とはいえ、わからないでもない

2015年11月

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せっかくの休みの日(しかも晴れの日はひと月ぶりくらい?)だというのに、朝見た夢の話。珍しく細部が充実していて、それをよく憶えていたもので。

新しく大学に通うことになったのだが、教室はほぼ高校程度のサイズ。僕はなぜか初日を休んでいたことになっていて、二日目からの登校。
クラスに入るとすでに席は決まっていて、初日に休んだ人間は残りの空いている席にすわることになるのだが、その周りにはなぜか美人がいっぱい。特に左隣には真木よう子のそっくりかと思ったら本物の真木よう子がショートカットバージョンでいるし、というか、夢でありがちな「あれ、おれ真木よう子好きだったのか?」的な錯誤もあったが、これについては覚醒後、「いやいや、やっぱりなんとも思っていない」とすぐに補正できた。
しかし、いざ前、右隣、左隣を美人に囲まれるとなると、「やったー!」と思わずに、「ちょっとイヤ」と尻込みをしてしまうのは、現実でも夢のなかでも同じことで、そこからふたつ後ろの空席(教室最後部)を選び、そこでやっと精神の平静を取り戻すことができた。
で、あらためて大学に入ったことを実感している僕は、新しいことを学べるということですっかり昂奮していて、また、さきほどの四面楚歌ならぬ三面美人席と較べると黒板への距離がやや遠くなったことを認識し、教室にいた「われわれ」というのは、実はそれぞれが別々の風景として教室をとらえていたのだということに気づき、感動を覚えていた。
この感覚っていうのは、すっかり夢から醒めた現在でもまだしみじみと感じていることであって、学生時代を扱ったドラマや映画、あるいはマンガなどの視覚表現物を見慣れてしまうと、天井近くからの俯瞰図であったり、あるいは教壇から見た教室全体図のことを「教室」というふうに置き換えて見てしまっているけれど、ああいう視点は学生時代における実体験とはかけ離れたものであったはずで、「教室」という単語が学生個々人に喚起させるのは、それぞれの座席から見渡した風景でしかないはずなのだ。
そういう当たり前のことも、その場所から遠く離れてしまうとすっかり忘れてしまうもので、これに似たようなことは、他の様々なものでもあるように思う。
こういうことに気づくということは、夢のなかの僕は十九歳というよりはもう少し上の精神年齢を持っていたということになるのだが、けれども「設定」としては(同級生にアラサーの真木よう子がいるのにもかかわらず)十九歳ということになっているらしい。
というのも、僕が教室に入った頃にはすでにかなり席が埋まっていたのだが、僕よりもあとにやって来た「渡辺信(わたなべ・しん)」という生徒が、思わず二度見、三度見してしまうような老け顔で、老け顔というよりは、五十代は間違いのないおっさんなのであるが、この男を見たとき、「とても十九歳に見えねー!」とツッコミを心のなかで入れたのだ。
この渡辺、髪の毛は真ん中がもうつるつるで脇に生えた毛がくるんくるんとパーマ状に巻いていて、もうそこからして十代ではない。指紋がべっとりついたメガネをかけて口の周りには無精髭がまばらに生えているのだが、なぜかTシャツと半ズボン。恰好だけでいえば小学生で、けれども周りの生徒たちからは「おう、渡辺さん」と呼ばれていて、「『さん』づけかい!」とこれまたツッコミ・イン・マイ・ハートだったのだが、なんだか男子には人気のある男らしい。ちなみに、渡辺信の「信」の部分がわかったのは、夢ならではの都合のよさ。
渡辺はにやにやしながら、「お、おでさあ、でっかい空豆持ってんだけど、食うやついる?」とポッケから宣言どおりの「でっかい空豆」を取り出して、立候補者の口に狙いを定めて莢(さや)を指で押して中から豆をポーンと弾き出し、同級生の慌てる様を見て「でしししし」と笑う、非常に気味の悪い人物だった。「見た目は子ども、頭脳は大人」っていうのはどこかで聞いたことがあるフレーズだけど、その逆を行く「見た目はおっさん、頭脳はコドモ」というこの渡辺信という男は、もし現実世界で出会ったら「ああ~、この人は!」と声を上げてしまいそう。
男子連中は彼の気味の悪さをおもしろさととらえて笑っている様子だったが、肝心の女子はどうなのよ、とつねに女子を意識してしまう僕は女子連をそっと窺ってはみたものの、彼女たちの誰も渡辺のほうを見ておらずに完全無視を決め込んでいて、「ほう、大学ともなると完全にオトナだなあ」と妙なところで感心した。
ところへ教師がやってきて、いよいよ授業。
いきなり教師が出題する。
「ある高層タワーがあって、そのタワーにはいままでにないデコレーション的構築物(これを僕はツノのようなもの、と解釈した)がいくつか付随しているとする。このタワーに構造上の問題が生じ、その原因が上から二番目の高さにあった構築物だと判明した場合、それがいかにして分析されたのか、そしてどのように解決するか、答えよ」
え? え? え?
なにこれ、大学になるとこんなに難しいの? 具体的な数字も出てこないし、そもそも意味がわからないんだけど。
この「問題」に対し、僕の隣の隣の男子が指され、立ち上がり、「はい、これはですねえ」とぺらぺらと答え始めるのだが、「いくらなんでも初日に来なかっただけで、差が開きすぎだろ!」と、これまたツッコむ。
これはあれか、グーグルの採用試験(フェルミ推定のこと)か? 世界広しといえでも、こんなものを簡単に答えられる大学生がいるもんだろうか、と考えたところで、ふと、「『世界広しといえども……』って、『柳生博といえども……』っていう洒落がつくれるな」と思い浮かんで、目が覚める。
布団のなかで、それまで静かに寝ていたネコ二匹がばたばたと喧嘩をし始めたらしい。しかしながら、「世界広し」から「柳生博」までの連想の速さは自分でもなかなかのものだと夢のなかでは思っていたが、冷静に考えてみると……わかりづれー!

