とはいえ、わからないでもない

2014年07月

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『凶悪』という本がネットで話題になっていたみたいなので、ちょっと前に読んだ。
いわゆる上申書殺人事件のドキュメンタリー。死刑囚のヤクザが刑務所内で「新潮45」の編集者と面会し、シャバには実は共犯がいるのだが、そいつがのうのうと暮らしていることが許せない、と暴かれていなかった罪を告発していく、というもの。詳しくはWikipediaを見た方が早い。

実際の事件なので、読後感は非常に重い。死刑囚が告発した三つの事件のうち、立件(という用語が誤っているかもしれないが)できた事件はひとつだけで、借金を重ねた経営者が、家族の依頼によって犯人たちに殺害され、一億円近い生命保険の保険金を詐取したというもの。もともと経営者は重度の糖尿病を患っていたので強制的にアルコールを飲ませて病死に見せかけようというものだったが、実際の家族がそれを依頼した(方法を提案したのは、実行犯グループのひとり)というところが「重さ」の原因のひとつである。なお、その家族たちにも十数年の実刑判決が出ている。


テレビドラマ『家族狩り』の第四回の最初で、前回、浴室内で自殺を図ったと見られた遠藤憲一の妻が、実はバラを浮かべた浴槽につかっていただけであって、僕のトンデモ予想がかなり的を射ていたことが判明したのだが、びっくりするやら、「やっぱりなあ」と溜息をつくやら、だった。

でもまあ、もしかしたらあの妻も死んでいないのかもしれない。ローズヒップエキスを入れて半身浴をたのしんでいただけで、「あらあなた、おかえりなさい。あなたも一緒に入るう? きゃはは」と言わないとも限らない。

僕は、当該記事で上のように書いたけれど、このトンデモ予想の根拠として、遠藤の妻が死んでしまうには早すぎる、ということを書いた。
あえて血も涙もないことをここにふたたび書くことになるが、遠藤にとっては、ひとたび精神を病んだその妻が生きていることが厄介なのである。同様に、松雪泰子にとっては、(家庭事情も大いに関係しているのだが)痴呆の父が元気に生きていることが厄介なのである。
ジャニタレや伊藤淳史が、松雪父がほんの一時だけ正気を取り戻したときの弁舌に聞き入り、「じいちゃん、まじカッケーっす」と、感動していた回があったが、ことはそんな簡単ではないのである。こういう「カッケーっす」という感想を、脚本家がどういう意識で言わせているのかが、僕にはわからなかった。案外、本当に「かっこいい」と思っているのかもしれないという不安がある。
現実問題としてとらえれば、ときどき正気を取り戻すような存在であるからこそ介護している側の心が苦しい(と僕はその経験もないのに書いてしまうけれど)、ということが描かれるべきであるのに、あの場面ではジャニタレ(こいつ、本当に要らない)の言っていることに正当性があるように見えてしまう。つまり、「痴呆者であってもカッコイイことは言うのだ!」みたいな、幼稚園レベルの解釈を脚本家がしているのではないか、と。
繰り返しになるが、冒頭に挙げた事件では、借金で家を失い一家離散になることを恐れた家族たちが、その父親の殺害を第三者に依頼している。その家族にとっては、父親が生きていることに困っていたのだ。そういう状況に「家族の絆」なんて言葉を持ち込んでも、意味などない。

これも繰り返しになるが、僕は介護をまだ経験していないので、これが現実だよ、あれは現実じゃないよ、などと評することはできない。
けれども、介護の問題以外でも、『家族狩り』には脚本の無神経さを痛感している。山口紗弥加のことを「『わたし、生むから』女」などと表現するのを見て、これは男の脚本家だろうと思っていたら、さにあらず、大石静。ほー。都議会の冒瀆発言問題の記憶も新しいところだったので、このような表現をあえて選んでいるのだろうか(そうすることによって、社会の無関心さを浮き彫りにする、という企みがあるのか?)、と最初は思っていたが、四回まで観て、実際には違うんじゃないかと思うようになった。なにも女性が女性を擁護すべし、などとはまったく思わないが、松雪に対する「クレームばばあ」なんて言葉が出てきたところなんかもあわせて考えるに、脚本家はこういうところに対しては繊細ではないのだろう。

松雪の、いつもふたつのカバンをたすき掛けにしている姿は、心理学的に自分の殻に閉じこもっている部分がある、ということを象徴しているのだろう。遠藤は彼女のことをいち早くシリアルキラーと決め打ちしているようだが、もしそうであったら、フラストレーションの捌け口としての殺人(という解釈になるのだろう)、という部分に僕は特に意味を見いだせないだろう(陳腐すぎ)。また、殺人者でないとすれば家族の問題との直面が彼女を待っていて、そこに「解決」が生じるとは、父親の死以外には考えにくいので、これまたあまり結末が気になるとは思えない(=観るのが辛い)。
伊藤淳史については、今のところのその家族が不明であって、そこが制作側の訴求ポイントのひとつにしようとしているのだろうが、残念ながら伊藤自身の生活に切迫したものを感じていないので(演出の問題で、ゆいいつ彼が本気に見えたのは、火をつけられたときだけだった)、彼が山口と結婚しようがしまいが、どうでもよい。それ以外の要素が今後のストーリー展開に加えられようと、彼については興味がわかない。
遠藤憲一についても、「ヤクザの犬」という堕ちてしまっている部分が一度見えてしまったので、僕の中ではどこか突き放して観てしまう。こいつがどうなっても、それほど心が動かないな、と。
結局、メインの登場人物たちの行く末が気にならないということに気づき、そしてジャニタレが病室の伊藤を前にして「ベイビーが……」うんぬんの学芸会演技*1を披露しだしたあたりで、「うん、もう観なくていいな!」と清々しい気持ちで、停止ボタンを押した。
これで、時間の節約がひとつかなった。

