とはいえ、わからないでもない

2014年12月

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というわけで*1、またしばらくネットはお休みです。おやすみなさい。

*1:というのはただの語調をととのえる言葉であって深い意味はなく(*a)、これまで読んできた人たちであれば、「ああ、なんかそんなこと言ってたっけ」とか「そういうものをどこかで読んだ気がするなあ」程度の注意を喚起してもらえるだろうとこちらは勝手に期待しているのだが、しかしその「期待」が過剰になってしまえば恥ずかしい思いをするのは目に見えていて(*b)、そういう気持ちをなるべく起こさないよう日々精進しているのだけれど、おいそれ(*c)とは自分(*d)の気持ちをコントロールするのは難しく、やはりある程度の自己顕示欲(*e)があるのだろうと自己認識するところで今年を〆(*f)たいと思うのだが、2月そして11月とそれぞれまるまる一ヶ月づつを休んだ今年の経験を踏まえて、来年は隔月を休む、というより、隔月で書くみたいなペース(*g)でいこうかと考えているところで、少しくらいのブラウズ(*h)はあるかもしれないが、とりあえず書くことにものすごい時間がかかっている(*i)ということを痛感したのでブログの更新はしないと決め、おしゃれ感(*j)の漂う写真をアップするにとどめる)

(*a)といって本当は筒井康隆『玄笑地帯』のマネ、ということくらいはここに書いておいてもいいと思う。この本はエッセイ集なのだが、毎回の冒頭が副詞か接続詞になっていて、それが全回異なっているという非常に面白い構成。各回には山藤章二のイラストが掲載されているのだが、最終回は、その山藤が最終回の冒頭の接続詞を予想する、というものだったと記憶している。
(*b)この期待感が過剰になってしまえば、たとえば、「こんにちは、ドロです。しばらく更新サボっていました。すみません」みたいな書き出しで始まる文章を書いてしまう。ただこれを、恥ずかしいと思うか思わないかは人によるもので、もちろんそう思わないからこそ、浜の真砂は尽きるとも、上のような文章を書いている人たちは世に尽きないのである。
(*c)「おいそれ」って言葉を見聞きすると、 「おい! それとって。そう、醤油醤油。醤油とって!」という場面を想像してしまうが、語源的に言って遠い勘違いというわけではなさそう。
(*d)一人称を「自分」にする人が増えている、ということは何回か書いてきたけれど、ネットではときおり、一人称を「自分」にしつつoneselfの「自分」について書く人がいて、そういうごちゃごちゃの文章(おもにツイッターとか)を見ると、本人もよくわかっていないんじゃないかって思う。
(*e)思えば、承認欲求という言葉が一般(あるいはネットだけ?)に普及するようになってから、自己顕示欲という言葉はあまり聞かれなくなったような。
(*f)この「〆」という字の胡散臭さが払拭できない。「締め切り」だと、「絶対守らなければ!」という感じがあるが、「〆切」だと、「まあ、あくまでも目安ってことですかね、へっへ」という感じがある。料理の「しめさば」の場合だと、居酒屋の壁にかかってある文字としては「〆サバ」なんかのほうが期待は膨らむ。「締鯖(「鯖」の旁の「青」はいまだに「月」ではなく「円」の青なのね)」だと料理に見えなくて、アジアを舞台とした近未来SFに出てくる登場人物で、「締鯖」と書いて「テイチン」とか読ませるやつ、いそうじゃない?
(*g)このテンポという意味での「ペース」を、会話でよく「スペース」とごっちゃにしてしまう。
(*h)以前働いていたところで、「browse」を「ブロウズ」という中年男性がいて、そのたびに頭のなかで「不浪主」という漢字が浮かび、ものすごく気になっていた。しかし「ブラウズ」を「ブロウズ」と言うくらいはどうでもいいのだが、別の外資企業のメールルームで働いていたとき、先輩の中年男性が「テクニカル・サポート部(Tech. Support)」のことを、「テック・スポーツ」と堂々と言っていたのはものすごく面白かった。
(*i)前の記事をアップするのに、たぶん二週間ほどかかっている。
(*j)少なくとも僕が「おしゃれ」というときには、だいたい心の中で半笑いをしている。一般的な話として、自分自身はよくわからないんだけどたぶんふつうの感覚からするとこれはハイカラなのだろう、としたときに「おしゃれ」という言葉が遣われること「も」多い気がする。「あの最近できた喫茶店、おしゃれやねえ」みたいな。そういうときは、「しゃれている」と言えばぐっとニュアンスが変わり、「わからずに言っている感」が雲散霧消する。「あの最近できたカフェ、しゃれてるがな」

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♪ハート、ハート、ハートにご用心!

オープニング

みなさん、こんばんは。2014年12月25日木曜日、午後10時になりました。「スポンサーなし、アシスタントなし、リスナー少し」でお馴染みの『ハートにご用心』、DJ の城戸ロティです。今夜も、日付の変わるその瞬間までみなさんとおしゃべりをしていこうと思っています。
な・ん・で・す・が、きょうはクリスマスということもあり、スペシャル・ヴァージョンでいこう、なんて考えています。みなさんのリクエストも受け付けております。もちろんメッセージもあると嬉しいです。宛先はいつもどおり、「heart@drb8107.com」です。h・e・a・r・t・アットマーク・d・r・b・8107・コムです。それでは、きょうという日が終わるまでの2時間を、一緒に。

きょうのオープニングソングは、ベタベタだけど、山下達郎『クリスマス・イヴ』でした。いやー、いいですねえ。この曲がカーラジオからかかってきて、それをなんとなく口ずさんでいたら、もうそれだけでドラマとか映画とかの主人公になれるよね。
これってあまりにも有名な話ですが、この曲はもともと1983年の曲なんだけれど、世間的に大ヒットしたのはあの――わざわざ「あの」ってつけちゃうけど――88年のJR東海「クリスマス・エクスプレス」のCMがきっかけなんだよね。あの深津絵里の、憶えていますか? 当時のおれは小学5年か6年くらいでしたけれど、これは憶えています。
で、高校くらいになってからあらためてこの曲を自分で意識的に聴いて、クラスメートなんかと「いいねえ」という気分を共有したもんなんだけど、それからちょっとすると、「ええー!? ベタすぎじゃない? おれはちょっとよしとくよ」という反撥心が湧き起こってくる。これはもう、思春期に典型的な症状だよね。いったんベタ惚れしてからちょっとすると思いっきり突き放すっていう。
その突き放しがおれの場合はずいぶんとつづいて、なんと37になる今年までずっと敬遠していたんだ。もちろんキライというわけじゃない。でも、「なんかなあ」という距離感がしこりみたいに残って、このあいだまでずっと遠ざけてきた。
ところが。このあいだ、とあるファストフード店に入っていたらこの音楽が流れてきて、「あら」と思った。不意を衝かれたというか。
結局ね、好きなんですよ。でも意地を張っていた。近づけば好きになるのがわかっているから、距離を置いていた。その相手が、気づくといきなり隣に立っていて「ねえ」って耳元で囁いたみたいなもんでね、こっちはうわっ! ってなるでしょ? そしたらもう心が蕩けてしまうのはあたりまえの話で、ああ、やっぱり好きなんだって認めざるを得ない。
おれが思うに、こういう曲ってみんながそれぞれ持っているものなんじゃないかと思う。たぶん好きなんだけど、でも好きになれないっていうような。いや、音楽だけじゃないな。本とか映画とか絵とか、人とか。そういう、なぜだか距離が縮められないようなものがそれぞれにあるのだと思う。
でもだいじょうぶ。それは、いつか好きになれる日が来る、とおれは思っている。それが何年後になるかわからないけど、そういう瞬間がきっと来るのだと思う。待っていてもしょうがないものなのかもしれない。あるときいきなり――このあいだのおれみたいに――隣に立たれて、長年のわだかまりが氷解したときにはじめて、「ああ、やっぱり好きなんだ」って思うものなんだろう。いくつあるのかわからないけれど、そういうのがこの先の人生で自分のことを待っているのだとしたら、とてもいいことなんじゃないか。そんなことを――クリスマスだからってクサいことを言ってる? そうかもしれない――ちょっとクサいけれど、そんなことを思いました。

さあ、本日最初のメッセージです。「クリスマスはひとりっきり」さんから。

こんばんは。

こんばんは。

城戸さんのいちばん好きなクリスマスソングってなんですか? その曲についての思い出なんかがあれば教えてください。

ということなんですけれど……。そうですねえ、もしかしたら過去に何回か言ったことあると思うんだけど――これもベタベタだねえ――マライア・キャリーの『All I want for Christmas is you』です。とりあえず、聴いてもらいましょう。

うーん、いいですねえ。じゃあ、この曲についての思い出をちょっと。たぶん聴いたことある人は、「ああ、またかよ」ってなもんでしょうけど。
高校二年のときのクリスマス・イヴに、クラスの好きな女の子と横浜は元町でデートをしたのね。そのときで3回目くらいのデート。
そのデートっていうのが、午前9時に駅で会って、それからずっと、どこの店にも入らないまま歩きつづけたのね。すべて彼女のリード。「ここのお店、かわいいものとか置いてるんだよ」とか「ここのお屋敷、きれいですごいよねー」とか、「ここのお店のお菓子、すっごくおいしいって友だちが言ってた」とか。でも、「だから、入ろうよ」とはつづかない。「友だちが言ってた」で終わっちゃう。さ、次行こうか、みたいな。
いま思うに、彼女もきっと一緒に店に入って向かい合ってすわるのが恥ずかしかったんだろうね。自分で言うのもなんだけど、ものすごく奥手だったんだ、こっちも向こうも。
で、6時間くらいずっと歩きっぱなしがつづいて、商店街を歩いていたあたり、街灯のところに、なんていうのか、結わえ付けられたっていうのか、スピーカーが付いてあって、そこからこの曲が流れたんだ。マライアの「All I want for Christmas is you」がね。
そのとき、彼女が「あ、わたしこの歌好き!」って言った。
おれはそのときはまだこの曲を知らなかったから、そう彼女に言うと、「ほんと? じゃあ今度カラオケに行ったら歌ってあげるね」と言う。「あげるね」だなんて言われたら、いまだったら「なんだと!」と引っかかるところだけど、そのときは惚れた弱みで、「あ、じゃあ、今度、」みたいなことをもごもごと言うだけ。それから、また歩く歩く。
夕方5時になって、石川町の駅前。彼女が「これから家族と食事なの」と言ったから、「あ、そうなんだ。じゃあね」とこっちも応える。そのとき、彼女に渡すものを持っていたような持っていなかったような。
結局その後、彼女になにかをプレゼントすることはなかったんです。カラオケに行って、その曲を歌ってもらうこともなかった。その彼女は高校2年の冬休みのあいだに、ちょっとした事件――事件じたいは日本の歴史に残るような大事件なんですが――を機に心の病気になってしまったんだけど、それはまた別の話だね。
実は、この歌にはもうひとつ思い出があって、これもどこかで言ったことがあるので知っている人は「耳タコだよー」の話ですが。

5年前。あるところの忘年会に参加したとき、そこではじめてスナックというものに連れて行かれたのね。小さなドアを開けると、そりゃもうびっくりしたよ。そこにいた女の人みんなが、いわゆるドレスを着ていてさ、いや、見慣れている人にとってはあたりまえのものなのかもしれないけれど、そのときは、ああ、こういう服を作っている人たちがどこかにいて、ここに買う人たちがいて、それで商売が成り立っているんだなあ、と思ったよ。
で、ちょっと細かなところを省略すると、そこにいた女性たちのなかで、ひとりだけツンとした人がいたんだよ。ほかの人は、フィリピン人とか韓国の人なんかもいたんだけどみんな愛想のいい人たちで、たぶん仕事だという割り切りもあったんだろうけれど、でも、その「ツン」は割り切れずに、ぶすーっとしていたのね。いや、ブスじゃないんですよ、ところが。愛想はないけれどきれいな顔立ちで、でもたのしくもなさそうなんだから、なんでそのお店で働いているのかわからなかった。これまた下劣な話になってしまうけれど、そこに連れてきてくれた人たちっていうのは、みんな女好きなんだ。ね? でも、そのきれいな女の子にはなぜかみんな近づかない。で、日頃よく通っていると思しき男の人に訊いてみたのね。「なんで彼女としゃべる人がいないんです? きれいな子じゃないですか」と。
彼いわく、「あいつはさ、歌手を目指しているんだよ。だから『わたしはこんなところで働く女じゃない』っていつも思ってんだ。そういうところが鼻につくんだよ。おれたちをバカにしてんだ」と。
それからしばらく、みんなが酒を飲みながらカラオケなんかをたのしんでいた。おれは隣にすわっていたフィリピンの女性にいろいろと質問していた。仕事は辛くないんですか、このおっさんたちからいっぱい金を巻き上げていいんですからね、とかいま考えるとすげー余計なことを。
それからちょっとして、スピーカーからかわいらしいオルゴールのイントロが流れてきたのね。そう、マライアの曲よ。見ると、その歌手志望の女の子がいつのまにかマイクを握ってそのスナックの中央に立っていて、あの印象的な導入部分を唄ったんだ。
マライヤほど、とまではいかないけれど、震えるような、でもすごく伸びやかな歌声が店内に響いて。そしたら、そのお店の六十代くらいのママがこれまた知らないうちにタンバリンを取り出して、シャンッ・シャンッ・シャンッ・シャンッ、と鳴らし始めた。さっき「おれたちをバカにしてんだ」とか言っていたおじさんたちは口あんぐり。あれま、ってなもんだ。あとで訊いたら彼らの前でははじめて唄ったらしい。
おれはなんか鳥肌が立ってしまってねえ、こう、彼女の身体の内側でリズムが弾けて、それが口から飛び出していくような感じだった。ツンとした表情じゃなくて、たのしくってたまらないというような顔をしていて。お店は暗かったんだけれどね。彼女の顔にスポットライトがあたっていたっていうわけでもないのに、どうしてそんなことがわかったんだろうかって自分でも思うけれど、ミラーボールがきらきらとして、彼女の深緑のドレスにちりばめられたスパンコールがそれを反射して。彼女の歓びが、歌を通しておれのなかにも確実に流れてきたんだ。
歌が終わると、大きな拍手があって、店内の誰もが手を叩いていた。お世辞の拍手とかじゃなくて、感謝の拍手。すわっていらんなくなってその女の子のところまで歩み寄っていって、「うまい!」と言ったのね。言ってから「あ、つっけんどんにされるかな?」と思ったんだけど、そしたら「ありがとう!」と笑顔で言われた。そのとき握手をしたかもしれない。
これが忘れられない思い出です。それから起こったことはロマンティックなことどころか、とても血なまぐさいことで、おれを連れていってくれた人たち同士で殴り合いの喧嘩を始めちゃったんだけど、それもまた別のお話ですね。「クリスマスはひとりっきり」さん、こんなところでいいでしょうか?
それじゃあ、次のコーナーです。

