とはいえ、わからないでもない

2016年05月

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なかなか時間がないのだが、ある情報に接してちょっと「タイミング」というものを感じたので備忘録として。

東京ではパクチー専門店があるらしく、あるサイトにその店の代表者にインタビューしたものが掲載されていたが、そこでいまパクチーが流行の食材うんぬんという記述を見つけて、「ほんとかよ」と思った。

僕がパクチーという野菜に触れたのは学生時代の終わりにアルバイトしていたタイレストランでのことで、そこでスペシャルまかないとして、ごはんにパクチーいっぱい載せてそこにナンプラーをかけて食べる、というのを先輩バイトに教えてもらい、それからというもの大好きなのだが、他のスタッフのなかには、「わたし田舎出身のせいか、カメムシと同じ臭いがして食べれないの」と言う人が何人かいて、僕はむしろ「カメムシってなんだろう?」という疑問を持ったのだった。
それから十数年経ってやっとカメムシ(=クサムシ)の臭いというものがどういうものかを知ったわけだが、それでもパクチーに対する気持ちは変わらない。
で、その「好き」という気持が高じてうちでもいまたまたまつくっているのだが、自家消費としてはちょっと作りすぎてしまっていて、近所の比較的若い女性が「わたしパクチー好きなんです」と言うのでいっぱいあげたら、次に会ったときに聞かされた感想が「けっこう本格的な匂いがするパクチーでしたね……」と明らかにもうお腹いっぱいというご様子。しかも挙げ句の果てには、「やっぱり、カメムシの臭いがちょっと……」とつけくわえたのだが、そんなのはじめからわかってたんじゃないのかい! と心の中でだけツッコんだ。
若い人でこうなのだから、ほとんどの年寄り連中も「よう食わん」の一点張りで、だからこそ、上の「流行食材」という言葉に「ほんとかよ」と思ってしまったのである。


それとは別の話で、きのうのラジオ番組『Session22』の深夜版で、アジアの納豆というトピックが話されていて、日本だけでなく、アジアの各地において納豆と似たようなものがあって、そこでは煮たり焼いたりといろいろ料理されている、と。そういう人たちに日本の納豆を説明すると、味や食べ方がひとつしかないからとてもプリミティブ(原始的)だという印象を持たれるそうな。その話題の提供者である高野秀行という作家がこれを、「魚とかエビとか貝を、生でしか食べない民族がいたらどう思うか?」と喩えていてとても興味深かった。こういうことを踏まえて彼は日本を「納豆後進国」と表現しているのだが、これは日本の納豆を腐しているのではなく、むしろまだまだ日本の納豆にはポテンシャルはあるんだ、未来は広がっているのだととらえているという。
一方、僕はこの番組の特集内容を知ったときから、ある理由により、「お、めちゃくちゃタイムリーな話題だな」と思っていたのだが、さすがパーソナリティの荻上チキはその問題に触れていた。すなわち、以下の記事である。
この記事がネットに出ていたのは5/22、ラジオ番組があったのは5/23の深夜だったので、だからこそ「めちゃくちゃタイムリー」と感じたのだが、このニュースを要すると、日本の納豆を”本物の納豆”として規格化し「納豆もどき」を排除しよう、である。
自分の好むもの・信じているものこそが正統であり、他は許容できないというこの姿勢はまさに原理主義であり、「正しい文化」とか「正しい伝統」なんかを主張する人がよくこれに陥っている。


冒頭に挙げたサイトで、パクチーを好きな人と嫌いな人の違いを問われた代表者が、「食に対して好奇心旺盛かどうか」と答えていて、なるほどと思った。
(カメムシと同じ)臭いに苦手意識を持つ、というのはおそらく生育環境によるものだから仕方ないとしても、しかしそれと食べることはまた別なのではないか、とも思う。
納豆だってにんにくだって、その臭い(匂い)単体を取り出せば好ましく感じる人は多くはないのかもしれないが、しかし食べ物として好む人間は大勢いる。熟成したチーズなんかにも同じことが言えて、以前も書いたことがあるが、匂い単体でいえば糞便系の匂いがするチーズも、肉なんかと合わせて食べるとものすごくおいしくなるものなどもあって、それを「臭いがどうも……」とはじめから食わず嫌いしている人を見ると、熟練度が足りんなあと素直に思ってしまうのである。
ま、好き嫌いがあることに対しては否定はしないけれども、そこから一歩も二歩も踏み込んで、「あんな臭いがするもんを食うやつの気がしれん」みたいな言い方をして喜んでいる輩がときどきいるが、こういう人物に対しては「おまえみたいなやつと一緒の空気を吸っているのはいやでいやでたまらないんだけどな」という感想以外持てない。
自分の好き/嫌いをなにかの絶対的価値のように履き違えて、美味い/不味いとして論じる人間はたいていの場合、愚かしい。
これも以前に書いたことがあるが、松茸の匂いが西欧の人の一部には「軍人の靴下の臭い」と感じられる、というのを知って大笑いしたことがある。そんなものに大金を出すなんてあほらしい、とは思わない(匂いに関しては思わないのだが、昔は大量に採れてありがたいものでもなんでもなかった、という事実のほうが僕としては気になっている)。そうではなくて、ある人たちが「臭くて仕方ない」と感じるものがある人たちにとっては大金を出すほど美味に感じている、というこの差を面白く感じる。「高い値札がついているからこそ金を出す価値がある」と本末転倒な価値観により松茸が好まれているわけではない場合に限り、のことだが。

とにもかくにも、パクチー、一度食べてみませんか?