*1:不思議なくらいだが、脚本演出は、彼を貶めるつもりでいるのかな、と逆に勘繰ってしまうレベル。

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御乱心―落語協会分裂と、円生とその弟子たち

御乱心―落語協会分裂と、円生とその弟子たち

絶版本。ときどきオークションに出るが、たいてい定価(九百八十円)より高い。先日、安くはなかったが意を決して購入した。

簡単にあらすじを書けば、三遊亭圓生の弟子、円丈が書いた1978年の落語協会分裂騒動の内幕。
これを読むと、先代の圓楽は嫌なやつだということがわかる。
あっという間に読めてしまったが、読み終えたあとにすぐ出てくる感想が、圓楽は嫌なやつだということ。それからディテールを思い出そうとするのだが、圓楽が嫌なやつだということ以外になにがあったっけなあ、と少し苦労する。圓楽が嫌なやつだということはまず大前提としてあって、それから圓楽が嫌なやつだというエピソードがあって、そしてエンディングで、やっぱり圓楽が嫌なやつだということが忘れがたい印象として残っているのを確認できる。本を閉じて、ため息ひとつとともに、「あー圓楽は嫌なやつだなあ」というつぶやきが口をついて出る。これは、そういう本である。

噺家なんていうのは、わりとのんびりしているようなイメージを持ってしまいがちだが、どうもそうではないらしい。少なくとも、中には確実にそうでない人物がいる、ということがわかる。この本では、円丈が、兄弟子(先代圓楽)と師匠(圓生)とを告発している。
文章からは、弟弟子を人と思わない扱いをして、なおかつ師匠をうまく言いくるめ自分のいいようにしようとする圓楽の人物像が浮かんでくる。テレビ「笑点」ではその弟子が「腹黒」を自称していたが、なんてことない、その師匠自身が大腹黒であったわけである。
といって、圓生が完全な善意の第三者かというとそういうわけでもなく、彼自身にはきちんと筋の通った落語哲学があったのだろうが、どうにも薄情なところがあったことは否めないようだ。二十年のつきあいのあった弟子たち(さん生や好生)を電話一本で破門にしたりするところや、一緒に協会を飛び出さない素振りを見せた円丈に対して、夫人とともに「恩知らず!」と恫喝する場面などからは、やはり人格に欠けたところを持っていると感じられた。特に後者は、ぞっとするような非常に印象深い場面である。

一点だけ、興味ぶかい記述があった。絶対に圓生を許すことができないとする円丈だが、落語協会を出てから一年三ヶ月ほどの圓生の芸は、日に日に輝きを増していったのだという。
僕が圓生の音源を初めて聴いたのは、国立演芸場こけら落し公演の「日本の寄席芸 東西芸人揃いぶみ」における『鹿政談』なのだが、圓生と知らず聴いて、「うわ! ものすごくいい噺家だな、これ!」と感動した。そこで慌ててiTunesの中のデータを見ると「六代目 三遊亭圓生」となっており、なるほどねえ、こりゃあ名人だと感心した。
もっと感心したのは、その口演の日づけ(1979年3月25日)を見て、それから圓生の年齢を調べてみたら、死ぬ半年前の音源だということがわかったとき。御年七十八! その年齢にしてまったく淀みのない口調に完全に脱帽した。こりゃイチから聴かなければな、とツタヤにあったCD二十数枚を聴き、やはり感服することになるが、それはまた別の話。
圓生の最期のときまで十五年間弟子として傍にいた円丈は、協会を飛び出したあと、苦境をバネに圓生の芸が磨かれていったのではないかと推測しているが、そういうこともあるかもしれない。しかし、落語界でも非常に稀なことだったのではないか。

本書はドキュメンタリーとして読むことができるが、しかし僕は円丈自身に対しても好きになることができなかった。実は、半年ほど前に『落語家の通信簿』を読んだときにも、やはり円丈のことを好きにはなれないと感じた。ちょうど、志らくの著作を読んで好きになれないと感じたことと似ている。「我」を強く感じてしまうからだろうか。あるいは、その強調された「我」が好みではないからだろうか。
なんとなくの話だが、誠実さが感じられないのだ。だからといってこの本が嘘だとは思わない。どころか、ほとんど真実だろうと思う。しかし、なんとなく彼自身がいい人間に描かれすぎている気がする。きっとエゴイストでナルシストなんだろうと思う。誠実ではない、と僕は思ったが、きっと円丈には円丈なりの誠実さがあって、そういう意味の誠実さによって書かれた本なのかもしれない、と思うことにした。


ところで、上記の「口演」とタイプするとき、一瞬、「公演」と「口演」のいづれかに迷い、weblio辞書を引いたら、「口演」の項に、

浪曲・講談などを)口で演ずること。また,その芸。 「円生の-を聞く」

とあって、その用例にほくそ笑んだ。

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花梨さんのところでコメントがつづくと煩瑣になってしまうので、記事にします。


四年ほど前に、ブログにこんなことを書いた。
慌てて電車に飛び乗ったら女性専用車両で、その時間は通勤ラッシュじゃなかったので、ぎりぎりセーフだったみたいだけれども緊張した。でも、痴漢対策だと思えば当たり前かもなあ。
たぶん、そんな内容である。
それについて、見ず知らずの人間から以下のコメントを叩きつけられた。

