とはいえ、わからないでもない

2016年01月

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狭量である。河や海を挟んで陸と陸を結ぶほうじゃなくて、料簡が狭いほうである。
であるからして、なんたらとかいう落語のアニメが始まったなどと聞いて、すぐに首筋と顳顬(むずかしー)に青筋が走った。
ふーん、と知らないふりをしてのんべんだらりと過ごしていたが、このあいだふと車で四十分ほど走らせて最寄りの書店に行ったとき、第一巻の最初の部分だけちらりと読めるようになっている小冊子があったので、ふーん、となにげないふりをしてそれをぱらぱらとやってみたのだが。

けっ。なんじゃい、こりゃ。落語をつかったコスプレだと思った。しかも、女性作家によるものだからか、みんな線の細い色男風な人に見えてしまって、別の料簡で売り込もうとしているんじゃないかとも思った。そういう意味でもコスプレじゃん。
はじめの部分だけだったので、そりゃ読み方としては邪道だし、読んだとも言えない。だからタイトルは書かない。けれども、こういうのって、なんというかバカにしてるんじゃない?
そもそも、古谷三敏のマンガ『寄席芸人伝』も大嫌いなんだよなあ。あの人って、『レモンハート』とかもそうだけど、けっきょくカタログ的エピソードの列挙ばかりで情の部分が薄っぺらいんだよな。

かつて一度だけちらっと観た落語のドラマで、「通な客」役らしき尾美としのりが客席にのこのことやってきて、噺家のマクラを聴いて「お、明烏だね」みたいに言うシーンだったんだけど、この数十秒だけでもう観るのをやめた。
八代目の文楽はいつも判を押したように同じ芸をする人でマクラもたいてい一緒。「弁慶と小町はバカだ、なァ嬶」っていう始まりだと、100パーセント『明烏』なわけで、ちょっとした落語の本とか読むと、文楽の最後の高座とかのエピソードとともに紹介されているわけよ、そんなもん。
尾美の話に戻って、もしかしたらマクラじゃなくて本編に入っていたのかもしれないけど、それでも客席で題名を口に出すなんて、なんて野暮ったいんだろ、と思った。野暮ったさの表現としてやっているのなら我が意を得たりだけど、どうも粋だと思わせる演出のようだった。そこしか観てないから事実はわからんけどね。

かように、落語ってエピソードがたっぷりあるから、物語にしやすい部分がものすごくあって、それだからこそその部分をつかわないでストーリーをつくれよって思うんだけど、えてしてオマージュとかパロディとかいう隠れ蓑をまとって、『芝浜』の現代版、とか、『らくだ』の翻案、みたいなことをしちまうんだよ。そういうの、おじさん飽き飽きしてるの。いま冬だけど。

それと。
このあいだ、志ん生を面白いと書いている同年輩くらいの人がいて、本気で「どこが?」と訊きたくなった。
これは、意地悪ではなくて、本気の本気。どこを面白いと思うのか、がほんと気になる。僕も二十数枚音源を聴いているけれど、ひどいのになると登場人物名が途中でめちゃくちゃになったり、武士が途中で町人言葉をしゃべりだしたりして、息子の馬生や志ん朝なんかと較べてしまうとひどいなっていうのが率直な感想。
けれども、何度も何度も聴いているうちに、『富久』の久七(だっけ?)が火事の中を走っていくところとか、『火焔太鼓』でおやっさんが急いで家に帰ってきてかみさんにえばるところとか、かみさんが腰抜かすところとか、『うなぎの幇間』でのたいこもちのぼやきとか、そういう部分に愛嬌を感じるようになったのだけれど、けれども、小林信彦がどこかで書いていた、「そもそも昭和36年の巨人の祝勝会で倒れてからの志ん生はだめだという人がいる」なんていう証言は、ぞぞぞっとする内容だよな。いやあ、志ん生は名人だよなんて36年以前の音源に当たるか、あるいは実物を観ていたって人じゃないと軽々と口には出せないよな、ってのが僕のなかにはあって、だからこそ、志ん生を面白いと言うには、なかなか勇気が要ると思っているんだけど、あらためてここで質問しますが、「それじゃあ、あなたの志ん生の面白いっていう部分を教えてください」

あと、このあいだ、初心者なんだけど談志が面白いと書いている人がいて、本気で「どこが?」と訊きたくなった……以下同。
いや、いちゃもんつけじゃなくて、ほんとうに訊きたいわけだ。たのしみ方っていろいろあるもんだから、そのたのしみ方をおれにも教えてくれよ、と。談志のあのイヤーな(とくに晩年の)マクラをたっぷり聞かされたあとの高座を、初心者がどうたのしめたのか、と。「9.11のテロで飛行機がビルに飛び込んで行ったのを見て、あれほどスカッとしたことは久しくなかったねえ」なんていうマクラもあったなあ。
そういう人物の、たとえば『芝浜』みたいな人情噺を演っていてもちっとも心に響かないし、もともと談志の熱演気味の人情噺は――しかも無粋なエクスキューズを途中で入れるから二重に――つまらなく感じてしまうんだけど。いや、『らくだ』とか『五貫裁き』みたいな噺はらしくて面白いんだけどね。

まあ、コスプレとかじゃなくて、落語の新たな面白さ・たのしみ方を教えてもらいたいな、と本当に思っているところであります。
あと、どうでもいいけどナルトを忍者マンガだと思っている人、せめて白土三平のなにかを読もうよ。読んだらナルトがコスプレだってわかるよ。 

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どうも甘利と小保方さんの「犯人に仕立てられた」という発言がごっちゃになってしまう。
どうもベッキーとSMAPの謝罪がごっちゃになってしまう。
甘利が捏造のすえ博士号の取り消しを食らって休業、小保方さんが金銭授受があって辞任したのちなんとか解散を回避し、SMAPが集団不倫のすえにスポンサーを失って手記を書いて、ベッキーが解散しようとするんだけど事務所のごたごたがあって結局TPPの署名式に行くんだっけ?
なお、ベッキーとの仲を疑われたのがセカイノオワリのボーカルで、きゃりーと噂があったのはゲスの極み乙女のボーカル。で、なんちゃら大臣の後任が福澤朗で、なんでも鑑定団司会の後任が石原伸晃ね。ここ、間違えやすいから注意すること。


どうでもいいけど、ベッキーの休業はかわいそうだな。そこまで追い詰める必要あるのか?
本人が休みたいのならまあいいけど、ベッキーはもともと面白くなかったとかそもそも態度が悪かったとか今頃言うやつ、もっと前から言っとけよ。ついでに言っとくけど、浅香光代が出てくる前から、サッチーを批判しておけよ。
スマップの公開処刑かわいそうとか言うやつほど、ベッキーのことは叩きに叩きまくってそう。せんべい食ってお茶の間で「不倫は社会的に許せない」とか言ってるんだろ、どうせ。おまえみたいなやつが「福山ロス」みたいな発言するんだろ、どうせ。


サッチーと一緒に細木数子のことも書かねばと思ったんだけど、あいつが消えた理由ってなんだっけ、と思ってWikipediaを調べたら、以下の記述に大笑いしてしまい、どうでもよくなった。
人の死を多く占っているが「自分は250歳まで生きる」と発言している。
細木の250歳の誕生日は2188年4月4日。 

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花梨さんのところで面白く読んだ記事(限定公開)。
そこに少しコメントを書いたのだが、それのちょっとつづきを思いついたままに書いてみる。

