とはいえ、わからないでもない

2015年04月

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今月17日のこと。
畑のビニールハウスに置いておいた裏っ返しのコンテナを取ったら、なんとその下に野生のうさぎがじっとしていた。
このうさぎが地蔵状態で、近づいてもちっとも動かない。あまりにも動かないことをいいことに、写真撮影をした。それがこれだ↓。
ファーストショット
この日は朝から、カラス兄弟とトンビの抗争が激しく行われており、うさぎはその影にたいそう怯えていたのだろう。裏返しのコンテナに罠として掛かったのではなく、穴を掘って自らコンテナの中に隠れていたと思われる。
ふと、このうさぎを飼おうかという思いが湧いた。
ずっと以前に実家で二匹のうさぎを飼っていたことがある。一匹目は、なんと捨てうさぎで、集合住宅のドアの新聞入れにごとんと放り込まれていたのである。しかも、目もまだ開いていないという状態で。

それに較べれば少し大人になってはいるものの、それでも手のひらにすっぽりと収まるような極小サイズ。
家に帰って猫の移動用ケージを持って来て、難なく入れることに成功。ハウス内だったので、逃げられることもなかったのだ。

しかし、子うさぎの正しい飼い方がわからない。
前の一匹目は目が開いていない状態だったからこそ、簡単に「刷り込み」をすることができたのだが、この子は、多少なりとも野生で生活しているがゆえに人間に対する警戒心はものすごく強い。
しかもネットで調べると、飼い始めの段階では、ストレスによって死んでしまうことも多いのだとか。
はじめは買ってきたエサも食べてはくれず、このままどうにかなってしまうのではないかと非常に気を揉んだ(ここ一週間は読書もまともにできていない)のだが、やがて次第にエサに口をつけるようになり、備え付けの水飲み器もいつのまにか利用するようになって、一安心。
フンの大きさは日増しに大きくなり、それにつれて体格も少しづつ大きくなっているように思う。
まだこちらに慣れることはなく、(後日用意した)うさぎ専用のケージ内にあるときは静かに頭を撫でさせてくれるが、運動のためにと外へ出しているときは大昂奮状態で、とにかく僕から逃げる逃げる。
そんなことをしているうちに十日ほどが経ち、とりあえず最初のストレス死は免れることができたとほっとすることができた。

なお、うさぎのケージはメインの居住スペースには置かず、ネコたちにはまだ会わせていない。
やはりうさぎがびっくりしてまた心的負荷が掛かってしまうのが怖いのと、それからネコたちが昂奮してうさぎを襲うのが怖いのである。
もうしばらく身体が大きくなるのを待って、それからゆっくりと時間を掛けて対面させるようにする予定。

そうそう。うさぎの名前だが、はじめは「雨がつれてきた」ように思えたので「アメちゃん」にしようかと思ったのだが、うちにはすでに「ヒメ」というネコがいるので、混同を避け、「雨」を音読みして「うーちゃん」と呼ぶことにした。
現在のところ、(お腹が減っているときだけ)僕の手からエサを食べるようにはなった。
顔
耳
足

 

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きのう、たまたま芭蕉の『行く春を近江の人と惜しみける』を思い出した。となると当然、以下の逸話を思い出す。
芭蕉のこの句を、「それでも先生、『春』と『近江』は動くんとちゃいますか?」と批判した弟子がいた。つまり「行く年を」でも「丹波の人と」でも成立するんじゃないの、というわけだ。これに対し、高弟の去来は「いやいや先生、あの春の近江ならではの情景があってこその、この句でしょう」と褒め、それを芭蕉は喜んだ、という話。

けれども、と思った。靄のあがる琵琶湖の湖畔が近くにあるわけではない僕であれば、いったいなにをもって春の終りを感じることができるのだろうか、と。

夏の終わりであれば、森山直太朗の歌を聴くまでもなく、自然界にあるいくつかのメッセージを感じることができる。夕暮れどきの風に少し冷たいものがまじる、であるとか、あるいは、山のほうから聞えてくるヒグラシの鳴き声であるとか。
人工的なものだってある。おそらくその年最後になるであろう打ち上げ花火だとか、または8月31日そのものだとか、特に若いころの思い出をきっかけとして、夏の終わりはわれわれの生活に遍在していると言ってよいだろう。