今週のテレビ

「今週のテレビ」ってことなんですけれど、今回は年末ということもありますし、ちょっとスペシャル版です。題して『ハートにご用心』的エミー賞
ええとこれは、今年おれが観たテレビ番組についてごくごく個人的に賞を与えようというものです。どのようなものかという説明をするより先に授賞したほうが早いですね。

最低演技賞

受賞者は、『ロング・グッドバイ』の冨永愛と『花子とアン』の茂木健一郎です。受賞理由は、それぞれ異なっています。
冨永愛の受賞理由は、「緻密かつ挑戦的に構成された良質なドラマも、たったひとりの役者の演技によって致命的なダメージを被ることを示し、俳優の演技力というものの重要性をあらためて視聴者に認識させた功績」が認められたためです。
茂木健一郎については、「ストーリーの最後の最後で、おそらくは自他ともに認めるお遊び的キャスティングによって登場し、ほぼすべての人の期待を裏切らない素人芝居を視聴者に印象づけ、主演女優の、いくつかの例外はあったものの大方は稚拙だった演技力を隠蔽あるいは忘却させた功績」が認められたためです。
両者には、上野動物園の象の糞でつくったトロフィーを授与する予定です。もしおふたりに受け取る意思があれば、の話だけど。

最低脚本賞

受賞者は、『マッサン』の羽原大介です。
受賞理由は、「序盤で簡単に高評価を出してしまう軽率さを戒めただけでなく、間を保たせるためにキャラクターの人格を歪め、必要以上の停滞をストーリーに出来させることによって、一般的なドラマの脚本は一般人の考える以上にきちんと構成されていることに気づかせた功績」が認められたためです。ゴリラの歯石でつくった盾を贈らせていただきます。

最高次回予告賞

受賞番組は『MOZU Season1』です。『MOZU』ねえ。もはや観ていたことも忘れてしまっているくらいだけれども、観ていたんだよなあ、たしかに。それも食い入るように画面を観ていたはず。それくらい映像はきれいだった。ただ、後半の失速感にけっこう失望していたような記憶があるんだよねえ。池松壮亮「モズ」が『バットマン ダークナイト』のジョーカーにインスパイアされていることを見抜いた時点でおれはもう満足感に浸ってしまって、それ以前もそれ以降もすべて忘れてしまったんだなあ。
毎回の「あらすじ」と「次回予告」がめちゃくちゃよくできていて、こういうところは、今後のテレビドラマづくりでも取り入れられていくんじゃないか。『Nのために』なんかもそうだったけれど、これまでに流れていない映像をフラッシュバックっていうの? パパパッと見せるというやり方もうまかった。アクションシーンだって見せようによっては退屈なものにならないということを証明していたしねえ。
『Season2』はどうだったんだろう? 地上波で流れているところを一回だけちらと観たときは、香川照之伊藤淳史とがじゃれあっているような感じが、ものすごく安っぽい感じがしてそれっきりだったんだよね。まあ、この作品をきっかけに西島秀俊がついに大メジャーの仲間入りを果たし、コンビニやらカップ麺やら家電のCFに出演するようになったんだから、それをとっても意味のあることだったんだと思いますよ、個人的には。

最高コメディドラマ賞

それほど多くを観ていないうちで「最高」とか言っちゃうのは気がひけるんだけれども、けれども『夜のせんせい』はよかったんだよね。初回だけは見逃したんだけれど、いつか、DVDで見直そうかと思っているんです。観月ありさの芝居っていうのもはじめて観たんだけれど、ああ、こういうのもアリなのかなあ、と。彼女ひとりで成り立つかどうかっていうのは脇に置いておくとして、高橋一生田中圭大倉孝二山本耕史なんかがきっちりと演技していてくれるから、そういうのを中央でばちんと受け止める役としては成功していたように思うなあ。なんというか、ものすごくフラットな感じがあるんだよね。ある意味、棒読みっぽさもあるんだけどさ。
田中圭なんて、『軍師官兵衛』の石田三成役ではどうしても小者感が強すぎちゃって、それは三成の小者さということ以上に、役者として「まだ早いでしょ」という意味の力不足感が否めないんだけど、『夜のせんせい』では独特ないかがわしさがあって、それがよかったな。

キャスティング隙なし賞

これは『Nのために』だね。主演の榮倉奈々小出恵介窪田正孝は本当によかった。はじめは半見(はんみ)だったんだよ。半分観ながら半分は違うことやってさ。でもそのうち、一回目のおれの中でのクライマックスがやってきて、そうそう、家入レオがよかったよね。『Silly』のあの「Oh, it's so silly!」というサビに鳥肌が何度も立った。
最初のほうでさ、榮倉奈々の杉下希美が、窪田正孝の成瀬慎司がフェリーに乗って島を出て行くところを見送るんだよ。「成瀬くーん!」「杉下ァー!」って。でこの『Silly』がバックにかかっていて。もうね、ドラマん中でもこのシーンは何度も何度も繰り返されていたよ。一発撮りだったのかな。実際のフェリーに乗って、成瀬側からもカメラはあるし、埠頭を走ってフェリーを追いかける杉下側でもカメラはあって、お互いがお互いを見送るんだよ! もう、思い出しているだけでぐっとくるよ、あのシーンは。
なんかさあ、榮倉ももちろんよかったんだけれど、窪田正孝の演技って、「特別感」がときどきすごくて、その場にこういうやつが本当にいるって感じがあるんだよね。あの「杉下ァー!」って叫んでいる先には、榮倉奈々じゃなくて、杉下希美っていうひとりで頑張っていこうと心に決めている女の子がいるのが見えるんだよ。
もちろん、杉下の視線の先にもフェリーに乗って一所懸命こっちに向って叫んでいる成瀬慎司っていう男の子がいるんだけどね、なんかあのシーンの特別さってのは、実際には体験したことないのにかつて自分がそこにいたかのような感じだったんだよね。こう感じたのはおれだけかもしれないけれど、すげーよかったんだ。すげー名シーンだったんだよ。
その次は、榮倉奈々が就職決まったところだったっけかな。もう冷蔵庫に作り溜めしなくていい、と織本順吉に話すんだけど……そこのところで、突然思い出したように泣き出すところがあって、それがまた隠し撮りしているのかってくらいの自然さで、これまた杉下希美という人間の悔しさとかある種の解放感というのが見えて、感服したなあ。
あのさ、話脱線するけれど、織本順吉って、『夜のせんせい』にも出演していたけれど、考えてみれば、金八の第5シリーズにも出ていたんだよね。元校長先生で、いまは車椅子に乗っているという大西さんという役で。だから、織本順吉を見るとおれは、織本順吉じゃなくて、「大西さん」と心のなかで呼んでいるんだよね。その金八のなかの大西さんで印象的なシーンといえば、風間俊介が演じる兼末健次郎のグループのひとりに「死ねよ」と言われたところ。で、大西さんが応えるんだ。「よし、死のう。だが、ひとりでは死なんぞ。きみも一緒に来るんだ」ってその生徒の手首をガッとつかむ。それにビビった生徒が「離せよッ!」みたいな感じで振りほどくと、大西さん、吹っ飛んで壁に頭を打っちゃうのね。そうしたら、その生徒がビビって、「うわー殺してしまったー!」って感じで屋上へ行って、飛び降りようとするんだっけかな? それを金八がやって来て、その生徒、好太っていうんだけど、「好太ァーッ!」って手を差し伸べてすんでのところで救ける。好太は、死にそうだったから、小便を漏らして泣きながらガクガクガクガク震えていて、それを金八が頭を撫でて「こうた・こうた・こうた・こうた……」と言っているところのモノマネを、おれはできます。だから、織本順吉を見ると、一連のこのシーンが浮かんできて、「こうた・こうた・こうた・こうた……」って言っちゃうんだよね。
話を戻そうか。金八のときにすでにおじいさん役をやっていた織本順吉がだよ、いまだにおじいさん役をやっているってすげえな、って思ったんだ。さっきネットで調べたら87歳だって! そんな人が、今年すくなくともドラマに2本出演しているんだもん。やるなーって感じです。
ほかにもいい役者出ていますよ。『花子とアン』の兄やんをやっていた賀来賢人もキャラクターに合っていて悪くなかったし、三浦友和原日出子の夫婦もいいし、榮倉の両親の光石研山本未來もいい。光石研は最近はいい人も演じているけれど、ああいう、ちょっとなに考えているかわからないような、笑いながら人を殺せるような感じがとてもいいよね。山本未來は、だんだん狂っていく感じが怖くて、しかもバックにかかっている曲も、女の人が「うわぁ」と囁くようなBGMで、怖いんだよ。もう離婚されて金がなくなっているのに高い化粧水買って顔にぴちゃぴちゃかけているところとか、ホラー調だった。でも、最終回のあの年とった感じもよく出てた。歩き方が弱々しくてなあ。
小西真奈美の夫役だったチュートリアルの徳井だけがギャグキャスティングかと思ていたんだけど、さにあらず! 妻役の小西を食っているくらいに、外面はいいんだけど実際はDVをしているお坊ちゃん商社マンという役どころをきちんと演じていたなあ。暴力を振るったあと泣きながら小西に謝るシーンは、さすがに目薬くらい差していたのかもしれないけれど、それでもすごく迫力あった。ほかにも、ほんのちょこっとしか出てこない小出恵介の少年時代の母親が中越典子なんだけど、これまたスーパーハイテンションな演技をたのしむことができました。
つい2、3日前にやっと録画した最終回を観ることができて、繰り返しちゃうけど家入レオの『Silly』が流れてくると自然に涙腺がゆるむようになってしまっていて、エンディング、やっぱりよかったよ。全体的に振り返ってみると、ロマンティックな話だったね。最後のシーンは、胸が締めつけられる思いになりましたよ。

ベストサントラ賞・最優秀脚本賞

これはもう、NHKロング・グッドバイ』のサントラだよね。大友良英。オープニングテーマは、あのヴィジュアルとともに観た人をぐっと惹きつけるものだったけれど、やっぱりサントラでまとめて聴いても、世界観がよくできているな、と。福島リラの唄う『さよならを言うことは』も雰囲気があってよかったし、サントラに収められているトラックも、この曲の変奏がたくさんあって、それぞれたのしめます。
あのドラマは脚本としても、最高でした。特にエンディング部分に、脚本家の挑戦的な意図が読み取れた、ということはかつて言ったことがあったよね。増沢磐二というキャラクターも秀逸。完璧と言っていいんじゃないでしょうか。あ、冨永愛だけは別勘定でお願いします。
と、まだなにかあったような気もするんだけど、とりあえずこんなところで。以上、「今週のテレビ」のコーナーでした。

