とはいえ、わからないでもない

2014年09月

編集

マフラーがぶっ壊れているんだかなんだか知らないが、ものすごいうるさい音を響かせてうちの仕事場のそばを通り過ぎるバイク乗りのおっさんがいる。
そのおっさんの乗っているスクーターはおそらく原付以上の排気量で、本来ならもっとスピードが出るはずなんだが、エンジン部もぶっ壊れているのか、20km/hくらいしか出ない。しかも、なぜか恰好だけはフルスピードを出しているかのような前傾姿勢でいて、それが二重に腹が立つ。

やつがやってくるのは、やつの登場するずっと前からわかる。遠くの方から音がし、しかしそれがなかなかあらわれないのだ。
プォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンという音を遠くのあたりから、ずううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううっと聞かされていると、頭がおかしくなりそうである。
しかも、なんの用があるのか、その道路を一日に何回も行ったり来たりすることが多く、そのたびに「うるせー!!」と叫びたくなる。
いっぺんマフラーのなかに角砂糖でも放り込んだろうか*1とも思うが、なにせ隣ムラのおっさんのことだから、どこに住んでいるかもわからない。

きのう、たまたま隣ムラに行く用事があって軽トラを駆っ飛ばしていたときにそのおっさんとすれ違った。もちろん、「爆音」は登場するずっと前から聞えていた。
仕事場から遠く見やるだけだったので容貌はなんとなくしか把握していなかったが、正面からはっきりと見ると、ヘルメットの下にあったのは三遊亭円丈そっくりの顔。いや、十五年ほど前の円丈というところか。

f:id:doroteki:20140930065549g:plain

今度、「落語できますか?」って訊いてみようかな。「できるで」と言ったら全部許す。

*1:はだしのゲンでそんなことをやっているのを読んだことがある。たしか壊れるんじゃなかったか。

編集

夜と霧 新版

夜と霧 新版

フランクル夜と霧』(新版)を読了。旧版との差異をうんぬんする意見もあるようだが、あとがきを読むに、旧版の既読/未読にかかわらず、新版は読んでおいたほうがよいだろうと判断した。


第二次世界大戦中、ドイツでの強制収容所の体験を描いたあまりにも有名な本書は、百五十ページちょっとであり、単純に分量だけでいえば数時間ほどで読めてしまうだろう。
けれども僕は、何度もページをめくる手を止め、顔を上げ、胸の中に去来するいろいろなものごとが思い起こさせることについて考え、それらをときにメモしたりしたために、読み終えるのに必要以上の時間がかかった。
「必要以上」というのはもちろん、一番シンプルな意味での「必要」ということであり、「機械的に読んだとしてかかる時間」以上を意味しない。
読書はつっかかったり、迷ったり、読み進められないところにも意味があると僕は考えているので、広い意味において、すべては必要な時間だったといえる。

で、この本についてなのだが、どんなに小さなエピソードもここには引用しないと考えた。
そこには感動的なものもあれば、ぞっとするようなものもあった。本書や類書を読んだことのない僕のような人間は、これらのエピソードから相当の衝撃を受けることだろう。
しかし、そうすることによって引用者である僕は、いったいなにを得るというのだろうか。
「有益な情報」を「シェア」できたと、自分を誇らしく思うのだろうか。または、他人を啓蒙できたと、悦に入るのだろうか。あるいは、自分が「高尚」な本を読んでいることを自慢できた、と自己満足をするのだろうか。
僕には、これらの行為が他人の不幸をダシにしたある種の自己アピールに見えて仕方がない。

ここに書かれているのは、実在した人たちに降りかかった本当のことである。
教科書にあるような「強制収容所では百五十万人が殺された」という記述には、実はあまり意味がなく、東日本大震災直後にビートたけしが言った*1ように、個々人の死が百五十万回あった、という認識の方がより事実に近い。けれども、その認識すら事実とは距離があり、そのあいだには埋めがたい溝がある。
「死」は、名前を持ったある人物をこの世界が喪失することである。架空の人物がいなくなるのではなく、それまで何十年間を生き、何十人何百人の人間たちと関わりを持ったひとりの人間が死ぬことなのである。
それは、一行あるいは数行の記述で済まされるようなものでは決してない。元来、語りえない種類のことなのだ。
そういう死を真正面から取り上げた本書に対して、同様の経験どころか、もっと軽度の不幸すら味わったことのない僕のような人間が、「わかった」ような顔をして得々と語るとすれば、それはきっと非常に卑しい行為となるだろう。だから僕は、引用することはやめようと考えた。

けれども、上に書いたような下品さ・低俗さ・浅ましさをすべて引き受けてでも、ある部分を引用しようと思い直した。
それは、僕自身がときおり振り返るために必要だからであり、(その数はほとんどゼロに近いのかもしれないが)この記事を読み、以下の文章をひとつの希望に結びつけることができる人にとっても必要だからである。

ある違反者の引き渡しを拒んだ収容所全員(二千五百名)が、懲罰として丸一日の絶食が課されたとき、賢明な班長に指名され、心理学者である著者が、希望を失わないようその仲間に語ったところ。

(前略)
わたしは未来について、またありがたいことに未来は未定だということについて、さらには苦渋に満ちた現在について語ったが、それだけでなく、過去についても語った。過去の喜びと、わたしたちの暗い日々を今なお照らしてくれる過去からの光について語った。わたしは詩人の言葉を引用した。
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。


(137p-138p)

文章はここでは終わらない。そのあとにつづくことも非常に重要である。そして、ここよりももっと具体的に感動するシーンは他にもいくつもあった。だが、僕はここだけを引用しておく。


本書を読み、ごく単純に「よかった。感動した」という感想しか持たないのだとしたら、それは非常に貧しい感受性の持ち主なのだろう、とすでに本書を読んだ人間は決めつけるのではないだろうか。
しかし、これまで書いてきたように、ここに書かれていることは実際に起こったことであって、軽々と「語る」ことでもないということに気づいた者であれば、いわば消極的に「よかった。感動した」というものすごく単純な言葉にとどめておく、という選択肢にも気づくはずだ。
音楽や絵画などの言語とは違う構造を持つ藝術について、言語をもって語ることに限界があるのと同様に、われわれは事実を、事実以上ないしはせめて同等に表現することさえ苦手としている。
だから僕は、「よかった。感動した」程度で感想をとどめておく人を「これを読んでおいて、それくらいしか言うことないのかよ!」とは批難しないし、もし誰かに感想を求められたら、僕もそのように答えるかもしれない。しかしそのとき、次の言葉をつづけることは決して忘れないだろう。「もし読んでいないのなら、読むといいよ」と。
もし相手が既に読み終えていたり、あるいはそれからしばらくして僕の勧めたとおりに読み終えたときには、音楽のライヴや演劇の舞台を一緒に観終えた者同士のように、お互いに拙い言葉を用いて胸にある考えを慎重に、だが熱をもって伝えつづけるだろう。それはときによれば、何時間とかかるかもしれない。これは、そういう本なのである。

