とはいえ、わからないでもない

2016年02月

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いましろたかしのマンガ『デメキング』に、いつも駅の構内で突っ立って、首から「私の詩集 一部70円」のカードをぶら下げた男が出てくる。この男は、「僕の詩はバカにはわからない」と言い放つように、いっけん達観しているようなのだが、あるとき、泥酔したあげくにそこらへんに寝転がって、「有名になりたいよ~ 有名になりたいよ~」とうわごとを言う。その姿を見た主人公が「なんだコイツ結構俗だな」というセリフを吐くのだが、僕はこのセリフを気に入っている。


ヒャダインという音楽家がいて、アイドル関係のラジオ番組をやっているものだからけっこう聴いているのだが、聴けば聴くほど彼に対して嫌な感情を持ってしまう。
なんだかやたらと、つんく、秋元康を褒める。神とかモンスターとか。聴いているこちらが恥ずかしくなる。
また、大家と言われる人に対してもめちゃくちゃ褒める。はっきりとは憶えていないけれど、美空ひばりを褒めたり、松本隆を褒めたり。評価の定まっていない人物よりは、既に評価が定まっている人間を猛烈に褒めるのが得意、という印象。また、ゲストに対してもめちゃくちゃ褒める。やはり聴いているこちらが恥ずかしくなるほど褒める。慇懃無礼という芸風を採っているのかと思うほど、褒める。最近ではダンス☆マンと野宮真貴に対して褒めていた。そんなのは楽屋でやれよ、と思った。

褒めるっていうのはけっこう胡散臭い行為であって、特に相手に向かって直接言う場合には、称賛というよりは世辞、媚び、おべっか、おもねり、へつらい、追従、諂諛の類に聞えることが少なくない。
どうしても抑えがたい告白衝動のすえに、「ファンなんです」と一言いうのならまだ理解できるが、それ以上の「自分がどうしてあなたを好きなのか」という詳細を滔々と述べるっていうのはある意味失礼なくらいなのだが、それをあえてやる彼の動機を邪推するに、商売上の戦略と考えると途端に得心がいった。

出自というとヘンな言葉のように取られかねないが、彼の評価されるきっかけっていうのはネットだったってことをなんとなく知っていて、だからその「出」をネットというふうにとらえているのだけれど、僕はてっきり、そういう人たちはアングラ志向というか、反メジャー的な姿勢なのかと思っていたのだが、あんまりというか、全然そういうことはないみたいね。むしろ、大樹擦り寄り型というか、長いものに自ら飛び込んで行く系というか。

むかし大槻ケンヂが言っていたか書いていたと思うんだけど、むかしガロを読んでいるやつなんて同じ教室にはいなかったから、雑誌に投稿して友だちを探したもんだ、みたいなこと。それだからよかったのか、あるいはそれが寂しかったのか、その文章の結論は思い出せないんだけど、それを読んだ僕は「だからよかったのかもね」という感想を持った。
でもいまは、インターネットで簡単に「仲間」を見つけられる。ひとりぼっちの思いをしなくても済む。少なくとも趣味の話では。
そのことを僕は、数人の「同志」を見つけられるネットって便利だよね、ってことだとけっこう長いあいだ思っていた。
でもそれは、一部のあいだではどうやら間違いのようで、数人なんかじゃ物足りなくて、数十人、あるいは数百数千数万人の同志をつくってクラスタなんて自称してつながって騒いでいたいみたい。つまりマイナーでいいよってことじゃなくて、メジャーになりたいんだよね、けっこうな人たちが。

僕がネットに対してけっこう醒めた部分を持っているのは、そういう部分に対してなんか恥ずかしいと思っているからで、いままでもちょこちょことそんなことを書いていたけれど、マイナー志向かと思っていた人が、いつのまにかメジャー界隈に入りたがっている様を見ると、要はこの記事のタイトルみたいな感想を持ってしまうのだ。

ヒャダインに話を戻すと、素人が言うのならわかるけれど、プロが臆面もなく同業者を褒めるっていうのは、ごますりにとられても仕方がない。ごますって仕事もらって仲間になってより業界の「上」に行きたいのかな、と思ってしまう。サラリーマンの社会だったらそう見られて当たり前だから。
だから最近は、彼の「いや~、むかしから○○さんの大ファンなんスよ~」みたいな発言を聴くたびに、それが、「有名になりたいよ~ 有名になりたいよ~」に聞えて仕方ない。
そしてネットにも、「有名になりたいよ~ 有名になりたいよ~」という声が聞えてくる文章が、腐るほど転がっていることに気づく。
で、ネットにある文章で重要な価値を持っているのは、ほとんどの場合、そんなことをまったく考えてもいない人が書いているものだったりするんだよな、皮肉なことに。
(はてなでこういうことを書くと、「重要な価値」っていうのはすべておまえの主観だろ、とか、有名になりたいと思うことのどこが悪いんだ、とか、承認欲求というものがあってだな、なんていうツッコミが入ることが予想されるんだけど、そういうのに対しては、「まあいいんじゃないですか、そう思ってりゃ」としか思わない) 

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あまり観る気がなかったのだが、第一話からなんとなく観始めて、いろいろとツッコんで、おいおいこれじゃあ観る気がしないよ、とつぶやくだけじゃ物足りず、実家に電話をかけてさんざんあーでもないこーでもないと言っていて、それから、よせばいいのに文句つけたさになんとなく「ながら観」をつづけているうちに、「お?」とぼんやりだが面白さがわかってきて、というか、面白く観られる解釈の仕方を見つけて、それからはその解釈に乗せて観ていくと、今度は素直にげらげらと笑えるところが多く、おいおいこれけっこう面白いじゃん、とつぶやくだけじゃ物足りず、また実家に電話をかけてさんざんあーでもないこーでもないと言った、ってのがきのうのこと。

