とはいえ、わからないでもない

2015年10月

編集

前口上

TBSの人気アナウンサー安住紳一郎のことは、その芸風や立ち位置など感心することがまったくなく、要するに大っ嫌いなのだが、たったひとつだけ「お」と思うところがあって、それは、中学校の合唱コンクールの大ファンだということ。そんな人間、うちの父以外にいるとは思わなかったので、そこだけは高く買っている。
いいかげんなことを書くのもイヤなので、安住のラジオ音源を調べてみると、2008年からのファンらしく、その翌年にもそのことについて語っている。興味のある人は以下のリンク先で聴取することができる。嫌いなやつのラジオ番組の宣伝をするのはイヤなのだが、対象への情熱の傾け方は好ましいので、まあいいとするか。
僕といえば合唱についてはそれほどの思い入れはないのだが、しかしうちの高校では合唱祭が三大行事のひとつとしてとらえられ、当日は日比谷公会堂(以前虎ノ門ホールと書いたことがあったように思うが、調べたら日比谷公会堂だったらしい)を借りきって大いに盛り上がるのだが、二年のときに優秀賞、三年のときに最優秀賞を獲ったクラスに属していた、くらいの思い出はある。

また、もともと映画はほとんど観ないのだが、それでもたまたま観たもので音楽を扱っているものであれば大好きになるということが多く、『天使にラブソングを 1&2』とか『オー・ブラザー』とか『マグノリア』とか『オー・ブラザー』なんかは非常に気に入っている。『マグノリア』なんて、どういう内容だかすっかり忘れてしまっているのだが、劇中になぜか登場人物たちが別々の場所で同じ曲を唄いだすっていうシーンがあって、そこにものすごい感動した記憶だけがある。

さて、本題に入ると、夏のさなか、高校の合唱部をテーマとしてとりあげたドラマ『表参道高校合唱部!』が放送されるということで連ドラ予約録画をしていたのだが、そのあまりにもの忙しさにかまけてまったく観ることができずにいたところ、このあいだ『デート』のスペシャル版を観るときに数ヶ月ぶりにその録画に気づきこれを観始めた。いまさら、愛称を「オモコー」と言うことを知ったって、誰かにそれを告げるわけでもないのだが、これが面白くて面白くて、というか歌がよくて歌がよくて、あっという間に観終えてしまって、早速いま、喪失感に陥っている。

せっかくなので、そのドラマの感想を、よかった曲トップ5を中心にして書いてみる。

第5位 Train-Train(第5話)


さんざんわがまま・意地悪・いじめのし放題だったユリアが、実は家庭では母親の強烈なプレッシャーのもと優等生を演じつづけており、ストレスを抱えながら逃げ場がなく苦しんでいる……という設定は既視感ばりばり(ex. 『金八第5シリーズ』の兼末健次郎)なのだが、それゆえにかえって感情移入もしやすい。ちなみにこのドラマは僕のなかでは、『3年B組金八先生』+『あまちゃん』+『天使にラブソングを2』だと思っている。オフィシャルのポスターのみんなが一方向を向いている感じとか、あるいは鉄拳のイラスト(もう鉄拳飽きたよ)の起用とかはそのまんま『あまちゃん』オマージュって感じで、そもそもマコト(芳根京子)がアキ(能年玲奈)っぽいなとすぐに思った。まあ、マコトというか芳根京子については後述する。
 
オマージュがわかりやすいってことはその基本構成に則っていけばいいってことで、それはつまり、いままで憎たらしくて仕方なかったユリアを、素直に「かわいそうに」と思ってやれってことなのだ。ストリートライブを装ったオモコーのメンバーがブルーハーツを唄って、それを聴いたユリアが現在とは環境のまったく異なる小さい頃の生活を思い出し、芸能界との訣別を選択して「走りだす」っていう、このベタベタの構図は美しくすらあった。
ブルーハーツの曲っていうのはあざとくてたいてい好きではないのだが、この歌と『日曜日よりの使者』だけはなぜか気に入っていて、高校生のときによく唄っていたなあ。
栄光に向かって走る あの列車に乗って行こう
はだしのままで飛び出して あの列車に乗って行こう
土砂降りの痛みのなかを 傘もささず走っていく
いやらしさも汚ならしさも むきだしにして走ってく
聖者になんてなれないよ だけど生きてる方がいい
だから僕は歌うんだよ 精一杯でかい声で
見えない自由がほしくて
見えない銃を撃ちまくる
本当の声を聞かせておくれよ
歌詞も脚本にとてもマッチしている……というか、この歌ありきでこのシーンの脚本を書いたのかもしれない。
この歌を聴いてユリアは母親の言うことを聞かずに、その母と離婚した父に会いに行った。面白いのは、 この歌を聴き終わった母親(原沙知絵)も、唄ったオモコーのメンバーに「ありがとう」と言って頭を下げて、ユリアの家族問題は一挙解決した(たぶん)、というこのあっさりさ加減。というか、それ以上ユリアの家庭問題が掘り下げられないのだ。

僕がこのドラマ全体の気に入っているところは、ひとつひとつのエピソードがあっさりしているところ。たとえば金八であればこのユリアと母親の確執はとうてい一話で終わるようなものでなく最低三話くらいかけて和解を目指すところで、また、NHKの朝ドラだったら最低二週(十二話)ほどをつかって落着を狙うだろう。少なくともたった一曲がかかっているあいだに解決させるようなことはあるまい。
けれども、ドラマってそれでもいいんだよな、と最近思い始めている。
短期間にラジオドラマをまとめて何十本か聴いて感じたことは、一時間ほどのドラマであれば、シンプルな展開/人物の性格/オチでもいいのではないかということ。もちろんNHKの『ロクヨン』のように、ストーリーの重厚さ、登場人物の輪郭の濃さ、執念すら感じられた撮影技術など、ほぼすべての点において隙のない作品をつくることは論理的には可能かもしれないが、コストやスタッフの観点に立てば現実的には難しい。また視聴者側からしても、すべてのドラマが『ロクヨン』みたいなものになってしまえば、われわれの日常はとんでもなく豊かになるとは思うものの、そのかわり、視聴後の疲労感もものすごいことになると思う。
シンプルに展開していくことによって、物語のダレを回避しコンパクトで密度の濃い印象を与えることは可能だし、また、適切な取捨選択をしてメリハリをつけることだって充分にクリエイティブなことなのだ。
第5話の最後でユリアが改心して合唱部のメンバーに土下座をして謝るが、1話目から五週間をかけてつづいた嫌がらせがたった数分で許容されるためには、それまでマコトという人間のいい意味での鈍感さ、歌へのひたむきさ・真摯さなどをしっかりと描かなければならなかったわけで、それにくわえて、2話のタスクに向けて唄った『翼をください』、3話のダイスケへの応援歌『TOMORROW』、4話のオモコーOBに対する『ぜんぶ』などは、遠因として合唱部存続の目的があったとはいえマコトの人間関係への諦めない姿勢の象徴であり、それらを踏まえているからこそ視聴者は、ユリアを簡単に赦すマコトを許容できるのだろう。
あそこでマコトが合唱部への入部を促さず、また、みんなで10秒ジャンプをしないままに双方が双方に対して憎しみ・恨みを抱えつづけ、卒業するまで、いや卒業したあともそのぎこちない人間関係がつづいた……となれば、それはそれでリアルではあると思うが、もはやドラマとしての体はなしていない。
ややこしいやり方でストーリーを迂回させたとして、最終的には落ち着くところに落ち着くということを目指しているのであれば、ときには、ひとつのまっとうな技法として素直に「予定調和」を選択してもよいはずなのだ。 

