とはいえ、わからないでもない

2016年04月

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やっと録っておいた第一話を観ることができた。

最初によかったところを挙げておくと、柳楽優弥の芝居がたのしく、特にキャッチを演じている部分は二度繰り返して観た。安藤サクラの演技はほぼ初見だが、これまた魅力的。大賀は『夜のせんせい』『八重の桜』以来だけど、いつものアツい演技とはまた違う表情を見せてくれてたのしめた。岡田将生も松坂桃李もきちんと役をこなしているように見えた。

けれども、なかなか第二話を観ようという気になれず、いまも見切るべきかつづけるべきか迷っているところ。
まず観る前からタイトルに対して「ん?」と思った。
いわゆる「ゆとり世代」というのが僕のなかでは現実味がなくて、もしかしたら実際に接触したことがないのかもしれないので具体的なイメージが持てないっていうのがあるのだが、そうであろうとなかろうと、ある特定の世代に対してレッテルを貼ってあーだこーだっていうのはあまりいい趣味じゃない。
もっと広く言うと、世代に限らずある特定の属性に対して云々っていうのは差別と変わらない。「おれ/わたしはそこに属していないけれど」というのが念頭にあるから「これだから○○は」と指摘できるのだろうが、これが指摘される側に立っても同じ顔をしていられるのかどうか。
……ということが前提としてあるから当然このドラマは、「ふだん世間でバカにされがちな『ゆとり世代』ですけれど、じつはこんなふうに頑張っているんですよ」的な、記号的に言ってマイナスをプラスに転換するような仕掛けになっているのだろうが、しかしそれが非当事者(調べていないからわからないがおそらく宮藤官九郎は「ゆとり世代」ではないだろう)によって製作されたものであったら、はたして純粋にたのしめるものなのだろうか。

ひと昔前、社会で働く女性の一部には結婚したらすぐに寿退社して家に入るから会社は腰掛けとみなしているのがいる、と思われていたところがあって、「これだから女性社員は……」という考えを持っている男性社員はおそらく少なからずいた。
その考えが(マジョリティだったのかどうかはわからないけれど)ともかくも社会の一部には確実にあって、そういう状況下において『女ですがなにか』というドラマが男性脚本家の手によって書かれたとする。しかしその内容が「いやいや、女性社員だってみんなが勘違いしているような人じゃないんですよ」というような擁護するものにたとえなっていたにせよ、僕からするとその擁護にはどこか半笑いをともなう印象が感じられ、その背景には無意識による差別意識が仄見える。
もしその作者が「女性なんて会社を腰掛けに思っている」と思っていなければ、そもそも価値観の転換によってドラマを成立させようなどとは思わないはずで、つまりは世間の思い込みや差別などといったんは同調することによって、その後に「でも実は違うんですよ……」とやったとしても、けっきょく彼は差別の一端に加担しているといえる。

あるいは、『オネエですがなにか』というドラマがLGBT側に属さない人間(この表現が適切ではない可能性はじゅうぶんにあるが、とりあえず)によって描かれたとしたら。
これをきちんと成功させるためには、ものすごく慎重なリサーチと丁寧な表現が必要で、それを実践するための根気を非当事者が持ち合わせているものだろうか、という問いが当然僕のなかに起こる。そして、そもそもそんなデリケートな問題をコメディで描く必要があるのかという根本的な問いも起こる。そこには単に扇情しかないのではないか、と。

ゆとり世代に翻って。
コメディなんだからそんな細かいことは気にしないでね、どんなことを描こうとたいていのことは許してよ、という甘えがもしあるのだとしたらそれは情けない話で、僕はなにも差別表現をまったくなくせと思っているのではない。
むしろ、多くの視聴者が閉口するような過激な表現をしつつ、それをみごとコメディによって回収してみせてほしい、とさえ思う。
以前にも言及したことがあるが、2001年の松尾スズキのラジオドラマ『祈りきれない夜の歌』では重度の障害を持った子どもが主人公で、彼は首から下の身体を動かすことができず、周囲に対しては「う~、う~」と獣のように呻くことしかできない。
というこの設定を知るだけで、たぶん少なくない人たちが「え、それはちょっと……」と思うだろう。
しかしこれが全篇通して聴いてみると、きちんと(ただしブラックユーモアに満ちた)コメディになっていることがわかるし、エンディングでは爽快感さえ覚えた(もちろん、「やっぱり嫌だった!」と思う人だって大勢いるだろう)。僕などは、はじめ設定を知ったときに感じた「悪趣味だなあ」という不快感を、聴き終えたあとは、自分自身の差別意識や嫌なもの・不都合なものを見ようとしない姿勢のあらわれだったととらえ直すことができた。
このように、舞台や小説、映画などでは、いわゆる非倫理・反倫理的な表現や描写によって鑑賞者の価値観を揺さぶるということがあって、その経験は尊い。
もし脚本家に「テレビドラマなんだから」という言い訳が用意されているのだとしたら、はじめからウェルメイドの作品を志向すればいいのであって、少し目を惹くタイトルや設定によって一部の人たちにフックを効かせるようなやり方は少年誌でエログロ表現を小出しにするようなもので、テレビドラマ全体のレベルを下げているように見えてしまう。