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帰宅してすぐに、「あなた、ノリコがまた……」と妻が言う。決まっている。いつものことだ。
私は溜息をこらえてリビングに鞄を起き、娘の部屋のドアをノックする。「どうした? 父さんだ」
「来ないで!」
娘はヒステリックに泣き上げる。これもまたいつものことだ。いつのまにか私の後ろに立っていた妻が説明を始める。「きょう学校でお友だちが」うんぬん。これもまたいつものこと。私の生活は針飛びするレコードのように何度も何度も同じ箇所が繰り返されているようだ。まったくうんざりする。
私は妻の話をしっかりと聞き入れているふりをしながら、リビングに戻る。上着を脱ぎ、ダイニングテーブルの椅子の背にかける。妻が冷蔵庫から発泡酒の缶を取り出し、コップと一緒にテーブルに置いてくれる。わかってる。「ご近所さんの手前」ということで、私は発泡酒や第三のビールで労働をねぎらう。もちろんそれで充分だ。それがあたりまえ、と周りが言うのならきっとそうなのだろう。私はそのとおりに演じてみせる。
テーブルのうえに夕刊が置かれているが、かつて一度もそれを開いたことがない。
「テレビ、つける?」と妻が私に尋ねる。「いや、いいよ」と私は応える。だいたいのことは終電内でスマホで確認しているし、それ以外のことなら、また明日の朝に腹いっぱいになるまで味わうことができる。毎日毎日、それの繰り返し。この世でニュースにならないことはない。けれども大事なことは、それがいかにして報じられ、そしていかにして報じられないか、だ。それを見極めるのが私の仕事。およそほとんどの人が理解していないであろう、私の真の仕事だ。
「ノリコのことなんだけど……」と妻が話を蒸し返す。きっと概況を説明するだけでは気が済まなかったのだろう。「わたしもそうなんだけど、ご近所さんに顔が知られてしまっているっていうのは、ちょっと……つまりその毎日の生活にけっこう気苦労があるのよね、あの子だって年頃だし、できるだけ穏便に行かせたいじゃない?」
妻はよくやってくれている。良妻賢母であろうとしながら、良妻賢母のふりをしないよう懸命に努めているように見える。もちろんそれすらも隠そうとはしているが。
つまり彼女は「なんの気なし」の思いつきのように見せて、その実ここ数ヶ月にわたって考えつづけてきた家族の幸せというやつを実現する提案をいま私につきつけているのだ。
よろしい、私だっていま疲労困憊の極みにあるが父親、それも尊敬されるべき父親としての姿をなんとか見せてみよう。
「いい考えだと思う。ぼくもそのようなことを考えていた」
「そんな……あなたは、」
「待って。最後まで聞いてほしい。 きみとノリコがまた少し離れた場所で暮らす、というのはほんとうに考えていたことなんだ。いままでもワシントン、LA、テヘランと行ってきたけど、また僕が単身赴任という形になれば、きみたちはたぶんいまよりずっとラクに暮らすことができるし、ノリコもぎりぎり大学受験には影響のでない形になるだろう」
「でも……」
「明日にでもノリコと相談してほしい。お友だちのことだって、 いまは決して良好な関係とは言えないみたいだし」
「でも……うん、ちょっと考えてみます」
「お願いします」
妻は明らかにほっとした表情になっていた。私のことを誰も知らない街に行って、娘と一緒にふたりだけの生活。それは、ここ最近の妻、そして娘にとっては降って湧いた楽園の話のように思えるかもしれない。そこで彼女たちは、誰々の妻や誰々の娘としてではなく、彼女たち本来の属性を取り戻せるはずだ。
そのほっとした表情の妻に対して、「もういいかな」という言葉を私は済んでのところで飲み込み、発泡酒を飲みながら明日のことを考えた。明日の私の仕事のことを。

