とはいえ、わからないでもない

2015年05月

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飲食でバイトをしていたときは、一日の拘束時間15~16時間ということもあった。仕事じたいはたのしいということもあり屁でもないのだが、帰りがなんとも眠かった。
以前にも書いたことがあるが、朝は原付きで1時間15分かかるところを、深夜、だいたい50分くらいで帰っていた。死にそうになったことが憶えているだけで三度。
深夜二時半頃。目の前でタクシーが客乗せのために急停車したので、半分眠っていた僕は慌ててハンドルを切って沿道に乗り上げ、その反動でバイクから転げ落ちたことがあった。バイクも無事でヘルメットをかぶっていた僕も無事で、周囲のなにも破壊していなかったので、壁に頭を凭せかけてヘルメットをかぶったまま、寝た。早朝五時くらいに早めに出勤していたサラリーマンに「大丈夫ですか?」と声をかけられて目を醒まし、「あ、だいじょうぶです。目をつぶっていただけですから」とわけのわからない言い訳をして原付に乗って家へ帰った。
なにがどうというわけでもなかったが、ちょっと荒んでいたような気がする。一日一日はたのしかったが、そのちょっと先になにかを期待するということはなかった。いまより全然若かったが、すでに人生のピークを超えているという気がしていた。

ときどきチェックをしている同業者(まったくの他人)のブログには、現在一日15~17時間ほどの労働がつづいていると書かれていた。休みはもちろんない。他人事ながらすげえなと思いつつも、どうにかできないんだろうかとも思ってしまう。そういう忙しい状況にあることをたのしんでいる人も中にはいるし、強制的に忙しさに身を絡み取られている人もいるので、外からは一概に判断できない。 
またこれが、「年収2000万なんすよ~w」とか書いてありでもしたら、「あ、そう!」で終るのだが、そうも行くまいということくらいはなんとなくわかる。大金を稼いでいるんだったら、いくら働いていても心配でないかと問われれば、まあ心配はないわな。いづれにせよ、自営業であればどうにかできるでしょ(たぶん)。
 
しかしそれにしても、和民の過労自殺の女の子はかわいそうだったな。あの子と同い年くらいで、レストランで2時~6時というシフトで働いていた女の子を知っている。あ、逆だ。午前6時~翌午前2時だった。
社員寮が店から歩いて五分くらいの場所にあって、ほぼ奴隷状態。僕と一緒の店で働いていたときは、休憩時間はクローゼットの底にクッションを敷き詰めて寝ていた。彼女がよその店から来るまでそこは僕の寝場所だったが、彼女が来てからそこの場所は譲った。そのことを、(冗談めかしつつも)彼女はいまだに僕に感謝しているくらいだ。

教訓: クローゼットは、よりひどい労働条件にある人に譲ろう。

飲食店、というかオーナーというものは、狂気を抱えている人が多いのではないか。そしてその狂気は感染していく。飲食業の全体がそうだとは言わないけれど、僕の見てきたところでは、半分くらいが軍隊みたいなところで、落伍者は徹底的に排除された。僕もそこで生き延びていたわけだから、相当イカれた頭をしていたんだと思う。その先に、サービス業(もしかしたらコック業も)の面白さがあるというのも事実なのだが、その狂気からの逃げ方を知らないと、身体だけでなく心までも蝕まれてしまう。

ところで、有機系の農家で、料理のレシピとともにきれいな写真をアップしているものすごーく丁寧なブログを何度か目にしたことがあるが、ちょっと待ってちょっと待っておねーさん!(さりげなくくだらない流行を入れてしまうのが僕の悪いクセ)って思っちゃう。
通常は有機農業って手間暇のかかるものだし、収量が落ちるから(「有機だから収量は上がる」という主張もあるにはあるが)慣行農法以上に働かなくちゃ生活していけない、それなのにずいぶんと余裕あるなあ……なんてシロウトのあたくしは考えてしまうのだが、そうじゃないのかな。水鳥のように、水面下は大わらわなんだけど、水上は優雅に澄ましている、というのであればカッコイイ話だけど。
古民家改造してカフェしていたり講演していたり貸し農園やっていたやっぱりソレ系の人も、いつの間にかいなくなっちゃっていて、「あ、やっぱりな」と思ったことがあったもので、つい。
まあ、両親が義理の両親が健在で、フルで畑に入らなくていい、というパターンがいちばんありうるか。そうじゃなきゃ、この時期、昼間の光で料理撮影している状況なんて想像できないもんね。
同じ商売でも、ほんとうに一括りできないもんだよなあ。

僕のいまの願いは、わが家にやってきたウサギが早く馴れますように、ということ。いまだに警戒心をあらわにするときがあるので、昼の休憩時間と、就寝前の三十分くらいは一緒の部屋でぼうっと時間を過ごすことにしている。早く人間に馴れて、それからネコとの対面を成功させられればいいんだけど、出自が「飼いウサギ」(野生ということはおおっぴらには言えないことらしい)ではないから、なかなか言うことを聴いてくれない。それでも、ときどき昂奮して走り回ったり、ちょっとだけリラックスして顔を洗ったりしているのを見ると、ウサギに少ない自由時間を捧げるのも悪くはないかと思える。
ネコやこのウサギたちが荒みそうになる僕の心をやわらげてくれているんだろう。

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たとえば、「いま地球上の人口ってどれくらいか知ってる?」とクイズを出すとする。
出題者の意図としては、単純に数字を告げてしまうよりは、クイズ形式をとって相手の参加を促し、最終的な数字を知って一緒に驚いてもらおうという思いがある。 
僕の小中学生時代はだいたい50億人くらいというのが相場で、それが大人になってから「どうやら60億人は超えているらしい」ということを聞き及んでいたので、正解の「70億人超」という数字を知ったとき(それも何年か前の話だが)には驚きがたしかにあったのである。

