とはいえ、わからないでもない

2015年12月

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ハロー、ハロー? DRTK、DRTK、こちらはムーン放送局です。月面「静かの海」の水面に船を浮かべ海賊放送を実行中。ハロー、ハロー? 聴こえていますか?
こちらは天気晴朗かつ波浪なく嘶く馬を泣く泣く杭に結わいつけ駆けつけた警官たちの執拗な追跡を振り払ったところ、振り逃げ振り飛車振り子時計の文字盤はただいま2015年12月31日の午後11時を指し示しあと一時間もすれば年は百代の過客を伴うて新たな姿へと変容を遂げるところ、心も身もほぐしたついでに煩わしいほつれほころびもこの際ほどいて舫を解き謎を解き卵を溶き時の過ぎ行く方は振り返らず行く末だけをただ見定めているところ、です。ハロー?
この放送は、コマーシャルメッセージも、常連も、過剰なデコレーションも、いいかげんな思いつきもない、ただ一回だけ一夜限りのものです。受信できた人はラッキー。かといって受信できなくてもそれはそれで幸運かも。ここにあるのはただの駄弁りお喋り鳥の囀り、ピーチク・パーチク・トゥイート・トゥイート。トゥイーティー&シルベスターがいつもの追いかけっこをつづけるあいだ、ジルベスター・コンサートもいよいよ大詰めとなり、詰め込みすぎのオーチャードホールも昂奮の頂点へとアタックを掛けはじめ、ついに会場から音楽の漏れだす始末。こちらも遠い月から地球へと音楽を一曲届けてみます。Herbie Hancockで『Maiden Voyage』。
音楽という観点で今年を振り返ればアイドルソングに浸り切っていたのは、特に夏。朝四時半くらいに起きて頭をシャキッとさせるにはBPMのはやい音楽を聴くのが、方法の良し悪しは別としていちばん手っ取り早かったのです。朝ならスロウなリズム&ブルーズがいいという人もいるかもしれないけれど、僕はとにかくアイドルソングでした。ももクロでちょっと盛り上がったけれど、『あまちゃん』のブームやAKBの『恋チュン』の大ヒットによってちょっと醒めてしまったので、さすがにこれからアイドルもないだろう、と高を括っていたのがはるか昔のよう。去年の『くちづけキボンヌ』の発見によって、とりあえずは手探り足探りの状態からでんぱ組.incの探索を始めることにしました。

どこから話し始めればいいのかわからないのですが、アイドルって――少なくともいまは――みんなが理解できるもの、みんなが好きになれるもの、ではないように思っています。国民的、という形容詞をともなったグループもありますが、そういう時代じゃないと思う。善悪の判断は別として個人が幾枚幾十枚もCDを買っているという事実が厳然としてあるのに、全体をまとめた数字だけを見て「国民的」というのには僕は違和感を持っていて、きっとそれだからこそ「総選挙」などというゴールデンの番組が存在したのでしょうが――いまもしているの、かな?――、流行の派生というものが、もはやテレビからお茶の間へという単純なルートだけではなくなった現在、「みんな」という言葉の不確かさをもう少し意識したほうがいいはずです。これはネットだけをウォッチしている人にも言えることでしょうが。
そういう背景を認識すれば、アイドルという言葉じたいも変化しているのかもしれません。「みんなが好きな」とか「大人数が夢中になっている」なんていう形容を、「アイドル」という言葉は簡単に想起させるのかもしれませんが、「各人が個々に想いを寄せている対象」というくらいの認識のほうがより事実に近いのかなと思います。こういう認識が共有されていないがために、現今のアイドルというものに対して「おれが思っているほどには、かわいくない」とか「わたしが期待するほどには、歌がうまくない」という批判が起こりやすいのかもしれません。
そういう批判へは「個人の好みでしょ」とばっさり切り捨て御免としてしまえばいいのですが、もうちょっと批判者へと寄り添う答えがあるとするならば、あなたはまだわからないのかもね、というのがあります。単純な一般論として、好悪に絶対はなく、また優劣もありません。しかし別の角度から見ると、その分野への習熟度の度合いによって理解が変化する場合も少なくありません。フランスの熟成したチーズをただ臭いとしか判断できない人もいれば、涎を垂らして端から端まで美味の極みをしゃぶり尽くす人だってやっぱりいるわけです。「かわいくない」とか「歌が下手」というのはもしかしたらその対象の一部しかとらえられていないのかもしれなくて、もうちょっと目を凝らしてみればその奥にある魅力を見つけることが、ひょっとしたらできるかもしれない。そういう気持ちになってもらえれば、少なくとも頭ごなしの批難は少なくなるんじゃないか、とちょっと楽観的に考えているところです。
あるいは、「臭い」がひとつの魅力ととらえる人だっているわけで、美人じゃなくていいし歌は不安定でもいい、と考えている人だって少なくないはず。実はこれは僕自身のことなんですけど、目の覚めるような美人とか心に響く歌唱力なんてものは端から期待していなくて、むしろ、より素人っぽいほうを応援したいという気持ちが強いのです、人やグループにもよりますが。巷間でよく話される、AKBのメンバー選出は「クラスでいちばん人気の女の子」を目指していない、というのは事実なんじゃないかと思うし、そういうニーズは少なくないんでしょうね。

まあ、そういう面倒な「論」はさておくことにしましょう。ここまでちょっとした時間をかけて大いなる予防線を張ってきたわけですけど、好きなものを好きなだけ話すのがこの放送の本義ですので、ここからは好きなところだけをかいつまんでいけば……さっき言ったみたいに、でんぱ組の『くちづけキボンヌ』の6人バージョンでのPVをYouTubeで見て以来、彼女たちと、彼女たちのファンとの関係性みたいなものにグッと来てしまって――それはもしかしたらいまでも勘違いのままかもしれないんだけど――、そこから「ファン込み」で好きになって、楽曲にハマるようになりました。ここでいちいちの曲名を挙げていくことはしませんが、YouTubeやCDアルバムの視聴だけでは物足りなくなって、ついにはライブのブルーレイディスクまで観るようになってしまったんですけれどもこれが結局は正解で、13年の東西野音や、14年の武道館のライブはアイドルらしさが詰まったかわいらしくとても魅力的なステージでしたが、かなり客観的に見ても、今年2月の代々木第一体育館でのライブはほんとうに素晴らしかったです。楽曲やダンスやメンバー個人個人の一所懸命さは言うまでもありませんが、全体のステージ構成や仕掛けが、僕のようなスーパー素人にとっては衝撃的で、これは完全に舞台芸術といわれる領域にまで入っている、という感覚を持ちました。このようなパフォーマンスを実現させるためには、当人たちの「頑張り」のほかに、お金や才能を持った人たちの助けがまた別に必要なわけで、そういう大規模なお金と人とが動くようになるステージに良くも悪くも彼女たちは突入してしまったという点で、とりあえずここがひとつの頂点なのかもしれない、と生意気ながらに思いました。
彼女たちの『IDOL』のカバーヴァージョンを知って、そこからBiSのオリジナル版を知るという遡行・逆流もありました。はじめはなんだかうるさい品のない子たちだなあと嫌悪感しか浮かびませんでしたし、それ以前に炎上商法そのものというマーケティングの手法を仄聞していたので、彼女たちにはずっと距離を置いていたのです。それが、何度か再生していくうちに次第に耳にすんなりと入るようになって、すんなりどころか、かなり気に入るようになってしまい、これまたその足跡を遅まきながら――なんといったってもう解散しているわけですから――追っていき、解散後の各メンバーの道のりを辿り、柳の下の二匹目のどじょう、つまりBiSHを満を持して注目している、というのが現在のところです。彼女たちにもすぐれた楽曲が多く、やはりいちいちを挙げていくことはできませんね。きょうはさらっと流しますが、ほんと大好きな曲が多いです。
ほかにも、カバーのみというコンセプトのアイドルネッサンスの存在は、僕の「アイドル=高校球児説」を裏付けてくれます。繰り返しになってしまいますが、アイドルにとっては、「顔がかわいい」とか「歌がうまい」とか「ダンスがうまい」とかは瑣末なことに過ぎなくて、「あの子が頑張っているのをただただ応援する」とこのことに尽きるのではないか、と。そのうえで、「かわいい」「歌/ダンスうまい」という要素が加味される、とこう考えたほうがいいと思っています。地元の高校球児が野球大会に出場するってときに、バッティングがどうとか守備がどうとか以前に、一所懸命やっているかどうかで応援を決めている人は少なくないはずです。そりゃうまければうまいほうがいいのはあたりまえですが、その技術が低いからといって応援の熱が冷めるものでもないし、かえって火がつく場合だってあるはずです。判官贔屓であれば、なおさらです。
と、アイドルソングの話はここくらいまでにしておきましょうか。まだまだ言いたいことはあるけれど、とりあえず、ピクソンで『恋なんです』。
小説でいえば、今年もあまり本を読むことができなかったので、トップ3を選ぶのでさえ苦労します。といってもベストはキングの『11/22/63』で、壮大な物語の力強さというものを感じることができました。めちゃくちゃ適当に要約してしまえば、世界とひとりの女性を天秤にかける話で、下手したら冗談にもなりかねないこのスケールの大きさは、アメリカという国の文化や歴史とは無関係ではないはずです。そして、この力強さを後ろから支えているのが、膨大な固有名詞や歴史的事実。小説にリアリティの総体という側面を求めるのであれば、SFという装置があるにもかかわらずこの小説ではリアリティが成立していて、それに圧倒されます。だからこそ、冗談になるどころか感動的な結末を味わうことができます。

