにを!」と怒ることを考慮しなければならない、というのが非常に面倒くさいのだが、かといって、まったく保守的思想を持っていない僕も、一個人の死について軽々と述べるのはやはり品のよくないことだとは思っている。
それでも、次の年号になったときに、お役所にある印刷物の「平成」表記の部分はいかに変更されるのだろうか、ということが気になっている。

「平成XX年」の途中で崩御すれば、その年が新たな元号の元年となる。だから、その「XX年」については、いわゆる「昭和64年」のような、「つまり平成元年のことね」みたいな共通諒解はふつうに得られると思うのだが(しかも昭和64年は数日しかなかったし)、複数年にわたる事業計画などで「平成XX年度~平成(XX+3)年度」みたいに表記されている場合は、いちいち訂正するのだろうか。あるいは、「すでに印刷・表示されたものあるいはその他について平成XX年は新元号元年と見なすこととする法案」みたいなのが提出され可決される、みたいな手続きを踏むのだろうか。
もし前者であれば、プリント用紙業者とトナー業者が喜ぶだけで、税金が無駄に使われるというおそれがある。なお、この「おそれ」は拡大解釈の余地があるので削除されたい、という要請を受けている。

ということを想像していると、当然ながら「次の元号はなにがいいかなあ」ということに考えが及び、家族を巻き込んでコンペを図ってみた。

  • 芳天
  • 向福
  • 黎明

などがすぐに提出され、なるほどこういうものを考えるときは、「黎明」は別として、好字を用いようとするのは人の情なのだなということにも気づいた。
誰も「暗黒十三年」とかいやだよね。不吉なものは選びたくない。

僕も上記をふまえてそれなりに考えてみたが、

  • 来福
  • 宝来
  • 招宝
  • 芳楽

という、福々しいというよりは、中華料理屋の名前みたいなのがいくつか思い浮かび、実際に一番下は、子どもの頃、ダイエーの中に入っていた中華料理屋だったことを思い出す。出前を取るとものすごく遅くて、いつも麺が伸びていた気がする。


高島俊男『お言葉ですが』に「みずほの国の元号考」というエッセイがあって、引っ張りだしてみた。要約してみる。
熊本新聞いわく、平成が決定されたときは、「平成」「正化」「修文」の案があったのだが、実はすでに「平成」であることに決まっていて、それが密室で決定されていたことに不服である、と。これ、断りを入れるのを忘れたが平成八年の記事である。
しかし高島は、「平成」っていうのもずいぶんと古くから案に出されていたものなんだよ、と説明を加える。「明治」のひとつ前の「慶應」を決める際にも出ていた、と。ちなみに「明治」は足利時代から登場して、十度目でやっとの当選を果たした「歴戦の雄」。
ここで、実際に行われた年号で用いられている字のトップ10が紹介されていた。
1. 永(29)
2. 元(27)
2. 天(27)
4. 治(21)
5. 應(20)
6. 正(19)
6. 長(19)
6. 文(19)
6. 和(19)
10. 安(17)
このあと作者は、自分の国の年号を作るのに、他国(中国)の書籍に典拠を求めるというのはおかしいじゃないか、と述べている。作者は国粋主義者でもないし、中国文学者だが、たしかに言っていることに特別な過ちを感じない。
そこで作者の考案したのが、「みづほ」「あきつ」「やくも」など。たしかに、きれいな和語ですなあ。
中国を嫌悪している現首相だが、もし改元時にも首相の任にあたっていたとして、さて、そこに気づくかどうか。気づかないだろうねえ。


話を戻すと、家族のなかで優勝した案は「大安」だった。その理由が傑作である。これで年がら年中が大安吉日となり、結婚式場がまんべんなく予約され、料金の差がなくなる。
まことにおっしゃるとおりで。

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僕のところのえんどう豆はもう収穫期を終えてしまい、あとは蔓が下からゆっくりと黄色く枯れ始めるのを待つだけ。ヒマがあれば根本からパチンとやってしまってもいい。すでに虫の大集会所と化してしまっているので。
ところが、ここから上(かみ*1の方に住んでいるおばさんに訊くと、まだえんどうは採れるということで、ここらへんがおそらく、気温差による種撒き時期のズレのもたらす収穫期の相違ということなのだろう。

そのおばさんの畑をこのあいだ見たところ、えんどう豆の植わっているところが鳥よけ用のネットで上部をしっかりと囲われていたので、「鳥なんて豆を食べますか?」と尋ねると、「食べるで」と言う。どころか、現にカラスがやってきて、上からは入れないものだからぴょんぴょんと跳ねて下の隙間を潜ってそのスペースに入り、生っている豆を食べているのだとか。
ほう。

