とはいえ、わからないでもない

2015年09月

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脱線するから書かなかったことだが、ふたつ前の記事に書いたツイッターガールについて。
あれは少しは知っている人だからああやんわりと書いたまでで、もしまったく知らない人間だったら「まったくどうかしてる」の一言で批難するところだ。
自分だけならまだしも、その周囲を巻き込んで、外界に面白おかしく伝えるための「ネタ」にするなんて、まるで目立ちたがり屋のガキがするようなことなのだが、しかしこの世の中、その種のクソガキが予想以上に多いらしい。

JRの放火事件が先日あって、その犯人は逮捕された。そのニュースのなかで、火事の状況を伝えるための資料映像としてNHKが採用していた視聴者提供の動画があった。そこには、ボヤに対するJR職員あるいは近隣の人たちによる緊迫した消火活動が映されていたのだが、そのなかでひとり、逃げるでもなく、かといって消火活動に参加するでもないスーツ姿のサラリーマンっぽい人物が突っ立っている姿があって、最初に観たときから、「これはひょっとするとあれだな」と臭いものを感じていた。
そいつが放火犯だったということではない。推測の域を出ないのだが、おそらくはスマホでその消火活動を動画撮影していたのだ。
そもそも、これらの様子が映っている動画じたい、誰かがちょっと離れたところ(橋の上?)からスマホで撮影したものだろうが、この場合は距離が遠く離れていたということで許容するとして、消火活動のさなかにほとんど動かないまま撮影をつづけていたあの男をクズと言わずして、いったいなにがクズだというのだろうか。

クズ男は、おそらくは撮影した動画をSNS上にアップしたのではないかと僕は睨んでいるのだが、こういうのをアップするときの心境っていったいどういうものなんだろうか。
僕は、スマホも持っていないし、SNSのアカウントも持っていない(実は家族オンリーでGoogle+をやっているが)からよくわからないのだが、これって、火事の現場で大勢の人が大騒ぎしているのを眺めてたのしむ放火犯の心境とけっこう似たり寄ったりな気がしている。

ボヤに限らず、事故現場などで周囲の人間がスマホを掲げている姿は、テレビなどでも目にする機会が多くなったと思う。
以前、ニューヨークの地下鉄の線路に落ちた男性を、周囲の乗客が撮影していたというニュースに言及した記事を書いたことがある。
上記記事の主眼は当該ニュースだけに置いているのではなく、救助よりまず撮影のほうに気持ちが動いてしまう動機について焦点を当てたつもりだが、他人の死やトラブルをネタにして自分が目立ちたいと思う人間は、三年前より確実に増えている気がする。
江戸落語にはよく火事が出てくるが、それにつきものなのは野次馬。つまり野次馬というのは、たしかに大昔から存在していたようだ。けれども、いまほどその状況を手軽に記録することができ、それをより大勢の人たちに面白おかしく伝えようとする時代はなかった。

ボヤを自分のフォロワーに伝え、あわよくば拡散を狙う男には、おそらく「現実」がそのままには見えていない。カメラのファインダー越しに、あるいはスマホの画面越しに見えるのは、現実を幾層倍にも希釈した風景だ。
そうした風景に慣れてしまったあまり、想像力が欠如してしまったのか。はたまた、想像力が欠如しているから、そういう風景に慣れることができるのか。
いづれにせよ、とんでもないやつらが激増中なのである。いつかこういう連中のひとりひとりに不幸が降りかかればいいのに、と思っている。そしてその不幸に苦しんでいる真っ最中、感情のない別の連中によってスマホを向けられたとき、そのときはじめて彼/彼女は「現実」の重みを知ることになるだろう。といって、「救い」は必要ない。その重みにのたうちまわって、落ちるところまで落ちていけばいいのだ。

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前にちょっと「サスケ」について書いたが、その補足のようなもの。
あと、同じ「サスケ」を観てきなこさんが書かれた記事がもう最高に素晴らしくて、これ以上のものは書けないし、書く必要もない(かっトラすみません)。
だけれども、性格がときおり細かくなる僕としては、実はあの番組の演出については毀誉褒貶の感想を持ったので、それを備忘録として記録しておくことにする。