マンガは、小説よりさらに読まなくなりました。偶然知った大庭賢哉の『屋根裏の私の小さな部屋』は嬉しい発見で、オールタイム・ベストにも入れたくなる作品でしたが、それ以外はほとんど手に取ることすらありませんでした。ひとつ、肥谷圭介と鈴木大介の『ギャングース』は、その製作動機からして応援したいマンガだと思いました。特殊詐欺犯たちから強盗を働く若く貧しいギャングたちの話なのですが、かなりノワールな描写が強いのにも関わらず読者を強く惹きつけます。物語に通底しているのは、子どもの貧困。そういう状況で育った子どもたちが、はたして自分たちを虐げるかあるいは無視してきた社会に対してどのような思いを抱くのか。これだけ聴けば、もしかしたら海外の話かと思われるかもしれませんが、日本の話なんです。なにもこれは、ごく一部のものすごく特殊な世界の話ではないと思います。
特殊詐欺犯たちがものすごいトレーニングを積んだうえで振り込め詐欺を働く背景として、「それを奪っても死ぬことがない人間たちから金を奪うことのどこが悪い」という論理がこのマンガでは描かれます。もちろんこれは一般論から言えば盗人の三分の理でしかないはずですが、ただ、生まれた時点で圧倒的な逆境に立たされ放置されてきた人間たちが、一般論に従うべきだというのもどこか理窟に合いません。そしてこのような「悪の論理」は、現在世界中で起こっているテロリズムの一部でも、その行動基準として通用する部分があると思います。虐待、迫害、排除、差別、貧困。それらが生み出す社会的なマイナスは厳然としてあるはずで、物語作者は、欄外スペースを駆使して膨大な事例を示し、問題について熟考することを促しています。1巻にこういうト書きがあります。
この世は金がすべてだ
もしも金もないのに「金なんかいらねえ 愛があれば大丈夫」
とか言ってるヤツがいたら そいつは……
ただのカモか ただのバカだ
容赦なくタタいて全て奪っちまえばいい
と。けれども、100ページほど後にはこういう言葉が出てきます。
この世は金がすべてだ
金がなくても愛さえあればとか言ってる奴はクソだ
だが――
人は金だけでは生きてはいけない
と。作者自身が「救いようのない世界」と書いていますが、けれども、このマンガのなかにはちょっとだけの希望があります。そして、読んでいる人たちへの問いかけがあります。
それではギャングということで、『Lock, Stock & Two Smoking Barrels』のサウンドトラックから、Dusty Springfieldで『Spooky』。
落語のことを話そうとすると、どうしても米朝がことし亡くなったことに触れなきゃいけません。すでに晩年は高座に上がることはありませんでしたが、けれども米朝という噺家は、僕みたいな落語素人にとってもきわめて偉大な存在であって、亡くなったことにとてもショックを受けました。
よく若い落語家の高座へ行くことをやたらと勧める人がいますが、僕にはその心境がわかりません。だって世の中には米朝の音源があるんですよ? 藝術っていう呼び方をしてしまうのは誰にとっても据わりの悪いものになってしまいますが、でも、藝術に劣化したコピーは要らないんです。
落語という世界には米朝という人がいて、ものすごい業績を残している。それはとても大切なことだと思うんです。伝統に固着しろとかそういう話じゃない。米朝がいた、ということをまず諒解して踏まえたうえで、その先の、たとえば枝雀の存在を考えてみる。枝雀が進化系ということでもなくて、米朝を咀嚼したうえでのあの落語だと思うんです。咀嚼しきれたかどうかはわかりませんが――小佐田定雄の『米朝らくごの舞台裏』なんかを読むとそうは思っていなかったように思いますが――とにかくあの先の落語として枝雀落語が存在するはずです。そのうえでさらに落語をやる必要があるのか、という自問がなければとうていスタートすらできないように僕みたいなトウシロウは思ってしまうのですが、さて若い落語家たちはどうなんでしょう? 多様性とかニッチなんていう言い訳めいたフレーズはあくまで商売用のことであって、藝術とはまた別の話。僕が偉そうに言うことじゃありませんが。