このあいだの土曜日の早朝、NHK『日本の話芸』で桂吉弥の『愛宕山』が放送された。吉弥もついに『日本の話芸』に出るくらいになったのかあ(以前にも出演したことがあったのかもしれないけれど)と昔から知っていたわけではないのだが少し感慨深い。
(前略)鴨川を渡ります。二条のお城を尻目にころしましてどんどん野辺へ出てまいりますというと、何と申しましても春先のお話でございますからな。遠山には薄がすみがボーッと一面に張りまして、空にはチュウチュウとひばりの声、ゲンゲ、タンポポの花盛りでございます。えー、既にして麦が青う青うと、こう伸びまして、間をば、菜種の花が咲き乱れていようという…、春一色の中でございます。色街の人間がひとかたまりになりましてワーワーワーワー言いながらやってまいります。その道中の陽気なこと。
演者によって、あるいは演出によって、上記の描写はその都度すこし変ったりもするようだが(ちなみに、上は桂枝雀の速記本より引用)、この春らしい風景の描写が僕は大好きで、春になると、別に目の前になにがあるというわけでもないのに、「ゲンゲ、タンポポの花盛りィ!」とつぶやきたくなってしまうのだ。

ところが、ここに出てくるような、薄ぅーく棚引いているはずの春霞に対し、どこか身構えてしまう昨今。
これも数日前だったか、NHK関西の天気予報で、「きょうの関西の上空はぼんやりとしています。春らしい霞ですね」と言っていたのに、おいちょっと待てよ、それって本当に霞だけなのか? 黄砂やら花粉やらPM2.5やらは絶対にない純粋な春霞なのか?とツッコミを入れてしまった。
これが民放の気象予報士であれば、「黄砂、花粉、PM2.5の心配はまったくない、100%水蒸気による霞ですねえ」みたいなことを言うし、もし言わなくても、番組司会が「この空気のもやっとしたのは、まさか……?」みたいに尋ねるのがもはや当たり前になってしまっている。それでこそ視聴者は、「なるほどきょうは洗濯物を堂々と表に干せるな」とか、「花粉だったら部屋干しするしかないかぁ……」とそれぞれの判断ができるわけだ。
けれどもNHKは「きょうは心配要りません」の一言もなく、単純に「春らしい霞ですね」で済ませていたのだが、いまどきの天気予報としたらそれってちょっとぬるすぎじゃない?

先週の日曜日が枝雀の命日で、ちょうど十七回忌だったという。それにあわせて早朝の演芸ラジオ番組では、枝雀三十四歳のときの『天神山』が二週に渡って放送された。
こちらの舞台も春で、はじめは花見の見物客を見物している若いもんふたりが登場し、それから変ちきの源助、胴乱の安兵衛と主人公が次々と変わっていくという風変わりな噺。
今回の三十四歳のときのヴァージョンではなかったのだが、後年の枝雀はこの噺のラストを、「ある春の日のお話でございます」というフレーズのもとにあっさりとサゲてしまう。これが非常に美しい終り方で、落語で面白いサゲというのはたくさんあるが、これほどに美しいサゲはあまり思い浮かばない。
落語作家の小佐田定雄が若いころにこのサゲを聴いて、「枝雀さんってすごい人だな」と思い、それで手紙を出したかなにかして交誼が始まった、というようなことをどこかで書いていたと記憶しているのだが、それを読んで「やっぱり!」と思ったことは言うまでもない。


さあ、その春の終りはいったいなにをもって感じられるのか、という話に戻るのだが、そう考えているところへ、どこのこさんのブログで以下の文章を読んだ。
春はまだ続くのだが「桜が散ると春が終わった」と感じる感覚は、毎年おなじみのものだ。
勝手に引用してしまったが、なるほどと思った。僕は桜を毛嫌いしていた時期が長く、親しむようになってからまだ日が浅いのでなかなかそう感じられなかったのだが、言われてみると、これほどわかりやすいサインもないことに気づく。

ちょっと前のEテレの『サイエンスZERO』では、ソメイヨシノがなぜ一斉に開花するのか(すべてのソメイヨシノが同じ遺伝子を持っているから=みなが同じ一本のソメイヨシノのクローンだから)ということを中心に桜の特集をしていた。
簡単に「サクラ」と言っても、ソメイヨシノが終われば八重桜があり、ここいらでは山中に点在する山桜が、低いところからより高いところへと順々に開花していくということを知った。
霞かなにかわからないようなものでぼんやりとした晴天の日ではなく、薄曇りのほうが花の色が映えることや、花びらだけでなく、葉桜になったとしてもそれは同じということを知った。
このような知識とはまた別に、年を経るにつれて、桜を見にどこそこへ行ったとか、誰それと行ったなどという経験が増えていく。
これまで僕は、年中行事を歳時記的になぞっていくということをあまり重視せず、というより軽視して生きてきたけれど、今では、それなりに意味があるのではないかと思うようになっている。

桜の話になると、高齢者はほんとうに「あと何回桜を見られるのだろうか」という感慨を漏らす。桜=春であるからこそ、上記感想は「あと何回春が来るだろうか」ということを意味し、もっと直接的にいえば、あと何年生きられるだろうかということを意味しているのだろう。
こうなると桜は、もはや生命の直喩である。ただ、夏が来てその終りを迎え秋を経て長い長い閉塞した冬を超えると、また桜は花をつける。きれいごとを言うようだが、再生の直喩でもあるのだ。