ゲスト席に呼ばれている、いかにも「番宣に来ました~」っていう人たちが、最初はやっぱり「あーはいはい、感動ものね」みたいなスタンスながらも「一所懸命応援しているわたし」を演じているのだが、それがやがて本当に熱中しはじめて、しまいにはわれを忘れて「行け行け行けー!」みたいになっているのはとても面白かった。ただしこれは、意図的な演出ではなく、単純に出演者たちがサスケ挑戦者たちに魅了されていったからだろう。
しかし、チャレンジが失敗に終わり、ゲスト(ただしこの場合は、番宣組ではなく、お笑い芸人枠での出演者)が挑戦者に声をかけたりする段になると、途端に彼らは自らの仕事を思い出すのか、わざと泣きを誘導するような質問をするところが興醒め。柴田理恵なんて――この人じたいはそう悪い人物ではないと思うのだけれど――、期待されている自身のキャラクターに忠実であろうとするあまり泣いていたけれど、ああいうのはかえってシラケる。

その前身番組(と勝手に思っている)であった「筋肉番付」では、古舘伊知郎だったと思うのだが、とにかく自己陶酔的な実況にうんざりしていたところがあった。当「サスケ」の実況でも、やや鼻につくところはあったが、全体的に古舘以下の陶酔率に収まっていたので、そこはまあ及第点かと。
ただほんとはこれも、もっと控え目に実況したってかまわないのだ。
若妻にぼろぼろと泣きながら失敗を大声で謝り、次回の挑戦を誓うあんちゃんにはなんの解説も要らず、ただもうそれだけでいい。こちらも最初は笑って観ているのだが、しまいには謎の感動に襲われる。ほかにも、山田組の若い衆が泣きながらチームの不振を悔しがったり、あるいは、すでに失敗した連中が船長さんのチャレンジを横で応援したりアドバイスしながら追いかけている図は、それだけでなんだか尊(たっと)い(その「絵」をきちんと収めているカメラはえらい)。
しかし繰り返しになってしまうが、いちばんすごいのは、とっちゃん坊やな男の子が、おじいちゃんが「サスケ」を大好きだから、という理由で「修行」をして優勝をかっさらっちゃうところ。
この筋書き、構成作家がプロデューサーに「こんな脚本を書いたんですけれど」と提出したら、「バカ! こんなすぐに嘘だとバレるような話があるかよ!」と激怒されそうなものだけど、これがほんとうの話なんだもんなあ。
いやあ、あそこにいた人たち(にぎやかし除く)ってなんだか愛おしいんだよなあ。それがあの番組のいちばんの魅力なんだろう。

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はてなユーザーの多くの人たちは忘れてしまっているであろうサービス、「はてなスペース」を僕はまだ利用しているのだが、ここ数ヶ月はスパム攻撃がものすごく、どこもかしこもスパム投稿でタイムライン(?)が埋め尽くされてしまっている。
公式のスペースも、外国人アカウントによる外国語投稿が数十分に一回の割合であるものだから、ふつうの人があれを見たら、「はてな、もうはてなスペースは捨てるつもりだな」と感じるはずだ。だから余計にユーザーは減るし、はてな側はむしろその状態を歓迎しているのではないか、と邪推すらしてしまう。無駄なリソースを非効率なサービスに割かなくてよくなるのだからして。
実際にあるスペースでは、管理人が無期限でクローズを宣言した。その理由が「スパム投稿を削除するのがたいへんで、はてな側に問い合わせても、『早急に解決することは困難である』との返答があったため」だそうで、それもやむをえまい。

僕がときどき遊んでいるところ(音楽関連)でもスパム投稿がひどかったため、管理人の方がプライベートモードのスペースを新たにつくって、そこに個々人を招待するというやり方を採って、現在は落ち着いている。が、そのようにしても、いつはてながこのサービスを打ち切るのだろうかというおそれは残る。
終わったときは終ったときだよ、と考えることは可能だし、実際そうするほかないのだが、けれども好きな音楽を教え合ったりそれについてしゃべったりするというのをもう三年以上もやっていると、特定のユーザーについては、やはり親近感が湧いてくる。
プライベートがどうなっているのかははっきりとは知らないが、それでもちょこちょこと漏れ伝わってくる部分もあって、そういう個々の生活の上に彼/彼女の音楽の好みなどが加味されれば、よけいにその人たちの輪郭は濃くなっていく。だからこそ、その縁が切れてしまうことは悲しいのだ。