*1:東日本大震災を、「2万人が死んだ一つの事件」としてではなく、「1人が死んだ事件が2万件あった」と考えるべき、と発言した。

編集

嫌いなことば辞典、に挙げてもよかったのだが、一概にそうとも決めつけられない「で抜き言葉」。そんな言葉があるのかどうか知らない。勝手に名前をつけた。
簡単に説明すると、語尾の「~ですよね」というところの「で」を抜いて、代わりに促音をつける「~ッスよね」という言葉。これが好きではない。

二年ほど前、当時仲のよかった友だちの女の子と一緒にいるとき、その子が日頃腐している職場の上司と出会うということがあった。そのときその女の子が相手に対して「そうッスよねー」と相槌を打っていたのを見て、「あれま」と思い、ちょっとだけ失望したのだったが、これ、あとから考えてみて、仕方のないことなのかも、と思い直すところがあった。

僕はイヤな人間関係に対しては最大限回避し逃走しまくると決めて、それをもとに人生設計しているところがあるので、嫌いな人間と無理に話す機会は少ない。ただしその確率はゼロではないし、そういう没交渉人生はそれなりに高くつく部分がある。
一方、その女の子は、きちんとした仕事に就いているし、いくら好きではない人物とはい、毎日顔を突き合わせなければならないのだから、ぶすっとしているわけにもいかず、無視もできない。苦渋のおもねりとしてので抜き言葉なのではないか、とそう考えるようになったのである。

そう考えると、で抜き言葉にもそれなりの意味があることに気づき始める。
いわゆる「タメ口」を利くほど親しくもないし、かといって堅苦しくもしたくないときに「ッスね」と言う場合もある。緊張の緩衝材としてので抜き言葉。
少しは親しいのだが、それ以上に仲良くなるための、潤滑剤としてので抜き言葉もある。たしかマンガ『重版出来』のなかで印刷所勤務の女性が、出版社の営業の人に「(営業の人が読んでいるマンガを指して)それ、面白いッスよ」と言う場面があって*1、その言葉の遣い方がうまいな、と感心した。
あるいは、ネットやメールなどで少し突っ込んだ話題にするときに、青筋立てて主張しているんじゃありませんよ、と少しおどける意味合いを込めてで抜き言葉にする場合もあるだろう。これは、絵文字やら顔文字、(笑)、(汗)、(涙)などの記号と同じような働きをする。

てえことで、単なる若者言葉ではないようで、簡単に否定すべきじゃないということはわかったが、それでも僕は遣わないだろうな。

*1:本棚に行ってそのマンガを探してみたのだが、すぐには見つからなかったので、うろ憶え。

編集

まだ、だらだらと拘泥している。
声について、また思いついた順に、書き散らしてみる。


YouTube上の音源をごにょごにょしてそれを日中の作業中に聴いているのだが、そのなかでも、最近はラジオ番組の音源が聴いていてたのしい。
このあいだ、談志追悼関連の音源を探していたら、そのなかで中村勘三郎中村座で追悼の集まり(?)催していたのがあって、高田文夫談春志らく、談笑、生志が出ていてみんなでわいわいやっていて面白いものだったのだが、考えてみれば、談志が死んでしまって「寂しい」と漏らしていた勘三郎自身が、この追悼公演の十ヶ月後に他界している。だからその音源を現在聴く者は、談志のことについても寂しく感じ、同時に勘三郎のことについても寂しく感じることになるだろう。


例のサブカル関連の番組を観ていたら大滝詠一のとあるラジオ番組について言及されていたので、これまたYouTube上にある音源(90分×5)を聴いてみた。
大滝の声は初めて聴いたのだが、ほどなく「あ、これは落語好きだな」と感じた。どんなときにでも熱くならずにユーモアで切り抜けるような、かといって無視しがたい真面目さもあって、そんなことなんかどうでもよくなるほどの膨大な知識と考察力が特徴だった。そして、小沢昭一の音源を聴いたときと同じ感想が去来した。すなわち、「ああもったいない、少しでもリアルタイムで聴くことができたらなあ」と。

人間の声は、元気なときには元気に聞こえるもので、ものすごく当たり前の話だが、その人間がその後病気になったりあるいは故人となっても、音源に記録された元気なときの声は、ずっと元気でありつづける。
上記のようなことは小沢のときにも書いたのだが、やはり、ものすごく不思議なことに思える。

いま発した声は、取り消せないし、修正もできない。だから、発話者の人物が出やすい。ラジオ番組をずっと聴きつづけていると、発話者の隠しきれない性質のようなものが見えてきて、そこで明確に好悪を判断できる。
これは、非日常語のほうが日常語より他人になにかを喚起させる力を持っているということとはまた別のことだ。


大滝関連の音源を漁っていたら、山下達郎のラジオ番組に大滝が出演しているのがあって、そこで山下達郎があるライブ映像について言及するところがあった。

山下「ミュージックビデオたーくさん観ましたけどね、いちばん感激したのがエヴァリー・ブラザーズのロイヤル・アルバート・ホール(のライヴ映像)!」
大滝「わたしも泣きましたよ」
山下「あれ泣きましたよ、ほんとに。わたしゃ」
大滝「あれは、なんだか……ねえ」

山下は、「いちばん」をものすごく強調するものだから、より発声に近づけると、「いっちぶぁん!」って言ってしまっている。その発言を受けて、大滝がふだんのいい意味での軽薄さを少しだけひそめて、「泣きましたよ」と言うその調子と、さらにそれを受けて山下も昂奮して「泣きましたよ、ほんとに」と言い、それから少しふざけた調子を取り戻すようにして「わたしゃ」と言ってしまう言い方がものすごくよくて、聴いていて、なんだかじいんとしてしまった。
それからふたりは少しだけ熱くそのエヴァリー・ブラザーズについて語り、山下はそのあと、彼らの姿(ほんとうの兄弟なのだが、紆余曲折を経ての再結成したときのライヴらしい)が観ているものに感動を起こさせることについて、「音楽の美しさというか、パワー・オヴ・ミュージックというか、口はばったいことを言ったりしますがね……」と言っていた。
ここでまた「美しさ」という言葉が出てきて、僕は「お」となった。

山下の発言('86)は、時代と場所を超えて、上の記事に書いた宮沢章夫の太田省吾の芝居(『水の駅』)についての発言('14)、

僕は今まで89年までに演劇をかなり見てるつもりだけども、その中で一番美しい瞬間をその時見たという気がしたんですよ。

とものすごく似ている。
同じように「ミュージックビデオたーくさん観」てきた山下は、そのライヴ映像に感激して「音楽の美しさ」という言葉を発し、そこにおそらく多少の仰々しさを自身で感じたのだろう、わざわざ「パワー・オヴ・ミュージック」と言い換え、それから「口はばったいことを言うようだけど、」と言い訳じみた言葉をつけくわえている。上記記事で僕が書いたように、「幾分かの含羞とともにそれでも情熱をもって語られ」ていた。