第4位 愛の歌(第10話)

曲はいい。おそらくオリジナルだとは思うのだが、サビの印象的な三連符の使い方や、「巡り逢い」と「巡り愛」という言葉の掛け合わせも面白い。歌詞といえば、劇中で何度も触れられる
怖がらないで、明日なんか
集めないで、約束なんか
追いかけないで、昨日なんか
数えないで、思い出なんか
という歌詞の対比もうまいと思う。唄いやすいよね。
ところがところが、じゃ。
物語上、重要な位置づけにある歌というのはじゅうぶんわかった上で、この歌は4位とした。
というのは、この最終話の、マコトの両親の邂逅を合唱部員が劇仕立てで再現するという趣向が、テンポの悪さを生み出していて、ちょっと躓きを感じてしまった。具体的に言うと、場面転換が多すぎてシラケてしまったのである。
また、上掲動画にもあるが、川平慈英と堀内敬子のデュエットに興味を持てなかった。下手というのではない。その逆にふたりともうまいのだが、なにも僕はうまい人の歌が聴きたくてこのドラマを観ているのではなかった。おそらく制作側もそのところはじゅうぶん意識していて、城田優と神田沙也加だって、ふたりともじゅうぶん唄えるはずなのにフルで唄う場面がほとんど用意されていなかったのだが、その抑制の効いた感じが反対にものすごくいいな、と思っていた。
それなのに、この最終話の大事な場面をふたりのデュエットが占めてしまうんだもんなあ。まあこれは好みの問題だと思う。僕は、ここはやはり合唱で終えてほしかった。せいぜい、慈英と堀内とがその合唱に加わるという程度の。

そもそも堀内敬子の役柄(マコトの母親)にまったく感情移入できなかった。
この物語は"the earth needs harmony"というのがテーマであって、ユリアはもちろん、教頭(デビット伊東)や、最後まで意地悪役に徹していた一軍の女の子ふたりも、歌によって和解が用意されている。
それはいい。だが、堀内がなぜ慈英を好きでなくなったのかが僕には非常にわかりにくかった。作中では「ただ唄って笑えればよかったのだが、(慈英に)生活をたのしむ心の余裕がなくなったから」という説明がなされていたが、ちょっと現実味の薄い動機だと思う。いっそ、「あんたの商売がうまくいかなくなったからよ!」のほうがよっぽど共感できる。
形而上的な生活を望んでいたというわりには、石丸幹二(同級生であり、のちに結婚詐欺師だと判明する)への惚れ方はずいぶんと安っぽかったし、いざとなりゃどこから都合したのかわからない300万円を簡単に手渡そうとするわけだ。あのシーンでは、「もういっそのこと、その金渡しちゃえよ!」と思った。"the earth needs harmony(※堀内敬子除く)"でいいよ、まったく。
くわえて、堀内の両親たちも慈英には妙に冷たくて、石丸幹二のほうを厚遇していた。そのわりには平泉成(堀内父)は、昔の慈英がとった男気ある行動の背景を知っていた、というわけのわからなさ。堀内一家がどうも分裂症気味なんだよなあ。
これらのフラストレーションが、慈英と堀内との和解を歓迎する気持ちを阻害した。そのためにこの歌がそれほどよく聞えなかった、と自己分析している。
演者としての慈英のユーモラスで過剰な演技や、堀内の可愛らしさはもちろん高く評価したい。

第9話だったと思うのだが、マコトのソロから始まる『愛の歌』は、登場人物がそれぞれ別の場所でこの歌を唄っていく、というまさに『マグノリア』的展開があって、そこは胸が熱くなった。

第3位 Over Drive(第1話)

一度合唱部を裏切って客席にすわったリナが、他の四人のハーモニーの美しさに誘われるようにして立ち上がり、そこからメインパートを唄いながら壇上に駆けて行くというこのシーンに、ただただ泣いてしまった。いやまあ、これもベタベタの展開なのである。けれども、そういう展開なんていうもの以前に、単純に、歌の持つ力に感動したのだ。

JUDY AND MARYの『Over Drive』にももちろん思い出はあって、ヴォーカルのYUKIのコケティッシュな容姿やエキセントリックな唄い方が当時はとても好きだった。けれども、このオモコーの唄う『Over Drive』にはそういうアクの強さはまったくなかった。どころか、各部員たちの声のなんと不安定なことよ。
けれども、これがいいのだ。
メインパートのリナは、このあともメインを唄っていくのだが、結局この不安定さは解消されなかったように思う。しつこいけれど、でもこれがいいんだよなあ。

だいいち「不安定」という表現がよろしくない。アイドルソングをいくつか聴いていると、こういうヴォーカルにはたびたび遭遇するのだが、そういうときに僕は「不安定である」とは言わず、そのかわりに「せつない」とか「はかない」と表現することにしている。
つねづね僕の標榜している「アイドル=高校球児」説にも近い話になってくるのだが、(繰り返しになるけど)僕はなにもうまい歌が聴きたいわけではないのだ。
野球を、技術的なうまさへの追求という観点のみで観戦するのだとしたら、日本のプロ野球かメジャーリーグを観ればいいだけの話で、けれどもあれほど高校野球の盛り上がるのには、やはりそれなりの理由があるはずなのだ。それと一緒で、アイドルソングも、また高校合唱も、superflyやmisiaのようにうまくなくても全然いいのだ。むしろ、どこか欠けている感じがよいとすら思っている。

なお、僕はハーモニーに重きを置いて鑑賞したわけだが、その点からすると第4話のメドレー中の『学園天国』や第9話の『何度でも』はイマイチに感じられた。もっと高い技術を持っているコーラス隊であれば上記のような曲もうまく唄えるのであろうが、オモコーメンバーにはちと荷が重かったのか、音が跳ねていないように聞えてしまった。これが、『天使にラブソングを2』のようにローリン・ヒルのようなバケモノが学生のなかにひとり混じっていたら、またその印象も変わっていただろうとは思う。

