とはいえ、わからないでもない

2015年07月

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毎週聴いているNHK FMのFMシアターの感想をメモしておく。

6/6 『お乳の神様』

【出演者】
正司照枝・三倉茉奈ほか
【あらすじ】
かなり真面目な戦争もの。ある家に嫁いだ女性が戦地に赴いた義弟と手紙のやりとりをし、淡い淡い恋心を互いに交わすのだが、ささいな心のすれ違い(というより女性の考え違い)により交信は疎らになってしまう……。
【感想】
兄嫁を恋人のように見立て、遠慮しつつも戦地での不安を払拭させようとする義弟の文面が、明るくなれば明るくなるほどせつなく、ドラマとしても非常によくできていた。
時代を限定させてしまえば、手紙はまだまだ物語のなかで非常に有効な装置として機能するものだとも感じられた。特に、ラジオドラマでは。

6/13 『シュガー・ソネット』

【出演者】
葵わかな・下田翔大ほか
【あらすじ】
両親の離婚によって味を感じられなくなってしまった少女は、そのことを誰にも告げずにいた。しかし、まったくなんの味もしない食事をたのしんでいるふりをしつづける毎日に苦痛を感じていたところ、ある日、彼女は不登校の男子クラスメートと出会う。なんと彼の左手(か右手)はメレンゲでできていて、しかも再生可能(取り外してもすぐに生えてくる)だということを教えてもらう。試しにそれを食べさせてもらうと、味が感じられる! ふたりは共通の秘密を持って仲良くなっていくのだが、やがて「メレンゲの左手」のことは周りにバレていき……。
【感想】
第43回創作ラジオドラマ大賞 佳作とのこと。
ストレスによる心身症を扱ったものかと思いきや、途中からいきなりファンタジーに突入するところが面白かった。しかし、そのあとの物語の収拾のつけ方が、むりやり現実の地平に着地させようとするように見えてしまい、興醒め。
「思春期時代の秘密の共有および淡い恋心」「ストレスの具現化」「変容していくふたりの関係性」等の面白いキーワードを最後まで丁寧に料理しつづけられたのなら、傑作になったと思う。もったいない。
なお、ヒロインの声を演じた葵わかなは東京海上日動のCFで毎日父親の軽トラに乗せてもらって通学する女の子、と言えばわかる人はわかるだろうが、彼女はけっこういい声をしている。
2014年のFMシアター『同じ空の下』でもヒロインを演じているのだが、これも少女っぽさが残っている(というか現在まっただ中か)非常にいい声に思えた。『同じ空の下』も震災・原発事故のその後を扱った福島放送局制作のいい作品。

6/20 『みごもる。』

【出演者】
大後寿々花・松本明子ほか
【あらすじ】
父親のいない家庭に育ったヒロインは、祖母の死をきっかけに、助産婦として忙しく働くためあまり家に帰ってこない母親に隠れて援助交際をつづけ、高校生ながらも、父親のわからない子どもを身ごもるのだが……。
【感想】
醜悪な話。まず、援助交際をすることを、いかにも「堕ちた」感じで描くこのやり方に違和感を覚えた。しかもこの女の子は、自身のことを「こんなの最低だよ」と自嘲してもいる。
仕事にかまけ家庭を顧みない(ように娘には映る)母への不満を、売春という形で発露させるというのが、はたしてリアルな心の動きといえるのかどうか。ここらへんは男である僕にはなかなかわからないのだが、動機はどうあれ、もし援助交際に精を出す(?)ような人物であれば、それはそれでけっこうあっけらかんとしているようにも思う。なお、この家庭は経済的に困窮しているわけでもないし、彼女自身、男から金をもらうときにその多寡に執着している様子もない。「お母さん、わたしを見て!」と言いたいがために身体を売るのは、思春期の女の子としてはよくある話なのだろうか?
結局、高校生のシングルマザーとして子どもを生むことを決意し、赤ちゃんが生まれれば万事解決とばかりに一挙にハッピーエンドの様相を呈するこの流れに抱いた疑問は、番組最後のクレジットで脚本家に男性の名が告げられたときに、「やっぱりなあ」と氷解した思いだった。頭で書いた作品の典型。
大後寿々花は、『桐島、部活やめるってよ』に出演していたサックスを吹いていた女の子で、『八重の桜』にも出演していた。

6/27 『春来る鬼』

【出演者】
森川葵・山田真歩ほか
【あらすじ】
美術教師に恋する女子高生のヒロインは、あるとき、その教師に同棲している恋人のいることを知り、それでも教師の家に押しかけ、奇妙な三角関係が始まる……。
【感想】 
近藤よう子の原作ということでたのしみにしていたのだが、だいたいからして三角関係が始まったところでげんなりしてしまった。
結局は女同士で愛情の見せつけ合いをし、教師じたいは優柔不断でどちらにもいい顔をするというごくごくありふれた展開に落ち着くのだが、最後、ヒロインと教師の恋人のあいだに共犯的な友情ともいうべき感情を抱いていたということがわかるあたりが、すこーしだけ常道から外れているのかもしれない。が、わざわざ鑑賞すべきほどでもない、と判断する。
なお、山田真歩は『花子とアン』の宇田川センセの女優。 