こういう僕の前持った予想に対して、ゆとり世代をコメディドラマの主人公に選んだことが、世間に流布する(きわめてしょうもない、という形容詞つきの)既成概念におけるマイナスからプラスへの単なる記号転換以上の意味を持つのだとしたら、いい意味で裏切ってくれるわけだからそれはそれですごいと思うし、そうなることを期待する。
けれどもそれが、はじめに書いたような半笑いをともなう視点転換だけで終るのだとしたら、鈍感なセンスによるタイトル、という僕の当初の印象は覆されないまままだ。

……ということを考えながら視聴していたら、大賀扮する山岸という若手社員がホームで飛び込み自殺したような、あるいはしなかったような、みたいなところでドラマが終わっていて、暗澹たる気持ちになった。
こうなったら第二話は、大賀の血まみれの死体のどアップから始めてもらいたい、と思った。あるいは、大賀ではない誰かの死体でもいい。
現実に起こっている悲惨で決して少なくないできごとをひとつのギミックとして扱うからには、そこを直視するような描写をして、さらにそこを越えて笑いに変えるべきだ。
まさか単純に、登場人物の死の可能性を次回への「引き」にしよう、しかも、本当に死んでいたら笑えなくなっちゃうからただの勘違いでしたってことにしよう、なんていう浅はかな考えだけでやっているとは思えない。もしそうだとしたら、殺人事件の「真相」をCMまたぎで放送しようとするワイドショーの、別の言い方をすれば、視聴者の人死にへの好奇心をスポンサーに売り渡すワイドショーのやり方となんら変わりない。

実は、NHKの『真田丸』の「祝言」の回の予告も、祝言の場でもしかしたら梅が死んだのかもしれない、と誤認するようなつくりになっていて、脚本家の意図したものではまったくないと思うけれど、あれはいやな演出だと思っていた。梅が九死に一生を得た、という筋書きならわかるが、本篇を観て彼女がまったく生き死にとは関係なかったというのがわかったときに、ある意味製作側の底が知れたようにも思えた。いいものをつくってそれを正々堂々と放送してくれればふつうに感動するのに、なぜそこで小賢しいことをするのだろうか。
そのせいもあって、第一部の最終回で梅が本当に死んでも、「あ、やっぱりな」という落ち着くところに落ち着いたというくらいの感想しか持てなかったのだ。登場人物への冷淡さは、「だっておまえらが一度殺しているんだから」という一部の製作側への嫌悪感と直結している。

てなわけでこの『ゆとりですがなにか』は、台詞のやり取りなんかは非常に面白いところがあり、役者たちの演技にも見逃せないところが多々あるのだが、冒頭にも書いたけれど、なかなか第二話を観る気になれず、このまま見切ろうかどうかと悩んでいる最中なのである。

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二月の終わりにはてなスペースが終わった。
そのひと月前あたりから他のメンバーの人たちからお誘いがあったので、三月になってからはフェイスブックにその活動の場を移した。あの顔本ですよ。
僕は見るからに偽名といった名前でアカウントをつくり、他の方に「偽名で申し訳ないですが」とことわりを入れて承諾を得てから参加している。参加するのは、メンバーの方が設けてくれた音楽に関するページへの投稿・コメントのみで、フェイスブック上にある他の投稿についてはいっさい閲覧・投稿しない、ということを自分ルールとして決めて実行している。実名で参加している人たちに対して非常に申し訳がないため。