オモコー合唱部の『Over Drive』に話を戻すと、はかなく透明なメロディによって歌詞が立ち上がって聞えてきた。
愛しい日々も 恋も 優しい歌も
泡のように 消えてくけど
あぁ 今は 痛みと ひきかえに
歌う 風のように…

走る雲の影を 飛び越えるわ
夏の日差し 追いかけて
あぁ 夢は いつまでも 覚めない
歌う 風のように…
作詞者のYUKIですら当時は、これほどまでに正統な佇まいを備えた歌詞であることを知らなかったのではないか、と思ってしまうくらい『Over Drive』の歌詞世界は、オモコー合唱部員たちの歌声同様なかなかに繊細なのだった。
あと、ドラマでは初めはメインパートなしで、 アルト、テノール、バスの四人で唄う(ただしこれはドラマ内の話で、上の動画でははじめからソプラノが参加している)と書いたが、これがストーリー構成とは別に、非常にいい効果を与えたと思う。というのは、僕のような素人はどうしてもメインのメロディ部分に耳が行ってしまって、ハーモニー部への認識が低くなってしまうのだが、ソプラノなしで何小節か唄ってくれたおかげで、ソプラノからバスまでなるべく均等に聴くよう意識づけられたのだ。

このドラマの影響は確実にあったようで、ある高校では文化祭でこの曲の合唱が披露されたようだ。
うーん、いいなあ。
ストーリーのほうに少し触れると、『桐島、部活やめるってよ』でもそうだったが、このドラマでもスクールカーストが重要なテーマとなっていて、合唱部のいる壇上へと向かうべく、リナが立ち上がってユリアをすこし睨みつけるシーンは、カーストの呪縛からの解放と広義のハーモニーへの参加を意味している。この調和という意味での広義のハーモニーの輪は池にできた波紋のようにどんどんと広がっていくのだが、それはこれからあとのお話。

第2位 ハナミズキ(第7話)

はじめからだいぶ体調の怪しかったカイトがついに倒れ、入院したという段で、はじめて出てきたカイトの母(大好きな中島ひろ子!)が「カイトの好きな歌なんです」と言ってこの『ハナミズキ』を紹介したとき、思わず「そりゃずるい!」と口に出してしまった。実際には「ずりぃ!」だったが。
『Over Drive』とか『Train-Train』っていう選曲には、「あのロック調のものを?」という新鮮な驚きと実際にそれが唄われたときにやはり新鮮な感動があったのだが、あの『ハナミズキ』ですよ? もともとすげーいい曲の『ハナミズキ』、「きみと好きな人が百年つづきますように」という、初めて聴いたときには漱石『夢十夜』を思い出させてくれた、日本のポップスではあまり見られないすばらしく詩的なフレーズを持った『ハナミズキ』を唄うって?
クライマックスに対していきなりレッドカーペットが敷かれたようなもので、そりゃ感動するわなあ、と観る前から昂奮しつつ、けれども少し失望への保険もかけつつドキドキしていた。

ここらへんでドラマも、いじめや疎外感、孤独などの重めのテーマから少しだけ離れて、恋愛要素が強くなってくる。このドラマ全体のラブコメ具合なのだが、僕にはちょうどよいように感じた。これがもっと惚れた腫れたの話になってくると観ていられないし、かといってまったく無機質に男女がにこにこと笑っているだけの集団であれば、それはそれで観ていられるけれど、ちょっと不自然。17歳(!)の男子女子――言葉のもっとも適切な意味においての男子女子――が集まれば少しは好きだの嫌いだという感情は当然出てくるもので、そこらへんをかわいらしく描けていたように思う。

ついでにキャストに触れてみるけれど、まあこのドラマは、マコト役の芳根京子がとてもよかったってことに尽きるんじゃないか。
あの整っていない眉(余談だが、最近の太眉トレンドはわざとらしくてイヤ、もともと眉がしっかりしていない人は無理して太く書き足す必要はない)、そのわりには前髪がアシンメトリーになっちゃっていて「あれ? けっこうおしゃれなんじゃないの?」というツッコミもありはしたが、かわいらしい。ちなみに彼女のことは、朝ドラ『花子とアン』の白蓮の娘役を演じていたときにすでにチェックしていた。
既述したが、このヒロインのマコトはやはり朝ドラ『あまちゃん』の天野アキと少しイメージが重なる部分がある。ふたりとも地方から東京へと出てくるし(アキの場合は、一度地方に「出荷」されてそれから東京にやってくるので逆輸入みたいなものか)、ちょっと鈍感で空気が読めない。あとなんといっても、演者である芳根京子と(『あまちゃん』当時の)能年玲奈との持つ清潔感だとか爽やかさが共通している。これから彼女たちがどんな役者になっていくのかはわからないが、少なくともこのドラマにおいて(能年であれば『あまちゃん』において)は、まぶしい。沢尻エリカがたとえどんなになろうとも、映画『パッチギ!』のなかではいつまでも「愛しのキョンジャ」であることに変わりがないように。

他のキャストにもちょっと触れる。
合唱部の部長の泉澤祐希は、NHKのドラマ『ロング・グッドバイ』で小雪の小間使いをやっていた男。あの『うしろの百太郎』フェイスは忘れようもない。スポットが当たらなそうで、実はそこそこ当たるというなかなかおいしい役。
その部長に恋心を抱くもみごとにフラれ、けれどもその後もなんだかんだいっていちゃいちゃしていたメガネ美少女役の萩原みのりは、登場したときから「ああ、これはメガネをとるストーリーが出てくるな」と直観した。こういうところがちょっと少女マンガ的で、少女趣味がちな僕としては(観ていて照れてしまったものの)非常にたのしめた。
タスク役の高杉真宙とユリア役の吉本実憂は、役うんぬんというより(といって別に悪いというわけではない)、スポンサーとの関係が気になった。
録画しているのでCMは早送りで飛ばすわけだが、それでも飛ばしている最中に「ん? ん?」となって止めてみると、それぞれファブリーズだったりナビスコだののCMに彼らが出演しているではないか。ええ~、すっごい偶然、びっくり~!……なんていう純朴なリアクションをするはずもなく、ははーん、これはスポンサーがらみのキャスティングかあ、と裏をすぐに勘繰ってしまう。勘繰るというか、おそらく事実だと思うけど。
このふたりについてわりとエピソード的に注目されることが多かったせいで、その割を食ってアンドリュー(瑛)とピアノ少女(柴田杏花)について割かれるエピソードがなかった。そのせいか、公式のポスターやオープニング時での「並び」もアンドリュー・ピアノ少女を除いた8人になっていて、それがどうしても気にかかった。いやいやいや、合唱部は10人でしょ、と。「合唱部には補欠がいない」という世界観からは逸脱した扱いを受けていて、なんだかかわいそうだった。
もちろんこれらはタスクとユリアを演じた役者たちのせいではない。彼・彼女にとっては間違いなくチャンスなわけで、そのチャンスを活かせばいいだけの話。
なお、吉本実憂は(あくまでも僕の好みからすると)「この子が美人?」としか思えなかったので、オレオのCMなんかを観ていたら、「ああ、義理の父ちゃんの山田純大にナビスコを紹介してもらったのね、頑張るんだよ」と思わず虚実綯い交ぜの感想を持ってしまう。いまだに。
あとは、城田優、神田沙也加、川平慈英たちは非常にいい役をもらったと思う。デビット伊東も。神田沙也加なんて全然演技うまくないんだけど、役柄の不器用さとが奇跡的にマッチしていてとても好ましかった。こういうのが演出の妙というか、ほんとうに下手な役者なんてのは数えるくらいしかいないわけで、そのドラマ(映画や舞台でもいい)が面白くないのは演出や脚本のせいだと少なくとも制作側は思ったほうがいい。どんな役者であろうとも輝かすのが監督の役目。
あとは、OB役で一話ぶんしか登場しなかった中河内雅貴がやけに印象に残った。マコトの同郷のハスミンを演じた葵わかなは、これから売れていくひとりになるでしょう(こういう先物買いがたのしい)。