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livedoorblog
これだけじゃよくわからないといえばわからないのだけれど、5月からライブドアブログがリニューアルするらしい。このなかで僕が歓迎したいのは、「PC版記事下広告の非表示」。スマホ版の広告は残るみたいだけれど、僕自身はスマホで見ないしねえ。
あと、僕のブログの現状として、いったいどういう「見え」になっているのかがそもそもわかっていないので、スマホ版がどうなろうとそれほど興味がない。
ただ、このプレスリリースで、かえってサービスの低下やサービスの撤退を危惧している人たちもいて、さもありなんとも。
たしかに、はてなブログは、なんだかんだ言って開発にまだ意欲的なのに対し、ライブドアブログではなかなか改善が行われていないという印象を持っている。

僕のいまの要望は、はてな記法モードっぽいのが使えるようにしてほしい。
どこかで文字をコピーしてきても、ライブドアブログの通常のモードで貼り付けると、オリジナルのフォントサイズ、色のままペーストされてしまうので、それを回避するためにいったんメモ帳に貼り付けたり、あるいは「HMTLタグ編集」のモードにして貼り付けたりしているけれど、それが非常に面倒。後者は見づらいしね。
なのでいまは、テキストエディタで下書きをして貼り付け、というのが基本になっている。

あと、ライブドアブログの運営って、いまはLINEなんだね。知らなかった。

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あの『クライマーズ・ハイ』(ドラマのほう!)のスタッフが集結という触れ込みで、やはり横山秀夫の『64』というNHKの土曜ドラマが始まった。全五回。
興味のある向きは、上記リンク先にある動画を見てほしい。だいたいのところの雰囲気がつかめる。

とにかく、撮影がすごい。
第一回のクライマックスは、昭和64年、段田安則が、誘拐された娘のために身代金を持って誘拐犯に要求されるまま延々と場所を移動していくところ。
ここは、現在(平成27年)を思わせる場所や車(段田たちの乗っているのは昭和64年当時の車種)が映らないように意図してか、車内を映すカットでは手撮り広角カメラでのアップが多く、そのために視野の狭いシーンがつづいたのだが、この迫力が凄まじかった。
鬼気迫る表情で車を走らせる段田。それをときには真横から、ときには真後ろからカメラがとらえる。そして、その車輌を追う警察班。目が離せないとはまさにこのことで、こちらの腕には鳥肌が走りっぱなし、募っていく緊張感のあまり声を上げたくなる。
指定された場所のいちいちで備え付けの電話や公衆電話の受話器を取り、「娘は!」と叫ぶ段田の演技は、演技と呼べるような生易しいものではなく、「この人はほんとうに娘を誘拐された人なんじゃないだろうか」と思ってしまうほど真に迫っていた。
緊張感あふれる撮影が奏功したのか、この一連の場面での出演者たちの表情は、段田以外もみなすばらしかった。みなが息を詰め、先行きを見守っているのがわかる。つまり、ドラマ内時間をきちんと生きているのだ。

僕の演技の巧拙の判断基準のひとつに、「演劇であることを意識させないこと」がある。なにかが欠けている演技は、観客を現実に引き戻す(ただしこれは、脚本やら設定やらでも起こりうる)。「いまのこいつのセリフ、棒読みだなあ」とか「ほかに言い方があるだろうに」などと観ている側に思わせてしまったら、それはよくできた演技とは言えないのだ。
そして反対に、非常によくできた演技や演出、撮影などは、観客を別世界に連れ去ってしまう。観客は、自分がいま現実のどの場所(ex. テレビの前のこたつ)にいるのかを完全に忘れ、劇中存在者のひとりとなって(ときには登場人物のひとりとなって)、劇中世界を体験する。これが、すばらしい演劇の基本だ。
第一回について言うのならば、『64』はすばらしいドラマである。