さて、これを解答する側として。
まず、クイズを出してきたということは、正解には驚きが含まれるということで、もし解答者の認識も「50億人または60億人」程度であれば、そこに上乗せをした「70億人~80億人」くらいではないか、と想像することは容易だ。しかし実際にそう答えてしまうと、推論の仕方としてはベストであっても、解答の仕方としては最高ではない。
次に、解答者の認識がきわめて正確であった場合、つまり、「70億人超」という事実をあらかじめ知っていた場合だが、このときに、「え? 70億人ちょっとくらいだと思っていたけど……違うの?」と答えるのも、最高の解答方法とは言えない。正解には違いないし、一般的なクイズというシステムのなかでは最高の解答者に違いないのだが、出題者を喜ばせてやろうという考えが見えないので、出題者自身は満足しないだろう(ただしこの場合、出題者との関係性によってはベストともなりうる)。
出題者の意図を「実はこんなに増えていたんだよ、知ってた?」であることを迅速に読み取り、解答数と正解数との「差」があればあるほど解答者側も驚いたふり(演技)ができ、出題者も「出題者冥利」に尽きるだろうと勘繰り過ぎたあまり、「ええと、30億人くらい?」と答えてしまうと、出題者が「なんじゃい、前提となる知識すらまったくなかったんかい!」と興醒めしてしまう。なにごとにも、「程」というものがある。
そして最低最悪なのは、まーったくなーんにも考えずに、「100億人!」とか答えるやつ。「100億万人!」でもいいけど。まったくわからないからって、適当に思いついたことを100%そのまま言うのは、子どものときまでにしておこう。その答えの先になにがあるか、きみは考えたことがあるかい? 完璧にシラケきった空気を吸い込み過ぎて僕の肺も真っ白だ。ホワイトラング。

いまの安部総理って、日本で何代目の総理大臣って知ってる? → 1000代目!
2020年の東京オリンピックって、通算何回目のオリンピックか知ってる? → 10,000回目!
日本人の平均年収って知ってる? → 1億円!

……じゃあさ、円周率は? → 3.1415926535897932384626433832795028841971693993751058209749445923078164062862089986280348253421170679821480865132823066470938446095505822317253594081284811174502841027019385211055596446229489549303819644288109756659334461284756482337867831652712019091456485669234603486104543266482133936072602491412737245870066063155881748815209209628292540917153643678925903600113305305488204665213841469519415116094330572703657595919530921861173819326117931051185480744623799627495673518857527248912279381830119491298336733624406566430860213949463952247371907021798609437027705392171762931767523846748184676694051320005681271452635608277857713427577896091736371787214684409012249534301465495853710507922796892589235420199561121290219608640344181598136297747713099605187072113499999983729780499510597317328160963185950244594553469083026425223082533446850352619311881710100031378387528865875332083814206171776691473035982534904287554687311595628638823537875937519577818577805321712268066130019278766111959092164201989……


コピペってすごいよね。

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ちょっと前に谷川俊太郎のことを書いて、その流れで宮沢賢治のことを思い出した。
それで、YouTube上で『雨ニモ負ケズ』の東北弁あるいは盛岡弁バージョンなどを聴き、やっぱりいいなあと思っていたのだが、そもそも賢治って何者なんだろう、とかの有名な大詩人のことをちっとも知らないことに気づき、評伝らしきものを手に入れて読んでみた。それがこの『宮沢賢治の青春』 。
賢治には保阪嘉内という親友がいて、その親友との交友・訣別が賢治作品に多大なる影響を与えたということを、賢治の書いた手紙からかなり綿密に説明されていて、おそらくその解釈は間違っていないのだと感じた。

端的に言ってしまうと、盛岡農林高等学校時代に出会った嘉内に対して賢治は、尊敬と同時に恋愛感情を持っていたようだ。
著者はここらへんのことを記述する際に非常に注意深くなっている。
賢治が嘉内に対して抱いた「恋」を通俗的なホモセクシュアルと解されてしまうのは正しくない。それはこれまでも論じてきたつもりであるが、恋の相手を異性に限定しない自由さや、魂が求め、引きつけあうものが「恋」なのであって、賢治の「恋」は嘉内という人間に向けられた、魂の乾きだったことを強調しておかねばならないだろう。
(角川文庫 152p) 
読みながら、僕も作者と同様の感想を持った。
そして、そういえば『銀河鉄道の夜』のジョバンニのカムパネルラに対する気持ちというのも、未熟な同性愛的感情に近かったということを思い出した。同性愛というか、対象が未分化とでも言えばよいのだろうか。ここらへん、異性とまったく縁遠かった時代が長かったので非常によくわかるところ。

この嘉内と思想的訣別をしてしまうことによって賢治は心に大きな穴を抱えることになり、その傷心が、すばらしいが難解と見なされる『春と修羅』や、謎の多い『銀河鉄道の夜』のあちこちにあらわれている、というのが逐一示されていくのだが、こういう部分が本書の賛否の分かれ道になると思った。

ひとつは、著者が「はじめに」で書いているように、「発表されることなど夢にも思わず書き送られた」手紙にこそ真の人間像が隠されており、それによって賢治作品の真の解釈ができるようになる、という好意的な考え方。
なるほど、賢治作品に出てくる「気圏」だとか「電信柱」だとか「修羅」などの有名キーワードはすべて嘉内に関連し、他の人が読んでわからずとも、嘉内なら理解できるものであったということがきちんと説明されている。『銀河鉄道の夜』も、ジョバンニ=賢治、カムパネルラ=嘉内ととらえてしまえば謎はほとんどなくなり、この作品からかなり明快な賢治の心中が察せられる。

しかしもうひとつ、そういう「解釈」は作品を矮小化させるのではないか、という反対意見があろう。僕も読んでいて、「そりゃそうなのかもしれないけど……」と思う部分が少なくなかった。
これは賢治に限らず、多くの文藝作品でもあることのようだが(たとえば永田和宏『近代短歌』でもそのことについて言及されていたように記憶している)、 作品と作者は完全に独立したものではないが、けれども、完全に一致しているものでもないと僕は考えている。いろいろな解釈ができ、そこに唯一の正解はないというのが藝術作品なのではないだろうか。

読んで損をしたとまでは思わなかったが、ここに書かれた「解釈」によって賢治作品が小さく見られてしまうことがもしもあったら、それこそ非常につまらない話だと思う。

なお、本書のなかでは、賢治が花巻に帰ることを著者が「帰花」と表現している箇所があった(231p)。 

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サントリーにオランジーナという飲み物がある。なんでも、それの姉妹品として発売されたレモンジーナ(このネーミングセンスの悪さ! 「シトローナ」であれば「オランジーナ」とのバランスもいいはずなんだけれど、そういうの、どうでもいいんだろうね)が人気があってか売り切れ……みたいなのはもはや旧聞に属する話。
旧聞ついでに、ちょっと思い出したことを。

そもそも、あのオランジーナという飲み物があんなに安く飲めるようになったことに、僕は非常な驚きを覚えていた。
僕の以前働いていたあるカフェでは、あれの350ml(ただし瓶で、正確な容量についてはちょっと自信ない)を700円で提供していた。もちろん、サントリーが買収する前の話で、それなりの高級感があったのだが、いつのまにかテレビCFが流れるようになり(あのリチャード・ギアが寅さんに扮しているやつ)、近所のスーパーで500mlが120円で売られるようになり、それがやがて常時88円になった。かつては700円した商品が、ですよ!