なだぎ武と友近のネタで、「ディランとキャサリン」というのがあったけれど、あれっていまだに元ネタを全然知らないのだがものすごく面白い。面白いだけではなく、ものすごい技術に裏づけされていてなんど観ても「すげーなー」と感心する。 
彼らが吹き替えの物真似という着眼点を持った時点ですでに、フィクションの世界で外国人のしゃべる日本語のおかしさに気づいていたわけで、この発見は、「~だわ」や「~だぜ」が多用される翻訳文での違和感と通底している。
上掲動画がいつまで有効かはわからないけれど、いちばんわかりやすいところで、「ディラン・マッケイ」という自己紹介の部分ですでに、通常の話し言葉としての日本語とは異なる言語をしゃべっている。
語尾を「~だ」で終わらせるやり方は、ふつうの感覚からすると口語というよりは文語(書き言葉)であって、これを話し言葉のなかに取り込むことによって、わかりやすい形――すなわち「片言の日本語」の話者としての外国人――ではなしに、このディランという人物が外国人であるということを示唆しているのがすごい。
(なだぎの金髪の髪型や古臭いファッションは、安直な外国人イメージの誇張表現であって、「似せる」というのとはむしろ反対のベクトルを持っている)
ただ「外国人を物真似しなさい」と言われたとき、多くの人は「ワタシハ、でぃらん・まっけいデス」みたいな口調を真似するのではなかろうか。つまり、単純に発音の問題として外国人の表現を試みるのである。
それをなだぎらは、日本語は日本語としての発音のまま話すものの、その内容におかしさ・奇妙さを持ってくることによって外国人を表現しようとしていて、そこに彼らの炯眼を感じるのである。
その内容のおかしさ・奇妙さをあらわす手段のひとつが、吹き替えの持つ「書き言葉感」の強調だ。ディランの「そのとおり」とか「いちいちそんなことは説明しなくていいん」なんていうのは、まさしく翻訳語の持つ「硬さ」であって、日常語であれば、「そのとおりだ」とか「いちいちそんなことは説明しなくていいいんだ」としゃべるほうが自然である。
そのうえで、漫才を演るということになって、わざと片言で「イヤア、ワレワレモコウヤッテ漫才ヲヤラセテモラッテイルワケナンデスケドネ~」としゃべるところなんて、二重のパロディをやっていることになる。
ツイッターなどでプロの翻訳家が、翻訳文において女性の語尾(「~だわ」とか「~かしら」)が「いつまでそんな古臭い訳をしているんだ」と論っているのを見たことがあるが、批判して鬼の首を獲った気になるのではなく、その違和感を創作の方向に持っていくほうがよほど建設的だと思う。

上記は、話し言葉の中での書き言葉の面白さだけれど、話し言葉の中で話し言葉を徹底させる、というやり方もいくつかある。
これまでに何回か書いてきたが、チェルフィッチュの舞台は『三月の5日間』しか観ていないけれど、たとえばその脚本はこんなふうになっている。
男優1 (観客に) それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようって思うんですけど、第一日目は、まずこれは去年の三月の話っていう設定でこれからやってこうって思ってるんですけど、朝起きたら、なんか、ミノベって男の話なんですけど、ホテルだったんですよ朝起きたら、なんでホテルにいるんだ俺とか思って、しかも隣にいる女が誰だよこいつ知らねえっていうのがいて、なんか寝てるよとか思って、っていう、でもすぐ思い出したんだけど「あ、昨日の夜そういえば」っていう、「あ、そうだ昨日の夜なんかすげえ酔っぱらって、ここ渋谷のラブホだ、思い出した」ってすぐ思い出してきたんですね、
男優1  それでほんとの第一日目はっていう話をこれからしようと思うんですけど、「あ、昨日の夜、六本木にいたんだ」って、えっと、六本木で、まだ六本木ヒルズとかって去年の三月ってまだできる前の、だからこれは話で、ってところから始めようと思ってるんですけど、すごい今って六本木の駅って地面に地下鉄から降りて上がって、それで上がったら麻布のほうに行こうとか思って坂下るほう行くじゃないですか、そしたらちょうどヒルズできたあたりの辺って今はなんか歩道橋じゃないけどなんて言うかあれ、一回昇って降りてってしないと、その先、西麻布の交差点方面もう行けないようになっちゃったけど今は、でもまだ普通に一年前とかはただ普通にすごい真っ直ぐストレートに歩いて行けたじゃないですか、っていう頃の話に今からしようと思っている話は、なるんですけど、そっちのほうになんかライブハウスみたいのがあって、そこにライブを見に行って、っていうのから話のスタートは始めようと思ってるんですけど、それで、それがすごいいいライブだったんだけど、っていうこととかを話そうと、あとは、あとはとか言って、ライブのあとでそこで知り合った女のコがいて、その日はだからなんかそのあとその女と、いきなりなんか即マンとか勢いで、しかもナマでヤっちゃったみたいな話とかもこれからしようと思ってるんですけど、その前にっていうかまずそのライブハウスに行ったのが、だから三月の5日間の一日目なんだけど、二人で、その日は男男で見に行ったんですね(このとき、自身と男優2を示すしぐさをそれとなくする)、ライブをその、えっと、六本木に行こうってことになって、っていう男が二人いたんですね、その男二人からのことから始めようとまずは話を、 
これは冒頭だけど、こんな調子が延々とつづく。なお、この文章は白水社の単行本からの引用で、正確を期しているのでタイプミスはないはず。
語順が行ったり来たりするし、副詞の場所がいいかげんだったりするし、繰り返しも多いし、同じ言葉を多用するしで、かなり整然としていない印象を受けるが、それと同時に、「あ、これこそがふだん自分たちが慣れ親しんでいるはずの会話だ」ということもすぐにわかる。

上とはちょっと種類が異なるが、フジファブリックに『若者のすべて』という曲がある。
このなかで、
夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて
という歌詞がある。ここの「胸に響い」と「ぼんやりさせ」の連続が、文字を読まずに耳だけで聴いていると、非常に落ち着かない。
落ち着かない、というのは文章が終わらないからだ。たとえば上に引用した部分の最後が、「ぼんやりさせ」であれば非常に据わりがよくなる。メロディー的にもここでひとまず文が完結してなんら問題はないはず。けれども、わざとそこを閉じずに文末を「~て」にしたのだろうと思う。
また、そのあとで、
世界の約束を知って それなりになって また戻って
と出てくるが、ここも、「世界の約束を知って それなりになって また戻っ」であれば、据わりがよくなるが、そうしていない。
これは、サカナクションの『ミュージック』におけるサビおよびクライマックスでの畳み掛けるような「~て」の連続とはまた違う趣向だと思う。
フジファブリックのものは、押韻に主眼があるのではなく、詩の言葉を〆させないことでいつまでもふわふわと漂うような浮遊感を演出したかったのではないか。あるいは、「~て」「~て」と言葉がつづく、日常語的な雰囲気を出したかったのか。