というわけで、腰を据えた鑑賞をしていないものだから、細かいところがよくわからないのだが、まあたのしんでいる。
第一話のはじめ、源次郎がミスって敵方のど真ん中に入ったところを「御免」と言って馬に乗って逃げちゃうところとか、第一話のラスト、野原のなかを進む一族の逃避行(女性含む)に野武士みたいなのが襲いかかるところでおしまいだったが、まずこういう部分に「なんじゃこりゃ、こんな状態にしておいて、次のシーンや次の回では『たいへんでしたなあ』で済ませちゃうのかよ。そんなの戦国時代じゃないじゃん。厳しさないじゃん」と腹を立てていた。
だが、何回か観ていくうちに、こりゃあわざとこうしているんだろうな、と思うようになった。つまり脚本家三谷幸喜は、意図的に戦争の悲惨さやむごたらしさの直接描写を回避しているのだろう、と。
僕は三谷ってそんなに好きじゃなくて、他の作品(特に最近のもの)は全然観ていないからなんとも言えないんだけど、『笑の大学』を観る限りは、逆方向からの反戦メッセージを感じた。「戦争反対!」と声高に言うのではなく、「笑うことを捨ててまで戦争をするなんて、ほんとうにバカじゃないか」という描き方で、戦争のつまらなさを批判的に浮かび上がらせるという手法。
もしその頃と同じような考えを三谷がまだ持っているのだとするのなら、舞台は戦国時代であるけれども、描きたいのは戦じゃない、とはっきり思っていることだろう。
それじゃあなにを描きたいのか。
人間の生きる力、武士としての誇り、家族の絆の深さ、などを描きたい、なんてことはNHKの記者会見みたいなところでは言うかもしれないが(そして近所の書店にある販促用の『真田丸』エンドレスビデオのナレーションではそんなことが語られているが)、実際はそんなこともあまり考えていないんじゃないか。もっと単刀直入に、「大河でも笑いたいでしょ!」ってことなんじゃないのかな。まあ気楽に観るのが正解なんじゃないか。

役者陣がいいよね。草刈正雄ってこんなにいい役者だったのか、と毎回驚く思いだし、兄貴の大泉洋の堅物の演技にも嬉しい驚きがあって、いままで大泉のことを軽く観ていたが申し訳ないという気持ち。姉の木村佳乃も母親の高畑淳子も祖母の草笛光子も自由闊達で文句のつけようがないし、なにより内野聖陽の家康が面白い。藤岡弘(読点抜き)と近藤正臣もいい味出していて、あの伊賀越えだって、賛否両論はあるのかもしれないけど、わざとコメディとして描いたわけだ。情けない家康がへろへろになって家臣一丸となって逃げるというのは、ある意味リアリティがある。英雄的じゃないんだよな。というか、この物語ではいまのところ誰も英雄じゃない。すべてを透徹した目を持つような人間がおらず、たとえば草刈の昌幸は、けっこう時勢に見放されて行き当たりばったりしているのだが、そこでもタフさを失わないし、でもそのタフさはわりと単なる見栄だったりもして、これまた英雄という感じがしない。英雄じゃないから、面白い。この草刈昌幸は、傑作のキャラクターだと思う。
この昌幸と家康とを観たいがために、最初は文句を言いながらも観つづけたのだ。
結局、みんなそれぞれの立場で四苦八苦したり謀略したり騙されたりしていて、つまり全視点でたのしめるのだ。なんだかやたらとにやにやしているけれども小者臭も拭いきれない高島政伸に期待してもいいし、ちょっと弱い部分や人の良さを見せたと思ったら手痛いしっぺ返しを食らった段田安則に同情したっていいし、あるいは、信之がなんか言おうとすると、そこに「黙れこわっぱ!」と西村雅彦がかぶせて怒鳴るというコントや、信之の奥さんが出てくると始まる病人コントに注目したっていい。
あと、見直したといえば長澤まさみ。このキャラクターもいい!
喧嘩するほど仲が良い、ということを証明するために源次郎と口喧嘩しているわけではない。おそらく長澤が源次郎の妻になるのだと思うんだけど、もう今まで星の数ほどあった「芯があって強くて、けれども慎ましくて夫を内助の功で支える女性」じゃないところがいい! これはもう声を大にして書きたいけれど、いままで佃煮にするほどあった大河ドラマのヒロイン像を大きく逸脱しているのがよいのだ。口うるさくてわがままで自己中心的で、まあ三谷ドラマではよくいそうなキャラクターなんだけど、これがヒロインっていうのが実に現代的でいい。
朝ドラのかまととヒロインとか、ジブリの健康優等生少女とか、すでに確立されたキャラクターをなんで金太郎飴みたいに繰り返すんだよ、と僕はつねづね言ってきた。少しは頭使えよ、と。新機軸のキャラクターをひねり出せよ、と。
それだけでも、この大河ドラマは一見の価値があると思う。しかも、あまりにも蔑ろにされてきたためか、本来は美人なはずの長澤まさみがほんとうにしょうもない感じに見えてきて、それが二重の意味でよい。長澤まさみの為にもよい。妻になる/ならないは別として、俳優として本当にいい役をもらったのは、黒木華じゃなくてやっぱり長澤なんだよな。

ただ、ひとつだけでっかい瑕疵があるとすれば、やっぱり堺雅人の優等生演技なんだよなあ。ほんとどうにかならんのか。彼について、喜怒哀楽のすべてを笑いで表現する男、とかいうキャッチフレーズを見たことがあるけれど、もし本人がそんなふうに思っているのなら決していいことじゃないよ、それって。俳優としての努力放棄じゃん。
他のドラマではいざしらず、と武士の情けをかけるけど、もうちょっと工夫せい、と思う。あまり目立たないところの役者でもいい雰囲気を醸し出している人がけっこういる(織田信忠や直江兼続など)というなかで、このいつも笑っているようなこの表情、いやたしかに、たしかにそれがうまく行っているシーンもあるんだけれど、その一番うまく行っているのが長澤まさみとのやりとりってのも、大河ドラマとしてはある意味哀しいことに感じる。
たのしめる大河、笑える大河なんだけれども、上述したように、草刈正雄とか大泉洋の演技なんかはけっこう力が入っていて戦国時代もののよさも充分感じられるのよ。それだけに、もったいないと感じてしまう。
堺が出るたびに、ああ、これってやっぱりミスキャストだったよなあ、『半沢』の影響ばりばりのときにキャスティング決まっていたしなあ、だいたい、いまだに「のどごし生」の抜擢も失敗しているって感じているしなあ、と思った挙句、誰だったらよかったろうか、と脳内オーディションが始まってしまうのだ。

あと現時点で感じたことは、遠藤憲一、同クールでどれだけドラマに出るつもりだ、と。
また、最新回では木曽義昌が出てきた。
木曽義昌
この人、どっかで見たことがあったなあ、誰だったっけかな? たしか役者じゃなかったよな、素人だったよなあ、と思っていたら、きのうやっとそれに気づいた。自民党の二階俊博だ。
二階俊博
実際は、石井愃一でした。