川上弘美の『センセイの鞄』(2001年)だったかで、ヒロインが「ウィルキンソンのジンジャーエール(もしかしたらトニックのほうかもしれない)が好き」なんていうセリフだか地の文章があって、それを読んで僕は、なんだか安っぽい表現だなと思った。
川上の作品はリアルタイムで読んだわけではなかったが、リアルタイムで読んだ吉田修一の芥川賞作品『パレード』(2002年)では、スターバックスというカフェが、少し特別(でおしゃれ)な場所として描写されていたように記憶する。これ、現在の感覚で読むともはや噴飯ものなんだけど、僕は2002年当時から「なんかだせえ」と思っていた。
川上の「ウィルキンソン」うんぬんのダサさっていうのも、つまり書かれた当時はマイナーで、それを知っていること・選択することになにか特別なセンスを感じさせるようなものだったのかもしれないが、僕が飲食でアルバイトしていたとき('98くらい~)にはすでに、バーアイテムとして、カナダドライのジンジャーエールよりも辛口ということで好まれていたように記憶している。細長い緑の瓶が特徴的。

ブランドものって、あっという間にその商品価値が劣化してしまうことがあるんだよね。エンタメならともかく、純文学を意識しているのなら、あまり登場させるべきではないだろうな。特に川上作品は風俗的要素(ある時代やある地域に見られる特色のようなもの)をわりあいに排しているだろうから。
あ、そうそう、川上さん。そのウィルキンソンのジンジャーエールなんですがね、いま、上記スーパーで、オランジーナ88円の隣にバカみたいにずらっと並べられてありますよ。ペットボトル版なんですが、やっぱり88円でね。 

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ブランド品、たとえばルイ・ヴィトンの財布などを持って、「やっぱりぃ、いいものってぇ、すっごい長持ちするじゃないですかぁ? だからぁ、最初はちょっと高いかも? って思ったりしてもぉ、結局ぅ、経済的だったりするんだったりしたりしちゃったりするかもってぇ、思うんですぅ」というような脳の血管に米粒でも詰まっているような話をするやつがいたりしちゃったりするかもしれないのだが、この話を、「ミーハーなんでブランドもの大好きなんです! 買っちゃいました!」って言われれば、冒頭の言葉ほどイヤな感じは受けない。

また、一年半前くらいの話になるのだが、花梨さんが「毎晩お金を桐の箱に入れて休ませてあげている節約主婦」の話を書かれていて、それを読んで憤慨(変換したらはじめに「糞害」が出てきた)した、ということがあった。宗教行為の話ではない。
この話、「いやー、お金がほしいんですよ。だからなんでも神頼み! 買った宝くじの券だって、神棚にあげて朝夕お願いしているんですよ!」というのであったら、全然イヤな話にはならない。いっそすがすがしいくらいだ。

このふたつの話に共通するのは、心底にある気持ちを素直に出さないだけでなく、反対に、自分をより上品に見せようとカマトトぶってきれいごとのオブラートで包み込もうとするところ。まったくの欺瞞だと思う。
なんでもかんでも開けっぴろげというのは僕も大っ嫌いだけれども、そもそも話さないというやり方だってある。
ブランドものが好きだろうと、そのことについては心中に秘し、お金が欲しかろうと、そのことについては口を噤みさえすればいいだけなのに。

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NHKドラマ『64』を観終えたいま、どこから話せばいいのか、と迷っている。
これが友だちや家族であれば、「誰の演技がよかった?」というところを切り口にして会話を始めてもよいだろう。実際に僕は実家に電話を掛けてそれと同じことをした。
けれども、会話で伝えられることには、文章で伝えられることに限界があるのと同様の限界がまた存在する。
僕は、話したいながらも会話からこぼれてしまったもの・会話から除外せざるを得ないものを意識しながら、母と電話をつづけた。それはそれでじゅうぶんに面白かった。

電話を切って、またちょっと迷う。
第四話の終りで「次の第五話でほんとうに終るんだろうか」という不安は、まさに第四話までしか観ていなかった人間の感想そのものであり、第五話まで観終えた現在の僕は、その感想を、ふふんと鼻の先で笑うことができる。
ドラマの終りの部分からあらためて最初までを見渡すと、いろいろなものが繋がっていることに気づく。いろいろなカットが繋がっていて、そのことが視聴者の僕に意味をもたらす。というより、もともと意味を持っていたカットがわざとバラバラに解体されていたことに、時間が経ってから気づいたのである。

気づいたことのひとつが、音だった。


第四話のオープニングだったと思うのだが、けっこう長いあいだ電話が鳴りつづけるところがあって、そのとき、電話のベル音というものは本質的に不穏なものを抱えているのだと気づかされた。
携帯電話を一度も持ったことがないのでよくわからないのだが、現在は発信者によって着信音を変えられるようで、それが本ドラマの時代設定(平成14年)にも普及していた機能かどうかは確かめられないのだが、そういう技術的なことはいったん脇に置いておくとして、電話の音は、受信者の予期せぬタイミングで・予期せぬ人物から・予期せぬ内容を告げる可能性を多く含んでいるのである。

この『64』というドラマでは、その電話が非常に重要な装置として登場する。無言電話。電話による誘拐犯からの脅迫・指示。そして、公衆電話。
万が一、このドラマあるいは原作を読んでいない人のために最後のトリックの部分については言及しないが、きちんとトリックが存在することに、まず驚いた。前回の感想のときにも書いたように、未解決というオチもありうると覚悟していたくらい、このドラマはきちんと収束できないのではないかとおそれていた。
結論からいえば、それは杞憂だった。
急転直下ではない、きわめて論理的な「事件」の解決が用意されていることを知って僕はひとまず安心したが、しかしそのすぐあとに、残り時間のあまりにもの多さに気づいてしまい、また少し驚いた。