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渋谷、というと今ではぴかぴかになってしまって僕のなかではなんだかリアリティというものを急速に失った場所になってしまったものだから、下北沢なんていうそれでもあんまり馴染みのない場所を選んでみる。もしかしたら、いやもしかしなくとも下北沢にはそんな場所やそんな文化はないように思うのだが、しかしそれでも、その駅前にあなたたち、つまりGLIM SPANKYが唄っているところを想像してみる。

年下だからといって「きみ」なんていうふうに軽々しくは呼ばないで、敬意を込めて「あなた」と呼ばせてもらうけれど、あなたたちが全然知られていない人たちだということにして、僕のほかに十数人程度が足を止めてあなたたちの歌を黙って聴いていたとする。
あなたは、『大人になったら』という曲を唄っている。歌詞はこうだ。
煙草の匂いが私の髪にすがる 駅の冷たいホームさ
夢を見るやるせない若者達の瞳は眠らない
そうでしょう?
私たちはやる事があって
ここで唄ってる

始発列車は今スカートを撫でてやってくる 寝惚けた街を抜け
『おはよう』なんて言う気分じゃないのさ 気が滅入る あぁ
ずっと 子供でいたいよ

猫被り 大人は知らない
この輝く世界がだんだん見えなくなっていくけど
いつか昔に強く思った憧れは決して消えない 消えやしない

こんなロックは知らない 要らない 聴かない君が
上手に世間を渡っていくけど
聴こえているかい この世の全ては
大人になったら解るのかい

レイバンとレコードを買ったあの店は消えてしまって
コンビニが眩しく光るだけ
知らないあの子が私の歌をそっと口ずさむ夜明け 優しい朝

こんなロックは知らない 要らない 聴かない君が
上手に世間を渡っていくけど
聴こえているかい この世の全ては
大人になったら解るのかい

こんなロックは知らない 要らない 聴かない君が
上手に世間を渡っていくけど
聴こえているかい この世の全ては
大人になったら解るのかい

大人になったら解るのかい
歌詞を聴きながら、僕は自分が大人であるかどうかを考える。もちろん、僕は大人だ。毎年、成人の日にテレビクルーがインタビューする「あなたは大人ですか?」みたいなバカげた意味ではなく、大人であることの要件を「自分の人生を自分で引き受けていること」としたうえで、僕はその責任を明確に感じながら自分のことを「大人だ」と思う。
それ以上でもそれ以下でもない意味において大人の僕は、あなたの歌に少し苛立ちを覚えることだろう。
あなたは、大人を器用でずるくて唾棄すべき存在としているようだけど、そういうふうに二元化して、自分たち「子ども」をその対立項として置くというのはいかにも単純にすぎるのではないか。そういう単純さを子どもの特権と自覚しつつやっているのであれば、あなたの歌に共感するのはまさしく子どもだけなんじゃないか。