ここで一曲いきましょう。佐野元春で『CHRISTMAS TIME IN BLUE』。『ハートにご用心 クリスマス・スペシャル・エディション』、8107kHz。

リスナーからのメッセージ

おたよりいただいています。「まるでダメ夫」さんから。

城戸さん、こんばんは。

こんばんは。

ことしの流行語大賞が、「集団的自衛権」と「ダメよ~ダメダメ」でしたね。城戸さんのなかの流行語というのはあったんでしょうか? あれば教えてください。

とのことなんですけれども、「まるでダメ夫」さん、ありがとうね。けれどもね、おれは流行語っていうのはほんと嫌いなんです。悪いけれど。今年は特にひどくて、なにがノミネートされたかもよく知らない。ダメ夫さんに言うわけじゃないんだけれど、あのね、株なんかの相場の話で、「主婦が参入したらその相場は終わり」というのがあるらしいのね、よく知らないんだけどそういう話を聴いたことがある。つまり、素人までが知るところになればその「場」っていうのは、なにも相場に限ったこっちゃないんだけど終わりなんですよ、おれのなかでは。
流行語だって、ほとんどの人たちが知らなくて、ほんの一部の人間がちょこちょこと遣ううちならまだ面白みがあるんだよね。まあそれは流行語っていうより、ジャーゴンとか符牒みたいなもんで、そういう内輪感をたのしむものなんだよ、本来の派生の仕方としては。
けれどもいまは違うでしょ。テレビか雑誌か、それかネットかでそういうのが取り上げられて、アンテナの感度がいちばん低い人たちにまで届けば成功、みたいなところがある。それって隠語じゃなくて陽語だよ。太陽の「陽」。
思うんだけどさ、特にいまはネットっていう意味のわからない装置があるわけだ。おれはこれをほとんど信用していないんだけど、ここには、ものすごく感度は低いけれど、その低さを声の大きさでカヴァーしようってやつらが大勢いるんだと思う。「ねえねえ、知ってる?」ってバカでかい声をあげてさ――もちろんこれは喩えだけど――、まるで自分がはじめてつかったみたいな顔をするやつらがごろごろしていてさ、そういう汲み取り式便所に溜まった大量のクソの山の一角が、あの和式便器のところから顔を覗かせて、そういうのを取り上げて、それを「流行語」って言っているんじゃないかな。おれはそんなふうに思うよ。
センスのある人だったら――おれがそうだとは言わないけれど――、みんなが口にするようなことを言わないと思うな。それって、単純にカッコ悪い話だろ? みんながよく口にしているようなことを、おれはわざわざ言いたくはない。大勢の人間が言い出してしまったら、その価値はなくなり始めるってことなんだと思う。なんだかよくわからない? ごめん、説明不十分なのかも。
でもさ、いまは差異をたのしむ時代なんだってさ。このあいだ東浩紀の『動物化するポストモダン』を読んでいたら、そんなような説明があった。2001年の作品だからおもに90年代までを扱っているんだけど、あれはいまでも読む価値があると思う。そのなかでおれがたぶんこういうことなんじゃないかなと思ったのは、作品について、そのストーリーだとかその背景にある思想や哲学、テーマなんかをたのしむというよりは、設定だったりキャラクターの要素の組み合わせをたのしむというようになっている、ということだった。ベンヤミンのあの「アウラ」っていう概念についてもちらと出てきていたよ。おれの場合はやっぱりオリジナル信仰みたいなのがあって、コピーとか二次創作の部分については、例外はあるものの、それほど惹かれないというのが正直なところです。
このあいだ知り合いがネットで『相棒』の二次創作みたいなのをやっていたんだけど、トリックなしの解決篇だけ書いていたんだよね。おれ、当人にも言ったけど、やるなら全部やれよ、と思うんですよ。こういう言い方も小賢しくてイヤなんだけど、完全オリジナルのものってコストがかかるわけ、ね? それに較べりゃコピペとか改変とかって、死ぬほどラクなんですよ。センスがなんたらとか言う人もいるかもしれないけれど、そんなのゼロから創作するセンスに較べりゃどんなもんだよ、って。
かつて「ナンバーワンよりもオンリーワン」って言葉が流行って、いまもまだ流行っている、のかな? もともとはマッキーの歌詞だよね。その大本は仏教らしいけれど、まあ最初聴いたときは……、いや、そうじゃないんだよな。厳密に言うと、最初にスマップのを聴いたときにはなんとも思わなかったんだよ。偏見もへったくれもなく、「ふうん」って感じだった。ところがマッキーがあるときソロで唄っているのを聴いたときに、はじめて「うぉっ」って思った。すげえ歌詞だな、と。完全におれの主観だけれど、マッキーのメッセージがきちんと歌にこもっている感じがあった。落語でもおんなじ噺なのに、ある噺家が演ると聴けたもんじゃないのに、違う噺家が演ると聴き入ってしまって聴き終わったら思わず拝みたくなるようなものがあるんだけど、ああいうのと似たようなことを歌で感じた。全然違うものだったんです。
ところがこれがあっという間にみんなの知れ渡ることになり、そして流行語になってしまったら、おれのなかで途端に陳腐なものになってしまった。もう、最初にあったような――最初にマッキーの歌で感じたような――新鮮さはなくなってしまったんです。いまでもこの曲が好きな人がいたらごめんなさい。でも、不変の、変わらない価値を持つ言葉なんてないからね。流行語になって、この歌にもともとあった「なにか」――「なにか」って言葉で逃げるけど――がものすごい勢いでなくなっていって、いまあるのは、もう擦り切れてしまった残骸なんじゃないか、と思ってしまう。多くの人たちは、すでにこの歌にべっとりと貼りついてしまっているイメージを取り出して、そこに感動したりしているのかもしれないけれど、おれはそういうの好きじゃないんで。
そもそも「流行」ってなんだよ、って話。思春期みたいな話かもしれないけれど、これはみんなよく考えたほうがいいですよ。だいたいはそこにお金の話があるわけだよね。そこの部分を、コントロールしている側は盛り上がっているのを見れば「してやったり」の話だし仕事としての達成感もあるだろうけれど、コントロールされちゃう側としてはどうなんだろうってのが、青臭いことを言うようだけどおれにはあるんです。そういうのをわかっていながらも、「でもたのしいならいいじゃん!」っていう肯定意見にはおれは与することがあまりできなくて。なんていうか、おれは天邪鬼をしたいんですよ。物事の本質なんかを問うより以前に、大勢の逆を張りたいっていうガキみたいな考えがあるんです。
おれの大好きな上方落語に『天神山』っていうのがあって、ここに変ちきの源助っていうやつがいる。これが面白い。花見の時期に妙な恰好をしているんだけど、物見高いやつに「花見に行くのか」と質問されると、「墓見だ」とこたえるのね。酒を尿瓶に入れておまるに弁当を突っ込んで、とひとくさり説明するとその野次馬に呆れられてそこで別れて、源助がひとりになる。そのあとの源助の台詞がいいんだ。

待てよ? おれも変ちきじゃ。なるほど、みなが花見て一杯飲んどんのを、おんなじように花見て飲んでたんではおもんない。よし、きょうはほんまに墓見て一杯飲んだろ。

これは枝雀のヴァージョンだけどすごく好きなところで、この「ほんまに墓見て一杯飲んだろ」というところがものすごくいいんだ。他人に言っているときは、さほど墓なんて行きたいわけではなかったんだよ。でも、他人に対していわば虚勢を張った直後に、「ほんまにそうしたれ」という行動がいい。これなんですよ、おれの憧れのスタイルは。別に後ろに思想があるわけじゃないんです。もっと単純な「意地」みたいなもんが人間にはあるんじゃないかって思うんです。流行語、と聴いて即「いいね!」じゃなくて、「ふざけんなよ、そんなもん」と中身を知らずに言うくらいがちょうどいいっていう気がします、おれは。なんつうか、「全部アリだよね」みたいなのは、結局なにも言っていないんじゃないかと思う。つまらんものはつまらんと言ってやらなければ……うーん、なんの話だっけ?

リクエスト行こうか? ええとこれは、「秋山仁以降はない」さんから。アハハ。あ、これね。先週おれがバンダナを頭に巻くやつって最近見ないね、っていう話をしていて、たぶんそのレスポンスだよね。リクエスト曲は、ヒャダインの『クリスマス、なにそれ美味しいの?』です。

仕事をしながらこのラジオを聴いているみなさまにも、メリークリスマスです。この「メリークリスマス」ってのは、「ごくろうさま」とほぼおんなじ意味です。

今週のアイドル

さて、「あまいちゃん」からおたよりが来ましたよ。

城戸さん、「今週のアイドル」のコーナーが終わってしまってもう一年近くになりますが、きょうくらい復活してはどうですか?

ってことで、きょうだけ特別に復活しようかな、と。
まあ以前からも言ってますが、おれはものすごく素人であって、基本的になにに対しても素人なのでいちいち断るまでもないんですが、アイドルに対する態度とか考えの深さとかについてもまったく素人そのものなんで、ただのつぶやきみたいなものになります。
そのうえで、おれのなかで去年、NHKの『あまちゃん』でアイドルが扱われた時点で、アイドルブームのひとつの頂点がまた終わったんじゃないかなって思っているんです。これから何年かしてそういうブームはまたやって来るのだとは思うけれど、あそこでいったんなにかが打ち止めになったっていう感じがものすごくあった。それはさっきも言った「主婦が相場にやって来たヤァヤァヤァ!」ってのと同じで、天下のNHKの朝ドラっていうのは、視聴者層の幅を考えるとものすごく「裾野」の部分なわけで、そこまで来たってことは、あとはもうコピーのコピーしかなくなるってことなんじゃないかっていう直感がすでにあのときあったんです。
あのさ、憶えているかな。『あまちゃん』でアキちゃんとユイちゃんがふたりで『潮騒のメモリー』をはじめて北三陸鉄道のなかだっけかな、そこで唄ったシーンとか、エンディングあたりで鈴鹿ひろ美が歌詞を替えて唄うシーンとか、紅白での「ほんとうの最終回」のシーンとか。あの『潮騒のメモリー』という曲が、ああいう内輪ノリ感のダサさとかの遥かはるか向こう側に、すごいものをつくっちゃったんだよ。あの当時のリアルタイムでの周りのバカ騒ぎ感も、ものすごかった。「観た? 紅白の『あまちゃん』? あれすごかったねー」で通じるものがあるんだもん。ああいうすべてが、アイドルに特有の賞味期限の短さと相俟って、ものすごくおれのなかで――いやほんとうはリアルタイムではおれはけっこう反撥していたんだけれども、その当時のメモやらなにやらを引っ張りだしてきて読んでみたりすると、なんかいまでもぞわぞわするものがあってさ――だからおれのなかで特別なものになっていたんだということに気づかされたんです。
で、それでさらに同じ年にAKB48が『恋するフォーチュンクッキー』でしょ。あのPVの連鎖反応とかさ、詳しくはわからないんだけど指原莉乃がセンターとかってさ、もうあまりにもできすぎのストーリーで、あれもまたAKBの頂点だったんじゃないかって勝手に思ってんの。
で、これはものすごく私的なんですが、ももクロも去年はじめて聴いて、紅白までの道のりを一気に後追いしちゃって、で、個人的にはやっぱり紅白初出場直前の『サラバ、愛しき悲しみたちよまでが、ひとつの区切りなのかな、と感じてしまいました。そのあとのシングルがどうしてもノれなくて、ねえ……。
まあ、そういう諸々が、アイドルについてちょっとだけおれの興味が醒めてしまったおおまかな理由なんです。ただ、さっき言ったことと矛盾してしまうかもしれないけど、アイドルは完全に終わりってわけじゃなくて、また違う方面に進化していくんじゃないかとも思っています。BABYMETALは『ギミチョコ』をYouTubeで観て「これは!」と思ったし、ライムベリーは去年の『SUPERMCZTOKYO』につづいて今年の『IDOL ILLMATIC』なんかもやっぱりいい。ライヴ映像がたのしそうっていうのは、いいよね。おれは一回もライヴ行ったことないけどさ。あと、NHKのハートネットTVに出演していた大森靖子も気になるんだけど、彼女はアイドル枠というより、もっとそれ以上の興味を持っていて、まあこの話はまたあとで。
まあ、そんなところをふまえて今日は、Tomato n'Pineの『ジングルガール上位時代』をかけたいと思います。

このトマトゥンパインっていうグループを知ったときには、すでにこのグループは解散していて、それでも『ワナダンス!』って曲を聴いていいなと思ってアルバムを借りてみたんです。そしたらそのなかに、この『ジングルガール上位時代』ってのがあって、それがものすごくよかった。
曲じたいもいいんです。きょうは山下達郎の『クリスマス・イヴ』からクリスマスソングをずっとかけているけど、クリスマスソングってのは、もうただそれだけで特別なものがあって、この曲もやっぱりそういう一日限りっていう――いや、現実的なことをいえば11月くらいからかかるからそんなことはないんだけど、理窟のうえでは――そういう「縛り」っていう制限があるせいでいい曲になっている。それにくわえて、歌詞のアイデアもいい。クリスマスだからって男の子を待っているんだけど、彼が遅刻しているわけだ。そこで彼女は日比谷線を銀の橇に見立てて、「7時58分」「8時23分」「8時58分」って時間をカウントしていく。
もうね、これをしゃべっている時点ですでにぐっと鼻の奥が熱くなってくるものがあるんだけど、この、すでにいなくなったアイドルグループの、たった一日のためのクリスマスソングっていうだけでもう、おれのなかでは特別なものになってしまっているんです。
アイドルってさ、こういう特別性の象徴なんじゃないかと思うんだ。甲子園とまで言わない、高校の部活とおんなじで、ある若い年代のごくごく短い期間、すごくありがちな言い方だけどとてもキラキラしている瞬間ってのがアイドルの醍醐味であって、この曲になんかそれをまざまざとおれは感じるんです。
それでは、Tomato n'Pineで、ライヴヴァージョンの『ジングルガール上位時代』を。以上、「今週のアイドル」特別復活編、でした。