7/4 『婚礼、葬礼、その他』

【出演者】
貫地谷しほり・山中崇ほか
【あらすじ】
他人を呼ぶ能力をうまれつき欠如していると自認するヒロインが、大学生時代の友人の結婚式に呼ばれ、披露宴の幹事とスピーチを依頼される。が、当日は会社の上司の父親が死んだということで急遽葬式に呼ばれることになり、電話を遣って結婚式のスピーチもこなそうとするのだが……。
【感想】
はっきり言って、あらすじも思い出せないほどの駄作。この作品は再放送らしいが、おそらくその理由は貫地谷しほり・山中崇というビッグネームがキャストだから、の一点に尽きると思う。ちなみに山中は、『相棒』の芹沢の山中ではなく、JTの人、あるいは『ごちそうさん』に出ていた書生だか作家だかのやつ。キャラ芝居を押し進めるだけの糞っ下手という印象は概ね外れてはいまい。本作品でもその演技がいかんなく発揮されていた。
話のテーマが、人を呼ぶというのは能力でもなんでもなく努力があってこそで、人に囲まれている人間は努力しているんだよ、みたいな(もしそれが本当に作品の最重要テーマなのだとしたら)ほんとにどーでもいい内容で、「だからどうしたんだよ」の一言で批判は終ってしまう。
山中のキャラ芝居については既述したが、貫地谷のほうも、「うーん?」と首を捻らざるをえない。この人も、ややキャラ芝居の気味があるんだよなあ。たとえば『八重の桜』などでは「そこで呼吸をしている感じのする」非常に印象的でいい芝居をしていたのだが、反面、『ちりとてちん』のようないかにも「不器用な女の子」を演じるときには、中身の薄いマンガ的な表現にとどまっているように見受けられる。どっちなんだ、この人の実力は?

7/11 『弾け!はじけろ!そろばん甲子園』

【出演者】
朝倉あき・奈緒ほか
【あらすじ】
珠算部に属する女子高生ふたりと男子高校生ひとりの三人組が一所懸命に練習して全国大会を目指す!
【感想】
単純。であるからといってつまらないというわけでなく、ラジオドラマってこういうのでもいいじゃんと思える作品だった。福岡放送局制作のようで、登場人物たちはみな博多弁(?)というのも、生徒たちの活き活きとした感じの表現を後押ししていた。また、珠算という僕には馴染みのすくない分野でも、アツい青春模様があるということが知れたのもよかった。

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NHKのニュースウォッチ9って、新キャストになってからきのう初めてちらっと見たのだけれど、ひとつのニュースが終わったあとの男の人のキャスターの一言コメントの「ひとごと感」ってものすごいなあと感じた。ひとつひとつのコメントのあとに「しらんけど」って心のなかでつぶやいてそう。
 
そのきのうは例の安保関連法案が衆院特別委員会で採決されたということが報じられていた。
といっても、このスケジュールについてはちょっと前からすでに報じられており、きのうのこのニュースを見て、(憤りを感じはしても)「ええっ!?」と驚いた人は少ないと思う。
国会前や、全国各地で反対集会をしたという報道もあり、それはそれでいいことだと思うけれど、でも、われわれのできるいちばんのアクションって、 SNSを利用してデモを呼びかけたり、ネット上で意見表明をしていくことよりも、投票なんだよね。
日本会議のうさんくさい話とか、改憲草案がひどいなんてことはもう前々回の衆院選前からネットでは目にしていて、「こんなやつらが選ばれたらさらにひどいことになる」というのは共通認識としてみなが感じていることだと思っていたのだけれど、ふたを開けてみりゃいまの政権になっていた。
あのとき、「経済優先」とか「景気優先」などとさかしらに言っていた人たちに対する反感を僕はいまでも持っていて、だいたい、なにごとにつけ「経済」を理由にする考え方を僕は好んでいない。

2011年、当時、仲のよかった女の子が「原発はいままでも反対していましたけど、コストの面から見てもわりに合わないということが今回の事故で証明されましたね」みたいなことを言っていて、それを聞いて内心腹を立てたことがあった。
その考え方でいけば、原発を稼働して得られるエネルギーと、算出された原発事故による被害額の総計とを比較し、もし前者のほうがそれでもメリットが大きいと判断できれば、原発GOってことになる。
これは、ちょうどその頃テレビ放映されていたマイケル・サンデルの授業でやっていた功利主義の「最大多数の最大幸福」と同じ話だった。
1970年代、フォード社のある車のガソリンタンクは、追突された場合に爆発しやすいという欠陥を抱えていた。この欠陥による火災事故では500人以上が死亡したというのだが、実はフォードはこの欠陥の危険性を認識していた。
要約すればフォードの経営陣は、タンクを改良することによって得られる安全性(メリット)と、その安全性を確保するためのコストを算出して比較した。その結果、コストはメリットよリ高いということが判明し、フォードはタンクの改良をあえて行わなかった。なお、このとき死者一人あたりの値段を「20万ドル」と計算したのは、フォードではなく政府機関。ここは、交通事故死のコストを、「将来の生産性の損失、医療費用、葬儀費用、犠牲者の苦痛を合計して」求めた(サンデル『これからの「正義」の話をしよう』早川書房 60p)。
ここには考え方の相違があるだけで、絶対的な正解はないと思う。現政権だって、(少なくとも建前上は)最大多数の最大幸福にもとづいて原発再稼働GO! GO! GO!を謳っている。彼らには彼らの信奉する正しさがあるのだ。いまだったら「ほらね、やっぱりだよ」とあの女の子に言ってやりたいよ。
けれども僕は、金額に変換できるものとできないものがあると思っている。金額をベースにして選択し行動していくというのは、ある意味での明瞭さをともなうために支持されやすいのかもしれない。けれどもその考え方で行けるのはおよそ自らが関わらない場面でしかなく、他人事であるからこそ「クールでクレバー」なふりがつづけられるのである。