大人はずるくてあんなふうにはなりたくないという主張は、百年も前から言われているごくごくありふれた言い回しで、僕自身、十代の頃は二十歳以上になるなんて想像もできなかったし、二十代のときは三十歳以上の人間の言うことなんて信じる気にもなれなかった。これは、マンガのような話だけれどすべてほんとうのことだ。
「大人だっていいもんだ」なんてことを言いたいわけじゃない。そんなテレビCMのキャッチコピーのようなことを言いたいのではない。若いときは好き勝手言っていたくせに、いざ自分が年をとったらしたり顔でそんなことを言うやつらなんて、ほんとうに最低で恥知らずだ。そんなやつらの懐柔策に乗る必要なんてない。死ぬまで無視しつづけてやればいい。
ただ、すべての大人がそんなに単純なわけでもないということ。「ずっと子どもでいたいよ」と思っていたし、それにロックに限らずどんな種類の音楽を聴いていなくたって「夢を見」て「やる事があっ」た者もいたのだ。それはあなたたちだけの特権ではないのだ。

反論は山ほど僕のなかに浮かんでくる。文句の泡がぽこぽこと浮かび上がってはぱちんと僕の喉のあたりで弾ける。あなたがたは救いようのないほど幼稚で単純だからだ。
それにひきかえ僕は、批判することに馴れきってしまっているので心を痛めずに重箱の隅を突くことができる。言葉は旋律やリズムに乗ってやってきているというのに、そのうわっつらだけを撫でるように詩を吟味し意地悪く調理しようとしているだけだ。
一生懸命唄っているその歌を聴かず別のなにかに向かって嫉妬するように僕は反感を覚え、そういう受け止め方しかできない僕に対して直観的に憎しみを抱いたあなたは、声を張り上げ、怒りをさらに上乗せするだろう。

ふと、あなたたちを囲む輪のなかに十年前の僕の姿を認める。
僕やほかのオーディエンス同様、彼もまたジャンパーのポケットに深く手を突っ込み、身じろぎもせずにいる。まるで動いたらその場に立っている資格がなくなるとでもいうように。
きみは心のなかでどんなふうに感じているのだろうか。きみは自分では大人ではないと思っているのかもしれない。けれども、唄っている彼女たちとまったく一緒だとも感じられないだろう。彼女たちに同意することはなにかに負けることだと思い、きみは意地でもそこに踏ん張って感情を流されないようにしているのではないか。
そこに容赦なく彼女たちの歌が響き、心はぎゅっとつかまれてしまう。きみはそこから逃れる術を知らない。顔はどうにか無表情を装っているけれど、きみはあの歌声と詩と空気とに完全に飲み込まれ、自分のやり場のない怒りを預けてしまおうとすらしているのかもしれない。
あの頃はまだ自分の考えていることをほとんど誰にも告げることができなかった。なにかを訴えられる場所に飢えていたし、かといって訴えることのできる人間の尻馬には絶対に乗らないと決めていたはずだ。
きみは心地よさと恥ずかしさと苦しさと焦りを抱えたまま彼女の歌を聴いている。彼女の声の一音一音が、きみの心を波立たせる。ポケットのなかの拳が堅く握りしめられる。
 