ところが、だ。
一度だけやっちゃったのである。ああいう実名SNSで多くの人たちがやってしまう、あの「初恋の人はどうなっているのかなサーチ」 を。
結果からいえば、有名外資系企業に勤めて結婚して子ども産んでって、とりあえず絵に描いたような順風満帆のようでよかったよかった。けれども、そういうのが数枚の写真をざっと一瞥するだけ(閲覧したのは一分にも満たない)でわかってしまうっていうのは、なんか味気ないというか、いや、きっとなにもわかっていないのだろうな、とも思えた。「幸せです!」って言っていたとしても、ほんとうは幸せじゃないのかもしれない。幸せでいてほしくない、とは思っていないのである。むしろ、陳腐なぐらいの幸せにずぶずぶにひたっていてくれよと意地悪な気持ちがあるくらい。嫉妬でもないし、羨望でもないし、なんというかぽかーんという肩透かしを食らったような気分なのだ。

一方、彼女がもし僕の実情を知ったら「かわいそう」なんて思うのかしら。いったいどんな不幸があって「そんなこと」になっているの、なんて。
けれども、こっちもこれまた不幸せなわけではないんだよなあ。これはけっこう言いつづけていることだけど、僕はたぶんずっと昔から「リア充」なのだ。リア充は、一説には「リアルで充分」という解釈があるようでこれは卓見だと思うけど、僕は一般的解釈としての「リアルが充実」という意味で用いている。
外観上でいえば、仕事のストレスはまったくないし、仕事場は家から2分だし、他人に頭下げなくていいし、そりゃいろいろとマイナスもあるし収入も時間もないけれど、なかなか自分では気に入っているのだ。
(もう少し別の視点で書くと、ここであえておどけて用いた「リア充」という言葉は、僕の生活のなかでネットがいちばん充実しているわけではないという意味で、というか、仮想の<私>がネット上にはあって云々という考え方をしておらず、どこまで行こうとも僕は僕であり、場所によって振る舞いに多少の変化はあろうけれど基本は変わらないのだから、どの場であろうと充実しているといえるし、どの場であろうと充実していないともいえるわけだ)

高校の同じクラスにいて前と後ろの席にすわっていたとき、はたして両者の行く末にこんな「開き」が出るとは思わなかった。その頃から僕は、自分がいわゆるサラリーマンにはなれないだろうなという漠然とした予感は持っていたけれど、それはまだはっきりとした輪郭を持ってはいなかった。せいぜい東京にいるだろうくらいには思っていたけれど(というか、どこかに引っ越すという考えが思い浮かびもしなかった)、いつのまにか関西に来て、東日本大震災を経験することがなかった。これを「運がいい」と言う人もいるけれど、僕は同郷の人間に対してたいへんな負い目を感じたままだ。
たった20年ちょっと。そのあいだに、だいぶ離れてしまった。彼女(ここではっきりと断言しておくけれど、元恋人どころか失恋相手です)というか、「彼女たち」的なるものからだいぶ距離が開いてしまった。他人事みたいに、これも面白いな、なんて思える。
で、あと20年くらいしたら、「ええ~? ずっとそんな生活してたの~? わたし、そういうのにずっと憧れてたんだけど~!」みたいなことを言われたりするんだよ、きっと。そのときになっても彼女はとても魅力的な瞳と美しい眉を持ったままで、おそらく本心からそういうことを言うのだ。
僕は一度「へっ」と鼻を鳴らしてから、こう答えるだろう。「いいでしょ」と。
あのスイス企業の赤いパッケージのチョコレート菓子を齧り、これからは、この菓子を口にするたびに同じようなことを考えてしまうのかと思いつつも、きょうはそんな妄想をしていた。雨の降る午後だった。

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ピーター・バラカンがベビメタを酷評したことが「ネットで話題」、なんていうのをちょっと目にして、僕はベビメタを嫌いではないけれど、そりゃピーター・バラカンならそう言うでしょと思った。
「ネットで話題」とか「ネットで炎上」なんていう言葉ほど信用のならないものはなくて、そもそもネットにある匿名・半匿名の意見なんて傾聴に値するものではない、というのはつねづね書いてきているところ。