出社する。新聞を読み、それ以外のネットのニュースをさらう。簡単に言ってしまえば、私の職務は顧客に情報を提供する窓口だ。ありとあらゆる情報が世にあふれていて、われわれはまずそのすべてを精査する……といえば恰好がよいが、われわれのもとに届くときには既にそれらは精査され篩にかけられており、それらを確認するところから始まる。顧客に提供するときに、それらの細部に誤りがないか、不確かな部分については裏づけをとり、全体のパッケージに組み込んだときひとつひとつのバランスがおかしくないかをはかり、そこで問題がないとなったときにはじめて「製品化」を行う。テキスト、画像、動画……etc. それらはすべて分業でブラッシュアップが行われ、私たちの目の前に並ぶ。
私の相棒ともいえるスズキさんはきょうも元気そうだ。彼女は、日に日に輝きを増しているようにも思う。顧客からの人気も高いらしく、実際の顧客からのメッセージもその一部を確認しているのだと聞いたことがある。もちろんスタッフは好意的なメッセージしか彼女には見せないだろうし、そのことを彼女はおそらく知っている。ネガティブなものには意味はない。きっと彼女はそう考えていて、もしかしたら、すべての情報は彼女の魅力を増やすためのアクセサリーだと考えているのかもしれない。シリアスな情報には憂いのセクシーさがあり、コミカルな情報には朗らかなキュートさがある、などと。
ともかく彼女はポジティブに、そしてパワフルに、彼女のポジションをたのしんでいる。すべての物事は彼女のために回っている、と考えているのかもしれない。いまのこの状況に対してなにも深刻に考える必要なんてないんだ、わたしに求められているのはそんなことじゃない、顧客が見聞きしたいのは情報そのものではなく、わたしの声であり、わたしの表情なのだ。
帰宅する際に彼女は、なんのためらいもなくタクシーに乗る。それが会社から許されている行為ではあるし、そこになんの問題もないと私も考えている。けれども、それでも私はタクシーに乗ることを自分には許せない。私がほぼ終電時間の電車に乗っていることを知っている人間などほとんどいないが、それでも私は、ときにぎゅうぎゅうとなっている車内で胸を撫で下ろしていることもあるのだ。私は、私の「分」から外れてはいない、と。

……私の名前が呼ばれている。「聞いていました?」とスズキさんが言う。どうやら私になにかを説明していらしい。口元は笑っているが、目には明らかに嘲笑の色がある。もう慣れてしまった色だ。
「いや、でもだいたいわかります」
これはほんとうのことだ。だいたいのことは私はわかっている。きょう起きたこと、これから起きそうなこと、そしてそのことについて詳しい人間や、その人間の言いそうなこと。たぶんこのフロアにいる誰よりも私はわかっていると思う。
私はもともと現場にいたのだ。現場で取材して、多くの人間に出会い、多くの状況を見てきた。顧客が知るのはそのほんの一部だ。上澄みと言ってもよいかもしれない。彼らが知ることになる、きれいで、オブラートに包まれた、毒気のない情報になるもっと前の、「生」の素材に私は直面してきた。それが私の誇りだった。
いまの職務に異動するとなったとき、同僚に相談した。ひとりは、「なにごとも経験だよ」と言いながら乾いた笑いを添えた。違うひとりは、「わかっているとは思うけれど、おまえに求められているのは……な?」と明言を避けつつ私の立場に対して同情を示してくれた。
わかっている。会社内組織のトップが変ってから雲行きがだいぶ怪しくなっていた。自由はなくなっていた。もともとなかった自由ではあるが、形式上ですら許されないようになっていた。
私の前任者は人気のある窓口担当者だった。実は彼の仕事はあまり知らない。立場がまったく異なるし、永遠に交わることがないと思っていたからだ。
彼はたぶんうまくやっていたのだと思う。多くの人たちからも愛されていたという意味で、うまく。私はそのようには振る舞えない、ということは当初からわかっていた。私は根っからの現場気質で、一年間だけ窓口担当をしたことがあるが、それはあくまでも「腰掛け」のようなつもりだった。
上層部はそういう私の消極性を見越していたのだと思う。この仕事が決まったとき、私は二重の意味であんまりだと思った。
ひとつは、私に押しつけるのかということ。もうひとつは、私が適任だと認識されたのか、ということ。

スタッフに対するスズキさんの長ったらしい質問がつづいていた。それをよそに、私は私の決意を思い出していた。
私は、顧客に空虚さを伝えることにしよう。すべての情報を空虚に無感情に伝えることによって、この情報を提供するシステムそのものがおかしいことになっている、と顧客自身に認識させよう。いま私たちの属しているシステムは崩壊しつつある、ということを認識してもらおう。
しかしそれと同時に、<あなたたち>はこのシステムに依存しすぎているのではないか、という問いかけを投げよう。情報は、情報でしかない。私たちは、そこに価値判断をくわえない。もちろんくわえることも可能だが、それをしなくたっていい。もし本当に<あなたたち>が賢明であれば、あるいは、考えつづける努力をやめないのであれば、私たちの価値判断はそれほど必要ではないはずだから。
私は<あなた>に、この無表情な顔つきで、この無機質な声で、訴えている。私が伝えていないものはなにか。それに気づいてほしい、と。
家族は、周囲から私への批判を聞かされているのだろう。SNSであればもっと口汚い言葉が乱れ飛び、娘はきっとそれに傷ついている。一時の感情に動かされ、会社を出て行ったものもいる。それはそれで、いままた別のなにかにとらわれてしまっているようにも見える。
私はここに残ることを選んだ。この内部からこの組織をそれと気づかれない形で批判していくことにした。私の悪い評判が聞こえてくれば、そのことは、「なにかがおかしい」と気づいている顧客がいるということを意味するわけで、心強く思えた。もっと、もっと、私の機械的な声のうしろに自己否定のメッセージを読みとってほしい。
そのうえで、<あなたたち>の口にすべき言葉は、NOだ。それが、いま私のいちばん聞きたい声でもある。