Tomato n'Pine - ジングルガール上位時代@PS2U - YouTube

今週の音楽

さて、「今週の音楽」のコーナー。今週は今年最後ということで、2014年のトップ3を発表しようかなと思っているんだけど、ちょっとわけありで、邦楽編と洋楽編とふたつに分けます。

洋楽編

まずは洋楽編の3位から。Bruno Marsの『Treasure』です。

いやあ~、これね、ぜひともYouTubeでPVもチェックしてみてほしいんだけど、音楽だけじゃなく、映像もすごくソウル・ミュージック時代っぽいつくりになっていて、ものすごくいい! これは、はじめて聴いたとき、一発で撃ち抜かれたって感じがした。ズキューン! って。口はばったいことを言うようだけどさ、音楽って、こういうワクワクするようなものがやっぱり基本なんだよね。「You are my treasure」なんておれでもわかるようなフレーズが何度も何度もリフレインされて、それを力強いベースラインがプッシュするっていう黄金律。これで身体が動かなきゃウソだって思うよ、ほんと。

つづいて第2位。 Pharrell Williamsの『Happy』。

いや~、これもいいよな~! さっきも言ったけれど、おれの場合は音楽のプラスの部分にものすごく期待していて、そりゃ陰に籠もるようなものもときにはあるだろうけれど、聴いていてたのしくなるようなものが好きだ。これまたYouTubeにはたくさんの動画がアップされていて、世界中の人たちが、みんなで「Happy!」って唄って踊ったんだ。それだけでもなんか信じられないような気分にならない? ネットで、世界中の人たちが『Happy』で踊っている動画を観てファレルが泣いているっていう動画があったけれど、あれ観たらより彼のことが好きになっちゃうと思うな。
で、世界中って言ったけれど、この『Happy』の動画をつくった人たちのなかにイランの若い人たちもいて、その人たちが当局に拘束されたっていう事件があったよね。イランでは――さっき調べてヒジャブっていうらしいんだけど――、あの髪を覆う布をつけていなかったということで逮捕されて、鞭打ち刑が宣告された。さいわい、刑には執行猶予がついたんだけれど、こういうことは絶対にあっちゃいけない。思想とか宗教なんかとはいちばん遠いところにあって、誰かを傷つけることを意図しない音楽がそんなふうに扱われちゃいけないんだ。そういう意味で、この曲は忘れたくないと思って2位にしました。
ついでに言っておくけれどそりゃ世界中にはハッピーじゃない人たちがたくさんいて、むしろそっちのほうが人数は多いんじゃないかって思う。戦争があったり貧しかったり病気になったり不慮の事故に見舞われたり。でも……なんて言えばいいのかなあ……こういう音楽は、そういう人たちを無視してつくられているんじゃないとおれは思っています。音楽は、そういうもんじゃないとおれは思っているんで。

そして第1位はこれ! Taylor Swiftの『Shake it off』!

これも聴いた瞬間、だったなあ。「うわあっ!」て思った。いつか言ったことあるよね? なんかもう、彼女が、いままさにピークにいるよって感じがビンビンしている! PVなんかを観るとよけいにそれを感じちゃうんだけど、いまこの瞬間、彼女が無敵の状態にあって、すべてがハマってしまうし、すべてが許されてしまうって感じがある。どんなことをやっても、彼女はスターだからOKなんだっていうね。
でもそれは……なんだかいまこの瞬間だけって感じも同時にあって、アイドルじゃないんだけど、スターならではの悲しみというか……おれの気のせいなのかもしれないけれど、なんだかせつなくて泣けてくるんだよ、この曲を聴いているだけで。
いやいや、元気のでる明るい曲ってことはわかっていて、音楽ひとつとってもものすごくいいんだけど、それと同時に、「ああ、『シェイク・イット・オフ』のときがピークだったね」ってあとになって思い出すことになるんじゃないかっていう不安がある。
だってさ、おととしホイットニー・ヒューストンが亡くなったニュースを聴いたとき、びっくりしなかった? あのホイットニーがさ、あの『ボディーガード』のときの『I Will Always Love You』のホイットニーが、あんなふうにドラッグ漬けになって急死するなんて思わなかったでしょ。おれ、あの『ボディガード』のときのホイットニーの全米シングルチャートでの売上記録が、それまでのボーイズツーメンの『I'll Make Love To You』が持っていた記録に並んだんだか、塗り替えたんだかっていうことをリアルタイムで知って、驚いた記憶があるんだよ。たしか『FMファン』を立ち読みして知ったんだけどね。もうそのときに、彼女のあの曲の売上を抜くものは今後絶対に出てこないと思った。そうしたらいつの間にかその座にマライア・キャリーがいて、みたいな感じで、ホイットニーが消えてしまったふうに見えた。向こうでは活躍してはいたんだろうけれど、まさかあんなふうな終わりを迎えるだなんて……。
そう思うと、スターって命が短いんだよね。いまこの現在を謳歌しているのは、日本のアイドルもアメリカのスターも一緒なんじゃないかって、こんなノリノリのビートの曲を聴いているのに、なんかしんみりもしちゃうんだよな。そういうなんやかやも含めて大好きな曲です。実は、今年のトップ3を考えていったとき、どうしてもこの曲は外したくなかったんだよね。そう考えると『Happy』も入れたいし……ってことで、洋・邦で分けました、今回は。

邦楽編

さて、洋楽編はこのへんにして、邦楽編に行きましょう。まず、第3位と第2位を同時に発表します。
第3位は大森靖子の『ノスタルジックJ-pop』、第2位は柴田聡子の『ベンツの歌』です。これはちょっとわけありで、あとのコーナーで紹介します。ちょっと長いんでね。
ざっと言うと、彼女たちのことはつい最近知ったばかりなんだけど、それぞれにかなり強い印象を受けたんでここに挙げました。その印象については後述します。

で、第1位は……平賀さち枝とホームカミングスで『白い光の朝に』!

イエー、これがおれにとっての今年のベストです! これは以前番組内で熱く語ったことがあったと思うんで、それ以上のことはいまは言えないかもしれないんだけど、一言で言ってしまうのなら、これはおれのなかで「一回性」というものをすごくよくあらわしている曲なんだよね。
きょうはずっと「特別さ」とか「特別性」なんていう言葉を繰り返してきて、これから最後までの時間でも遣うと思うんだけど、「一回性」という言葉も同じで、おれたちが人生っていうものをたった一回しか体験できないということの制限というか限界から生じて、だからこそおれたちに、多くの小さなものごとにも意味を感じないではいられないようにさせる「力」とでも言うのかな。そういう力がこの曲にはあります。
こういうのって、深夜近くのラジオで、しかも近くには誰も人間はいなくて、マイクだけに向って言っているからこそ言えることなんだと思うんだけど、おれは、そういう特別なものを少しでも多く感じるために生きたいって思っているんです。
世の中はイヤなことが多くて、やりたくないのに、でもやらなきゃならないことも多くて、そういうことに日々うんざりしていてそれでもどこかで頑張ろうと思えるのは、きっとこういう音楽なりなんかなりがあるからなんだとおれは思っています。この曲のなかにある世界っていうのは、おれがもう触れることのない世界という気がする。それはもうかなりはっきりと感じられる。自分よりもっと若くて、自分よりもっとラッキーな人たちが触れている世界、というイメージ。
でも、この歌に触れることによって、もしかしたらおれ自身にも、かつてあったかもしれない時間が蘇ってくる気がする。これも気のせいかもしれないよ? でも、そういう気にさせてくれるってことがそもそもすごいと思います。
「そんなの知るかよ」っていう声が聞こえてきそうだからもうやめるけれど、こういう、『白い光の朝に』を聴いたときに感じたようなことを、それをノートに書き溜めたりするのもいいんだけど、ときどき人に伝えたくなるよね。ならない? そういうのがおれがラジオでしゃべっているモチベーショになっているんだと思う。ま、そんなことはどうでもいいか。以上、「今週の音楽」のコーナーでした。

リクエスト行きましょう。「丸字のヤクザ」さんからのリクエスト、ジャクソン5で『ママがサンタにキッスした』です。『城戸ロティのハートにご用心 クリスマス・スペシャル』、8107kHz。

今週の言葉

さて。今週の言葉のコーナーです。
12/1にNHKEテレで放映された『ハートネットTV』の『ブレイクスルー』で大森靖子が特集されていました。おれはそのときではじめて彼女を知ったのね。彼女がインタビューなんかで応えているのを見てこれはすごいと思ったのがいくつかあったので、メモしてきました。
まず、ルールが増えていく社会でますます前例主義になっているのに対して、「前例がないし 誰も言ってない気持ちだから持ってはいけない気持ち」を言葉にしてはいけないんじゃないか、というかつての自身の気持ちを語っていた。当然これは、いまではそうは思っていなくて、むしろ誰も言っていないようなことをどんどんと唄っていって肯定していこうということなんだと思うんだけど、この彼女の「誰も言ってない気持ちだから持ってはいけない気持ち」というのはすごく鋭いと思った。
おれたちの会話とか――このラジオの放送もそう――ブログとかツイッターの言葉って、だいたいが「これまでにあったような言葉」を遣っているんだよね。毎回毎回言葉をつくっていったんじゃ、とてもじゃないけど話せなくなってしまうから、それまでに体験したものを記憶しておいて、それをあるときは編集したりちょっと改変したりして遣っている。だから、もし自分の感覚のなかにまったく未経験の表現でしかあらわせないようなものが生まれてしまったら、それを無意識に抑えこもうとしてしまう働きがある、と彼女は言っているんだと思う。その無意識は、社会の持つ暗黙の強制力を怖れて、ということなんだろうけれど。でも彼女自身はクリエイター気質だから、その違和感に気づいて、そこを突破しようとしたんでしょう。
で、MCの風間俊介に歌詞の言葉について質問されたとき、選択する歌詞については(自動書記的につくっているのではなく)意図的である、と明言していた。つまり詩なんだよね、日記じゃなくて。

ここで、さきほど2014年邦楽編トップ3で触れた、柴田聡子の『ベンツの歌』に話が飛びますね。
今年の11月に、柴田聡子の『いじわる全集』というアルバムのなかに入っているこの『ベンツの歌』という曲を聴いたときにものすごいショックを受けたんだ。きょうはその歌詞を全部紹介する。

ベンツの歌


これは風をぎゅっと切って走るクルマ
流線型とはほど遠く
どう見たってベンツじゃない
これはベンツじゃないけど風を切る
天窓が開いて風が入る
カリフォルニアみたいじゃないですか
隣のあなたはお弁当つついて

わたしはギターをもらって
照れ臭くて寝たフリをして
気づかれないように片目を開けて
またひとつポロンとやる
ベンツの歌を
ベンツの歌を
ベンツの歌を
ベンツの歌を

うるわしのマドンナも乗って
いろめき立つクルマ
なんの香りもしないうなじが
よけいに夢見させる
これはギターじゃないけど音が出る
さわればギターみたいな音が出る
三個くらいほしくないですか
あなたとわたしともひとつプレゼントに