女性専用車擁護派の意見で多いのが、「痴漢が多い現状では必要、やむを得ない」といったものですが、これは逆に言えば「痴漢が少ないところには導入しない」「痴漢に効果が無ければ廃止する」「専用車が不要なほどに痴漢が解消すれば廃止する」ということです。 しかるに鉄道事業者は、大手事業者の専用車一斉導入で取り立てて痴漢路線と言われていなかった路線にまで専用車を導入したり、山間部を4両編成で走る路線や新規開業の路線にまで専用車を導入しています。 また、一旦導入したらあとは放置状態で、いわゆる「Plan-Do-See」のSeeの部分が行なわれていません。事業者は専用車の効果については何の調査も行なっていないのです。ですから仮に専用車が効果が無かったり不要な状況になって無意味化していたとしても何の改廃もしませんし、素人の利用者は何も言えませんから、結局誰も専用車をやめる判断は出せない。つまり「効果が無ければ廃止されるだろう」「痴漢が無くなれば廃止されるだろう」という擁護派の考えは単なる希望的観測に過ぎないわけです。 そういった「無意味な専用車があっても続くのはおかしい」「そもそもSeeがなされないことがおかしい」と感じた者が専用車に不信感を持ち反対運動を起こしているのです(もちろん他の理由・動機で反対している者もいますが)。もしあなたが専用車を痴漢対策として必要だとお思いであれば、それは反対派に痴漢撲滅活動を求めるのではなく、「専用車は痴漢対策として効果がある」「専用車が無意味になれば確実に廃止される」ということを反対派に担保することです。反対派は「もし自分達が痴漢撲滅をしたとしても『専用車のおかげで痴漢が無くなった』とされてしまうのでは?」「痴漢が無くなっても『女性快適サービス』といった名目で専用車は存続されてしまうのでは?」と思っていますから。

これは一言一句そのまま。腹が立ってすぐに削除したのだが、弟に「こんな気持ち悪いコメントをもらった」とメールを送っていたのだ。2010年8月17日のこと。

内容以前に、いわゆる「通りすがり」に「あなた」呼ばわりされたり、「考えが浅い」みたいな指摘をされたくない、と思ってすぐに削除したのだが、やっぱりいま読んでも(削除したときも、メールを送ったときも、文章を読むことはできなかった)、気持ち悪い。
こいつの「戦っている相手」はいったいなんなのだろう、と思う。そりゃ「言葉どおりのフェミニズム」を掲げる人もいるということは知っているし、そのことについては僕も反対ではない(「男は稼がないと……ねえ?」みたいな言説だって立派な性差別なんですよ、くらいのもの)。
けれども、つね日頃読んでいるわけでもないブログ記事に対して、読みづらく、一方通行的なコメントを残すこの男の正義感および熱意(きっと「女性専用車両 ブログ」というキーワードで夜な夜な検索をして、「誤解」をしている人間を正そうとしているのだろう)って、捨て忘れた腐ったキャベツの芯みたいなもので、なんの役にも立たない。もっと彼の怒るべき対象はあるはずだ。

正義の名のもとに、あるいは、革命の名のもとに、一番弱い人間たちが傷つけられる、ということは往々にして起こっている。いまだって「誤爆」だの「報復」だのの対象のほとんどが、無辜の人たちだ。
僕が無辜の人間だというつもりはないが、少なくとも、冒頭のような内容を書いたことによって、誰かの逆鱗に触れ、しかもそれについて「報い」を受けなければいけないというのだろうか。
あなたはコメントをもらっただけ、削除すればいいだけじゃないか、という鈍感人も世の中には大勢いるだろうけれど、こういうゴキブリみたいなやつら(鈍感人も含む)の攻撃を――たとえそれが小さなものであったとしても――、ちょこちょこと受けつづけることそのものが不快なのだ。

僕は、インターネット上でのつきあいにおいても、面と向ってつきあえるような人間としかつきあおうとは思っていない。ネットでは、神経の一部を鈍麻させることをより高度な振る舞いのように称する人たちがいるが、趣味や考え方の一部がベン図のように交わっているから他の嫌悪すべき部分を許容する、という器用なことは、僕にはできない。そういうことができる、という人たちとも現実/仮想のいづれでもつきあいたくない。
職場の同僚や商売相手でもあるまいし、なんでそんな気持ちの悪い人間たちの相手をしなければいけないのだ。そんなことよりやるべきことなんて死ぬほどあるというのに。

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書いているうちに日が変わってしまったので、きのうのことになるが、きのうの午前中に軽い熱中症になってしまった。原因は、寝不足と前日に飲んだ一本の缶ビール(このせいで就寝中に多量に汗をかいた)、そして水分補給の欠如。
さんざん他人には注意するくせに、自分の場合は喉が渇いてから水分を摂るというやり方のせいで、午前十時頃に激しい頭痛がして、そのまま帰宅。痛み止めの薬を飲んで寝ていた。
さいわい何事もなかったが、あれほど頭が痛いと、日々からだの丈夫なことが決して当たり前のことではない、ということに思い至る。


話はがらりと変わって。
話題の古いのは自覚しているのだが、世の中では「アナ」が大人気だということで、僕なんかは「山のアナ」を思い出してしまった。

「山のアナ」といえば、三遊亭圓歌の代表作のひとつ(ただし作った当初は歌奴だったのかもしれない)で、正式なタイトルは「授業中」。
知らない人のためにちょっと説明すると、上田敏訳の「山のあなた」を、ズーズー弁の教師がある生徒に読ませようとする。

山のあなたの空遠く

「幸(さいわい)」住むと人のいふ。

(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、

涙さしぐみ、かへりきぬ。

山のあなたになほ遠く

「幸」住むと人のいふ。

ところが彼は、「どもり」がひどいので、これをすらすらと読むことができず、「山のあなあなあなあなあな……」とやる、というこの部分で有名になった。

これを僕は、小学生か中学生くらいの頃に聴いたことがあった。まだ落語家の誰が誰ということも全然わからない時代に、この音源の入ったテープを聴き、当時は吃音というものがよくわからなかったので、なんか変だなあ、と思いながらも、園歌のしゃべり口調が面白く感じられ、笑っていたように思う。