「そろそろ本番でーす!」
声がかかり、私は立ち上がる。私たちの職場はひどく輝いている。ぴかぴかで、それじたいがなにか嘘を物語っているようだ。スズキさんはもちろん、私もある程度のメイクをしている。とてもじゃないが間近で見られたものじゃない。
道化師たる私の舞台は、もうすぐ大勢の人間の目にさらされる。そのステージの名前であるたった3文字がひときわぴかぴかに光っていた。そこにはこうあった。NW9。 

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『逃げる女』をやっと観終えたのだが、前から「すばくそだ」と書いてきたとおり、嫌なところはとことん嫌で、流し聞きしたところも多数なので、批評ではもちろんないし、感想ですらないただの「思ったこと・感じたこと」をちょっとばかり。

第二話か第三話で、冤罪で8年の懲役から出所した水野美紀が実家に帰ったところでその父親の古谷一行と再会するのだが、この場面はほんとうに素晴らしかった。このドラマをまったく観る気がない人・なかった人も、ここだけは観てほしい。下手したらひと月以上前の記憶になるので相当不確かなのだが、このシーンには息が詰まった。
たしか古谷はほとんどしゃべらず、かぶっていた帽子を取り、自分の胸の前で握り締め、自分の娘に対して申し訳なさそうに頭を下げたのではなかったか。
それを見た水野は、呼吸を忘れたかのように息が吐けなくなってしまい、震えながら、こぼれるようになにかを言ったか、あるいは言えなかったか。
演技だけでいえばここは、今年観るもののなかでベストになると思っている。最高で最良のドキュメンタリーのまさにクライマックスというようなカットで、思い出すたびに胸がかきむしられる。その直後に、「なぜ無実を主張しつづけなかったのか」と姉を責める妹のセリフがつづくのだが、その途端に「ドラマを鑑賞している」という現実に引き戻された。この妹役の女優もけっして下手なわけではなかったが、たぶん最高で最良の時間にひびを入れてしまったのだと思う。
しかし水野美紀は、妹の言葉の暴力を浴びつづけながら瞳を大きく見開き、首を細かく横に振っていた。彼女は驚き、哀しみ、打ちのめされながらも、必死にそこに踏みとどまろうとしていた。水野美紀と妹役の女優との違いは、脚本のせいでもあるのだが、言葉のありなしの違いだった。水野はほとんどセリフを口にしていなかったはずだ。古谷一行もそう。ただ妹だけが少し説明的なセリフを叫んでいた。そこに悪い意味での演劇性を感じた。言葉じゃあるところまでは行けるけれど、その先は突き抜けられないということを思い知らされた。

なにかの呪いのように寡黙な刑事役をしてばかりの遠藤憲一は、なにかの呪いのように同じような演技を見せてくれたが、彼の演技についての疑問符は、ただ不器用だと解釈すればよいのだ、という天啓によって払拭され、その不器用さをうまい具合に活かした『真田丸』の上杉景勝は、けっこうハマっている。
一方、その部下の賀来賢人は、『Nのために』によってはじめて彼を知り、そのとき「単にチャラいだけじゃない、気遣いと優しさを見せることのできる青年」という演技によってなのか役柄によってなのかが未分化の、ともかくも好印象を持つこととなったのだが、その後はCMでしか見かけたことがなく、あらためて当ドラマで若手刑事役をしているのを観ていたら……「そろそろ変えていこうか?」と、いままで温厚に見守ってきた還暦間近の少年野球の監督が、飽きもせずただバットを振り回すだけの少年に対していいかげん嫌気が差し、ちょっとだけ目を据わらせたまま口にするような言葉が、この僕のなかにも湧き起こった。
そうなのだ、これまたけっして下手じゃないのだけれど、キャラクターに広がりというか可能性がまったく感じられず、たとえばこのドラマにはなぜか刑事たちのあいだに不穏な空気が、なにかの手違いで焚きすぎてしまったドライアイスの煙のように蔓延しており、彼らの上司である課長の加藤雅也にいたっては犯罪に手を染めているんだかいないんだか(ここらへん、セリフがよく聞えないうえに、巻き戻して確かめようともしなかったので不明なままなのだ)で、しかもそれを部下のひとりであるでんでんが勝手に内偵しているとかいう、「その情報、ここで必要?」といういまどきのツッコミがこれほどぴったり当てはまる刑事ドラマもなかろうに、とマカロニを食べながら、無理にストーリーに複雑さを加えようとする脚本に呆れ慨嘆し、幾度となくビデオの停止ボタンを押そうとしたものだが、話を戻すと、それほど不穏な刑事たちのあいだにあって、油汚れに強い洗剤でスポンジ除菌までしたのかってくらいに爽やかな彼(忘れてしまったかもしれないけれど賀来賢人の話題です、これは)の存在・演技はミスマッチ感たっぷりで、いやほんとうはこっちのほうがまともなんだろうけれど、エンケン、でんでん、という偶然にも韻を踏んでしまっているコンビがあまりにも異常で、そういう連中のなかにあっては「まとも」というより「つまらない」ように映ってしまって、損をしていたというのは事実。でももう少し芝居に工夫がないと、次は厳しいよね。