ここでわかったのは、このドラマが重きを置いているのは三上(ピエール瀧)を取り巻く日常であるということ。ふたつの事件(と刑事部・警務部間のごたごた)は彼の生活の中心に据えられていて、そこに彼自身がしっかりと巻き込まれてはいるのだが、しかし、妻(木村佳乃)と一緒に娘の行方を案じている焦燥感が、ふたつの事件と同等かそれ以上の重さをもって三上のなかに存在している。
三上が「事件」の概要を妻に説明したのち、テーブルについて娘のことを話す場面では、第二話にもあった「夫婦の対話」という表情が、今度は静謐さをもって描写される。このとき、堰を切ったように悲しみを噴出させるピエール瀧の演技を観て、まだ文句を言うような人間はまさかいないだろう。また、それに応じる木村佳乃の自然な振る舞いもよかった。
この場面の三上夫婦には血が通っていた。そしてもちろん、物語のずっと始まりからこの夫婦は「生きている人間」としてわれわれの目の前に登場しつづけていた。「生きている」とは、われわれが隣人として気にかけるような存在である、というような意味だ。架空の人物ながら、現実の隣人と同じような生活の空気をこちらが感じられる存在であるからこそ、『64』を観終えたいまの僕には喪失感がある。もう、彼らのことを観ることはできないのだ。

一度しか観ていないのだが僕の大好きな映画『アメリカの夜』(映画を撮影する映画)のエンディングで、映画撮影を終えたキャストやスタッフたちが――撮影中にはいろいろとトラブルもあったものの――、「また会えたらいい」などとなごやかに挨拶をしてみながそれぞれに別れていくというシーンがあったと記憶している。それを観て以来、すべてのドラマや映画や舞台には、クランクアップ(舞台では千秋楽)を迎えたのちの、「また今度」という挨拶と別れがあるのだと想像するようになった。そしてその挨拶や別れは、実は視聴者と作品のあいだにもあるのだ。
「こんなドラマ、早く終わっちまえよ」というものは数多くあれど、この『64』は間違いなく別れるには名残惜しいドラマだ。


ほんの少ししか登場しなかった人物も多い。
「64」の誘拐のときの自宅班の漆原(きたろう)、柿沼(高橋和也)、日吉(水澤紳吾)だって、見せ場はほんのちょっとだけだった。けれども、三上を電話で怒鳴りつけた、あのようなきたろうの演技は初めて観たし、パチンコ屋の駐車場で見張りをつづける高橋の迫力、誘拐犯の声の録音に失敗した水澤のあのぼろぼろと涙をこぼしていた様子は、記憶にこびりついてしまっている。

広報にいた三上の部下たちにも、それぞれ別れがたい思いが残っている。
誠実で朴訥な雰囲気の蔵前(永岡卓也)もよかったし、青臭い理想論を掲げながらも、そのじつ汚いことにも手を染める覚悟を持っているという美雲(山本美月)もよかった。
広報室の最後のシーンでは、画面にこそ写っていないが、諏訪(新井浩文)の「おお秋川ちゃーん、広報ですよ」というちょっとふざけた電話の声が聞こえてくる。
広報室の影の立役者は、僕は諏訪だと思っている。だからこそ彼は、ときに三上にも反撥し、ときには自ら記者クラブとの友好関係を築こうとしている。疲れた目をし、しばしばなにかに心を奪われたような表情を見せながらも、広報という仕事にプライドを持って挑んでいた。
しかしほんとうに不思議なことなのだが彼は、その役柄の重要さほどにはセリフは多くない。それでは端役かというと、そんなことは絶対にない。諏訪は表情だけで語る場面が多かったのだ。
これと同様なのが、幸田役の萩原聖人。彼もまた非常に重要な役なのだが、セリフは信じられないほどに少ない。けれども新井と同じく、視聴後に思い出したときの存在感は――演じる人物の行動のインパクトを差し引いても――ものすごく大きい。

広報とよく絡んでいたのが、記者クラブの連中。
これも、当初は彼らの若々しさ・騒々しさが鼻について仕方がなかったのだが、すべてを観終えてから振り返ってみると、彼らの直情径行さは、三上の内面と非常にいいバランスを保っていたということに気づいた。
広報官として冷静であろうとする三上を最初に揺り動かしたのは、実はあの若い記者たちの言動だったのかもしれない。
そして記者たち自身も、D警広報室には少なからずのシンパシーを覚えていたのではないか。老成した記者たちであれば、そういう愛憎半ばの微妙な関係は描写することが難しかったかもしれない、といまとなっては思うのだ。
考えてみれば、雨の中、美雲が必死に三上に訴えている場面を秋川は目撃していた。広報の必死さを少なくとも彼は知らないわけではなかったのだ。
ラスト、「事件」が解決したあとの広報室で、秋川(永山絢斗)が核心を衝く質問を投げかけたところ、三上はなにも答えなかったが、おそらく秋川はそこから三上の意図を感じ取ったのだと思う。和解の場面でもあり、ちょっとした友情を再確認した場面のようにも感じられた。


音、についてもう少しだけ。

上で「三上を取り巻く日常」に重きを置いていると書いたが、実はそれと同じくらいに雨宮(段田安則)の日常の重さが、このドラマでは描かれていたと思っている。
雨宮は、「サトウ」と名乗る犯人の声をもう一度聴いたら絶対にわかる、と断言していた。しかしわれわれも、雨宮の叫び声を忘れることはできないのではないか。
翔子を助けてください! 娘を返してください! お願いします! お願いします! お願いします! お願いします! 娘を助けてください! 翔子を助けてください! お願いします! お願いします! お願いします!

目崎(尾美としのり)の娘が誘拐されたとき、目崎も叫び声を上げていた。この尾美の迫力も凄まじく、聴いているこちら側が胸苦しくなってくるものだった。
あの叫び声は当然、十四年前の雨宮の叫び声と重なり、指揮車のなかでそれを聴いている三上の、いなくなってしまった娘を求めて発する心のなかでの叫び声とも重なっていた。
そして、犯人からのメッセージを読み、「棺」の前での目崎の長い長い慟哭は、翔子を失ったときの雨宮のそれでもあった。
その雨宮の慟哭は、このドラマの中では一度も描写されることはなかったが、しかしわれわれにはたしかに聞えていた。その苦しみによって絞りだされた嘆きの声は、疲れ切った彼の表情や、ぼろぼろに荒れた指先から、通奏低音のようにたしかに聞こえつづけていたのだった。

最終話のサブタイトルは「指」だった。他の回についてはサブタイトルをほとんど意識していなかったのでよくわからないのだが、この最終話だけは、言われてみればたしかに「指」以外はありえないように思えてしまう。
ここで僕は、2012年に観に行った野田秀樹の舞台『THE BEE』のパンフレットに書かれていた野田の「小道具礼賛」という文章を思い出した。
この逆説的でユーモアあふれる文章を我田引水式に要約すれば、演劇にとって重要なのは、テーマではなく小道具であり、この小道具を見立てることこそが、演劇の根源的な力である、ということになる。
野田は、だから演劇は(多くの舞台装置を見立てによって済ませられるために)安上がりに済むというオチを用意しているのだが、そういうウィットや、舞台演劇という設定を除外しても、この考察はなかなかに有用なのではないか、と僕は考えている。