今年はふたつの落語会に行きました。四月に談春の独演会。五月に吉弥の独演会。そのどちらも客が最悪でした。前者の会では、携帯電話が一度鳴りました。大ネタ『百年目』の最中に。それもそのはずっていうか、みんな噺と噺のあいだにすぐスマホの電源をつけてSNSやったりメールしたりするんですよね。大阪なのに談春って人気あるんだなあ、と思っていたのですが、やはり小休憩のとき、近くのおばさんたちが集まって「意外に面白いね」と『へっつい幽霊』の感想を言って、「ねえねえ、来週はどこに行く?」と相談していました。そこから想像するに、おそらくご婦人方で集まって週にいっぺんだか二週にいっぺんだかでどこかに行く、ということをやっているのでしょう。その一環で、はじめてだけど落語に来たということのようです。そこは大阪のホールだったので、ふつうに考えれば上方落語を観に行きそうなものなのに、なぜ東京落語の談春なのか。これが、笑点メンバーというのならまだ話もわかるのですが、談春……そこで気づいたのです。談春が『ルーズヴェルト・ゲーム』に出演していたことを。ははん。半沢直樹から池井戸系列でルーズヴェルトへ行って、そこで談春を知り、それなら観に行ってみようか、という流れか。「談春が『百年目』? ちょっと観てみたいな」と思ってやってきた僕とはまた違う動機だったようです。
お客さんの全員がそういうわけではなかったと思います。現に、僕の左隣にすわっていたひとりの女性は、オペラグラスで覗いて、マクラのいちいちの話に頷いたり笑ったりしていい反応をしていましたから。けれども、全体的には、あまり慣れていない人の割合が多いという印象でした。僕の前の老齢の女性は、小休憩のあいだに係員を呼びつけて「声が小さいからマイクの音を上げてもらえない?」と注文をしていました。どうやら、お客が笑っているあいだにも話が進んでしまうからよくわからない、ということらしい。年をとったら耳が悪くなるということはわかるけれど、ちょっとそれは難しい注文かな、と思いました。自分の聞こえなかった部分はなんとか想像して補う、ということは落語に限らず映画でも音楽でもあることなんですが、そういうことにあまり慣れてもいないのかなあ、と。だからといって嚙んで含めるように話すというのは、もはや落語じゃなくなってしまいます。まして談春は、東京の威勢のよい口調がウリのひとつなはず。ここでも、鑑賞の選択ミスという問題が僕の頭をよぎります。
ちなみに、『百年目』はすばらしかったです。談春なりの解釈がきちんとあって、サゲを変更している点にも驚きました。ただ、師匠の談志と同じように、噺の途中に話者がメタ的に介入するという手法をいくつかやっていて、そこに賛否が分かれるだろうとも思いました。米朝は話者の介入をできるだけ排除するという思想で、僕もできるだけそのほうがいいと思っていますが、三十年やっている談春がそういう選択をしているんだからそれでいいじゃねえか、という意見を持ちました。なお、僕は米朝の『百年目』を米朝ベストと思っているんですが、談春ラストもかなりよかったです。完璧にしか思えない『百年目』に手を加えるというその料簡にまずあっぱれと思いました。これこそ、先人たちを踏まえても落語を演る意味というものがあるのではないでしょうか。
なお、余談ですが、小佐田定雄が米朝の『百年目』を落語全体のベストに挙げていて、ものすごく嬉しかったです。なお、枝雀は『たちぎれ線香』ひとつが、ほかのすべての落語の噺の合計と匹敵すると考えていたそうです。それもなんだか枝雀らしくていい話。僕は枝雀だったら『高津の富』がベストです。
ここまでだったらいい話で終わるのですが、そうはいきません。このサゲのちょっと前にいちばんグッとくるセリフがあったのですが、それを言ったときに、僕の近くにすわっていたおばさんが感動しました。感動するのはいいのですが、「あら~」とふつうに声を出してしまったのです。途端に現実に引き戻されたといいますか、家にいるのと勘違いしてねえか?と本気で腹が立ちました。

吉弥の会ですが、ここの客はもっとひどかったです。会場じたいもあまりよくはありませんでした。図書館のなかにあったホールなんですが、等間隔に置かれた椅子はすべてフラットに並べられていたので、前に背の高い人がすわればものすごく見づらいのです。で、僕の前にすわったのがやたらと座高の高い人で、しかも頭をふらふらさせるので、僕もそれに合わせて首を左右に動かしたり片目をつぶったりしなければならず、見ることそのものに苦労しました。
左隣にすわったおっさんは、途中からガムを嚙み始めました。右隣のおっさんは短い足を組んで、ペットボトルのふたを「プシュッ」と音をさせて開けて飲んでいました。そして、当たり前のように携帯電話がどこかで鳴りました。
噺に集中することができなかったので適切な判断はできないのですが、吉弥が最近取り組んでいる新作には、やはり新作の持つ不自然さを感じました。新作はどうしてもくすぐりの連続になってしまいがちなのですが、そういうものって落語っぽくないというか、落語で演る意味をあまり感じないんですよね。だったら漫才やコントでもいいじゃんっていう。このあいだ古本で読んだ宇野信夫の『芸の世界』という文庫にこんなことが書いてありました。
講釈や落語にテーマはありません。描写はあるけれども、主題というものはありません。近来の戯曲小説には、それがいかに駆け出しの作家のものであっても、テーマはあるのですが、その代り描写はないのです。それが、私にはつまらない。テーマと描写と二ツかね備わったものこそ、優秀な戯曲、すぐれた小説といえるのです。
(廣済堂文庫版 38p) 
前半の部分に注目すると、描写がない落語にはいったいなにが残るのかという話になりますね。
とにかく、僕の観劇体験のなかでも、公演中に携帯電話が鳴ったのは初めてのことでした。地域性の問題なのか、客層の問題なのか、はたまた落語の公演というものはこういうものなのか。とにかく、数年は行かなくてもよいと思うようになりました。残念なことですが。
落語の話はこれくらいにしておきましょう。ここで音楽を。この涙よ乾け。Amy Winehouseで『Tears Dry』。オリジナルバージョンです。
あらたまの 年立ち代はり 種々の もの捨つれども 捨て切りしと 思へど見遣れば いかにせむ 残りしものの 其処にあり いつともわかぬ 年次(としなみ)に 抱へわたれる 吾が荷ぞ重き

明日は正月で新しい年の始まりの日だけど、きょうとの差なんてほとんどない。悲しいことは悲しいままだし、辛いことは辛いまま。24時間営業のコンビニやスーパーは煌々と光っているし、そこで働いている人に15と16の差なんて当面は関係ない。当面のあいだは。
インターネットの海上にも大勢の人間が船を出している。それぞれがそれぞれの海賊放送局となって、見えない方向に向かってなにごとか――言いたくて言いたくて仕方のないこと――を発信している。あともう少ししたら、そこに「おめでとう」というメッセージでできた巨大な光の帯を見ることができる。ちかちかと光るひとつひとつの小さな点である僕たちは、そのメッセージのやりとりで心の拠り所のひとつを確認している。いい悪いは別として。
「今年もいろいろとあった」という感慨はきっと来年に活かされないだろう。去年も同じようなことを言っていた気がするから。それにしたって、いくつかの出来事で僕は心を動かしてもいる。それもたぶん去年と同じなのだ。去年の波は今年の波をつくり、また来年の波のもとともなる。九鬼周造は随筆『青海波』で新春を言祝いでいる。
年の波は同じ波長で無限の岸へ重畳するであろう。私の乗っている小舟がどのあたりで転覆するか。そんなことはどうでもいい。波、波1、波2、波3、波4、波5……波n+1。見渡す限り波また波。無限の重畳そのものがとてもすばらしい。
ハロー、ハロー? DRTK、DRTK、こちらはムーン放送局です。月面「静かの海」の水面に船を浮かべ海賊放送を実行していましたが、もうすぐそれも終わります。ハロー、ハロー?
最後の曲です。Tom Waitsの『New Year's Eve』。それではみなさん、おやすみなさい。よいお年を。

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ついこのあいだ弟と話していたことだが、総体的にいまのアイドルファンっていうのは無私の部分が見えて非常に好ましく感じるけれど、対して談志とかジャニーズのファンって、ファンであることを、周囲やその対象にアピールするエゴ行為に走りがちで、このふたつはきちんと分けて考えないといけない。特に後者は、対象への批判をまるで自身への人格攻撃のように感じるのか、批判者に対して徹底的に攻撃的になりがちだ。
28日にテレビ放送された『赤めだか』についてなにかを話そうとすると、上に書いた連中の目に止まりそうなので非常に面倒くさい。「赤めだか 談志 違う」とか「赤めだか ニノ かっこいい」なんていうキーワードで検索するろくでもない輩どもがわさわさと集まってきて、てめえの腹の中かてめえのSNSだかに感想を吐きだしゃいいのに、品性も知性も感じられない便所の落書き行為をしてくる可能性がどうしても払拭できないのだ。
と、ここまで書いてきたのはすべてこれらろくでもない輩どもへの予防線であり、ここまで読んでもなおうんぬんしてくるのがあったら、そりゃもう文字が読めないレベルの人間なのであり、無視するだけ。


はじめに全体的な感想を書いてしまえば、「ああ、こんなもんかな」とか「ああ、こんなもんだろうな」というところ。
いいところはよかったけれど、ずっと前に原作を読んでいるので物足りないところはやはりあった。まあ、原作はああだったから、とか、落語というものはそもそも、とか、立川流ってうんぬんかんぬん、ということはやらないし、できない。落語をサブカルの文脈で語るやつをネットでいくつか散見するようになって、とたんに落語について書くのが恥ずかしくなってしまったのだ。