で、だ。
問題の仲里依紗の話に移る前に、脚本にもう少し触れると、完全につまらないというわけでもなく、ところどころに説明ゼリフがあったり、既述したようなとってつけたような複雑さに関してはもう眉を顰めるしかないのだが、 一方、ずっと一人称的に描かれ、冤罪に苦しむ完全な被害者であったヒロイン水野美紀が、8年前の事件当時に不倫仲を疑われた高橋克典によって、実は上昇志向が強く、(のちに偽証して彼女を陥れた)田畑智子と殺された子どもが彼女のことを愛し必要としていたことにまったく気づかないか気づかないふりをしていたというシビアな一面を持っていることが明かされる。思わぬ人物の証言によって、いままでわれわれに見えていたのとはまったく別の側面が浮かび上がる、というこの構成は実に秀逸だった。
インテリである彼女は、地方の幼児教育の場にフィールドワーク的に入り、そこでの経験をもとに本を出版するはずだったのだが、幻となったその本のタイトルは「さみしさの云々」とかいうもので、しかし彼女がほんとうに寂しさというものをわかっていたとは思えませんね、と告発するように刑事に話す高橋克典のちょっと老けた感じもかなりよかった。なお、ここらへんのディテールはかなり聞き流しつつなのでだいぶアバウト。
原作がどうなっているのか知らないが、物語を水野美紀と仲里依紗のロードムービーにしたかったために冗長を避けるべく無理に刑事側の混沌を描写したように僕には思えたのだが、ここらへんがかなり蛇足で非常にもったいないとも思った。あと、ものすごく繰り返しになるけれど、説明ゼリフが多すぎ。

で、その高橋の告白によって事態が思わぬ展開(話じたいは変わらないのだけれど、視聴者がヒロインを見る目がここで変ったのだ)になったのとたしか同じ回で、いままで「おいおい、ちょっとその演技はおじさん観てられないよ」とだいぶ僕もスルー・ザ・スプーン気味だった仲里依紗の演技が爆発した。
逃亡をつづける(この理由を考えることをもはや抛棄したまま鑑賞していたので、未見の人も深く考えなくていいです)水野と仲がある定食屋で話している。
水野は、妙な因果で一緒になった本来は縁もゆかりもない仲に、「いまはあなたしかいないのよ」と少し照れたように本音を告げるのだが、その言葉に仲が激しく反応する。
「ふざけるな! あたしはいっつも『あなたしかいない』『あなただけを大事に思ってる』と言われて、そうやって暴力をふるわれつづけてきたんだ!」 
実は彼女には、幼児期に実母の連れてきた男に、冬空のなか裸で冷水を浴びせられながらしつけられるという虐待経験があったのだが、このときの仲の演技は凄まじかった。自らの髪を引っ張りながら握り拳で自分の頭を何度も何度も叩き、叫び、目からは涙をひとすじ流していた。その涙が血の涙のように見えるほど、彼女の持つ怨嗟がこちらに伝わった。この芝居も、前述した水野のそれと優劣つけがたいもので、この場面を目の当たりにしながら僕が感じていたのは、いま彼女は「演技」という枠を突き抜けてしまっているということだった。画面に映っているのはまさしく、痛ましい幼児虐待の経験のためにおそろしくいびつな価値観しか持たない怪物のような少女だった。
そういう演技を観ていると、自然とこちらも息を止め引きこまれてしまう。仲の叫ぶ画面と幼女時の記憶の風景が重なる。
MA-1を着た作業員風の男が冷水の出るホースを手にし、こちらにその出口を向ける風景。その彼の後ろでタバコを吸いながら冷笑し、けれども心のどこかに空虚さと諦念を抱えたようにも見える実の母。これ、実際にこういう描写場面があって、さすがに水を浴びせられる下着姿の女の子(ずっと画面には背を向けていた)は寒そうには見えなかったんだけれども(なぜだろう、鳥肌とか本当に皮膚が寒さで硬直している感じとかがなかったからかな)、それでもこの「絵」は、単なる幼児虐待(「単なる」なんて言える問題じゃないんだけれど)というカテゴリーの暴力性を超えて、「ドラマでここまで描くのか」という強いインパクトを視聴者に与えたはずだ。ただただ凄まじかった。