「コスト的にも見合わないうんぬん」と言っていたその女の子に対してそのときは、明確に反論せずにただひとこと「いやあ、僕も反対の立場に立つけれど、それは違うな」と言っただけだった。反対するのならその考え方はどっちでもいいじゃん、と思われたのかもしれないが、僕としてはどっちでもよくないのである。
そのとき僕の頭に浮かんだのは「倫理」という言葉で、これが正確で適切な言葉なのかはいまだにわからないが、抽象的で個々人によって異なる「正しさ」についてのややこしい価値観の意であることはその当時から変わっていない。
それは、他人に説明するのもめんどくさい、「おれがいままで生きてきた経験に照らし合わせて、これは好きじゃねーんだよ」の一言がもしかしたらいちばんぴったりな感覚。であるがゆえに、他者の批判は絶対に受け容れないものでもある。
そのいいかげんな感覚を、いわばカッコよく「倫理」と名づけているだけであったが、けれども僕にしてみれば、「コストが大きすぎる」なんて表現よりよっぽど確かな感触があった(自分自身のものだからあたりまえだけど)ので、あれ以来、僕はなるべくそれを根拠としてものごとを判断するようにしてきた。

話が横道にそれた。
元に戻せば、きのうの結果は、もうすでにずっと前から決まっていたことのようなもので、それは、ネットを利用すればきっと世の中は善い方向に進んでいくだろうと過信する多くの若い人たちの甘やかな期待を裏切るものだったろう。
僕はシニシズムに浸っているのではない。そうではなくて、もっと横を見ていったほうが早いんじゃないかと思っているのだ。横というのは、投票権を持っている同世代の人間あるいは同じコミュニティに属している人間たち。そういう人たちに、ただの「投票」だけでなく、「正しいと思う人への投票」を呼びかけたほうが、少なくとも現況よりは「正しい」状況に近づけるのではないか。

しかし、こんなことを言う一方で、「まあムリなんだろうなあ」という確信に近い考えを持っている。
新国立競技場の問題にしたって、あそこに絡んでくる人間の醜悪さっていうのはものすごいものがあるのだが、なにも特殊な人たちがあそこにだけ集まっているというわけではない。
たとえば五輪誘致の発端といえば石原だけど、あの都知事をずっと長いあいだ選んでいたのは誰かっていう話はあんまりなされない。ちなみにあのおっさん、「都民以外の通勤者らに、1人あたり月1000円払ってもらう。そうすれば、年間で約600億円が入るんですよ」とテレビ番組で言ったそうな。そういえば、尖閣諸島の問題に火をつけたのもあのおっさんだった。すげーな、人の役に立つどころか混乱を招いているだけじゃん。
ネットで調べたら、2012年5月の時点で東京での五輪開催に対する支持率が47%だったのに対し、2013年の3月ではそれが70%になったのだとか。こういう人たちはいったいいまなんて言うのだろうか。まあ「まさかこんなバカなことになるなんて思っていなかった!」って言うんだろうよ。いいよね、そういうふうに自分はつねに善意の人間であるよう振る舞って、他人にも性善説を用いていればいいんだからさ。
ここらへんのことを考えていたら、大西巨人『神聖喜劇』中の「責任阻却の論理」の話を思い出し、さきほどひさしぶりに同書をあたってみた(そのために記事を書いているうちに日をまたいでしまった)。
軍隊では、下級兵は上級兵に対し「知りません」と言うことは許されず、つねに「忘れました」と答えるというのが暗黙の了解になっているのだが、それは責任の所在を上級者の通知の不徹底あるいは教育の不備等に求められないがための「知恵」であり、つまり「忘れました」を徹底させることによってつねに上級者は下級者に対する責任を回避することになり、その指揮系統を順々に上にのぼっていけば頂点にあるのは元帥たる天皇なのだが、結局これも「すべての責任はその下級者にある」という論理系統上では責任を持つ存在ではありえず、かくして日本の軍隊はつねに責任のありかを問うことができない究極の無責任組織である、ということが証明される。

これ、いまの新国立競技場の問題とまったく同じ。上級・下級というよりは、それぞれの組織ごとで「あいつが悪い」と言い合っているだけで誰も責任を取ろうとしない。国民のほうだって、みんな善意の第三者の顔して「許せない!」と怒る。けれども、着々と工程は進捗していき、おそらくは覆らないままなのではないか。この予想がはずれれば嬉しいけれどね。
まあ、無責任っていうのは国民側にもあるんだよな。直接自分の側に害がなければ「クールでクレバー」なふりをしていられる人間も多いし。
ちょっと上で僕は(近くの人間に政治的共闘を訴えていったほうが早いという行動に対し)「まあムリなんだろうなあ」ということを書いたけれど、それは、あまりにも無責任な人間のほうが多いから。そういう人たちを多く取り込むなんてほぼムリ。僕はそのグループに入っていないと断言したいけれど、それもまた難しい。結局は「こいつらが悪いんだよ!」で済ませちゃってるからなあ。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」(日本国憲法前文)しているという構造が守られている以上、その代表者がおかしいのは、日本国民がおかしいからでもある、ということくらいは認識したほうがよいのだろう。
 