これをまた、ひと月ほど前に、YouTube上にあった音源で聴き直してみた。実に二十数年ぶりのことである。
「授業中」というタイトルが示すとおり、この新作落語は、吃音の生徒とのやりとりが主なのではなく、ズーズー弁の教師とふざけた生徒たちとのやりとりが主であって、「山のあなあなあなあな……」は添え物のひとつにすぎない。けれども、「山のあな」で通じるくらいにこの噺が有名になったということは、やはりこのやりとりのインパクトがものすごく大きかったのだろう、ということが容易に想像される。

ところがこれが、いや、この吃音の子どもとのやりとりだけが、まったく笑えないのである。落語というのは、現代の感覚や、あるいは常識というものを持ち込まない方がたのしめるのだが、この部分については、僕の感覚ではとうてい無視できなかった。
圓歌の名誉のために註記しておくが、彼自身が吃音者である。だから彼は、吃音の子どもを差別的に嘲笑するために作ったのではないのだろう。ただし、世に多くいる吃音者に対する認識を改めるために作られたものでもないと思う。単純に、彼がこの噺を作った時代は、吃音を笑う時代であったのではないか。嘲笑する、という意識はないまでも、笑ってもよい、という時代だったのではないか。
現代のものさしで、過去を測ろうというのではない。ただ、弱者に対してやさしくない時代だったのだろう、と書きたいだけだ。
もし、現代で吃音癖を持っている噺家新作落語を書き、そこで吃音者を登場させるとしたら、たとえ作中で嘲笑が描写されようとも、最終的には嘲笑者に対して批判が向かうような、あるいは、嘲笑者自身が反省を促されるような作りにするだろうと思う。そうしなければ、世間に容れられないのではないか。

1970年6月24日の天声人語には、フランスの哲学者サルトル失明について書かれていた。サルトルがそのために作家業を廃することを宣言し、そのことに同情するという文章だった。その慰めとして、どこかに欠陥があれば、「この欠陥を補うために他の感覚が鋭敏になるという生物学的事実」を挙げている。その例として、以下のような文章がつづく。

韓非もサマセット・モームも、どもりだった。韓非が冷徹な人間観察眼をもつことができたのは、舌が滑らかでなかったため、自分の考えを内攻させ、発酵させることができたのではないか。モームが美しい文章を書いたのは、弁舌さわやかではないことと関係があったのではないか。

他にも「左伝」の作者、左丘明や、江戸時代の国学者塙保己一のことが挙げられているが、はたして本当にそうだろうか、という疑いを拭い去ることができなかった。

少し古いマンガで言えば、白土三平は、いわゆる「カタワ」になることで強くなる、という設定を好むように思っている。『忍者武芸帳』では、隻腕の剣士・結城重太郎がいるし、『カムイ伝』では、草加竜之進が左手小指(?)を失ってから強くなったし、敵方の橘一馬も、右足首以下をたしか鎖鎌かなにかで切られてから強くなったような記憶がある。
冨樫の『ハンター・ハンター』における「制約と誓約(だっけ?)」っていうのは、ここにヒントを取ったんじゃないかと個人的に思っている。少なくとも、幻影旅団で、自ら手指を切り落としたやつを見て、「あ!」と思った。まあ、それはどうでもいいけれど。

けれども、上はマンガの世界、お話の世界のことだ。実際はそんなに簡単なことじゃないんじゃないか。某所で実際に吃音だった経験を持つ方から教わった曲を思い出す。


ぼくのお日さま / ハンバートハンバート

むかし、NHKのドキュメンタリーで、失明した人の脳に電極をつけて網膜に人工的な光を見せる、みたいな技術(詳しくはわからない)を紹介していた。その装置はいかにも大仰で、実生活にはとうてい役立つものではなさそうに見えたのだが、被験者はものすごく感動していた。
いわく、「(実際には大きなモザイク状の光が七つか八つ見えるくらいらしいのだが)それでも、その光は私にとってはなによりもありがたい光なんだ」と。
目が見えなくなったのだから、今度は耳や鼻がこれまでも鋭くなりますね、よかったですね、のつもりは天声人語の著者にはなかったろうと思う。けれども、単純にすぎるように感じられてしまうのは、現代が弱者に対してやさしくあろうとする時代だからだろうか。

僕は上で、それぞれ一回づつ「どもり」と「カタワ」という表現を用いた。いづれとも差別語である。けれども、「言葉狩り」をしたからといって、実際の差別はなくならない。むしろ、特定の言葉さえなくなってしまえば差別さえもなくなってしまうという考え方のほうが怖い。見ないですませてしまおうとすることのほうが、よほど指弾されるべきことだと、僕は思っている。

小学校時代の同級生のヒロタカという男の子が、いま考えてみれば吃音者だった。ふだん話すときはほとんどそういうことはなかったのに、国語の授業で教科書を読みなさいと先生に指摘されると、よく出だしをつっかえていた。たぶんクラスメートたちは笑っていたと思う。もちろん僕も。「ヒロタカ、なんであんなに読むのがヘタなんだろうなあ」と思っていた。
幸運なことに、ヒロタカは明るく人気者だったので、それによってバカにされるということはなかった。彼とは中学三年まで一緒だったが、その途中で吃音の癖は治っていたように思う。
だから、「どもり」というのは単なる癖くらいに思っていたし、ときどき訛って発音してしまう程度の「ミス」くらいに思っていた。