それはともかく、今回の件でふたつ気になったところがあって、ひとつは、ピーター・バラカンの意見に対してツイッターで直接意見を言うものがあったみたい(いちおう確認した)だが、なんかすごいなって思う。こういうのを進歩っていうのはきっと次元の低い側から見た話だよな、っていう曖昧なところで表現をとどめておくけれど、何十年も音楽に携わって仕事をしている人間の意見に対して、いったいどれほどの人間が面と向かって批判できるだろうか、と冷静に考えやしなかったのだろうか。
あれっておかしいよな、と陰で知り合いと文句を言い合ったりするのはじゅうぶんに理解できるが、それを、たとえば相手の住所を知っているからといって「おかしいと思います!」とそこに乗り込んで言いに行くのかって話。しかも相手はほぼ自分より見識や経験は上だっていうのに。
 
もうひとつは、ベビメタの知られ方がダサいよねって話。
逆輸入というか、「海外で認められた」という形容が非常に情けないというか、日本の舶来至上主義が見え見えであって、逆に好きだと言いづらいよ。
「海外で有名になったから」ということでNHKの朝のニュースで取り上げられたりめざましテレビで小特集を組まれたりして(いや実際にあったかどうかは知らないけれど)それから人口に膾炙した、みたいな流れってなんかアイドルが好きな人間としては、ちょっとダサすぎて敬遠しちゃうんだよな。それと最新曲の『KARATE』だけど、曲はともかく、そういうので海外ウケを狙うっていうのならね、ちょいとセクシー系のアイドルがくノ一のコスプレをして「Ninja Girls」なんて名乗ればいちばんいいんじゃないのっていう、身も蓋もないようなことを思ってしまった。
前にも書いたことがあるけれど、株の格言みたいなので、「主婦がやりはじめたらその相場はおしまい」みたいなのがあるらしく、ものすごくうろおぼえでなにひとつ言葉が合っている気がしないんだけど、つまりは、「主婦層が手を出し始めるくらいに裾野が広がったらその相場で儲けることはありませんよ」みたいな意味だったと思う。それを聴いて、すごく納得したものだ。
これと同じで、アンテナ感度の低い中年男性サラリーマンが若い女子社員に「ベビメタって知ってる?」なんて言い出したらおしまい(さらに終わりなのが忘年会の出し物のネタに加えられるってのがある)なんだけど、ちょうどいまそれくらいのところにある気がしますよ。
そうやって海外の「お墨付き」をもらって人気者になった彼女たちなんだから、国内で反撥が出て当然だと思う。むしろ、アイドル界隈以外で批判されたりするのって、よほどの人気者アイドルじゃないとないことだよ?
批判されるくらいに衆目を集めることになったと喜ぶならまだしも、批判に対して批判しているようじゃ、つくづく情けない。彼女たちが「人気者」になったからといって、自分たちもその一端を担いでいるつもりなのかもしれないけれど、そうやって数の力で批判者を批判していくというのは某男性アイドルグループの気持ち悪いファン連中みたいなもんなので絶対にやめるべき。
それよりか、ファンを増やしていくように彼女たちのよさをより多くの人たちに訴えていくほうが、アイドルファンとしてのあるべき姿なのではないか。

あと、これはベビメタファンの人にも薦めたいのだけれど、ピーター・バラカンのラジオ番組ってほんといいよ。自分の好きな音楽しか絶対にかけないっていう信念があって、ときどき曲が終わってから「うーん、この曲を何百回と聴いているけれどまったく飽きませんねえ~」と嬉しそうに言う。
嫌いなものをきちんと明言している人間の好きなもの、ってそれを知るだけでもすごく価値のあることなんじゃないかな。これもいつも書いていることだけど、「雑食なんです。なんでも聴きます/観ます/読みます!」って人は、あんまり信用ならない。
たとえばこの曲を、僕は彼のラジオ番組で知った。
たまらないね。

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青春篇(?)の最後で梅が「死ななきゃいけないモード」に強制突入、唐突でまことにあっけない形で退場してなんだかなあと思っている間もあらばこそ、大坂篇となって小日向秀吉とともに多くの人間があらたに登場したが、これがけっこう現代劇風演技の人物が多く、信濃では浮き気味であった堺雅人が大坂ではジグソーパズルのようにぴたりとはまって生き生きとしている、というのがまずはじめに書いておきたい感想。
堺雅人の演技は長澤まさみの芝居とだけ相性がいい、と以前に書いたことがあったが、彼の古臭い大仰な演技(これは佐々木蔵之介をはじめて観たときにも感じたことだが)はコメディでこそ活きると言い換えたほうがよいのかもしれない。いや、ほんといいですよ。

