とはいえ、わからないでもない

2014年08月

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当たり前だと思っていたのだが、子どもの頃、家にマンガなんて何冊もなかった。『こち亀』が数冊、『キン肉マン』が数冊、横山光輝三国志』が数冊、『夕焼けの詩』が数冊と他にちょろちょろ、くらいなものだったと思う。いや、こう数えてみると、「何冊」かはあったわけだが、全て揃っているマンガなんてひとつもなかったと思う。
横山『三国志』は当然興味があったが、吉川英治の小説本(たしか八冊)を手に入れて満足した。もしかしたら図書館で借りたのかもしれないが、いづれにせよマンガ本全六十巻を手に入れられるなんて思っていなかった。
うわー買って買って、などとおねだりすることはなかった。困窮しているわけでもなかったがそんなに余裕がある家でもない、ということは子どもの頃からなんとなく知っていたから。

でも、マンガは好きだったので、家にあるマンガは何度も何度も繰り返し読んだ。それから、図書館の児童コーナーにあったわづかなマンガも読んだ。「揃い」であったのは『はだしのゲン』で、悲惨な内容だったが、それでも繰り返し読んだ。
やがてそれに物足らなくなり、一般の書架を探しまわり、たしか「絵画・漫画」のコーナーだったと思うが、そこでお宝を発見した。白土三平の愛蔵版『カムイ伝』全四巻、藤子・A・不二雄の愛蔵版『まんが道』全四巻、どちらも広辞苑ばりの厚さの本が四冊。これは何度も何度も読み返したなあ。
ついでに、何巻本だったか忘れたが、中国の人の書いた漫画(といっても中国風)版三国志もあり、これも読んだ。たしか赤瀬川原平の『櫻画報』もあったんじゃないかな。背景が水木しげるっぽかったから読めなくはなかったけれども、ちょっと意味がわからなくって(しかもちょっとアヤシイということは小学生ながらも気づいていた)一回きりだった。

とにかく、『カムイ伝』と『まんが道』だった。
カムイ伝』は、最初読んだとき、結末の意味がわからなかったと思う。とにかくゴンの最期がものすごく印象的で、代官たちに拷問を受けた際に、甕のなかの煮え立った鉛を自ら飲み干し、「こんなもんで、われらの心まで溶かすことはできん!」と叫び、絶命する。
あと、主人公が死んだら双子を疑えということも知ったし、狂人のふりをしたスパイもいるということも知ったし、抜け忍は死ぬまで命を狙われるし、蚕は大事で、鐘楼流しで海に流された野菜を集めて漬物にすれば大儲けできて、と、とにかくいろいろなことを知った。関東では馴染みの薄い被差別部落の問題も『カムイ伝』で知った。
一方、『まんが道』では、マンガ家の大変さを知った。そこで、なろうなろうあすなろうとマンガ家を目指すことになったのだ、とはならなかったが、すぐれたマンガを描くマンガ家を尊敬し、マンガをそれまで以上に愛するようになっていた。あれを読んだら、手塚治虫を神と思わないわけにはいかなかった。

今の子どもたちは、家に『ワンピース』七十何巻とかがふつうにあるのかな。あるいは他の何十巻揃いなんていうマンガも、当たり前のこととして家の本棚にあるのかな。羨ましい……とはあまり思わないんだよなあ。島本和彦アオイホノオ』を最近また読み返していて、あの欠乏感って大事だったんだなあと思うようになっている。
手元にない。でも、知りたい。読みたい。触れたい。そういう思いが情熱を生み、大きなモチベーションになったという部分もたしかにあると思う。
もし子どもの頃に横山『三国志』が全巻揃っていたとしたら、吉川英治版の『三国志』を読まなかったかもしれないし、その後の読書全体にも影響を与えたかもしれない。『まんが道』も知らないままだったろうし、手塚治虫はただのマンガ家だったろうし、だいいち図書館に通っていなかったかもしれない。

手元になんでも揃っているって、でも結局はそれしかないってことでもある。それしかないってことに気づかないってことでもある。
はじめからなければ、いろいろと探そうとする。作ろうとしたり、想像してみたりする。いまじゃけっこうそれが役に立っているんだよな、と書いて、これは僻みなのかもしれない、とも思う。

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不思議なもので、はてなでダイアリー書いたりブログを書いたりしていると、なぜか「はてな」のことを考え始める。
特別な思い入れがあるわけではないのに、「はてなって……」とか「はてなブログって……」とか、言い始めてしまう。
三日にいっぺん、っていうのは言いすぎだけど、たぶん半月に一回くらいは、「はてな」って書いているんじゃないかと思って、実際にこのブログ内で「はてな」を検索したら、三十四本の記事が引っかかった。およそひと月に三回の割合で、「はてな」という単語を載せた記事を書いているということになる。
これ、もしアメブロで書いていたらどうだったんだろうねえ。「アメブロって……」とか「サイバーエージェントって……」なんてことをよく書いていたんだろうか。そんなことはない気がする。

ところで、僕がはてなを始めるきっかけになったはてなダイアリーが更新停止を宣言していたことを、きょう知った。その宣言は半年も前になされていた。
つまりそれくらい訪れていないということなのだが、その文体とスタイルが好きなだけだったので、その内容もほとんど読んだことがなく、ただもう存在して更新しつづけてくれればいいと勝手に思っていただけだった。
丸十年、と書いてあった。そこにあるのは、純粋な記録だった。他人の視線をほとんど意識していない文章だったので、感情移入のしどころが難しかったが、たぶん読めば価値のあるものだったのだと思う。内容うんぬん以前に、文体そのものに価値があるのだ。その証拠に、というわけでもないが、その人の記事にはほとんど一人称が出てこない。どうやら「俺」を用いるらしいのだが、サイト内検索して百二十数件しか引っかからなかった。毎日更新しているわけではなかったようだが、百二十ヶ月のうちの百二十件だとしたら、ほぼひと月に一度しか出てこないという計算になる。
前にも書いたことがあるが、人間の意識内において、他人が登場しない限りは「ぼくは~」とか「わたしは~」のような一人称を必要しない、と僕は思っている。言葉にする前の段階では「あ、忘れ物した」とか「コンビニ行くか」くらいのフレーズが意識にふわっと浮かんでくるくらいで、「あ、ぼくは忘れ物をしたらしい」とか「ぼくはコンビニに行くことに決めた」とはならない。
だが、一般的にブログの記事を書こうとすると、他人の視線を意識するために、どうしても「ぼく/わたし」が顔を出してくる。僕も、「僕」をものすごく多用しているはずで、書き言葉だからスルーしやすいが、実際の会話で「僕は~」とか「僕ね~」と話すやつは、疎ましいことこの上ないだろう。
その一人称がない、というだけでもう憧れの対象となり得て、しかもその人のブログにはスターもブクマもコメントもほとんどなくて、承認欲求なんて言葉とはほぼ無縁の場所で書きつづけてきた、というところに敬意を払う価値がある。
そのブログが、次のステージに行くために更新を停止したのだという。「継続は力なり」ではあるが、しかしそこに拘泥しているわけでもない。ううむ。見習いたい。