その認識が変ったのが、高校に入学してからで、僕は通学にモノレールを使っていたのだが、その東京モノレールの車掌さんのひとりが、たいへんな吃音者だった。
はじめてそれを目撃したときは、どうしたのだろうかと思った。車掌のアナウンスというのは、車掌室のドアをがたっと開け、自分の声がきちんと車内に伝わっているのかどうかを確認しながらしゃべる。僕は始発の浜松駅から羽田空港行の最後方車両にいつも乗っていたので、車掌さんの姿を間近に見ていた。
「本日は、東京モノレール羽田空港行にご乗車いただき、まことにありがとうございます」くらいは、スムーズに出る。しかしそのあとの、ここからの停車駅は……という段になると、言葉が出てこない。ふだんは車掌さんのことを直視したりすることはなかったので、文庫本を読みながらその音を半ばBGMのようにして耳に入れていたのだが、途中で間が空いてしまうので、「あれ?」と思って顔を上げると、その車掌さんが、口をパクッ、パクッとしながら必死にもがいているのが目に映った。具合が悪いのかと思ったが、そうではない。そのとき、あ、これが「どもり」の程度の重いものなんだということに気づいた。
率直に言って、それを耳にしているのは辛かった。彼の顔は、窺い見るに紅潮していたし、僕も読書どころじゃなくなっていた。彼のアナウンスがどうか無事に終わるように、と自然に力が入った。誰かに変わってもらえばいいのに、と最初は思っていた。

しかし、その車掌さんのアナウンスをその後何回も経験するにつれて、彼が嫌でないのであれば、という条件つきで、「変わってもらえばいい」とは思わないようにした。文字通り息詰まる彼のアナウンスは、何度聴いたってこちらの息も詰まったが、まったく気づかないというふりをしながら、応援していた。モノレールに乗っている他の常連客たちも、彼のことを直視することなどなく、なんにも気づいていないふりで窓から外を見るなどしながら、心の中で「頑張れよ」と思っていたのではないか。そしてみんなが、どうか彼のことをあからさまにバカにするやつが出てくるなよ、と願っていたのだと思う。
そういう態度が正しいことかどうかはわからなかったが、少なくとも僕の高校通学期間にそのようなことは出来しなかった。それはとても幸運なことだったと思う。そういう幸運な社会が普遍的になればいいとも思う。

件の天声人語には、『徒然草』の一文も紹介されていた。

「友とするにわろき者、七つあり」として、その一つに「病なく身強き人」をあげている。病気一つしない人は他人に対する思いやりがない、という意味であろう。それはまた自分の健康に安住して、感受性をなまけさせることへの戒めであろう。

天声人語子自身にこの言葉は突き刺さりそうなものだが、彼はこれを書いた五年後に四十六歳で亡くなっている。そう考えると、ある器官の欠陥によって他の器官が鋭くなる云々の言葉は、筆者の純粋なやさしさだったと思いたい。暑さに軽く倒れた身としては、そんなふうに思いたくなったのである。

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たまにはこちらにも。

きょうは大阪で天神祭があるらしい。これもまたラジオ経由で知ったこと。いつもの気象予報士さんが西東三鬼の句を紹介していた。

暗く暑く大群衆と花火待つ

大阪の天神祭も、京都の祇園祭も、おそらく一生縁がないと思う。忙しい時期であるし、それに一年でいちばん暑い時期とも言うではないか。そんなときにのこのこと「大都会」に出かける理由が見当たらないのである。ああいうのは、その土地に住んでいる人たちだけがたのしめばいいのだろう(それでも阿波踊りだけは一回観に行きたいと思っている)。

夏祭り 巨きな男の通り道

身体の大きい人がいる。垂直方向というよりは水平方向に広がっている人が。今や一概に不摂生が原因だとは言えないようだが、それでも少食ではなかろうということは一見して判断できるような体型の持ち主のことだ。それを巨軀と呼ぶのであろうが、この「軀」という文字が機種依存文字なのでうまく表示されるかどうかはわからないのが辛いところ。このせいで、中国文学について書くのもいちいちがためらわれたりする。

「からだ」という言葉に対しても、いろいろな漢字がある。体。身体。躰。軀。體。「からだ」のことについて考えていくと、そもそも「からだ」という音の不思議に思い至る。この優しい音が、自分たちの肉体のことを表しているような気がしなくなってくるのだ。
か細いのも、太いのも、小さなのも、大きなのも、すべて人間のからだ。その中でもひときわ目を引く巨体。そういう人物が、祭りの大混雑中に道を歩いていたとしたらどうなるだろうか。
自らの体積の大きさを羞じながら、彼/彼女は通りを行くのだろうか。はたまた、もはやそんなことに拘泥することなどなく平然と歩を進めるのだろうか。
いづれにせよ、彼/彼女が通れば人の海が割れ、溝ができることだろう。浴衣を着た「小さな」人たちはそのたびに顰め面をするのだろう。本当は、こちらもひとり、あちらもひとりなだけなのに。
苛立ちや侮蔑や憤懣や羞恥は、すべて打ち上げ花火の音に打ち消されればいい。高く上空にあがった花火の「どん」という衝撃は、あなたの、僕の、彼の、彼女の胸をすべて等しく衝つ。