信濃ではこれまでどおり時代劇の作法に則りながらもコメディをやっていて、たとえば傷心気味の大泉洋(僕のなかでは今ドラマの主人公として観ることにしている)が呆然と歩く横で、忍者出浦が弟子入りしたサスケの前で火遁の術を披露する場面はものすごくシュールで大傑作シーンだった。
この場面を「どうだ」と見せつけるような演出にしてしまえばかえって鼻白むようなものを、じつに淡々と描いていたところが心憎く、わざわざ現代劇風味に味つけせずともコメディを成立させうるということを自ら証明していて、僕の好みとしてはこちらの手法で大坂もやってほしかったというのはあるにせよ、それでもまあ慣れというのは恐ろしいもので、見慣れてしまえば大坂は大坂で面白みがある。いつもスルメをかじっている近藤芳正も、ここ数年でいちばん「らしい」演技をしているように感じられて非常によい。役者としては「らしい」なんて言われるのは最もイヤなことではあろうが。

あと特筆しておくべきは秀長役の千葉哲也。ドラマ『ペテロの葬列』におけるあのいやらしい孝太郎の部下役でこの人を知ってその演技に衝撃を受けたのだが、ラジオドラマの音源を漁っているときにこの人の声にけっこう当たることが多く、いつか大きいところで出てきてほしいなあと思っていたところだった。演技的に弛緩してしまいがちな大坂を山本耕史、片岡愛之助とともにこれから締めていくことになるのだろう。
そういえば『ペテロ』ではじめて知った人間で、細田善彦も氏直として登場していたな。いまとなっては大嫌いな清水富美加もあのドラマで知ったのだった。

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自粛したってしょうがない、というのはたぶん東日本大震災のときの経験をふまえた反動で、ことさらそういう言説を発してしまうのかもしれない。「遠く離れたおまえが自粛しようがしまいが現地の悲惨さはなんら変わらないんだよ」という意地悪な物言いから、「いま、日本中が暗く落ち込んでもしょうがないんじゃないかな」という控え目な表現まできっとさまざまな意見があるのだろうが、そのほとんどは被災している現地以外のところで発せられており、おそらくこれらも「なにがしかをやらなくてはいけない」という衝動に駆られた行動のひとつなのではないか。

けれども、熊本や大分で現に起こっているあのような甚大な被害をともなう災害をテレビで直視してしまうと、遠く離れた僕までもが無力感にとらわれ、地震のことはもとより、地震以外のことを口にすることにも相当の躊躇を感じてしまう。前者については、「被災していない僕にはなにもわからないのに」という引っ掛かりがあり、後者については、「いまほんとうに地震やその被害について以外のことを重要だと思っているのだろうか」という自身への問いがある。
前述した「遠く離れた」という形容は、文字通りでしかなく、そこには事実の意味しか込めていない。事実として僕は、揺れに怯えることもなく、また、ライフラインが十全に整った環境で生活を送ることができている。
その日常の基盤である生活は、僕なりのペースで進行しているわけだが、とはいえ、それでも九州で起こっているできごとに対して、他人事と思えないというよりは、他人事と思ってはいけないというような強迫観念にも似た感情があり、それを押しのけてでもしゃべりたいこと・語りたいことは、少なくともいまのところ僕にはない。

「それこそが自粛で、そんなのはよくないよ」という批判があるのなら、心に気にかかることがあるのに忘れたふりをして馬鹿騒ぎをすることが適切なことなのかというのが僕の反論となる。東日本大震災のときに、主に経済的理由から「関西こそ明るく」みたいなことをアピールしていた人もあったが、僕は経済の話をしたいのではない。連帯感とか想像力というものについて考えているだけなのだ。
テロリズムに屈しないためにあえて日常を取り戻す、というのとも少しわけが違う。今回は誰かやなにかに抵抗する必要もない。

対象になんらかの親近感を持っているのであれば、どうしても「なにか」にとらわれてしまう。そこに自分がいないこと。自分ではない人たちがそこにいたこと。
いま現在苦しんでいるのが自分と同じ日本人だから、共鳴するものを見出せるのだろうか。いやそれは、そのような納得の仕方がいちばんラクな人のための理由のひとつにすぎない。
上に「連帯感」という言葉を用いた。2011年以前であれば、この言葉にももう少し重みはあったような気がする。現在となっては「つながり」とか「絆」という言葉と同様、被災していない人間のただの免罪符になってしまっている気がしないでもない。これを遣えば、被災者同様に傷ついているのだ、と主張できる言葉として。