たとえば『64』のあの色褪せた昭和64年の電話帳。詳細は割愛するが、あのくしゃくしゃになったページの一行一行には、十四年という時間の重さが染み込んでいた。
また、擦り減り、文字の見えなくなってしまった電話の番号ボタンには、雨宮の背負ってきた枷の重さがあらわされていた。
そのほか、雨宮の生活空間にあるものは、ほとんどが昭和64年のまま時間が止まってしまっているように思えた。録音に失敗し引き籠もってしまった日吉同様、雨宮もそこから抜け出せないでいたのだ。

そして、ドラマの最後の最後にもやはり電話が鳴った。受話器から聞えてくるのは、声にならない声だったろうが、それは希望の声だった、と僕は信じたい。


ここまで書いてきて、まだ思い出すことがあるんじゃないかと考えている。けれども、もうメモは残っていない。
ひとりでメモを取ってそこから文章を起こすというやり方をしていると、必ず「抜け」が生じる。あとになって「ああ、あれのことを書いていなかったな」などと思いだすのだが、いちいち修正するほどでもないし、とほったらかしにしてしまう。
誰かと話して、「ああ、そうだった。そういう場面もあったよね」とやっていったほうがもっとたくさんのことを書けそうな気もするが、そうなると書くのが面倒という根本的な問題にもぶち当たってしまう。ここらへんが僕の限界なんだと思う。

というわけで、音や声を手がかりにして『64』を見渡してみた。
役者たちだけでなく、撮影や演出、音楽に至るまで最高のチームだったのではないかと思う。佐藤浩市は好きな役者だが、映画版がこのドラマ版をそう易々と超えられるとは思えない。
漏れ聞くところによればこのドラマは終始、低視聴率だったようだが、(ある芸人が言っていたように)一般視聴者は視聴率なんて考えずに好きなものをたのしんだらいいと思う。低視聴率なのは、一見してわかるような派手さがないからだろうが、裏を返せばじっくりつくられているということ。このストーリーは、じっくりと描かなければぺらぺらの安っぽいものになる。十四年という時間を感じさせるものを表現することが鍵になる。

第一話を観て、「面白い」というタイトルにしたときにはもちろん「最後まで面白いだろう」という期待もあったが、まさかこれほどとは、といい意味でその期待を裏切られた。
だから、最終話まで観た結果としてきちんと「面白かった!」と主張するタイトルにしてみた。これは僕にしては珍しいことだが、このドラマをつくった人たちにきちんと敬意を払いたいと思ったのである。

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ほぼ一週間遅れで視聴。観終えての率直な感想が……うーむって感じ。

今回のいちばんの見せ場はやはり記者会見だろうが、それについては後述。

その前の県警内記者クラブで、新井浩文がペーパーを渡したときに匿名とわかった瞬間に記者たちが暴動を起こすのだが、ここがよくわからなかった。情報をすべて広報室から引き出してから暴れるのならわかるが、それを聞きもせずに騒ぎだすところを見ると、記者としての職務を果たしているとはとうてい思えないんだよなあ。ただのいちゃもんつけに近い。
そのくせ、記者会見場では、県警が東京の連中に大いに馬鹿にされ嘲弄されている(記者クラブの連中とやっていることは根本的に同じ)のに憤慨し、しまいには嗚咽すらするって、行動に一貫性がないんだよな。みなが自律神経失調症に罹っているとでもいうのだろうか。

会見場へ東京から来た記者たちの入場シーンはさすがに迫力があった。
二課長のキャリア(森岡龍)は『あまちゃん』の尾美としのりの若かりし頃を演じた人だったのか。山中崇史に似ているのはご愛嬌。初々しいボンボン演技から、最終的にはそれなり(あくまでもそれなり。刑事部の情報の出し方がひどいので、どうしようもないのだが)の応対ができるようになったのがきちんと見てとれて面白かった。 何度も何度も何度も何度も階段を走って昇り降りさせられて、しまいには失神し、それでもひーひー走っているところを観ていたら、演者自身を好きになってしまったよ。当初の受け応えのおぼこい感じもかわいらしかったし。
それにしても、こういうドラマでキャリアというのは多くの場合は冷徹だったり卑怯だったり陰湿だったりするものだが、この二課長はかなり好青年だったところも笑えた。「おれにこんなことをさせやがって~!」と怒らないんだよな。
ここらへんは一部ユーモラスな描写にもなっていたけれど、記者会見での撮影は、いろいろな視点からの映像が効果的に編集されていて、手撮りによるブレやたまに出る意図的なズームがフラッシュの乱発やマイクのハウリングなどとうまい具合にミックスされていた。
しかしこの二課長、出世したらこの県警の別館にエレベーターをつけることを提案すると思うよ。「ふふふ。あの階段には私もずいぶんと苦労させられたことがあってね……」みたいな。
あと、この場での堀部圭亮は見直したなあ。もともと嫌いな役者ではなかったが、声が低くていいことと顔のいかつさを前面に押し出す役柄が多く、今回のような激昂して長ゼリフをしゃべるのなんてほぼ初めて観たと思う。最後にピエールと対峙するところではしゃべり方に唐沢寿明っぽさを感じた。僕にとっては、褒め言葉。
ツッコミポイントとしては、別館の刑事部のいる場所の入口前でピエールを防ぐためだけに屯していたと思われる十人弱(多くはマル暴関係)の暇そうなことといったら……。
そうそう、東京からやってきた堀部に阿るように接する永山絢斗はそれらしくてよかった。やっぱりこのくらいの役どころが本人にとっても合うんじゃないかなあ。

新しい誘拐事件のほうの追跡場面もやっぱり大迫力だった。県道の信号をすべて青にしたり、指揮車の中から車を運転する尾美の表情をスローモーションで見せるところとか。で、このときの尾美としのりも実によかったなあ。
犯人の突然の指示によりルート変更をしたときの音楽がものすごくきれい! こんなに残酷でこんなに切迫したシーンで、こんなに美しい旋律を流すのかよ! ここで尾美が涙を浮かべながら「娘を助けて下さい!」と犯人に懇願するんだもの……観ているこちら側も胸を衝かれるのは当然。
この尾美のセリフに段田の例のセリフが重なり、それがつまりピエールの心に響いているということがわかり、それで今回は終了って……。