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あと八つくらいは書けるかな。

ドラマの諸々の感想を。

官兵衛

本能寺の変、まで観た。
岡田官兵衛は頑張っているが、周りに恵まれていないという印象を持っている。竹中秀吉、小寺鶴太郎、明智小朝などという重要人物たちは、みな役者出身じゃないんだよね。そういう「出自」の問題を言っちゃあ主人公だってアイドルじゃないか、と言われればそれまでなんだけど、大御所俳優はいないんだよね、このドラマ。
小朝については、こういうのもアリかもしれないとは思ったが、竹中と鶴太郎は好みじゃない。秀吉の信長が死んだと聞いたときの狼狽え方は頭の弱い人みたいで、こういう人物が天下を取れたとは到底思えない。まさか、官兵衛の存在感の大きさを強調するためじゃあるまいよな。
御着の殿はもうどうでもいいよ。本能寺の変を知らせる使者が羽柴陣に着くか否かと気を揉んでいるときにまさかの鶴太郎登場、で視聴者は全員ズッコケたんじゃなかろうか。赤っ鼻に「ここは思案のしどころじゃのう~」のキャラづけも無理やりに感じたしなあ。そもそも御着って、いつも鶴太郎と上杉祥三*1ともうひとりのいい声の人*2の三人しかいないイメージだったよ。
徳川・ルビーの指輪・家康の、あの右目の半開きはなんだ。あれ、すごいな。寺尾自身が目をわずらっているのかもしれないけれど、あれが役者の工夫だとしたら、ものすごい悪だくみをしてそうで、非常によい。けれど、江口信長を囲むのが、竹中秀吉と寺尾家康っていう、三人の年齢の順番がめちゃくちゃっていう点ではミスキャストだよなあ。
本能寺じたいも、江口と内田有紀が背中合わせで戦っていたり、江口が死ぬ場面で、例の「人間五十年~」を呟きながら空を斬るなんていう、この演出の安っぽさ! 信長の母親に変が伝えられたときも、驚いた母親の顔をズームアップしていたが、これもひどかった。そのわりには岡田のところでは結構しっかりと撮っている感じなんだよなあ。事務所の要請?
そんなこんなではありますが、視聴率はV字回復を果たしたようで、とりあえずはよかったんじゃないか。

ペテロ

三話まで。
もはや長塚京三の死についてはあまり興味がなくて、受け取った三百万円の「慰謝料」について、もらった人間たちのほとんどが金に執着がない、というのがどうにも解しがたい。峰竜太の態度がいちばん一般的じゃないか。
小泉孝太郎国仲涼子とが、娘のいないところでも「ママ」と「パパ」と呼び合う点で、すでになにがしかを表現しているような気がしている。外で働くようになって(現在はその準備中か)香水を強くつけるようになった(あるいははじめてつけるようになった)国仲。そして、長谷川京子と「秘密」を共有した孝太郎。どっちとも現実問題としてはたいしたこっちゃないのだけれど、ドラマの中では大きな問題になっていくのかな。
孝太郎は、もともとは長谷川に対して恋愛感情を抱いているわけではないのだけれど、外堀を埋められていくような形でまず周りに誤解され、それによって国仲が行動を起こしていき、それに触発されて、自身も「見えない監獄」から外に出ていく、というラストになるのだろうか。
悪とか悪意は伝染する、というのがよく作中で言われるが、しかしここにある悪意っていうのは、非常に軽度な悪意という感じで、それだからこそ質が悪いのかもしれないけれど(そして実生活であったらやはりイヤなのだが)、完全な第三者たる視聴者を簡単には惹きつけることができない。
原作はどうだか知らないが、テレビドラマでは女性だけが悪い立場に立つということはなさそうなので、国仲の不倫という線はないのかな(そもそも不倫が「悪い」のか、という話になるが、純文学の世界ではないので、万が一そういう事態が発生すれば作中では単純に「悪い」という価値観で展開していくだろう)。しかしそうでないと、孝太郎があの家を出て行くという行動を起こす動機としては弱い。
結局、変わらないままなんだろうか。それとも、「変わらない」「変えられない」ということを主張したい作品なのか。と、もはや夫婦のことについてしか心が動かないドラマになってしまった。
ところで、峰の家族構成が笑った。妻が「猫のホテル」の千葉雅子で、息子が村岡印刷の弟で「殺人鬼」の町田啓太。いや、殺人鬼っていうのは僕が個人的にそう呼んでいるだけで。ちなみに町田くんは日体大の出身みたいで、スタジオパークで例の「えっさっさ」を披露していた。僕は中国の動画サイトのその部分だけしか観ていないのだけれども、それだけで好感度は非常に上がった。

家族狩り

これも三話まで。
うーん。視聴者の気をゆるめさせるために伊藤淳史とかジャニタレとかを登場させているのかもしれないけれど、作品の雰囲気にまったくそぐわない。伊藤については、もうちょっと観ていくけれど……。
今週のラストで遠藤憲一の妻が自殺したようだけれど、ああいう場面を観て、「わあ、かわいそう」というのは一瞬しか思えなくて、遠藤視線に立てば、「まあ、今後の(遠藤としての)面倒ごとは減るわいな」と思ってしまう。だって、ヤクザに情報を売っているような人間で、水野美紀とその息子のほうが大事だという感じがするもんなあ。いまさら「夫婦の絆」を強く思うということもあるまいに。
でもまあ、もしかしたらあの妻も死んでいないのかもしれない。ローズヒップエキスを入れて半身浴をたのしんでいただけで、「あらあなた、おかえりなさい。あなたも一緒に入るう? きゃはは」と言わないとも限らない。
あの場面で、「ああ、視聴者っていうのは、登場人物が死ぬか死なないかのところをヒヤヒヤしながらたのしんでいるんだなあ」ということが感じられた。たとえば水野美紀母子がヤクザものに惨殺され、浅田美代子が痴呆の夫と無理心中し、山口紗弥加伊藤淳史を訴えた女子生徒と殺し合いを果たしてしまえば、視聴者は、後味の悪さは生じるものの、どこかスッキリサッパリしてしまうのではないか。連続家族殺人犯なんてもはやどうでもいい。
この場合の「スッキリサッパリ」はいい意味ではなくて、惹きつけるものがなくなってしまうということ。殺人なら殺人でも、極限まで引き延ばされた殺人を視聴者はエンターテインメントとしてたのしんでいる、ということなのかもしれない。
いづれにせよ、遠藤の妻は早く死にすぎ。早々と「カタ」がついてしまった、という感じ。