比較的、の話だが僕は、現在の文章より過去の文章を読む方が好きで、それと同じように、現在の人たちの声より、過去の人たちの声を聴く方が好きだ。
ここに書いたことはきっと、文字では伝わらない。ひとりひとりの声の調子と響きで聴き分けられることは、書いて伝えることよりずっと豊かたで、そこに音源を――ある種の人たちにとってはとてつもなく時間の無駄と思われるかもしれないが――聴くことの意味があると考えている。

編集

上の記事の補足みたいなもの。また、某所へ心のトラックバック

エイス・オブ・ベイスだったか、カーディガンズだったか、アクアだったか忘れたが、ある北欧のミュージシャンが雑誌のインタビューだかでこう言っていた。
「自分たちの国の言葉で”愛している”と言うのは恥ずかしいけれど、英語で"I love you"と言うのはとても気軽で簡単」

日本語でも「愛している」という言葉を実際に発声するのには、克服しがたい気恥ずかしさがある。
まるで翻訳語を言っているような嘘臭さというか、「愛している」という感覚を、自分のなかに見つける日本人はそう多くないと思う。
中島みゆきのアルバムで『愛していると云ってくれ』というのがあったが、「愛している」なんて歌じゃなければとうてい言えない。いや、歌においてさえ、"I love you"でごまかしてしまうことがある。
と、尾崎豊の『I LOVE YOU』の歌詞をちょっと調べてみたら、面白いことに気づいた。

I love you 今だけは悲しい歌聞きたくないよ
I love you 逃れ逃れ 辿り着いたこの部屋
何もかも許された恋じゃないから
二人はまるで 捨て猫みたい
この部屋は落葉に埋もれた空き箱みたい
だからおまえは小猫の様な泣き声で

きしむベッドの上で 優しさを持ちより
きつく躰 抱きしめあえば
それからまた二人は目を閉じるよ
悲しい歌に愛がしらけてしまわぬ様に

I love you 若すぎる二人の愛には触れられぬ秘密がある
I love you 今の暮しの中では 辿り着けない
ひとつに重なり生きてゆく恋を
夢みて傷つくだけの二人だよ
何度も愛してるって聞くおまえは
この愛なしでは生きてさえゆけないと

きしむベッドの上で 優しさを持ちより
きつく躰 抱きしめあえば
それからまた二人は目を閉じるよ
悲しい歌に愛がしらけてしまわぬ様に

これ、相手には「何度も『愛してる』って聞」かれているのに、自分では「愛してる」とは言わずに「I love you」と言うだけなのよね。理由はきっと冒頭の北欧ミュージシャンの言説と同じなのだろう。まあそれに、「あいしてーるー、いーまだーけはー……」じゃなんとなくマヌケだもんなあ。

本当のことをいえば、「愛してる」なんかより、「好き」でじゅうぶん通じる。それを、欲張って「好き以上」を伝えたがるから、そこに胡散臭さや嘘臭さが混ざってくる。
「愛してるよ」なんて僕が言っていたとしたら、笑いを堪えて「愛の安売り」をしているときだけだろう、それも、「愛してる」なんていう言葉を面と向って言われても平然としていられる鈍い相手にだけ。

とどのつまり お慕いたしております とどのつまり お慕いしております
貴君でなければならぬのです

よりは、

やはり愛しています やはり愛しています
きみでなければ いけないのです

のほうが伝わりやすいし、されにこれよりも、

やっぱ好きやねん やっぱ好きやねん
あんたやなきゃ あかん


(やっぱ好きやねん - やしきたかじん

の方がよっぽど素直で、いい。
たぶん、文語より口語(=共通語)、共通語より方言のほうがより感情はダイレクトに伝えられるし、言っている方も、生の感情に近いと思う。

【追記】

政治家の言葉は文語(書き言葉)に近いので、だから胡散臭くてたまらないのだろう。
で、それに気づいた幾人かが、わざと、しゃべり言葉で国民(市民)に語りかけるのだが、それはそれであざとさが見えて、やはり胡散臭い。

編集

先週の水曜日だったと思うのだが、その日の朝六時半くらいに、僕は車をぶっ飛ばして人に会っていた。そしてその帰り道、カーステレオで聴いていたFMラジオで、DJが昂奮気味にこの曲を紹介していた。平賀さち枝とホームカミングスの『白い光の朝に』。


白い光の朝に / 平賀さち枝とホームカミングス

平賀さち枝の名前は偶然そのちょっと前に知っていたので、「お」とアンテナが立ち、イントロが流れてきた時点で、スピッツ『ロビンソン』を初めて聴いたときのような懐かしい感じが車内を支配した。
ただ、そのときは歌詞もよくわからなかったし、気持ちのよいメロディーとリズムが心地よく僕の心のなかに入ってきて、「ああ、ふつうにいい曲だなあ」と感じただけだった。

「きょう発売なんですけれど、いいでしょ、これ? きょうみたいな朝にぴったりじゃないですか!」
曲が終わると、DJが絶賛。そう言われてみると、たしかにきょうはよく晴れて光に包まれている朝だと思った。


一日の仕事を終えて帰宅してから、YouTubeで聴き直してみた。
平賀さち枝の声もそうなのだが、ホームカミングスのボーカルの声(なかなか聴き分けづらかったけど)も、ぞくぞくっとしてしまうような、ある種の壊れやすさを抱えていて、じっくり聴いていたら鼻の奥が熱くなった。
そんなことはないのだろうが、これは僕の「いつか通ってきた道」のことを唄っているのではないか、と思った。その時点でも歌詞は完全に把握していなかったが、こういう声とメロディとリズムとで唄われるべき時代を、僕はかつて過ごしたことがあったのではないか、そういう錯覚にとらわれたのである。
それから、何度も何度も聴いた。


二番の歌詞に、

愛しき言葉のメモ 過ぎ去った日に胸を焦がし
微笑んだ今日は美しく 道の先に犬が走る
ドアをいま開く時 今も思い出せる夜空を抱えて

という部分がある。特に、「微笑んだ今日は美しく」というところ。作詞者(平賀)は、どういう思いで書いたのかわからないが、僕はここにいちばん引っかかった。
「微笑む」「今日」「美しい」。いづれも、単純な言葉である。誰かが口にしたって、その場ですぐに消えてしまうような、そんなどこにでもある言葉だ。……けれども本当にそうなのだろうか?