で、本筋の『ハナミズキ』のコーラスはどうだったかというと、これが予想どおりやっぱりよかった。そりゃいいでしょう、という期待どおりによかった。ヘンに凝ったところはなく、女声部から男声部へとメインパートが移行していくところ・そしてまた戻っていくところに合唱に主役も脇役もないというところがよく見えて、くわえてストーリーへの感情移入も手伝って感動してしまった。くどいようだけど歌もいいしね。
なお、この曲はコンクールで無賞で、ダイスケの野球のところでもそうだったけれど、こういう部分があくまでも現実(≒もっともらしさ)に依拠していていて、よかった。そういう挫折を織り込んでいかないと青春物語は成立しないという理窟も当然あるだろうけれど、シンプルでいいといってもやはりあまりにも夢物語になってしまうと、視聴者の心はパッと離れてしまうものだ。

第1位 心の瞳(第6話)

他を抑えての第1位は『心の瞳』。これはほんとうによかった。
恥ずかしながら九ちゃんのこの歌はまったく知らなかったのだが、エピソードの出来といい、唄う場面といい、完璧。僕のなかではこのドラマ全体を通していちばん盛り上がった回。

この回のエピソードは「ずるい」っていうくらいにお膳立てがきちんと整えられていて、亡夫、亡くなったときのままの書斎、幽霊(?)からの手紙、そして、伸びきってしまったカセットテープという、この設定を考えたとき脚本家は「よっしゃあ!」ってガッツポーズしたんじゃないだろうか。それくらい、このカセットの使い方はうまかった。だいたいからして、亡くなった人の声がカセットに入っているっていうのを想像するだけでカセット世代ならぐっとくる。
伸びきってしまった声の与えるホラー的雰囲気で視聴者を惑わせて、それが「なにかの力」で元の声が聞えるようになり一気にせつない純愛ものへと昇華させる。そこにすばらしい歌がくわわることで、唄うことそのものについての惜しみない讃歌ともなるのだから、1位にせざるを得ない。
で、よくよく考えてみれば、ここに部長とメガネ美少女(と書いているけれど、僕自身はそれほど美少女だとは思っておらず、「ふつう」)の淡い恋愛話も混ざっていて、もっと細かいことをいえば、メガネ美少女の変身譚と、カイトのぶっ倒れも入っているのだから、とてもじゃないけれど一時間内にまとまっているようには思えないのだが、けれどもきっかりエピソード一回分なんだよなあ。『相棒』のファンであればあるほど、スペシャル版のほうが通常版より面白くない、という意見をよく口にしている気がするが、同感。一時間もあれば、いいものはできるんだよ。

『心の瞳』の合唱部分と、その後の演技を観ていたら、生徒たちがほんとうに感じ入ってしまっているように見えた。高畑淳子の演技がなんといっても圧巻であり、その演技に感応していたのだろう。
学園ものにありがちなのだが、彼・彼女たちの気持ちが「役を演じること」を超えて、ほんとうにその役そのものになっていたのだろう。だから、高畑が涙を流して唄っているのを見て、自然と涙がこぼれるのを感じたのではないか。
高畑淳子って、いつも手堅い演技をしているだけ(すごく失礼)というイメージがあったのだが、このドラマでその認識を改めた。やっぱりうまいんだなあ。セリフのひとつひとつがきちんと聞えるし、それでいてちゃんと喜怒哀楽の感情が込められている。国広富之とのデュエットもよかったな。

高畑に限らず、このドラマの出演者たちは基本的には全員得したと思う。誰もが「悪い人ではない」から。
細かく言ったらツッコミ部分はけっこうあったけれど、(映画ではなく)マンガの『三丁目の夕日』のように、子ども騙しの部分は案外ないのだ。
けれども、こんな「老若男女が観てたのしめる」ようなドラマが夜10時からの放送だった、というのがちょっと不思議。リアルタイムで観る人ばかりではないのはわかるけれど、はじめから高視聴率は狙っていなかったのかな。でもそのかわり、打ち切りはせずにきちんと十話までやってくれたのだから、こういうドラマのあり方もアリだと思う。この枠って僕のなかの去年のヒットドラマ『夜のせんせい』と同じなのか。

ついでに、ドラマ全体を通して感じた残りの諸々を列記しておく。

吃音者・同性愛者を、単なる野次馬的好奇心を煽るような方法ではなく(これが重要)登場させたことに感銘を受けた、ということを明記しておく。
ほんのちょっとしたことでも炎上化してしまう昨今において、こういう人たちを描くことには少なからずリスクがともなうはずだが、やはり物語の主題、「地球にはハーモニーが必要だ」に添う形で登場させたのだろう(たいして深く掘り下げなかったとも言えるが、それは言わない約束)。

上に挙げた楽曲以外では、マコトがOBの小山田(中河内雅貴)に対してちょこっと唄った『ぜんぶ』や、最終話で部員の増えた合唱部がやはりちょこっと唄っていた『ここから始まる』は、YouTubeで確認してみたが、ものすごくいい曲だった。こういう「ザ・合唱曲」はドラマ内ではあえてあまり取り上げなかったのだろうけれど、こういうのも含めて、オモコー合唱部Ver.でサントラを出してほしいものだ。
オリジナルのサントラはすでに出ているのだが、おそらくインストメインで、楽曲はないようだ。ただし、劇中で唄われた多くの楽曲は公式サイトの「スペシャル動画」で、オンエアとは別録りVer.で視聴できるようになっている。ドラマが終ってひと月が経とうとしているがいまだに更新されているのがすごい。おそらく第10話の『愛の歌』もちかぢかアップされることだろう(10/31追記: アップされた)。ちなみに、上に貼り付けたYouTube動画は、このスペシャルの動画を元にしたものと思われる。