オンリー・ユー
オンリー・ユー
オンリー・ユー
オンリー・ユー
オンリー・ユー
オンリー・ユー
オンリー・ユー
いまだけはオンリー・ユー

ちょっと音源がないので伝わりにくいと思うんだけど、サビの前の――サビは、「ベンツの歌を ベンツの歌を」と繰り返すところなんだけど――「カリフォルニアみたいじゃないですか」ってところが衝撃的だった。その前の「どう見たってベンツじゃない」とか「ベンツじゃないけど風を切る」とあって、この唄い手が、外国車=ベンツ、というものすごく単純な連想をしているのがわかる。いや、それを否定してはいるんだけど、そもそも外車=ベンツという発想があるから、これはベンツじゃないと断っているわけだ。そしてそのあとに、天窓が開くから、それを「カリフォルニアみたいじゃないですか」と形容している。これまた、サンルーフを開けて走る=カリフォルニアという単純な連想をしているんだけど、これ、このものすごく単純で幼稚な連想をそのまま唄っているところに値打ちがあると思うんだよ、おれは。
外車=ベンツとかって、こういうのって、いまの時代ならすぐに調べたくなって、それで調べてみたら、「あ、イメージと全然ちがうな」ってのがわかるじゃない? 外車=ベンツっていうのは、車にあんまり詳しくない人間の単なる先入観に過ぎなくて、だから歌詞になる前に自制されてしまうというか、修正されちゃうんだよ。
この、事前に調べて修正してしまう/されてしまうってのが、大森靖子の言っていた「誰も言ってない気持ちだから持ってはいけない気持ち」というのと非常に似ているんだと思うんだよね。「あ、ベンツかな? いや、ベンツじゃないかも」とか「へえ、天井開くんだ。カリフォルニアみたい」っていうのがたとえ率直な気持ちだったとしても、すぐにそれを否定してしまうような、「正確ではない」とか「もうちょっといい言い方がある」なんていう批判の声が自分のなかに起こってしまって、それはきっと周囲からの評価に対する怖れの裏返しってことなんだと思うんだけど、思ったこと・感じたことをそのままに表現することへの障碍になってしまうと思うんだ。だから、なるべく手持ちの札のなかでそれらしい言葉を引っ張りだしてきて、それを流用することでその場をやりつくろうことを次善策としちゃうんだけど、そうやっていくと、オリジナリティがなくなっていって、パロディとかパスティーシュとか、そういう部分に逃げていくほうが簡単ってことになっていく、ね?
さっき言ったことにちょっと結びついてしまうんだけど、素直に感じたことを素直に表現していくというのはかなり難しいことであって、そういう枠組みをいとも簡単に飛び越えてしまっている、この柴田聡子という人にものすごく感動したんですよ。で、この人の音楽をつづけて聴いていったら、やっぱりフロックとか「不思議ちゃん」じゃなくて、言葉ひとつひとつのセンスがいいってのがわかる。それをここではいちいち挙げていかないけれど、彼女の詩を聴いていると、大袈裟なようだけど世界が更新されていく感じがある。いままでにあったような言葉の遣い回しではなく、限界をもっと拡張して、もっと実感に沿った、けれどもいままで聴いたことのないような表現を生んでいると思う。
実はおれは毎日ひとつ、俳句か短歌を詠んでいるんですが、ちょっと前に、この『ベンツの歌』の中にある「流線型」という言葉を遣って短歌をつくりました。もちろん「流線型」という言葉を知らないわけではなかったけれど、どちらかといえば無機質な言葉だと思っていたので、短歌に利用することじたいがものすごくたのしかった。それはパクリとかそういうことではなく、単語によってイメージを喚起されて、それをさらに違うイメージ世界に適用していくたのしみがあったんだよね。

つけ足しみたいになってしまうけれど――違うからね――大森靖子の歌詞にも、そういう新しい言葉を遣っていこうという試みは感じられます。安藤桃子が「多機能トイレ」という言葉を面白いと言っていて、ほかにも、ふつうのJ-POPでは遣われない言葉がある、と指摘していて、それは「笑笑」とか――居酒屋のね――ニンニクラーメンってことなんだろうと思うけれど、といっておれは彼女の、『ノスタルジックJ-pop』では、

そんな歌くらいでお天気くらいで 優しくなったり悲しくなったりしないでよ

とか

噂とちょっと違う君が わかってくれるわかってくれる ノスタルジックJ-pop

なんていうフレーズがよかったんだよね。おれのなかでは、彼女の歌詞はあんがい計算がきちんとされていて非常にバランスがいいという印象があって、でもそれは小賢しいとかそういうことじゃないんだけど、そういうのに較べればわりとありきたりの言葉を遣ってナイーヴな部分を唄っているところがうまいと思うし、いちばん好き。
で、もうちょっと彼女の話のつづきね。
彼女の目指す歌の形、というのかな。彼女はアイドルが好きらしく、アイドルの歌にはものすごい力がある、と。けれども、ものすごい失恋をしたり家族が亡くなったなんていうとき、そういう歌は聴けない。そういうときの、「-100のものを+100にする力じゃなくて、-100のものを-99にする+1の力の持つ音楽」の必要性について語っていた。しかも「上質であること」を条件につけ加えていた。たぶん彼女の歌がそうであることを望んでいるのだと思う。
こういう言葉も、コピーみたいにうまいし、そして実際にそう思っているんだろうね。それを知って彼女の唄っている画面を観ると、ものすごくパワフルでものすごいエネルギーを感じてしまう。ライヴ映像をちらと観ると椎名林檎の歌唱スタイルに似ているようでもあるけれど、椎名林檎とは全然別物のように感じてしまう。
おれは椎名林檎のデビューからちょっとしてくらいをほぼリアルタイムで体験したけれど、もっと「売れたい!」って感じが強かったと思う。これはもうおれの個人的感想にしか過ぎないんだけれど、売れた先になにかあるという気もあまりしなかったし、とりあえず自己顕示欲を死ぬほど満たしたいという感じがあった。深夜番組でねじめ正一が彼女の『歌舞伎町の女王』を取り上げて、このどこがすばらしいのかを講義しているのをちらと見たことがあったけど、興味がなかったので途中でやめてしまったのを記憶しています。林檎の場合は、あまりにも計算が見え透いてしまっていて鼻白むものがあったんだよね、おれは。いまは知らないけれどね。
で、大森靖子の番組の話に戻るね。このなかである女子大生が大森靖子を学園祭に呼ぶっていうので、いままでずっと引っ込み思案だったんだけど、はじめてオーガナイザーみたいなことをやった、っていうのがあった。彼女は、むかしはいじめられてもいて、自分自身に自信が持てなくて、そういうときに大森靖子の音楽を聴いて自分自身の変るきっかけをもらった、というようなことを話していた。この女子大生がほんとうに「少女」っていうくらいに幼い感じで、その場に写っていた他の学生さんたちもみんなものすごく幼い印象だった。いまどきの二十歳ってあんな感じなの? 高校生みたいだったよ。
で、なんとか大森靖子を呼ぶことができ、会場の設営とかお客さんの誘導なんかを終えて、コンサートの始まる直前に主催者側の挨拶として彼女が泣きそうなくらいの小さな声で、「短いあいだだけど大森靖子の音楽に支えられてきた、みんなにも聴いてほしい」というようなことを言っていたんだけど、なんかそこんところを観ていて不覚にも泣いてしまって、泣いてしまってから、あ、おれって正真正銘のおっさんだなって思った。
番組で取り上げられているからかもしれないけれど、彼女の音楽について若い世代の多くの女の子が言っていたのは、「自分にもそういうことってある!」とかもうちょっと言うと「救われた!」みたいなことらしく、一方、大森靖子はオーディエンスを全肯定したいって言っていて、ここらへんの信頼性をひっくるめて彼女の存在はすごいなと思う。
ひとりぼっちだ、とか、なんでわたしだけ、とか、そういう疎外感を持っている人たちがいて、その人たちに対して唄っているということをきちんと明言しているのも立派だし、けれどもそこには「許容する」というような上位層から下位層への承認ではなく、同位層での寛容性の余地の提示、みたいなものがあるんだと思う。もっとわかりやすく言って、自分たちを否定するやつらに負けないようにしよう、ということであり、インタビューで大森靖子自身も、自殺しようと思ったことは何度もあったけれどそれだと自分を否定してきた人間たちに負けてしまうことになって、それがイヤ、ということを言っていた。そしてそれは、『ノスタルジックJ-pop』の歌詞中にも、

あんな奴に殺されるのはちょっとダサいからスーサイドやめた

というフレーズであらわれている。そしてこのへんは、去年おれが大感動したマキシマムザホルモンの『予襲復讐』の世界観にも共通のものとしてある。

嗚呼。我々は 今 あなた方を黙らせに来た訳なのだから‥
ただ白帯のまま 黒帯のお前を倒して 帰るだけなのです

とか、

嗚呼。我々は過ぎた すべての恨みを晴らして 生きるのも辛いから‥
まだ血を帯びたまま この胸の殺された想いを…
ぶっ生き返したいんです

みたいな、ね。どうやらおれはこういう世界観にものすごく揺り動かされてしまうらしい。

彼女の出したアルバムに収録されている曲をいくつかYouTubeで聴いたら、案に相違して、これがものすごくよくできていて驚いた。ライヴ映像で感じられたようなアングラ舞台っぽい情念の世界、ではなく、もっとポップでキャッチーなサウンドがあって、そのうえに彼女の非ポップ・非キャッチーな歌詞が乗っかっていてそのバランスがものすごくいいと思った。ただしおれは、ライヴのときのようなあの魂を燃やしている感じに、より興味を持ちました。こんなところを話して「今週の言葉」を終わりにしておこうと思ったんだけど、たまたまきのう手に入れた短歌の本で永田和宏という人がさっきおれが言ったようなことを書いていたんで、それも紹介しておきます。
『現代秀歌』という本の124ページあたりから。穂村弘

終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて

を取り上げて、正確には「降車ランプ」と呼ぶらしい「それ」を、「降りますランプ」としたところにこの歌の眼目がある、と。ちょっと長くなるけれど引用します。

私たちが歌を作るとき、誰もがそれを指し示す言葉に疑いを挟んでいては、歌にならない。特にモノを示す名詞は、誰もが了解できる形で、その指示されるモノと一対一でイメージを繋いでくれるはずだという前提に立っている。しかし、時に、目の前のものを何と呼んでいいのかわからない場合がある。自分が知らないだけかもしれないし、まだそのモノに名前がないという場合もあるだろう。そんなとき、そのモノの歌を作ろうとすれば、どうすればいいのだろう。

ちょっと飛ばして、

私は個人的には、このような「まだ」名前のないものをどうしたらいいかということをとてもおもしろく感じている。たとえば、病院へ行くと、外来の待合室からいろんな色の線が廊下に伸びている。その線を辿ってゆくと、その先はX線検査室だったり、血液検査室だったり、放射線治療室だったりする。この線に名前はあるのだろうか。たぶん、あるのだろう。だが、そんな正式な名前でなくて、自分が感じてぴったりする名前でこの線を歌のなかに登場させられればいいな、などと思ったりするのである。こういう些細なことも歌を作る楽しみの一つである。

ということなんだけど、これもまた、自分の感じたとおりに世界を更新させていくということなんじゃないかとおれは我田引水しておきます。じゃあコーナー最後に、大森靖子で『ノスタルジックJ-pop』をかけます。

つづいて、言葉といえばクリスマスソングで戦争の終わりを訴えたものがありました。『イマジン』と同じく、まず想像することから始める、という思いがそこにはあったと思います。John Lennonで『Happy Christmas』。『ハートにご用心 クリスマス・スペシャル・エディション』、8107kHzです。

今週の読んだ本

さて、「今週の読んだ本」は、他のコーナーと同様、2014年のトップ3に変更だけど、その前に。
今年、2014年は、文学界のふたつの巨星が墜ちました。大西巨人とガブリエル・ガルシア=マルケス。ふたりには共通点がいくつかありました。そうと意識してはいなかったろうと思うけど、彼らの作品の多くは、世界文学とはなにかという基準を示したと思うんだ。そして同時に、それぞれの生まれた土地に根づいた、その場所でしか生まれなかったであろう小説をものし、世に問うている。
その一方で、片や世界の寵児となり、片や日本文壇の味噌っかすとしてその名声には大きな差があった。ガルシア=マルケスの訃報に接してなにか言おうとした人は少なくなかったと思うんだけど、大西巨人についてはそれほど多くなかったんじゃないか。
じゃあ、大西巨人の小説はたいしたことなかったのかというと、それについての答えは、「NO!」どころじゃない。「ふざけんな!」です。もうね、『神聖喜劇』を読んじゃったら、しばらく呆けてしまって他の小説なんて読めなくなってしまうよ、ほんとに。おれの場合はそうだった。四半世紀もかかってできあがった小説だけど、そういうこと抜きにして、ものすごいものを読んでしまった、という感じ。
なんかさあ、生意気な話なんだけどね、ちょっとやそっとの小説を読んでも、面白いと思いつつも、「でもここがもうちょっとこうだったらなあ……」みたいな不満というか、ツッコミどころが必ず少しはあるんだよ。それはさ、読み手の驕りとも言える。ついつい生意気な読み方をしてしまうんだよね。
でもさ、『神聖喜劇』は違うんだよ。あらゆる批評家を拒否している。批評なんて、この作品の前では絶対に霞んでしまう。もっと違う次元にあるんだよ、あの小説は。もう、言葉を費やさなくていいんだよ、「読めばわかる」というだけなんだ、突き詰めるところ。機会があれば、ぜひ。とりあえず、この番組でも何回か取り上げていますが、『神聖喜劇』の奥書の文章を読んで、次に行きます。

「文春文庫」版奥書き


さしあたり私は、もし私の著書が三百部ほど売れたならば、言い換えれば、もし私の著書が有志具眼の読者約三百人に出会うことができたならば、それは望外のよろこびであろう(さらにもし同様の意味合いにおいて三千部ほど売れたならば、「以て瞑すべし」であろう)、と考える。
しかし、また、――「上木」、「上梓」ないし「出版」という言葉の反意語は、「筐底(きょうてい)に秘す」であろうか、――私は、私の作物を「筐底に秘」しておくことなく上梓した以上、それが三億部か三十億部か売れることをも願望せざるを得ない。光文社刊四六判五巻本は、さいわいにしてかなり刷をかさねた。この文庫版の売れ高が先行き三億部なり三十億部なりに達することを、私は、期待する。