ただ、キャスティングについては少し不満がある。
主演のピエール瀧は悪くない。悪くないが、まだよさはわからない。最後までよさがわからなかった、ということも充分ありうるとも思う。
ほか、役者として僕が期待するのは、いまのところは段田安則、木村佳乃、柴田恭兵、中村優子(彼女はストーリーにどれだけ絡むかわからないけれど)くらいかな。萩原聖人は当たりもあるけれどはずれもあるし、高橋和也は個人的には好きなんだけれど重用されないほうが多いという印象。
永山絢斗を朝ドラ『おひさま』以来にひさしぶりに見たが、彼の配役がいちばん理解に苦しむ。
刑事として勤めたのちに県警広報室付の広報官になったピエールに対し、永山は県の記者クラブの顔役という設定になっているんだけれど、いくらなんでも歳が若すぎるだろう。どう見たって三十そこそこなのに(実年齢は26だと!)、警察番を任されているというのが不自然すぎる。しかも、他の記者たちの代表格だと!
むかしは硬骨漢だったが、現在は官僚的になったというピエールに対し、「三上さん(ピエールの役名)、あんた変ったな」というセリフがあったけれど、いったいいつの頃に較べて?
本来ならば、今回のクライマックスともなりえた場面があった。記者クラブの要求を頑なに拒むピエールに業を煮やし、本部長に直接訴える、と県警内を記者たちが走る場面がある。
これはもう、『クライマーズ・ハイ』のクライマックスに対するオマージュだよね。佐藤浩市が記事の差し替えをしようとするのを、販売部の連中が阻もうとする場面のあの迫力あるごちゃごちゃ感。
しかし、本ドラマの場面では、なんだか迫力が足りない。勢いをつけて階段をのぼっていく永山を人にもみくちゃにされながらピエールが追うのだが、なんとなく緊迫感がない。ピエールは悪くないのだが、記者役の俳優たちから、「ほんとうに記者として本部長の部屋に突入する」という気概が感じられないのだ。そして、県警内のモブである警官たちも、本気で止めようとしていないように見えた。
なんとか身代金を受け渡し娘を取り戻そうとする段田と、犯人をなんとしてでもつかまえようとする警察チームの表情とに較べたら雲泥の差。

でもまあ、致命的な不満があるわけではないので、今後も(演出や撮影を中心に)たのしく視聴していく予定。

そうそう。音楽もすばらしい! 大友良英。『ロング・グッドバイ』のあの雰囲気そのままだったので、すぐに大友だとわかった。あまりにも似すぎ、という批判ももしかしたらあるかもしれないが、久石譲のピアノ曲だって、なんとなく「あ、久石譲」と気づくようになっているのと同じ、と考えれば少し寛容にもなれるだろう。

この再放送が、なんときょう(金曜)の深夜0:10からある! いまから三時間とちょっと! 見逃した人はぜひ。

【関連記事】

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ここ数日、懸案事項があって、なかなか余裕がないのだが、ドラマについてちょっとメモ。


古いが、1月に始まった大河の見切りポイントは、井上真央の優等生演技(75点を取れば充分と考えている演技)が出てきたところで、奇しくも東出昌大(久坂玄瑞役)がしゃべったところとほぼ同時だった。そもそも「イケメンばかりの幕末男子」みたいなキャッチコピーが半世紀ほど遅れている感じがする。
関係ないけれど、「ばくまつだんし」で変換したら、「幕末談志」と出た。そっちのほうがよっぽど面白そう。

『アルジャーノンに花束を』は、キャストが多いわりには、役者が1.5流未満ばかりなのでちょっと残念。
窪田正孝くらいしか興味が持てない……。工藤阿須加は、今回もギリギリ役柄とマッチしていそう。「ギリギリ」は、もうそろそろ違う方向の役を与えらえれるかもしれずそうなったら危ないかもね、を意味している。
ヤマピーは興味ないなあ。いまよりむしろ、知能を回復したときの演技にがっかりしそう。
そうそう、僕はこの原作を知らないので、いったいどの時点で、アルジャーノンを取り込むのか、と初回はやきもきした。
『ザ・フライ』のように、物質移転装置に入ってしまう、みたいなことはないだろうけれど、ネズミ本体を食べてその知性を獲得するのかなあ、あるいは……と思っていたところで、アルジャーノンを抱えたままヤマピーが土手を転げ落ちたので、「しまった、『転校生』のパターンだったか!(あるいは、『ど根性ガエル』?)」と思ったのだが、そこで合体することもなく、しかも二話目でも合体しなかったので、短気なおじさんは観るのをやめました。

『ヤメゴク』は面白そう。
北村一輝のリーゼント姿と、ナニワ金融道的あるいはミナミの帝王的しゃべり、そして勝地涼のなにやらわからないキャラクターに非常に興味が湧いたが、一方で、大島優子と本田翼の演技が……辛い。
脚本はあの櫻井武晴だし、話の広がりもありそうなんだけどなあ……とどっちつかずの態度をしていたら、きょうさっそく第二話目を見逃しちまったわい。最新話は無料っぽいのでオンデマンドで観るとするか。