主題歌もよかった。Little Glee Monsterの『好きだ。』。
彼女たち自身も中高生らしく、声の跳ねる感じが物語のフレッシュな感じ(なんか年寄り臭い表現だな)にリンクして、特にマコトがカイトへの恋心に自分で気づき始めたくらいの頃からは、(照れなくてもいいのに)照れながらそれでもにやにやして聴いていた。
けれどもこの動画、ショートヴァージョンらしいのだが、4:45もやって途中で切れるんだったらもう最後までやってくれよ。そうじゃなきゃ、ふつうのショートヴァージョンみたいに2分くらいで終っていいよ。ヘンに期待させないでくれ。

とにかく、ものすごくたのしめたドラマで、こうなると当然、続編はどうなんだっていう話が出てくるはずだが、個人的には、スペシャルはともかく、「2」であれば別キャストでやってもらいたい。
いまのキャストにまったく不満はないのだが、彼らの「その後」にはあまり興味ないなあ。せいぜい卒業した彼らがOB・OGとしてアドヴァイス役として軽く登場する、くらいでいい。青春って、「未満」くらいのところがいちばんいいんだぜ?
生徒たちはオールチェンジで、やっぱり新人(あるいはその程度のキャリア)中心に起用したら面白いと思う。今度はローリン・ヒル的な歌のうまい人物がひとりくらいいてもいいかも。それこそ、上のLittle Glee Monserのメンバーのひとりとか。
そのかわり、城田優と神田沙也加とにはひきつづき出演してほしい。「2」になっても全然接近していなくて、高校生以上にモジモジしているのを観るのはいかにもたのしそうだ。
あと、高畑淳子が引退していて、かわりにデビット伊東が校長になっていたらよい。やけに合唱部に肩入れしているのが反対にうっとおしがられるという役どころ。
そんなところでしょうか。

編集
いろいろと書きたいことはあるのだが、毎日感じているこのイライラを先に解消せねばと思い、朝ドラ『あさが来た』の悪口を。
第1週は観ておらず、第2週から第4週までをだらだら観したのだが、これがひどい。
いちばんひどいのはヒロインの波留。
流行らせたいのか、「ビックリぽんやわ」のセリフをくどいくらいに繰り返すのだが、これがあざとすぎて腹が立つ。
また、朝ドラヒロインにありがちな「勝ち気で、思ったことがあれば口に出してしまう性格」なのだが、これをやったあと、自分の指でその唇を塞いで(なんと表現したらいいのだろう、アヒル口にする、とでも言えばいいのか?) 、「あかん、また余計なことを言ってしもた……」と反省する、みたいなこともすでに何度と繰り返している。
上のふたつは脚本とか演出の問題とも言えるけれど、基本的にこの女優は、セリフを「泣き」の調子で言う悪癖がある。「そやけど、旦さんかて……」とか「なんで、女やから言うて……」なんて文句を、鼻にかかった泣きつくような言い方をするのだが、この安っぽく古臭くもある演技が鼻について鼻について仕方ない。
たいしてうまくもないのに、こんなくだらない癖をどこで覚えてくるのか。今日び、子役だってもう少しマシな演技をするだろうに。
もしヒロインがあまり器量良しではなくてこれらを演じていたのであれば、まあ許せたとは思うのだが、波留ってのは控え目に言っても美人(けれども現代的な顔立ちすぎて和服に合っていない)なわけで、そういう人物があざとくぶりぶりぶりっ子をしていると、「クソだな(ぶりぶりだけに)」みたいな感想しか思い浮かばない。そんなに単純じゃねーよ観ている方はよ、と気を吐きたくもなる。

あと、脚本もやっぱりタルい。きょうなんか、ヒロインの嫁ぎ先の両替屋が取り付け騒ぎを起こしているというのに、なんとのんびりしていることよ。実話に基いているからと言って、リアリティ追求はすでに放棄してしまったのだろうか。
タルいでいえば、玉木宏。好きな役者なんだが、あまりにも手を抜きすぎで、妻の波留とのやりとりは学芸会じみている。あと、ふたりの大阪言葉がものすごく不自然に感じるし、全体的に、ヒロインの実家(京)と嫁ぎ先(大阪)での言葉の違いをほとんど感じなかったのだが、これはまああくまで東京出身の人間の感想なので当てにはならない。

とにかく、ひどいドラマだと思う。大河ドラマがいくらヒットしていないからといって、同時期に「幕末→明治」のドラマを並行してやる必要性もまったく感じない。
近藤正臣と、山内圭哉(しばらく観ないうちに太ったな)だけを観ている。あと、オープニングの藤枝リュウジ(高島俊男の文庫のイラスト担当)のイラストは雰囲気があっていい。主題歌はAKBでメロディラインだけを聴いていたらなんか聴きやすくていいな、と思っていたが歌詞を聴いたら、これまたひどい。秋元御大。「人生は紙飛行機」だって。そもそも、『川の流れのように』だって、あれは美空ひばりの最後のシングルだから印象的なのであって、「人生は川の流れのようである」みたいな歌詞は陳腐の一言に尽きると思っている。
あと、少なくとも先週くらいまでの撮影地は、たぶん奈良の今井町だったり滋賀の近江八幡だと思うのだが、偶然にも去年このふたつの場所を訪れていたので、「おお、これは」と少し嬉しい驚きはあった。場所はいいところです。

編集
なんのことだか・誰のことだか(おそらく誰にも)わからないようにすごく曖昧に書くのだが、あるやつに対して「もうガマンならん」とブログに書いている人がいた。
たとえば怒っている人をAさんとして、怒りを向けられているのをZとする。
前に僕が書いていたブログに、このZというのが(おそらく)好意的に少しだけ絡んできたことがあったのだが、ブログではともかくツイッターを見ればろくなやつじゃないってことはすぐにわかったので無視していた。以前書いたことの繰り返しになるんだけど、リアルで会ってもよいと思えるような人間じゃなければまともに応じる意味がないと思っているので。
だから、Aさんの憤慨したであろう理由は、(すべて理解しているとは思えなかったけれど)おそらくまともだと思ったのだが、その記事に「そもそもおれもおかしいと思っていた」みたいなコメントがいくつか見られ、そういう機に乗じる連中もなんだか卑怯だなと思った。Aさんへの援護射撃の意味もあるのだろうけれど、Aさんを盾にして小石を投げるようなマネしないで、堂々とハナから批判しておけよ、と。