一九八二年陽春
大西巨人

今年のトップ3の前に、いま急いで家に帰ろうとしているみなさん。車に乗っている方はどうぞ安全運転でお願いします。曲を一曲。Chris Reaで『Driving Home For Christmas』。『ハートにご用心 クリスマス・スペシャル・エディション』、8107kHzです。

さて。
今年読んだ本のなかでのトップ3です。
まず第3位。高田郁『みをつくし料理帖』シリーズ全10巻。

八朔の雪―みをつくし料理帖 (ハルキ文庫 た 19-1 時代小説文庫)

八朔の雪―みをつくし料理帖 (ハルキ文庫 た 19-1 時代小説文庫)

これは今年とうとう完結したんだけど、おれは今年から読み始めたんで、なんか最後にだけ立ち会えてものすごくラッキーだったなと思っています。とにかく、この話はキャラクターそれぞれがどうなってしまうんだろうってことが気になって気になって。最初のほうでは「え? これで何巻もつづくの?」っていう不安もあったんだけれど、次々とヒロインやヒロインの周りに不幸は起こっていって、つづきが気になってあっという間に10巻を読み終えてしまったんだよね。
前にも言ったことがあったかもしれないけれど、料理屋で働くヒロインが、庶民がおいしく思える料理をつくることに心を傾けている、というのがいい。最高級品食材をつかって○○をつくる、みたいなものでは決してないんだ。それにヒロインたちじたいもだいたいがみんな庶民であって、肩を寄せ合って生きている。そしてその多くが、血が繋がっていないんだけれど実の家族みたいな絆を持っている、ということが押しつけがましくなく描かれていて、これもまたいいよね。
この本を読んでいて、むかしは本当に天災というものに怯えて暮していて、だから信仰心も自然と篤くなっていったんだろうということ、そして、科学的な天気予報なんてまともになかったろうから、結局は神信心に頼るしかなかったのだろう、というのが本当によくわかった。いまのようにいろいろなものが保障されている時代じゃなかったから、不条理が自然なわけで、災害に対する不条理を恨むことすらなかったんだろうと思う。そんな江戸の街を気持ちのよいほどまっすぐに生きていこうとする澪ちゃんを、誰が応援せずにいらりょうか。
あと、筆者がはじめから10巻で物語を終わるつもりだったと書いているが、これが本当に誇張ではないことも全巻を読めばわかる。伏線が実によくできているし、そしてなによりもかによりも、最後の最後に、きちんとすべてが丸く収まるというのがすごい。これ、「~ということを澪は心に誓い、きょうも仕事に励むのであった(未完)」みたいな終わりじゃないからね。すべてについてきっちりと伏線回収します。最後は拍手もんでした。
で、これを読み終えた読者たちとは、きっと「ドラマにするんだったら、誰をキャスティングする? え、北川景子はちょっとイメージ違うでしょ。おれだったら澪ちゃんは剛力彩芽で……え? 剛力はダメ?」とかそういう話が始まると思う。ほんとうはこれこそ朝ドラでやってほしかったんだよねえ。そういう意味では残念です。

つづいて第2位。増田俊也で『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか』。

これは先月読み終えたんだけれど、ものすごく面白かった。ノンフィクションで、戦前、史上最強の柔道王と呼ばれた木村政彦が、戦後、力道山とタッグを組んでプロレスをし、そして仲違いを起こして「昭和の巌流島」と呼ばれる決戦を行うんだけど、それがいまでいう「セメント」とか「ガチンコ」と呼ばれる試合になってしまって、ものすごく陰惨なものになり、木村はボロ負けをする。
以後、彼の人生は「力道山に負けた男」としてつづいていく……というのが基本的な筋だけど、筆者自身が北海道大の柔道部出身ということもあって、柔道じたいにものすごい知識があって、もとは木村の汚名を晴らすために格闘技雑誌の連載を始めたという経緯があって、とにかく結末に至るまでの膨大な取材量に圧倒される。
話の半分は、戦前戦中の話で、筆者は連載時には四十代なかばだというのにどうしてこんなことがわかるんだろうと思っていたら、あとがきでその理由がはっきりとわかった。資料収集と取材を始めたのが筆者27歳のときで、連載終了時が45歳とのこと。そして多くの事実認定のために、できる限り一次史料にあたることによって、いままでの他の作家による取材では届かなかったところまで行き着くんだけど、ここまでやるという執念の根源にあるのは、まさに木村の汚名、柔道の汚名を晴らすためなんだよねえ。
この一冊――実際には文庫本上下巻であわせて1100ページほどあるんだけど――を読んでいるうちに、ただの柔道家の評伝ではなく、戦前・戦中・戦後直後にあった柔道の複雑な歴史や、プロレスの歴史を知ることができて、さらにはブラジル移民が戦後に見舞われた不幸すぎる社会状況や、いまをときめくブラジリアン柔術の成り立ち、それから、すべてのものごとの根本にある、人間というものの複雑さ――悲しみとか愛らしさとか憎しみの総合体としての人間――を堪能することができます。
出てくる人物がみなものすごい。鬼と呼ばれた木村政彦。そしてその鬼を育てた、やはり鬼と呼ばれた牛島辰熊。これで本名というのが笑ってしまうくらいなんだけど、この人物の写真を見たらもっと笑えるよ。まるでマンガの主人公。エピソードを聴いたらマンガ以上でとにかく驚愕の連続。
他にもたくさんいる。ご存じ力道山極真空手大山倍達、合氣道の塩田剛三、なんとグレイシー一族の長老だったエリオ・グレイシーまで。この人たちが血肉の通った人物としてこの本には登場してきます。
とにかくもう、格闘技に詳しくなくても、壮大な歴史ノンフィクションとして読むことができると思う。作者の迷いながらも書いていくというスタイルが、文章に緊張感を生み、それが取材相手たちにも伝わるのか、いろいろな証言を引き出していく。当時の競技人口を考慮すると柔道で最強だった木村はおそらく世界最強だったであろう、という結論がこの本のなかで導き出され、しかしそれではなぜそんな男が力道山にボロ負けしてしまったのか、そして、そもそもそれは真剣試合になるはずだったのか、という謎へと帰着していくんだよね。
「答え」は言わないでおく。とにかく木村は負けて、母校の拓殖大学の柔道部の顧問として今度は鬼の継承者をつくっていくんだけど、そこの部分だけでも――戦前の話に較べると短いんだけど――もう青春小説みたいになっていて、涙なしでは読めない。そして、筆者は最後の最後まで悩みぬき、そして最後の最後で、このノンフィクションのエンディングを変更する。
長くながく書かれた物語は、結局、人間の愛についてのそれだったことがわかる。「え? いきなりなにを言ってんの?」とか言わないでね。本当なんです。愛っていうから変に聞えるんだけど、信頼とか絆なんていう言葉よりもっと高みにある概念で、それが木村とその師とのあいだにあって、さらに、木村とその弟子とのあいだにもあるんだよ。人間ってすごいし、人生ってすごいと思えた。
そして、それを伝える言葉というものの重要性を思い知らされることにもなる。その言葉が、嘘を伝えてそれを真実に変えていこうとする働きを持っていることに驚くことになると思うんだ。抽象的な話ではなく、実際にこの本では、そういう部分が出てくるのよ。歴史は勝者の歴史でもある、ということが。とにかく、大著ですがおすすめです。

そして第1位は、北方謙三史記 武帝紀』です。

史記 武帝紀 1 (時代小説文庫)

史記 武帝紀 1 (時代小説文庫)

これはもう、以前に長々と話したことがあったと思うので多くは割愛するね。大水滸伝もついに第三部の完結編に突入し、現時点で岳飛伝も単行本で11巻まで刊行されているんだけど、その合間に全7巻を仕上げるというちょっと考えられないペース。けれどもこの7巻はすごく重みあったなあ。
いちおう劉徹という漢の武帝が主人公という形をとっているけれど、実際は李陵と蘇武が主人公だし、後半は、最初は敵だった匈奴の方に視点が移っていくのも面白かった。武帝の治世は半世紀もつづいたのだが、はじめのほうはともかく、後半はろくなことをしていなくて、北方小説にしてはすっきりしない部分も多い。宮廷内は讒訴と誅殺の渦ばかりで暗いし、匈奴との辺境戦もあまり目的も明確にされないまま命令が出されるものだから、将兵たちの士気も低い。そうなると、一度は叩きに叩かれて長い雌伏の期間を耐える匈奴のほうが、より北方ワールドの住人という感じがあるのは当たり前。でも、張騫や蘇武のサバイバル生活がものすごくて、彼らが不条理で暴力的な世界に対して不屈の精神を発揮しているところを読むと、やっぱり心が震えるんだ。この心の震えがたまらないんだよね。来年こそは、岳飛伝が完結して、文庫本が刊行開始されるんじゃないかと期待しています。

さて、番組もそろそろ終わりの時間が見えてきました。ここらへんで静かな曲を。Simon & Garfunkelで『7 O'Clock News/Silent Night』。

エンディング

今年は、何月からか忘れたけれどNHKEテレ宮沢章夫の『ニッポン戦後サブカルチャー史』というのがやっていて、観た人も多いんじゃないかと思うんだけど、どういう感想を持ったのかな?
おれはあの番組についてはいくつか違和感を持ったところがあって、それは正確な情報うんぬんってところからじゃなくて、かなり恣意的だなって思ったんです。詳細はもう時間がないから端折るけれども、あれは頭に「宮沢章夫の」という言葉をつけるべきで、彼の感じたサブカルチャー史という位置づけがいちばんいいんじゃないかなと思った。おれのなかではサブカルチャーという言葉が、いまなぜかよく見聞きする「サブカル」という言葉といまいち結びつかなくて、しかもそこにファッション性なんかも感じられるような風潮に妙な想いも持っている。
おれの実感としての「サブカル」っていうのは、ヴィレッジヴァンガードみたいなのじゃない、一般の書店の「サブカルチャー」の棚そのもので、『VOW』とか『ムー』とか『さぶ』とか『薔薇族』とか心霊写真本とか稲川淳二の怪談とか、そういうごちゃごちゃしたものだったんだけどな。メインカルチャーハイカルチャーに対するサブカルチャーという意味では、アングラ系の芝居なんかを思いつくけれど、それもまあ知識としてあるだけで、そこに足を運んでいない以上なんとも言えないしなあ。
そういうもともと定義の曖昧な分野に対して、網羅的な研究がなされているとも思えないし、ましてや宮沢が若い時分の頃(60年代)からを語りだすというのはちょっと無理があると思った。学術的には無理、という意味で。
そういう点を大目に見ればいろいろと興味深いところがあったのは事実で、あの番組でおれはふたつ収穫といえるものがあって、ひとつは大滝詠一のラジオ音源をYouTubeで漁るというたのしみを知ることができた。NHK-FMで放映された『日本ポップス伝』のパート1とパート2は、あわせて15時間ほどあったんだけど、これはものすごく面白かった。全然理解できていないんだけど、それでも音楽に対する考えというのはだいぶ変りました。大滝詠一じたいの哲学というのかな、たとえば「すべてには始まりというのがあるんです。『昔からある』とふだん思っているものでも、辿っていけば必ず最初っていうのがあるんです」というような考えは、音楽に限らない話で、まさに一次史料に当たる大切さなんかを教えてくれるよね。で、これは抽象的な言い方になっちゃうんだけれども、知識っていうのはそれ単体だけを知ればよいってものでもなくて、その周辺にあるものを知っていくことが重要なんだよね。音楽も、音楽だけを取り出していくんじゃなくて、その時代背景にも着目していかなくちゃならないってこともよくわかったなあ。まあ、わかったつもり、なんだろうけどね。
で、もうひとつです。もうひとつは、林美雄という『パック・イン・ミュージック』という深夜ラジオのDJをやっていた人のこと。
サブカルチャー史』の中でもこの人のことはけっこう言及されていて、宮沢章夫自身がものすごく興味があるというのがわかったんだけど、ネットで調べたらなんと彼は、林美雄についてのラジオ番組をつくっていて、TBSラジオで2013年の12月27日に放送しているんだよね。『林美雄 空白の3分16秒』っていう番組です。
この林っていう人は、1970年ごろから1980年までのほぼ10年間、『パック・イン・ミュージック』という番組でDJをやっていて、その最終回のときに彼は、3分16秒のあいだ黙ってしまうんだよね。その番組での宮沢章夫の疑問は、なぜ彼は黙ってしまったのだろうか、あるいは彼はなにかを言っていたのだろうかってことなんだ。3分16秒ったらけっこう長いよ、その沈黙のあとに、テーマ曲の終わりのあたりで声が復活する。
「……音としては出ていませんでしたけども……いろんなことを言いました、いま。だから、勘弁してくださいね」
そう言って、もう二度と声は復活せずに音楽が流れていって、番組は終わるんだ。
この番組は、YouTube上に音源としてあるから興味がある人はなるべく早くアクセスしておいたほうがいいよ。これも大滝詠一が言っていたんだけど、大事なものはいつまでも「そこ」にあるとは思わないほうがよくて、すぐに手に入れなくてはいけない、と。実際に、大滝詠一の『日本ポップス伝』のパート2の音源は、YouTube上でいったんアップされていたんだけど、それはすぐに削除されちゃっているんだよね。いまは違う人が途中までアップしているみたいだけど、本当に大滝詠一が言っているとおりだと思った。
話を戻すね。詳しく知らないことなのでくどくどとは書かないし書けないんだけど、その『パック・イン・ミュージック』という番組が終わるとき、サブカルチャーの水先案内人であった林美雄はその役目を解かれようとしていたらしい。若い人たちは、林のような、地道に足で面白いものを探すというやり方をもう選ばなくなっていたらしく、それについて林が苛立ちを覚えていたということがあったらしい。らしいらしい、で申し訳ないけど、でも断言するほうがおかしいからそうつづけるけれど、ここらへんが非常にリアルで、申し訳ないけど興味深く感じられて、林美雄側からすると「世の中がどんどんとひどくなっていく」ってことだったんだろうけれど、その「若い人たち」の側からすると、もう古くなってしまった人ということだったのかもしれない。
番組の最後に、彼と同期の久米宏が登場してきて、林美雄がラジオに対して絶望を感じていたんじゃないかと発言していて、きっとそうなんだろうと思った。同期だけにかなり正直だった久米宏の解説がかなり的を射ている感じがあって、結局、林美雄の役目がユニークなものではなくなっていたってことなんだろうね。
いまのおれは、実はこの人が最終回を迎えた年――37なんだけど――と同い年だから、「若い人」とか「絶望」という感覚にかなり違和感があって、少なくともいまの時代の37歳っていうのはまだ若い人のカテゴリーに入ると思うし、絶望するには早過ぎるという気もするんだ。いや、でも35年ほど前の37歳はいまの47歳くらいの感覚だったのかもしれないし、それにご本人が一所懸命に力を注いだからこそ、挫折感みたいなものも強かったということなのかもしれない。
こういう一時代を築いた人の言葉っていうのが、生で残っているというのがラジオ音源のすごいところだと思うな。これが文章だと全然人間の息遣いを感じられない。いや、文章でも残っていればそれなりに価値があるんだけど、実際の声というのは、まとまりが悪いぶん、すごくよく人間が見える気がする。林美雄が黙ってしまったところに流れていた音楽は、『青春の蹉跌』っていうんだけど、「蹉跌」っていうのは磁石でくっつくやつじゃなくて、つまづきのほうのね。この題名が実にぴったりでねえ。
いまになって聴くと、全然思い入れがなくて聴くと、ということなんだけど、林さんご本人もまだまだ青春時代で、まだまだ若い人たちの一員であって、ちょっとしたつまづきをしただけだったんだという感じがしたなあ。この方、若くして亡くなっているから失意のままに亡くなっているようについつい思っちゃうんだけど、本当はこの番組の最終回じたいも、青春の一ページってことなんだと思った。知らないことに口を出すべきじゃないと思ってはいるけどね。