歌が終わりを迎えつつあった。
歌声が聞えていたあいだに抱いた細々とした感情はちょっとした感動ですぐに吹き飛ばされてしまった。「おや、けっこうよかったんじゃないか」と思い込んでしまいそうなところに、慌てて反感を持っていたことを思い出す。迎合するのはもう少しあとでもよい。
あなたたちの視野の狭さに対して言いたいことはまだまだやっぱりあったけれど、その言いたいことは僕の度量の狭さからやってくるものだということを、僕は薄々と感じている。それくらいのことはわかる程度に僕は年をとっているから。
あなたは、この曲に「大人になったら」というタイトルをつけ、「ずっと子供でいたいよ」と唄っている。ということは、いつかは大人になってしまうという予感をあなた自身も持っているということなのだろう。
けれども、臆せずにそのままその歌を唄いつづけてもらいたい。その歌を本気で五年、十年と唄いつづけていれば僕はきっと勇気づけられる。僕はなんだかんだ言って、あなた方の側に立っているつもりだ。あなたたちとは一緒じゃないかもしれないけれど、あなたたちが憎むものを僕も憎んでいる。
現代ならありふれた感動屋たちがあなたたちをスマホで動画撮影して、それをネットにアップロードするかもしれない。RTや「いいね」が加速度的に増えて、あなたたちの歌は簡単に人口に膾炙するかもしれない。「バズってる」とか「泣けた」とか「神曲」なんていう薄っぺらな言葉があなたたちの周りを浮遊する。多くの人たちはあなたたちが好きなのではない。あなたたちのことを好きな自分が好きなのである。
けれども十年前だったら誰もそんなことはせずに、目の前の歌を純粋に聴き、そしてただ拍手をするだけだった。 それで充分だった。いまでも、それで充分なのである。

歌が終わった。
あなたたちは、ちょっと照れたように、それからちょっと怒ったようにして軽く頭を下げ、「ありがとう」と小さな声で言った。パチ、パチ、パチ、とまばらな拍手が周りから聞えてくる。
きみは、ポケットからついに手を出さずにそのまま回れ右をして帰ろうとするが、思い出したように立ち止まり、彼女たちのほうへずかずかと歩いて近づいて行き、その場を去るため片付けを始めた彼女たちに向かって、「よかったです」と緊張した声で言う。「ありがとう」と彼女たちがもう一度言い、きみももう一度「よかったです」と言い、それ以上言うことがなくなったので頭を下げ、駅のほうへと大股で歩いて帰って行った。
それを見届けた僕も帰ることにした。多くの人たちが行き交うなかをぶつからないように歩いた。警察官がふたり、ストリートライブを演っていたこちらのほうを遠目で伺いながらひそひそと話しているのが視界に入った。ここもすぐにぴかぴかの場所になってしまうのかもしれなかった。
何度も繰り返し聴いた僕の耳には当然あなたたちの声が残っていて、サビが口を衝いて出る。「大人になったら解るのかい」。
もちろんほとんどのことがわからないままだけれど、僕もまた夜明けに向かって歩いているのだった。

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何も知らず朝寝せし朝 世界では 「パリ」の名響(とよ)む悼みとともに

もちろん先週土曜日の話。起きてもテレビニュースも見ず、またネットのニュースも見ずに前日から書いていたブログ記事を一本書いてアップし、それから本でも読んでいたか。
死傷者の数は、時間を追うにつれ増えていったようだ。もちろん僕は、ニュースサイトに張り付き、事あるごとにchromeの「更新」ボタンをクリックするというようなことはしなかった。「TLを眺めている」なんてこともしていなかった。

それから数日経って、銃の乱射が行われたライブ会場で当日パフォーマンスをしていたバンドがどういうものだったかを紹介する文章を読んだ。そこへやってきた人たちがほんとうに自由や平和を愛する人たちだということが怒りをもって伝えられていた。そして、ライブ直前のステージをたのしみに待つ多くの人たちの写真も紹介されていた。
そのとき、死者百数十人という文言にはじめてリアリティを感じられた。そのときまでいっさいのニュースを絶っていたせいもあったけれど、たいへんなことが起こったということがそのときはじめてわかった。といって、僕はなにもしなかった。なにもできるはずがなかったし、そのことについてなにか言うことができなかった。
アマゾンやYouTubeのトップ画面にフランス国旗が掲げられていた(?)のは知っていたし、Googleのホーム画面にも黒い喪章をあらわすリボンがあったことは知っていた。けれどもこういうときのこういうやり方は僕にはどうも馴染みのないもので、「JE SUIS CHARLIE」とか「I AM KENJI」だとかにもピンとこなかったくらいなのだ(そもそもシャルリー・エブドのあの表現は間違っていると思っているし、今回のテロ事件直後の諷刺画だってどう考えても品のあるやり方だとは思えない)。