うちの畑にもほぼ常駐しているようなカラスがニ、三羽いるが、あいつらはそんな器用なことはしないなあ。
えんどう豆を食べているところも見たことがないし、やっていることといえばトンビとの喧嘩ばっかり。自分たちの二倍近い大きさのトンビを、コンビネーションで囲んで威嚇してギャーギャーと追いやっているのをよく見かける。そのトンビも、他のトンビと小競り合いをしていたことがあって、あの大きな身体を互いにひらめかせながら空中戦をやっている様子は、それはそれで見ものだった。
カラスといえば、半年ほど前、山を降りて行く道路中央に小動物の轢死体があったのだが、帰り道、その死体が道の脇に移動され、そこでカラスの群れがランチと洒落こんでいた。おそらく通行する車を避けるために、その死体を運び、そこで悠々と食事をしていたのだと思う。おそるべし。

カラスの世界には、豆盗りのうまいのもいれば、喧嘩好きなやつもいて、そのうえ危険予知および危険回避する連中もいる。こういう個性の豊かさはつまり、カラスの知性の高さを証明するのだろう。

*1:上の方を示す場合は「かみ」、反対に下の方を示す場合は「しも」と言うのは関西の言葉なんだろうか。とてもわかりやすいし、きれいな和語だと思う。

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という文章だけ書いて、それから下書きにして外出していた。
とりあえず、いま外から帰ってきたところでさっとしか書けないのだけれど、いまの状況と昼休みのときにちらと見たことの感想を含めて。


なんというか僕からすると、一部のはてなブログの書き手って常識の基準がかなりズレている気がずっとしていて、それがイヤでイヤでとにかくもう読者なんて増えないように努力してきた。
「僕からすると」って言葉は、僕がこの文章を主観的・主体的に書いているんだから当たり前の話で以降は省略するけれど、「一部のはてなブログの書き手」というのはつまり、以前にも書いた「イナカモン」のこと。このあいだのサッカー日本代表の試合の後でも、渋谷のスクランブル交差点で例のごとくハイタッチ運動(?)が繰り返された、とこれはラジオニュースでしか知らないので実際の映像は見ていないのだが(見る気もないのだが)、あれとおんなじで、そうやって自分の行動・思考を自身で完結させることができずに、誰かに見せつけたりその他のアクションをすることで完成する、というようなごく幼稚な人種。僕はこういう人たちに対して嫌悪感しか持つことができない。

で、ここからがちょっと書きにくいといえば書きにくいのだけれど、僕はもともとベタベタしたつきあいがかなり苦手で、記事を書いたら毎回コメントがつく、みたいなのがすごく嫌いだ。といってもコメントの内容にも依るから一概に言えないということも思っていて、たぶんそれ(≒一概に言えない)だから多くの人たちはこのことについて言及しないのだと思うけれど、コメントを返すのって、基本的にはたいへんなのだ。

数年前、僕がそれまで数年間チェックしていた写真ブログが、常連ユーザーのしつこいコメントに立腹して「閉鎖する!」と宣言したことがあった。
その常連ユーザーは怒ったブログの書き手に対して「そんなつもりはなかったんです……」とコメントしたのだが、それでもブログ主の怒りは収まらない。
「あのなあ、言いたかないけど、ブログを書いて写真をアップするのって、おめーが思ってるほど簡単なことじゃねーんだぞ!」
そのセリフがものすごく印象深く、いまも記憶に残っている。そのときの僕はまだブログを書いたことがなかったけれど、その気持はわかると思った。コメントを書くのと、コメントをしたくなるような元記事を書くのって、まったく重みが違うのだ。
いろいろな文章を読んでいるからおれには批評眼がある、と勘違いしているアマチュア馬鹿野郎は多いけれど、読むのと書くのは別問題。書く苦労を知っていたら、少しは書き手に対して手心を加えるのが人情ってものだと思う。自分とは異なる意見が書いてあろうとスルーしたり、直接の批判は避けたり、とか*1
前述のブログ主は「だったら書かなきゃいいじゃん!」という批難が生じるであろうことをわかっていても、言いたくなってしまったのだろう。ブログ書くのってたいへんなんだぜ、と。