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佐藤さとる『豆つぶほどの小さないぬ』(講談社文庫)を読んだ。コロボックルシリーズの第二作である。
詳細を書こうとも思っていないが、この作品の面白いのは、前作と異なり、コロボックルの視点から描かれているという点である(前作の話者は、「せいたかさん」と呼ばれることになる人間)。
そして「あとがき」を読んで驚いたのだが、作者の頭には、この作品のモチーフ(コロボックルが活躍する物語)が先にあったそうだ。しかしそれを成り立たしめるために、まず「小人存在の背景と発見の経緯を、先行して物語る必要がある」(303p)と判断して前作を描き、それから三年後に満を持して本作品を上梓した、という経緯があったらしい。

前作同様、物語の筋に劇的な変化はない。けれども、ちょっとした冒険譚や小さな小さな恋の物語があり、「やさしい世界」にすむコロボックルたちの呼吸が感じられるのも、前作と同じ。
この「やさしい世界」が、絵空事に感じられるか、はたまた作品内リアリティをもって存在するかは、ひとえに作中で遣われている言葉や文章の柔らかさに起因するのではないかと思っている。
もちろんこれらは読者個々人の好みの問題でもあるので、「絶対にこうだ」という基準もないのだが、たとえば、本作の主人公の「風の子」ことクリノヒコ(ぼく)が、仲間のコロボックルたちと一緒にマメイヌという小さな犬を探しだそうと相談しているときの場面。
せいたかさんにもらった地図(人間用なので、微小なコロボックルたちからすれば、巨大な絨毯みたいなサイズになってしまう)の上で、マメイヌのいそうな場所にあたりをつけるのだが、そのときのみんなの意見を、「ぼく」は細かくノートにつけている。「あとになっても、だれがどんなことをいったか、よくわかる」ため。
仲間の、フエフキ、ネコ、ハカセ、サクランボたちとともに、マメイヌの気質、好きな食べ物、行動パターン、罠の仕掛け方を想像し、それらがクリノヒコのノートに書き込まれていく。
(前略)そして、ノートをとじた。
「おもしろくなってきたな」
フエフキは、つぶやきながら、立ちあがった。まどからは、大きなお月さまが見えた。フエフキは、そのまま、スタンドにさがっているスイッチのくさりをひっぱった――というよりぶらさがった。その足にネコとサクランボとぼくがぶらさがった。それでやっとあかりがきえた。
「さあ、みんな。こんどはぼくのふえをきかそうか」
ぼくたちは、拍手をした。
ぼくのノートには、そこまでちゃんと書いてある。

(75p-76p)
この最後の一文の素晴らしさ。

あるいは。
この物語のもうひとりのかわいい主人公、というかヒロインの「おチビ」ことクルミノヒメについては割愛するとして(全部書いてしまえば面白くないから)、人間のほうの「ユビギツネ(マメイヌの別称)使い」の血筋を辿っていってせいたかさんが、事情に詳しい特定郵便局の局長さんの伝手をたよって、ついに、ブラジルに移住してしまった人に手紙を出し、その返事を航空便でもらうくだりで、その返信の最後に、
わたしたちももちろんですが、親たちは、日本からの手紙を、とてもとても喜びます。知りあいも、局長さんの一家と、そこにお世話になっている人だけなので、これからも、ぜひぜひ、たびたびお手紙をください。心からお願いいたします。できましたら、お写真も、送ってください。では、とりあえずお返事まで。
さようなら

(174p) 
と書かれてあるこの切々とした調子に、出版当時(1962年)にはまだ大勢いたであろうブラジル移住者の寂しさ・辛さが込められているように感じる。このブラジルにすんでいる人とのやりとりはこれっきりで、ストーリー上の必然性はそれほどないような気もするのだが(むしろ、ブラジルという国が突然登場する突飛さのほうが目立ってしまっている)、それまで知り合いでもなかった「せいたかさん」に手紙や写真を強く求める様子を描く上で、作者には特別な思いがあったのではないか、と完全に時代の違う読者としての僕は想像するよりほかない。
ともかくも、ゆるふわ語を多用するだけの現代小説のなんちゃらとは一線も二線も劃していると僕は思う。


最後に。
この講談社文庫版では、作家の有川浩が解説を担当していて、そこには、小学校三年生の少女時代(女性だということを初めて知った)、毎晩枕元に、お菓子やミルクにくわえて、「コロボックルさんへ」と題した手紙を置いていたという体験が書かれていた。
あくる朝に、コロボックルの飲み食いした形跡がなくても、「そう簡単に心を開いてくれないであろうこともせいたかさんの手記より推し量れた」とめげずにその「日課」はつづいたという。この他人から見れば実にほほえましいエピソードを有川は、――照れ隠し半分であろうが――「我ながら相当気合の入ったメルヘン脳だった」と自嘲しているが、これはよろしくない。
アマチュアの照れ隠しならわかるのだが、作家は、笑いをとりに行きつつ照れ隠しも行える、などというあざとい計算はしなくてよいと思う。「われながら感受性の豊かな子どもだった」と書け、なんて思わないが、かといって、「メルヘン脳」なんていう低レベルな言葉で自分の子ども時代を笑い飛ばすのは、どうも僕は好きではない。
この作家の作品を読んだことはないのだが、ただ実際にあったエピソードだけを記述して、「結局、コロボックルさんからの返事はありませんでしたが」の一言でさらっと終えるだけでよかったんじゃないか、と思っている。

なお、有川浩は、佐藤さとるの許可を得て、これらのシリーズの続編を書くらしい。
(繰り返しになるが)彼女の作品をまったく知らないのでなんともいえないが、くれぐれも「ああ、余計な続編になったもんだ!」と長年のファンたちが憤慨するようなものにはしないでほしい。
僕も、ゆっくりとこのシリーズを追っかけて行って、最終的には、「お、有川版もけっこういいじゃん。あのときケチつけて申し訳なかったな」くらいの感想を持てればいいなと思っている。


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ただ、ご家族に経験者がいらっしゃる場合は優遇されるかも!?