以上、思いついたところをだらだらと記した。 

【2016/2/24追記】
ふたつ思い出した。

ひとつめは、オープニングの音楽がかなりカッコイイってこと。
もうひとつは、地図。これはたぶんオフィシャルになっていると思うんだけど、ゲーム会社のコーエーが担当しているんだよね。コーエーっていうか、古いユーザーからすれば光栄。
これって、この大河が初めてなのではなくて、少なくとも、ちょうど去年の今頃に民放でやっていた『くりぃむしちゅーの歴史新発見 信長59通の手紙を解読せよ!』という番組のなかでもコーエーのマップが使われていた。
でね、歴女なんてえものが巷間では騒がれていますが、いやその騒ぎってのもだいぶ鎮静したのかもしれないが、それよりもっと前から、コーエーのゲームで戦国ものを好きになった人間も多いはずなんだよね。しかもそのゲームっていうのも、『三國無双』とか、カプコンの『戦国BASARA』とかじゃなくて、シミュレーションゲームの『信長の野望』。
でも、僕もそうなんだけど『信長の野望』のおかげで戦国時代にちょっと詳しいって、なんか恥ずかしいところがあって、おおっぴらに言えることじゃなかったんだよね。で、大河ドラマも、そういう層というかユーザーに対してたぶん徹底的に無視していたところがあったと思うんだ。
けれども、今回はじめて(たぶん)コーエーのマップが登用されたことで、『信長の野望』ユーザーがやっと許されたというか認められたっていう側面があって、個人的には非常に嬉しかった。
本当は、『天地人』なんかで妻夫木聡・北村一輝のBL具合をたのしむとか、そういうのよりもっと早くやるべきだった、と僕は思っているけどね。

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「ぎだゆうわりとかつやく」の回。
さて、前回のつづきで、天満屋で平野屋の親旦さんとお初とが対面しているところから始まる。
で、観ていない人にはまったくわからないことを書くと、BGMの回転数が落ちて、番頭の喜助は狸のぬいぐるみになったとさ。でも、それは妄想だったのさ。

で、きっちりシリアスモードのまま、お初と忠右衛門とが真ん中に大金を置いて押し問答を繰り返す。
一方、なにも知らずに天満屋にやってきてお初と会おうとするあほぼんを、必死に止めようとする近松。その近松、あほぼんのことを評する言葉が、よりによって「ハートがピュア」。物書きなんだから、もうちっと日本語で言う努力をせんかい!
結局、近松がついた苦し紛れの嘘が逆効果となり、あほぼんはいきり立ってお初に会いに行く。そして、その場にいる忠右衛門、刃物を抜いたお初、そして置いてあった大金を見て「大人は汚い!」と地団駄を踏む、この徳兵衛のかわいさよ。
このシーンの、近松、お初、万吉、喜助だけでなく、忠右衛門も一緒になって「ええ?」と言うところがまたよい。これは前々回の黒田屋への誤解のシーンでも見られた手法で、なんだか悪役(けっきょく忠右衛門は悪人ではないのだが)すら好人物に見えて、憎めなくなってしまうのである。
また、深刻で息の詰まるような重いシーンによって視聴者に強いられていた緊張感が、この徳兵衛の介入によって一気に大笑いへと爆発する。まさに緊張と緩和の手法だ。

徳兵衛の勘違い、近松の機転、喜助の促しによってとりあえずは丸く収まるかに見えたところで、万吉が口を挟む。まだ仇討は終わっていない、と。
ここで、今回の「歌」。これは聞いたことがあったけど、正確なタイトルまでは知らなかった。『知りたくないの』。
真実を知り、お初に謝る徳兵衛の迫真の演技。つづいて自刃をしようとするその徳兵衛を、止める父。そこに喜助も入って、三人で刃物を取り合い、あわやというところで、近松の尻にちょこんと刺さって、オチがついた。これもまた緊張と緩和。
しかし、ここでの万吉、空気を読んでしまえば、とりあえずはみな無事であることを再優先して尻切れトンボのままにしてしまいそうなものを、あえてそうせず、曖昧なままの決着を回避する。そして、存外、場を冷静に見ている。
喜助の口から、忠右衛門がいまだにお初の父・格之進を弔っているというのを聴いて、「あ! そういえば位牌はふたつあった!」と思い出した。すげー!
すべての内情を打ち明けたのち、忠右衛門があらためて差し出した大金を断るお初。それが彼女なりの仇討であり、彼女の父への孝行だという。
しかしこのドラマはそこからさらに一段高い視点に立って、それが本当に幸福なことなのか、という問いを近松のセリフによって提示する。己の生き方を貫いているようでいて、世の仕組みにがんじがらめだ、と。
このように悟った近松が、万吉のことをあらためて見直す。ということは、直観的で幼くて空気を読まない万吉によって、近松に現代的視点がもたらされた、とも言える。いよいよ万吉は不思議な存在だ。

近松の帰宅前に、近松の母親と義太夫とが話している場面で、せがれが傑作を書けるかどうかを心配する母に、義太夫が胸を張って言う。「あほなことをいうたらあきまへんで。近松っつぁんは当代きっての浄瑠璃作者です。当代きっての太夫の私がゆうんやさかい、間違いおまへん」
やっぱりここでじいんとしてしまったのだが、感動したのは北村有起哉の演技力だけではない(それも大きいけど)。義太夫が自信を持っているのは、前回の万吉に無根拠の自信を与えられた、という伏線があったからであり、また、今回のタイトル、「義太夫、わりと活躍」の「活躍」という言葉が、ここの場面にかかっているということなのだ。
で、次回の予告を見ると、近松の母が故郷に帰るみたいなことになっていて、たぶんこの「活躍」と無関係ではなかろう。ういろう。

ちょっと話を戻して。徳兵衛とお初とが心の底をさらけ出すことができぬまま別れ、お初がその場で泣き濡れる場面。小池徹平、ほんとよくなったよなあ、と感心して観ていたのだが、この場面が終わると、その隣の部屋でずーーーーーっとこれらを覗いていたと思しき黒田屋の部下が、「あー、長かったでんなー」と尻もちをつく。そこにカッコつけてるけど汗をかきまくっている九平次=銀之丞のアップ。この銀之丞の隙のある感じが好き。

そういえば、公式サイトでこのドラマのサントラが発売されることを知った。『不孝糖売りの歌』とかあるのかしら。万吉バージョンだけじゃなく、feat. ちかえもんバージョンとか、feat. 徳兵衛バージョンとか。
話は変わるけど、昨年土曜ドラマで放映された『64』も、文化庁芸術祭賞大賞を獲ったのだから、サントラをどうか出してほしい。 

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「ターゲットはちゅうえもん」の回。
 前回の思わせぶりな銀之丞=黒田屋のセリフを受けて始まった。

考えてみれば、富司純子もコメディをやってるんだよな。前回の、井戸端の噂を喜々としてせがれや万吉に聞かせようとするところとか、かわいらしかった。
『出世景清』のあらすじを説明するのに、例の癖のあるアニメーションが使われたのだが、これが鉄拳じゃなくてほんとよかった。鉄拳を使っていたら、たぶんちょっと時間が経っただけで、ものすごくダサくて古臭くなるはずなんだよね。絵柄が古いとかそういうことではなくて、鉄拳があまりにも短期間で消費されたことによる。

母親と万吉とにぼろくそに言われ、「わいの浄瑠璃、おもろいと思ってくれるおなごがおるもんねー」とやってきた天満屋で、お初に怒鳴られる近松がちょっとかわいそう。この近松、カッコよく決められるところがほとんどなく、そこがまあ松尾スズキに適任なんだけど。