「美しい」は、僕のなかでは文語である。古い言葉という意味ではなく、書き言葉ということであって、日常生活の会話ではなかなか出てこない単語、と思っている。
世代間の差は多少あろうが、「あの花、きれいだね」とは言っても、「あの花、美しいね」とはあまり言わないと思う。だからこそ、話し言葉の中にあっては特別な意味を持つ。
「微笑んだ今日は美しく」と唄うとき、それは特別な「今日」のことを唄っているのであり、それは間違いなく美しい日なのだ。


「美しい日」という言葉で思い出す曲がひとつある。ハンバートハンバートの『待ち合わせ』。


待ち合わせ / ハンバートハンバート

この歌の後半部の歌詞。

昨日はよく眠れなかった
頭だけがいやに冴えて
明日はきっと美しい日
最初で最後の子どもの恋

この「明日はきっと美しい日」という言葉の重さ。これまた非常に消え去りやすい言葉たちでできているフレーズだが、佐野遊穂の細くも強い声が伝えれば、明日はきっと本当に美しいのだろう、と思わずにいられない。


「美しい」という言葉に意識的になった瞬間を、いまでも憶えている。
十数年前の話だが、あるファミレスでジュースかなにかを飲んでいるとき、後ろの席で四十代くらいの女性がふたりしゃべっているのが聞えた。話題は、片方の女性の知り合いが飼っている犬の話で、詳細を忘れてしまったのだが、主人が病気のところをずっとそばについていて離れない、とかそういう類の忠犬ハチ公的な美談だった。
そのとき、それを聴いていたもうひとりが言ったのが、「美しい! ものすごく美しい話ね、それ!」
背を向けたまま僕は、なんとも言えないイヤな気持ちになった。後にも先にも、これほど気持ちの悪い不快な「美しい」という言葉を聴いたことがなかった。そしてこれを耳にしたときに、「美しい」というのは日常にふさわしくない言葉なのだということに気づかされた。発言した女性は、まさに「美しいエピソード」だと思ってそう言い、そこに羞恥心もなにもなかったのだろうが、それをそのまま発言してしまう安易さが聴いている僕にはとうてい受け容れられなかったし、聴いているこちらが恥ずかしくなった。


最近も、「美しい」と人が(書いているのではなく)話しているところを目撃した。目撃といってもテレビ番組の話である。

NHKEテレで「ニッポン戦後サブカルチャー史」というのがやっていて、それを撮り溜めしていたのをようやく最近になって観始めている。ちょうどきょうあたりに全十回のうちの八回目が放送されるようだが、僕は三回まで視聴した。
そもそも僕は「サブカル」という言葉が嫌いだし、こうやってある時代や文化を一括りにして論じるということもあまり好きではないのだが、マンガや演劇など興味のある部分が取り上げられるようだったのでそれほど期待せずに観始めた。そして、いまのところ意外に面白いと感じている。
が、やはりイヤな部分も感じている。

たとえば第三回において、六十年代を代表するマンガとして僕のバイブル『カムイ伝』(白土三平)と同時に、赤塚不二夫天才バカボン』が取り上げられていたが、それについてのコメントで、三十そこそこの女の子が、「『バカボン』は装置自体が無茶な表現が許されるフォーマット」とか「『バカボン』は(前衛的な表現を)みんなが面白いと思えるコンテンツに落とし込んだからすごい」なんていうことを得々と語っていたのだが、観ていて「クソだな」と思った。
純粋に作品を尊敬すりゃあいいのに、と思った。それを自分の語れるレベルにまで引き下げて批評するなよ、と。「フォーマット」だとか「コンテンツ」だとか、こういういまどきの言葉でもって過去のものを語るという「小賢しさ」はたぶん僕にもあって、上で感じた「クソ」というのは、ともすれば僕自身に対する嫌悪感でもある。
「サブカル」という言葉が出てきてそれを誰かが語るとき、ほとんどの場合でこういう「小賢しい感じ」を味わわなくてはならず、それに対する警戒感から、録画したものの「観ようかなあ、でもやっぱりどうしようかなあ」と逡巡していたという経緯があるのだが、結局は観ている……。

「講義」をする宮沢章夫という人についても、よく知らなかった。その舞台を観たこともないし、著作も読んでいない。話しているのを聴くかぎりは、全体的にクールな感じだったのだが、この第三回のなかで、彼の言っていたことにいい意味で引っかかった。
太田省吾の舞台『水の駅』('81)について彼が語った部分。ここからがまた長い話になってしまうのだが、僕はこの番組以前にその演劇について、扇田昭彦『日本の現代演劇』を読んでいたので少しだけ知識を持っていた。その扇田の文章を引用してみる。

『水の駅』の舞台の中央には、取っ手の壊れた水道があり、蛇口から糸のように細く水が流れつづけている。その水場に上手からさまざまな旅姿の男女が極端にゆっくりした動きと淡々とした表情であらわれ、水を飲み、休息し、ちょっとしたエピソードを残して下手に去っていく。せりふはひとつもない。舞台の奥には、そこを通りすぎて行った人々が残した古靴や自転車などが堆積し、小さな山をなしている。俳優たちの基本的な動きは、「二メートルを五分で歩くほどの」超スローモーションだった。使われる音楽は、時おりごく静かに流れるエリック・サティピアノ曲ジムノペディ」第一番とアルビノーニの「ピッコロ協奏曲」だけという、全体に実に簡素な構成である。


(上掲書 124p)

番組内でも実際の演劇の一部が放送された。少女がゆっくりとコップを持ち出し、公演のはじめからずーっと流れつづけている蛇口からの水を受ける。この瞬間のことを宮沢は語った。ネット上でそのところを書き起こした文章を見つけたので、そのまま引用する。

映像だと分かりづらいけどこうやって差し出した時に水の音がプツッと途切れた瞬間にサティの「ジムノペディ」が流れるんですけど。
僕は今まで89年までに演劇をかなり見てるつもりだけども、その中で一番美しい瞬間をその時見たという気がしたんですよ。

ここで「美しい」という言葉が出てきた。
宮沢はこの言葉を、多少の照れもあったのだろうが早口で言っていた。しかしそこには確実に、ある程度の熱もあった。それを観ていて、少し驚いた。彼はそんな、いわば「キザ」なことを言うようなタイプには見えなかったから。けれどもその言い方や内容を考慮すれば、どうしても「美しい」と言わざるを得ない感動が彼の中にきっとあって、それは「きれい」というような日常語では語りえないことだったのだろうと思う。そして、観ている僕にもその感動がそのまま伝わってきた。
僕たちの遣うであろう「美しい」という言葉も、きっとこのように、幾分かの含羞とともにそれでも情熱をもって語られるべきだ、と感じた。