つまり、「え? あと一話でぜんぶ終るのかよ!?」っていう不安が冒頭に書いた「うーむ」なのだ(これを書いている時点ですでに最終話は放映されているが、僕は観ていない)。
いろいろなところで聞かれた無言電話の謎。新しい誘拐事件の結末。刑事部長の首の挿げ替え問題。段田安則のところにあった萩原聖人からの手紙。思わせぶりな吉田栄作。ピエールの娘の行方、などなど。
段田が新事件のほうの犯人であれば、問題の多くが一気に片付く。で、大本の「64」の事件のほうは未解決のままっていうのも「ナシ」ではないと思うのだが(実はある有名なミステリがこの構造になっている)、でも多くの視聴者からは反撥を食らうかな。
いづれにせよ、最終着地点があまりにも見えないので、不安たっぷりのまま最終話を迎えることになってしまった。


以下は余談だが、ある外資系企業で派遣社員として働いているとき、広報部主導の記者会見のトレーニングというのをやったことがある。
ある重大な事故が起こったという想定で、それについて六時間経った時点で記者たちを呼んで事業所長(本当は違う名称だけど企業の特定を避けるために仮にそうしておく)が会見を行うというものだったが、これが実に面白かった。
事故内容は現実的に起こりうるレベルで事細かに設定され、その原因や結果として生じた周囲に対する影響、そしてそれらへの対応策などもきちんと設定されていた。
記者役には、その場に呼ばれた他の事業所長や所員が担当していたのだが、そうとは思えないほど真に迫った演技をしていた。誰一人としてふざけている者はいなかった。
僕は、会見場の警備役のひとりとして、他の若手社員たちと出入り口のコントロールをしていたのだが、会見の様子はすべて見ることができた。
まず、会見開始を午後三時と決めておくと、その十五分前あたりから記者たちが集まる。彼らはみな建物に入ってくる前に渡された事件概要のペーパーを手にしている。トレーニングは始まっているので僕も警備役に徹しなければいけない。
そのうち、記者役が文句を言い出す。「おい、早く中へ入れろよ! さっきからずっと待ってるんだぞ!」「そうだそうだ!」
これらはすべてアドリブであり、真剣にやっているのでこちらも真剣に対応する。「申し訳ありませんが、会見は午後三時からです。いましばらくお待ちください」
「『お待ちください』って、さっきからずっと言ってるじゃねえか。なんか隠しているんじゃないか?」「おかしいぞ!」
「いえ、そのようなことはございません。どうかもうしばらく」
「もう三時だろう? 五分早くたっていいじゃないか」
「まだ準備ができておりません。申し訳ありません」
不条理なくらいの平謝りなのだが、そのあいだも記者陣の攻勢はおさまらない(理由は後述)。
やがて、やっと部屋を開ける。記者たちは上のドラマのように流れこむ。

そして会見が始まる。事業所長が入室。後ろのホワイトボードには「事故」の様子がわかる簡単なイラストが描かれている。
写真撮影があちこちで始まり、マイクを通して所長が自己紹介・お詫び・事件概要の説明を始める。ここもいっさいの省略なし。
説明が終わってから質疑応答が始まる。このとき、他の所長連中の質問はずいぶんときつかった。
たとえば、「これってさあ、数年前のおたくの○○事業所での事故と関連があるんじゃないの? あの事故でおたくでは安全管理にいっそうの努力をするってことになっていたみたいだけれど、結局は管理できていなかったってことじゃないの? それってどう説明するの?」というように、実際にあった過去の事故を持ちだして、発言しているその所長自身も弱点だと認識している会社全体の管理部分の脆弱性をねちねちと責めるのだ。
うちの所長は、ゆっくりと言葉を慎重に選びながら誠意をもって回答していく。たしかそのときの所長は、所長としては初めての会見トレーニングで、それにしてはうまいと僕は思っていた。

三十分ほどで会見は終り、それから広報からの講評。
そこでやっとわかったのだが、ああいう事故会見のときにやってくるのは、一般紙やスポーツ新聞の記者だけじゃなく、フリーランスでこちらの「ぼろ」を探るだけの記者っていうのも大勢いるそうで、だからこそ、敷地内に入場してから会見場まできちんと誘導をさせないと、途中でどこかに潜り込んで余計なものを撮影されたり、盗まれたりされる可能性が大いにある、という話があった。
その「ぼろ」を出させるために、会見の主催者だけじゃなく、末端の人間(たとえば警備役の僕たちなど)にでもわざと怒らせるようなことをし、怒らせたらそれを喜んで記事にするということらしい。
とにかく記者というものは、善意でやってくる人間なんていない。必ず悪意をもってやってくるので、そういう認識で応対しないと企業の信頼を一瞬にして失ってしまう(雪印の「こっちだって寝てないんだよ」発言や、船場吉兆の「腹話術」会見などが最悪の例として挙げられていた)ということが何度も強調されていた。
そういうことを知れただけでも――しかも給料をもらって――大いに儲けものだった。

いづれにせよ、ああいう場の記者というのは職務上できるかぎりの下衆さを発揮するということを疑似体験的に知っていたので、ドラマ内で「走って聞いてこーい!」と若いキャリアの二課長を虐めるのは、おおリアルだなあと感じ入っていたのである。

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最近、ベン・E・キングが亡くなったので、追悼の意味を込めて、四年前に別のところで書いた『スタンド・バイ・ミー』(Remix ver.)を再掲する。なお、スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』の原題は『The Body(死体)』である。
この暑い季節になると、ぼくはいつも12歳の頃の体験を思い出す。
あれは“ふとっちょ”がぼくらに持ってきた話が発端で、ぼくらの町から線路をずっと辿っていったところにある森にゲイ雑誌が落ちている、そんな噂がすべての始まりだった。
“ふとっちょ”は、“不良”の兄貴たちがそのことを話しているのを盗み聞きしたのだが、それを聞いたぼくらは、もしそれを拾ってくれば英雄になれるかもしれないと考え、ある夏休みの日、ぼくと“不良”と“ふとっちょ”と“メガネ”の4人でちょっとした「旅」に出かけたのだった。