そういえば、はてなブログでの有名ブログも、いつのまにか更新停止していたということを最近知ったばかりである。
ブログのタイトルにちょっとあざとさを感じていたのでそれまで読んだことがなかったが(うまいタイトルでも読まないことに変わりはないのだが)、ちょっと前までそのタイトルをよく目にすると感じていた。僕は相変わらず「他人の文章読めない病(半分冗談・半分本当)」なので、詳細部分を読むところまで集中できない。その、ざーっとしか読めないところで最終記事から把握できたのは、まる一年間「はてな」をやってみていろいろと感じるところがあったらしく、違うところで発信することにした、みたいな内容だったと思う。
自ら意識してなのか、はたまた強制的にそうせざるを得なかったのか、その人も結局は「はてなって……」病に取り憑かれたんじゃないだろうか。その証拠に、はてなのいいところを挙げ、しかし不満となった点も挙げていた。そうとは書いていなかったが、「はてなって……うるせーのが多い」って受け取れた。「うるせー」の前に「口だけのくせに」もつけくわえられるよ、たぶん。

この一年で僕の知っている(といっても読んでいない)はてなブログが、上のも含めて三つよそに移って行った。ほんとうはもっとありそう。で、この一年でときどき視界に入ってくるようになった人たちは当たり前のように元気だ。元気というより、なにか違うものを感じる。ぼく/わたし/おれ/自分の洪水。結局、僕はそれらの文章を読めない。そして、その人たちが僕のところにやってきませんように、と心から願う。

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きょうは八月最後の金曜日。


「ジンジャーのかおりで目覚めた」という一文で始まるマンガがある。萩尾望都『金曜の夜の集会』。
主人公の男の子マーモの、八月最後の金曜日の話だ。
彼は、自分より背の高いクラスメートのセイラに好意を抱いていて、ちょっとしたタイミングをつかまえて、来週の金曜の夜に新しい映画が来るのでそれを観に行こうと約束する。彼は、来年あたりには背が伸びて、そのときになったらセイラの背に追いつくだろうと心のなかで思っている。

その夜、マーモの両親は集会に行くと言って、彼と病弱の姉を残して外出する。
しばらく経ってマーモの友だちがやってきて、町中の大人がいないようだ、と彼に告げる。まさかとは思うものの彼は、友だちと一緒に大人たちを探しに行くことにする。
星のきれいな夜。お城のまわりに大人たちが集まっていた。そこで彼は見つかってしまう。
学校の先生が、マーモに説明する。この町は、夜の十二時を境に消えてしまう。おそらく戦争によって、と。マーモの姉は予知能力を持っているのでそのことを知っており、滅亡を回避するために、町が消滅する原因となるエネルギーを利用して、時間軸を過去に向かって回転させ、ちょうど一年ぶんだけ戻る。そうやってこの町は、ずっと同じ一年間を繰り返している、というのだ。
マーモは気づいていなかったが、ずっと同じ一年が繰り返されていた。毎回、細かな変化は起こるが、同じ日々の繰り返し。
「いつも同じ夏。同じ夏の終わりがきたら、またみんなで同じように時をもどす」

彼は家に帰り、ベッドに横になっている姉と話す。姉は言う。未来の夢を持つ子どもたちは、記憶を消してまた新しい一年を送れるようにしている。
それを聞き、マーモは泣く。

そして明日はこないんだ
セイラと約束した金曜日もこない
いつかぼくの背が高くなる日もこない
ザリガニを食ったチビのおねしょがなおる日もこない
中学生になる新学期もこない
ぼくがおとなになって天文学者になることもないんだ


このぼくらはみんなまぼろしだ
とうに存在しない影なんだ

あと三十分できょうが終わると気づき、マーモは外に飛び出す。彼にはやりたいことがあった!
行く先は、セイラの家。窓ガラスを叩いてセイラを起こし、「いまからほうき星をみにいこう」と言う。

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©萩尾望都
このエンディングを見ると、いつも胸が詰まる。


ほぼ一年前、僕は前のブログの更新を終了し、アカウントも変更した。

そのとき、とりあえず一年はつづけてみようと思い、タイトルを「そして明日はこない」とつけた。細かな違いはあっても、もしかしたら去年と同じような一年になるかもしれない。前のブログと同じように、また嫌気がさしてやめてしまうのかもしれない。どうなるかわからないが、既視感とささやかな希望をもってブログを始めてみた。
そしてきょう、八月最後の金曜の夜がやってきた。


ちょっと前まで、きょうを境に他のブログもすべて閉じようかと思っていた。理由はいろいろとあって、それも書いてきた。
『金曜の夜の集会』の物語と同じように、ちょうど一年でブログを消してしまえたら、それはそれできれいにまとまるなという考えもあった。前のブログも、そしてこのブログも、まるでひとつの物語のように円環の中に封じ込めることができ、そこにわづかな自己満足も一緒に押し込めると思っていた。