松岡茉優が初主演という売り込みで知った『She』という深夜枠のドラマも第一回目を数分間だけ観た。
高校が舞台で、松岡茉優がメインで、サブに出てきたのが清水くるみ。しかもバドミントン部という設定。で、容姿端麗成績優秀な女子生徒が失踪……って、おいおい、『桐島』のスピンオフですか。
松岡がビデオカメラで手撮りするっていう半ドキュメンタリー的演出がしてあるんだけれど、彼女たちがその空気感というものをまったく作り出せておらず、ただただぬるい、ダレた時間の垂れ流し。美大生の課題で撮ってきたっていう出来だな。
結局、早送りして一分で流し見したところ、なんとなく筋も解明。はいはい、清水がすべてを語っていないがために混乱が生じたけれど、真実は人の数だけあるんだ、が結論になるような、たぶんそういう類のやつですよね。はい見切りました、と。

『まれ』も観ない。
ヒロインの土屋太鳳の女優としての成功はひたすら願っているし、実際頑張っていると思うけれど、いかんせんわしゃ大泉洋が好きになれんのだよ。ほとんど彼の芝居は観たことないけれど。
常盤貴子も優等生ぶりっこ演技だし、同級生役の清水富美加については個人的な恨みがあるし、それに、話が致命的につまらない。毎日毎日「夢がどーした、夢がこーした、夢があーした」って「夢」の大安売りですよ。人生夢芝居、梅沢富美男かっての。


てえわけで、今シーズンはあまり観なくてすむなあ、ラッキーくらいに思っていたのだが、このあいだ観たNHKの土曜ドラマ『64(ロクヨン)』に、衝撃を受けたのだった! 次回記事へつづく(と思う)。 

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このあいだテレビを観ていたら、こんな話があった。

高齢の方なんだけれど、テニスをやったりジョギングをしたり、とたいそう健康的で、周りからも「お元気ねえ」と羨ましがられていた。
ところが人というものはわからないもので、三年前、原因不明の病気でばたんと倒れた。それから動くこともできない。
医者に見せてもどこが悪いのか要領を得ない。食も細くなってどんどん痩せていく。
「ああ、これが寿命というものか」と途方に暮れていた、そんなときに出会ったのが……この青汁エキス
なめとんのか。真剣に見とった自分が悔しいわ。

以上はすべて、僕の好きな笑福亭福笑のネタ。「青汁エキス」が「しじみエキス」のパターンもある。 

上記記事に触発され、「かっトラ」(勝手にトラックバックの略)します。
 
僕が大っ嫌いなのは、携帯電話三社。ハッキリ言ってセンスの悪さを競い合っているような気がする。
ソフトバンクは、そもそもあのマンネリ感たっぷりの家族設定が大っ嫌い。上戸彩って僕のなかでは顔も見たくないほどの最悪タレントのひとりなんだけれど(理由は演技が死ぬほどヘタ)、彼女がトップタレント然として振舞っているのもセンスの悪さの象徴だし、半沢直樹のキャストをそのまま起用したあのやり方を見て、ユーザーはソフトバンクの携帯電話を持っていることじたいが恥ずかしくならないのかな、と思った。僕はイヤだね(そもそも携帯電話を持っていないけれど)。
auはクソつまらない桃太郎・金太郎・浦島太郎シリーズ。言っちゃ悪いんだけど、彼らは、俳優として最終的にトップクラスに行けないだろう、というところで共通している気がするよ。CMの内容もちっとも笑えない。
そしてドコモの、配役への投資額に反比例する空回り感の異常さ(ドコモ2.0のときにさんざん学んだはずでは?)。ただし、渡辺謙、松坂桃李らを起用したあのシリーズもいつのまにか影を潜めていて(僕の気のせいか)、ほとんどの日本人にはピンとこないワン・ダイレクションのメンバーがふざけているだけのCMがメインのような気もするが(あれもメンバーのひとりが脱退したとかうんぬんで微妙な問題になっているのかも)、あそこらへんの、外タレに大金突っ込んで大ゴケした感じをたのしむという意味では、悪くはない。ここらへんのセンスの悪さって、大会社にありがち(後述のトヨタも)。
そしてトヨタのあのオールスターCMがもう、日本って本当にカッコ悪い国なんだなあ、と痛感させてくれるという意味では貴重。
もうなんでもかんでもあの世界に登場させてしまえっていう、成金趣味的なやり方は、とうてい高級品、嗜好品を買わせるブランドのそれではないよね。
高級車ライン(でもないのか?)のほうでも、ゴリラが登場したりバットマンが登場したり(本木雅弘のもあったな)、とやたらとおしゃべりな気がする。売るのに必死だ。よけいダサいのよ、そんなんじゃ。高級雑誌のブランド広告なんかでも、もっと寡黙でクールなイメージで売っているのにね。
 