「輪郭」という言葉を用いたが、ふしぎなもので、ネット上で知り合った人で実際の顔を知っている人はいない。
僕が懇意にさせてもらっている人のアイコンはすべて人間ではなく、動物だったりマンガだったり人形だったり植物だったりする。
反対に、自分のキャプチャ画像をアイコンに使っている人がいたら、僕は敬遠しているだろうと思う(わからないけど)。自分の顔をネット上にさらせてしまう度胸がなんとなく怖いし、心配にもなる。心配したくないので、あまりお近づきになりたくない。あと、自分の子どもの頃の写真をアイコンに使っているやつとか最悪。

それはともかく、顔も知らない人たちといわば文章だけでつながっているのだと思うと、やはり不思議なものだ。僕のところではありえない話だが、東京や大阪などの大都市に住んでいるユーザー同士であれば、もしかしたら毎朝同じ電車に乗っている可能性だってあるのだ。あなたが、「なんだよこのおっさん、無理してこんなに混雑している電車のなかで新聞読むなよ」と今朝思った相手と、その夜に「○○さんのオススメの映画観ました。面白かったです!」なんてやりとりをしている可能性もじゅうぶんあるのだ。オフィス街でうつむいたまますれ違った、疲れた様子のリクルートスーツのあの女の子が、実は毎日きらきらした写真をアップしつづけている人気者だった、なんてことも。

ラジオ番組では、ときどき「むかしの雑誌の後ろのほうには、文通募集の欄があったなあ」なんて話が出てくる。出演者のなかにも、「わたしもそれで文通をしていたことがあって、いまだに連絡をとっていますよ」なんて言う人もいたし、そういうリスナーのメッセージが読まれたこともある。互いの結婚式に招待した、なんていう話もあった。
遠くにいる、自分のことを直接的には知らない人にいろいろなことを打ち明けたいという欲求は、おそらく今も昔も変わらないのだろう。それが親密になってくると、そういえばどういう人なんだろうと考えるようになり、(特に相手が異性であれば)会ってみたいと思うようになることも多かろうが……会わないほうがいいという場合のほうが多いという可能性がなきにしもあらずという気もするが気のせいかもしれないような予感の前兆が感じられるような気がする。もにゃもにゃ。人それぞれです。
まあなんにせよ、みながみなアイコンではない実際の顔を持っているわけだ。また、id:dorotekiだとかいうid名ではなく、きちんとした姓名を持っている。そして、それぞれの生活がある。
わかったようでいて、しかしなんにも知らないようでいるが、でもやっぱりちょっとだけ知っている相手。それがこの現在の文通相手。

そういえば、数年前に持っていたツイッターアカウントをフォローしてくれていた女の子がいたのだが、その女の子のアカウントをひさーしぶりにチェックしたら、(いつのまにかできていた)彼氏にプロポーズされた、ということがツイートされていた。
彼女はそれを、「嬉しい」とか「幸せです」という感想はまったくなく、ひたすら淡々とプロポーズの状況を描写ツイートしていて、当時からかなりのものであった彼女の承認欲求(ひさしぶりに遣ったこの表現)はさらに高じているということが強く感じられた。彼女の承認欲求にもとづくツイッター上での自我の強いツイートは、当時パフォーマンスの一種のようにとらえており、「この『病気』もいつかは落ち着くだろう」くらいに考えていたのだが、いまとなればそれは、ネットというツールや環境が与えた彼女の属性(という捉え方も、ネット時代のものであろう)のひとつにしっかりと落ち着いてしまい、まさに病膏肓に入るの感を強くしたのだった。
それにしたって彼女は現実生活を生きてきたわけだし、今後もつづけていくわけであって、ツイッター上ではおそらく夫の知らない「生活」の一部がときには漏れていき、ときには拡げられていくのだろう。そういう行き方(生き方ではなくて)を、現代の「文通」と見ることもあながち無理な話ではない、好むと好まざるとにかかわらず。
僕は、もっと穏当な形のものでいいけれど。