平賀さち枝ハンバートハンバートの唄っている「美しさ」は、「歌のモード」に乗せて語られることによって成立している。「モード」については以下の記事に書いた。

優れたメロディとリズムのなかで唄われるからこそ、「美しい日」という言葉は立ち上がり、こちらに伝わってくる。
「美しい」という言葉は、鑑賞者のこれまでの人生の中で味わってきた「美しいこと」――それらは、現実のものもあるだろうし、また、フィクションのものもあるだろう――の積み重ねを引き寄せる。ここで仮に、話し言葉を日常語、書き言葉を非日常語と呼ぶことにすると、その引き寄せる力は、日常語より非日常語の方が強い。だから詩は力を持っており、現実では与えてくれない感覚を与えてくれる場合がある。
僕も、朝焼けや夕暮れなどの自然の風景に胸を打たれるとき、その場面をあらわす言葉を探してみたり、またその場にふさわしい音楽のことを考えたり、その情景に似た小説の一シーンなどを思い出してみようとする。たぶん現実そのものより、フィクションの方が好きだから。


野暮な註だが、もちろん、「美しい」を日常語として用いる人もいる。
実際に僕の近所の七十代のおじさんは、「きれいにする(=掃除する)」を「美しゅうする」と言う。
「おお、だいぶ家の窓ら美しゅうしたんやなあ」
僕が引っ越して来てばかりの頃、ガラスサッシを丁寧に拭いたらこのように言われた。なかなかいい言葉だと思っている。

編集

以下は容疑者の映像と音声ですが、プライニャシー保護の観点から、顔は映しておりません。また、音声も変えてあります。

f:id:doroteki:20140914233941j:plain
エサノウツワヲヒックリカエシタノハ、ボクジャニャイデス。

編集

僭越ながら、僕自身の勉強体験を少し書く。

「僭越ながら」と書いて、ちょっと前くらいにそんなタイトルのブログがあったな、と思い出す。「僭越ながら、」とか話し始めるやつってだいたいの場合は不遜なんだよな。
僕も、不遜をおそれずに書いてみる。


中学のときまでは優等生だったが、高校では意図して劣等生になった。クラスで最下位という地位を味わって、クラスメートを下から眺めてみようと思っていた。一年のはじめくらいはけっこうな感じで蔑まれたが、徐々にそれもなくなっていった。音楽の授業でドラムを叩いたら「あの寝てばかりの男も、なにかできるんだ!」と驚いてくれたらしい。フォークソング部に入部していたので、友人にドラムを教わり、ちょこっと叩けただけなのだが、そんなもので名誉回復した。わりと優しい学校だったと思う。
体育祭、合唱コンクール、文化祭の三大祭に死ぬほど熱中する学校だが、いちおう進学校ということになっていた*1
中間テストや期末テストのときには部活が休みとなり、それはまあ理解できるのだが、その期間、クラスメートたちが遊ばなくなるのには驚いた。中学でそんなやつがいたら、「おいおい、なんだよおまえガリ勉かよー!」と冷やかされたからだ。勉強は人の見えないところでやる、というつまらない価値観は中学のときに身についた。それでも一緒に遊んでくれるやつらは何人かいて、運動部の連中とはそういう機会を通して仲良くなった。
一年の半ばくらいだったか実力テストというものが催され、これはたぶん全国で一斉に行ったものなのだと思うが、いっさい勉強をせずに受けたら学年(ひとクラス四十人弱で、九クラス)で下から十位という成績になった。下にまだ九人いるということに驚いた。
それからふた月ほどして、最下位が野球部の誰それということを偶然知った。僕の友だちの友だちがそいつで、「おまえ、最下位だったんだろー」とからかわれていて、「おいおい、やめてくれよ」と本気で嫌がっていた。洒落でその成績になったのではなく、本気でやってその結果だったのかもしれない。上には上もいるが、下にも下がいるということを知った。
クラスではもちろん(?)最下位で、ブービーの野球部の男と特に仲良くなった。そのついでに、近くの席にいたやはり劣等生のTさんとKさんとも仲良くなった。TさんKさんは、ほとんど女子としゃべれない僕の、たったふたりだけの「しゃべれる女子」だった。まあTさんは同じフォーク部ということもあり、それ以前から話せたのだが。
できない同士で盛り上がろうぜということになった。僕はそのときに野球部のブービーに、はじめて英語の筆記体を教えてもらった。僕は中学のときに筆記体を習った憶えはなかったのだが、その高校の英語の授業はほとんど筆記体だったので、黒板に書いてあることを半分くらいしか理解していなかったのだ。どうせ見ないで寝るだけだったので、半年間くらいは気にしていなかった。
数学にN先生という人がいた。面白い口調でしゃべるので、よくそのマネをした。厳しい方だったので、他のクラスメートたちは「N」と呼び捨てにし、嫌っていた。きちっと髪を分けていて黒縁メガネ(調べたら「サーモント」というデザイン)、細めのエンジ色のネクタイを締め、クリーム色の、かっこ良くいえばスイングトップ(古い言い方?)、かっこ悪くいえばてろてろのジャンパーをいつも着ていた。
その先生の授業が面白かった。はじめは口調に注目して聞いていたのだが、そのうち内容が面白くなった。それでも途中から聞いたものだから小テストは赤点となり、野球部のブービーやTさんKさんたちとよく補習・追試を受けた。放課後、夕陽の射し込むクラスで手書きの問題を解き、できた順に提出、その場で採点をし、一定以上点数が取れたら帰ってよし。僕は小テスト返還時に「きみは追試です」と言われた瞬間から勉強をし始めたので、追試の成績はよかった。数学が面白かった。ブービーはそれに大いに同意してくれたが、TさんKさんは「ええー? わたしNきらい!」と嫌がっていた。
あまりにもその補習・追試が面白かったので、ある日、小テストを白紙で提出し、自分の名前の横に「追試を受けさせてください」と書いたら、職員室に呼ばれて怒られた。「とりあえず問題を解く努力をしなさい」
それから追試となり、やはりその成績も満点だったので、「授業のときから頑張りなさい」とそこでもまた怒られた。
三角関数の授業になり、公式を憶える必要がでてきた。授業はマジメに聴いたり聴かなかったりを繰り返していたが、公式は憶えた。ある日先生に指され、暗誦せよと言われた。すらすらと言えたら、クラス中が驚いた。どこにカンペがあるんだとみなが僕の席の周りを探した。先生ですら本気で疑っていた。できないものと思っていたらしい。そういう甘い信頼のないところが好きだった。
数学熱は、二年になって先生が変ってからぱったりと止まった。新しい先生もそれなりにいい先生だったといまとなれば思うのだが、当時はそんなふうには思えず、授業中はほとんど寝ていた。
あるとき生物の中間テストだかで100点中4点しか取れなかったときに、赤字で「前代未聞!」と書かれ、やはり職員室に呼ばれた。
生物の先生はB先生といって、僕はその先生がユーモアがあって人気者だということでそのために反撥し、授業のいっさいを聞かなかった。しかしB先生が、「生物は難しいか?」と懇切丁寧に僕に低得点の理由を尋ねるものだから、すっかり考えをあらため、この先生のために、次回はなんとか高得点を取らなければならないと奮起し、次の試験時には生物だけ教科書をよく読んで(相変わらず授業は聴いていなかった)、なんとか70点代を取ることができた。しかしそこで満点といかないところに、自分の限界を感じたのも事実である。ああ、こんなものなのね、僕の記憶力って、と。
一年のときはそんな感じで、冬休みの終わり頃に初恋のMさんにフラれ、「よしっ、おれには勉強しかない、勉強を頑張るぞっ!」ともならなかった。いいんだいいんだ、おれなんかどうせ、としょぼくれただけだった。