遊女はいろいろな過去を持っている、と前置きし、人形浄瑠璃を見たことがあるお初を羨ましいと言うお袖がいじましくていじましくて。そのお袖がぼうっと見ている桶型の金魚鉢。この美しい器に入れられて、見ている人からもたっぷりと愛でられるが、決してそこから出られない美しい金魚。これはまさに遊女のメタファー。背びれ尾びれをゆらゆらと揺らめかせて泳ぐ姿も、まさに遊女の華美な着物そのまま。
遊女といえば、お初の唇の紅だが、下唇はたっぷりと塗って、上唇を小さく塗るというのが当時のトレンドだったのだろうか? けっこう特徴がある。

お初の子供時代。『出世景清』の人形浄瑠璃に観客が一様に熱中している様がいい。これ、第一回のオープニングもそうだったんだけど、現代人であれば、そこそこの通人・趣味人でなければ文楽に心から熱中することはなかなか難しいかもしれないが、この当時は、あの人形の動きや、浄瑠璃の語りにリアリティを感じていたんだろうなあ、ということが知られ、人形の一挙手一投足に声を上げたり涙したりする様子は、とても興味深い演出だった。
しかしそれにしても、北村有起哉の浄瑠璃、ほんとすごくない?

さて。お袖が哀れになって涙を催した近松が部屋から出ていき、その近松を探すためにお袖が部屋を出たところで、お初が倒れるところに出くわす。一方、義太夫の探す声から逃れるようにして、近松がお初の寝ている部屋に誤って入って、彼女の過去を聞くことになる、というこの入り組んだ動き。これらのバタバタは、シチュエーション・コメディの手法で、観ていてやっぱりわくわくする。

義太夫と万吉の話すところで、万吉に「安心しなはれ。いまにちかえもんが傑作にんじょうぎょうるりを書きまっさかい」と太鼓判を押し、それに義太夫が「なんや、あんたに言われたら、ほんまにそんな気がしてきたわ。……ほんまに、近松っつぁんが傑作書いてくれそうな気がしてきた」と答える。
この場面に、なぜか知らないがものすごく感動してしまった。北村有起哉、セリフや登場回数は少ないのに、笑わせるところではしっかり笑わせてくれるし、今回のようにじいんとさせるところでは、しっかりとじいんとさせてくれる。
この場面を観ていない人には上に書いた文字だけではピンとこないだろうが、表情の動きや間のとり方、言葉の発し方に、この義太夫のセリフには並々ならぬ感慨があるということが感じられるはずだ。こういうのを観ているだけで幸せな気分になれる。僕のなかで若い年代での名優は、北村有起哉と高橋一生ってことになっているので、彼らにもっといろいろな役を与えてほしいとつねづね思っている。

気軽にお初に仇討ちを勧める万吉を観て、やはり万吉は子どもに近いという印象を持った。もちろん、幼いという意味もあるのだが、直観的であり、自ら思ったことに忠実である。だから、空気を読まない代わりに、ときどき人の心の琴線に簡単に触れることができ、愛嬌があり、みなに好かれる。天衣無縫だからだ。
ただ、万吉の行動や考えは唯一解ということはなく、あくまでひとつの考えの提示、というのがこのドラマの面白いところ。
その証拠、というわけではないが、近松は、逸る万吉を諫めて、仇討なんぞは古臭いやり方で、ほかに救われる道はなんぼでもあると明言してみせる。これ、伏線になりそう。
このドラマはいろいろ細かいところが伏線になるので、いろいろなところが気になってくる。はじめのほうで、平野屋忠右衛門が近松たちに朝鮮人参を振る舞ったのにも意味があったわけだし。そうなると、黒田屋の過去以外にも、万吉の過去や、お袖の過去の伏線もいままであったのではないかと疑心暗鬼になってくる。万吉は字が読める、ってのもそのひとつかも。
また、伏線というわけではないが、脇役のそれぞれにきちんとが光が当たっているのがいい。今回も、お初から偶然聞いてしまった因縁話によって急に創作魂に火が点いてしまった近松に、高岡早紀の女将が、よく見えるようそっと明かりを置いてくれるのだが、ここで光が当たっているのは高岡のほうなんだよね。あけすけで自信満々できつい性質でもあるのだろうが、やはり優しい部分もある、というのがこのワンシーンだけでもわかるし、近松の周囲の人間が、口ではなんと言おうと、心の底では近松にそれなりの敬意を払っているというのが仄見えるシーンでもある。いいシーンだった。

あと、これはむかし高校のときに国語の先生から聞いた、おそらく俗説なんだろうけれど、心中ものの「心中」の語源は「忠」の字を逆さに読んだことから、という話。だからこの物語では、忠に反する親不孝の不孝糖を売っているし、忠に直結する仇討の話も重なってくる。いわば、忠への二元解釈だ。
そろそろ後半戦に入って、いよいよ曽根崎心中創作の話になってくるのだろうけれど、いまの近松のスタンスは、心中なんてバカげていると考えそうだし、前述した「ほかに救われる道はなんぼでもある」というセリフと矛盾しない解を導かなければならない……うまくまとまるのか、心配だなあ。

なお、冒頭の今週の「元禄ソング」は、『赤穂浪士の場合』で、これは元ネタ知らなかった! 『フランシーヌの場合』か。おかげでこの歌がどういう言われがあって、なんかを知ることができたけど。
さあ、次回はどんな歌になるのか。じゃなくて、どんな展開になるのか。やっと追いついてきたぞ。

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前回のつづき。

「ぜんかあくかくへいじ」の回。
せっかく近松に「木曜夜8時にテレビの前にすわり、時代劇をご覧になろうっちゅう善男善女のみなさんには釈迦に説法でございますが、」と愛想を言ってもらったのに、寺坂吉右衛門という人物を僕はまったく知らなかったので、「ほぉ~」と驚くところが始まった。

今回は、母上の持ってきたこの寺坂が大阪にいるという噂話に翻弄される話。
しかし、まさか浅野内匠頭も、自分が「朝の沢庵の残り」という言葉とダジャレにされるとは夢にも思っていなかっただろうに。

前回の流れから、「若旦さん」という重いポストから解放されて手代となった徳兵衛が、同じく手代の佐七になぶられるところが、ものすごく微笑ましい。佐七の冗談に対してしゃれで返す徳兵衛、それをみんなして笑う丁稚、番頭、そして徳兵衛自身。なんかここだけで泣けてしまう。「バカ息子がまじめに働くようになった」と親でもない僕が、彼の成長に嬉しくなってしまう。
もともとここの店(たな)というのは、情に厚いところらしく、前回、小さな丁稚が店前に着いた醤油樽の荷を掲げようとすると、番頭が「おい、定吉っとん、おまえにそんな荷は大きすぎるやろ」と心配するシーンがあって、ああいうところにも、番頭の情け深さというものが感じられた。