他人に対して、自分とは較べようもない状況に置かれてしまっている他人に対して、いかにしてわれわれは連帯を感じることができるのだろうか。あるいは、そもそもそんなことはできないのだろうか。
知人がいるとか、出身地であるとか、かつて訪れたことがあるとか、いつかは行ってみたい場所だったとか、そういう縁がまったくない土地およびそこに住む人たちに対して、その苦難を心の底から想像することはできるのだろうか。
できる/できないは別として、そこから目を背けることは実に容易い。なにか他のことに対して中傷したり批難したりすればいいのだ。「自粛するのはうんぬんかんぬん」という言説は、どうもここらへんの意識から生まれているような気がしてならない。
僕個人としては、自粛してもしなくてもどっちでもいいと思っているが、それをわざわざ他人に主張することに疑問を覚える。

連帯ということをもう少し考えてみると、この言葉や感覚は、どれくらいまで拡張可能なのだろうか。
日本国内に住んでいる人間からすれば九州にまでその感覚を拡げていくことは当然なのかもしれないが、それではエクアドルで起こった大地震についてはどうだろうか。ISに公開処刑された人たち。ボコ・ハラムによって誘拐され自爆テロを強制された少女たち。シリア難民。これらに対してわれわれの連帯感は広がっていかないのだろうか。
言葉を失ってしまう機会、口をつぐんでしまう機会は、ほんとうはもっとたくさんあるように思うが、意識下で線引をして、ある部分からは自分を遠く離れた場所に置いてしまい、なるべくその方向に目を向けないようにしてはいないだろうか。
人間とはそういうものだという肯定をしたいわけでも、人間はずるいという否定をしたいわけでもない。人はみな一様に言えないようなものを抱えているからこそ、単純な一方向による決めつけに、僕は違和感を覚える。
そういう単純な言説を、われわれは先の震災で愚かしいものとして学んだはずだと思っていたのだが。

日曜の夜、大河ドラマに新井浩文の扮する加藤清正が出てきたとき、ぼろぼろになって復旧するのに数十年かかるといわれている熊本城のことを連想した。
その加藤がはじめて登場したのは先週のことだったと思う。その先週の放送終了時に「来週の大河もたのしみだな」と思っていた熊本の人たちは、きっと今週はそれどころではない。
漫然とテレビを観ていられるのも、幸せなことなのだ。

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中国に故事成語があるのは知っていて、三国志だけでも「泣いて馬謖を斬る」とか「白眉」とかいっぱいあるものだが、欧米にもそういうものがあるというのを、最近読んでいたピアニストたちのエピソード集みたいなものから知った。
1950年代のこと、ピアノ調律師の父親を持つアダヤ・オロソカ(アダージャと表記している本もあるが、日本語表記的にはアダヤのほうが近いようだ)というポーランド系移民二世のアメリカ人ピアニストが活躍していた。
彼女はものすごい超絶技巧の持ち主で、かつ非常にストイックな人物でもあったのだが、ある難解な楽曲に取り組んでいるときのこと、彼女が思い詰めているように見えた友人が、「アダヤ、きょうは休んだらどうだい? もしそれでも練習をするっていうのなら、『ピアノ・オーソドックス・メソッド・パートI』(という初心者向けの教則本があるらしい)でも弾いたらどう?」と冗談交じりに声を掛けた。すると彼女は、「いや、このような基礎的な練習はいまの私にはできない」と即座に断って練習を再開したのだが、このことが当時のピアニスト界隈で話題となった。
当初は「彼女ほどの名人になれば基礎的な練習はもう必要ないのだ」という理解がされていたのだが、ある高名な指揮者(この人物だけでなく、ときおり具体名が出てこないのがこの本の欠点)は、「いや、そうではない」とそれに反論した。彼の理解はこうだった。
「彼女ほどのピアニストであればこそ、気分を紛らわすためだけに基礎練習に『逃げる』ようなことはしないのであり、それはつまり彼女が基礎というものをたいへん重視していることの証左なのだ」
爾来、これが彼女の返答に対するスタンダードな解釈となり、時間の経過にともない、いつのまにか「アダヤ・オロソカにはできない」というフレーズは、ピアノや音楽という枠組みを超えて、「(ものごとを)軽視しない/粗末に扱わない」ということを意味するようになった。