話し言葉と書き言葉の関係でちょっと留意しておかなければならないのが、マンガにおけるセリフ。
マンガの場合、登場人物によるセリフであれば話し言葉だと思いがちなのだが、実際に音読してみると書き言葉風、つまり翻訳文的なニュアンスがあることに気づくはずだ。
その一例として、ギャグマンガのツッコミは実際に音読してみるとだいたいダレる。作者は、吹き出しのなかにさえ収まればいい、とけっこう説明ゼリフ的なツッコミを書いたりするが、これは黙読しているから「速いツッコミ」に感じているだけで、声に出すと多くの場合は長すぎてしらける。
うすた京介のマンガ(だったように思う)がアニメ化されたのを、なにげなく観ていたことがあったのだが、前述したように、ツッコミシーンのあまりにもスピード感のなさに、テレビの前にいたたまれなくなってすぐに消してしまった、という思い出がある。
最近のギャグマンガのツッコミは、ボケの力が弱いのを補おうとしているのか、余計に長くてくどい印象がある。

また、話し言葉のなかに書き言葉を入れていく試みとして、(これは創作ではなくなるのだが)一般会話でネットスラングを遣うことがこれから増えていくのかもしれない。
ラジオ番組内で荻上チキがときおりネットスラング(たとえば「お、おう」とか)を遣うのを聴いて、ちょっと恥ずかしくなってしまう部分と、彼が自分のバックグラウンドを恥じない点について感心する部分とで複雑な感情を抱く。
僕自身はそういったことはしないと思うけれど、いまの若い人たちは新たな言文一致に立ち会っているのかもね。


最後になぜ当記事のタイトルが「その2」かというと、四年ほど前に同名の記事を書いていたから。読んでみると、今回の記事と関係あるような、ないような。どっちにせよ、過去のはてなブログでの記事は、妙なリンクがついていたり文の体裁を整えたりするのに非常に苦労する。

【2016/1/29 追記(自分用メモ)】
花梨さんのブログ記事にコメントを書いた。

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上場した株式会社はてなが、はてなブログ内で「ブログチャレンジ」ってのを提唱だか提案だかしていた時期があって、あのダサさにはものすごいものがあった。「チャレンジ」という言葉は去年の東芝と今年初めの安倍(こっちは日本語の「挑戦」だったけど)のおかげでもう聞き飽きたっていう気がしていたのだが、さっきまで湯船に入ってウォークマンに詰め込んでいたテデスキ・トラックス・バンドの『Midnight in Harlem』のライヴ版を聴いて、そんな腹立たしい気分もどこかに行ってしまっている。
 
この音楽を知ったのは、二年か三年前のはてなスペースで、誰かがぺたっと貼っていたこのライヴヴァージョンを、なんとなく聴き流していたらやけに耳に残ってしまい、繰り返し繰り返し再生するうちに、地味ではあるのだが音楽そのものが自分の魂に書き込まれていくような、そんな離れがたい感覚に陥ってしまって、どこがどうとうまく言えないけれど大好きな曲になってしまった。
今年の始め、ピーター・バラカンが自分のあるラジオ番組でこの曲をかけて、それがその番組の新年第一回目の放送の第一番目の曲で、もうそれだけで感動してしまった。
この『Midnight in Harlem』ていう曲をはじめて聴いたのは、2010年のフジロックだったんです。まだこの"Revelator"というアルバムも出ていなくて、テデスキ・トラックス・バンドという正式なバンド名すらまだ決まっていない時期だったんですけど、しとしと雨が降る中で、このバンドの生をフィールド・オブ・ヘブンで聴いて、この曲にどれだけ感激したか。一生忘れないと思います。
曲が終わってからのこの言葉も、僕の心に響いた。

「大好きな曲」を聴くたびに忘れがたさが強まっていく。いろいろな言葉や記憶が、それをより強固なものにしていく。多少の健忘や失念のなかに埋もれてしまうこともあるかもしれないけれど、十代の時分ひとりで勝手に傷ついていた思い出や、あるいは十数年経ってやっと気づく誰かの優しさのように、なにかのきっかけでまた僕の心にはっきりと思い出されることだろう。
金髪の若者たちがカップルでふざけてつけた親指傍のタトゥーのように、という形容が似つかわしい、偶然によって生まれた傷のようなものが僕の心にある大切なもののすべてだ。それらは必然性もなく僕のなかに集まってきて、今日ここにある。
僕にとって大切なものを生み出した人たちの多くはもう死んでしまっているか、あるいは死が近い年齢にある。音楽家は音楽を残し、作家は文章を残すけれど、そうではない人たちがいなくなったときはいったいどうなるのだろうか。

先日、ある知り合いの人が突然亡くなった。その三日前に僕はその方と挨拶をして、言葉を交わしていた。近所の人にその人が「亡うなった」と教えられ、驚いて呼吸が止まった。
還暦になったばかりということだった。見た目が若い人だったのでもっと年若く感じていた。外出先で病死したらしい。
仕事から帰ってこないということで幾人かが捜索に出たらしい。僕のところには連絡はなかったのだが、あったとしても珍しくワインを飲んでいたので外に出ることは無理だった。こんなところでも、僕はいつも<死>と縁遠い。
親戚でもないし、仕事でつきあいがあったというわけでもなかったが、いろいろと目と声を掛けてくれた人のひとりだった。僕にはそれが不思議だったのだが、会えばなにかと「だいじょうぶか」と心配してくれて、彼の奥さんともどもよくしてくれた。
涙が出てくるというわけでもない。いつも思うことだが、泣ければどんなにラクだろうか。突然すぎて、実感がともなわない。葬儀やそれにともなう儀礼的なプロセスを経て気持ちを徐々に慣れさせていくのだろうが、それでも、身内ではないし、その不在をつねに意識できるわけではないから、いなくなってしまったことを忘れてしまうかもしれない。

それからちょっとして、車を運転しながら録音したラジオ番組を聴いていた。萩原健太があの気持ちのよい声で、ビーチボーイズの『Wouldn't it be nice』、邦題『素敵じゃないか』のヴォーカルだけを抜き出した音源を紹介していた。
もともと、大好きな曲だった。最高の邦題と言ったっていい。けれども、このコーラスが聞えた瞬間、なぜか涙が溢れ出した。とにかく、美しいハーモニー。特に低音部が出てくるところの美しさ、豊かさ。
ビーチボーイズはサーフ・ロックという印象が強いけれども『ペット・サウンズ』を聴けばわかるように音楽的にうんぬん、という仕方で語られがちだが、サーフ・ロックそのものの、たとえば『I get around』の冒頭、
Round round get around
I get around
Yeah
の、この「Yeah」の直後の、「Get around round round I get around」の低音部なんかもすばらしいのだ。もうこのイントロの数十秒を聴いただけで大昂奮してしまう。初めて聴いたときからたぶん二十年近く経っているけれど、いまだにいまだに。
萩原がこの音源を紹介した意図は、通常だったら演奏で隠れてしまうような部分にまでものすごく丁寧なコーラスを配していたブライアン・ウィルソンってすごい、ということだった。
そのブライアン・ウィルソンは、最近映画にもなったように、音楽作りにのめり込むあまりに精神を病んでしまったらしい。それゆえか、あるいはそれ以前からか、『素敵じゃないか』をリードトラックとするアルバム『ペット・サウンズ』は名盤中の名盤とされていて、日本盤の分厚いライナーノーツは山下達郎が書いていた。そういえば、ビーチボーイズのコーラスワークに山下達郎は絶対影響受けている。