といっても、たいした旅ではなかった。
途中、ドッグレースであぶく銭を稼いだり、あるいは『機関車トーマス』実写版の撮影現場があったのでそれを見たり、ともかくまあそんな感じだった。
夜、焚き火を囲んで野宿をしたとき、ぼくが特大のデブがわんこそばの大食い大会で大活躍する物語を話して聞かせたのだが、ストーリーが爆笑で終わったのに対し、“ふとっちょ”だけは「え? それからどうしたの? そのつづきは?」としつこく聞いて、場をしらけさせた。あまりにもしつこかったので、“不良”が送り襟絞めを決めて2秒で眠らせた。それからしばらくして“メガネ”も眠った。
“メガネ”の父親は風呂が好きでしょっちゅう風呂屋へ行っていた。ついた渾名が「銭湯帰り」。いっつも湯で暖まってぽーっとのぼせたようになっていたからだ。そのことをバカにすると、“メガネ”は怒った。「いいか、親父のことをバカにするやつは許さねえ」。そのときも、眠りながら夢の中の誰かに父親のことを自慢しているようで、寝言を言っていた。「親父はノーマ・ジーンの大ファンなんだぞ」と。
ぼくは親友の“不良”と将来のことを話し合った。彼はワルぶってはいたが、頭のいい男だった。ある日、女装が趣味の男教師が誰もいなくなった教室でスカートを履いているところを写真に収め、それをネタに恐喝して給食費一年分をせしめるほどだった。すごくいかした奴だった。
けれども、ぼくが彼のことを褒めると、彼は将来のことはわからないと言った。「それより」と彼は話題をぼくのことに移した。
「おまえだったら、小説家になれるよ」
「え?」
「おまえだったら、きっといい小説家になれるはずさ」
「そうかな」
「そうだとも。きっとさ」

翌朝目覚めて森を歩いていくと、温泉があった。なんでもドクターフィッシュを使ったセラピーで有名だということで、ぼくらはすぐに裸になって、魚に身体中を食わせた。
すっかり治療を終えたぼくらは、諦めずに森の中を進んでいった。雑誌はやがて見つかった。近くを徘徊していたホームレスと一瞬喧嘩になりそうだったが、彼の持っていた『ビッグイシュー』を1冊買ったらそれでOK ということになった。
落ちていたゲイ雑誌はずいぶんと古く汚れたもので、結局拾って帰ることはやめにした。そして、警察に匿名で電話を掛け、「『バディ(Bʌ́di)』が森の中に落ちていますよ」と伝えた。電話の向こうは「え、なんだって?」と聞き返したのでもう一度だけ雑誌の名前を伝えた。「『バディ』が落ちているんです」、そう言ってぼくは電話の送話口を下ろした。


それでぼくらの小さな旅はおしまいだった。ぼくらは別々に帰途につき、そしてその後も別々の道を行くことになった。
ヨンさん
“メガネ”

“メガネ”は中学を卒業したあと、ぷらぷらと町でアルバイトをしていたが、ある夏の日に牛丼屋で“ふとっちょ”と出会い、大喧嘩をすることになる。
チャンク
“ふとっちょ”

“ふとっちょ”は中学卒業後に無事就職し、大工になっていたが、ある夏の日に牛丼屋で“メガネ”と出会い、大喧嘩をし、丼を持ち出して殴りかかろうとするところをある男に仲裁に入られることになる。
フェニックス
“不良”

“不良”は中学・高校を優秀な成績で卒業し、それから警察官になったのだが、ある夏の非番の日、牛丼屋で口論になった二人の仲裁に入り、丼で頭を殴られ死んでしまった。

余談になるが、その牛丼屋のオーナーはぼくの兄貴だった。
読めない漢字に改名した男
兄貴

兄貴は優秀なアメフトの選手だったが、途中から相撲の力士になると言い出して新弟子検査を受けたが、うまく行かず、牛丼屋のフランチャイズに手を出していたのだ。この事件がきっかけになって兄貴の店はずさんな労働管理が指摘され、未払賃金の訴訟が起き、大きな負債を抱えることになった。


それでもぼくは、あの日“不良”が言ったように、なんとか官能小説家になることができた。あの日拾った雑誌の縁かどうかはわからないが、こうやって『バディ』にもエッセイを連載させてもらっている。
12歳の頃の日々はもう帰ってこないが、それでもこうやって毎年なんとなく思い出しているのだ。あのときの友人より他に、ぼくに本当の友だちはいないから。
 

四年前のものなので、僕自身元ネタがわからなくなっているものがいくつかあった。いまでも『ビッグイシュー』のくだりがちょっと意味がわからない。なんだろう、これ?

上掲動画をあらためて視聴すると、こんなクソ文章をアップしたことが恥ずかしくなるくらいの名曲。また、映画もよくつくられていたんだなあと今頃になってやっと気づいた。
死体を見つける朝、主人公がひとりでいるところに鹿と出会うシーンがあった(動画でも見られる)けれど、あの場面の持っている奇妙な神秘さって、いま思うにキングらしさなのかな、と思った。

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赤ちゃんにお乳を?
花に水を?
ペットにエサを?

これらは、「あげる」じゃなくて「やる」が正統である(ただし、面倒なので「正しい」とは言わない)ということはこれまでに何回か書いてきた。
高島俊男が書いていたと記憶しているが、「やる」はけっして乱暴ではなくて、むしろ近いからこそ出てくる言葉であり、それが「あげる」になってしまえばよそよそしさが生じてしまう、うんぬん。

で。
これはすでに有名な話のようだが、桃太郎の歌、「お腰につけたきびだんご、ひとつわたしにくださいな」と請われたところのフレーズは、「あーげましょう、あげましょう」ではなく、「やーりましょう、やりましょう」という文言が現在のスタンダードになりつつあるらしい。少なくとも僕の聴いた複数のソースでは、幼児教育の現場で言葉の正しさを教える意味も含め、「あげましょう」から「やりましょう」にシフトチェンジしているところもあるようだ。

桃太郎の改変は大っ嫌いだが(桃太郎の改変、もういいよ - とはいえ、わからないでもない参照)、しかし、「あげましょう」で習った僕とすれば、「やりましょう」という桃太郎の態度にはいささか冷たさを感じる。

いぬ・さる・きじというのは、いわば戦地に赴き、桃太郎と共闘する戦友である。その戦友に対し桃太郎がこう言っているように聞えるのだ。
「おまえらは畜生という人類に一段劣る存在であるからして、おれがいまからやるきびだんごを受け取った暁には、おまえら畜生はおれの言うことをいっさい聞かなければならぬし、命を捨てよと言われたときはすなわち命を擲って戦闘に殉ずることとする。それが諒解できるのであれば……やーりましょう、やりましょう」