それとはちょっと別の話になるのだが、以前そっちの界隈のブログで、そのZと仲良くしている方(Bさんとする)がいて、ちょっと幻滅して距離を置いたことがあった。Bさんは繊細な感覚を持っていないようには思えなかったのでおそらくは、ネットでもリアルでも、接している部分・コミュニケーションしている部分はどうせ限定的であり、そこに問題がなければそれでよしとしようじゃないか、という一種の諦念を持っていたのだと思うが、僕にはその態度がどうにも納得できなかった。はっきり言ってしまうと、Zと同じようにBさんもリアルでは会いたくない人物のように感じられた。
誤解をあらかじめ回避しておくが、なにも僕は平生から「リアルで会いたい」と思っているわけではない。そんなことはまったく思っておらず、「リアルで絶対に会いたくない」ということにこそ重きを置いている。それが重要だ。
友だちの友だちと友だちになれるとは限らない、ということも以前書いたことがあるが、それとは別に、友人は選んだほうがいいだろう。友はときとして鏡となりうる。周りにどういう人物がいるかで、だいたいその人間の質というものはわかってしまうんだよなあ、残念ながら。ま、友だちのいない僕が言う(書く)ことじゃないけれども。

編集
遅ればせながらやっと観ることができた。
オープニング。杏が待ち合わせていたのは、あの鷲尾という若造ってことで、ライトな視聴者(というか本篇ドラマにそれほどの思い入れがない人)であれば「あれ?」とまんまと驚いてしまうだろうが、なあに、こっちは上岡龍太郎以上に騙されない構えをしているわけで、「はいはい、またまた時間軸を巻き戻してやるんですよね? どうぞ。お手並み拝見しましょ」と期待に胸を膨らませる。

今回のスペシャルを観て再確認できたのは、長谷川博己、杏、松重豊はやはり代替不可能だということ。あと和久井映見も。
ハセヒロは、線の細い文学青年・谷口巧としてぴったりで、他の役どころでは感じられなかった(といったって『八重の桜』とか『MOZU』くらいしか知らないけど)ユニークな存在感を、コメディで発揮しているというところが興味深い。
杏は、あまり好きな女優ではないけれど、藪下依子は実は難しい役で、杏以外できるのかって気がする。他のドラマなどではありがちなヘタウマや棒読みも、このドラマにあってはきっと台無しになるはず。好きじゃないけど、杏の俳優としての基本的な技術は信頼している。
松重豊の、のんびりとした口調のツッコミやボケが、他の出演者とは異なり、際立った存在感を見せつけていた。また、彼がいるおかげで視点が複層的になり、単調になりがちなストーリーのバリエーションを豊かにもしている。
和久井映見も、いなくちゃならない重要なキャラクター。あの古臭いメガネをかけながら、ときにはセクシーな衣裳になったりもしつつ、杏とまるで姉妹のような口喧嘩をするところがかわいい。特徴的な声(俳優として「いい声」なのかというとそうでもないかもしれないけど、すごく印象に残る声だと思っている)としゃべり方の和久井ならでは、なのだろう。

他の出演者たちで言えば、鷲尾(ジャニーズだったのか)が若手刑事然とした恰好で浮気をしているとおぼしき谷口巧の張り込みをし、それだけでは飽き足らず、ティアドロップタイプのサングラスをかけて車のハンドルにもたれ、上役刑事然とした杏から張り込みの定番であるあんパンや牛乳をもらう、などという「おいしい」シーンがあった。
松尾諭も、ハセヒロを尾行する際、真っ白のスーツ・ハットに真紅のネクタイ、それにやはり大きなサングラスをかけるという、およそリアリティという言葉からかけ離れた衣裳で視聴者をたのしませてくれた。
おまけとして、国仲涼子の不在(おそらく妊娠していたため)は、それを逆手にとって、まるで別人のように変身させることで(事実、別人なのだが)、鷲尾の不在というオチをミスリードさせる役割まで演じさせるという演出の手際のよさに心の底から感心した。
このような劇場型の、過剰なまでのオーバーな演出で物語が展開していくというスタイルは大好きで、他のドラマでももっと観てみたい。コメディ以外で成功するかどうかはわからないが、少なくともコメディでは果敢にトライしていってほしい表現だ。

ドラマのそこら中に隠され、ときにはあからさまに示されていたオマージュやパロディについては、あまりにもモノを知らない僕は口をつぐまざるをえない。その量はおそらく膨大で、その点についてはしかるべきマニアが、たとえば谷口巧の部屋の蔵書やフィギュアについて得々と語っていることだろうからそちらを参照されたい。彼が「半同棲生活」に苦しみながらも上村一夫『同棲時代』を読んでいたり、修善寺への旅行トランクに東陽片岡のマンガ『されどワタシの人生』が並んでいたことなどは指摘するまでもないのだ。
ただ、これは正誤がわからないのだが、「彦乃」として巧が(片時でも)惚れてしまった女性と、その義母との関係は、小津安二郎『東京物語』の原節子と笠智衆の関係に対するオマージュのように感じられた。
残念なことに記憶力の悪い僕は、昔に観た『東京物語』をそれほどきちんと憶えていないのだが、原節子は夫が亡くなったあとも、義理の父母(笠智衆と杉村春子)に尽くしており、それを申し訳なく思っている笠智衆が、「あなたもあなたの人生を考えなさい」と諭していたシーンがあったように思う。
彦乃を最初に観たとき、谷口は「小津映画のうんぬん、あるいは竹久夢二のうんぬん」と言っていたので、脚本家古沢良太は、彦乃に『東京物語』の原節子のイメージ(の一部)を当てて書いたのかもしれない。

で、その彦乃の役を演じた芦名星がよかった……。『八重の桜』に出ていたときからなんとなく知っている程度の認識だったが、今回の役はぴったりで、谷口巧が藪下依子の悪口を、しかし嬉しそうに(観ていない人には絶対にわからないのだが、ここがポイント)しゃべっている横顔を見て、彼女が悲しそうな表情で涙を浮かべるシーンには思わずじいんとしてしまった。この涙が、そのあとの依子との会話でのセリフ、「(依子に)ちょっと、意地悪したくなったのかなあ」につながっているところがよい。
このセリフに限らずこのドラマでは、登場人物たちの行動の真意が、時系列としては過去ではあるがストーリー展開的にはあとで語られるという手法がよく採られており、これにはもちろんちょっとしたミステリ的要素を与えられるというレトリック上の要請もあるのだろうが、もう少し深読みすると、いっけん単純に見える行動にもその裏にはきちんと深い意味があるということを提示したいのであって、それは巧が依子にクライマックスシーンで告げた漱石の「月がきれいですね」のエピソードの真意にも通じているわけだ。いやあしかし、漱石のあのエピソードが出てきたときには、「かわいそうだた惚れたってことよ(Pity is akin to love)」も同時に思い出され、ぞぞぞっと鳥肌が立った。
谷口巧が「文学青年」という性格を、ただの属性・スペック(この言い方は嫌いなのだが)として与えられているのではなく、このような非常に重要なシーンで発揮させるというのには、「感心」どころか恐れ入った、と脚本家に平伏するしかない。いまどき、恋愛のクライマックスシーンでいったい誰が漱石を持ち出せるだろうか。すばらしい!の一言に尽きる。