音楽家は音楽を残し、作家は文章を残す。ブライアン・ウィルソンの音楽は、山下達郎の音楽のなかに命脈を保っているし、やはり達郎サウンドも、誰かの音楽のなかに生きつづける。そうやって連鎖はつづいていくのだろう。
「そうではない人」たち、つまり、残すものを持っていない人たち、残すものがないと思い込んでいる人たちは、ほんとうになにも残さないのだろうか。
空虚さを埋めたいがためにスカイプで誰かを呼び出してディスプレイに唾を飛ばして大声を出したり、スマホをタップだかスワイプだかフリックしてマップやスマップやトリックなんかを探して知って暴こうとしたり、あるいは、小洒落たカフェかトラットリアかワインバーでシェリーを頼み、シェリーをシェリー酒と呼んでいた昔、エキストラ・ヴァージン・オリーヴ・オイルなんて呼ばずにオリーブ油と呼んでいた過去、ワインのソムリエと言わずに葡萄酒の給仕係と言っていた往年を思い出し賢しらな風をまとってギャルソンかカメリエーレかオーナーソムリエに絡んだりするのはどうなんだろうか。なにがしかを残していることになるのか。それともならないのか。

それはともかく、はてなスペースは今年の二月末に消えることは決定しているらしい。ずっとほったらかしにされていて、世のほとんどの人たちが気にもしていなかったはてなスペースだが、僕にとっては、あれはあれでいい知り合いができたし、いい音楽を知ることができた場所だった。でも、それももうなくなってしまう。
なにかや誰かが終わったり消えたりいなくなったりすることが悲しいのは、それが失われた世界を生きる時間がまだだいぶあると踏んでいるからなんだろうか。
昨年末の野坂昭如の追悼ラジオ番組で、永六輔は亡くなった野坂に対して、「ぼくもすぐそちらに行きます」という趣旨の発言を、パーキンソン病の影響が色濃く感じられる喋りでしていたように記憶している。友人の死をたしかに嘆き、悲しんでいるのだが、その言い方には不思議な爽やかさもあった。寺に生まれたという事実よりも、その年齢から生じた感慨がそう言わせたのだろうか。いづれにせよ、僕のなかにはまだない考え・言葉だった。

この数週間のあいだにもアイドルたちはやめようとするか実際にやめたかして、アイドルやアイドル以外の人たちも謝罪したりスポンサーを失ったり反動で商品が売れたりしていて、そんな世間に対して斜に構えてみたり正面からがっぷり四つを組んでみたり、または逃避してみたりしながら、残っていくものと残らないものとのあわいに喪失感を抱えたまま立ち尽くしそうになるところを、誰宛かはわからない寒中見舞いを書く。この冬一番の、そして近年稀に見るという規模の大寒波の先駆けに触れた朝に。

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日本で最高齢の人が亡くなったというニュースが出ていた。 僕はこの方を知らないので「残念である」とか「まだ若いのに……」なんていうことは言えない。
不謹慎かもしれないが、この人の名前が親戚以外で最近話題になったのは、誰かが亡くなって「最高齢」のお鉢が彼に回ってきたときと、本人が亡くなった今回だけなんじゃないだろうか。そういうマスコミが勝手につくりあげている話題性と彼自身の生はまったく別のところにあるというのは当たり前の話。
 
高齢といえば。
今年の始め、僕と同年輩の医療関係に勤めている女性が、「うちのおじいちゃんがあんなに早死にしたのは、老人会の運営に一所懸命だったから」と話し、老人会に限らず組織を運営してくことがいかに気苦労かということを訴えていたのだが、そこで僕がちょっと口を挟んで、「おじいちゃん、おいくつで亡くなったの?」と訊くと、「95」という返答が。
そこからはもう話にならなかった。こらえることができず、失礼だとは承知の上で笑い転げてしまった。九十五歳で早死にとは。
上方落語で、間抜けな回答をする与太郎(註: 上方落語で固有名詞としての「与太郎」はほとんど出てこない)に対して、「長生きせえよ!」というツッコミがままあるのだが、そのツッコミをそのまま心の中で彼女にして、「あ、ほんとに長生きの家系か」と気づくという、二重の笑いに苦しめられた。

笑い転げはしたものの、本人にとっては至ってまじめな話で、よくよく聴けば、「100歳以上は絶対に生きるだろう、それくらい丈夫な人だった」ということで、どうやら言葉の綾ではないらしい。そう聴いてしまうと、また別の意味で、あまり他人に聴かせるような話ではないな、と冷静に思った。
彼女の祖父に対する喪失感というのはまことに真摯なもので、それは他人が笑っていいようなものではないのだが、どうして笑ってしまったのかということをきちんと考えてみると、非常に「強欲」なように感じたから。
医療従事者たる彼女は、いろいろな場面で早死にした人たちに出くわしているはずで、もしかしたらそこには十代・二十代で病苦のうちに旅立って行った人たちもいたかもしれない。
それを考慮せよ、という話ではない。個人の幸福なんて相対的に測れるものではないと思うのだが、けれども、そういう苦しんでいる「丈夫ではない」身体の持ち主たちの視点を、彼女がまったく持ってこなかったのではないかと少しでも疑わせる部分に失望した。強欲という彼女への中傷は、抽象的に言ってしまえば、持たざる者からの僻みを代弁したつもりにでもなったのだろう。
笑い転げた僕も、彼女からすれば「デリカシーのないやつ」であろうから、お互い様なんだろうな。

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アイドルの解散といえばだな、去年は(も?)空中分解したグループがいくつかあったわけだよ。
2015年2月、ラップグループのライムベリーは3人のうち、突然、2人+プロデューサーが辞めることになってしまって、残った1人が新しい女の子とユニット組んで、ライムベリーの名前で活動している。辞めた2人のうちの1人は、11月にリリカルスクールというアイドルラップグループ(ラップアイドルグループ?)に加入するというウルトラCがあって、ファンの傷心を9ヶ月ぶりに少し癒やしてくれた。これについては、もっとアツいファンの人たちがブログ等にその思いを書いていることだろう。
また、2015年4月、Dorothy Little Happyという5人グループのうち、3人が脱退するという事件(?)があり、ファンによる5人でのファイナルライブのレポートなどを読んで感動したものだが、残った2人は2人のまま現在も活動しているみたい。

残ったほうがアイドル。そのグループを出たとしてもアイドルをつづけているのなら、それもまたアイドル。
どんなに魅力があっても、どんなに人気があっても、辞めてしまえばアイドルではなくなる。だからといって価値がなくなるというわけじゃなくて、まだ残ってつづけているほうにより敬意を払いたいということ。その敬意の先に好悪があっていい。現に、いまの2人体制のライムベリーでつくった楽曲は、YouTube上で確認できるかぎり最低だと思っている。
で、(これこそが重要なことなんだけど)辞めていった人たちにもいい人生が待っていますように。
あ、以上はぜんぶ女性アイドルの話ね。男は知らん。

事務所とか運営とかが悪い形で目に見えてくる状態ってのはほとんど末期だと思うのだが、いいかげんファン側も、そういうのを見限るようにならないものか。
無邪気にアイドルを信じられた時代なんてもう過去のことで、いまでは、知りたくもないいろいろな事実に目を閉じ耳を塞いでいることが難しくなっている。そして、裏の裏までほじくり返そうとしているのにそれでもイノセントを気取るファンに、その矛盾を指摘したくもなる。
闇は深い、みたいな言い方をするのは簡単だけど、客あっての商売なんだから、いつまでも盲目的に「その場所」に居座りつづけようとする客の心のほうが闇なんだろう。ま、こっちの話は、ほんとどーでもいーんですが。