そこへきのうの夜、たまたまYouTube上でZazという歌手の音楽を探していたら、「Paris sera toujours Paris」という曲を見つけた。
toujoursはalwaysというのはなんとか憶えていたが、seraともなるともうお手上げ。êtreの活用の一種だろうけど……と思っていたら、英語字幕でそこに「Paris will be always Paris」と書かれていた。一年以上前の曲だが、フランスではいまこれを聴いてなにがしかの感慨を抱く人もいるだろうと思う。

そしてきょう、永田和宏の『現代秀歌』について書かれたあるブログ記事を読んでいたら、永田が機会詠の重要さを訴えている部分が引用されていた。機会詠というのはある事件や出来事に対して歌を詠むこと。
それを踏まえて今回のテロ事件を考えたとき、これからしばらくのあいだは「パリ」という固有名詞が口に出されるたび、特にヨーロッパなどでは痛ましい感情が同時に喚起されることになるだろうということが直観された。広島や長崎と同様、いまでは福島という単語にも日本人のほとんどが敏感に反応してしまうように。
その経緯となる朝、僕は仕事を休みぼうっとしていた。そのことを記録しておく。 

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山口雅也の『日本殺人事件』を読了。

外国人が抱く誤ったイメージそのままの「ニッポン」を舞台としたミステリ。時代は現代なのだが、帯刀したサムライもいるし、ジンリキシャも走っているし、吉原まがいの公娼街はあるし、とまさに「ハラキリ、ゲイシャ、ニンジャ」の世界なのである。そこへやってきたトウキョー・サムという外国人が私立探偵となっていくつかの事件を解決するという筋なのだが……はじめの「はは、おもしろい」という驚きはすぐに去ってしまい、以降、すべてが予想の範囲を超えることのない展開にいささか退屈を覚えた。
なるほど、誰でも思いつきそうな設定をきちんと細部にわたるまで築き上げるという技倆はなまなかなものではないにせよ、その精巧なミニチュアをすべての人がよろこびたのしむというわけではないだろう。
設定そのものをたのしむ、という読み方ができなかった僕としては、「で?」という言葉が口から漏れ出でてしまうことを幾度封じたことか。「恥」や「わび」や「見立て」など、日本に特有とされる感覚や精神をうまく殺人事件に取り込んでいるのもよくわかる。ましてやこの小説は、著者の山口雅也が雑貨屋で英語で書かれたペーパーバックを見つけそれを翻訳して出版している、という体をとっており、その経緯を冒頭に「覚書」として4ページにわたって記すという凝った構造になっている。まさしく「見立て」の世界だ。
が、それでも「で?」と思ってしまう僕は、読者として贅沢なことを要求しているのだろうか。
麻耶雄嵩の小説のところでも書いたが、箱庭的な世界を呈示されても、どうしてもスケールの小ささというものが気になってしまう。構造が精緻であるからこその嵌め込まれたようなキャラクター描写に不満を感じてしまうし、初期設定以上の奇想天外さのなさ、つまりいわゆる「出落ち感」を払拭できないところに、傑作と呼ぶことをためらわすものがある。
十五年前に読んだ『生ける屍の死』は面白かった記憶がある(といっても、いま読んだらまた違う感想を持つかもしれない)ので、他の作品を読むことはやぶさかではないのだが。

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なんか書名は聞いたことがあるな、くらいの理由で図書館で借りた。三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』のシリーズ一巻目。
なかなか読むのに苦労した。文章も話もストレートでごくごく簡単なのだが、いちいちに腹が立って読み進めるのが大変だったのだ。
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これがヒロインの人。名前忘れた。
主人公の男(これも名前忘れた)が「本が読めない体質」でそれでも本のことがものすごく知りたがっている(意味がわからない)のに対して、古書店店主であるこのヒロインは、極度の人見知りだが、本のことになると一転しておしゃべりになり、また本にまつわることであれば驚異的な推理力を発揮するし、巨乳である(この品のない表現が実際に単語として登場する)……っていう設定なのだが、こういう設定だと知っていたらそもそも読まなかった。
たぶん読者の対象年齢は中高生くらいなんだろう。しかも男子。少年ジャンプとかで、ハーレムもののマンガ読んで温泉シーンとかでにやにやしているくらいの子たち。