※この募集は2012年12月で終了しております
なあんだ、もう募集していないのかぁ……。

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数ヶ月ほど撮った写真を整理できていないのだが、さきほどちらと確認してみたら動物モノが多いということに気づいた。
かえる
これは小松菜の生えているところに隠れていた。シンクのところに持って行って解放してやっても、しばらくじっとしていた危機感の薄いやつ。周りはカラスやらトビやらが飛んでいて危ないというのに。

つばめ
こいつは僕が「ツバメの輪」と呼んでいる、ツバメの集団飛行にカメラを向け、何十回とシャッターを押したなかで、いちばんくっきりと写ったやつ。このように、かなり近いところをぐるぐるぐるぐると飛び回っている姿は、小さいながら美しい。

うーちゃん
わが家のうーちゃん。いまだに馴れてくれないが、サイズはけっこう大きくなり、野性味がさらに増してきた。写真を見てわかるように、耳は薄く、血管が細かく張り巡らされていて、だからこそあんなふうに自由に耳を動かせるのだということがわかる。

なお、上記三点はすべてエフェクトをかけているので、実際の色とは異なる。 

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テレビドラマ『金八』の第五シリーズに日野敬太という生徒がいた。
この日野敬太(通称ヒノケイ)が主人公の回か、または最終回近くのいづれかだったと思うのだが、金八が「いくつになっても、ヒノケイのことを『ヒノケイ』なんて呼んでくれるの、中学のクラスメートくらいだぜ?」と諭す場面がある。「いいもんだろ?」というニュアンスで言っている。
僕は『金八』は嫌いではないのだが、この場面を観るたびに「そうかなあ?」と思ったものだ。

中学に限らず、学生時代の友だちを一生の友だちという言い方はわりと世間ではされると思う。そのときに挙げられる理由としては、「損得勘定抜きでつきあっているから」ということが多い。それはまあそうなのかもしれないが。
けれども、いつまでも「ヒノケイ」と呼び/呼ばれる間柄を、「よし」とする人もいる一方で、「いやだなあ」と思う人もいるということは忘れてはならない。

前の前の記事に、「人生で一時的に会った人とは、互いに、会っていたときの印象のまま、記憶し/記憶されているのだろう」という内容のコメントをいただき、なるほどそういうものだと思った。
ただ、それはあくまでも印象とか記憶の話であって、実際には人間は(たいていの場合)変化していくので、印象や記憶と実像との乖離は生じて当たり前だ。
「会えば中学生時代に一気に戻れる」というような言い方が肯定的になされた場合、その裏を注視すれば、「中学時代は『よき時代』なのだが、年をとることによって人は必ず世間のしがらみに出会い、不要な知恵を身につけ汚れていくのだ」という考え方が仄見えてくる。僕はこれを「イノセンス信仰」と呼んでいる。
それはある側面から見れば正しく、それなりに支持される考えなのであろうが、また別の側面からすれば、「とんでもない!」と批難されるような代物なのだ。

あの中学時代のイヤなイヤな思い出から解放されるために、ぼく/わたしは今日まで努力してきたのだ、という人は当然いる。同窓会を頻繁に開催したがる人はそこらへんのことを理解しているのだろうか。いや、仲のいい同士であるのなら全然構わないのだが、「ねえ、みんなも会いたいでしょ?」的な観念に取り憑かれている人間は、少し考え直したほうがいい。再会すれば、学生時代の関係性に戻ってしまうことに吐き気を覚える人だっているのだ。
学校なんて、偶然によっていろいろな人が集まっただけの「場」にすぎず、神聖化すべきではない。そこでなにか素敵なことが起こったのだとしたら、それはちょっとした僥倖、ミニ奇蹟だったのだと思ったほうがいい。そういう考え方をしたほうが、その学校を苦痛の根源だととらえている人たちに少しは近づけるように思う。

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これまで何度書いてきたかわからないが、バッハの『ゴールトベルク変奏曲』(グレン・グールド演奏)を使った脚本(私家版)をこっそりと書いたことがある。十年以上前の話。
ある事故を扱ったものなのだが、その事故の瞬間にタイムワープし、そこに巻き込まれたあるひとりの人物を救い出すという場面で、時間が停止していることを表現するために、この『ゴールトベルク』のアリア(以下動画でいうと、6:20~9:14)を流すことを考えていた。
そして時間が動き出し、その人間を連れてその場から逃げ出すきっかけになるのが、アリアから第一変奏に移り変わるところ(9:15)。静から動へ、死から生へ。
ところがだ。
これもまた何回書いてきたかわからないのだが、2005年の全国高校演劇を扱ったNHKの番組で、最優秀作品に選ばれた青森県立青森中央高校の『修学旅行』のエンディングに『ゴールトベルク』が使われているのを観て、「うぎゃー!」となった。使われているのはたしかアリアだけだったように思うが、「ああ、これでもう、演劇でこの音楽使ったらパクリになっちまうんだな」と思い、かなり落胆した。いまであれば、これ以前にも『ゴールトベルク』を使った演劇はきっとあっただろうと思えるのだが、そのときはもうかなりのショックを受けた。まあ、ショックを受けようが受けまいが、私家版なので別にどっちでもいいと言えばどっちでもよかったのだが。
そしてその傷もやっと癒えたかという2006年。アニメ版『時をかける少女』で、この『ゴールトベルク』が、しかもアリアと第一変奏の移り変わりの部分を、タイムワープ(このアニメではタイムリープだが)そのもののシーンに使われているのを観て、再び、しかもさらに大きめの「うぎゃー!」と悲鳴を上げたのは言うまでもない。
まあ、それはそれとして。