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最近は「感想」ものの記事が多くて、なんだか肩肘張っちゃったふうにも見えるので、ちょいと世俗的なことも。

とにかく明るい安村の、「安心してください」うんぬんのギャグを年が明けて初めて見た。
このフレーズじたいは、ラジオ番組で「流行ってるよね~」みたいな言い回しで紹介されたり、あるいはリスナーのメッセージでこのネタのパロディをオチに持ってきたものも紹介されたりしたので、そういうギャグがある、ということじたいは知っていたが、ついに見る機会もなく新年を迎えてしまっていたところ、このあいだ、たまたまテレビをザッピングしたときに彼がいて、ネタを見た。
ひとつのネタをやって次のネタに移るとき、いちいちホームポジションに戻るようなやり方(少なくとも僕の見たときはそういうやり方だった)にまだるっこしさを感じてしまい、それは結局後半の連続もの(?)でなんとなく解消されたふうに見せているんだけど、「2回目を見ようとは思わないな」ではなく、「2分と見てられないな」という年寄り臭い台詞が口を衝いて出てしまった、などといういまさらながらの感想をあえてここに書く必要はなく、おそらくそれは昨年のあいださんざん世の中で議論されてきたことであろうから、ただもう今年の後半には彼のことを思い出すことはないだろうな、ということに瞑目し、同時に、数年前のエレキテルなんたらの「なんたら」の部分を、東京23区を思い出そうとするときに必ず「板橋」と「豊島」が抜けてしまうのでそのふたつだけは忘れないようにしておくぞってくらいの用心深さで憶えておいたはずだったのだけれど、やっぱり忘れてしまっていることを確認し、とりあえず手を合わせておいた。合掌で思い出したが、安村のせいというかおかげというか、ラッスンゴレライの名前は2015年下半期には完全に駆逐されてしまっていて、Google日本語入力の予測変換にも出てこなかった。
なお、僕はすでに安村の顔を忘れており、ライザップと関係あったのかないのか知らないけれど、最近とにかく黒い春日(オードリー)の顔で上書き記憶されてしまった。

年が明けてベッキーのスキャンダルが取り沙汰された。
で、こういう不倫報道のときにいつも思うんだけれども、自分の夫/妻が浮気していた、という場合であれば当事者がああでもないこうでもない、と自分の夫/妻なり、あるいは浮気相手を批難するのはじゅうぶん理解できる。金を毟り取ってしまえ、とも思う。
ただ、第三者はなんで騒ぐの? 正義? 道徳? 倫理?
違うね。ただの嫉妬。モテない人間の醜い僻みだろ。以上。
以上は以上なんだけど、僕はベッキーの件で言っておきたいことがひとつある。
というのは、ベッキーにはちょっと恨みがあったのだ。だから、今回のスキャンダルはちょっと小気味いい。
ローソンが新しく生まれ変わる、という主旨のテレビCMを柳葉敏郎と桜庭ななみがやっていて、桜庭ファンとしては、「大きい仕事がきまって、よかったねえ」と喜んでいたのが、あるときから突然ベッキーになったのだ。
厳密にいえばベッキー自身に罪はなく、きっと広告サイドが、「うーん、ななみちゃんじゃ、ちょっとパンチないかなあ。ちょっと知名度低いしねえ。『上』のほうも『好感度の高いベッキーさんがいいんじゃないの』とか言い出してるし……」みたいなことで簡単に桜庭ななみを降板(未確認だけど)させてベッキーを起用してしまったんじゃないかと勝手に思っているんだけど、この恨み、晴らさでおくべっきーか。
だから、今回のスキャンダルでCMスポンサーのひとつとしてローソンが泡を食らっているのだとすれば、ざまあみろという言葉しか出てこない。桜庭ファンからの呪いだ。
少しすっきりしたので、三菱地所を見に行くことにするか。

スマップが解散するんだかしないんだか。最初は「する」みたいな感じで、盛り上がっていくのかと思いきや、「いや、でもしないかも」みたいな空気で盛り上がっているらしく、その反動だか影響で、世界に一つだけの花を買おうなんていう運動が一部で起こっているらしくなんだか花屋が大儲けしている、っていうのがYahoo!ニュースのヘッドラインだけを頼りに得た情報なんだけど、こういうとき、「国民的アイドル」という名称を聞くと少し苛立ちを覚える。ただの「人気アイドル」でいいじゃん。
国民的、とつくと途端に胡散臭くなる。そういう同調圧力はやめてほしい。2020年の五輪開催が東京と決まったときの太田たちの大騒ぎ(太田個人が悪いわけではないけど)も、あの映像も「日本国中が昂奮しています」というアナウンスとともに流れた気がする。おいおい、おれを勝手に「日本国中」に入れるな、と。
スマップの番組は観たことがないのだ。明石家さんまも所ジョージもだけど、嫌いなわりにはその番組を一度も観たことがないというタレントは多くて、スマップもそのうちのひとつ。だから、解散しようがしよまいがどっちゃでもええんやけど、どうせなら解散してすっきりしたほうがいいでしょ。
と、こういうことが書けるのは、身近にスマップというかジャニーズファンがいないから。スマップファンというのはわかるけど、ジャニーズファンっていうのがよくわからんよな。事務所が好きなの? 

この記事、こたつみかんしながら書いていたのだが、ザルに入れておいたみかんがなくなったので、玄関に行って、置いてあったダンボール箱からみかんを補給しようと思ったら、みかんの山の中にちっちゃな加藤優がいて、なにか言っている。跪くようにして耳を近づけてみると、泣きながら、「おれたちは、腐ったミカンじゃない!」と言っていた……という夢を見ていたけど、よだれが垂れて起きた。もう寝る。

【追記】
スマップ解散のときに、ジャニーズのメンバーはネット上に画像公開していないってことも一部で話題になっていた。公式サイトをちらと見るに、画像はCDジャケットの写真しかなさそう。
もちろん非公式には探すといろいろ出てくるわけだけど、今後もし、ジャニーズに所属するメンバーの画像がネット上に公開されるとすぐに、サイト管理者に対して自動的に削除命令を出すというシステムをジャニーズ事務所主体で開発していったとしたら、未来はきっと面白い。
何百年か経った、インターネットが別のなにものかに成り代わってしまっている時代を想像してみる。そこでは、考古学的見地から、”インターネット”という引用符つきのネット情報を掘り起こして「当時」の風俗を調べている学者がいるのだが、彼が首をひねって同僚の研究者に漏らす。
「う~ん、”ジャニーズ”という組織に所属していた芸能びとたちがいたらしい、ということはテキスト情報からは判明しているんだけど、画像・映像の類がひとつも出てこないというのは不思議だなあ。 『12モンキーズ理論(※)』を当てはめるのがいちばん手っ取り早そうだけど」
ここで(※)の説明。「12モンキーズ理論」というのはテリー・ギリアムの映画『12モンキーズ』のプロットに因んだ理論で、なにかの理由でその詳細を確認できない過去の出来事を、後世の人間が大きく誤解してしまうことを言う。つまり、文字だけでしか確認できないっていうことは、ネット上で盛り上がっていただけの架空の集団だったのではないか、と疑っているわけ。映画を観ていない人はおあいにくさま。でもまったくの造語なので気にしないで。
それに、相手の同僚の研究者が応えて曰く、「ああ、そっちもそういうのがあるんですね。実はいま、うちのチームでも同様の事案にぶつかっていまして……」
「と言うと?」
「ディズニーっていう組織があったようなんですが……」