これを聞いたいぬ・きじ・さるはどう思うか?
犬「ちょいちょい、待っておくんなはれや。なあ、さるさん? このももたろはん、ちょっと厳しすぎると思わへん?」
猿「そやなあ、ずいぶんと上から目線やしなあ。きじさんはどう思う?」
雉「うちら、ペットになりたいゆうてるんとちゃうし。一緒に鬼さんやっつけようゆう話やろ?」
犬「そや、『一緒』ゆうところが大切やで。ボクらはナ、共同戦線を張ろうゆうてるんや。それをこの人、ボクらをあくまでサポート役にさせといて自分だけひとり目立とうとしているんちゃうかな」
猿「そや、それで危ないときにはわいらに死ねとも言う。これ、言うこときいといたら損やで。きびだんごごときで騙されるやつなんて、今日びおらんわ。去(い)の去の」
雉「お、さるさんだけに、さきに去るんやね」

一方、「あげましょう」の桃太郎であれば。
桃「……ということで、以上の条件についてみなさまにご不明なところがなければ、わたくしとともに一緒に鬼ヶ島(東京都鬼ヶ島町1-1-1)に行っていただきまして――この際のフェリー代金はすべて(株)モモタロウより払わせていただきます――、(有)鬼塚興業の代表取締役、鬼塚三平以下、社員三十名余との戦闘行為に参加していただくと、このようになっておりますが、もしご質問があれば伺っておきます。……はい、ああ、戦闘に勝利した場合の記者会見でのみなさまの扱いですね? それについては、みなさまのお名前は、(株)モモタロウの正社員として連名の形で発表させていただきます。……はい、きびだんごですが、みなさまにはこの場でこのきびだんごを食べていただく――もちろん食べるマネだけでよいのです――ことによって、入社式を執り行ったとみなします。いわば儀式みたいなものでございます。もちろん謝礼でございますが、いちおうは給与という形でみなさまのご活躍に応じて払わせていただきますし、この遠征が終ってからも、みなさまがご希望されるのであれば当社に残っていただいて契約社員として働いていただくということも可能でございますが、いかがでしょうか?」
犬猿雉「うーん、そんならとりあえずそのきびだんご、もうときますわ」


なお、大島弓子『グーグーだって猫である』を図書館で立ち読みしたら(いつか買うと思う)、とてもじゃないがキャットフードのことを「エサ」と言えなくなった。猫とはいえ家族だと思っていれば、「ごはん」でもいいんだろうな。

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ちょっと整理してみた。

サイゾーのネットニュース(?)で『64』が「大ゴケ」しているというのを知って驚き、なおかつその分析を読んでひっくり返りそうになった。
よくもまあ、低劣な記事を書くもんだ。物を書くことを商売としている人間が、いかにいいかげんなことを書いて仕事にしているのか、ということを知るうえでは参考になるかもしれないが、内容は的外れもいいところ。
サイゾーの記事に限らず、Yahooなんかのニュースでも、テレビドラマ評論家という肩書で出てくるやつらは、たとえひとつの作品にでも製作側として携わったことがあるんだろうか。製作もできず、といってまともな批評ができるわけでもないから、だからネットでしか書ける場所がないんじゃないの?
視聴率でしか作品の善し悪しを測ることができず、しかも後付けなのだからほんとうに誰にでもできる仕事。
きちんとした仕事をする批評家であれば、数字を取っているドラマの批難すべき場所を見つけてあげつらい、数字上は苦戦しているドラマの良い点を挙げるべきである。また、それができないのであれば評論家でもなんでもない、ただの野次馬にしかすぎない。いまはネットの時代、そんな野次馬は佃煮にするほどいるんだから、後付野郎のやつらに存在価値はないのだ。

まあ、それもいい。ああいう記事に感化されて、ドラマといえばいつまでも『半沢直樹』の話しかできない連中もほうっておけばいいのだ。むしろ将来、「視聴率は低かったけれど、おれ/わたしは『64』をリアルタイムで観てたんだよね」と自慢できることを、今からたのしみにしていよう。
僕たちは、僕たちの価値判断を自分自身で守っているのだ。ばかではないから。


さて第三話。
この回は、新井浩文がいちばん印象的だった。演出なのかそれとも「地」なのかわからなかったが、クラブ記者たちとの接待翌日以降の新井が、ずっと目が赤いんだよね。表情には疲労が募っていて、なおかつ上司たるピエールにどこか反撥心を持っているのがよくわかった。
彼は、ドラマ版『クライマーズ・ハイ』の中で、大森南朋と一緒に御巣鷹山に入山した役をやっていた。あの頃はまだうまくなく、言葉が空っ滑りしている感じだったが、いま、広報官のピエールに口を尖らせて文句を言う芝居ではきちんと存在感を示している。
そういえば彼は唐沢寿明主演の『不毛地帯』の第一話で、シベリア抑留時にソビエト兵からピストルを奪って自殺する日本人兵士役も演じていて、あれで僕は彼のことを見直したのだった。ロトのCMで妻夫木の同期をやっているのはご愛嬌。

「匿名事件」について記者クラブで被害者のプロフィールを公表するところでは、ピエールの演技の物足りなさは否めなかったなあ。しかしそのことをまったく忘れさせてくれた記者連中の演技。初回のときにも書いたが、なんでこんなに学生サークルみたいに若いんだろ? このクラブの中だけ、まるで別のドラマの撮影かと思えるくらいに完全に浮いてしまっているように感じた。
本部長は菊之丞だったのね。いちおうNHK関係者と言えなくもないからか(妻がNHKアナウンサー)。

ストーリーは、警察小説らしく、警察機構内の対立がいよいよ明らかになってきて面白くなってきている。
最後、別館の捜査本部が置かれたと思しき講堂(?)の扉をピエールが――マル暴の刑事に羽交い締めにされながら――開けるシーンはなかなか凄まじかった。
むりやり開けた扉から、中で立ち働いている警官たちがおおぜい見えるのだが、それが一瞬だけというのが心憎かった。もちろん次回では大勢の人間がいるというところをきちんと撮影するのだろうけれど、今回はあのシーンで多くの視聴者が「あれ? どうなっているの?」と焦燥感を煽られたことだろう。こういうのも、演出のうまさがさりげなく見える部分である。

十四年経って誘拐事件を起こしてきた「サトウ」だが(今回だけでは事件の概要はまったく摑めず)、どうしても僕は段田安則を疑っているんだよなあ。あの「翔子ーッ!」という絶叫はいつ観てもすごいのだが、その半面、彼しか「サトウ」の声を聴いていない、という点にずっと引っかかっている。
こういう予想はまったく当たったことがないのだが、はてさてどうなりますことやら。 

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