極度の本好き(調べたらビブロフィリアって出てきた)とか古書店じたいが萌え属性とか萌え要素と呼ばれるようなものであるというのはわかるんだけど、それ以上の深みはない。総体としてはなんだか薄っぺらい物語だな、という感想を持つばかり。
同じ古書(といっても稀覯本だけど)を扱うのなら、ジョン・ダニングの『死の蔵書』のほうがよっぽど読み応えがあった気がするけど。

逆にいえば、上のイラストにピンとくるひとだったら、じゅうぶんにたのしめるのではないか。四話に分かれている物語も最終的にはきちんとまとまるし、それなりのミステリも提供されるので読めない本ではない。
ただ僕には、読んで価値ある本ではなかった。 

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先月はじめに実家に帰ったとき、父と話しながら何気なくテレビを観ているとNHKで『小さな旅』が放映され、大好きなあのテーマ音楽が流れた。
ふんふんと鼻唄まじりにクレジットを眺めていると、なんと「音楽 大野雄二」の文字が!

やっぱり!
ずーーーーーっとルパン三世のエンディングテーマ(『愛のテーマ』) に似ていると思ってたんだよ!
『小さな旅』のほうは、イントロはそんなことはないのだが、サビの導入部のストリングスとかもう大野雄二っぽさ(って今頃気づいたんだけれど)満開。

二十年近い疑問がついに氷解したのだった。 

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ひさしぶりの読書、という感じ。麻耶雄嵩は二冊目。前回は『隻眼の少女』で、今回は『さよなら神様』。
図書館でたまたま見つけたもので、作家についてまったく情報のないまま読み始めたのだが、どうやら事件があって謎があってそれを解く、というようなふつうのミステリ作家ではなさそう。
『隻眼の少女』は、簡単にいえばどんでん返しがやたらと起こるのだが、もともとトリックがどうとかにほとんど興味がない僕は、「どうせこれもひっくり返されんだろう」というようなかなり興醒めなページのめくり方をしていて最終的には「つまんなかったー」という感想しか出てこなかったのだが、ネットで絶讃している人の解説を読むと、ミステリというもののマナーにある程度精通しているとその面白さもわかるとしてあって、なるほどそういうものなのかもとは思ったのだが、そういうマナーとかジャンルの枠破壊などの意図は諒解したうえで、「それでもスケールちっちゃくねえ?」という疑問はついぞ払拭されないまま。
それは、たとえばキングの『11/22/63』を読んだときに物語の大きさに文字通り圧倒されたという経験をしたからで(北方謙三の大水滸伝シリーズでもいいよ)、メタなものや前衛的な表現は決して嫌いではないのだけれど、それとスケールの大きさは両立しうるもの(キングや北方謙三はある種古典的な作家だけど)であるということもやはり知っているので、こせこせした箱庭的実験室のようなものを手放しで賞賛することは、たとえミステリをきちんと順序立てて読んできたとしてもなかったんじゃないか、と思った。

で、あまり期待しないで読み始めた『さよなら神様』なのだが、こちらは案に相違してちょっとよかった。
登場人物たちの小学生が信じられないほど高等な会話をすることには初めからツッコまなかったし、そもそも神様が登場することについても疑問を持たずにいた。そういうものなんだろう、と簡単に受け容れることはできた。
キャラクターがどうのこうのではなく、また、トリックがどうのこうのという作品でもないだろうというのは『隻眼の~』で学んでいたので、どのように描かれるのかということに注目して読んだら、最後まですんなりと読めた。短編集なのでパターンのバリエーションが豊かだったということも読書停滞をしなかった原因のひとつ。
とはいえ、ミステリ通でもないし、たとえ通になっていたとしても、ここをあえて通りたいかと問われれば首を傾げる。こういうのが好きな人もいるだろうけれど、僕はいいかな。思考実験のように――ある意味思考実験なのかもしれないが――近しい人物たちが次々と殺されていくのにそれにほとんどショックを受けないような他のキャラクターたちに、こちらのほうがなんとなく飽いてしまうのだ。もちろんショックを受けているという「設定」にはなっているのだが、その描写に重きが置かれていないので、結果、読者としては「(このキャラクターは)なんとも思っていないんだろうなあ」と感じることになってしまい、それから「そういう感想を持つことじたい読み方を間違っている証拠なんだよ」っていう「ミステリ通」の声が聞えてくるような気がしてしまう。
ただ、エンディングの、それまでの物語をある意味放り捨ててしまうようなオチはけっこう好みで、談志『五貫裁き』を思い出させてくれた。