それと一緒で、コメントを返すのも結構たいへんなのだ。
それがわかっている人と、わかっていないやつがいる。こう書くとまことに白々しくも読めてしまうのだが、僕のところにそういうコメントを書いてくる人は滅多にいない。いても無視する。前のブログで、「たぶん気は合わないんだろうけれど、この人の文章は好き」というコメント(ただしはてブのコメント)をもらったことがあるが、ありがとうございます、なんてまったく思わなかったし、実際に無視した。無礼なやつとしか思えなかったから。
その人は、それまで生きてきた環境のなかで育まれた独特のユーモアや礼儀感覚でもってそういうことを書いたのだろうが、僕は面白くもない冗談は大っ嫌いなので、それだけでコミュニケーションを取る必要はないと判断した。そうやって中途半端に絡んできたその人物(きっと他にもそういういびつなコミュニケーションを試みていたのだろうが)も、いまははてな界隈じゃ人気者になっているようで、それを知って思わず笑った。そういう人間が人気者になる世界なんだよな、ここは。


まあ、僕のところはいいとして、よそのところだ。
ひとさまのブログに僕の容喙する部分なんてないはずで、とやこう言うのもおかしな話なのだが、コメント欄を一瞥して妙な感じを覚えることは多かった。けれどもブログを書いた人は、Aさんのコメントには応えて、Bさんのはスルー、とはなかなかできないから、ひとしなみに映るようにコメントを返す。けれども、本当は違うというところがポイントなのだ。誰とでも平等につきあうのって、リアルでもイヤだってのに、ネットだったらもっとイヤなはず。けれども、コメント者のみんながそれを理解しているとは限らない。
ああ、なるほどそういう視点があったのか、という優れたコメントもあれば、ベタベタベターとねっとりとくっついてくるだけのコメントもある。本音を言えば、ベタベタコメントを書くような人間の依存心を満たすために書いているんじゃないよ、と僕なら思うだろう。

そういうのを目撃してしまうと、僕はコメントをまず控えてしまう。ひとつは、これ以上書き手に苦労をかけちゃ悪いな、という思いからと、もうひとつは、コメントを書くことによってベタベタベターがこちらの存在に気づくから。これはもうはてなの仕様(SNSなんかも同様の仕様なのかも)なので仕方ないのだが、気持ち悪い人間には近づいてほしくない。でも、けっこう近いところまでいるんだよなあ、そいつら。自意識の塊。野暮天。ストーカー予備軍。

そうそう、ストーカーで思い出したけれど、一年ほど前かな、あるところで「相手が自分のことを嫌ったとわかっても、自分は相手のブログを読むことはやめない!」みたいなことを書いている人がいたが(文脈はかなり違うかもしれないが)、そのときは「ふうん、そういうものか」と思ってスターもつけたように思うのだが、今となっては、いや、それって気持ち悪いからやめとけよと思っている。
初見でもなにか引っかかった気がするんだが、そういう「自分がなにかを思っているということは素晴らしいことで、それを表現することにいったいなんの間違いがあろうか」みたいなスーパーポジティブシンキングって大っ嫌いなんだよな、考えてみれば。
それってストーカー予備軍なんだよ、きっと。自分のことを嫌ったってわかったんなら、そこでいったん引けよ、ともかく。自分の快によって相手に不快を催させているのなら、自分の快を捨てろよ。少なくとも距離を置けよ。でも、きっとそうしないんだよなあ。自分が思っていること・自分が表現することは絶対に否定しないんだ、そういう連中は。

書いているうちに思い出したが、前のブログに「わたしは自分のコメントが便所の落書きだと知って書いている」と匿名でコメントしてきたやつがいた。「削除したければ、削除していい」とも。じゃあそもそも書くなよ、便所虫。そういうことによってなにがしかの公平性を保っているつもりで、おまけにこちらにも公平性を求めてくるやつらにはもううんざり。偉そうなことやピントはずれのことを平然と書いて、それで人助けをしているつもりになっている連中さえいる。空気なんて読まなくていいから、人の気持ちを読めよ。


こういう文章を書くと、最後には「自戒を込めて」というフレーズを入れるのが人道に悖らないためのテクニックだが、そういうことはしない。「念のため、僕のところにいつもコメントを書いてくださる人たちのことではない、ということをつけくわえておく」ということも書かない(書いているけれど)。現在1973年の天声人語を読み返しているところなので、そういうレトリックに影響を受けてしまいがちだが、あえてそうしない。わかる人にはわかるし、わからないやつにはわからないことなので、書いても書かなくても同じなのだ。

上記が、はてなブログから去りたいもうひとつの大きな理由。

*1:それでも、立川談志のような同業をくそみそに貶す輩も一定数はいるのだろうが、そのなかで談志のように日本一の技術を持っている人間は……いるわけないよねえ。ブログはアマチュアのものだし、それを読むだけなら「素人に毛の生えたやつ」でしかない。

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