黒田屋と与力とが町ですれ違って耳打ちをする場面、ここのちょっと前のところで、手前の堀で小舟に乗った船頭が舟の上で筵を畳み直している。
これ、『かんさい熱視線』でちょうど放映されていたから知っているのだが、この船頭の筵直しは、アドリブである。同番組の主旨のひとつが、京都(たしか太秦)の撮影所には熟年の伎倆と知識とを持った人間がたくさんいるのだがその後継者不足に悩んでいる、というもので、その例として、この船頭をやった人(たぶん六十代後半くらい)が特集されていた。
たしか、実際に放映されたテイクよりもちょっと前からカメラは回されていたのだが、船頭役の人が、船頭の仕事のひとつとして、舟の底に敷いた筵を畳むほうがより自然だろうということでそうアドリブした、と言っていた。
画面には黒田屋が映っているのでほとんどの視聴者の視線はそこへ向けられるはずなのだが、視線からちょっと外れた、意識の外での細かな演技の集積がこういうドラマのリアリティを成り立たしめているのである。
役者だけでなく、セットの看板や細かな小道具、そのほか登場人物たちの着物など、制作スタッフたちの愛の籠っていないものはないと言っていいだろう。

今週の「元禄ヒットソング」は『傘がない』で、そのあとに黒田屋の屋敷が舞台となるが、ここがまた見事。
薄暗い日本家屋のなかで怪しい黒田屋がさらに怪しく浮かぶのだが、ここで万吉が、黒田屋は計略のうえであほぼんを引っ捕らえさせたと指摘する。なぜ、と黒田屋に問われると万吉、「あんたの狙いは、わいの不孝糖や!」と満面の笑みで答える。
この万吉の考えがかわいらしく、面白い。やはりこの男は、特に考えがあるわけではないのだ。だから、いいところを衝いてはいるのだが、根本的な間違いを起こす。そして、それよりさらに近松が致命的な勘違い、すなわち黒田屋を寺坂吉右衛門だと思い込むという、ボケの上のボケ倒しを行う。
それに乗っかる黒田屋の、「いかにも、わたしが、寺坂、吉右衛門です」というセリフの、この「です」がやけにシュールに響いてさらに大笑いした。もしかしたら「ドラえもんです」にちょっとかけているのかもしれない。
黒田屋は、もっとも身分の低い蔑まれた存在が下克上をする、という物語を近松に言い聞かせたが、これはたぶん黒田屋の本当の来歴に関係するものなんだろう。

こういう筋の面白さ、ギャグの面白さに隠れがちなのだが、以前から書いているように、このドラマは細部まで凝りに凝って、凝り抜かれている。撮影しかり、照明しかり、小道具しかり、舞台セットしかり。そのうえにある松尾スズキのゆるい演技に、ゆるいギャグ。
安っぽいつくりの上のゆるさはもちろん茶番しか生まないが、ガチガチに作り込んでも、真面目一辺倒であればそれはそれで軽みがなく、観ていて退屈する場合もある。
となると、この『ちかえもん』 というドラマ――「本格」の土台の上にあえて「軽み」を載せたドラマ――が示しているのが、現代の洒落、現代の粋ということになるのかもしれない。

あと、このドラマがなんだか愛おしいのが、黒田屋すらも、くすぐりに参加しているところね。ジャッキー・チェンの映画のエンディングで、いいものも悪者もみんながNGシーンで爆笑しているところを観ている気分になれるのだ。

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最近、ムラおこしのために都会からやってきた三十歳ちょっとの女性と話していたら、仏像が好きだということを教えてくれた。
「仏像ですか? 仏像、ぼく全然知らないし、そもそも仏教も知らないし、もっと言うと宗教がないんだけど、それでも、興福寺の国宝館にある、そう、あの阿修羅像のある国宝館の、でっかいでっかい千手観音像に感銘を受けて、あの大きさはもうそれだけで信仰の対象であることに納得できるサイズになっていて、僕みたいな部外者でさえ畏敬の念というものに支配されてしまったんですよね。
もともとあの場所に立っていたわけじゃなくて、もしかしたら僧侶や貴族以外の一般庶民だったら目にすることもできなかったかもしれないけれど、それでもきっと、これこれこんなふうなものがあるらしい、みたいな噂をもとにただただそちらの方角に向かって、そこに自分の苦しみをなんとかしてくれる力を持っている存在があることを信じて拝む、というような拝まれ方をしてきたんじゃないか、ってそのくらいは簡単に想像できるわけで、あの千手観音は、逆に言えば、気休めや『なんかいいことあるかも』という程度で拝む現代人とは比べものにならない辛さを現実のものとして味わっている人たちが頭を下げていた対象なんだから、しかもそれが何百年も前からあったってことは、何十万、何百万、何千万という人たちの思いの総体ということもできるんじゃないか、っていう気がしてきて、だってあの大きな顔を下から見上げると、性別もわからない、なに考えているのかも読めない顔があって、やっぱりこの存在はこの世のものではないな、という気が僕ですらしてきたんです。僕ですら、ね。
東大寺の盧遮那仏だって、わーおっきい、の一言で済ませてしまうようなものじゃなくて、やっぱりあの空間全体からなにか感じられるものがあって、というか、もともとそういう根源的な力ってものを感じざるを得ない場になっているはずで、例としてひとつ言えば、人間の能力じゃあの大仏像の全景を見渡すことは相当難しいんですよね。
自分の手を大きく広げても回せない大木みたいなものってことは、そういうサイズそのものがひとつの巨大な力を持つはずなんですよね。でも現代人になってしまうと、物をブツとしてしか扱わなくなるから、というか、ブツとして扱うことが科学で、科学が万能だと思っているから、そういう自分より高次にあるものを尊重しないんですよね。あるいは、尊重すらできないくらいに認識能力が低くなっているっていうか。
え? そうだよ、大木だって自分より高次の存在だよ。そうに決まってんじゃん。だから自然を大事にしろって話じゃないけど、でも、自分より長生きして自分より大きな樹が、自分より偉大でなにが悪い? ってそういうふうに思いますよ、僕は。
東大寺の大仏に戻ると、みんなあの大仏を目の前にして自分基準であの価値を決めつけようとして、たとえばある人にとっては、『写真に撮って<すごい>とコメントする対象』でしかないわけだ。ね? そんなことしか言えないのよかよ、そんなことしか思えないのかよ、って思うけど、現実はそうなんだからしょうがない。よくわかんないけど連れてこられたし。有名だから来たんだけど正直わかんないし。そういう人たちが来てできることが、ああいう『写真撮ったし、さあ帰ろ』なんですよね。
僕は信じていないけど、神様がいるとして、その神様が降臨というか僕たちの目の前におわす状態にあったとしても、はたして僕たちがそれを感得できるのかっていう疑問がありますよね? 真面目な問題として、もしいても、僕たちは気づかないんじゃないか。だから、神様は人間たちに自分の存在を気づかせるような合図とか、サインみたいなものを出すっていうふうな理解が一部であると思うだけど、それはそれで正しさがあるような気がするんですよね。そのサインを受け取ることで、間接的に理解できる。間接的に信じられる。そのような構造だったはずなんだけど、いまはそのサインも見えなくなっちゃった。だから目の前に偶像があったとしても、もはやなにも感じられないんだと思う。
で・も、見えることすらできない、感じ取れることすらもわからない大きな存在を具現化した存在は、たとえ偶像であったとしてもやっぱり偉大なわけですよ。で、たとえね、たとえ当初は一介の仏師による創作物でしかなかったものでも、神様とか仏様とかこの世界の成り立ち方なんかに対して、僕たちとはまったく別のリアリティを持った人たちが長年、何百年という大きなスパンで拝みつづけてきたことで、ほんとうの魂が込められて、いつか本物の仏様になったんじゃないか、ってそういうことが実感できたんですよね、あの興福寺の千手観音像を目の前にしたとき。それって、どう思います?」
と話そうかと思ったんだけど、うざがられそうだったので「へー、そうなんだー」で済ませておいた。 