また、僕のこの頃(といってもけっこう長いけれど)の考えとタイトルとに合致する部分もあった。いままでふつうにつづくと思っていた日常は、いきなり終わりを告げ、その姿を一変させてしまうこともあるんだ、というような。だから、ある日ばっさり終ってもいいと思っていた。

その一方で、きれいにまとまるってのは、ちょっと恰好悪いという思いもあった。
千利休が庭を徹底的に掃き清めたあとで、もみじの木を揺らしてその葉を散らさせたという、あの創作っぽいエピソードを僕は好ましく思っている。
予定通りに一年できれいに閉じてしまうブログ群は僕にしちゃきれいに行きすぎで、反対にちょっと恰好悪いのだ。きれいにまとめようとしてもまとまらず、足掻き、悶え苦しんで、誰彼かまわず撒き散らし、みっともない感じが残っていくほうが、なんとなくいまこの瞬間の気分に合っている。

だから、これまでどおりにする。「利休の落ち葉」とかそういうタイトル変更もせずに、これまでどおりに。

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某所(って伏せておきます)ではてブのことが書かれたので、僕なりの認識をメモ。

  1. 個々のページ・記事をブックマークできる
  2. 備忘録として100字のコメントができる
  3. ツイッター/フェイスブック等に連携できる
  4. 他のユーザーをお気に入りにすると、そのユーザーのブックマークが確認できる
  5. あらかじめ「インタレストワード」を設定しておくと、そのキーワードと合致してブックマークを集めている記事が確認できる

簡単に言うと、こんなところかな。
僕にとっては1. の機能が大事なのであって、資料を集める意味で利用している。「ブックマーク(=しおりを挟む)」という原義にもいちばん近いはず。または、「(いまは読む時間がないけれど)あとで読み返す・確認し直す」というものについても。
2. のコメントも本来の、自分用の備忘録として利用している。以前はそれ以外の「ひとりごと」的な利用もしていたけれど、いまはしていない。
このはてブのコメント(ブコメ)には、ひとりごと・備忘録以外にも用途はある。
ブログの場合は、書き手に対してのコメントとして利用している人もいる。「じゃあ、ふつうのコメントでいいじゃん」という話だが、そのブログにコメント欄が設けられていない場合でも、はてブのコメント(ブコメ)はできるので、そういう利用の仕方もあるけれど……たいていの場合はふつうのコメントでいいわな。
それ以上に、掲示板でのコメント、みたいな利用の仕方をしている人は多いと思う。
ブクマをすると、そのブクマの情報は、「http://b.hatena.ne.jp/entry/~」で始まるページに集まる*1。具体的に言うと、ヤフーのポータルサイトhttp://www.yahoo.co.jp/)については、(http://b.hatena.ne.jp/entry/www.yahoo.co.jp/)にブクマ情報が集まっている。ここに、公開の状態でブクマしたユーザーと、コメントがあればそのコメント、そして全体のブクマ数なんかが表示される。
ヤフーのポータルサイトをブクマしてなにになるの、という疑問はさておき、はてブっていうのは、ほとんどあらゆるページをこのように「掲示板化」できるので、自分の意見をてっとりばやく多くの人間に見てもらいたい人にはうってつけ。
たとえば集団的自衛権に物申す、という人だったら、産経とか朝日の「集団的自衛権閣議決定」なんていう記事にブコメを残せば、他の人の目に留まる可能性は高い。
そこでマジメ(?)に自分の考えを述べる人もいれば、混ぜっ返す人間もいるし、あるいは、ウケ狙いに徹する人間もいるので、一概に「意見」とみなすのも難しい。玉石混淆の、「玉」がほとんどないやつ、って考えるほうがいいんじゃないか。
ただ、純粋に「ひとりごと」と見なすのは、ちょっとお人好しっていうか、性善説に立ちすぎ。善意だけでなく悪意による拡散の意図をもってブクマする人間はいるし、そのままだけなら、そのユーザーをお気に入りに入れているユーザーが知るのみだが、ツイッターやFBを用いてより多くに拡散する意図を持っている人も多い。

で、ネガティブなブコメが集まるのを防ぐには、はてなブログだったら、「設定」→「詳細設定」→「はてなブックマーク」のところで「すべて表示しない」にチェックを入れればいいと思う。
こうすれば、ブクマのページ(「http://b.hatena.ne.jp/entry/~」で始まるページ)でコメントを閲覧することができなくなり、前述した「掲示板化」の機能がなくなることになる。これで、物見高いだけの連中はコメントしてもそれを他人に見てもらうことができなくなるので、「なあんだ」と帰ってしまう可能性が高い。やったことがないのでわからないけれど、ブログの書き手本人だけは、ブコメを見られるのかもしれないけれど、そんなの見なくていいしね。あ、もちろんこの場合は、通常の「ブックマークコメント」欄は閉じておくべきだけれど。

ほかに炎上を防ぐ手立てとしては、コメント欄のアクセス管理とか、地味に、「ツイートボタン」や「ブックマークボタン」を削除することかも。あと、「詳細設定」→「検索エンジン最適化」で「検索エンジンに登録させない」をチェックすることで、予期せぬ炎上を防ぐこともできる。そう、はてなブログならね。

とりあえず思いつくのはこんなところかな。

*1:もっといえば、Google Chromeはてブ拡張なんかをインストールしていれば、もっと閲覧はしやすい。他のブラウザやスマホはわからない。

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閑話休題的に。

僕の場合、ブックマークして直接アクセスしていたからこの廃止について気づいていなかったのだが、いづれそれも無理になるみたい。

はてなとしては、「購読中のブログ(http://blog.hatena.ne.jp/-/antenna)」を利用してはてなブログをチェックしてくれっちゅうことなんだろうけれど、あのページ、縦に膨らんでしまってちょっと読みづらいんだよな。
僕は購読数が少ないけれど、多い人はきっと何十、何百と購読しているわけでしょ。それをフォローできるのかっていう話。
あと、各ブログについて「過去7日間の記事」だけは複数表示されるんだけれど、これも縦に膨らむ原因となってしまい、それをいちいちスクロールして、しかもページ遷移してまでチェックするかね、ってワタクシなら思いますよ。
解決手段としては、「購読中のブログ」のページじたいをRSSリーダーに放り込んで、リーダーでチェックするというのがある。これは限定公開のブログについては機能しないし、ダイアリーについては無視だもんね。