二年でクラス替えとなり、ブービーともTさんともKさんとも別々のクラスになった。人見知りの僕もやっとクラスメートとしゃべれるようになっていたのに、それがまたシャッフル。ひどいことに、他の三人は同じクラスで、僕だけが別のクラスだった。九クラスもあるというのに、ひどい仕打ち!
新しいクラスでも僕は劣等生で行くことにした。というより、いまさら勉強に追いつくはずもなかった。授業はギリギリまで欠席し、けれども学校には朝イチに到着し、だいたい図書室にいた。本を読むでもなく、ただぼんやりとしていた。ウォークマンで同じカセットテープを何度も何度も聴いていた。面白さも悲しさもなんにもなかった。すごく空っぽだったと思う。
三大祭は頑張った。そのうちにクラスメートとも話せるようになっていった。文化祭の演劇は苦手だったが、そこでクラスメートのNさんが好きになり、文化祭が終わる頃にフラれた。でもそのときのフラれ方が最悪で、「わたしもちょっと前までは○○くん(僕のこと)を好きだったんだ。友だちでいようよ」との由。いま考えれば、「一番に好きじゃないけれど、フって完全にゼロにするのはもったいない、とりあえずヒモに括って飼っておくか」みたいな胸算用のうえのセリフなんだろうが、これにまんまと引っかかった。一年のときの「しゃべれる女子」のふたりはいなくなり、Nさんが唯一の「しゃべれる女子」になっていたので、藁にすがった。ただ、友だちといっても毎日クラスでしゃべるというわけでもなく、ときどき夜に電話したりするだけだった。考えてみればずっとこっちから電話していたな。惚れた弱みか。
それでもちょっとしゃべれるようになり、いい手応えみたいなのを勝手に感じたときに、ふたたび「あのう……」とおつきあいを申し出たが、やはり「NO!」とのお言葉。「友だちでいようよ」というので、「はあ」と同意することしか僕にはできなかった。
それでも二回だけデートをした。
クリスマスには横浜元町で待ち合わせをして六時間ぶっ通し、そのあいだどこの店にも立ち寄らずに歩きつづけるというデートだかウォーキングレースだかわからない行為をしたのだが、それでも「わたしたち、いい友だちだよね」の確認をされ午後五時には元町の駅で解散、こちらにできることと言えば「バイバイ」と手を振ることだけ。いま思うに、このデートでただいいひとついい点があるとすれば、金がまったくかからないということ! それでも、街中で聞えてきたマライア・キャリーの『All I want for Christmas is you』に胸を打ち、彼女とのなんだかよくわからない関係はともかく、ああいいクリスマスだなあ、と感動していたのである。
また別の際には、ビリー・ジョエルのライブについて「行こうって約束をしていた友だちが突然ダメになったから、かわりに行く?」という誘いを受け、武道館に行ったのだ。そういう誘い方も、いま思えば(←こればっかり)ひとつの照れだったはずだが、当時の僕にとっては「ガーン!」という感じでしかなく、「どうせどうせ……」とやはりしょぼくれていた。が、ライブに行くには行った。チケット代を払った記憶がないので、たぶん奢られっぱなしだったんだろう。そういう気の利き方もまったくなかったので、「お友だちでいましょ」と言われるのも当然。やはり、直接行って、直接帰っただけで、お茶したりなんかしたり、というのはまったくなかった。

話がズレた。
冬休み頃だったかに、彼女が「やっぱり勉強しなくちゃね」と言い出し、塾に行こうと誘われた。どっちでもよかったが、誘われれば断れなかったので僕も、親に願い出て塾に行くことにした。通い始めて二回か三回ほどでやめることにした。これだったら自分で勉強していても(やっていなかったが)変らないと思ったからだ。しかも通うのに何十分もかかる。やめるという段になり、入学金のことで揉めた。何十万という金だったと思う。最初はキャンセル時には戻すというような話だったが、契約書にはうんぬんという話ではなかったか。親は大損をしたとがっかりしていた。ただそれだけが申し訳なかった。二度と塾には行くまいと思った。
年が明け、三月に地下鉄サリン事件があった。忘れもしない(といってけっこう日付を忘れていた)、あれは球技大会のときで、昼前ごろに校内放送が流れた。「きょう、○○線、○○線を利用した生徒は、ただちに保健室に来てください」
あとから聞けば、集まった彼らは救急車で近くの病院に運ばれ、検査を受けたということだった。
Nさんも霞が駅近くを利用していて、あの日にはたまたま違う乗り換えを選んだから遭難しなかった、とこれまたあとから聞いた。しかし、Nさんはやがて学校に来なくなった。いま考えればPTSDになったのだと思う。
それからひと月ほどしてから学校にあらわれたNさんはほとんど笑わず、ものすごく老けてみえた。僕がなにかしゃべろうとすると、友人の女の子が「やめてあげて」みたいな感じでしっかりとガードをしたので、僕はコンタクトをとれなくなった。電話もしづらくなり、疎遠になり、やがてなにかの機会に、今度は向こうから「しばらく話せない」と言われ、またフラれた。都合三度目。
さすがにこれには堪えた。わけのわからないことが起こってわけのわからない理由で拒否された。ここでやっと火がついた。
おれにはもう、勉強しかない!