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簡単に。

まず、水野美紀と遠藤憲一というコンビが、ちょっと前の『家族狩り』でのコンビにかなり似ているものを感じるので、なんでこのキャストなの? という疑問がある。
細部は忘れたけれど『家族狩り』では、水野はDV夫のヤクザから逃れる被害者で、遠藤はその彼女に便宜を図って逃げさせようとする刑事だったはず。
で、今回は、冤罪事件の加害者に仕立てあげられた水野と、彼女を加害者にしたことに罪悪感を感じて、無罪釈放となった水野になんとか救いの手を差し伸べようとする刑事。
最近、テレビドラマで若手の男女コンビがウケると、時を空けずにその男女キャストで映画をつくるってのが流行っているらしくて、『まれ』のコンビとか、『オモコー』のコンビとかがそれに該当する、なんてことをどこかで見たが、それと同じことをやりたいの?

それはともかく、『家族狩り』のときの水野美紀(といっても、このときはヒロインじゃなかった)の迫力はものすごくて、こんなに演技のできる人だったのかと驚いたくらいなのだが、今回は主役ということもあり、怒りや恐怖や動揺や哀しみに染まる表情をたっぷりと堪能することができる。
また、映像がすばらしい。ひとつひとつのシーンの撮影がまるで映画みたいに凝りに凝っていて、映像を勉強している人間(僕はしているわけじゃないけど)なら、参考になること多であろう。こういうところはNHKドラマのポイントで、たぶん制作費にかなり注ぎ込んでいるように感じる。木曜『ちかえもん』もそうだけど去年なら『64』もあったし、視聴率の多寡にかかわらず、やると決めたらやる、というような強靭な意思すら感じることが多い。であるからして、受信料を払っているのであれば、とりあえずNHKのドラマは一回くらいはチェックしておいたほうがコスト回収の点からもおすすめである。
第2話で、原田美枝子と水野美紀が入り江の海辺でしゃべるシーンがある。ここでふたりはやっと和解というか理解の端緒へと至るのだが、画面の向こう側で大きく打ち寄せる波がものすごく美しかった。原田と水野は言葉少なに話すのだが、それ以上に背景が雄弁に語っているようだった。
以上が良い点。すばらしい点、といってもいい。

その逆に悪い点。
もうね、第1話の仲里依紗の演技をちらっと観た点で、「こりゃだめか……」と失望したのはおそらく間違いではなかった。
仲里依紗がいままで思っていた以上に二宮和也に似ている、とかそういうことではない。仲の演技じたいがどうこうというより、役柄がもう、茶番臭ぷんぷんなのだ。
水野サイドのストーリーっていうのは、きわめて現実的な地に足ついたものであって、だからこそ重苦しく、けれどもだからこそ見る甲斐がある。もしかしたら自分に振りかかる可能性のあることに対して物語が訴えるものがあるからだ。
けれども、仲里依紗の役はなんなのよ。男に襲われそうになったから、相手の銃を奪って射殺して逃走。それだけならまだわかるのだけれど、どうやら彼女には「破壊衝動」があるらしく、いかれた行動を次々とし、第2話でも同じようにゆきずりの男を射殺している。
そういう狂気を持った人間がいないとは言わない。実際にいるだろうとは思う。でもそういう人間を描く場合には、その特殊であるはずの人間個人をきちんと描かなくてはいけないのであって、「破壊衝動にとらわれ殺人をものともしない狂人物」という典型的な人物像に則って描写してはいけないのである。
ところが、仲というかこの脚本の人物描写はきわめて浅く、きっとこんな感じね、と思ったことしかやらない。もう、第1話のなんかケラケラ笑っているあたりから「ああ……」とすぐにわかってしまう。おまえ、もうだいたいわかったよ、と。

映像がきれいで、漫画的なキャラクターが登場、というと、『MOZU』を思い出してしまった。あれも、途中までは面白かったのだが、(原作はいざ知らず)回を追うにつれ「背後にあるもの」を大きく見せるためか、キャラクターたちの一部がどんどんと化け物じみてきてしまって、そのぶん視聴者としての僕の心はどんどんと醒めていった。
で、『MOZU』との共通点といえば、キャラクターに「箔付け」をするための形容詞を、登場人物たちに語らせてしまうこと。第2話では、原田美枝子が「空っぽ」というキーワードを口にしたあとに、仲里依紗が自ら「わたし、空っぽなの~」みたいなことを言ったし、遠藤憲一たちの刑事チームがわざとらしい感じで「破壊衝動」というキーワードを口にしていた。それは口が裂けても言わせちゃいけないセリフなのに。
『MOZU』なら、男女の双子(だっけ?)が子ども時代に「ぼくたち、モズだね」みたいに話すところがあって、そのモズというのはつまり破壊衝動みたいなもののメタファーだったわけだけど、いやいやいや、それ言わせちゃダサいでしょと思った。
そもそも、「破壊衝動」という言葉じたいがもう擦り切れて賞味期限切れの古臭いキーワードであるし、制作側もそして批評側も、「狂気」とか、「心の闇」とかと同じように、こんな言葉はつかっちゃいけないのである。