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大晦日の深夜はテレビもつけずに、ブログを書いたあとは本を読んでいた。スティーヴン・キングの『シャイニング』。そしてたぶん、年明けの瞬間は風呂に入っていたように思う。
『シャイニング』を読み終え、すぐに思いついたのはやはり映画との比較である。実はこの比較についてはWikipediaが詳しく、興味深い記述がいくつか見られるのだが、今回はここから、キング自身はキューブリックの映画作品について批判的だった、という内容だけを引用しておく。

小説は、前半は掛け値なしに素晴しい。主人公の父親、というよりこのジャック自身も僕の考えでは主人公のひとりなのだが、彼が高校教師という職を失い、冬季は閉鎖するホテルの管理人に就職しなければならなかった経緯が遡って語られ、そこではアルコール依存がよりひどくなっていく様子と、そこで起こった警告とも思える不思議なできごとなどが触れられる。その一方で、現在進行形としてジャックはホテルのメンテナンスに携わり、そこでスズメバチの巣と格闘する羽目になるのだが、このスズメバチがジャック家族に襲いかかる災厄のメタファーとして機能している。これらのエピソードのひとつひとつがたいへん映画的であり、これらの描写をもとに映画をつくるのは実に容易いのではないかと思わせてくれるほどだ。
物語は、ジャックだけでなく妻のウェンディの視点でも描かれるし、息子のダニーの視点からも描かれる。面白いのは、彼らは互いを愛すべき対象として認識しているのだが、同時に距離も感じているという点。家族が「絆」を確認するための単純な装置に堕しておらず、それどころか、トラブルの根源のようにも見えるのが非常に現実的に感じられた。
また、ダニーが「かがやき(the shining)」という超能力を持っていることが、この三人の関係をより複雑にしている。ダニーはその「かがやき」によって、子どもながらも両親の思考のぼんやりとした輪郭くらいは把握している。ウェンディはそんなダニーを愛しながらも、その能力の不気味さに少し怯え、またダニーとジャックとの仲の良さに嫉妬している。ジャックといえば、ダニーは寵愛の対象ではあるのだが、自身をアルコールから遠ざけたウェンディに疎ましさを覚えているし、さらに、ジャックはその父親に、ウェンディはその母親に対してトラウマを持っている。この同性の親に対するコンプレックスの図式は後年の『11/22/63』にも見られたので、もしかしたらキング自身の体験に拠るものなのかもしれない。
これらを総じて登場人物の複雑な性格を端的にあらわすことは難しいし、あまり意味はない。大切なのは、キングがそれだけの紙数(文庫本一冊分ほど)を割いてホラー部分ではなく、人物の内面を描いたということなのだ。
ストーリーの後半は、ダニーの予知夢や、ジャックやウェンディの直感が伝えてくれていたように、ホテルのなかに「なにものか」がある/いるということが段々とわかってきて、それが最終的には形をとる。実際に文章中でも、ホテルそのものが幽霊となっているという説明がなされる。ホテルは、ジャックに憑依して最終的には能力者のダニーをその内部に取り込もうという意図を持っているのだ、と。それを知ったジャック・ダニー・ウェンディの運命やいかに、というところなのだが結末までは書かないでおこう(ほとんど書いてしまっているけれど)。

全体の感想を書く前に、キューブリックの『シャイニング』に話題を移す。
十年ほど前に観た映画なので、記憶を頼りに簡単に要約すれば、映画版では、狂ってしまったジャックがダニーとウェンディを襲うという設定になっている。その有名な(と僕が勝手に思っている)シーンが以下だ。アマチュアの物書きでもあるジャックがタイプライターに日がな一日かじりついていったいなにを書いているんだろう、とウェンディが覗いてみると、ある文章だけが延々と打たれただけの紙・紙・紙を見つける。
「All work and no play makes Jack a dull boy.」という文章に対して、「仕事のしすぎでジャックは頭がおかしくなってしまった」というような字幕が出ていたのではないか。
ジャックが狂気に侵蝕されていくために、やはり不気味なホテルの存在は重要で、グロテスクな場面がフラッシュバック的手法によって描かれるシーンはいくつか存在するが、「ホテルそのものが幽霊である」というよりは、「ホテルに幽霊がいる」といったほうが近い描き方であり、それに感化されるような形で、ジャックの頭も文字通り「おかしくなってしまった」ととらえるほうがより自然だ。
その描き方の差異が、まさにキングの批判のポイントだったらしい。原作者の意図がきちんと反映されていない、ということなのだろう。


話はまた変る。
このあいだ弟とスカイプで怖いホラーとそうでないホラーについて、話したことがあった。弟は三津田信三の小説を例に挙げ、きちんとミステリー的結構は満足させつつも、最終的には怪奇現象の存在する余地を残しているところがよい、と指摘。僕も小説『少年十字軍』で、極めて現実的に描写されながら、やはり最終的には「奇蹟」の存在する余地を残した皆川博子の鮮やかな手並みを思い出し、それに同意した。
一般的に、怪談などにおいて動機や理由や結末が不明な話のほうがより記憶に残るし、恐怖心も残ったままになる。おそらく全景が見渡せないことへの不安が恐怖心と直結しているのだろうと思われる。
ホラー映画について考えてみても、主人公たちの恐怖に観客が最高潮に同調するのは、恐怖の対象を完全にとらえることができない時点であろう。反対に言えば、画面内に「なにか」がつねに――しかもはっきりと――映っていれば、それはホラーではなくなってしまう。そこから先はアクションの領域なのだ。真っ暗な部屋と完全に照明の行き届いた部屋とのどちらを怖がるか、ということからもこれらは理解できよう。

なにが言いたいのかというと、キングの『シャイニング』はきちんと伏線が回収され、しっかりと秩序立った物語になっている。それはとても丁寧な仕事と言えるし、クリエーターとしては重要な姿勢だといえよう。しかしその一方で、われわれ読者の感じた恐怖の輪郭線もはっきりととらえられるようになり、当初、測りようもないように思われた不安の形が案外小さいものだったことに気づいてしまう。人間がわからないものに対して抱いてしまう期待・想定・憶測は思いのほか大きく、その実体が明らかになったときには、その反動でどうしても過小評価に落ち着いてしまうのだ。簡単にいえば、「なあんだ」ということ。
具体的にいえば、「ホテルの幽霊」という存在がまだ明らかになっていない時点で、ダニーたちが不気味にも不穏にも感じていたエレベーターや消火ホースなどは、ついにホテルがその正体を隠さないようになってしまえば、ダニーたちの逃亡を妨げる役割を担ったいくつかの装置のひとつに成り下がってしまう。それは、なんだか非常にもったいないことのようにも思えた。
これに反して、キューブリックの『シャイニング』はジャックの狂気にフォーカスしている。この狂気というものは、それ自身は形・姿が見えないものなので、「ジャックが狂ってしまった」とわかったのちも、それがジャックの行動に及ぼす影響・範囲・程度はいったいどれほどのものなのか、ということまではしかとわからない。そのため、視聴者は一定の恐怖心を抱いたままでいられる。そうなれば、ジャックが斧を持って怒鳴り叫んでいるところだけではなく、げらげらと笑っているシーンにも怯えることになる。判然としないがゆえに恐怖を多く見積もってしまうのだ。