彦乃の「意地悪」に対してすっかり感情移入させられた視聴者を、ラストにはきちんと藪下依子へと向かわせる脚本の力強さも、ただただ驚愕するしかない。
前半部で依子に「人間は行動に責任が生じるのであって、気持ちに責任は生じません」と断言させておきながら、クライマックスでは、巧に対して「(巧の)心の全部がほしい」と言わせるという、これまでに彼女が「契約」という名のもとに行なってきた形式至上主義的行動(ここは国家公務員という彼女の職業にも通じている)をすべて覆してしまうこのどんでん返しには、(本篇というかシリーズもののときにもあったことで初めてのことではないのだが)当然のことながら大カタルシスを感じざるを得ない。
本篇では描写されていたものの直接言及されていなかった(ように記憶している)依子の食材の賽の目切りを観て、あらためてドラマ『名探偵モンク』のエイドリアン・モンクへのオマージュを僕は感じてしまったのだが、実はモンクの性格は、依子だけではなく巧にも分け与えられていて、セックスへの恐怖や人混みの中への嫌悪感などがまさにそれだと思っている。
とはいえ、モンクの思想や態度を(モンクほど強迫神経症的ではないが)より色濃く受け継いでいるのはやっぱり依子であり、この『デート』というドラマも、『名探偵モンク』のエンディングのように(※過去記事参照)、彼女が心を取り戻す、あるいは心を実感する愛情の物語、ととらえることもできるのだろう。

とにかく、本篇で大満足した視聴者の期待を、このスペシャル版でもまったく裏切らなかった脚本家への賛辞としては本記事はまことに物足らないのではあるが、それでも、世間の多くの視聴者とともに、惜しみない拍手を送りたい。

編集
渋谷のある店に行ったとき、その店の前に他の店の看板が置いてあって、それをふたりの女の子がどかそうとしていた。ひとりは、見るからに新人風。もうひとりは、冗談めかしながらその新人に看板の移動のさせ方を教えていた。
トレーナー役の彼女は、その店にしてはずいぶんと年上のように思えた。四十代半ばほどだろうか。髪の毛に艶がないばかりか、まとまらず、全体的にほつれているような印象を受けた。化粧っ気がほとんどないせいで、顔色が悪いようにも見えた。
もう少し近づいてみると、彼女は、その店に十年も前から勤めている最古参のスタッフだということに気づいた。美人だったが気の利かない人間だった。愛想がなかった。同じ店で働いているというのに挨拶もしないような人間だった。悪意があるとか意地悪とかではなく、単純に不器用な人間だった。
彼女であれば、僕より五つほどは年下のはずだったのでどう見積もっても三十代前半か、と気づいて愕然とした。感覚的に言って、十年のうちに二十年ぶん年をとってしまったように見えたのだ。
すぐに僕は「これは鏡だ」と思った。十年のうちに二十歳老けたのはなにも彼女だけではないのだ、きっと。彼女の表情に隠そうとしても隠れない疲れが見えるのも、僕がそれなりに年を食ったから。なにより、「もう若くはない」と考えている人間の考えが透けて見えてしまうのだ。


Perfumeの『ワンルーム・ディスコ』を聴いたとき、
窓をあけても
見慣れない 風景
ちょっとおちつかない けれど
そのうち楽しくなるでしょ
という歌詞がやけに心に残った、ということを過去に書いたことがある。
これは一人暮らしをはじめた女の子の歌だが、ここには「そのうち楽しくなる」という無根拠な、しかしある程度には確からしさのある希望が仄見える。
しかし、そういう時代もいつかは過ぎる。「人はいくつになっても青春だ」みたいな大型オートバイのキャッチコピーはひとまず脇に置いておくとして、それとは別に、自分の先にあるものが必ずしもポジティブなものばかりでなくなる時代はきっとやってくるのだ。
僕がこの店で会う約束をしていた女の子はまさにそのどん詰まりの状況で足掻いているわけだし、この翌日に会った前妻もまた、僕といっしょに暮らしていた脳天気な日々からはだいぶ遠いところで生きているようだった。
僕の前髪にも五年前にはまったくなかった白髪が目立つようになっていたが、それくらいで済んでいるのなら相当ましなほうだ。

偶然にも、ふたりの人間の口から生きていたって仕方がないというようなことを聞かされた。積極的に死にたいというわけではないけれど、という前置きつきではあったが、無責任な慰めを容赦しない空気があった。
僕はふたりに対してまるっきり正反対の態度をとったように思う。ひとりには多く頷いたり、言葉を尽くしたりしてみた。もうひとりとは一緒に涙を流した。
特に前妻との時間が足りなかった。五時間ほどがあっという間に過ぎていたが、その倍は時間が必要だった。けれども僕には新幹線に乗車する時間が迫っていた。
喉が渇いた。酒を飲んだ。ベルギービールをひと瓶空け、ジントニックで口直し、それからふたりでワイン一本を空にし、またジントニックで渇きを癒し、最後に二杯のスコッチで喉の奥に引っかかっているものを飲み込んだ。
十数年間のわだかまりの一部が溶けていった。そこから浮かび上がってきたのは率直な心情で、それは素直に出口を求めていた。僕の口からも、彼女の口からも。といっても耳心地のよい言葉が出てきたわけではなかった。ただの事実。これまで言葉にされたことは一度もなかったが、お互いにきっとそうであろうと思っていた事実。僕たちはそれでもお互いのことを信用している。そのことを確認することができたのだ。
これからなにが変わるというわけではない。あっけなく日常に飲み込まれて、この日の言葉すら忘れてしまうかもしれない。変化は僕たちのあいだで起こるのではなく、むしろ個人個人にもたらされることだろう。距離も時間も遠く離れたわれわれひとりひとりに。


今年の夏に大病を得た父に訊きたかったことがあって、質問した。家族だから訊けること。人生観が変ったかどうか。
「変った」と父は即答した。「カウントダウンが始まったって感じたよ」
父の言葉に悲壮な響きはなかった。ただの事実として「カウントダウン」という言葉を用いていた。
さいわい手術はあっけないほどうまく行ったようで、わづか一日の入院で済んだ。ただし再発する蓋然性も高い病気らしく、定期的な検診は今後もずっとつづくらしい。ずっと。
カウントが始まったというのであれば、それはゼロになるまでつづけられるということだ。言葉にすれば簡単なことで、どこの誰とも関係のない話であれば、まったく心は動かない。
しかし、僕たち家族にとってその言葉は、とぐろを巻いたヘビのように、遠いところからわれわれのことを狡猾に窺っている。近づいてくるまで、われわれは気づかないふりをするしかない。