……なんていう嘘を書こうかなと考えていたら、先週土曜日のゴンチチのラジオ番組で、ハンプトン・ホーズ(Hampton Hawes)というピアニストが紹介された。この人は、50年代に軍人として日本にやってきて、そこで当時の日本人ジャズマンたちと交流があったときに、ホーズの名を「horse」だと勘違いされて「馬さん」という愛称がついた、というエピソードがあった(これは全部ホント)のだが、それを聴いて、いい話だなあと思った。
誰かがスマホを取り出して、「いや、hawesとhorseはまったく別だよ」なんて言い出すような時代じゃなかったというのがいいんだよな。
僕はテクノロジーをまったく否定するものではないけれども、正確なことをだけを「正しい」と思っている人間はあまり好きではないし、だいいちまったく面白くないでしょ。そんなことをここ数日は考えていた。 

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近況をメモしておくと、3/30~4/1に横浜に帰っていた。用件が特にあったというわけでもなく、定期的な帰省みたいなもの。
この三日間という数字は、ひとえにウサギのうーちゃんの放置限界期間によって決定されたのだが、帰って来たら心配していたうーちゃんのほうはなんともなかったものの、ネコたちはカリカリを食べ尽くし、トイレを汚し尽くし、おまけに食べたものを吐き散らかしていた。
また、この三日間のためにそれまで十日間ほど仕事を休まずにいたのだが、やはりこの時期の三日のブランクは厳しく、帰って来てからも到底休むことのできない状況になっており、ついに朝の5時起きモードに突入してしまった(仕事あがりはまだそれほど遅くない)。
4/1のエイプリールフールについては翌日になってからその存在を思い出した。それと同時に、「新年度」という単語を思い出し、ネット上では「新社会人へ」と題されてさまざまな(そしてたいした仕事をしているようにも窺えない人物による)訓示めいた言説が飛び交っていることであろうということにも考えが及んだのだが、いづれにせよそれは僕には関係のないことだった。
きのう、仕事中に近所のおじさんがやって来て世間話をしていった。そのなかで「雨が桜に悪さをする」という話が出てきて、そこで花見というイベントの存在にやっと思い至ったが、これもまた僕とは関係のない話であった。
それから、午後8時になって大河ドラマを視聴した。こういうものによってぎりぎりで一週間のスパンというものを実感するのだが、まあそういう時間の流れの早さ、繁忙具合なんてものはどうってことのない話であって、ことさら悲愴なわけでもない。
深更すぎて、外は大雨の様相、返せずにいたメールの返信を書く。ある弁護士の方のブログが更新されたことを知る。この人はひと月に一回か二回くらいの頻度で読書記録を書いているのだが、誰がコメントをつけるわけでもなく、はてブがつくわけでもなく、それなのに(むしろそれだからか?)良質な文章を自分のペースで書きつづけている。僕は、自分の読んでいない小説のレビューや感想を読むことはしないので(もっと言うと読んだ小説のレビューや感想もほとんど読まない)、毎回、その人の姿勢を確認するためだけに流し読みというかスクロール読みをするのだが、今回も、なかなか力の込められたいい文章が書かれている、という雰囲気が感じ取れた。
そういえば、年度替わりに聴いていたラジオ番組がふたつ消えたので、寂しい気分を味わっている。

……というところまでを書いていてきのうは寝てしまっていた。
明けてきょう、新しい朝ドラが始まって、わりと幼い頃から一方的に知っている(つもりになっている)高畑充希が主演、なんてことは僕に特別な感慨をもたらしたわけではないのだが、一点だけ、脚本家が『ママさんバレー』の西田征史ということを知って、少し昂奮した。まだ売れていない頃の向井理の出世作で、彼の演技はあそこ(といっても、下手だからこそかえっていいという演出だった)からどんどんと下降線をたどっていっている。下降線といえば、『精霊の守り人』(すぐに見切った)の東出昌大の演技は今年のワーストなんじゃないかっていうレベルで直視できなかった。少し大きくなった子ども店長のほうがよっぽどましだった。

で、どうもラジオ録音がうまくいっていないと思っていたらWindowsの時計がちょうど1時間ぶん早まっていて、それによって不具合が起きていた。ツイッターなんかを見てみると同様の症状に遭っている人もいるようだ。
自然の時間の流れの早さには拘泥しないつもりではあったが、(形式上の話ではあるが)人工的に進められているとわかると途端に腹が立ってきた。

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