ただこれは、あくまでも恐怖にスポットを当てて考えた場合であって、小説『シャイニング』は、特にジャックのホテルにやってくるまでの過去だけをとっても充分に読み応えがある。
また、上にちらと書いたのだが、アルコールの深みに嵌まってしまうというまさにそのときに起こった「不思議なできごと」というのは、物語内では(僕が憶えている限りでは、の話だが)回収されておらず、もし、ホテルの幽霊という存在がなければ、このエピソードはもっと輝き、また重要なものとなったに違いない。そして、キングについて語るときのいつもの繰り返しになってしまうのかもしれないが、相変わらずの固有名詞や事物の描写が徹底していて、われわれの鼻先には冬山に閉ざされた豪奢なホテルが突きつけられることとなる。個人的には、小説では非常に重要な人物となるホテルのコック、ハローランが登場する場面はなぜだかすばらしいことが多かったように感じられた。バカンスをとっていたものの、ダニーの「かがやき」の声を聴いて急遽ホテルに戻ろうとハローランは飛行機に乗るのだが、このとき隣の席にすわった婦人とのやりとりが僕にはものすごく感動的だった。わづか数ページのことで、とりわけびっくりするようなことが描かれているわけでもないのに。

ただ面白い/面白くないというだけでなく(実際に面白かったのだが)、人に恐怖を感じさせるものの正体(のようなもの)について考えるいいきっかけとなった。三十数年ぶりに出版されたという、この続篇『ドクター・スリープ』は当然気になっている。
最後に、深町眞理子の訳は風格があってとてもよかった。金銭登録機(おそらくレジキャッシャーと思われる)という古臭い訳語がいくつか見受けられたものの、1978年翻訳だと思えば仕方のないことだろう。 
なお、文庫の奥付の直前に書かれた以下の文章が気に入った。
*本作には差別的表現ととられかねない箇所があります。これは、作者が描いた人間の心に巣くう悪意や憎悪を、原文のニュアンスに忠実に映し出した訳出の結果であり、もとより差別を助長する意図はありません。読者諸賢が本作を注意深い態度でお読みくださるよう、お願いいたします。
文春文庫編集部 

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いやあ、驚いた。けさのYahooのトップ画面である。
Yahoo  JAPAN
携帯電話およびスマホに疎い僕としては、学割の意味もよくわからないのだが、データを無料で増やしたオプションをつけると許容量オーバーかなにかを起こすのか、火花を放つ現象が起こっている、だから危ないよ、という記事かと思ったのだ。で、それをクリックしてみると……
ニュース
この文字である。「けいたい・がくわし・れつ?」。とっさに「割」の字の訓を考えてみるが、「わる・さく」以外に出てこない。もしかしたら、「はげしく、われる」という文章の誤植かとさえ思った(ときどき誤植はある)。

何度も書いてきたことだが、高島俊男が新聞記事の「高校生ら致される」という見出しを読んで、「なにをいたされたのか?」と思った、という文章があるが、こういう混ぜ書き表現はいまだにある。ネットで調べてみると、ここらへんはまだ遣われていそう。
  • 安ど
  • 隠ぺい
  • 覚せい剤
  • 警ら
  • けん引
  • けん銃
  • こう着
  • 混とん
  • 辛らつ
  • どう喝
  • ねつ造
  • 破たん
  • 辺ぴ
  • 補てん
  • 黙とう
  • 憂うつ
  • ろう城
これらの文字は、一読してピンとこないところに味がある。で、平仮名が入ってくるために、視覚的な愛きょう(愛嬌)も生じることになる。
警察官二名が、辺鄙な地域を警邏中に、覚醒剤中毒者が拳銃を持って籠城しているのに遭遇、現場は一時騒然となり、混沌とした状況となった。事態は膠着しつつあるかに見えたが、遅れて到着したベテラン刑事の牽引によって突入が図られ、犯人自殺という思わぬ展開を見せた。
この男については、某会社社長を恫喝した罪で逮捕状が出ていたが、この会社は過去に架空の損失補填を捏造したり、不適切な取引を隠蔽した結果、経営破綻していた。 
県警の発表では、「このようなことになってしまい、死亡した犯人には黙禱せざるを得ず、まことに憂鬱な思いではあるが、近隣住民においては、今夜は安堵して眠ることができるだろうから、それだけが救いである」ということだったが、記者からは辛辣な質問がいくつも飛び出た。
という文章も、
警察官二名が、辺ぴな地域を警ら中に、覚せい剤中毒者がけん銃を持ってろう城しているのに遭遇、現場は一時騒然となり、混とんとした状況となった。事態はこう着しつつあるかに見えたが、遅れて到着したベテラン刑事のけん引によって突入が図られ、犯人自殺という思わぬ展開を見せた。
この男については、某会社社長をどう喝した罪で逮捕状が出ていたが、この会社は過去に架空の損失補てんをねつ造したり、不適切な取引を隠ぺいした結果、経営破たんしていた。
県警の発表では、「このようなことになってしまい、死亡した犯人には黙とうせざるを得ず、まことに憂うつな思いではあるが、近隣住民においては、今夜は安どして眠ることができるだろうから、それだけが救いである」ということだったが、記者からは辛らつな質問がいくつも飛び出た。
という文章になれば、事件の持っているし烈さ(熾烈さ)は消え、なんとなく間抜けなものに見えてくるものだ。それがいいということでは決してないけれど。 

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年末は『赤めだか』で、年始に『坊っちゃん』なんて、二宮尽くしと成って了ったが偶然である。
ドラマの惹句に「痛快学園ドラマ」とあったので、何うやらおれの知っている『坊っちゃん』と随分違うようだと思った。その為、録画して置いたものの些か億劫となっていて昨日まで観ないままでいた。
放送を観終えて、書棚から『坊っちゃん』を取り出して来て読み始め、これまた偶然に数日前に読み直した許りだった関川夏央・谷口ジローの漫画『「坊っちゃん」の時代』を机の脇に置いて、読書の参考とした。