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書きたいのにブログを書けない時期がだいぶつづいているのだが、そのあいだにメモをとっておくことにしていて、さっきそれをちょこっと整理していたら、「満島ひかりを思い出すときにはまず吹越満を思い出して、それからひかりへと移行する。あと、吹石一恵も」というのが出てきた。たぶんこれは吹石一恵と福山が結婚するずっと以前に書いたもので、実際に僕はそういう思い出し方をしているのだが、ここからブログをどう展開させていくつもりだったのか。

「駒大苫小牧にはトマトがない」というメモもあった。これはたぶん苫小牧でフェリー火災があったときの直前のメモ。「甲子園の常連校で駒大苫小牧って高校あるよなあ、あれってコマダイトマコマイで、『ト』が一字足りなくてトマトにならなくて、どうにも惜しいなあ。苫大苫小牧だったらよかったのに」なんて思っていたところ、あの火災が起きてしまってしかも死亡者まで出てしまったので、直接は関係ないけれどちょっと不謹慎かと思ってお蔵入りさせたのだろう。そういえばあのニュースのとき、NHKニュースウォッチ9の無機質男が一度だけ「トマト……トマコマイでの火災ですが、」と言い間違えていたことを私は忘れない。
ちなみに上記メモの下には「真鯛、飯蛸、暇、生駒、」等の文字が列挙されていた。つまりコマダイトマコマイの文字を遣って一所懸命アナグラムを考えていたのだが結局飽きちゃったというところなんだろう。忙しい忙しいと言っていて結構ヒマしてたんだな!

「まともなやつはそもそも政治家なんて目指さない」
誰について憤慨したあげく書いたのかわからないが、これはただそのとおりと言うしかない(過去の自分に同調してもしょうがないんだけど)。

「地蔵さんヨダレかけあります 塔婆あります」
これはつい最近のこと、とある仏具屋の前を通ったら店のショウウィンドウに貼り紙されていた文句。
この貼り紙を見て、「そうそう、あのお地蔵さんのヨダレかけを新調したかったのよ、わたし。ここで買っていこうかしら」と思う人がいるのだろうか。塔婆についても同様の疑念が浮かぶ。
こういうなかなか効果の薄そうな広告は、どこか愛嬌があって好き。「仏具全品半額セール!」なんてのよりずっといいだろう。

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ここひと月ほど、HDDにあった音源ファイルの引っ越しで苦労している。
気づけば異常に処理の遅くなった外付けHDD(たぶん5年物)はイメージ上ではすでに煙を噴いている状態で、一刻も早く新たなHDDにその内容物を移さなければならんと着手したものの、なぜだか移動できないファイルの存在だとかiTunesのフォルダの誤指定とかで悪戦苦闘したあげく、音楽ファイルの重複や脱落だらけのフォルダができあがってしまい困惑の沼に喉元まで溺れかかっていたところ、それをたったワンクリックで整理できてしまうとかいう謳い文句の魔法のフリーソフトをダウンロードして利用してみたら、同じタイトル曲であれば誰がつくったものであろうと有無を言わさず1曲を残してすべて削除してしまうという、およそ音楽というものを聴いたことがない人がつくったんじゃないかというクソ仕様になっており、いやそのクソ仕様をそのまま利用してしまうクソユーザーが僕なわけであったのだけれど、おかげで、過去十数年にわたって築き上げてきた音源アーカイヴが、ぼこぼこの歯抜けアルバムのゴミ捨て場の様相を呈することとなり、身体中にまだ残っていたやる気の残滓を掻き集めに掻き集めてもう一度だけ奮起し、そのいちいちをチェックしてあらためて不足分を抱えたアルバムをレンタル(定額制)して元の状態に修復させようという、いまだかつてない大規模かつ長期的な計画がここに持ち上がったのであった。