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そうそう、組み体操の話。最近、難易度の高い巨大組み体操はやめるべし、という意見をよくネットで見る。

僕の中学校のときの運動会の目玉は五段タワーだった。
最下段は、両手・膝つき状態で円をつくる。二段目は、その一段目の内側にやはり円をつくって、一段目の人間の背中に手をつき中腰の状態。三段目は、この二段目の背中に直立。四段目は三段目の首元と背中の中間に立ち、五段目はやはり四段目の首元あたりに立って完成、および歓声。
僕は、上から二段目(つまり四段)というポジションを担当していたのだが、人の上に乗ってけっこうな高さに行くっていうのは率直に言って気持ちよかった。ちなみに四段は三人でスクラム。僕以外のふたりの首元に最後のひとりが立っていたものだから、補助役の僕はものすごくラク。ただし、下の段はたいへんそうで、たしか二段目の連中がいちばんきつかったんじゃなかったかなあ。ここに体格がいいのが集まっていたような気がする。
練習もけっこうやっていて、みんな気張るわけだ。そうすると、誰かがおならをしてしまい、力の入った震える声で「おい、屁ぇこいてんじゃねえよ!」と誰かがツッコんで、みんながそれに笑ってしまい、気が緩んでタワー崩壊っていうことが二回ほどあった。お約束なエピソード。
運動会の当日。これがけっこう盛り上がった。会場にはロッキーのテーマがエンドレスリピートでかかって、気分を昂揚させる演出になっていた。
僕らの三年のときには一度の失敗があって、そのときに会場から「頑張れ!」みたいな声がいくつもかけられて、もう一度挑戦して成功し、大拍手のなか演技が終った。そのなかでコバシンというクラスメートが感動の涙を流していたのを見て、「え? コバシンこんなので泣くのかよ? それほどのもんか?」と反撥心に近い感情を覚えたことを強烈に記憶している。僕は、「ロッキーのテーマっていい曲だなあ」とは思っていたものの、組み体操じたいにたいして思い入れがなかったのだ。

であるから、僕自身は組み体操はなくなってもいいと思っているし、それが危険ならなおさらって簡単に思える。ラジオでは100人ピラミッドの話も紹介されたのだが、聞いていて笑ってしまった。
ネットでの反応を見ると、やっぱり「やめるべし」の意見は多いのだが、「そもそもこんなのまったく面白くなかった」とか「強制されていたからいい思い出ない」なんていうコメントを見ていると、そのコメント者たちの、運動神経の悪さがなんとなく醸し出されていて、いわゆる「ネットの声」っていうのも、(もちろん観測範囲によるのだが)限定的にならざるをえないのだと思った。

何ヶ月か前か、テレビで「サスケ」が放送された。横浜にいたときは、家族がこれを観ているそばで「また山田さん懲りずにやってんだ」みたいになかば茶化す態度でちょこちょこと見ていただけなのだが、今回はじめてまともに鑑賞し、これがけっこう面白かった。
体育会系のスピリッツにあふれる番組づくりになっていて、挑戦者たちの熱い思いがなかなか伝わるようになっていた。みんなの出身や背景が語られ、なぜそこまでサスケに賭けるのか、が初心者にもよくわかるようになっていた。実を申せば、これを観るまでは「みな暇な人なのかな」程度にしか思っていたのだが、ほとんどの人たちはちゃんと仕事を持っていて、その忙しいなかわざわざ時間をつくってトレーニングをしていたのだった。で、なぜかその奥さんたちは、みなきれいかかわいかった。
ファイナルステージは、あまたのガテン系の挑戦者たちのなかから、ひとり浮きすぎのザ・修行ボーイが生き残り、優勝。この展開がマンガ的すぎて、それもまた感動。その優勝を、周りの脱落者たちがわがことのように喜んでいる姿にも感動した。