談志役のたけしは、現段階で談志を演じるのは良くも悪くも(この良し悪しは五分五分ではない)たけししかいないだろう。後述するが、今年の四月、大阪に談春の独演会を観に行って、そこで『赤めだか』のドラマ化の話がすでに出ていた。はっきりとは憶えていないのだが、談志をたけしがやるということが、条件というわけではなかったがひとつのヤマだった、みたいなことを談春が言っていた記憶がある。
誰が演ったって「家元はあんなんじゃなかった」というような(面倒くさい)批判は必ず出てくるはずで、全員を納得させるなんてことは、もしかしたら談志自身が演ったとしても無理だっただろう。それであるなら、談志本人とゆかりがあり、しかもお笑いという世界でトップの地位にある(とされている、としか書けない)たけしであれば、最大公約数的に批判を躱せるはず、そういう思惑が制作側には絶対あっただろう。
また、たけしのあの演技だが、最初はいつもどおり「なんだこりゃ」なのだが、観ているうちに慣れていって、しまいには「あれ、これってたけしの弟子の物語だっけ」となってしまった。演技の上手下手で言えば「下手」の部類に入るのだが(たとえば、演劇学校で一年生に演技を教える際、誰もたけしを模範にしなさいとは言わないだろう)、そういう上手下手の次元を飛び越えて存在感を見せつけていた、という意味では非常に面白かった。
上手下手の枠とは別に、似ている似ていないの枠も彼には関係ないように見えた。少しでも似せようとするとかえって粗が目立ってしまうだろうから、堂々といつものたけしを演じていたのだろう。視聴者の多くが談志の生前の姿をあれほど見て知っているのにも関わらずああいう演技を通したというのは、やはり興味深いものがある。一部の視聴者は、たけしの演技に談志の面影を探そうとし実際に見つけもしたのかもしれないが、しかし、たけしの演技はそういう思惑とは本質的にどこかずれていた(ずらしていた)と僕は思うし、そこが面白かったのである。
あと、アドリブと思わせる部分がいくつかあって、たとえば冒頭の「立川」をなんと読むか、というところで「たちかわ、だよ」みたいに言うところがあって、あそこで笑う場面、スタッフらしき笑い声も一緒に入っていた(ように聞えた)が、あの演出はとても不思議で魅力的に映った。 

つづいて一門に移っていく。 
香川照之の志の輔。うーん。いわゆる「江戸の空気」が感じられなかった。よくバカにされたり本人が自嘲するように志の輔が富山人ということを表現したかったとか? なんというか、もうすこし噺家の口調というものを真似してもよかったのではないだろうか。それとも、志の輔本人があんな感じの人なんだろうか。けれども、一門の四人が二ツ目昇進披露の口上もなんとなく違和感があった。
北村有起哉の談々。北村有起哉は大好きなので、もっと演技しているのを見たかった。
宮川大輔の関西。これが弟子連のなかではいちばんよかった。もともと大輔のことを好きだったということもあるけれど(『WINDS OF GOD』のときからだから、だいぶ古い)、彼がシーンのオチを引き受ける場面が多々あっていわゆる「おいしい役」だった。ただ、『七度狐』をちらとやるところは、古い大阪弁(と書くと、大阪弁なんてないわ、というツッコミが入りそう)がぎこちなかった。昇進披露のときの高座は、「すべらない話」っぽかったな。
濱田岳の志らく。彼のことはあまり好きではないけれど、視線をあまり合わせない感じとかは志らくっぽいのかな。志らくに興味がないので、彼が出てくるとあまり集中して観ていなかった。
そして、新井浩文のダンボール。原作だと談秋。彼の存在が『赤めだか』という物語の核にある、と原作を読んでいた人なら思うかもしれない。僕はこの小説を二分して前半を青春小説、後半(といっても最後のほうだけ)を師弟物語としてとらえていたのだが、この前半の象徴が談秋だと思っていた。現在の視点で見ればパワハラによる軽度の鬱病、の一言で終わってしまうのだが、それがいいとか悪いというのはあくまで外部の人間の視点であって、中にいる人たちがそういうのをある程度わかったうえで飛び込んでいるのだから、周囲の批難はお門違いという気がする(「代弁して正論を吐くことにどんな価値がある?」という意味において)。そのような矛盾に満ちた世界で敗れ去っていく者の哀愁を、新井浩文は今回もほとんど立っている姿だけで表現していた。だから、彼の演技は登場時間の短さに反してじゅうぶん印象に残ったのではないか。

二宮は、思ったよりは悪くなかった。たしかに『浮世根問』をタクシーのなかでやるところとかは「おお!」と思わせるものがあった。おそらく一所懸命に稽古した賜物だろう。ただ、そこ以外は演技を観ていてこちらに期待させるものとか、どきどきさせる部分などがなく、流して観てしまった。そういう観方のほうがよくないのだろうが、はじめに「こんな感じかな」と思ってそこをいい意味で逸脱することがなければ、客としては飽きてしまうのだ。
内容や結末を知っているから、ということではなく、彼の演技からはどうしても予定調和の匂いがして、なんとなくうまくいくんだろうね、と思ってしまう。そういう脚本だ、といえばそれまでなんだけど、そこを越えていくような演技をもって魅力的というのではないか。

あとは……岸本加世子と寺島進とたけしがいると、たけし映画みたいだな! これで大杉漣が出てきたら満貫。特別出演の人たちにはまあ触れないでもいいか。勘九郎は親父の声に似てきた気がした。前からそうだったのかな。
喬太郎がちらと出て小銭を数えていたけれどあれは『芝浜』での小判の数のかぞえ方。前に調べたことがあって、魚河岸では
ひとひと(一・一)  
ふたふた(二・二)  
みっちょうや(三)  
よっちょうや(四)  
いっちょうや(五)  
むっちょうや(六)  
なんなんや(七)  
やっちょうや(八)  
きゅうちょうや(九)  
とうよとな(十) 
とかぞえるそうな。いま調べ直して気づいたんだけど、この記事を書いた人、そういえばこのあいだラジオに出演していてすごく面白いことを言っていたな。


このドラマに対してものすごく面白かったと言えないのは原作を知っているからで、もうちょっと言うと、後半の小さんと談志の話がないから。でもこういう部分をドラマのなかに盛り込んだとていったいどれくらいの人がたのしめるのか、ということでカットしたことはある意味正解なんだろう。
けれども、『赤めだか』の白眉はやはりラストの談志のセリフであり、僕はこの部分にエドモン・ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』のエンディングを重ねてしまう。それくらいずしんとくる言葉だし、それまで書かれていた小さんと談志との関係性や、談志とその弟子たちとの関係性が一瞬にして明らかにされてしまう。だからこの部分がないと、『赤めだか』をドラマ化する意味合いが半分以上ないように感じてしまうのだ。言っても詮ないことなのかもしれないが。

談春が独演会で言っていたこと(うろ覚え)。
ドラマ化の話が出た際に、談春役は「二宮くん」だということも発表され、会場はちょっとざわついた。談春は「彼が落語を話している映像を観たけれど、うまかった」と褒めていたが、ひねくれた僕は「半分以上はリップサービスだろう」と勘繰っていた。
リリー・フランキーにドラマの配役のことを話したら、「談春=二宮くんっていうのは、ちょっと美化しすぎじゃない?」と茶化されたらしい。
「自分が決めたんじゃないのに、とは思いつつも、ほかにこういう『実写化』でおれよりひどいのいないかな、と考えてみたんです。……で、いました。おれよりひどいのが。誰だと思います? ……向井理さんがやった水木しげる先生。あれはひどいよね」
もちろん会場は大爆笑だった。