ラジオの面白さってなんなのかな、とおれも考えました。いや、ラジオっていう言葉を遣っておれは違うなにかを言おうとしているのかもしれないけれど、みんなが聴いてくれるようなものを、そのように狙ってつくるというのは最初のうちはたのしいかもしれないけれど、そのうちそうでもなくなってくるんじゃないかと思う。
多くの人が聴いてくれなくても、自分のしゃべりたいことをしゃべるっていうのは、たのしいことです。ちょっとむかし、近くで人がこんなことを話しているのを聞いたんだ。面白いラジオ番組にして注目されたいんなら、なにかにテーマをしぼればいい、それをきれいにまとめて洗練していくことによって、聴いている人がこちらのメッセージを受け取りやすくなって喜んでくれる、そういう役に立つ番組をつくればいいんだよ、と。それを聴いていておれは、盗み聞きのくせに「ふざけんなよ」って思った。だからおれは、このラジオでことさら情報を受け取りにくいように努めてきたんだ。まとまりが悪くて、長いあいだ聴いても、「結局なんだったんだ?」って感想しか持てないような、居酒屋のおしゃべりみたいなもののほうが、おれは好きなんです。
誰かに暴力的で理不尽な批難をされて、それでも、ごくまれに誰かが救ってくれるようなメッセージをくれたりして。しゃべっている人間に気持ちがあるからこそ、腹が立ったり絶望したりするのかもしれません。もういいや、やめてしまおうと思うことも幾度もあって。けれどもなんとなく、恥ずかしながらつづけているところもあって。こんなことになんの意味があるんだろう、と思うときもやっぱりあります。でもその都度その都度で気持ちを立て直して、ここにすわればやっぱり思いっきりしゃべってしまう。
こっちに気持ちがなければ、なにを言われてもどこ吹く風ってことになるんじゃないかな。そんなの、しゃべっているほうも、聴いているほうもつまらないよ。さっきも言ったけど、「なんでもアリ」なんてなにも言っていないのとおんなじなんだよ。
……ってことを話してきて、そろそろ終わりの時間だね。
実は、この番組はきょうで最終回なんです。おれ個人としてはしばらくのお休みってことになるけれど、番組は今年最後、ということじゃなくて、ほんとうの最後、最終回です。おしまいです。また違う形で復活ということもあるかもしれないけれど、わからないです。さよならは、するべきときにしたほうがいいとも思います。へたに保留しておいてタイミングを逸するということもよくある話だから。
だから、いったんここでみなさんとはさよならです。突然だけど、突然くらいがちょうどいいという気がします。何週間前から告知しておいて、なんてちょっと野暮でしょ。だから、いまこのタイミングでお伝えしようと思っていました。いまさよならを口にするまで、おれ自身もそれがなんとなく信じられないような思いでしたが、でもこれでやっと本当になりました。ありがとう。
短い期間でしたが、毎週、おれの二時間の話につき合ってくださってありがとうございます。もう、長話は終わりです。くどくどとはつづけません。
それでは、先人に敬意を表して、『青春の蹉跌』のテーマ曲でお別れしましょう。『ハートにご用心 クリスマス・スペシャル・エディション』でした。バイバイ。

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皇后の美智子さんの歌をいくつか目にしてこれが非常によかった*1ので、それを紹介していたサイトに掲載されていた永田和宏『現代秀歌』を購入した。本書は、現代版の百人一首をつくり、これらの歌を百年、二百年の後世へと伝えることを目的としている。
昼休み、それを読みながら短歌をひとつ詠んでみた。

巻き寿司の金魚醤油の醤油こぼれ 『現代秀歌』に滲みをつくれり

この本をぱらぱらと捲っているだけで、短歌が非常に奥深いということがわかる。マチちゃんやヒロシくんでなくても、瑞々しい歌は(おそらく)たくさんあるのだ。
たとえば、

観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ) - 栗木京子(1984)

あの夏の數かぎりなくそしてまたたつた一つの表情をせよ - 小野茂樹(1968)*2

など。

これに感化されて、さっそく来年は家族と歌会を催すことにした。これでどんどんと作っていけばいつかは宮中の歌会始などで一般の部で出て、それがNHKなんかで放送されたりして。

実況「一般の部、この次は、和歌山県の泥田適助さんです。まず歌が詠まれます」
詠み手(?)「まーきーずーしーのー、きんーぎょーしょーゆーのー、しょーゆーこーぼーれー、げーんーだーいーしゅーかーにー、しーみーをーつーくーれーりー」
実況「さて、解説の伊井香元斎先生、よろしくお願いします」
解説「はい、よろしくお願いします」
「それでは先生、解説を」
「これはですね、かなり、挑発的であり意欲的な作品ですね」
「と言いますと?」
「上の五七五でとても平凡で身近な題材を用いつつも、そのなかに『金』の文字を入れ、まず本日の歌会を言祝いでいます」
「ほう?」
「それから、下の句で現代秀歌に滲みをつくる、と言っているのは、これは、ソフィスティケートされたあまりにコンサヴァティヴなところにとどまりつつある現代の短歌界について、『滲みをつくってやるぞ』つまり、汚し、価値観の転換を迫り、新しい色をおれが提示してみせるぞ、とこういう意味なのです」
「そうなんですか?」
「はい。そこに上の句が生きてくるわけで、つまりその武器は、日常生活であると。日常生活のなかにある言葉をつかって、歌に革命を起こすという、実に意欲的な歌なのです」
「なるほどなるほど……あ、ただいま泥田さんのインタビューが取れたようです。ええと……泥田さんのコメントです。『スーパーで298円の巻き寿司を買って食べながら『現代秀歌』という新書を読んでいたら誤って醤油をこぼして慌てました。巻き寿司セットはその値段にしては他のスーパーより稲荷寿司が多く入っていたので、得した気分でした』とのことです」

*1:サイパン慰霊の歌。「いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし」

*2:情の旁は靑。

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12/1に放送されたEテレ『ブレイクスルー』で大森靖子が出演していた。僕はこのときはじめて彼女を知ったのだけれど、ものすごくよかった。
詳しいことはまた別記事に書くとして、その番組内で彼女は、地元の高校でなかなか同級生に馴染めず、上京してから通った美大でも失望を覚えて、コミュニケーションに飢えていた、と話していた。このときについての

ノートに落書きしていて、それをめちゃくちゃ(人に)見てほしくてしょうがなかった。ちょっとした面白いことを話せる人がいなかった。

という言葉が、なんだかものすごく寂しくて、けれどもものすごくよくわかった。

僕が二十歳くらいのときは、ラッキーなことに(遠距離恋愛だったものの)年上の恋人がいて、その人が住んでいる宮崎に毎日手紙を書いていた。毎朝、家の近くのポストに第一便の集荷時間より先に手紙を投函し、それから一日が始まった。何ヶ月ほどその関係がつづいたのか忘れてしまったが、別れるときまでその行為はつづいたはず。内容は、読んだ本の感想とかだったと思う。もちろんそのほかに、「好きよ」くらいのことも書いたと思う。
毎日こちらが書いても、相手の住んでいたのは郡部の「大字なんたら」というところだったので、郵便は三日ぶんがまとめて届くということを後で聞いた。なお、この彼女とは別れてから十六年後にインターネットを通じて連絡を取るようになり、いまだに、そのときの手紙の束を持っているというようなことを話してくれた。
恋人に限らず、友人などにも、相手にわかる範囲・興味のある範囲のことを手紙で長々と書いていたものだ。話す相手としては家族がいちばん手っ取り早かったが、一人暮らしを始めると電話することもなくなり、家で黙々と日記をつけていた時期もあった。携帯電話を持っておらず(いまも持っていないけれど)、そして固定電話も引いていなかった時代は、僕自身が僕の話し相手だった。もともとそういう気味はあったのだが、黙っていてもつねに頭のなかでは僕の声が聞えていた。いま考えればたしかに、誰かにそれを聞いてほしいという思いは相当強かったはずだ。

なんてことを思い出していたら、ふと、ネットで簡単に「おまえ、死ねよ」という言葉を書けるのは、メッセージを伝える手段が簡便になっているからではないかと思った。
僕が手紙をせっせと書いていた十七年前であれば、ネットはいまほど隆盛ではなかったと思うから、「おまえ、死ねよ」というメッセージを見知らぬ相手に伝えることにけっこう苦労したと思う。
十七年前はどうだったか知らないが、もっと古い時代なら、単行本に作者の住所が書いてあることも多く、そこに直接手紙を書くこともあったろう。
便箋と封筒とペンと、ときには修正ペンとのりを用意して、そのうえ切手を貼って赤いポストを探さなくてはならない。
そこまで手間を掛けるのであれば、便箋に書く内容だって自然と丁寧なものになるだろう。Wikipediaやグーグルがないから、古本屋で入手した『手紙の書き方文例集』なぞを見ながらあーでもない、こーでもないと首を捻る*1

謹啓 歳末ご多端の折、ますますご清祥でご活躍のことと存じます。当方もおかげさまをもちましてつつがなく過ごしております。
さて、この度は貴兄の文章を拝読したところ、いささか得心のいきかねる点が散見され、そのことについて非常な不快を覚えましたことをお伝えしたく筆を執った次第です。
願わくは、貴兄の鬼籍に早く入らんことを。
風邪など召されませぬよう、ご自愛専一ご精励くださいますようお願い申し上げます。

敬白

平成九年十二月二十三日

泥田適介

東塔太郎様

苦労して、そして便箋を何枚も反故にして、これならまあいいかと自身で納得したものを封筒に入れ投函する頃には、「死ねよ」という脊髄反応的な感情は相当薄まっているのかもしれない。たとえまだそんな感情が残っていたとしても、上記の手間をかける必要性は見つからず、もっと有意義なものごとへと自らを駆り立てるはずだ。
と、費用対効果の点から考えると、誰かに手紙を書くような場合は、(実用的なもの以外の)多くは好意的な内容に限られていたんじゃないか、と推測。批判的内容であってもそれはあくまでも批判であって批難ではなく、ただもう憤懣・苛立ち・怨嗟等をつらつらと書くようなストーカー質の内容はごくごくわづかだったのではないか。