組み体操なんてそもそも意味ないんだよっていう「ネットの声」のなかには、サスケの挑戦者たちのような人間はいないと思われる。あそこまでいかなくても、学生時代、体育会系部活で必死に汗を流した、たとえばコバシンのような人間も少ないと思われる。どちらかといえば非体育会系の僕のような帰宅部連中が、真っ先に反対しているように思える。そういう意味で「限定的」だと思った。
重大な事故につながる危険性があるのなら、やっぱりやめるべきだとは思うのだが、ただ、ああいう機会で生き生きとする人たちもやっぱりいる/いたってことも同時に考えるべき。「ネットの声」にはそういう人たちの意見はあまり汲み取られていないのでは?
ネットで発信する非体育会系の人たちの意見は、学生時代はマイナーに属していたのかもしれないが、現在は(すくなくともネット界隈では)メジャーに属している。そして多数の同調者がいるということは、それだけ力を持つということを意味する。
だから、声高な「組み体操なんてそもそも意味ないんだよ!」という主張が、学生時代に体験した「みんなで組み体操頑張って成功させような!」という同調圧力に似通ってくる。そこにちょっとむかついた、っていうそういう話。
それにしても、サスケチャレンジャーたちの奥さんは、ほんとうにきれいな人が多かったなあ。

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きのうの記事のつづきのようなもの。

そもそも、カメラクルーをバックにいわゆる「素人」になにかを話しかける構図が好きではない。
テレビカメラにはなかなか映らないもののレポーターのほかには、カメラマン、ディレクター、あるいは音声とかタレントのマネージャーなどがカメラの外には控えていて、その複数人の圧力に対して、話しかけられたり質問されたりする個人は、非常に弱い存在となる。
それ以上に被質問者は、テレビカメラの向こう側にある「視聴者」という強力な存在に怯えることになり、また現在では、その記録が残り、場合によっては拡散されてしまうということがじゅうぶんありうることを知っているので、自分の「未来」というものの脆さをかなり明確に意識させられやはり恐怖すると思う。

ふだんは客席を沸かすこともできない二流三流の芸人たちが、ロケで一般人に生意気な態度をとっているのを見ると腹が立つ。こういうカスどもを、ヤクザの事務所に連れて行って同じ態度をとれるかどうか試したらいいと思う。カス芸人のすぐ後ろに立っているカメラマンやカメラの向こう側にいる大勢の視聴者の視線の圧力は、ヤクザが身にまとっている圧力と実はそれほど変わらない。
その暴力性を、カス芸人たちだけでなくテレビの制作サイドはじゅうぶんに知っているため、偉そうに振る舞い、振る舞わせる。そして無自覚な視聴者たちも、そこに加担している。

きのうのNHKのレポーターに限ったことではなく、被災地をずかずかと踏み荒らしてネタを嗅ぎ回るマスコミの原動力は、視聴者の野次馬的好奇心である。それを満たすためだったら、レポーターやカメラマンは、被災者を泣かせることも厭わない。数年前のTVCFで演出家の蜷川幸雄が「泣けー! 泣くんだよッ!」と怒鳴っていたのがあったように記憶しているが、放送マンのほうがもっとえげつない。刺戟するような質問をしてからわざと間をとって目元をアップする。あのクローズアップは、われわれの下劣さの象徴なのだ。

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さっきNHKのニュースウォッチ9を観ていて腹が立った。
茨城の水害の件で、例のロボットキャスターが現場レポートをしていたのだが、ここでも他人事感たっぷりで被災者に寄り添おうなんていう雰囲気はまったく見られなかった。
カメラの回っていないところでアポをとっていたのかもしれないが、片付けをしている被災者にいきなり質問をしていて、ふつう「たいへんお忙しいところを失礼します、わたくしNHKの河野と申しましてニュースウォッチ9という番組の取材をしている者です」うんぬんかんぬんはあってしかるべきだろうに、それが見られなかった。
その挨拶がまったくなかったということは考えられないから、おそらくは誰かがしたのだろうが、どうもこいつがしたようには思えなかった。そのくらい、こいつは取材に慣れている感じがしなかった。
また、支援物資を配っている市役所のなかでも堂々と歩き回っていたけれど、おまえやおまえらクルーは二の次三の次以上にクソ邪魔なだけで、分際わきまえてもうちょっと控えめに歩けよ。
あと、こんなときくらい白のワイシャツやめて作業着にしろよ。いかにも「われわれは仕事に来ているだけで、手伝うわけありません」の姿勢がみえみえ。どんな場所でもフォーマルにかましたいのなら、革靴で泥だらけの街を歩け。足元だけは長靴かよ。
こいつが被災地にいたら、「おまえむかつく」ってぶん殴られても、たぶんみんなが見て見ぬふりすると思うよ。