ながながと恋愛のことを書いていたのはこのためである。
それまで「一時の気の迷い」はあったもののほとんど勉強をせずにいたが、このときの覚悟があって初めてその考えを改めようと思った。あの失恋がなかったら、間違いなく受験は失敗していた。
その時点(つまり三年一学期くらい)では、東大に入ると思っていた(「入れる」じゃなくて「入る」というのがミソ)。そこでクラスメートに話を聞いたら、五科目(以上?)勉強しなければいけないと知り、すぐに諦めた。そのときにはじめて国立大は無理と知った。私大以外に選択肢はなかった(いちおう「就職」というのも候補としてはあった)。
塾は行かないと決めていたので、参考書と問題集を買い、それから国語、英語、日本史に絞って勉強を始めた。成績は上がっていった。
途中、友人に誘われ、夏休みに代ゼミの特別講習をふたつほど受けたが、やはり塾(予備校?)は意味がないと感じた。「日々是決戦」という張り紙が教室に貼ってあり、クラスには「予備校慣れ」した生徒が大勢いた。でもこれは「受験生気分」になって「勉強した気分」になっているだけで、本質じゃないと思った。もちろんそういう気分づくりも大事なのかもしれないが、失恋し人格否定された僕はすでに受験を一回失敗したのと同じくらいの精神状態だったので、必要なかった。
結局自分で勉強することになり、結果、二校の私大を受験し、どちらにも合格した。だが、私大というところが恥ずかしい。今となればもっと早くに勉強を始めて国立に入ればよかったと思う。塾トラブルで金をドブに捨て、私大に入ることでまた親に余計に金を払わせたというところが非常に恥ずかしい。


結論としては、塾は行かなくても大学には入れると思う。少なくとも僕の時代は入れた。体調の急変とかがないかぎりは浪人しないでもだいじょうぶ。高校三年間も勉強期間あるんだから、できるでしょ。
ただ、勉強には得意不得意があるはずで、そこを見極めないといけない。
これが野球であれば、誰もが甲子園に行って優勝するとは思わないはず。地方大会のベスト8が妥当だな、とか、まずは一勝が目標、とか、それ以前にレギュラーにならなくちゃ、とか、自分の能力相応の予測を立てるはずだが、勉強になるとみんなが甲子園を目指しているような雰囲気を感じるのは僕だけか。
そこの見極めに失敗した同学年の生徒たちの多く――彼らは「優等生」だったはずだけれども――が、やはり浪人した。僕はたまたま試験勉強がちょっと得意だったというのと、能力にあった場所をうまく選んだ、とそれだけだった。それに強いてつけくわえるのであれば、強烈な失恋体験。「おまえは性格が悪い」とクラスメートに言われたが、僕にはたしかに「今に見てろよー、ストレートで合格して学年の全員を見返してやるぜ!」という思いがあった。
「高校時代の勉強のこと」と題したわりには勉強についての具体的なことはあまり書かなかったが、実際、特筆すべきことがなかったのでしょうがない。
それにくわえて書いておきたいこと。
二十代半ばくらいに、同学年の野球部のJくんが、司法試験に受かったという話を聞いた。高校生時代、彼の成績がいいなんてことは一度も耳にしたことがなかった。おそらく実際に中程度だったんだと思う。
けれども彼は、僕と同じ大学の法学部に浪人して入り、コツコツと勉強をつづけたのだろう。その努力が実を結び、試験に合格した。

いちばん大事なことは、どこの大学に入るか、より、大学でなにをするか、だろう。専門学校に行くのであればより目的は明確だが、大学はもっと曖昧。特に文系は。
僕の場合は、大学に入ったら周りにはバカしかいなかったので、ものすごく失望した。構内で平気で唾を吐くやつもいたし、便所の個室は落書きだらけだった。一年のはじめの頃、顎の下に大きな絆創膏を貼った同じクラスの女の子が「きのうもコンパしたんだけど、その人が○○大って言うから『ええー?!』って感じで、よくそれで声かけてくるよって感じだよね~」と言っているのを耳にしたが、顔は無表情のまま、心の中で「うっせーよ、おまえみたいな、顎の下にデカい傷をつけるようなマヌケ女がいっちょまえに『選べる女』ぶってんじゃねーよ、クソが!」と罵っていた。
そうやって周りを見下してばかりの僕も相当なバカだったのだろう。
校歌なんて憶えようとも思わなかったし、友だちもつくらなかった。最寄りの駅につき、そこでUターンして家に戻る日ばっかりだった。
「大学は最低だ」と思いつづけ、バイトと年上の女の子に明け暮れ、どんどんとドロップアウトしていったけれども、それはまた別の話。

*1:その代わり、浪人率が70%と言われていた。

編集

どっかん-どっかん【ドッカンドッカン】
(副)お笑いなどで、観客席が大いにウケている様子。または、周囲が大いにウケている様子。

いつ頃からか知らないが、「客席がドッカンドッカン言って、」みたいな表現を耳にするようになった。関西特有の表現なのかと思ったが、どうもそれだけではないらしい。
芸人がこのように表現するのはまだ許せるが、素人でこのように表現するのは大っ嫌い。また、素人にしても玄人にしても、こう言うやつで面白かった例がない。