上で「映画みたいに」と書いたが、このドラマは、映画の文体というのか、登場人物がなにも言わないシーンが多い。このことじたいは悪いことではなく、撮影部分がうまくいっていれば、非常にいい場合もある。
水野サイドのストーリーを、理窟っぽいセリフはできるだけ抑制して、いままでのようないい「絵」をつかって丁寧に追っていけば、たぶん佳品以上になったとは思う。けれども、仲里依紗がいて、おそらくこれはもっと暴走していくだろうから(そして「暴走」というキーワードも実際に劇中でつかわれることだろう、このぶんじゃ)、リアルテリトリーは茶番テリトリーにより侵蝕されてしまうと思う、残念なことに。
つまり、つづきが観たくもあり、観たくもなしというドラマなのである。

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前回のつづき。

「あほぼんとくべえ」の回。
いきなりガロの『学生街の喫茶店』かい! 「片隅で聴いていた」のはボブ・ディランじゃなくて、「義太夫節」なのね。余談だが僕は、ボブ・ディランの名前はこの曲で知ったんだよな。ついでに言うと、チャーリー・パーカーの名前は、森田童子のあの「はーるのーこもれびのーなかーでー」で、マーヴィン・ゲイは佐野元春の曲で知ったのだった。

今回はわざわざタイトルにも使われているあほぼんこと小池徹平が主人公なのだが、これがまたえらく性根の悪い男として描かれる。丁稚たちが仕事をしている前でわざわざ饅頭だか大福だかを食べて、「やらへんでー、恨むんなら自分の生まれを恨め」と嫌ごとを言う。この小池の憎ったらしさはなかなかのもので、しかしこれがラストに効いてくる。
そしてこの親不孝のあほぼんを、「突き抜けた親不孝」だということで不孝糖売りに誘う万吉。ここが面白いところなのだが、この万吉というのは、自分がこれこれこういうことをしたら、目の前にある揉め事も解決するだろう、なんてことはいっさい考えておらず、ただ自分自身の理窟に則って行動しているだけなのである。
であるから、空気を読まずにときおり的外れなこともやってしまうのだが、それでも大阪ことばでいう「あほ」、つまり「憎めないやっちゃ」という扱いを受けることになるし、後述するように、彼の「いらんこと」がまわり回っていい結果をもたらすこともある。しかしそのときも、自分の行動の影響についてなんら思いを致すことがない(ようにいまのところは見受けられる)し、そもそもそれを十全に理解しているかどうかも不明、というところが面白いのである。
これがもし、道化のふりをしてすべてを後ろから差配する目的をもって近松に近づいてきた、なんてことであれば、よほどの仕掛けがない限り、鼻につくことだろう。
物語上ではむしろ、すべてを見通せているのは優香のお袖という感じがする(いまのところ)。

なお、「あほ」で無害でどうしようもない人物のように見えて、その実、世間のことはそれなりに理解していて、ときおり周りを驚かせるような考えを口にする、なんていうのは上方落語の「喜六」の役どころ。
ある上方の噺家が、大阪落語の「喜六」と東京落語の「与太郎」は、それぞれ「あほ」と「ばか」ということになっているが、後者は、ほんとうに間の抜けたことしかしない嘲笑の対象でしかないのに対して、前者は、常識人である「清八」の舌を巻かせることもままあって、全然別種のキャラクターである、と言っていた。
ここらへんにも、脚本家の上方落語的見立てみたいなものを感じないわけにはいかないのである。

で、万吉の口車にまんまと乗せられて不孝糖売りを手伝うことになった徳兵衛の、通りすがりのいとはん(お嬢さん)に言うセリフが実に粋だ。
「わたしと親不孝してくれまへんか」 
そして彼は不孝糖売りとしての才能を周囲に見せつけてより多くの聴衆を集めることになり、不孝糖を買ってくれたお客には手を握る、というAKB商法を実践する。

一方この合間に近松の書いた忠臣蔵がコントというか寸劇仕立てで流れるのだが、これがものすごく面白い。キャストを見ると、もっぴーの一族のようで、茂山なんたらってのは、狂言の一家(たぶん)。手代の佐七役を演じているのがもっぴーの弟。で、もっぴーこと茂山宗彦(もとひこ)は、同じ脚本家による『ちりとてちん』の徒然亭小草若を演じていて、かの朝ドラでいちばんよかったのは、彼のエピソードだったなあ。そらもう、底抜けに、面白かったし、底抜けに、泣けたもんだ。そのもっぴー、最近は狂言に集中しているみたいで、ほとんどテレビで見ない気がするけど、代わりにこの弟は最近よく見かける。NHKだけでも『カーネーション』や『ごちそうさん』に出ていた。

で、なんやかんやあって、徳兵衛は親父の忠右衛門に見つかってこっぴどく叱られる。
孝行もできんようなやつは江戸へでも送ったれ、とする忠右衛門の叱責をそばで聴いていて、思わず近松が口を出してしまう。それは酷でっせ、と。赤穂の義士も平野屋の若旦も、傍から見るほど華やかなものでもないんやないか。
そうすると、徳兵衛が泣いて憎まれ口を叩く。なんで私が腐れ物書きなんぞにかばってもらわなあかんねん。自分がどのような男か、周りからどのように思われているかは、ちゃんとわかっているのだ、と。
そこで番頭の徳井優が、心情を吐露した徳兵衛に泣きながら「若旦さん、きょうの商いはたのしおましたか?」と尋ねる。
徳兵衛、懐から饅頭だか大福だかをくるんだ包みを取り出して、「きょう稼いだ銭で買うた。丁稚らに食わしたろ、思て」
余談だが、よそさまのところのコメントで、この順序をすっかり勘違いしたことをつらつらと書いてしまったが、感じたことは変わらない。番頭のセリフは、ほんとうに情があって粋だ。
このセリフを聴けることができた、というだけであとの五回が全部つまらなくてもいい。そんなふうに思えた。こんなセリフ、シリーズ通して一度でも聴けたら充分だ。

近松が徳兵衛をかばったときの説明にでてくる、赤穂浪士の心のうちを代弁して、なんで武士の家なんかに生まれたんやろうか、というセリフは、今回のテーマのひとつである「生まれ」にかかっている。
ろくに働きもせずにうまい饅頭だか大福だかを食べられるのも、幼い頃からよそへ預けられて丁稚奉公するのも、武士の家に生まれて仇討を余儀なくされるのも、遊女となって囚われの身となるのも、みんな生まれのせい。そして、大福食って人に嫌われるようなことを言っても、内心では「家っちゅうもんをとったらなんも残らん男」と自認を強いられているのも、生まれのせい。
ここらへんの伏線の回収の仕方もさりげなくてうまいと思った。小池徹平の憎たらしい顔つきもまた伏線だったわけで、これも涙と一緒にきれいに回収された。いやちょっと待った。これってコメディなんじゃなかったっけ? 前回も今回も、感動して泣いてしまっているんだけど!