安倍政権の支持率と不支持率が逆転。ふしぎー。安保法案への反対は相変わらず高いし、違憲だという声も多く、説明が尽くされていないと思っているほうが多数。でも、支持率は伸びている。ふしぎー。どんだけバカ多いんだ。
あと、今回の水害でも自衛隊が人命救助に大活躍していて、テレビで観ている遠方の僕ですらありがたい存在だなあと思ったのだが、この人たちを戦地に送っちゃなんないよな、絶対に。

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朝。大雨の降っているような音が聞えたので起きたが、窓の外は、曇ってはいたものの雨降りではなかった。

ウサギの朝食を用意してやり、運動不足解消のために走らせる。というか、ケージを開けてやるとすぐに走りだして部屋を一周し、それから僕の近くに戻ってきてごはんを早く準備しろとせっつき始める。このせっつき方が野生種らしくおっかなびっくりであり、いまだになかなか馴れてくれないのだが、馴れてくれないなりの接し方が愛らしい。
来たる秋冬の寒さに備え、そろそろウサギのケージもネコたちのふだんいる部屋に移さなければならないのだが、以前、試しにそれをやってみると、ネコのほうに悪気はないにしても、ウサギのほうはケージの中でパニックに陥って飛び跳ねまくり、しまいには顎の下によだれを垂らしている始末。よくよく見ると、恐怖のあまりに鼻水が出ているらしく、それが口を伝って顎の下からぽたぽたと落ちているのであって、これを見たときに「まだ早いか」と可哀想に思うのと同時に、この弱い動物をなんとかして守ってやりたいという気持ちがますます強くなった。言葉が通じれば、だいじょうぶだということが伝えられるのだが。
ウサギにまず牧草を与え、それに少し飽きたところでラビットフード(通称カリカリ)を与えてケージに戻してやる。この間も、ほとんどウサギに触れることはできず、頭を少し撫でるくらい。最初の三ヶ月くらいはそれすらも嫌がっていたが、いまはなんとか「がまんしてやろう」という表情がうかがえるほどになった。ケージに戻すのも、カリカリでうまく誘導しているだけ。

時計を見ると、午前五時四十五分。とりあえず商売に行かなくてはいけなかった。なにも口にせず、とりあえず軽トラに乗って仕事場に行き、ブツを荷台に載せて約束の場所へ。
いろいろなところを回ってモノを売りさばいているうちに二時間ほどが経つ。が、きょうの仕事はこれだけ。
家に帰って来ても、ネコは出迎えもしてくれず、座布団やクッションの上でじっとしていた。今度はネコ用のカリカリを与え、自分用のコーヒーを淹れた。朝食。中原昌也の『作業日誌2004→2007』をぱらぱらと読む。最近は疲れてしまっていて、こういう意味のないような内容の文章くらいしか頭に入ってこない。
いままで読んだところでは、中原昌也はほぼ毎日金欠に困っていて、泣いていて、多くの人間を恨んでいた。そのくせレコード屋に行けば狂ったように買い物をし、それでまた金欠に陥っていた。かわいそうだとも思わないし、うらやましいとも思わない。なんでおれはこんなのを読んでいるのだ、と苛立ちさえ覚える。
高橋源一郎はこの文章集(?)にドゥ・マゴ文学賞を与えたようだが、例によって過大評価のように思う。中原自身は、彼がみじめったらしい気分になって苦しんだうえでしか小説は書けず、それがまた苦しみを生んでいるということをことあるごとに書いており、おそらくそれは誇張表現ではなく事実なのだと思う。けれども周りが過大評価を与え、いろいろな賞を与えることで、その苦しみに報おうとする。この不毛なルーティーンはなんなのだろう。高橋源一郎にはもはやなにも期待していないのだが。