がしかし、いま僕がCM界でもっとも気になっているのは、長年キリン「のどごし生」に貢献してきたというのに、CMタレントとしては甚だ疑問符がつきまとう「ぽっと出」の半沢直樹、もとい、堺雅人にその役を奪われてしまったぐっさんこと山口智充が、ライバル会社のクリアアサヒのCMに出演していること。
広告界の、「右へ倣え」状態の堺雅人・西島秀俊の多用については、断固反対なので(本人たちに対してはおめでとう以外の感情はない)、ここはぐっさんを応援してアサヒのビールを……いや、飲まない。そもそもビール飲まないや。
しかしビール(ノンアルコールも含む)のCMは、ちっともうまそうに見えないんだよなあ。「自由っておいしいぞぉ」などのいちいちのセリフが癇に障るんだよ。 

そういえば、テレビCMを見て買おうと思ったことは、これまで一度もありませんでした。 

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  • いつからフィレ肉 or ヒレ肉を「ヘレ肉」と言うようになったの?
  • 太眉が流行っているからって、わざわざ描いて太くするこたぁあるまい
  • 斎藤工を「いまもっともセクシーな男」と言われると、壇蜜を「いまもっともセクシーな女」と言われた以上の気恥ずかしさを感じる

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ラジオについて二、三のことをメモ。
僕の場合、数年前まで「ラジオ」はかなり抽象的な言葉だった。
人によってはラジオと聴けば、オールナイトニッポンであったり、パックインミュージックだったり、大沢悠里だったり、浜村淳だったり、小沢昭一だったり、伊集院光だったり、永六輔だったり、ジェットストリームだったり、赤坂泰彦だったりと、それぞれの記憶をたどり始めるのだろうが、僕にはほとんど思い出せるものがない。ごくたまに流れてくるものを耳にする程度のことはあったが、毎週この時間は、と決めてラジオの前にすわり耳をすますということは、これまでなかった。

実体験をともなっていない僕は、ガロ系のマンガ(?)に出てきた「鉱石ラジオ」という言葉のノスタルジックで幻想的な雰囲気に酔い、村上春樹『風の歌を聴け』に出てくるDJのセリフに心はげまされ、そして谷川俊太郎の『ラジオ』に詩的な匂いを感じ取っていた。
上掲動画について少しだけ書こう。

1998年、「詩のボクシング」 の第二回大会が行われ、これがたしかNHKで放送された。対戦は、ねじめ正一(前回チャンピオン)と谷川俊太郎。審査員には若き頃の町田康がおり、解説には若き頃の高橋源一郎がいる。なお、源ちゃんの隣の小林克也は、ピントはずれのことばっかり言っていて、「なんでこんなやつを起用したんだろ」とリアルタイムで不満を持っていたという記憶がある。
興味のある向きは、YouTubeの関連動画にすべてアップされているから1から7までを見てみればよいが、今回は最終戦の「即興詩」における、谷川チャレンジャーの『ラジオ』だけを挙げておく。
なお、ねじめ正一の即興詩「テレビ」は無残なものになってしまっていたが、そのかわり彼の『定休日ウンコ』はすばらしく、一見の価値あり。高橋源一郎の「この朗読は年季入っていますからねえ。もはや至芸です」の解説とともにたのしめる。
リアルタイムで観ていたときはそう感じてはいなかったのだが、いま観ると、全体的にねじめ正一はすごいなあと感じる。当時21歳だった僕は、ネームバリューに圧倒されたまま谷川俊太郎がすごいと思っていたが、いやいや、ねじめ正一のパフォーマンスとしてのポエトリー・リーディングはすばらしい。

しかし、 すべてはこの即興詩の『ラジオ』が朗読されるまでのこと。
当時、この番組を観ていた僕は、谷川俊太郎のアドリブに文字通り圧倒された。谷川が読み終えても、言葉が出なかった。解説の高橋源一郎もしばらく黙ってしまう。おそらく、会場にいた人たちもそうだったんじゃないだろうか。
そのあと知ったことなのだが、ポエトリー・リーディングにはいくつか技術的なコツがあり、即興詩にもいくつかのコツがあるらしい。何回かのちの大会で、作家の島田雅彦が即興で「聖書」を通貨にみなした詩を朗読したが、解説(源ちゃんだったっけ?)は、「技術的にうまい」という評を下していた。
どんなお題が来ても「通貨」の詩を前もって作っていれば、その「通貨」の部分を変数にして、そのXに、お題(これが「聖書」だったっけか?)を当てはめてしまえばうまくいく、という解説だったような……ここらへん、ちょっと記憶が曖昧。

谷川の『ラジオ』を、文字にしてあらためて読み直してみたら、いろいろと言い足りない点や甘い点がいくつも出てくるのかもしれない。けれども谷川は、即興でこの詩を生み出したのである。そしておそらく、上述したようなテクニックは用いずに、詩人としての経験に身を委ねて朗読したのだろう。
それを目の当たりにしてしまった僕には、「いま・新しい言葉が・生み出されていく瞬間」に立ち会っているという衝撃があった。総毛立った。総毛立つ、は本来恐怖に対する反応を意味するが、谷川俊太郎の詩人としての才能はおそろしかった。