がらり話は変わる。
NHK-FMで毎日『夜のプレイリスト』という番組が放送されている。
これがなかなかにいい番組で、ある人物が一週間だけDJとなり、月曜から金曜の五日間で、毎日一枚のアルバムを紹介していく。なかにはもちろんハズレとなる人間もいるのだが、たいていの場合はその人物のことに興味を持つか、あるいは紹介された音楽に興味を持つことができる。
たとえば、これまで(理由は特別ないのだが)かなり嫌いだった長塚圭史を、この番組のトークきっかけで大好きになってしまった。音楽をできるだけ多くかけるような構成になっているのでしゃべる時間はあまりないのだが、それでも、DJに思い入れがあればその気持ちはきちんとリスナーに伝わってくる。反対に、それほど思い入れがなかったり、自分をカッコよく見せたいという思いが先に来ているような人間も、こちらにはたいていわかる。「なにかが好きだ」と話すことは、その話し手の内面を、話し手の思っている以上に曝け出してしまうのかもしれない。

先週は写真家の平間至だった。僕は彼を、2001年のNHK『トップランナー』で見たきりで、その頃の彼は逆算して三十八歳だったことになる。いまの僕とだいたい同い年。その彼が、2011年には出身地の宮城県塩竈の被災を経験し、翌年に病気を得て、その翌年にパニック障害になってほぼ一年間外出できなかった、という経験をされたらしい。そのせい、というわけでもないのだろうが、語り口は静かでありつつも、その内容はかなり内省的で深い思考に裏づけされているという感想を持った。佐藤さとるのところでも書いたのだが、ひとことで言って、信頼できるのである。
彼の第四夜に、グレン・グールド演奏の『ゴールトベルク変奏曲』が紹介された。
グールドが五十歳という若さで死んだということ。それに、同い年の自分(平間)が体調を悪くしたこと。このふたつのいわば符合によって、より死というものが身近に感じられるようになったということを話していた。また、先輩写真家の葬式で、優れた表現者は死んでいるのに近い状態で作品を作っている、という感想を持った、とも。ちょっと奇を衒ったことを言ってやろうというのではなく、心からの感慨を漏らしているようで、僕には非常に興味深い話だった。


上にもちらりと書いたが、僕はこの曲を、特にはじめのアリアから第一変奏への移り変わりの部分に昂奮を感じる。突然、生の躍動感が溢れ出し、目覚めていく感じ。ただ、主題がいくつもの形をとって変奏されていくうちに、だんだんと音楽に対する集中力は切れていく。
僕は、音楽にずっと意識を傾けているということができない。歌詞のある「歌」であればまだ大丈夫なのだが、演奏だけだと、どうしても意識が「思考」のほうへ向かってしまう。
耳から音楽が入ってくると考えに集中できないという人もあるかもしれないが、僕の場合はそれはない。むしろ、外界の余計なノイズを遮音してくれるし、集中力の切れ目をつくる「意識の隙間」を音符の洪水が埋めてくれる感じがする。
音楽好きな父と話していると、対象にもよるだろうが、どうやら意識のほぼすべてを音楽に傾けつづけることができるみたいだ。五十分だったら五十分のあいだ、音楽に身体全体を浸していられるという感じ。
僕の場合はそれが「足湯」みたいなもので、 足は足で暖かいのだが、それ以外の部分では風景を眺めたり、おしゃべりをしたり、違うことを考えているようなもの。音楽は(自分とはまったく別の、という意味における)「環境」の一部であって、そこにすべてを任せることができない。
だから困っているんです、とも思っていないのだが、はたしていづれそれが克服されるときは来るのだろうか。
目を閉じ、音楽に集中し、「音楽に集中する自分」を意識せずに、また、「『音楽に集中しているはずの自分』がどうしても考えてしまうもの」にも意識を向けずに、さらに眠ってしまわずに、時間の流れとともに音が変化していく様子を追っかけていけるのであれば、また新たなたのしみというものが得られるのかもしれない。
しれないが、現時点ではそれは無理な話のようだ。僕はいまこの文章を、『ゴールトベルク変奏曲』をかけながら――ということはグールドの唸り声のような「ハミング」も耳にしながら――書いているのだが、意識はいよいよ自分の書いていることに向かっている。

そしてちょうど、終わりのアリア(53:37~57:15)が流れてきた。
平間至は、この終わりのアリアの演奏中、グレン・グールドも半分以上死んでいる状態でピアノを弾いていたのではないか、と言っていた。
「死んでいる」というのが僕にはまだピンとこないのだが(そこが興味深い部分でもあるが)、意識の世界ではなく、無意識の世界に感覚を浸してしまいながら表現をおこなっている、というのならなんとなく理解できるのかもしれない。技術や論理の、その先。
それについてもう少し考えてみたいのだけれど、これ以上起きていると不眠症のウサギが騒ぎ出すので、電気を消してもう寝ることとする。 
そういえば、『ゴールトベルク変奏曲』には不眠症に悩む人のためにつくられた、という俗説があるらしい。 

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おとといか昨日くらいだったか、ふと高校時代の友人のことを思い出していた。