東急東横線に乗っていたら、渋谷駅はいつのまにか地下にあって、地上に出るのに十分ほど迷った。コンシェルジュらしき人が数人すわっているカウンターがあってそこでガイダンスを受けたからよかったようなものを、十六歳のときから通っている渋谷駅でまさか道を尋ねるとは思わなかった。
数年ぶりに見かけたギャルソンは、前回会ったときに受けた実直な印象をまったく失い、不遜さすらうかがわせていた。顔の肉はたるみ、肌も少し荒れていた。
十二年前からの知り合いの女の子は、もはや女の子と呼ぶのには無理があった。極端なハイとローのあいだを行き来しているのは目に見えてわかったし(いまは徹底したハイだった)、僕の役目はできるかぎりバランスを保つことだった。僕自身のバランスと、彼女の心の平衡とのどちらとも。
ちょっとした買い物をしようと実家の車に乗ったとき、家の前のアパートに住み着いている野良猫が、車がすぐそばを通っているにもかかわらずほとんど身動ぎもせずに眠ったままでいたので、思わず苦笑した。このアパートには、あたりの野良猫をつかまえては去勢や避妊手術をしてやり、周囲の苦情を前もって封じ込めているWさんという筋金入りの愛猫家がいるのだが、このネコもWさんのかわいがっているうちのひとりだろう、と勝手に諒解した。
翌日、母が家の前で「トラミ」というネコが死んでいるとWさんに電話で伝えていた。Wさんいわく、トラミは最近ずっと病気で弱っていたとのこと。前日ぼくが見ていたのは、野生味を失ったネコの無警戒な居眠りではなく、夢とうつつのあいだに揺蕩うていたトラミの最後の生だったのだ。
そして、そのアパートも取り壊されることが決まっている、と母が教えてくれた。老朽化が進み、大家がそのように決めたらしい。住人たちは引っ越しを余儀なくされ、Wさんも近いうちに出て行くらしい。僕はその話を半ばまでしか聞いていられなかった。


最良のものは、それが手のうちにあるときには気づかず、失ってからはじめてそれと知る、というようなことは人類の歴史上、何百万回と繰り返し言われてきた。いや、ミリオンではなくビリオンの単位で。
最良のものが、すべて最良の場所に最良の状態であって、それがずっとつづけばいい。しかし時間がそれらを容赦なく破壊していく。今回の帰省で、僕はそのことを痛感していた。
けれども、帰りの新幹線の座席に身を預け、酔いの水面にぷかぷかと浮かんだり沈んだりしながらも、僕にはまだ少なくともひとつの最良のものを手にしているという実感があった。もう二度と耳にすることはないかもしれないが、僕はたしかにその言葉を聴いたのだった。

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また、「同じ日本人として嬉しく/誇らしく思います」という無意識手柄横取り連中が梅雨どきのカビのように大量発生する時期がやってきたな、と思った。
米朝と人間国宝の関係と同じ話だが、受賞したから立派なのではなく、立派な業績があったからこそ受賞があったわけで、その関係性を反対に受け取ってしまうと話をあまりにも矮小化することになってしまう。
そして、受賞していなくても立派な仕事をしている科学者は大勢いる、ということはEテレ『サイエンスZERO』を見ていれば実感できるし、そしてあの番組だってたぶん氷山の一角。

と同時に、この時期はハルキストによる「村上春樹ノーベル賞受賞祈願狂騒曲」が繰り広げられるということを意味しているのだが、去年だかに村上春樹は「(受賞がどうだこうだと騒がれるのは)迷惑だ」とはっきりと言明していたはずだから、今年は、例のどこだかのバーに集まってネットで受賞結果を待つ例の人々はどうするのだろうか、と要らぬ好奇心が湧く。
春樹の作品どうこう以前に、春樹自身はああいうバカ騒ぎをものすごく嫌う人間だというのは、僕のようなライトな読者だってわかるというのに、ハルキストと自称する人たちはよほど空気と日本語と人間の心を読めないか、毎年、おめでたい雰囲気を身にまとってお上品に振舞っているけれども、もしかしたらあれは、非常な諧謔性と皮肉(文学や芸術を権威主義の観点からでしか捉えられない「大騒ぎする連中」と、商業上の理由からそれを煽り立てるだけのマスコミへの痛烈な批判)を有したパフォーマンスアートなのかもしれない、と最近は疑い始めている。もしそうだったら、それはそれですごい。

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10月の2日から4日までの三日間(ほんとうは1日の夜行バスに乗ったので四日間)、横浜に帰っていた。
会う友人との連絡手段としてメールだけは実家で確認できるようにしていたが、あとは家族にYouTubeの動画を紹介したりするくらいなもので、ほとんどネットに触れる機会はほとんどなかった。

帰ってきてから、とりあえずちょろちょろとネットを眺めたら、「いかにも」なキーワードがそこかしこに溢れていて、そのなかには、「炎上した動画だかCMだかの解説をする」みたいなのもあって、こういうのを書いているやつって、たぶんリアルで会って話してもクソ面白くもないやつなんだろうなって思った。なので、当然読まなかった。

ネットにどっぷり浸かっていると、そこでしか普及していない価値観に汚染されているってことがある。 
そもそも、それを批判するために時間をかけてこの記事を書いているということじたいがちょっとおかしいことで、「あほらし」ってつぶやいて本読み始めたほうが百倍マシ。
その本だって、読み終えて感想を書いたとしても、それを誰にも見せずに自分だけが読める状態にしておけばいいんだよな。 
なんだかそういう気分が強くなってきた。
ブログを書いているときの気分としては、「ほんとうはこの人にこういうことを伝えたいんだけど、それをメールとか口頭で直にやってしまったらきっと相手は負担に思うだろう、だからその精神的負担を減らすためにいちおう不特定多数に公開するという形をとろうか」ってくらいなもんで、検索で飛んできた全然価値観の合わないような人が、ある記事だけを偶然読んで「おもしろいですね」みたいなことを言われても、実はなんとも思わない。それくらい、実生活と同じくオンラインでも僕は閉じている。

ってことを書いていたら西野って芸人がツイッターをやめたっていうニュースが目に入って、こんなのがニュースになる世界ってどんなに狭い世界だよって話なんだけど、まあネットってのはそういう世界なわけで、いづれにせよ、自分より年下の人間にきゃあきゃあ言われて舞い上がっていただけの人間が、逆張りしてまた目立ちたがっているだけっていう感想しか持てなかった。
抽象的な言い方になってしまうが、世にもてはやされているものの多くはみんな子供騙しで、まともな大人を相手にしたものが少なすぎるんだよ。サブカルって言葉も毎日目にしているような気がしてしまうけど、まともに本道も知らないのに間道を探ろうとするわけがない、という僕の理窟にもとづけば、世のサブカルに傾倒しているみなさんは本道(ハイカルチャー)への造詣がよっぽど深いんでしょうねえ。尊敬します。

ダラダラ文句はいつまでもつづいてしまいそうなので、これくらいで。

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