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ちょっと前にニュースサイトで、低所得者層ほど喫煙率は高いというようなヘッドラインだけを見て、身も蓋もないなと思った。けれども、身も蓋もなくてもそれが現実のある側面をあらわしているという実感も同時にあったので、なるほどと頷く部分もあった。

タバコについては、受動喫煙による周囲への悪影響、歩きタバコの危険性、灰および吸い殻のポイ捨てなど、すぐに連想されるものだけでも多くの問題を含んでいて、「いまどき、」と多くの進歩的な人々からすれば苦言を呈したくなってしまうのだろう。「いまどき、タバコを吸っているというだけで、時代を逆行する精神の持ち主というのは明らかだ」と。
そこに価格の上昇と来ている。軽減税率の適用拡大のときに財源確保のためにタバコ税を上げるという話がちらと出た気がしたがあれはどうなったのだろうか。そうでなくても、いまやタバコは高級品だ。毎年八月の頭には地域の一斉草刈りがあって、そこでの世間話でたいてい「タバコはいま一箱いくらくらいするのか」という話が出る。主に健康に係る問題から老人連中の喫煙率も年々低くなっていき、喫煙者はマイノリティもいいところだ。
僕だってタバコの煙はずっと嫌いで、男女関わらず喫煙直後の人間には近づきたくない。遠くからタバコの香りがするくらいならそれほど気にならないのだが、いったん人の口の中に入ったり衣服に染み付いたりすると僕にとっては悪臭に感じられるのだ。そういう意見の人は僕以外にもきっと多いだろうと思う。
で、いつのまにか嫌煙傾向が一般的になっていって、公共の場所でタバコを吸えるところは少なくなって、飲食スペースでも分煙は多く見られる。

でもまあ、ここらへんくらいまでにしておかないとな、という気も一方でしている。
「喫煙」というのは、自分の嗜好にまったく合わず、理解し難い行為だと思っている。けれども、それを嗜む人たちのスペースや機会というのをこれ以上奪うというのは、非常に危ない方法だとも思っているのだ。
喫煙を「野蛮な行為」と見なすだけならともかく、それを排除しようとしてしまえば、いつか自分が排除される側に立つ危険性がある。たとえば飲酒について、それを「野蛮だ」と思う人のほうがマジョリティになってしまったら?

飲酒することによって、傷害、セクハラ、パワハラ、飲酒運転、不慮の事故の加害/被害、その他膨大なトラブル等が生じる蓋然性を高めているのだとすれば、世の中からアルコールというものをなくしてしまえばどんなにいいだろうか、と下戸の人なら一度くらいは思うかもしれない。
実は僕も、世の中からアルコールがなくなってもあまり困らない人種なので(おいしいワインをもう飲めなくなるというのはちょっと寂しいけれど、死ぬほど困るというほどでもない)、いつか下戸の価値観が支配する世の中になったとしても結構うまくやっていけると思っている。
が、それでもやっぱり、禁酒時代への突入には反対だ。コミュニケーションの潤滑油とか百薬の長などとはまったく思ったこともないが、嗜好の自由を阻害する社会の動きはたいへん危険で、それが非の打ち所のないような正論で武装されている場合はなおさらのこと。自己肯定感にあふれる「正しさ」ほど怖いものはない。


で、話はがらりと変わるのだが、僕にだって嗜みというか個人的に愉しみとしているものがあるのだが、こういうものというのはえてして(他人からすれば)変ったもの・眉を顰めるものになるので、あまりおおっぴらにはできない。
そのなかでもブログに書いても大丈夫な程度のものが三つほどあって、ひとつはタバスコの蓋の内側の掃除。
むかし暇で暇で気が狂うくらいのレストランのバイトがあって、そこで暇なときに(ということは、いつも)各テーブルに置いてあるタバスコの瓶を集め、その蓋の内側の溝に溜まった滓を爪楊枝でほじくり、取り除くという作業があった。古くなって固形化したタバスコ汁の塊をちょこちょこと爪楊枝でつつき、ゴソッとこそげ落とすというこの単純作業は、涎がでるほどに気持ちがよかった。暇にも関わらずそこには他にバイトが数人いて(いい時代だったんだろう)、みなで手分けしてその作業をやったのだが、本心では「ああ、ひとりでやらせてくれたらどんなにいいだろうか」と思っていた。
(※潔癖症でも掃除好きでもないけれど、このような「溜まった汚れが一気に落ちる」というのはやると本当に気持ちがいい。上記とは違う飲食店のバイトで、厨房の下水溝にあるオイルトラップという場所の掃除をしたことがあって、他の女の子のバイトたちが「え~、だいじょうぶ~?」みたいに心配してくれていたが、僕のほうはこれまた内心よだれを垂らしていて、ものすごい悪臭の溜まった升になにかの洗剤を入れてそこを思いっきり撹拌して油分を分解し、ちょっと待ってから水をまた流すときなんか「ぐふふふふふふ」という気持ちだった。もちろん顔は無表情にしていたが)
ふたつめは、耳にわざと水を入れてそれを出すこと。風呂に入ると意味もなくときどき浴槽で潜るのだが、 そのとき、耳に水が入ると嬉しくなる。頭を傾けて水がどろー・じゅわー(冷たい水を入れてもなぜか温かくなって出てくるのがふしぎ)と出てくればいいのだが、もし出てこなかったらその耳の中にさらに水を入れて(呼び水)、それを出すことによって先に奥に入っていた水も一緒に出す。すべて出たかどうかを頭をぽんぽんと叩いて確認して、まだ入っていたらもう一度呼び水をして……とこれはいつまでも遊んでいられる。うまく出てしまったら、もう一度入れればいいだけのこと。あのどろー・じゅわーが出るときはほんとうに気持ちいい。気を抜いている(そしてひとりで風呂に入っているから気を抜いているわけだが)と、口が開いてしまうほどだ。
そして最後は、霜焼けの足先に熱湯を当てること。年によっても異なるのだが、霜焼けの多い年というのがあって、今年もエルニーニョで暖冬だなんて騒いでいる割には足先はすでに霜焼けになっているのだが、風呂に入って追い焚きボタンを押すと、追い焚き口から熱湯がもわもわと出てきて、そこに赤くなっている足の小指(小指がいちばん霜焼けになりやすい)を近づけておくと、熱ッ、痛ッ、(でも)気持ち良いッ!の三拍子に見舞われ、痛気持ちよさの至福へ。

もちろんこれらだって、やめろと言われればやめられる程度のものではあるけれど、それでも日々の生活をいくらかなりとも豊かにするものであって(タバスコや下水溝の場合は毎日というわけにはいかないが)、依存に至らなければ嗜好というものはなかなか好ましいものである、もちろん他人に迷惑を掛けない範囲で……というどうでもいい結論でお茶を濁しておく。
ところでこれを書いているときに、痒みは痛みのちょっと手前、と書こうとして、「痒みは新伊丹」というフレーズを思いついた。これはこのあいだはじめて阪急伊丹線に乗ったからなのだが、これから風呂に入って浴槽に潜らなければならないので、その経緯を書いている時間はないのだった。 

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『孤独のグルメ』が深夜のテレビドラマになってなんだか流行っているらしい、ということをいつ頃からか仄聞していた。
それまで僕は、『孤独のグルメ』を理想の食事が描かれているマンガとしてサービス業の人に薦めたり、場合によってはプレゼントしてきた。うちの本棚にある文庫本は三冊目で、はじめは単行本を持っていたように記憶しているが、それも誰かに貸したままになっているらしい。
そういう十数年のつきあいになるマンガを、テレビドラマを見てきのうきょうファンになった連中が騒いでいるというのを聞くと、とても気分が悪い。僕はもともと流行っているもの・ことが大嫌いな性分で、なるべくそういうものには近づかないようにしているのだが、「連中」がこちらのテリトリーにずかずかとやってきて、ぎゃあぎゃあと喚き出すというのを目の当たりにすれば、気分が悪くなるのは当たり前だ。本が売れ、作家の儲けになるということは非常に喜ばしいことなのだが。
なので、十八年ぶりに続編が出るということはなんとなく知っていたものの「数年後に読めばいいか」くらいにしか思わなかった。
それを、このあいだ誕生日だということである人からプレゼントしてもらった。