ちょいと蛇足をふたつばかし。
黒田屋の山崎銀之丞の演技について、 古臭い、とか大仰な、とか大時代的な、と言う向きもあるかもしれないが、それは違う。あれが銀之丞の持ち味よ。
平野屋の親旦那が息子を江戸に送ると言ったとき、徳井優が「旦さん、それはあんまりだ」と言った。これは現代文的な用法ではなくたぶん大阪ことばで、「あんまりだす」の「す」が省略されたもの。上方落語でもときおり出てくる表現で、ここらへんをもってしても、「なんでだす?」と「だす」を連呼するだけのコスプレ方言朝ドラとは一線を劃すよなあ、と感じ入ったのだった。

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前回のつづき。

「おやおやおやおや、親不孝の不孝糖~」ってこのメロディ、頭から離れないんだけど。
というわけで、第二回の「やっかいものおはつといもりのくろやき」。

早見あかりのお初をはじめて見た青木崇高の万吉が、そのまま心を撃ち抜かれてしまう(銃声の音響つき)という古典的な演出がたまらない。これ、かわいいのはお初じゃなくて、万吉のほうなんだよな。
あとから、松尾スズキの近松も、優香のお袖に同様の演出で撃ち抜かれてしまうのだが、これもまたかわいい。
朝鮮人参を飲んで頑張れと励ます岸部一徳に、「よけいプレッシャーなんですけど~」と心中つぶやく近松だが、このとき「あれ?」と思った。
「プレッシャー」と言っている。そこで、エンディングのナレーションで「プライド」と言っていたことも思い出した。
メタなことばかりやっているから、こういう非時代考証的なくすぐりにいままで無意識だった!
自分が気づくのが遅かったから言うのじゃないが、「ほうれ見ろ」とばかりにやっていないからこそ、自然に感じたのかも。近松の現代的なキャラクターや、作品世界の持っている自由さが、若いころの談志の『源平盛衰記』みたいに、古典の世界と現代とを軽々と行き来するような融通無碍な感じを与えるのだろう。

お初は、そりゃあべっぴんで、色白で少しふっくらとした頬やゆったりと大きく開いた後ろ衿(調べて、これを「衿を抜く」ということを知った)から感じる色気てえものはない。小雨のそぼ降るなか、遊郭の女将である高岡早紀の仕置によって、木に後ろ手に縛られるところなんかも、やはり溢れるような色気があって、一言、非常に絵になっている!
それだから、棒読みだろうと、いささか感情が(演技ではなくほんとうに)感じられないところには、おれは目をつむるよ。愛嬌の感じられる優香のほうがその何倍もかわいいけど。

今回、万吉が不孝糖をつくっている遊郭の厨のシーンが興味深かった。食事のしつらえのための見慣れない什器やらがあって、へえ、ワンシーンだけなのにわざわざ細々とした調度品を揃えて撮影するんだなあ、と感心した。
平野屋の親子や、遊女、特にお袖とお初の着物なんてのも見事だし、遊郭内の撮影は陰影が際立っていてとても迫力がある。
しかしなんといっても、いちばんの見せ場は、雨が突然晴れて、お初とあほぼんの小池徹平徳兵衛とが見初めるところ。ここはものすごく美しい場面だった。
斜光を浴びて、乱れたお初の髪の毛が光の中に浮かび上がるところとか、そのお初がはじめて笑ったところとかも、もちろんとてもいいのだけれど、そういう細部だけではなく、このシーン全体がものすごくドラマチックなのだ。
嘘みたいに急に晴れ間が覗き、その陽光によって、暗がりにあった徳兵衛の表情がはっきりと写し出されて、それと同時にムードある女性ヴォーカルがバックに流れる。一見ユーモラスなんだけど、そんな単純なことだけじゃないと思う。
これは、テレビドラマというよりは舞台演劇での演出に近くて、舞台ではわりと見られる、文脈を少し飛躍するようなそれのように感じられ、僕は衝撃を受けた。すごいシーンですよ、ここは!と声を大にして言いたい。
その直後の、「はじめてお初が笑たんや」で泣く万吉にももらい涙しそうになったしね。
これ、見かけ以上にNHKがめちゃくちゃ力の入れてるドラマ。ただのコメディだと思っていると、大事なもんも見過ごしまっせ。

あと、今回の「歌」は、『悲しくてやりきれない』でした。現時点で第三回まで観ているんだけど、おそらくこれは全回を通して歌が出てくるはずで、それもかなり期待。
なお、クレジットに「滋賀ロケーションオフィス」とあるから、このドラマでの堀そばのシーンも、近江八幡の八幡掘だったんだな、と自慢気に知ったかぶりをしてみます。
 
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いつも思うんだけど、ヤフーニュースとかに載るようなテレビコラムニストみたいな肩書のやつらってなんなの?

さっき、「ドラマ『わたしを離さないで』 豪華布陣も最低視聴率の理由」と題して、低視聴率のこのドラマがいかにいいものかを訴えている文章があったんだけど、これがまたひどい。
この作品が本当に描きたいのは、「臓器提供」や「クローン」の是非ではありません。
描こうとしているのは、「人間は過酷な状況の中で、愛や友情、希望や絆をどのように育んでいくのか」「その上で、どのように人間らしく生きていくのか」。
こいつ原作読んでないな、とすぐにわかったんだけど、でも他の箇所を読むと原作も映画もあたっているらしい。
え?
で、上の結論? こんな3.11直後に熱病のように流行った「希望」だとか「絆」だとか、そんなことを言いたいがための物語だって?
普段は、作品にはいろいろな解釈があっていいしそれがあたりまえ、という立場を採る僕だけど、けれどもこの作品に関しては、そんなふうに解釈する程度なら、脚本を書くべきじゃないし、批評をすべきでもないと言いたい。
もし小学生がカフカの『変身』を読んだら、「虫のお話」って言うだろうし、それはそれでいいのだけれど、ただしそれは一定のレベルに至っていない、ということくらいは大勢のまともな人たちはわかるはずだ。

原作をこんなにバカにした話はないだろう。理由については別の記事のコメント部分で詳しく書いたから割愛するけれど、そんな単純な話じゃないんだよ。もし、単純な話にしたい、どうせ視聴者なんて単純な話しか求めていないんだから、と開き直るのであれば、頼むから原作の名前ははずしてくれ。
自分のオリジナルで堂々と勝負すればいい。マンガ原作やら小説原作やらの脚本ばかりやっていないでさ。
調べたら来年、大河かよ。戦国ものの女主人公らしい。きっとこんなふうなメッセージがちりばめられることになるだろう。
「家族の絆」「女でも活躍できる泰平の世を実現する」「一千万総活躍世間」「努力・友情・勝利」「安い・早い・うまい」

ちなみに、視聴率と作品の本質とはまったく別に考えているので、視聴率の高低は気にしていないよ。

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