彼は高校在学中はちっともアルコールは受けつけなかったのだが(※未成年者の飲酒は法律で禁止されています) 、大学に入学したとたんにアルコール漬けになって(※未成年者の飲酒は法律で禁止されています)、くわえてちょっと精神をやられてしまい、あまり会わなくなってしまった。
しばらくたって連絡があって、久しぶりに会おうと日比谷公園で待ち合わせをした。
高校時代と変わらず待ち合わせ時間の数分前には到着した彼(ということは僕もそれより前に到着していた)は、便所サンダルを履き、ゆったりめのズボンに、これまたゆったりめで首元がゆるんだロングTシャツ(たしかそのときは夏だった)を着ていて、右手にはおしゃれ系ではないショッピングバック(紙製)を提げて「やあ」とこちらに手を上げた。
「最近は、こういうラクな格好をしているんだ」と笑いながら彼は話すのだが、二十歳前後の若者の恰好というよりは、こぎれいなホームレスに近かった。
公園内をぶらぶら歩きながら近況などを話していると、彼が突然「ちょっと待って」と言ってから、公園内に設置されていた水飲み場で水を飲みだした。「いやあ、最近は公園とかで水を飲んでいるんだよね、金を浮かすため」
昔から、相手が自分から言わない限りは事情を深く訊かないようにしているので(興味がないわけではない)、「ふうん、そうなんだあ」で済ませてしまったが、「おいおい、だいじょうぶかい?」と心のなかでは思っていた。
それからベンチにすわり、おしゃべりを一時間ほどつづけた。彼によれば、昔から仲の悪い家族から早く独立できるようバイト代を貯めて独り暮らしを目論んでおり、記憶をなくすくらいに飲んでいたアルコールもやめた(※そもそも未成年者の飲酒は法律で禁止されています)、とのことだった。その彼がちょっとへたった感じの紙袋から絵の具セットのようなものを取り出し、「最近は、こういうところで拾った石や木の葉絵を描いているんだ」と説明した。
最近になにかありすぎだろ、と思ったけど、「ふうん、そうなんだあ」と返事をした。

そのとき僕も一緒に絵を描いたのか、はたまた絵を描いている彼(断っておくが、絵はヘタだった)をずっと眺めていたのかは憶えていない。それから彼とは会わずじまいで、人づてに外国の女の子に惚れて東南アジアのほうへ移住するとかしないとか、という話を聞いただけ。なかなか危うげな人間だったが、僕もどこかで似ている部分があった。ま、若いときってのはそういうものなのかもしれない。

そういうことを十五、六年ぶりくらいに思い出していて、その夜に花梨さんのブログ(90日前!)を読んでいたら、
石に描くと言えば、昔勤めていた会社の社長がこれまた良くも(良かないな・・)悪くも、営業達に、河原で拾った石に絵を描いて新宿で売ってこさせたことがあったらしい。
という記述に当たり、驚いた。
ただし、上記は限定ブログ。かっぴき、かっトラ、すいやせん。
まさにつげ義春『無能の人』の世界だが、それに対する花梨さんの、
それにやたらに河原で石なんか拾ってきちゃダメじゃん。
何かが憑いていたりするんだから!
というツッコミも要注目だ。
時間を計算すると、どうやら旧クラスメートはその会社の営業の人に雇われたバイトではなかったようだが、それにしても奇妙な符合を感じてしまった。

なんやかやがあっても、いまごろ彼がタイで幸せな家庭を築いていたとしたら、それまでのすべてが笑い話になるのだろう。ただ僕は、その顛末を知ることは一生ないように思う。そして僕も、彼らに自分の「顛末」を知られたいとは思っていない。

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むかし、僕にはえくぼがあった。その頃には紅顔の美少年だったので、えくぼがかわいいとよく言われたもんだ。それが、いつのまにかなくなっている。というか、「あ、えくぼだ」と言われることがなくなったし、鏡見て、「にぃっ」と笑うこともないので、実際あるのかないのかわからないのである。ま、あってもなくてもどっちでもいいのだが。

そのえくぼができるときの音を、どういうふうに表現するか。

ぽつん?

ex. 「あ、えくぼがぽつんとできてるよ」……うーん、しっくりこない。「ぽつん」には突起している感じがある。

ちょこん?

ex. 「あ、えくぼがちょこんとできてるよ」……うーん、「ちょこん」は小さいものが乗っかっている感じしかないなあ。

ぽこ?

ex.「あ、えくぼがぽこっとできてるよ」……お、これは少し近い感じ。ただ、えくぼに対して「ぽこ」はちょっと大きい感じがしてしまうんだよなあ。

実例 

正解というわけではないが、読んでいた佐藤さとる『豆つぶほどの小さないぬ』(講談社文庫)に実例が出ていた。コロボックルたちが”えくぼのぼうや”と呼ばれている男の子について話しているところ。
「そういえば、めったにわらわないけど、わらうと、ぺっこり、えくぼができるな」
(89p: 太字強調は引用者による)
これを読んでいて、桂枝雀の『高津の富』のうち、富くじの二番を当てる夢を見たという男が、当たったら新町にいる馴染みの女を身請けしたいと惚気ける場面で、その女のことを、「笑うとえくぼがぺこっ!」と表現することを思い出した。

正直なところを言うと、「ぺこ/ぺっこり」はもうちょっと平べったいものがへこんだ感じがしてしまい、えくぼとはあまりそぐわないような気もするが、おそらく「へこむ」という言葉より派生したであろう「ぺこ/ぺっこり」は、えくぼ表現としては正統なのであろう、ということが察せられる。

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あまり好きではないパーソナリティのラジオを珍しく聴いていたら、例の新幹線焼身自殺事件のことをしゃべっていて、聞き手役の元女性アナが、「ネットではJRの人たちの対応を絶讃している人たちが多いみたいですよ」と言っていた。