『作業日誌』に疲れると、コンビニで買った九井諒子の『ダンジョン飯』の一巻を読んだ。すでに話題になっているのをネット上でいくつか見聞きしていたのだが、これまで九井作品を買ってすっきりした思いをしていなかったのでずいぶんのあいだスルーしてきた。それがきょうたまたま立ち寄ったコンビニの棚に置いてあったのを見て、なにかの縁だと思い、購入したのである。エンターブレインのコミックがコンビニに置いてあるということじたいが非常に珍しいことのように思えたし。
たしかに面白い。簡単にいえば、ダンジョンに棲むモンスターを扱ったグルメコメディ。
作者はもともとこのようなRPGの現実的翻案みたいなのを過去に描いていたし、また、「ドラゴンの生態」というようなファンタジーの現代的解釈はお手のものだということも知っていた。ああ、それだけにそれだけに。結局、これまでスルーしてきた予感がなんとなく当たってしまったのである。こういうのを非常に喜ぶネットの反応というのもよくわかる気がした。ディテールを楽しむマンガといえば、聞えはいいけれど、ほぼディテールで成り立っているマンガでもある。設定も非常に優れているし、細かなくすぐりまでイヤミはなく、ほんとうにたのしめる良質のコメディマンガだとは思うのだが、ただ、やっぱりすっきりはしない。
細かすぎるのである。
以前、「細かすぎてうんぬん」というモノマネがあって、あれは当初は目新しく面白かったが、つづいてしまえば飽きてくるのと同じ。もういいよ、という気分になってくる。
『ダンジョン飯』も、細部にまで凝りに凝っているのはわかるのだが、そこにオリジナリティがあるかというと、どうだかなあという気がする。ネットでもドラクエの二次創作みたいなのはもう何年も前からあるし、ドラクエの、現代風に言えばスピンオフを描いたエニックス公式の『モンスター物語』とか『アイテム物語』は、調べてみると1989年刊行で、おそらく作者はこの本をリアルタイムで読んでいないだろうし、いままでも手にとったことはないかもしれない。が、これを読んだ人間は少なくないはずで、その二次創作・三次創作的なものを彼女が目にした可能性は充分にあり、おそらくはそこらへんにインスピレーションの素地があるのだと勘ぐってしまうのだが、もしそうだとすると僕からすれば四半世紀も前から知っていたようなお話(の派生物)ということになり、目新しさはなくて当然という気がする。
まあとにかく、ネットはこういう二次創作的なものが大好物という気がするから、高評価は当然なんだろう。いや、ほんとうに面白いマンガなんだけど、そこらへんが気になったのだ。


はてさて。仕事になかなか目処がつかず、やっと一日休みがとれるようにはなったが、けれどもまだタイトロープ上にある気分。このあいだだって、休憩もろくにとれず、陽が沈み真っ暗になったところヘッドライトをつけてまで仕事をつづけたこともあった。あんなのはもうごめんだが、なにぶんスケジュールが押しに押しているので、そうせざるを得ないのである。何度も書いていることだけど、僕は仕事が嫌いだ。
そういう肉体的な疲労もあってほとんど本も読めず、まして文章を書くこともできないのだが、それ以上に気分が沈むことがあった。