当時の僕は、詩で戦う谷川とねじめを観て、こういうのこそ自分が本当にカッコイイと思う姿だ、と強く思った。
詩的で知的でありながら、上品さ下品さが綯い交ぜになって恥的でも痴的でもあった。当時の僕は、バカで騒がしくて下品であることを誇るような風潮を社会に感じていて、それが非常に疎ましかった。
そういうなかで、詩や知性というものに真正面から取り組んでいることが、僕の目には本当に恰好よく映った。そしてその感想は、いまでも全然変っていない。


だから僕は、ラジオについては少し特別な思い入れをしている。実際にチューナーを回したり、アンテナを伸ばしたりしたことは本当に少ないくせに。
僕がラジオを模してなにかを書いているとき、それはなにか具体的な番組を念頭に置いているわけではない。
奇しくも上の『詩のボクシング』にも出てくる町田康がかつて、「キャバクラという場所に一度も行ったことはないんだけれど、たぶんこういうものなんじゃないかと思って小説に書いている」と言っていたことがあった。取材の労を惜しむただの手抜きということではなく、現実のキャバクラより、僕の書く想像上のキャバクラのほうがきっと面白いでしょ、というニュアンスを言外に感じた。
たぶんそうなんだろうと思う。僕も、同じような理由から、想像上のラジオのマネをしているのだから。

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以下は、まったく調べずに書いている。

いまはもうピークを過ぎたんじゃないかと思うが、関西では「春の風物詩ですね」と言う前フリで「いかなご」が紹介される。
僕の情報源の八割以上がラジオなので、「いかなごのくぎに」という言葉はもうイヤというほど耳にしているが、それを映像で見たことが一度もない(!)ので、いまだにどういうものかわからない。
何年にもわたってこの情報を耳から取り入れ、どうやら魚らしいというのはわかっているが、おそらくラジオのパーソナリティたちは「いかなご」のことを「みなが知っているだろう」と思っているらしく、ことさらその外見を説明せず、番組のリスナーから「いかなご便り」が届くと、「ああ、春ですねえ」とか「うちも、『いかなごのくぎに』のおすそ分けをもらったんですよ」などと話すにとどまっている。
そういうのをネットで調べるかというとそれも特にはしない。なんとなく、「どういうものなんだろ」と思っているところで止めたいという気分があるのだ。

これ、野球の阪神タイガースの選手にも言えることで、関西では、野球といえば阪神を中心にしか放送していないと思うのだけれど、当然ラジオでは選手たちの顔を知ることはできず、名前はなんとなく知っているもののナインの顔はほとんど知らない。あ、ノーミとフジナミはなんとなくわかるか。

いかなごに興味が湧かないのは、おそらくこの先食べることはほとんどないだろうという予測と、「いかなご」の語感にある。
その前に。

もうひとつまったく外見のわからない食べもの(?)があって、それが「むかご」。
これはラジオでもほとんど聞いたことがなく、おそらく歳時記やどこかのスーパーでその文字をちらりと見て、「そんなものがあるんだ」と記憶したのだと思うが、これも実物を確認していない。

この「いかなご」と「むかご」に共通するのは、語感から来る虫のイメージが僕にとってはあまりよろしくないということ。
なご」と「むかご」だ。

これらを子どもの頃から見聞き、触れでもしていたのならそんなことはいっさいないのだろうが、知らないとどうも文字からの語感に頼らざるをえない。そこに虫のイメージが混入してしまうから、どうにも興味が湧かない。
「くぎに」にしてもそう。たぶん「釘煮」なんじゃないかと思うんだけど、黒豆みたいに釘と一緒に煮る(こちらでは炊く)のかな? 魚と釘? 黒いの?……とこれもあんまり食指が動かない話。なにぶん知らないからこういう態度になってしまうのだけれど、知っている人にとってはたぶん噴飯ものなんだろう。

結局、今年もいかなごは知らないままに終わりそう。

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最近はあまりマンガを読まない。アラフォーという年齢のせいも多分にあろうが、少年マンガが不必要に長編化しているのでもう飽き飽きしているのである。
みんな、もう一度確認しよう。岩明均『寄生獣』ですら十巻で完結しているんだぜ?
いま十巻を超える連続もののストーリーマンガで、あの作品を超えるものがいったいいくつあるというのか。
少年マンガではないが、その巻数に見合う物語は(僕の知っている範囲では)三宅乱丈の『イムリ』くらいしか思い浮かばない。あれは非常にスケールのでかいマンガで、もちろん、人気が出たからって無理矢理連載を引き延ばし、巻数を増やしているだけのマンガとは別次元にある。