ということでちょっと考えたのは、はてなリーダーみたいなアプリをつくればいいんじゃないか、ってこと。
いや、スマホどころか携帯電話も持っていないのでいまいちアプリの概念を理解していないんだけど、たぶんchrome拡張と同じようなものなんだろう。たぶんそうだ。きっとそうだ。
はてなスペースchrome extensionsがあるけれど、あれと似たようなもので、各ブログの更新のたびに通知すればいいんじゃないか。
もちろん各ブログについていちいちをリストアップしていくと、やっぱり数十数百を購読している人は辛いだろうから、そこはオプションでカテゴリー分けできるようにすればいい。「よく読むやつ」とか「ときどき読むやつ」とか「つきあい上、購読したけれど一生読まなくていいやつ」とか。

  1. よく読むやつ
  2. ときどき読むやつ
  3. つきあい上、購読したけれど一生読まなくていいやつ
    • そして明日はこない
    • αααααα
    • ββββββ
    • γγγγγγ

この1. 2. 3. ……について通知すればいい。
ついでに、はてブのお気に入りとか、ダイアリーも一緒にまとめられるようにすればいいんじゃないか、と飽きてきたので最後はかなり適当。
あ、でも、PCの場合はとりあえずタブをどんどん開いていけばいいんだけれど、スマホから見ている人は、いちいちをチェックするのはめんどくさいのかな? どうなんだろう。よくわかんないや。
とりあえず、feedlyつかえば、限定公開ブログ以外はチェックできるから、それが今のところいちばんいいのかな。

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前の記事のコメント欄で、とある名前に対しての僕の偏見を書いたのだが、それはおそらくいままで視聴してきたテレビドラマやマンガなどからの勝手な連想であり、当然、実在の人物とはなんの関係もない。

が、きなこさんのところの関連記事を読んだうえで、新たに思ったことがあった。
現在のさくらちゃん・美咲ちゃん・凛ちゃんに見られる名づけの潮流の変更は、もしかしたら過去の名前に対する訣別なのかも、と。

くだんの名前に対してはしつこくなってしまう+失礼になってしまうのでもう言及しないけれど、たとえば、「みっちゃん道々~」とからかわれたであろう「ミチヨ・ミチコ・ミツコ・ミツヨ……」さんたち。あるいは、両親に当時の女性のあるべき姿としての従順さを求められた「順子さん(「きみの名を呼べばぼくは悲しいよ!」)」とか、同じく貞淑であることを求められた「貞子さん」とか、実際にその名前で生きてきた方々が、次世代の娘には自分のような名前でその人生を縛らないようにしよう、と考えたことも、もしかしたらあったのかもしれない。
つまり、僕がある名前に対して無根拠なイメージを抱いたように、この国の歴史・風俗上発生した、いろいろな名前にまつわるイメージ(正負両方とも)を仮に「名前の持つ呪術性」と名づけるのであれば、そこから解放されたい、と思った人も一定数いるのではないか、ということだ。
その結果が、今までになかった名前の創出*1であり、もちろんそこに「他人に見せつけるため」という当世特有の価値観も加わり、いまのキラキラネーム流行(って実際にどこまで流行っているのか知らないけれど)につながっているのだと思った。

現代人が考える以上に名前は重要で、だからこそ僕は、よほどのことがない限り他人の下の名前を呼ぶことはないのだが、しかしそういう考えももはや古くなっており、仲良くなるための一手段として、ファーストネームで呼び合うという慣習も徐々に日本で広がっているのかもしれない。いづれにせよ、おっさんが若い女の子をつかまえて「○○ちゃん」と下の名前で呼ぶのは、どうにも気持ち悪いんだよなあ。それだけで僕は、雑な感覚の持ち主と決めつけてしまう。

*1:といっても、ここに来るまで二世代は経ているはず。

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前回のつづきみたいなもの。


どこのこさんからいただいたコメントで、平安時代は「名を訊く」というのがプロポーズだった、ということが書かれてあって、ああなるほど! と思った。
まことに知識のないうえで書いてしまうのだが、当時の女性の名前は、ほとんどの場合、記録に残っていない、というようなことをどこかで読んだことがある気がする。それでは、当時の宮廷の女性は名前がなかったかというとそんなことはなく、家族くらいしか知っている人がいなかったのだろう、という由。それだからこそ、名を尋ねるということがひとつの重大な行為になったというわけだ。

このコメントで、待てよ、と思い浮かぶ歌があった。本棚へ行き、本を取り出してみる。あったあった。

隼人(はやひと)の名に負ふ夜声いちしろくわが名は告(の)りつ妻と恃(たの)ませ

柿本人麻呂作。大西巨人による解説(そもそもこの歌を知ったのは『神聖喜劇』の中に出てきたため)では、「あなたのプロポーズにお応えするべきことを、私は、こんなにはっきり言いました。この上は妻として頼りになさいませ」とある。つまり、プロポーズ(名を尋ねる)に、名を告げることによって応える、というやりとりが歌になっているわけである。ロマンティックですなあ。

名前と言えば、ファンタジー小説ゲド戦記』においても、ひとりひとりは真の名を持っているがそれを明らかにしない、という重要な設定があった。
だからゲドは、通称としてはハイタカを名乗っている。あるとき、カラスノエンドウ(これも通称)を友と認め、彼に「ゲド」という真の名を告げる、というシーンがあったと記憶しているが、これもまたロマンティックな場面である。