そのヘッドラインはたぶんどこかで見ている。その文字の並びを見て、「ふうん」としか思わなかったので詳細を確認しなかったが(ほとんどの場合、確認しないけれど)、その内容とは別に、仮にもラジオの喋り手が、「ネットでは……」みたいな話をするなよ、と思った。
「ネットの声」を知りたけりゃ、ネットを開くよ。ラジオを聴いているのは、出演者の考えを聴きたいからであって、そんなところで「ネットでは」みたいな情報はまったく要らない。どころか、そんなふうに「ネットの声」を情報のソースにしていれば、いづれみんなラジオを聴かなくなってしまうだろう。放送に携わる人間としては実に愚かしい行為だ。

だいたい、「ネットの声」ってなんだよ。
どうでもいい記事ほどよく「ネットの声」を紹介しているけれど、どういう基準で選んでる? ツイッターだったらキーワードかハッシュタグで検索? 他のSNSでも同じようなことはたぶんできるだろう。ブログはちょっとレスポンスが遅すぎるからもう見向きもされないかもね。
で、僕の中では、たとえばツイッターなんかでなにかについてオープンに意見を述べている人って特殊だと思っている。「特殊」というのは、マジョリティーではない、という程度の意味。
僕の住んでいる人口二百人弱のムラで、ネット上で閲覧するだけではなく、なにかについて意見発信をしている人なんて、多く見積もっても五人もいないだろうと思う。めちゃくちゃマイノリティーの世界。
過疎地域だから年齢構成もいびつなのかもしれないが、控えめに言っても、ネットを利用している世代って、やっぱり若い人たちが中心。
しかも。
いま、試しに「新幹線 焼身自殺」のキーワードでツイッター内を検索してみた。「ネタ」にしているやつ、自己アピールの材料にしているやつ、これを機にマスコミ批判をしているやつ、これを機に韓国批判をするやつ、陰謀論者、などが出てきたのだが、これってふつう?
僕からすると、この人生でその実物に一度も会ったことのないような気持ちの悪い連中にしか思えないんだけど、これを「ネットの声」というのなら、「それほど世の中には多数いらっしゃらない方々の意見」と言い換えたほうがよっぽどいいように思う(まあ、それも「観測範囲の違い」の問題ではあるのだが)。
けれども、なにも確認せずに批難するのはよくない、と「JRの対応を絶讃」というツイッターまとめを見てみると……アニメアイコン多し! うーん、つらい。あまりにもつらいんで、もう読まなくていいやって思った。

カネのかかっていない情報ってそれほど価値がないと思っている。このブログもそうだけど、事実を詳細に調べて書いたりすることなんてまったくなく、いつも適当(だからって「間違ってるぞ、おまえ!」と批判されたら、「うっせえ、ただで読ませてやってんだから文句いうなアホ!」くらいは思うのだが、けれどもオトナとしては「あ、はい」で済ませる)。「ネットの声」ってのはせいぜいその程度で、発言者の周りの人間がたのしむ(ここは重要)だけならいざしらず、それを「多数の意見の代表」のようにとらえるのは、どう考えたって間違っている。
また、「こういう意見もあるよ」のサンプルとして採り上げるのであれば、どういう基準で採り上げたのかが問題になるわけで、そりゃ世のなか探せば「奇を衒う意見」なんて山ほど見つかるし、ネットでは目立ちたがり屋が多いためにその傾向も強いだろう。
一方、テレビ、ラジオ、新聞なんていうのは、建前上、取材して裏付けをしてから報道しているのであって、もちろん個々のメディアの編集方針や取材レベルの高低なんかもあるだろうけれど、いちおう商売だからねえ。裏付けもなしに憶測を述べるだけの「ツイート」とはわけが違うでしょ。
こう書くと、ツイッターのヘビーユーザーなら、「いや、ツイッターには専門家のアカウントだってある! 正しい情報はツイッターにこそある!」みたいなことを言う人もいるんだろうが、僕は「あ、そうですか」くらいにしか思わないや。事実をただ伝えるという原始的な利用法ならともかく、意見を述べるのには適していない「140字制限」という枠組みに順応しようとする姿勢って、結局は自分の商売の広報部門の努力にしか見えない。承認欲求を得たいだけのアマチュアとは違うんだから、ほんとうに伝えたいことがあるのなら、連続ツイートなんかを利用しないでしょ? 学者が論文のパラグラフをすべて140字以内に制限する? 作家が一文をすべて140字以内に収める? 僕からすると、言いたいことをみんな川柳にしてしゃべっているみたいで、マジメな話題であればあるほど見ていて恥ずかしい。
十年ほど経って、ツイッターが誰も使っていない状況になっても熱心にツイートしている専門家があったら、僕もマジメにとらえるけど、たいていの専門家たちは、ただ、いま盛り上がっているからツイッターを利用しているだけでしょ。違うツールが流行ったら、みんなそっちに大量移入しておしまいですよ。

とまあ、そんなふわふわした情報を、放送分野のどまんなかにいる人間(「元」とはいえアナウンサー)がうっかり言及するなんて、なんてシロウトみたいなんだ!と腹が立ったわけだ。
その人、今回だけでなく、そういうのがわりと多くて聴くたびに気になっていたんだけど、自分ではまったく気づいていなくて、どころか、「ちょっと情報に早くアクセスしているわたしってすごい」くらいに思っているんじゃなかろうか。うーん、これまただいぶつらい。

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