そんな中、最近買ったマンガがある。松本英子の『謎のあの店』の1と2。
内容については割愛するが、この中で作者がいくぶん精神世界(←これ、本屋の棚の名称で、言い換えるとスピリチュアルだったりする)にぐっと寄っている回がいくつかあるのだが、ふうんという感じで読んでしまう。
この「ふうん」に、否定的なニュアンスはまったくない。なるほど、この人(作者)はこんなふうに感じているんだなあ、と素直に思うだけである。
と言っても、僕はおよそ宗教行事はまったくしない人間で、墓参りもしなければ初詣でもしない。僕自身があまり信じてもいない世界だというのに、なぜこの作者の行動については興味を持つのか。
それはたぶん、この作者に対する信頼感のせい。立川談志という人間はあまり好きではないし、その落語も「いまいちだなあ」と思うのがいくつもあると思ってはいるものの、けれども談志の落語への姿勢(ときどき突き放したりもしていたみたいだが)はなんだか信頼できる、というその信頼感と似ている。
信頼できる人は、けっきょくなにをしたって支持をしたくなるのだ。少なくとも否定はしたくない。
それゆえに、松本英子のマンガを読んだときの「ふうん」という感想のなかには、自分の考えがぐらりと揺り動かされた驚きがしばしば含まれる。ただの「面白い!」では終わらない。

余談だが、今年からムラの役員(といっても十人ほどいる)になったので、神事仏事にはきちんと参加している。そのため、そこらへんのアマチュアさんたちなんかよりはよっぽどご利益があるんじゃないか、と勝手に思っている。
新年も、元日の朝から集まってお供え物をして、二礼二拍手一礼をきちんとしてきたので、リアル・ネット上の僕の知っている人たちにはそのご利益が行くようにはお願いしてきた。あちらの都合というものもあるでしょうが。


ネットでは疑似科学っていうのがときどき槍玉に上がる。
『奇跡のリンゴ』が映画化されたときも批判記事がこぞって書かれた。そういうところに群がって「そうだそうだ」の大合唱をするのは「疑似科学批判教」の信者なのではないか。僕にしてみれば、両者は同じ次元にあるように見えてしまう。
僕は、受け手がそう思うんならそれでいいじゃん、という考え方に拠っていて、わざわざ他人の考えを修正・訂正しようとするほどの動機が自分のなかに見当たらない。
でもたぶん、事実と言われるものだけを積み上げていってなにかを批判するのって、気持ちいいんだろうね。その気持ちよさに酔っている感じが、疑似科学に盲目的に心酔している人たちとそれほど変わらないように見えるけれども?

何ヶ月か前に、NHKで空き家についての討論番組があった。そのなかで宇野とかいう若い評論家が、七十代くらいの人の意見を、正論を以て真っ向から否定していて、ああこいつダメだなと思った。
正論に酔っちゃっているんだよね。「これはこれで正しいですよね? で、次のこれもこれで正しいですよね? ということは全体で正しいことになりません? ほら、僕の言っていることって正しいでしょう?」っていうニュアンス。
そんなに正しいものがあったら、世の中どこへ行っても苦労しないわっていうくらいに、「正しさ」みたいなのを信奉しているように感じられた。少なくとも、七十数年も生きてきて得られた感覚みたいなものに対してまったく敬意を払っていないところに、僕は軽蔑の念を感じてしまった。要は、コドモのように感じられたのだ。

そもそも、若く(僕と同輩)、苦労知らず(たぶん)の正論になんの意味があるのか。
最近読んでいる毎日新聞の『万能川柳』(単行本)にぴったりのがあったよ。
順調な人の正論鼻につき (四日市 い藤をか志)

落語『酢豆腐』で、若い連中がおおぜい集まったはいいが、酒の肴がないということでああだこうだと鳩首しているとき、あるひとりが言う。糠床を浚えば野菜の切れ端が出てくるだろう、それをトントントンと包丁で切りゃあいいじゃねえか。
これを聞いてみんなのまとめ役である人間が「さすが苦労人」と褒める。
これは、ただ苦労した人という意味ではない。苦労をしたからこそ、人の情に通じ、世間知に長けているという意味での褒め言葉である。


ある程度の年齢を経ると、以前は嫌いだったものが、「まあ、これもいいのかもな」と許容できるようになる瞬間がある。
その対象をはじめから好きな人がいて、「わたしはずっと若いときからいいって言っていたよ」と言われても、嫌っていた時間を決して損したとは思わない。むしろ、その迂回路が愛おしい。
遠回りをして長い時間をかけて得られた感慨というものは、近道して得られたそれとは、たとえ到着点が同じであっても異なるものだ。
苦労をして到達した場所には、きっとそれなりの意味があるのではないか。
だから僕は、松本マンガの歩いて来た道、そしてこれから歩いて行くであろう道を好むのだと思う。

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