いつも書いていることで、よく読んでくださっている方には耳にタコならぬ目にイカ状態であろうが、たとえ誤操作であろうとワンクリックでいろいろなものが一瞬にして消えてしまうこれらのデジタル機器に、われわれの生活における重要なものの多くを委ねてしまってよいものだろうか、という反語の例文のような文章がまた思い浮かぶ。
若い人がCDのことを「フィジカル」と呼ぶのを見たことがあってなるほどと思ったことがあったが、そういう「物質的存在」の確かさというものを、あらためて見直したくもなる(そういえば、若い人たちのあいだで「写ルンです」が新鮮なものとして受け止められているなんていう記事をどこかで目にしたばかりである)。
いやいやいやバックアップを定期的に行なっていればなにも問題ないんだ、と指摘する人もあろうが、そのバックアップを己にリマインドする手間と実践する手間とを考えると、やはり憂鬱な壁というものが僕の脳内に出現することとなり、利便性を鑑みれば今後もひきつづき仮想的存在を利用することにはなるのであろうが、その存在がある瞬間で雲散霧消することもやむをえずと半ば諦念をもってつきあうこととし、ほんとうに必要なもの・大切なものについてはなるべく実物を手元に置いておくことを心がけることにした。

それらと遠いようで近い話になると思うのだが、昨今のスマホにおける予測変換は著しいものだそうで、僕の場合はPC上のGoogle日本語入力がなかなかな働きをしてくれているのだが、たとえば「あ」と入力すれば「ありがとうございます。」くらいは変換候補に挙がってきて、Tabキーを何回か押せば謝意をあらわす文章をごく簡単にモニター上に表示させることができる。
けれども、誰か個人宛にメールを書く場合、僕はそれらの機能を使わずすべて手打ちするようにしている。【「あ」+「Tabキー」n回】の「ありがとうございます。」ではなく、【arigatougozaimasu.】の「ありがとうございます。」ということ。
そしてその後者の「ありがとうございます。」よりも、手書きの「ありがとうございます。」のほうを僕は好む。そちらのほうがより意味があるように感じているからだ。
世の中には「全部おんなじ、おんなじ。意味がないこだわりだよ」という人もきっと大勢いるのだろうが、僕からすればそういう人間の存在こそ意味がない。きみたちは僕にとって「その他大勢」でしかありえず、どうせ僕の人生に深く関わってくることもあるまいから。
SNSに自分の思いつきをだらだらと垂れ流すことが当たり前になってしまったいまでは――つまり「鍵付き日記」というものがかつてあったことをすっかり忘れてしまったいまとなっては――言葉の価値はより軽くなり、話されている内容との乖離はますます激しいものとなっている。アカウントを削除することによってやはりそれらの膨大な量のデータも一瞬に消えてしまうのだが、そのリセットそのものがSNSというツールのある種の前提となっていることも否定しがたい。

高島俊男のエッセイで、漱石全集に収められている書簡を漱石が生涯に書いた手紙のすべてだとまさか思っちゃいませんよね、というような内容があって、つまり昔はほんとうに細々としたことにも手紙を書いていたので、筆まめな人だったら何万通もの手紙を書いたはず、ということが書かれていた。
だから、重要なもの以外はときおり庭でまとめて焼かれることとなるわけだが、そういえば谷口ジロー・関川夏央のマンガ『坊ちゃんの時代』でもそのようなシーンは描かれていたような気がする。
「ほんとうにこのアカウントを削除してもよろしいですか?」という警告文の下に表示される「はい」をクリックするのと、秋の高い青空のもとで手紙の束を焼く(ただしこれらは他人の文章ではあるのだが)のとではどだい趣は異なる。
紙の焦げた匂いを嗅ぎながら過去の一部が自分から離れていくことを確認することと、手紙に「ありがとうございます。」と書くことと、棚にあるCDあるいはレコードを1枚づつ持ってきてプレイヤーにかけて音楽を聴くことにはどこか共通点があるように思う。「贅沢な」とか「こだわりの」とか「時間をかけた」などという形容詞は必要としない、もっと単純な「確かさへの感触」というようなものを、これからも僕は信じていく。

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