数日前に、ある女友達からメールをもらった。そこでやりとりをしているうちに、彼女のご家族の不幸な状況を知ることとなってしまった。詳しくは書かないが、「自殺」とか「植物人間」とか「耳鳴り」とか「幻聴」などの文字がそこにはあった。それだけならともかく(というほど楽観的なものでもけっしてないのだが)、彼女がずいぶんと精神世界の領域に足を踏み入れてしまっているのが文面からわかった。
「なにか」を買ったとか、「どこか」に通っているということまではわからないが、少なくとも、基本となる考え方のウェイトを置いている部分に非科学的なものがかなり混ざっている。
(僕自身にはないけれど)宗教や信仰心はたいせつなものだと僕は思っているのだが、しかしそこにハマってしまうことには少し警戒心を覚える。摑もうとする藁と引き換えに高い代償を払わせようとする人間もいるし、また、個人的に現実世界との平衡感覚を失ってしまう場合もある。バランスのよい宗教を信仰しているのであれば問題はないのだが、この「バランスのよい」というのは、はっきり言ってしまえば「他人にとって」とか「僕にとって」という副詞節がつくのであって、信者個人にとってはもはやそんなことはどうでもよいのだ。
この信者が赤の他人であれば「どうぞご勝手に」ということで話は終わるのだが、知りあいともなるとそう突き放してもいられない。
「引き戻す」とか「助ける」とか「救う」なんて言葉や考えはそもそも不遜ではあるのだが、けれども率直な心情だ。自分についての不幸ならなんとかなる(と思うくらいはできる)のだが、親しい人間の不幸はどうすればよいのかわからない。たぶんこれというマニュアル的な解決策はない。会ってみなければわからないので、来月に帰省したときに会うことにした。
シリアの難民の例を見てもあきらかなように、不幸は偏る。運・不運は人間に平等に与えられているものではなく、もしそんなことを言っている人間がいたら、そいつは目が見えていないのだろう。
だいいち、「運が与えられる」というような考え方は、人間の上位概念の存在をあらかじめ想定している。そういう存在を信じているのならまだしも、もしそうでないのなら、そんないいかげんな他人(あるいは自分も?)を言いくるめるような言い方をするべきではない。

彼女のメールを読んで僕は、なんという言葉をかければよいかわからなかった。「頑張ってね」はあきらかに違う。「応援しています」も嘘くさいし、やはり他人事の言葉に思える。けっきょく「いいことがありますように」という祈りを書くしかなかったが、ここに嫌なものを感じてしまう。
いったい、祈るとはどういうことなのだろうか。神仏に願うという意味では、僕はその願う対象を持っていないから嘘ということになる。自己嫌悪のもとはそこだ。
もし単純に、誰にもなににも頼ることなく願うのであれば、そこにはほとんど無力に近い微力しかないといことを自分自身が知っている。そういう微力のものを相手に示すということの本質はつまり、「力になれなくて申し訳ない」という意味に限りなく近い。ただ、そう書いてしまうのも本意ではないので、「せめてなにかいいことが」と書いて少しでも相手に「可能な限り」という条件つきで寄り添おうとするくらいしかない。そうすることによってまた無力さの重みを感じながら。


これを書いているうちに大雨が降ってきた。ネコ二匹が同じ方向を見ながら同じように後ろ足をつかって耳の裏を掻いていた。前から頼んでおいた電気屋さんが来た。三十年以上前に取りつけられたと思われる台所の換気扇を、最新のものに交換して帰って行った。旧型は動かすたびにガタガタと不穏な音を立て、そのままプロペラごと家の外に飛び出して行くのではないかと思っていた。先月分の伝票処理をエクセルにすべてぶち込んだ。途中でまた『作業日誌』をぱらぱらとめくった。中原昌也は200円しか持っておらず腹を下していた。ウサギはケージのなかでおとなしく寝ているか、寝ているふりをしていた。他のウサギはどうか知らないが、うちの子はとにかく目を閉じない。ケージのなかでびよーんと長く伸びたまま寝そべることもあるのだが、目を完全に閉じることをしない。目がとろんとなっていても、なぜか必死でこらえている。たぶんそれでも寝ているのだろうと思う。たくさんの冷凍ポテトをフライして食べた。マックのような焦げた色にはなぜかならなかった。そのほか、きのうのカレーの残りを食べた。食後に、いつもお世話になっているおばあさんからいただいたメロンを食べた。直径15cmほどの小さなメロンで、それほど甘くなくかえって好みだった。ネットで、パロディとかオマージュとかパクリとかについて、知識だけで書いたような文章を目にした。どうでもいいけれど創作してくれよ、みんな。批評とかはもう飽きた。短歌でも俳句でもいいし、簡単な絵でもいいから、オマージュとかパロディとかなしで自分でつくったものをアップしようよ。音楽つくってサウンドクラウドにアップしたっていい。せめて自分の体験したことを書こうぜ。ネットで検索しても見つからないようなことを書けないから、おまえの文章はつまらんのだよ。呪いの言葉を吐きながらおれはストレートのスコッチを飲み干した。嘘。あたたかいカフェオレをちょっとすすっただけ。

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