前作の『孤独のグルメ』(便宜上「1」とする)では、主人公はやや偏屈なところを持った中年男性で、学生時代に柔道をやっていたということで少しがっちりしている。この「やや偏屈」という部分が僕は好きだった。
「好きだった」と書いたのは、「2」では「1」に感じたような偏屈さはだいぶ消え、どころか主人公は、ダジャレを多用するような親父臭いおっさんになっていたからだ。顔の線も少し細くなっていて、これがあの主人公だったか、と少し疑わしくなったほどだ。あとこれは作画の技術的な問題なのかもしれないが、背景からキャラクターが浮いているように感じられ、そこにも違和感が。

原作者の久住昌之といえば、僕はQ.B.B.名義のマンガがいちばん好きで、彼らの『とうとうロボが来た!』は20世紀に描かれたマンガのなかで好きなものトップ10には必ず入れる。『中学生日記』もすばらしい。『孤独のグルメ』が好きなのであれば、泉昌之名義で『ガロ』に描かれた『夜行』も面白く読めるはず。これは『かっこいいスキヤキ』のなかに収録されている。
作画の谷口ジローには『坊っちゃんの時代』という名作(これも人にプレゼントしてしまった)があるが、それ以外にも『犬を飼う』 という地味だが優れた作品もある(と偉そうなことを言っておきながら『神々の山嶺』という有名作品は未読)。

これらの作家陣がだいぶ年をとってしまったということなんだろうか。
ダジャレを言うなどして主人公がサービス感たっぷりなのは、多分に「読者」というものを意識しているからのように感じられたのは邪推だろうか。「1」ではイヤな客に主人公がアームロックを極めるシーンがあったが(ドラマでも採用されたようだ)、「2」でもやっぱりイヤな客に極め技を仕掛けるシーンがあって、これを読んだときにはずいぶん興醒めした。同シリーズの作品で同じモチーフの展開をするだなんて、あけすけな「ファンサービス」以外になにがあるというのか。
作品中、材料がどうこうだからおいしいとか、料理法がどうこうだからうまい、などと語られることは一切なく、店の雰囲気や客の様子があってこそのごはん、という捉え方は「1」と同様「2」にも通底していて、この点は、「絶対的なおいしい料理」というものが存在しているという設定の、蘊蓄重視の薄っぺらいグルメマンガ・料理マンガとはやはり一線を劃していると感じた。
が、前作にあった乾いた孤独が、本作ではかなり薄まってしまっている。
なぜ、『孤独のグルメ』というタイトルなのか。それは、好むと好まざるとにかかわらず主人公はつねに独りでいるからであり、その孤独をたのしみ、また同時に少し寂しくも思っている。そういう男が食事をするときに、誰にも聞かれない心の内でいろいろとしゃべっているのを、われわれ読者だけが聴いている。それが『孤独のグルメ』という意味だったのだと思う。
ところが、「2」の主人公は、はじめからわれわれ読者の存在を知っていて、自分の「内なる声」がそこに届くことをちゃんと知っているように見える。直截的な描写がもちろんあるわけではなく、描く側のそういう心構えが透けて見えるように思うのだ。
われわれでも似たようなことが言える。それまで、「ひとりで食事をする」ということは文字通りの意味しか持たなかったのだが、いまではSNS(ブログでも同じだけど)にアップすることによって、「ひとりで食事をする」ことを他人に見せることができる。他人に「ひとり」を見せつけることは、はたして本当に孤独ということになるのだろうか。
僕はなにも、人間関係の希薄さや、存在そのものの無常観、あるいはどのようにツールが発達しても払拭しきれない精神的飢餓というものを訴えたいわけではない。そうではなくて、「孤独」というもののあり方が変ってしまったということをただ言いたいのである。

「1」にはハードボイルドな雰囲気が強く感じられたが、それは、孤独というものは嚙み締めるほかなかった時代の作品だったからなのかもしれない。「2」だって基本路線としては「1」を踏襲しているが、表現のあちこちに見られる違和感に、年をとって下腹についてしまった脂肪を連想した。そこに熟年の苦楽を感じてもよいが、僕は拒否したい。
繰り返しになってしまうが、食事というものが、ただ食べることだけを意味した時代を僕は好む。食事を他人に見せることによって、「食事をする<私>」を表現しようとすることを、僕は浅ましいと思っている。
もちろんその批判は、ただマンガを読むだけで終わらずに、マンガについての感想を書くことによって、「マンガを読んだ<私>」を表現しようとしている当記事についてもそのまま言えることなのだが。

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ネットで、鬼平が来年で終わる、というニュースを読んで、18日のスペシャル番組を知った。終わるって言ったってずいぶん前に終わっている印象だし、なにをいまさらという感じだったが、とりあえず録画して観た。「鬼平が来年で終わる」というのは、来年のスペシャル(前後編らしい)が終わったらもう鬼平シリーズは(少なくとも吉右衛門では)つくらないということのようだ。

で、観終えた感想なのだが、率直に言って「みんな年とったなあ」だった。役者が年を相応に取ったのに、役の年齢が変わっていないという設定なもんだから、だいぶ無理が感じられた。
吉右衛門が71歳、綿引勝彦70歳、梶芽衣子68歳、多岐川裕美64歳、尾美としのり50歳、沼田爆75歳……。すでに向こうの世界に行ってしまっているのも多く、高橋悦史、蟹江敬三、先代の江戸家猫八らはみな遺影の中。
年齢でいえば、尾美としのりが鬼平やってもおかしくないくらいで、ほかの皆は敬老会のごとし。だからどうしてもテンポは遅くなって、意味のある「間」よりも少しずれて感じてしまい、あちこちの場面で間延びしているように思えた。間延びといえば、2時間の枠で放送するほどではなく、1時間半、場合によっては1時間で済んだ話のようにも思う。あえて大胆な編集をしてスリムにしてしまえば、そういう間延び感もなかったかもしれない。
今回のゲスト出演のひとり、田辺誠一の演技が辛かった。本来ならここにブレイクする前の西島秀俊あたりがいたのかな、なんてことを思った。田辺がやるとどうしても演技力が足らずにユーモラスに映ってしまうのだが、彼の演じた岩五郎は劇中での評は掴みようがないがなかなか芯のある男、ということだったので、今回田辺の演じたような頼りない男というわけでは決してなかったと思うのだが……。
あとは、川谷拓三にそっくりな人がいるなと思ったらやっぱり川谷の息子だったっていうのが笑えた。
来年以降は、キャストを一新して新シリーズをやればいいと思う。
鬼平は香川照之(中車)なんかどうだろう。いちおう歌舞伎つながり。尾美としのりは与力にしてやろうぜ。

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最近はradikoプレミアムに加入したので、全国の放送局のラジオが聴けるようになり、TBSラジオとInterFMを中心に、ラジオライフが充実している。だいたい一日に最低4時間づつ、多いときは8時間くらい音源を録音しているので次々に聴くものがあって嬉しい悲鳴をあげている。
そのぶん生で聴くものが減ったのだが、それも本当は面白ければ聴くはずなのだ。僕は、だいたいアシスタントの女性に腹を立てて聴かなくなることが多くて、番組の演出上仕方ないともいえるのだが、お追従ばかりで、ただ笑っているだけの唯々諾々スタイルの女性アシスタントが、メインパーソナリティの高齢者特有の思い込み、勘違い、空気の読めなさなどを止められないことに対して腹が立ってしまう。