どこのこさんのコメントに対しても書いたのだが、恋愛に限らずとも、婉曲表現の真髄はセクシーさにあると思っている。あるいは、粋ということ。
粋は当意即妙でなければならず、これと決まったやり方がないから難しい。その反対が野暮だ。
これは個人的嗜好の範疇のことなのかもしれないが、僕は好きな感じの女性に対して「かわいいね」とか「きれいですね」とは絶対に言わない。僕が「かわいい」と言う場合は、犬(※猫ではないところが重要)とかちっちゃな子どもに対しての「はいはい、かわいいねー」くらいの意味しかないが、それでも言わないと思う。後者の「きれいですね」も、容姿については言わないと思う。大苦渋の選択として、ここはもう世辞のひとつも言わんと切り抜けられんという場合以外は、ない。
それではなぜ言わないのかというと、めちゃくちゃ野暮ったく下品以外のなにものでもないから。こういうのを軽々と言えてしまう人(女→男の場合も)は、センスないと思う。つきあいたくないな。

でも、その野暮が現代を跋扈しているような気がする。思いは、秘するより伝えることにこそ価値がある、とよく喧伝されている気がする。
そこにいい側面がないわけではなかろうが、それだけじゃ面白くないし、文化の逆行のようにも感じる。

……と、いま急に思いついたのだが、現代においてもやはり歌を贈るというのは有効なのではないか。三十一文字に相手の名前を読み込んだりして。
たとえば、相手がアサミさんだったら、下七七を「朝見し空に月は浮かべり」とするとか、相手がヨシコさんだったら、「川水清し子どもら遊び」にするとか、いろいろとやりようはある。いや、別に知り合いにアサミさんもヨシコさんもいないけれどもね。
ちなみに、ネットで簡単に調べたところ、年代別の女性名ランキングは、以下のとおり。
まずは、僕の年齢に近い現在四十歳の人たち。

1974年生まれ
  1. 陽子
  2. 裕子
  3. 真由美
  4. 久美子
  5. 純子
  6. 智子
  7. 優子
  8. 美香
  9. 恵美
  10. 美穂

うーん、やっぱり馴染みの深い名前ばっかり。「~子」が半数以上ある。
次は三十歳。

1984年生まれ
  1. 麻衣
  2. 裕子
  3. 麻美
  4. 美香
  5. 智美
  6. 美穂
  7. 麻衣子
  8. 友美

「~子」がふたつしかランクインしていない。それでもまだまだ対応できる範囲。
次は二十歳。

1994年生まれ

1. 美咲
2. 愛
3. 萌
4. 愛美
5. 遥
6. 千夏
6. 彩香
6. 葵
9. 舞
9. 麻衣
9. 桃子
かろうじて「~子」がひとつ。たとえば「愛美」は、「まなみ」なのか「えみ」なのかはわからないけれど、そういう「多訓性」が好まれているのかも。
こうなったら念のために十歳も調べてみるか。

2004年生まれ

1. さくら
1. 美咲
3. 凛
4. 陽菜
5. 七海
5. 未来
7. 花音
8. 葵
9. 結衣
10. 百花
10. ひなた
げ、源氏名っぽい。「さくらで~す!」「美咲で~す!」「三波春夫でございます」って感じだなあ。それでもなんとなく読めてしまう(=慣れつつある)のがすごい。もはや「~子」は昭和の名前か……。

凛と咲くラムネソーダの泡ふたつ かもめ岬のカフェのテラスで

はい、これでトップスリーはまとめていっちょあがり。
この話、もうちょっとつづく(はず)。

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ラジオを聴いていて、ときどきよくわからないことがある。
CMで、よく「これを飲めば、朝もスッキリ」というフレーズが遣われるが、具体的にはなにを意味しているのか、ということ。

  1. 寝起きがよくなる
  2. 快便が望める
  3. その他

1. は、寝起きが悪くて困っていて、なにかを買って飲まなくちゃならんほど、というのがいまいち信じられない。
おそらく2. っぽいと思っているのだが、それならば「お腹がスッキリ」みたいに言った方がよりわかると思うんだけどなあ。
回春剤的な意味合いがあるのかなあ、という可能性も捨てがたいので、3. も用意したのだが、実際にはなんなのだろう。

回春剤といえば、「男性に必要な元気」などというフレーズが、ある種のサプリメントのCMで遣われる。この「元気」はおそらく一般的な意味での「活発である」という意味ではないだろう。つまりその……アレだ。

この「アレ」という言い方が面白いな、と最近考えた。
落語に『短命』という噺がある。以前にも書いたあらすじを引用する。

男が隠居のところへ悔やみの教えを乞いにやってくる。とある店(たな)にやってきた婿がまた死んで、これで3度目だという。隠居は、3人もの夫に死なれた娘というのはどういう娘だと男に問う。男が言うには、その娘は別嬪で気立てもよい。隠居がつづけて問う。
「その娘と婿の仲は?」
「これがもう、3人が3人とも、その娘はんとは近所で評判の仲のええ夫婦でしてな」
それを聞いて隠居、「ううむ、なるほどな。それだけでも短命だということがわかるな」
隠居が説明するには、美人の妻をもらった旦那はコトに及び過ぎてしまい、結果、早死にしてしまうという。それを聞いて納得した男、家に帰って自分のおかみさんの顔を眺めて、「ああ、おれは長命だ」(サゲ)

この隠居が男に対して説明するところが、噺の一番の笑わせどころである。
隠居「『なによりもそばが毒だと医者がいい』と昔から言うな」
男「ええ? そばが毒なんですか。そら今度からうどんにしよ」
「そうやないがな、そのそばとちゃうわ」
「ほな、なんですかいな?」
「若旦那が別荘に出養生(でようじょう)したとき、娘さんはどうした?」
「そら、一緒に行きましたがな」
「うーん、『出養生、毒も一緒に連れて行き』っちゅうやっちゃな」
「なにが毒でんねん?」
「ここまで言うてわからんか? 早よ言うたら、その娘さんが毒や」
「え? その娘さんが毒の息吐くんか?」
「そやないがな……。ふたりで茶ぁ飲みながら世間話、なんの気なしに手を出す。手と手が触れる。人情として手元にぐぅっと引き寄せる。目と目が合う。にこっと笑う。えくぼがぺこっとへっこむ。相手はべっぴんや……な? ……どうしても、命が短かなるがな」
「なんで?」
「ここまで言うてわからんか?」
「わからん。できれば手取り足取り教えてほしい」
「イヤやがな、そんなん」
「もっぺん教えて」
とあと二回そのくだりを繰り返してやっとその男がわかるというその男の鈍さを笑う場面なのだが、これを隠居が「つまりヤリすぎや。ヤリすぎで死んでもうたんやな」と言ってしまえばなんの面白みもない。
隠居が、その「ヤる」という言葉をなんとか回避して相手にそれとなく伝えようとし、しかしそれが伝わらない、というのがこの笑いのミソなのである。