ここらが最終回のひとつ前の回で、うわー、このドラマって実は大傑作だったんじゃないの? いったん最終回まで観たらオンデマンドで見返さなくちゃ、などと大昂奮していたのだがその最終回は……やっぱり面白くなかったんだよなあ。ある意味、それが面白い。
あまりにも面白くなかったから興味がほんとうに殺がれてしまい、最後がどうしてどうなったということがよくわからなかった。画面に人が出てきて、それが動いて、ときどき叫んで、拳銃を振りかざして戻してまた振りかざして今度は発砲して誰かが撃たれて……とそういう激しい展開は起こっていたのだが、気持ちがまったく動かず、演技の向こう側に突き抜けてしまったかに見えた仲里依紗は、ぼくの感動した第五回は奇跡だったとでも言うように、それまでどおりの絶叫芝居の枠内にみごと収まっていて、落胆のあまり「ふうん」という感想を持つだけだった。いや、冒頭に書いたとおり、感想ですらなかった。
きちんとすべてを観たとは口が割けても言えないので「思ったこと・感じたこと」をここに書くのさえ製作者に失礼っちゃ失礼なのだが、まあいろいろあって、最後に水野が原田美枝子の経営していたカフェを訪ねると、そのときにはすでにそこは閉店していて、けれどもたまたま鉢植えを取りに戻ってきた原田と会い、ふたりはまた入江の浜辺に行くのだが、ここは僕が以前にこのドラマの感想を書いたときに触れた場所で、ため息とそして涙が出るほどに美しく、物語は当たり前のようにしてそこで終わったのだった。その終わり方だけは、僕にとっては最高だった。

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どうにもこうにも文章が読めない。
歯を磨いたり、あるいは、ウサギのえさやりをしているときに新書をぱらぱらとめくったりすることはあっても、大がかりな小説に本腰を入れて読むということができない。時間が少ないせいや、体力的に起きていられないというのがまず大きな理由だろう。
が、それ以外にも理由はたぶんある。
インターネット上の文章に対しても似たようなもので、眺めるという行為で済ませられるものについてはおそらく過多といってよいくらいに閲覧しているわけではあるが、いい意味でも悪い意味でもほんの少しでも引っかかるものがあればもう気力がついていかず、ダウン。

もやもやとしていたものを頭のなかで整理していたら、高校一年生のときのクラスにいたKさんという女子のことを思い出していた。
彼女はクラスが始まってまだほとんどの人間が互いに馴染んでいなかった時代に、積極的にクラスメートに話しかけて、要は自分のグループの拡大を狙っていたわけなのだが、はじめその目的は順調に達せられているようにも見えたものの、数ヶ月もすれば彼女の目論見ははずれて、クラス内でかなり少数派に属することとなっていた。そういう積極的な行動がまったくできない僕は、「はじめ積極的に交流を広げようとする人ほどうまくいかないものだ」なんていうかなりシニカルな教訓を得ていた。
これは社会に出てからもわりと通用した法則で、新人バイトや新入社員に対して最初にフレンドリーな人ほど、実は社内での信頼度や人気は低かったりするもの。まだ「真っ白」な新人を早いうちに自分の勢力に加えて、社内での地位拡大に勤しむ人はいないわけではない。
だがいまとなると、そうした人たちの行動はすべて嘲笑に値するわけではなかった、ということに思い至る。
Kさんみたいな人たちがやろうとしたのは傍目から見ればクールじゃないし、少し時が経てば「なんだったんだろうね、あれって?」と薄笑いを浮かべながら話されるような種類のものであったのかもしれない。実際、夏休み前くらいからKさんは4月のときからは想像もできないくらいに「静かな人」になっていた。
けれども。

このあいだたまたま観ていたミュージックステーションで、スカートの澤部渡をバックに引き連れていたスピッツの『みなと』に思いのほかグッときてしまったのだが、そのとき、彼らの98年の曲『運命の人』にあった「余計なことはしすぎるほうがいいよ」という歌詞を思い出した。
ここひと月くらいは特に、僕自身がいつも余計なことをしているという気分でいっぱいだった。機会があれば、これはこうだ、あれはああだ、と話しすぎたり行動しすぎたりして、すぐに後悔の念に苛まれる。いつも思うのは、あんなこと言ったりしなけりゃよかった、ということ。
たまたまきのう、記憶を探るために5年前のメールを見ることがあったのだが、そこにあったのは滔々と自分の意見や考え(しかもそれが互いの人生になにも関係のないこと)を書き殴っているだけの内容で、それを受け取った前妻の気持ちはいかばかり、という気分になった。いかばかり、どころか、こういうのが嫌で嫌で仕方なかったのかもしれないな、と思い直す。すべて余計なことだったのだ、きっと。