蛇足

現在、『花子とアン』『軍師官兵衛』『ペテロの葬列』『家族狩り』の四つを観ているが、後半ふたつはつづくかどうか。
きょう、この四つのタイトルをいろいろと入れ替えて遊んでいた。

  • 軍師花子(弱そう)
  • 軍師ペテロ(強そう)
  • 軍師狩り(怖い)
  • 花子狩り(全国の花子さんになんの恨みが?)
  • ペテロ狩り(全国のペテロさんになんの恨みが?)
  • 官兵衛の家族(柴田恭兵中谷美紀松坂桃李のスピンオフドラマ)
  • ペテロとアン(ヨーロッパ映画にありそう)
  • 家族の葬列(伊丹十三作品、だとコメディか)
  • ペテロガリアン(新しく発見された惑星)
  • 暗愚とテロ(「もう知らなかったでは済まされない! 日本もテロの危機に!)みたいなオビのついた新書)

などなど。

*1:遊民社出身! 『半神』の主人公で大好きな役者さん。

*2:メル・ギブソンの声の人!

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↑のバナー(?)にけさ気づいた。

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ほとんど見ることのない本家を見に行ったら、やっぱり↑みたいなことになっていた。
これって、「旬」で済ます問題なのかねえ。はてなとしては、どうせ議論が盛り上がってPV が増えればどーでもいーんだろうけれど、はたしてそういうものなんだろうか。

ある兵庫県議がギャーギャー泣くことによって、笑いものになっているが、笑えることなんて全然大事なことじゃない。本質は、その後ろに隠そうとしている不明瞭な税金使用である。そして、そのニュースの後ろで、国会議員が「セクハラヤジ(という言葉でまとめたくはないのだが)」について静かに謝罪をして済まそうとしている。こうなると、都議会で起こった人格否定発言者の特定はますます遠くになりつつある。
そのくせ、オボカタ問題はもはやどーでもいーのにしつこくしつこくマスコミはつけ回すし、覚醒剤を使用した一芸能人が保釈されたときには三百人以上の報道陣が現場にいたそうだが、これまたどうでもよい。彼の覚醒剤使用によっては誰も死んでいないからだ。
硬軟いろいろのニュースが同じ地平で取り扱われるからこそ、大事なことが忘れやすいようになっている。これを、飽きやすい視聴者を飽きさせないためと見るのか、あるいは、大事なことを「カーペットの下に隠す*1」ためと見るのか。


今回の報道で特に感じたのは、政権側に賛成する人たちの視点は国家にあり、反対している人たちの視点は個人にある、という点。僕は、国家の利益より個人の利益を優先する。
一般市民が「日本は、日本は、」と主語を簡単に大きくすることについて、僕は非常な違和感を覚える。その主語が「会社」であっても、僕は軽々に遣わないだろう。国家も会社も、個人なんて屁とも思っていないし、そういう巨大な存在を自己同一化できないのである。だから、いくら理性的にその論理を説かれても、「ふうん」としか思えない。そういう理窟は、ほとんどの場合が机上の空論だから、説得力もない。僕もそうだけれど、国家寄りの意見を言う人間だって、個人的にはなにも差し出す気はないんだからね。
あと、今回の件は手続き上の無茶苦茶さがあるのに、そこをしょうがないとする論理がまったくわけわからない。今後、法整備を図るということで国会での審議に移るって言ったって、どうせ数を恃んで終わるに決まってるじゃん。まー、諸々の議員問題についても同様のことが言えるのだが、彼らは、「私たち」が選んだ人間たちなわけだから、理窟で言えば、「私たち」そのものなんだよ。品性や知性がないのは、「私たち」についても言えること。もちろん彼らに票を入れていない僕は、主語を大きくすることもなく、「『私たち』とは別」と言うけれど。

*1:Black Eyed Peasの"Where is the Love"の中に「under the rug」という表現が出てきたので、それで憶えた。日本語訳だと「臭いものに蓋」らしい。

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きょう、関西ではひさしぶりに本格的な雨が降った。ほぼひと月前に梅雨入りはしたはずだが、梅雨前線が南下していたとかで、本格的な雨が降ることはほとんどなかった。なんでも、例年の四割程度くらいだったとか。九州や関東では大雨でたいへんなことになっていたにもかからわず。
その期待はずれの梅雨前線が、きょうやっと北上してきた。梅雨が戻ってきたのである。


前の職場のTさん(四十代男)は、「to」という単語を、「ツー」と読んでいた。彼は「あのメール、ツー(to)で、○○さんも入れておいてね」というように遣っていた。僕や、他の人たちはもちろん「トゥー」という発音をしていた。
といって、「ツー」が間違いという気もしない。しょせん日本人なんだからネイティブの「to」とは別物の可能性大だし(というほど難しい発音ではないとは思うけれど)、「L」や「R」をきちんと言い分けているわけでもない。
「トゥ」という音が日本で生じた(?)のも、おそらくは最近のことであって、それまでは「ツ」でよかったのだろう。似たような理由から、「ビルディング」をいまだに「ビルヂング」表記しているところは多い。
日本の古い発音が残っている外来語はまだまだある。

  • ピザ: もともとは「ピッツァ」
  • ケーキ: 本来の発音に沿えば「ケイク(cake)」だろう
  • チッキ: 手荷物輸送のことで、「チェック(check)」から来ているらしい*1
  • ヂーゼルエンジン: 「ディーゼルdiesel)」のことだが、僕の周りには「ヂーゼル」発音の人が数人いるし、古いトラクターなどでは「ヂーゼル」表記が多く見られる
  • ゼリー: つづり(jelly)から言えば、「ジェリー」の方がより近いだろう
  • ハイゼット: ダイハツの軽トラで、つづりは「HIJET」だが、これを「ハイジェット」と呼ぶ人にお目にかかったことがない