同じく落語『鹿政談』で、豆腐屋が出てくる。このとき、「豆腐屋の亭主その手で豆を挽き」というバレ句が紹介されることがあるが、これ、最初に圓生のもので聴いたときは、いまいちその意味がわからなかった。バレ句だということはわかっていた。圓生がこれを紹介したのちに、「あたしにはなんのことだかサッパリわかりませんが」とつけくわえてお客さんがげらげら笑うからである。
で、いろいろと調べたり、あとは圓生の艶笑噺(いま気づいたけれど、同じ「えんしょう」だ)で『品川の豆』を聴いて、ああなるほどぉ、となんとなく気づいた。豆ってのはつまりアレだな……とここでもまたアレが出てきた。

アレ。便利な言葉である。いろいろな言葉を指し示すことができるが、年を取って言葉が出てこなくなる場合でなければ、アレには淫靡な匂いが漂う。
ここで気づいたのだが「あれ」の他にも、それ、あそこ、もの、なに、する、やる、など簡単な言葉ほど多義的である。
ちょっと考えただけで

「なにする?」
「ナニしようか」

という艶笑噺(もちろん、イントネーション次第ではただの会話にもなる)が即席でできてしまう。これ、外国人にわかるだろうか。

モノ、と言えば、Mr.Childrenの『光の射す方へ』の以下の部分をずっと誤解していた。

夕食に誘った女の
笑顔が下品で 酔いばかり回った
身振り手振りが大袈裟で
東洋人の顔して 西洋人のふりしてる


ストッキングを取って すっぽんぽんにしちゃえば
同じもんがついてんだ

この「同じもん」の意味を、(西洋人のふりをしているけれどやっぱり東洋人女性と)同じもんがついている、という意味に解釈していたが、これって本当はニューハーフの話じゃんか、と気づいたのは去年くらいのこと。いやあ、ワタクシも相当鈍いな。
しかしこの部分が、

ストッキングを取って すっぽんぽんにしちゃえば
僕とおなじように男性器が下腹部に存在していたのだ

という歌詞だったら、全然よくないということはわかる。やっぱり直接的表現を避けるところに文化が存在するということなんだろう。
そしてまた、多義語の性質を活かして淫靡な笑いを催すというのも文化的行為なのだろう。

百人一首にある『逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり』の「逢ひ見る」は、ずーっと「相手と逢う」程度に思っていた。あなたとお逢いしてからのことを考えたら、それ以前のことは全然ものを考えていないのと同様でしたわ、みたいな解釈。
しかしこの「逢ひ見る」って、僕が思っていたのと全然意味が違うわけだ。
……と、ここで中学校あたりの授業風景を思い浮かべる。

生徒「先生、この歌の『逢ひ見る』って、『逢う』ってことじゃないんですか?」
先生「……ああ、ううん、そうだな。厳密に言えば違うな」
生徒「じゃあ、ゲンミツに言うとなんなんですか?」
先生「ええとな、そうだな……ええと、『仲良くなる』ってことだな」
生徒「喧嘩してたんですか? それで仲直りしたんですか?」
先生「いやそうじゃない。そういうことじゃなくて……『結婚する』ってことだ、うん」
生徒「結婚式の前後のことを詠っているんですか?」
先生「いや、そうじゃなくて……つまりそのなんだ、『一緒に寝る』ってことなんだよ」
生徒「一緒の布団に寝ると、そんなに考えが変わりますか?」
先生「いやその、ふつうに寝るのではなくてなあ……ええい、古語辞典にはなんと書いてある?」
生徒「はい、weblioには、『1. 対面する。』とあります」
先生「それじゃないな、次」
生徒「『2. 契りを結ぶ。』です」
先生「う? それも、ちょっとニュアンスが……次」
生徒「次はないです」
先生「え?」
生徒「次はないです」
先生「じゃあ、2か。『契りを結ぶ』ってことだ」
生徒「なあんだ。約束したってことですか」
先生「約束……それもちょっとなあ。weblioで『契りを結ぶ』を調べてみろ。今度は現代語辞典でかまわん」
生徒「はい……ありました。『1. 約束を取り交わす。つながりを持つ。 』です」
先生「それも違うな。次」
生徒「『2. 夫婦の縁を結ぶ。また,義兄弟の関係を結ぶ。』って書いてあります」
先生「『夫婦の縁』だぁ? ったく、なにをまどろっこしいことを書いてやがんだよ、チクショウめ」
生徒「あ、先生? 『契り』のところを参照しろって書いてありますよ」
先生「おし、じゃあ参照してみろ」
生徒「ええと……あ、ありました! 2. に、『男女が肉体関係をもつこと』ってあります」
先生「それそれ! それが『逢ひ見る』だよ! わかったか?」
生徒「なあんだ、『ヤる』ってことかぁ」
他の生徒たち「ああ、セックスの話ね。それだったらそう言えばいいのに」


かく言うワタクシも、文化的環境で育ったせいかどうにも直接的な物言いが苦手である。
女友だちと話していて「セックスのとき」とか、もうちょっと穏当に「一夜を過ごしたとき」とか言われると、「うぇ?」ってなる。ていうか、それをおれに話すなよ、と。思春期をとっくに過ぎており、自分とはまったく関係ない事象ではあるのに、なんだかドギマギしてしまう。自己分析するに、女の子にそういう話をフラれると、照れ隠しのせいかわからないが「愛」とか「優しさ」とか曖昧な抽象名詞を頻繁に遣ってごまかす傾向がある。かといって、「ふむふむ……それで?」と鼻の穴をふくらませて聞くのもおかしいしねえ。