「軽いウツ入っているのかもね」という声を自分のなかに聴く。幻聴とかではなく、ツッコミの声だ。いやいや、鬱じゃないでしょ。そういうものではないってことはわかっている。思春期特有の悩み、というにはだいぶ歳とりすぎてるし!
最近あまりにも(悪い意味で)忙しいのでついに人を雇うことになったのだが、来週その人が来るにあたって、仕事に興味を持ってもらうためにはああしてこうして、といろいろ考えていたのだが、なんだかこういう準備や心配りっていうのもたいていは空回りに終わるんだよな、とまた少し沈んだ気分になった。人間が絡むと、どうしてもなにかしようという気になってしまうが、たぶんあとからみればすべて余計なこと。いい意味でバサッと切れないところが自分でもつまらない。

だからなのかもしれないが、いまはKさんの気持ちがなんとなくわかる。彼女だってほんとうはそれほど明るい人間じゃなかったのかもしれない。それでも明るく振る舞わずにはいられなかったのかもしれない。成績がめちゃくちゃ悪い僕のことを軽蔑せずに話してくれたこともあって、「静か」になったあとも彼女のことをとても好ましく思っていたが、いまならなおさら。
あるいはもっと裏を読んだとしても、あけすけに自分の仲間を増やそうとしたっていいよ、と思える。あからさまにみんなに好かれようと行動したっていい、とも。そういう人を後から「あれは……ちょっとないよねえ」みたいなじめじめした批判をするよりはよっぽどまし。

話は変わるが、シャムキャッツの『GIRL AT THE BUS STOP』が素晴らしい。

優しい歌声ももちろんだが、歌詞も素晴らしいことになっている。
バスを待つ彼女はなんだかちょっとくたびれてる
お母さんのこととか保険のこととか色々ね
風に舞う 髪を撫でて 耳にかけると
その輪郭にハッとする男 通りの向こう

僕たち顔を見なくなってもうどれくらい?
5年とか いや10年前 夜の防波堤
僕らはガキ 君は天使 ネイビーブルーのワンピース
湾の向こう工場がゆらゆら光ってた

彼女ってば 彼の何かを勘ぐって
ねえ行こうよって走り出す
空には月が輝いていて
テトラポットが波を砕く

話しかけるべきか躊躇してる間にバスは来た
どうなるか彼はわかってた まあ別にいいのさ
でもさあもし 窓越しに 彼を見つけたら
きっと話したげな顔するはずだけど

バスに乗った彼女はバッグを膝の上に抱き
歯医者さんの予約をしなきゃと外を眺めていた
カーブを曲がり 街路樹の隙間で目があった
その瞬間にハッとする男 通りの向こう

彼ったら
もう間に合わないってわかってるのに息切らして走り出す
後悔になんて唾を吐け
いつかの天使が笑ってる

僕は未だにあの夏の
夜のことをよく思い出す
空には月が輝いていて
テトラポットが波を砕く

またね
またね
バスを待っている彼女の仕草に気づく彼との空間の広がり(あるいは隔たり)。それが今度は過去にさかのぼって時間の広がり(あるいは隔たり)に結びつく。10年前に走りだしたのは彼女のほうだけど、いま走りだすのは彼であって、そこには過去と現在がみごとに重なり合って、この歌をただの青春回顧ソングまたは青春まっただ中ソングとは一線を劃す事に成功している。
そのほか、彼が二回「ハッとする」 ところとか、「テトラポッドが波を砕く」というような擬人化表現とか、ものすごくうまい。あと細かいけれど、「保険」って単語のセンスね。この一言だけでこの歌ががぜんリアリティを持ってくる。
はじめ彼は、自分のなかの思い出、それも美化された思い出として処理しようとしていて、ストーリーからすればそれで終わらせることもできたと思うのだが、作者はそこでよしとせずに、「後悔になんて唾を吐け」なんていうものすごく熱のこもった衝動によってバスを追いかけさせるという、しかもこれが「彼」と「彼女」の物語というところにも心を揺さぶられる。「ぼく」と「きみ」じゃないんだよな。それは、過去に彼女が走りだすことを客観的に描写するためにも必要だったのかもしれないが、ただそれだけではないのだろう。
三人称で描くことによって、この物語があるひとりの個人に属する固有のものではなく、きっと大勢の人間が持っているものだということを示していて、みなそれぞれに、「バス停」や「バス」、くわえて自らとそれらを隔てる「通り」を持っているのだろう。
思い出はつねに美しいが、そこにもやはりつねに隔たりがあって、それを愛でているだけでは人は満足できない。彼が走りだしたのも、はたして余計なことだったのだろうか。