先ず配役のほうからやっつけておく。
坊っちゃんが二宮。
『赤めだか』のときと同じく、はじめは「いかにも詰まらん」という反応をして了ったものの、ずっと観ているとその内に声がいいという事に気づく。判り易い所で云えば、叫ぶ場面。叫んでも、発声や滑舌の悪さの為に声に不純物が混じっているような声に成っておらず、一音一音が確りと聞えた。これは随分立派だ。きっと役者の仕事を弁えているんだろう。或いは、舞台で鍛えられたのかも知れぬ。遠くの席に座っている客に対しても聴かせられるよう、きちんと基礎が出来ているという感じがした。だが、『赤めだか』の所でも書いた事だが、彼の演技はなぜか慣れて了う。不満は特に無い筈なのだが飽きて了うのだ。脚本が詰まらないと云えばそれ迄の話なのだが、驚ろきが無い。もっと面白い役を当てて貰えればいいのだろうが。
赤シャツはミッチー。
一等台詞の多かったのが彼、という印象を持った。卑小卑俗の奸物としての赤シャツという役回りを、よくぞ受け入れたものだ。ミッチーといえば、伎倆は兎も角、ドラマ『相棒』での寺脇の次の相棒という配役を以って役者の格を可成り上げた筈だ。それ迄の彼ならば、イロモノ的扱いが多く、正しく今回の赤シャツ的な役を任されたとしても全く不思議のなかったものだが、今は人気役者の一人である筈で、その彼が敢えて高慢ちきで厭味な人物に挑戦するという事に驚ろいた。しかも徹頭徹尾、その赤シャツにいい所が無いという点がよかった。何れにしても、ご苦労様という素直な称讃と拍手を送りたい。
山嵐は古田新太。
原作の印象からすると年が行きすぎだが、全篇通じて真面目に芝居していたのには大変好感が持てた。元々の舞台役者なので矢張り声が確りしていた。いつも斯うだったら、それ程までに嫌いではないんだが。
野幇間は八嶋智人。
赤シャツにお追従許りしている腰巾着野郎だが、原作とは違って、最後の辺りで遂に赤シャツに反旗を翻して花を持たせて貰っている。
狸校長は岸部一徳。
この人物についても、矢張り花を持たせて貰っていた。それとは別に、岸部一徳のあの「棒読み」とでも呼ぶしか無いあの声の出し方は、後世にきっと残る一大発明ではないか。
うらなりは山本耕史。
兎に角、ドラマのうらなり君は怪しくって仕方がない。山本耕史当人の結婚に関してあまりいい噂を耳にしなかった為か、口数の少ない大人しい人物を演技していても、何うしても何か事を起こしそうな挙動不審の人物に見えて了い、自然恐ろしい雰囲気が醸成されていた。これを役者冥利に尽きると云うべきか。髪型についての怪しさはまた別物だが、これは数年以上も前からおれは弟と一緒に心配していた。ずっと二枚目で通そうとするものだから無理も生じるのだ。
マドンナは松下奈緒。
どうでもいい役。小説でも大して印象は無いのだが、それは兎も角、二宮との身長差は随分な意地悪だ。
清は宮本信子。
まことにずるい。平仮名許りの稚拙な文字で坊っちゃんに手紙を書く場面なぞは、矢張りずるい。
おまけとして、又吉。
蛇足の感あり。旬な人物として彼を出演させたのだろうが、結果物語が小さくなって了った。文化人としての又吉なのか、将又、喜劇人としての又吉なのか、そこの判別に確りと踏み込んでゆけていない。中途半端な役どころと中途半端な演技が詰まらない。


原作の『坊っちゃん』に対するおれの概括は斯うだ。旧い時代が、来るべき新しい時代に敗れる物語。旧時代に属するのが、坊っちゃん・山嵐・うらなり・清で、新時代に属するのが、赤シャツ・狸・野幇間・マドンナ。結局マドンナは許嫁のうらなりではなく、赤シャツを選ぶ。これは親の言いつけなんぞではなく、彼女の独立独歩の選択の結果だ。ここらの解釈は『「坊っちゃん」の時代』に詳しいが、新時代の女マドンナに対して、旧時代の女の象徴として清を置いている。だからこの小説は、清の墓の事を記して終る。
そんなら上に書いたような物語が、現代で評価されるだろうか。おれはあんまりそうは思わない。この小説に痛快さは無い。精一杯の抵抗が最後にちらと出てくるが、僅かひと月程で「不浄の地」から撤退した坊っちゃんの迎える終劇は、苦い。
今は何でも判り易いものが求められる。だから、偏屈な坊っちゃん/気弱なうらなり/計算高いマドンナは、真直ぐな気性の坊っちゃん/大人しいが一途なうらなり/その一途さを終いには受け入れるマドンナにそれぞれ書き替えられる。原作では和解すらしない生徒達とも、ドラマでは和解どころか影響を与えたという事に成って了う。「痛快学園ドラマ」として了えば、より構図が判然とするからだ。

一体に、『坊っちゃん』は明治の小説だ。具に云えば明治三十九年に書かれた。だからそこに書かれた考えが今に通用する事の方が少いだろう。
譬えば、何んなに公平に読んでも坊っちゃんは好人物じゃない。松山の人間を侮り、松山の土地柄を腐し、平生から不機嫌で、殆どの事に怒りを感じていて、真直ぐと云えば真直ぐなのかもしれないが少々頭が足りない位だし、おっちょこちょいで粗忽者で食い意地が張っている。横柄な所もあるし単簡に人に騙される。騙されたと云って又怒る。何処を何う見ても小人物だ。
この小人物で田舎者たる人物こそが江戸っ子だとおれは思っていて、江戸っ子という言葉は何も都会人という事ではない。首都たる江戸(東京)を誇りに思っている、という点でお国自慢の田舎者のお仲間なのであって、他の田舎者と変る所はない。それだから、主役の「坊っちゃん」は松山を田舎だとしてバカにするが、その実、本人もバカにされている。五月の鯉の吹き流しと思っているのは手前丈で、きっと赤シャツなんかには間抜けのとんとんちきと陰口を云われているのだろうし、山嵐に至っては面と向かって云われて了う。
「君はすぐ喧嘩を吹き懸ける男だ。なるほど江戸っ子の軽跳な風を、よく、あらわしてる」
(岩波文庫版 102p)
作者の漱石は英国に数年間も留学していたわけだから、東京に拘泥する人間の料簡の狭さというのを客観的に判っていた筈で、そこを描く事でユーモアが生れるという事も判っていただろう。また、東京で多く読まれるだろう事を予め見積もっていたという部分もあろう。
尚、おれは斯ういうまことに情けない偏屈な人物としての坊っちゃんを愛している。それはおれが東京生れだという事にもきっと関連している。これはおれにとってはお国自慢の一つなのかも知れない。
また、繰り返しになって了うけれども、ドラマではマドンナは最終的にうらなりを選び駆け落ちするが、原作ではマドンナが主体的に赤シャツを選ぶ。これは、新時代の合理主義の顕れだとも受け取れる。本来なら、合理的な選択が出来る方が進歩的な筈で、尠くとも漱石はそう思って書いている筈だが、劇脚本では、一途さの徹底という単純簡明な表現に留まった。原作通りの行動をして了ったら、単なる不人情と受け取られかねないからだろう。

斯う云った捻くれた感情や背景から生まれた小説を、現代的な心持ちで受け止めようとする方が六づかしくて、そんなら筋書きを変えちまおうと考える方が道理だ。つまり翻案である。
おれは古典を翻案する事について何も蚊もの反対者では無くて、一昨年のNHKドラマ『ロング・グッドバイ』のような、意義の有るものに関しては喜んで受け入れる。然し、『坊っちゃん』のドラマ化はきっとうまくないだろうと思ったし、実際にドラマ化されたものを観て、うまくなかったと思った。
原作に沿った通りにやるんだとしたら、共感する者が少いだろう。その反対に、単純化し過ぎて了えば、元々筋の少いものだから単純過ぎて詰まらないという羽目になる。今回のドラマは後者に中る。
毒を消そうと薄味にし過ぎて不味くなる料理というのは幾らもある。真直ぐで気持ちのいい青年の坊っちゃんが、「田舎」じゃなくて「地方」にやって来て、そこで多少の揉め事を経て、けれども生徒達には到頭正直の美徳を伝える。それに感化されたうらなりとマドンナは遂に愛を選択し、全て目出度し目出度し……と成るだろうか? 考えてみれば、坊っちゃんは何も成長していないのだ。好き放題やって、何ら省みることなく「お坊ちゃん」のまま東京に帰るだけの物語。丸で成長を拒否する非成長譚だ。そりゃあそうだろう。「~ぞな、もし」「~かな、もし」と喋って主人公の不興を買うあの松山言葉が一切出来ない今回の物語は、正に「何処でも無い場所」に於ける「誰でもない人間」の物語に成り下がって了っていたのだから。

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