プロポーズも隠語というか、直接表現を嫌うみたいなところがある。少なくとも、間接照明と一緒で、間接表現の方がオシャレ感を醸し出す、とされているのだろう。
古くは「毎日、おれのために味噌汁を作ってくれ」か? 現代なら、「え? それって毎日インスタント味噌汁をくれってこと?」と本気で聞き返されそう。「毎日、おれの下着を洗濯してくれ」ってのもあったっけ。これも、「え? 自分で洗えないの?」って聞き返されそう。ここらへんの時代錯誤野郎って、実はまだ一定数はいそうだと僕はふんでいるんだけど、どうなんだろう。
最近ラジオで聴いたのは、花火大会のときに「これからも毎年、この花火を観に来ない?」と言われて結婚し、それから毎年同じ花火大会に夫婦で行っている、というのがあって、これはシンプルでいいなと思った。いや、シンプルといえば、単純な「結婚しようか」でいいと思うんだけどね。

他にどんなプロポーズ(男→女)があるのかな、と考えてみた。
農家だったら、「来年の作付け、きみも考えないか?」か。どうせ提案しても聞き容れないんだろうけれど。
漁師だったら、「おれの獲ってきた魚を毎日食わせるぜ」か。なにかの強制みたいだけど。
銀行員だったら、「口座をもうひとつ作ることができるけれど、どうする?」か。全然意味がわからないし、聞きようによっちゃ振り込め詐欺の片棒を担ぐって言っているみたいなもんだ。「え、金利は倍返しなの?」みたいなちょっと古い「返し」をされたりするかも。
IT関連で働いていたら、「きみのブログ、PVを水増ししてあげようか? え、ツイッター? 余裕でフォロワー増やしてあげる」
警察官なら、「きみとの取り調べだけは、永遠に可視化はさせない」

こうなるともうアレですな、ナニしたほうがいいくらいです。

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日をまたいでしまったので、きのうの話のことになる。


今朝、カーステレオでFMラジオを聴いていたら、井上陽水の『少年時代』がかかった。

なんかグッときた。夏の終わりを感じさせる、ということももちろんあったけれど、それだけじゃなかった。
次にかかった曲は、(YouTube上にはなかったが)怒髪天版『夏のお嬢さん』で、これには腹を抱えて笑ったけれど、でもそれは彼らが真剣に「チュウ、チュウチュチュ!」と怒鳴り唄い上げていることによる面白さで、なんだかそれにも感動してしまった。「グッとくるモード」になっていたのだと思う。

午前六時半。約束の場所に着き、文庫本を読みながら取引相手を待った。ドラッグとか拳銃の取引だとかいうのなら、時間はもっと遅く、深夜のはずだ。もう誰も使っていない(少なくとも使われているのを見たことがない)二階建て倉庫の下のベンチに腰掛け、僕は野菜を売る相手を待っていたのだ。
五年の歳月をかけて書かれた小説の中で、江戸時代に生きる主人公も五年の歳月を経て成長していた。この小説を読んでいて、当時は天災というのは、本当にいつやってくるのかわからない災厄であり、だからこそ神仏や迷信のたぐいが生活の中に強く根を張っていたのだろうということがうかがわれた。
だが、実際に今朝だって広島では「記録的」な土砂災害に見舞われ、朝のニュースの時点で十数人(現時点でわかっているところで三十数人)が亡くなったという。台風12号と11号をやっとやり過ごしたというのに、そのあと福知山を中心にして起こった水害のことも考えると、川沿いに住んでも山沿いに住んでもどちらが安全と言うこともできず、地震津波のことまで考慮してしまえば、現代に生きるわれわれだって、ある程度の予測はつくようになったものの、災害に対して、「無力」が「微力」になった程度の力しか持っていないのではないか。楽天的でいられる時代はもう終った、という感覚が三年前からある。関西圏居住者であれば、それは二十年近く前からあったのかもしれないが。

商売が済み、帰りの車でまたラジオをつけた。番組が変わり嫌いなDJになっていたが、音楽に罪はない。レキシ『年貢 for you』MAGIC!『Rude』が連続してかかり、イントロから昂奮する。それからちょっとして、テイラー・スウィフトの『We are never ever getting back together』。

このイントロが流れた瞬間、やはりシビれた。何ヶ月か前、この曲をずっと聴きつづけていた時期があって、そのときの「空気」みたいなものが一気に蘇り、涙が出そうになった。特に悲しいことがあったとか、特に辛いことがあったとか、そういうことはない。ノスタルジーやなにかの思い出もなかった。ただもう、なんだか無性に胸にじいんとするものを感じたのだった。
知っている音楽が流れて、それを聴いているというだけだったが、藝術というものはやっぱりすごいという感動があった。うまく説明できないのだが、僕が朝も早よから車をかっ飛ばして商売しに行くことが、回り回って藝術家という人たちの懐に金が舞い込むという仕組みになっているなら、まったく不満はないという思いがあった。
音楽を聴いて僕の腹が膨れるということはないが、そういうのとはまったく違う次元で、音楽を必要としていたのだと気づいた。だから、きょう聴いていた音楽を記録しておきたいとそのときに思った。

仕事場に戻り、ウォークマンを装着した。広沢虎造『石松三十石船道中』がかかる。「旅ゆけば~」「バカは死ななきゃ治らない~」「江戸ッ子だってねェ」「食いねェ食いねェ寿司を食いねェ」などの聞き馴染みのあるフレーズもさることながら、まず物語、というか展開が面白い。聴くのはもう四度か五度目になるが、いづれ笑福亭鶴光が落語にしてくれるのではないか、と期待している*1。もう少し時間が空いたら、浪曲や講談を聴き込んでみたいな。