等々。実際にはもっとあるのだろう。


それにしても、待ちに待った雨のはずなのだが……じめじめしていてやっぱりイヤですなあ。関西の長期予報では、残りひと月弱で、平年分の降雨量を取り戻すらしい。舌ったらずの「トリモロス!」の声が聞えてくる。

*1:高島俊男のエッセイで知った言葉。

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書かないでいると、けっこう書かないでいられるということを知る。

と、なんとなく文字数を切り詰めてしまう癖がついてしまった。

さて。最近、気になっている言葉があって、「ぶっ込む」とか「ぶち込む」というやつ。丁寧な用法としては「放り込む」なのかな?
「ここでその話をぶっ込んでくるか?(≒挿入してくるか?)」みたいな遣い方をされているのだと思うけれど、僕が意識的になったのは、かのゴキブリ漫画『テラフォーマーズ』にそんなセリフがあったのに気づいたとき。ああ、これって流行っている言い回しなのね、と感じた。実際にそうなのかどうかは、テレビでバラエティ番組を見ないし、実生活で若い人たちと話していないので知らないけれど。
あとはラジオで、DJ赤坂泰彦も遣っていたなあ。まあ、アカサカさんはギョーカイの人なので、当たり前か。

これってたぶん芸人言葉なんだと思う。で、繰り返しになってしまうが、僕はこの芸人言葉を素人が通ぶって遣うのが大嫌い。芸人言葉ってのはあくまでも芸人が遣う言葉で、素人がそれをかじるってのは、ものすごく野暮なことだと思っている。
桂文楽『あばらかべっそん』でも、たくさんの寄席言葉が出てくる。トバ(着物)、ヤスケ(寿司)、キンちゃん(客)、タロ(金)、タレ(女)……などなど。こういうのは、噺家がしゃべっているのだからいいのであって、素人が、「おい、タロが入ったんだ。ヤスケでもどうだい?」みたいにしゃべったら、ものすごく恰好が悪いと思う。それと一緒で、個人的面識があるわけじゃないのに、「○○師匠」とか呼ぶのもなんだか鼻につく。いいじゃんか、こっちはただのトーシローなんだから。


そういうのに近い(と僕は思っている)のだが、年上の男を「にいさん」、年上の女を「ねえさん」と呼ぶ言い方があって、これがまた気持ち悪い。なんなんだろうか、これは。
定食屋に入って、パートの女性に「ちょっと、おねえさん、注文いい?」と呼びかける場合がある。これは違う。また、道でなにかを落としたときに「おにいさん、これ落としたよ」と声をかける場合がある。これも違う。
こういう、見知らぬ他人に対する適当な二人称の欠如による代理の呼称たる「おにいさん/おねえさん」ではなく、すでに知己の間柄に対しての呼称、「にいさん/ねえさん」が気持ち悪いのだ。
なんとなく、の推察なのだが、上方芸人間での年上に対する呼称、「にいさん(兄弟子)」「ねえさん(姉弟子)」から来ているのではないか、と思っている。東京なら「あにさん」「あねさん」が正統なはず。
と言っても、過去に僕に「にいさん」と言ってきた人間はふたりいるが、ふたりとも東京の人間なんだよなあ。ふたりともバイト仲間の年下の女の子だったが、互いの名前も知っているのに「にいさん、これをやっといてもらえますか?」とか「にいさん、お願いします」という感じ。言われたときは、「なんだこいつ、気持ちが悪い」と思ったが、さすがに口にはしなかった。
十五年以上は前の話なので、それくらいの頃にはすでに遣われていたのだろうか。バイト以外には人間関係がほぼ皆無なため他の例を知らないのだが、実際どうだったんだろう。いづれにせよ、僕からすると気持ちが悪い。
関西に引っ越してからは、一度これを耳にしたことがある。僕に向けられたものではなく、ある男が、ちょっと親しくなった一、二歳年上の男に対して、ある日突然「にいさん」と呼び出したのだ。これを耳にしたときは、ちょっと昂奮した。関西の本場(?)の用例を目撃したわけだから。

これもやっぱり芸人言葉の盲目的なマネゴトと考えるとすっきりする。あるいは、それをマネした人間(素人)を盲目的にマネしただけ、というパターンもあるだろう。
どちらにしても、遣っている当人に悪気はまったくなく、どころか親しみを込めている場合の方が多いだろう。それでもやっぱり気持ちが悪いんだよなあ。「別におまえの兄弟子じゃねえよ」と思ってしまうのは僕だけなんだろうか。

おなじ「兄」でも、開高健なんかは、そのエッセイで年上の吉行淳之介を「吉行大兄」などと書いていたが、ああいうのは、すごくいいと思う。いかにも「文士」という感じで。


余談その一。
噺家内での「あにさん/師匠」の呼び分けはどうしているのか。
三遊亭円丈が書いていたが、自分が入門したときに、相手が真打ちになっていたかどうか、で決まるらしい。すでに真打ちであれば、一生「師匠」で、まだ二つ目以下であれば一生「あにさん」でいいらしい。おそらく上方も同じだと思う。

余談その二。
あまり知られていないことだが、石原慎太郎太陽の季節』には、伯井辣之助(はくい・らつのすけ)という武士が登場する。
……というのは冗談で、当該小説では、「ハクい(きれいな)」「ラツ(面<ツラ>の逆さ言葉)」「スケ(女)」という不良言葉が出てきて、それを繋げると、「ハクいラツのスケ(=きれいな顔した女)」となる、というだけ。当時はカッコいい言葉だったのだろうが、いまとなっちゃ……ねえ。

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