編集

談志が死んだ

談志が死んだ


ちょっと調べることがあって、読んだ。新潮社装幀室の装幀が素晴らしい。談志の愛飲したJ&Bをもじっているイラストとのバランスが洒落ている。で、これが小説かというと、ちょっとそういう気はしない。ただ、なかに書かれていたこと(後述)を鑑みればフィクションの部分もあると考えるのは当然で、おそらく誇張されてはいるのであろう談志のエピソードは面白く読める。
しかし本書のいちばん重要なことは、談志が老い、おそらくは老人性鬱病を患っていたのではないか、という点である。あるとき、談春の書いた『赤めだか』について作者は書評で称賛するのだが、それについて談志は激怒し、電話で作者談四楼に破門を言い渡す。
「詫びに来たって許さねえ」とは言われつつも彼は、談志が出演しているであろうテレビ局に訪れ、そこで「直角に腰を折っ」て謝った。そのシーンを読んでいたら、その場にいたわけでもないのに顔が強張ってしまった。
談四楼はこのとき入門してから四十年近くで、年は還暦間近。その人間が膝を震わせてテレビ局に急行し、理由もわからず、しかし言い訳もせずに腰を曲げて謝るのである。自尊心もなにもあったもんじゃない。談志の怒った理由というのが実はハッキリしない。談春の『赤めだか』に書いた内容に立腹しているらしいのだが、その説明を本人から聴いてもちっとも納得できない。『赤めだか』のなかで談春が、談志に爪楊枝を盗ませられたという記述があるのだが、そこに怒っているのである。「オレが爪楊枝なんか盗ませたことがあるか」
「あるか」どころではない。談四楼はそれ以上のものを盗ませられている。だから楊枝くらいなんだ、という思いがある。談四楼は談春を呼び出し、尋ねる。
「作り込むことがいけないと言ってるんだろうか」
「そりゃ皆さんやることでしょ。ホントのことばっかりじゃ面白くも何ともありませんから。邪魔になる人が出てきたり、どうしてもそこにいてもらいたい人がいなかったり。だから本ではいるはずの人がいなかったり、いないはずの人がいるという……」
それが、談春の執筆の際のモットーだった。落語家の書くものが100%事実である必要はなく、面白いためにはちょこちょことフィクションを混ぜてもよいのだ、と。
実際、『赤めだか』はよくできていて、本当に面白い。談春の弟弟子の志らくは『赤めだか』には事実と違うところがある、と自分の著作で指摘していたが、そういう志らくの作品は、(本当に事実だけで構成されているのかもしれないが)あまり面白くはなかった。
談春の考えに同意する談四楼もつまり、著作には虚実を綯い交ぜにして面白いものにするという考えが根底に流れているはずで、上で談志のエピソードには誇張しているものもあるだろう、と書いたゆえんである。
本書は、時系列が入り乱れて書かれてあるのが面白い。物書きとしての冷静な視線は、師匠の談志も射抜いている。と同時に、師弟の愛憎(愛情という単純なものではない)が談四楼の判断を鈍らす。
若い折り、彼は師匠に人格否定を受ける。師匠の完全コピーを目指した芸風を、その師匠自身に否定された、と彼は思った。そのことに深いショックを受け、慌てて違う芸風を目指すようになる。
詳しくは書かれてはいないが、おそらくこれは一種のPTSDになっているだろうと思われる。否定されたのはブラジル公演での高座の裾でのことなのだが、そのときはなんとも思わず、少し時が経ち、それを思い出した機内で突然ぎゃっと声が出た、と書いてあった。そのパニックを鎮めるために酒を大量に飲んだ、とも。
また別の箇所では、上の談志に破門を宣告されたときの怒声がときおり思い出されるということが書かれてあり、自身で「フラッシュバック」であろうと分析している。
破門宣告はしばらくして解除されるのであるが、そんなことでは当然、傷は癒えない。談志自身は若いころから相当わがままで変人だった、ということはあったにせよ、晩年の周囲にまったく理解できないような言動は、おそらく病によるものだろう、という談四楼の推察は、他の弟子たちの証言もふまえて、当たっていると思う。
暴力的・高圧的・独善的な性向を、理性で抑制することができなくなり、周囲を不必要に傷つけてしまう。一般人なら、ごく親しい家族以外は遠ざかっていくはずだが、談志の周りには濃密な関係が強制される弟子たちがいた。
ここで思い出すのは、三遊亭圓生。
このあいだ読んだ弟子の円丈の『御乱心』にも、圓生の人を人とも思わぬ独裁者のような言動が書かれてあった。
落語協会を抜け、独立を図る師匠の圓生に「自分の好きな行動を採れ」と言われたので、協会に戻りたい旨を告げる円丈。圓生は東京中の寄席から締め出しをくらってしまったのだが、円丈は寄席に出たかったのである。
ところが、その発言に激昂する圓生とお内儀さん。罵倒に次ぐ罵倒で、円丈は人格を頭っから否定される。喉が渇き、立ち上がり、台所に行って水を飲みに行く。その際にも後ろから「どこへ行くんだ!」「この恩知らず!」と罵倒はつづいている。円丈はこみ上げてくるなにかを必死に抑え、また師匠の前に戻り、それからようやく、「師匠についていきます」と告げる。
圓生は態度を急変させて懐柔を図る。
表面上は、師弟の関係は戻ったように見えた。しかし円丈は、あのときを境に、尊敬も愛情もすべてなくなってしまった、というようなことを書いていた。『御乱心』を読んだときには、圓生のやり方は、突発的ではあるがいわゆる「洗脳」のそれと同じだと感じた。
逃げ出し難い状況に相手を追い込み、そこでこれでもかという暴力行為を浴びせ、相手の心をずたずたにしてしまうというやり方。うまくいけば相手の心を完全に支配下に置くことができる。
けれども談志の件を知ってからは、もしかしたら圓生も精神の病に罹っていたのかもしれない、と考え直した。いづれにしても、相手側は深い傷を負うのだが。で、圓生と談志に限っていえば、老人性の鬱状態の前にやはり嗜虐的性向があったのではないか、とも思った。そしてさらに鬱がそれに拍車を掛けるはめになった、と。
というのは、僕自身がこういう残酷なところを持っているからで、さすがに追い詰めてなんたらかんたらというのはないが、ある日ばっさりと友好関係を断ってしまうところがある。
怒りを覚えた経緯には僕なりの筋道立った理窟があるのだが、その説明はせずに、相手が男であろうが女であろうが、突然交流を閉じてしまう。相手がそれに腹を立てても、あるいは弁明をしても、一向に気にせず自分の殻に閉じこもってしまう。そういうことを繰り返してきた気がする。
だから、談志が談四楼を徹底的に蚊帳の外に追い遣ってしまう部分を読んで、まるで自分の醜い姿を見せつけられているような気になり、顔が強張ってしまったのだ。
人の恨みは確実に残る。
談四楼は、談志の病に気づいたために、親父とも呼ぶべき師匠を徹底的に恨まずに済んだ(それでも恨みがないわけではないのはわかる)。
一方、円丈は圓生をついに許すことができなかった。落語家としては最後まで尊敬していたようだが、人間としては許せなかったのである。談四楼のまだ若かった頃、その兄弟子が高座に上がるのをその袖で、談志・色川武大と一緒に見ていた。そこで談志がひとこと。
「先生、聞かなくていいですよ、こいつの高座。これは私の失敗作ですから」
やはり談志は、若いときからこういうことを言う人間だったのだ。がんらい他人に厳しい人間だったが、特に弟子には人間として扱わなかった部分がたしかにある。目上の他人に対する照れだったり、身内の謙遜によって防御線を張るという心理も若干あったのかもしれないが、それにしても「失敗作」は言い過ぎである。
そうすると、色川武大は目を見開いて言った。
「談志クン、お弟子のことをそんなふうに言うもんじゃないよ。いいお弟子さんじゃないか。楽屋で見ていてもわかる。キミへの敬意があふれてるよ」
考えるに、もとから不遜だった談志がその傾向を強めていったのは、このように彼を注意する人間が次々といなくなっていったからではないか。
それは年取ってからの談志自身がなにかの噺のマクラでこぼしていた。そういうのは寂しいと。
それをとって、「家元は孤独だったんだ」と助け舟を出すのは少し違うと思う。それは単なる偶像化にすぎない。ただ孤独であったのではなく、彼は依然として強い力を持っていたのだ。このあいだ読み終えた北方謙三『史記』の武帝劉徹が思い出される。
絶対権力を持ち、特に後半は多くの側近たちを死に追いやった武帝は、小説内でたしかに孤独だった。しかし、どう読んでもそれを可哀想だとは思えなかった。孤独を抱えたまま死んでいけ、と感じるだけだった。
談志は、談志のまま死ぬことができたのではないか、と思っている。横暴で信じられないほど無神経な一方、無類の落語好きで落語狂いのまま立川談志という落語家を完成させたのではないか。
僕は談志のことをほとんど知らないので、それ以上はなにも言えない。より長いつきあいのファンにはそれなりの感じ方があるだろうし、それを否定しはしない。ただ僕は、僕自身の醜悪で下劣な部分を大いに感じたので、この本にはたいへんショックを受けた。冒頭に書いたように多少の虚実混淆があろうと、一読の価値はじゅうぶんにある。

このページのトップヘ