そうやって多くの時間帯のラジオ番組を録音しているのだが、ときたま失敗というかネットワーク上の不都合により録れていないときがあって、なんだよちくしょーとなる場合がある。たまたまYouTube上に音源がアップされていたり、番組HP上にポッドキャストが配信されているようなものであればフォローはできるのだが、まったくそういうものがされていないもので録り損なうと一日中がっかりしている。実はきょうもそれがひとつあったのだ。ものすごくたのしみにしていたのに……。

先日、野坂昭如が亡くなったときに、永六輔の番組で野坂からの手紙が読み上げられ、その音源が別のTBSの番組で流れた。そのときの手紙の内容にももちろん感じるところはあったが、「六輔七転八倒九十分」という番組タイトルに注意が行った。タイトルをつけた人、天才。

また、怪談特集をするというスポットCMを聴いたものだから久米宏のラジオ番組を録音してみた。久米宏ってニュースステーションに出ていたときから大っ嫌いだったのだが、これはおそらく両親が嫌っているということの影響があったのかもしれず、こちらもじゅうぶん年を取ったのだし、また久米自身も年をとって変わっているところもきっとあるだろう、お互いに歩み寄れるところもあるんじゃないかと期待に頬膨らませて聴いてみると……最悪。やっぱり大っ嫌い。ついでにアシスタント(女性)も大っ嫌いになった。
中年と思われる女性リスナーからもらった怪談で、とある百貨店で用を足そうとトイレの個室を開けると、中年のサラリーマンが便座にすわっていてこちらを見上げる。慌てて「すみませんでした!」と謝り、隣の個室のドアを開けると、先ほどとまったく同じ姿のサラリーマンがやっぱり便座にすわっていて、まったく同じ表情でこちらを見上げていた。そのときはじめて、そもそもなんでこの人、男なのに女子トイレにいるんだろうというおかしさに気づき、キャー!と声をあげてそこを飛び出した……というもの。
これ、けっこうリアルで怖くて、怪談(本人は実話とのこと)としてはすごくいい部類に入るな、と喜んでいると、それを聴いたアシスタントのほうがまず、「双子だったんですかね?」とクソつまらないコメント(トイレの話だけに)をしやがって、それに久米が、「いや、リスナーの方こそがいままで自分が女性だと思っていたんだけれど、本当は男性だったんですよ」という、まったく面白くないかぶせ方をしたのを聴いて、ああ、つまりこの番組ってのはこういうリスナーが実話だといって応募してきたものを簡単に茶化しちゃうのね、と甚だ嫌になった。
だいたいその前に、時事ネタとして米FRBの議長のイエレンをつかまえて、「あの人、ファーストネームがジャネットって言うんだけど、ジャネットって顔じゃないよね」とまで発言していて、それに対してアシスタントがツッコむかと思えば、「ジャネットはきれいな顔の人の名前なんですね?」と久米へのフォローみたいな発言をしていて、こいつら救いようのないクソだと思ったのだった。
当然、怪談話もそれ以降(ということはまったく)聴かず、そのデータもすぐに削除した。

赤坂泰彦もそうだったけど、若い頃の嫌悪感って意外に(自分にとって)正しかったりするんだよな、と最近つくづく思う。食わず嫌いというか、ロクに話を聴きもせずに嫌っている場合は印象が変化することもあるが(近いところでいうと、あるラジオ番組に出演した長塚圭史は180度印象が変って好きになった)、ある程度話しているのを聴いて感じたその人間のイヤなところというのは、たとえ時間が経とうと、余計に強く感じられることはあっても、弱くなったりなくなったりすることはどうもなさそうだ。朝や昼間のワイドショーでしゃべる加藤やら恵やらへの筆舌に尽くしがたい嫌悪感はおそらく死ぬまで消えなさそう。

そうそう、ちょっと前に聴いた白石なんたら原作のラジオドラマ『ほかならぬ人へ』というのが今年聴いたドラマのなかで最悪だったので、聴いてからひと月以上が経つのだが、それについての怒りがまだ消えずにそれ以降のラジオドラマを聴けずにいる。
いちいちの最悪さをあげつらってブログにぶちまけようかと思っていたのだが、さてどうしようか。 

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作詞家の岡本おさみが亡くなった。
この人の名前を知ったのは吉田拓郎の『野の仏』を聴いたときで、この非常にユニークで文学的な歌詞を書いた「岡本おさみ」という人は実にすごいと素直に感心したのだが、寡聞にして氏のそれ以外の作品を知らない。もしかしたら知っているものも多々あるのかもしれないが。
YouTube上にはなかなか音源がなく、拓郎ヴァージョンはライブものでちょっと声が聞えにくいので、こうせつヴァージョンを貼り付けておく。
上掲動画で、国民服を着た北朝鮮の指導者みたいな人が歌詞中に出てくる「高節くん」で、ご存知、南こうせつのこと。余談だが、南こうせつの本名は南高節(読みは「みなみ・こうせつ」)で、なにかのテレビ番組で自分の名前を八木節のような「南高ぶし」とも読めるとふざけて、つづけて「なん~こ~お~」と節をつけて唄っていたことが記憶に強く残っている。
この頃さっぱり釣りはだめです
と高節くんが言う
昔はこんな大物をと 両手をひろげて
野の仏 笑ったような 笑わぬような

ここにはいっぱい野鳥かいますね
と高節くんが言う
そらそら浮子(うき)にあたりがきてるよと 教えてあげたいけど
野の仏 笑ったような 笑わぬような

ぽっかり 浮んだ根なし人生ですよ
と高節くんが言う
彼はずっとしゃべってるんだね ほら魚が逃げちまうよ
野の仏 笑ったような 笑わぬような

鮒の病気が広がりましたね
と高節くんが言う
昔の鮒は健康でしたねと 淋しそうな顔をして
野の仏 笑ったような 笑わぬような

ぼくは野の仏になるんですよ
と高節くんが言う
だけどこんないい男ではと 顎などなでながら
野の仏 こんどはたしかに笑いました
 野の仏 こんどはたしかに笑いました 
(2015.12.18 追記)
岡本おさみのWikipediaを見てみたら『襟裳岬』『落陽』の作詞者でもあるのか。この二曲はさすがに知っていた。

吉田拓郎は、両親が世代のど真ん中なので子どもの頃からその名前と有名な曲を知らないわけではなかったが、アルバムとして聴いたのは二十代後半。たまたま職場の五十代の方がベストアルバム2枚組みを貸してくれて、そこに入った曲が思いのほかよく(完全に「旧世代の音楽」くらいにしか思っていなかったため)、そのことについて、貸してくれたのとは別の女性(たぶん五十代)とずいぶん話が合った。
その会話のなかで「『野の仏』っていいですよね」と言ったら、「あれって岡本おさみの詩よね」と言われて、それで「拓郎作詞じゃないのか」と少し驚いたことを記憶している。
この女性は、僕にとってのボスにあたる人だったが、些細なことで僕が彼女にいちいち反撥するようになってしまい、いまから考えると非常につまらないことをしたと後悔している。おそらく、その職場にいた誰よりも話があっただろうし、仕事を辞めたあとも付きあいをつづけていけるくらいに、趣味の方向性が似ていたようにも思っている。
残念なことにそのアルバムは数年前のHDDクラッシュの際にデータが消えてしまい、『野の仏』を聴くことはなくなってしまったのだが、ただ、そのタイトルを思い出すたびに、自分のつまらない行動についての羞ずかしさと悔恨の念も同時に浮かぶのだ。