あとはツタヤのディスカスでレンタルしたものがランダムに流れていく。印象派(ユニットの名前)のアルバムを聴き、首を傾げる。『Endless Summer』みたいな曲はいいのだが、ただ歌詞が気になる。実際に歌詞すべてを聞き取れたわけではないが、charisma.comのような、いわゆる「dis」のニュアンスをウリにした雰囲気が感じられる曲もあって、そこにつまらなさを覚える。
こういうガールズ・ユニットは、基本的には可愛らしさをウリにすることが多いと思うのだが、そういう「お人形」扱いに対するカウンターアクションとして、たとえばcharisma.comの新アルバム『DIStopping』中の『スーパーガール』の歌詞「フリルスイーツとか反吐が出そうさ*2」に代表されるような、「わたしたちって、そんなんじゃないわ」という感覚を前面に押し出している、とその背景はなんとなく理解できるのだが、だけれどもそれって、なんだか小さな枠内でポジからネガに変えているくらいの小さな挑戦、いやもっと言えばスタンドプレイにしか映らなくって、最初は物珍しさから好奇の目で注目されるのかもしれないが、やがてそれに慣れてしまえば、簡単に飽きられる程度のものなんじゃないかと思っている。
charisma.comであれば、ケツメイシ『夏の思い出』とか初期ハルカリの影響が色濃いという注意書きはつくものの『OLHERO』(YouTube上にはない)みたいな曲のほうが、『HATE』の歌詞世界なんかよりよっぽど面白いと思う。

私はOLの端くれだから
あなたにはわからない歌を
ドレミファソラシ このままじゃ不満底無し
あなたはたかだかOLの端くれだからって
バカにしてるそっちのけ

なんていう部分は、働く女としての矜持や、それに対する心ない攻撃がさらって唄われていて、いいんだけどな。ただし音楽そのものだけであれば『HATE』も面白いが。
印象派についても、charisma.comに似ている部分が感じられて、今後が少し心配。今のままでは「メンヘラ」「dis」「こじらせ」等の僕の嫌いな文脈でしか語られない音楽を脱することができず、そのままで終ってしまうんじゃないか。

きのうYouTube上でチェックしたばかりのテイラー・スウィフトの新曲。


Shake it off

キャッチーなサビ部分もそうだけど、やっぱりPV後半部(3:08以降)のみんながダンスするところが非常にいい! これって、プロのダンサーが踊るんじゃなくて、素人の人たち(たぶん)が楽しそうに踊るからいいんだ。
AKBの『恋するフォーチュンクッキー』とか、ファレル・ウィリアムス『Happy』なんかも同じ理窟。両者とも二次創作というか、自分たちで動画をアップすることが流行って、そのだいたいが観ていてたのしい。日本でも、『Happy 原宿版』『Happy 石巻版』は面白かった。ただし、日本版(公式?)はクソ。内輪ウケ狙った感じなのか、全然面白くない。蛇足になるが、イランで『Happy』の動画を作って当局に拘束された人たちはその後大丈夫なんだろうか?(調べたら、一部は解放されたみたい)
僕が去年の夏に聴きまくっていたアーランド・オイエの『La Prima Estate』も似たニュアンスで、やっぱりアマチュアっぽい人たちがたのしそうに踊っている。

これらをひっくるめて当世風に言うと、ダンスを「シェアする」みたいな感覚なんだろうか。ダンスを通じて、言葉の垣根を超えたコミュニケーションで世界中の人たちがつながることができる、みたいな感覚が動画作成者たちにはあるのだろうと思う。
でも、そういう共有欲とも呼ぶべき欲望以前に、人間は踊りたいのではないか。
アマチュアの人たちがダンスしている動画が訴えているのはつまり、「あなたも踊ったら?」ということなのである。ダンスはダンサーのものだけではなく、みんなのものなのだ。そのことが急に僕の頭に閃いて、僕は誰もいない事務所の中でフィンガースナッピングをして、軽くステップを踏んだ。『Shake it off』を聴きながら。

そのあとも音楽は流れていた。耳に残るもの、そうでないもの。なにか考えていることに集中しているときは、音楽は外部のノイズをシャットアウトするだけの装置になってしまう。そういうときは時間の経つのも早い。Coldplay『A sky full of stars』マイケル・ジャクソン『Love never felt so good』寺尾紗穂『A case of you』羅針盤『せいか』、EVISBEATS『いい時間』などなど。

最近レンタルして録音したばかりの大貫妙子のトリビュート・アルバム(二枚組)は、全曲で二十一曲しかないというのに、『突然の贈りもの』『色彩都市』がそれぞれ三曲入っていて、たしかにいい曲なのかもしれないけれど、さすがにしつこく感じたり、また、細野晴臣のトリビュート・アルバムを聴いていて、はじめて『風の谷のナウシカ』のテーマソングが細野の作曲だと知った。「へえ」以上の感慨を出るものではないが。

家に帰って来て、tofubeatsの『No.1』の「unofficial」版を観る。

で、最後にユセフ・ラティーフ『Love Theme From Spartacus』で、きょうはおしまい。

なんの変哲もなかったが、ただ、誰にも知られずにそっと指を鳴らし、そして踊った日だった。

*1:偶然にもきょう鶴光のブログで、創作落語はしないのだが、講談や浪曲を落語に変えるのに取り組んでいる、ということが書かれてあった。僕がテレビで観たほとんどのも「左甚五郎もの」で、非常に面白かった。

*2:これはそのまま、アルバム特設サイトのキャッチコピーとなっている。

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腹が立つなあ。

どうやら夏休み中のアホな学生が、このブログのある記事を「読書感想文」の参考にしているっぽい。たぶんコピペのソース(の一部)。そういう検索でのアクセスが、微々たるものだが見受けられる。

ちょっと前に、前のブログに書いた「on your mark」のPVについての記事が、いくつかリツイートされていたのだが、それが「原発問題を隠蔽するために、チャゲアスのCDが店頭から消えたのだ……」みたいな陰謀論と絡められていて、書いた人間としてはそんな意見の「参考資料」として利用されることに非常に腹が立った。
あの撤去問題は事勿れ主義でイヤだと思ったが、アスカ(Askaとか書かれているのを見るとバカみたいに思えてくる)が薬物所持・使用で逮捕されたから行われたのであって、原発問題は関係ないでしょ。でも、そういう意見の人に引用されてしまうと、僕までがそういう意見を持っているように見えてしまう。

ブログを公開していることの限界を感じる。

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