翻っていま、気に入らない文章をネット上で見つけたときの反応といったら、素早いやつは十秒くらいで「死ねよ」とコメントしたりリプライ(?)したりできる。ストーカー気質の粘着野郎に限らずとも、「え、そうか?」くらいの言葉と同時に無意識にスマホをちゃちゃちゃと動かして、気づいたら「送信しました」の文字を眺めている、ということもあるのだろう。便利な世界……なのかねえ。
ときどき、そういうことが簡単に起こりうる世界に自分の文章をさらしていることがイヤになってくる。

*1:以下の文章の基本構成は、手紙の書き方大事典というサイト( http://www.letter110.net/ )を参考にした。

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総会には出席しなかったが、来年からムラのなかでの「役」がついたみたいで、二年にわたって神事やら仏事で世話人みたいなことをやることになった。掃除とかがメインのようだが、ときにはムラでの決めごとについて投票することもあるらしい。十数年に一回の持ち回りということなので、もちろん断らない。
年末には、消防団の夜回りがある。元旦にはさっそく「役」の仕事があるらしく、神社だかお寺(ふたつは併設されている)でなにかするらしい。で、もし週間予報で大雪ということがなければ、という条件つきで、1/1の夜行バスに乗って横浜の実家に行くことにした。たぶん4日あたりまでいることになる。そのあいだに、わが家族に会って、話をしたり話をしたり話をしたりしようかと思っているのだが、これがなかなかスケジュールが合うかどうかわからない。弟夫妻はジルベスターコンサートのチケットが取れたらしくそのあとの予定もちょっと決まっていないそうで、その下の弟も仕事があるらしい。
その時期だからどこへ行ってもなにもやっていなさそうなので、畢竟、逼塞することになるやも。実家の猫は二匹とも虹の橋のたもとへ行ってしまったので、家の前にわんさかたむろしているという野良猫と遊ぼうか。
……と思っていたら、京都でやっていたホイッスラー展(行きたいけれど行けなかった)のことを思い出して、いまごろは横浜を巡回しているはずだと調べてみると……ビンゴ! 横浜美術館で3日からやっているらしい!
横浜美術館のみなさま、年始早々からの開館、まことにありがとうございます。

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YouTubeを見ていたら、カナブーンの『盛者必衰の理、お断り』という曲があった。音楽はかっこいいのだが、歌詞を聴いてみたら相当ひどい。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす

おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ

と、『平家物語』の冒頭部分がまるごと使われている。どころか、そのあとには落語『寿限無』すら出てくる(これもほぼまるごと)。
なんかいまどきの子どもがつくったって感じ。コピペに対してなにも思わないから、こういうことができるんだろうな。オマージュとかサンプリングとか、言い訳になる単語はいくつも知っているから全然恥ずかしくないだろうしね。
コピペってことじゃないのだが、ラッドウィンプスにも似たようなことを感じることがある。『DADA』なんて、PVのできや音楽はものすごくよくできているのだが、肝心の歌詞に詩情を感じない。ものすごく技術的というか、キーボードの上でできた単語群という印象なんだよなあ。『君と羊と青』なんかは歌詞も非常にいいと思うんだけど。


たまたまスピッツの『運命の人』を口ずさんでいたら、サビ部分の

走る 遥か この地球(ほし)の果てまで

に、H音の連続があることに気づいた。「しる、るか、このしのてまで」。
僕がスピッツの歌詞のよさに気づいたのはこの曲がきっかけなのだが、このH音についてはきょうはじめて気づいた。
いっけん簡単そうな言葉が並んでいるだけなのに、実は奥深いというのが詩の愉しみのひとつだと思う。反対に、難解な言葉や奇を衒った単語が並んでいるものって、実はそうたいしたものではない……というのは、年をとってある程度経験してくるとわかるものなんじゃないか*1

また。
これはきのうのことだが、aikoの『アンドロメダ』の冒頭を思い出していたら、やっぱりものすごい歌詞だと再認識した。

何億光年向こうの星も 肩に付いた小さなホコリも
すぐに見つけてあげるよ この目は少し自慢なんだ
時には心の奥さえも 見えてしまうもんだから
頬は熱くなって たまに悲しくもなった

そんなあたしの2つの光 最近うっすらボヤけてきたな

交差点で君が立っていても もう今は見つけられないかもしれない
君の優しい流れる茶色い髪にも 気付かない程 涙にかすんでさらに見えなくなる 全て

冒頭と言いつつサビのところまで引用した。
まず、「何億光年向こうの星」というおよそポップスでは考えられないようなとてつもない距離を出してきて、それと「肩に付いた小さなホコリ」を同列に並べ、さらに「心の奥」をつけ加えることによって、物理的距離だけでなく心理的距離を見せる。そんな自慢の目が「うっすらボヤけて」きて、交差点に立つ「君」を「見つけられないかもしれない」というこの流れ。「見つけられないかもしれない」というこの言葉に至るために、「何億光年向こう」から物語が始まっているのだ。ものすごく序詞的だと思う。

スピッツaikoに較べたら、カナブーンのはやっぱりひどいよな……ということを書くと、「Aを批判するのにBを持ち出すなんて……」みたいなことを(思うだけでよしときゃいいのに)言ってくるやつが出てくるのだが、いやいや、やっぱり比較するでしょ。別にプロの音楽評論家じゃないんだし、別に利害関係もあるわけじゃないし、あれに比べればこれはどうも……という言葉が出てこないわけがない。というか、僕はそういう考え方をしている。すべてを等価値にとらえているわけじゃないし、そんな努力もしていない。ひとつのミュージシャンを他のものとはまったく比較せずそれだけでとらえるっていうのは、相当不自然。

*1:そこを超えたものもあるのは事実だが、本格的な詩ではない限りそのレベルのものは見たことない。

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映画『スモーク』で、ウィリアム・ハートハーヴェイ・カイテルに写真を見せてもらうシーンがある。ハーヴェイ・カイテルは、ある経緯で手に入れたカメラでもって、毎朝同じ時間に、同じ場所から写真を撮りつづけている。何年も。
それを見せてもらったウィリアム・ハートの最初の反応は、言葉には出さないものの「うん、まあいいんじゃないか……」みたいな感じで、どこに焦点を合わせていいのかわからず困惑している様子。ぱらぱらとアルバムをめくりながら、ありふれた「日常」のワンカットの膨大な集積に目を通していく。
ハーヴェイ・カイテルがたしかこんなふうに言う。「いや、そうじゃない。もっとゆっくりと眺めてみるんだ」
そこでモノクロームのその写真をじっくりと一枚づつ観ていくと、たしかにそこに写し出されているものが見えてくる。その時間、たしかにその場所に居合わせた人、もの、空気。それらの瞬間が切り取られ、目の前の一葉となっていることがわかる。一枚、そしてまた一枚とアルバムのページを繰っていくうちに、ウィリアム・ハートはその毎朝の瞬間瞬間に自分も居合わせていたような感覚に陥っていく。
そして、ある朝の写真に、彼の死んだ妻が写っているのを発見する。彼の妻は、とある事件で殺されてしまったのである。


自分ではなく、他人の撮った写真というものは、特に幾枚もあった場合、なんとなく「目を通す」というような調子になってしまう。そこにあった時間とか経緯などにあまり想像を巡らせることもなく、無機質にいえば、視界に入ってくる情報の一部として処理してしまうことが往々にしてある。
ある方の写真を眺めていて、いや、眺め直して見逃していた部分に気づき、上のエピソードを思い出した。
文章も同じ。単純に文字数で測ることはできない。千字でも、書き手の人生の何年分かがそこに注ぎ込まれている場合もあるし、一万字でも、ほとんどコピペで成り立っている三分記事だってあるだろう。
それらをすべて同列に並べて語ってしまう人間には、なりたくない。

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どう見られているのかどう思われているのかわからないが、これでもけっこう忙しいのである。朝は八時頃にもぞもぞとふとんの中から身体を動かし始め、どう身を起こせば腰に負担がないのかを模索しつつ、僕の左手を腕枕にして眠る二匹の猫に気を遣いながら、起床。仕事はどんなに遅くなろうとも午後六時には帰宅し、風呂の準備をしているくらいなのだが、これでも僕にとっては忙しいのである。なんだかんだで伝票のデータ入力や、よせばいいのに、来年度に向けて新たな集計システムを半ばパズル感覚で構築しようなどということを思い立ったものだからアクセスというデータベースソフトと格闘するはめになり、その合間を縫うようにしての名探偵モンクのDVDレンタル視聴(第三シーズンが終了)も欠かさないようにしているので、時間がいくらあっても足りない。
そうすることでフロストシリーズの第四弾、『フロスト気質』を読むのが散漫になっていた。ちょっとは読み、それから少し時間が経ってからまたページを少し繰る。そうしていると、なんだか物語が弛緩したものに感じられ、「ん? さしもの『フロスト』シリーズもややダレ始めたのかな」と思った。

しかしこれではいかんだろう、とちょっと気を入れて、他の用件はなんなら年が明けるくらいまでに後回しして(これこそフロスト警部の流儀であるが)、フロストのほうに真剣に取り組んでみた。
相変わらず事件は次々と起こり、犯人らしき人物や証拠品らしきものも次々と立ち現れ、そしてわれらがジャック・フロスト警部の推理は次々と的を外していく。今回、彼の捜査を妨害するのは、おなじみの彼の記憶力のなさや直感力の頼りなさだけでなく、署長のマレットと同僚のキャシディ警部代行の悪意。何十カートンぶんの煙草(ついでにちょっと拝借したマレット秘蔵の煙草も)を煙にし、口の周りをフィッシュ・アンド・チップスの油でべっとりさせて、フロストは眠らず、帰らず、捜査に励む。けれどもほとんどの事件の解決の糸口は見えない。まさに「逆立ちしたって屁も出ない」という状況。
われらが主人公がそんな状況だというのに、読者が、休み休み物語のケツを追っかけて行っていいわけがない。こちらも、フロストの不幸な部下よろしく、いつ寝ているのかわからないくらいに物語につきっきりにならなくてはいけないのだ。
眠気と戦いつつ、眠りながら本を広げ、起きればまたページを捲るということをしていると、フロスト世界にどっぷりと浸ることができる。いやいや、全然ダレていない。ものすごいハイテンションの世界が眼前にあったのだ。これまでは、持つのが重いくらいに文庫本が膨れ上がっていたが、ありがたいことに上下巻に分けて持ちやすいようにしてくれた。これで1.5倍の分量があっても大丈夫。ついでに払う「おあし」も1.5倍になったので、正札の値段を払っている人にとってはありがたすぎて涙が出てくることだろう。
単純にページが増えただけではない。死体はうんざりするほど出てくるし、そしてこの世界では女や子どもや年寄りが絶対的な弱者として死体になる。そう、フロストの世界は、下品なギャグでカムフラージュされているものの、決して甘くないのだ。
そういう非常に厳しいデントンという街を駆けずり回る、このどうしようもないワーカホリック警部フロストの優しさを知るのはほとんど読者だけで、僕たちだけが彼のことを心の底から応援している。彼が「ありがたくって屁が出ちまう」と言おうとも。
いったんページを開いてしまったら後に引き返すことはできない、ということを知っているので、いまのところの最新作『冬のフロスト』上下巻を目の前にして、僕は悩んでいる。ううむ。やはり今年の残りのすべてはフロストに捧げるか……。

編集

投票率向上をもくろんだ啓蒙記事ではない。


むかし利用していた小田急線の百合ケ丘駅で思ったことがある。
ホームで待っていると、電車の来る前にまずアナウンスが流れた。「次に○番ホームに来る電車は○○方面行きです。駆け込み乗車はたいへん危険です。黄色い線の内側に下がってお待ちください」
あれ、と思った。いまこのアナウンスを聞ける状態にある客は、そのほとんどがホームに立って電車を待っている状態で、間違っても駆け込み乗車をするはずがない、と。やがて電車が到着し、客を乗せ、それからドアを閉めようとする。そのときにはじめて「駆け込み乗車は危険」とアナウンスすればいいのだ。
前者はものすごく意味のないアナウンスだけど、小田急はそういうこと気づかないのかなあ、と不思議だった(いまはとっくに変わっているだろうと思うけど)。

いま、ニュース番組なんかを見ていると、「投票に行きましょう」ということがさかんに言われている。けれども、ふだん投票に行かないやつっていうのは、そもそもこういう番組を見ないのでは、と思う。つまり見ている人たちは言われなくてもほとんどが投票に行くのではないか。投票を呼びかけるべきは、こういう番組なんかにまったく興味を持たない人間たちだろう。
それじゃあ、とタレントやアイドルを起用したり、広報カーを走らせたりして、「選挙に行きましょう」と若年層に呼びかけたりするのを見ると、こんなことに税金の一部がつかわれているのかと思い、もともと当地では今年に入って三回目の選挙なのでそうでなくてもうんざりしているのに、それに輪をかけてうんざりした気分になる。
しかも、選挙の結果予測を見聞きし、さらにうんざり……。ネットの記事で、こういう予測のニュースを知って「じゃあ勝ち馬に乗ろう」という反応と「じゃあ判官贔屓してやろう」という反応との二種類とがある、という解説があったが、日本人ってほとんど前者じゃない? 判官贔屓する人なんて少ないよ、きっと。

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