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なんとなく思いついたことを書くだけなんだけど、軽減税率について、経済学者にアンケートを採ったら6割近くが反対している、というようなことをラジオでやっていて、その理由の主なものは、低所得者層への救済にはなりにくく、格差はより開くであろうから、というものだった。その他、事務コストがかかりすぎる、等。
そもそも、軽減税率というキーワードを知ったのは、僕の場合は消費税増税のときからで、今後の社会保障を考えていくと消費税は増税しなきゃならない、けれどもそれだとみなさんの生活がたいへんになるでしょうから、こんなものもあるんですよ、というような登場の仕方をしたのではなかったのか。
この論理、いろいろなところで見かけるもので、集団的自衛権の法案を通そうとした際にも、わざわざ中国の名前を明言してまで恐怖感を煽ってその正当性を訴えていて、まるで「さあ、いづれを選ぶか」というようなやりくちだったが、これこそマッチポンプというやつではないか。
ものごとを単純に二元化してそのどちらにつくかを迫ったり、あるいは、「わかりやすく説明すると……」で始まるピントはずれの喩えをされたり、これは国民側が単純になってしまっているからこそ多用されているように思う。
朝ドラなんかで象徴させてはいけないんだろうけれど、ああいうのが大いに受け容れられているっていうのを見聞きすると、ベタなものを無批判で受け容れる人のほうが多いってことのあらわれのように感じられて仕方ない。
ちなみに、そのラジオ番組はある新聞社がスポンサーだったが、きちんとパーソナリティが、「軽減税率が新聞紙に適用されることになるからって、(新聞社が)このまま黙ってしまうっていうことはないですよね?」と釘を刺していた。

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ネット上では、さまざまな作品(小説でも映画でも音楽でも)に対するさまざまな人物によるさまざまな感想が見られるが、そのうち、アマゾンのような不特定多数のレビューが投じられるサイトにおいて、発した本人はいたく得意になってはいるものの受信者としてはなんとも思わないものに、「泣いた」というコメントというか感想がある。
おそらくこれは、「これを鑑賞することによってわたしは泣きました。それくらいいいものですよ」ということの略なのであろうが、 それを言うなら、「泣ける」と省略すべきではないか。「泣ける」は形容詞であって、つまり、「泣ける映画/小説/音楽です」の後半を略したものであろうと、こちらが推量・補足できるからである。
そこへいくと、「泣いた」は完全に動詞で、発言の主眼は、対象物ではなく動作の主体(つまり「おれ」やら「わたし」やら)に置かれるわけだが、作品の良し悪しを知りたいという場面で、おまえがどうこうしたとか興味ねーよ、どんだけ自分アピールするんだ、と思ってしまう。

ただ、「泣ける」という言葉じたいも、前述したように「泣くことができる」というのがもともとの意味なので、邪推すれば「泣くことを欲している層」というものをあらかじめ想定して、そこに訴えているようにも感じられる。「あなた泣きたいんでしょ? ちょうどいいものがありますよ」というような。
(※辞書で「泣ける」を引くと、「感きわまって自然に泣いてしまう。涙が出てくるほど感動する。」という説明があって、独立した語として認められているようだが、扱いは動詞
雑誌の「泣ける映画」などという文字を見ると嫌な気分になるが、しかしこれは、「クソ企画に命知らずな予算をぶち込んで宣伝も話題づくりも頑張ってみたけれどやっぱり大ゴケしてしまいました!」という映画の特集のことなんだろうか。手にとってページを開いたことがないからわからないのだけれど。

まあ、「泣いた」というコメントを連発する人たちに少しでも寄り添おうと思えば、それはある種の隠喩だと言うこともできて、作品内容にはあえて触れずに、ただ鑑賞したという行為のみと「わたしは思わず泣いてしまった」と記述することによってその作品の良し悪しを慮ってもらおうとしているのだ、と説明できなくもないのだが、しかしそれは、メタファーと呼ぶにはやはりかなり安直なレトリックであろう。多用しないほうがよいことは言うまでもない、と自分のブログ記事を読み返してそのようなことを考えた。

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知らないうちに流行語大賞というのが決まっていて、例年どおりピンとこないものが多かったが、もうそれについて口に出すのも(話題にするのも)なんだかダサい感じがして、この感じってエイプリルフールネタが年々つまらなくなっている、あの「もう終っちゃった感」の強さに似ている。

まあそれはそれとして。
図書館で借りた池上彰『そうだったのか! 21世紀NEWS』という大判の本を読んだ。2011年9月初版ということで、震災による原発事故の問題も経過については少し触れられているものの、展望もはっきりしないという状態で書かれたのではないか、と感じられた。そのかわり、チェルノブイリやスリーマイルの事故がどのようなものだったのか、そして3.11以降の原発への世界の反応――脱原発に方針転換した国、推進しつづける国などが記述され、これはこれできちんと「読める」内容になっていた。
それ以外には、中東の混沌とした状況、そしてアメリカ(オバマが中心)、ロシア(プーチンが中心)、中国、北朝鮮、ギリシア経済危機とEUの問題などが扱われるのだが、話し言葉で書かれているのと図版が多いことによって非常に読みやすく、教科書のように思えた。実際、作者はあとがきに、各テレビ局のスタッフルームにこのシリーズ(「そうだったのか!シリーズ」)が置かれ資料としてつかわれていることを喜んでいる、と書いてある。さもありなん。
そういう「読みやすさ」を、池上彰のテレビでの引っ張りだこぶりと併せて、オトナの読みものではないととらえてしまいがち(少なくとも僕は本を手に取るまではそう思っていた)だが、ニュースを知らない・きちんと把握していない、と自覚している僕くらいのレベルであれば、気取らずにこのような本を開くことは悪くないと思う。悪くない、どころか有意義だ。
ただ、繰り返しになってしまうが、出版されたタイミングが(いまになって思うと)少し性急で、なるほどあの当時であればこういう冷静な人物による一刻も早い概観図のようなものへのニーズは相当あったのだと思われるのだが、いまになってみれば、もう半年、一年経ってからの概況を知りたいというのが率直な感想。
一例を挙げれば、おそらく世界では2011年はジャスミン革命(およびそれ以降の民主化運動)の年として銘記されたと思うのだが、チュニジアにおける経緯とその運動が伝播していった様子は描かれているけれども、これがその後どうなったのか(どう落ち着いたのか/どう混乱のままなのか)を知ることまではできない。一年に一冊、この種の本が刊行されていけば、ニーズはそれなりにあると思うのだが。
これを読んでいて、ロシアはほんとうに怖い国だと思った。実は同時に酒井陸三『ロシアンジョーク』という新書も借りて読んでいて、これはロシアンジョークに絡めてロシア政治の移り変わりと内情を書いたもの(ただし書きっぷりが好ましくないのでいい本とは呼べない)なのだが、特に現在のプーチンの強権ぶりとエリツィン政権下に起きためちゃくちゃな出来事(ごく一部の人間による資本の独占等)に、ロシアを独裁国家でないと誰が言い切れるのか、という考えに至った。
『そうだったのか!』のほうで、チェチェン側の声を取材していたジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤが殺されたという話があって、どう考えてもロシア当局の仕業としか思えなかった。この人のことは、つい最近読んだ池澤夏樹の本(これが悪書だった)にも出てきて少しだけ知っていたのだった。
メキシコ(あそこの麻薬戦争も悪夢に近い)のある町で、あまりにも治安が悪化したために警察署長のなり手がなく、公募したところある女子大生が署長になったのだが、この人は犯罪組織から脅迫された(なお、前任の署長は拷問の末に殺されている)ために半年後にアメリカに亡命している。その人の言葉が実に印象的だった。
自分は無知だった。現実がこんなにも醜悪だとは思わなかった。
現実の醜悪さを知ってニヒリストになるのは簡単で、ネットにはその種の人間たち(事あるごとに最低の事例を持ち出し、「それに較べたらこんなもの……」のような物言いをして悦に入るのだが、決してその最低のシチュエーションにあるのは己ではない輩たち)があふれているのだが、もちろんそうならないことも選べるはずだ。

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