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今期の朝ドラ『とと姉ちゃん』は2週目の初日か2日目で見切った。

1週目初回の成長しきった高畑充希が放つ、いかにもわざとらしい「どうしたもんじゃろのお」にまず軽い眩暈を覚えた。狂ったように繰り返すことによって批判されるどころか甘受されてしまった「びっくりぽん」(じぇじぇじぇ、なんかもそうだけど)に味を占めたNHKの隠そうともしない底意に、もう少し受信側に批判精神はないものか、と嘆かわしい思いを一瞬抱いたのだが、もはやこれらの是非じたいがSNSのトレンドに(おそらく)組み込まれてしまっていて、軽い批判の、というか軽い話題のひとつのプラットフォームを提供している、という意味では成功しているんだろうな、と思い直した。
で、本篇の子ども時代なのだが、1週目の感想は一言に尽きる。浮世離れしすぎじゃねえ?(まったくの余談だが、「~しすぎじゃね?」、と「ね」で止めることにどうしても躊躇してしまう昭和の人間
たしか昭和5年という設定だったはずだけど、少女たちの部屋がメルヘンチックすぎて、いったいどれくらいのご家庭なんざんしょ、と思った。広い家。いつも落ち着いた様子で「おほほほほ」と笑っていそうな和装の母、木村多江。
それからものすごーーーーく優しい西島秀俊のお父さん。家族からは「とと」と呼ばれていたけれど、「父のとと」じゃなくて「カマトトのとと」かと直感したくらいに、現実味を感じない設定。モデルがいる以上じっさいそうだったのかもしれないが、あまりにも珍しい実例を持ちだされると困惑してしまうのだ。
で、その彼が早くも週末に死亡。残された一家はたいへんってなことになっていくようだが……。

ちょっと話がずれるのかもしれないけれど、これって貴種流離譚の変形なのかな、と。高貴な血を持つ人間が、転落したり漂流したりして苦労したのちに、その「血」にふさわしい地位にたどり着くっていうのが僕の(非学術的でかなりアバウトな)理解。
以前、少年漫画誌「ジャンプ」にあまりにもこの系統の物語が多すぎるってことを指摘したことがある(クソ映画『サマーウォーズ』について触れたとき)が、たぶんこういうのって好きな話型なんだろうな(ほんとうは「日本人の好きな話型」と言いたいのだが、外国文化と比較するほど知識がないので曖昧に書いておく)。
重要なのはこの「血」って部分で、「由緒正しい」とか「格式のある家の」とか「代々つづく」だのという、すべてカッコつきの正統性みたいなものが主人公やヒロインに付与されていて、そこをベースとしているからこそ視聴者は思い入れできる、みたいなスタイルなんだろうけれど、僕が思うのは、そういう与件がなければたのしむことができないのか、というほどこのパターンが多すぎる。
父親も母親もわからない(そして最後まで明かされない)ような最下層出身の主人公が頂点を目指す、というような物語はないもんかね。時代劇でいえば、両親はわかっていようが秀吉がこれにあたるか。むかしのドラマで言うと『おしん』? 僕は世代じゃないからよくわからないけれど、ひたすら苦労しているって話、っていう印象を勝手に持っている。
以前、安房直子の子ども向けの物語『まほうをかけられた舌』を読んでいたときに、そこに収められていた他の短篇の主人公たちのほとんどが貧しい子たちで、それだけでもうやたらと胸がしめつけられたのだが、その子たちが幸せになるというところにまた深いよろこびも感じることができた。
僕は児童文学にはまったく暗いけれども、ケストナーのいくつかの作品にもやっぱり貧しい子たちが出てきて、むしろそれだからこそこれらの物語は普遍性を持っていて、いまでも輝いているのだと思う。
しかし現代の日本ではそういう苦労に共感していくのがきっとイヤなのだろう。それよりは手っ取り早く、保証書付きの主人公/ヒロインのほうが安心できるってな具合なんだろうな。
そんなマインドが普及してしまっているから、簡単に二世議員が選ばれたり、まだなにもしていないのに「未来の総理」などと語られたりするんじゃないか、とこれはあえて横道に逸れた。

でまあそれはともかく、2週目に入って高畑充希が出てきたところで、はい終了。もう観る気がなくなった。
けっこう以前から家族内では指摘していたところなのだが、この女優は若いうちから活躍しているせいもあってか年齢のわりに技術があるのだけれど、既に演技が固定化しつつあるのだ。
NHKだけでいっても『ごちそうさん』『軍師官兵衛』で、だいたい似たような演技。それが僕の好みであればいいのだけれど、なんだか鼻について好きじゃない。この高畑充希じたいはものすごく好きなんだけど、演技が嫌い。そういえば深津絵里も同じような理由で、好きなんだけど演技が嫌いなんだよな。
具体的に例を挙げると、ちょっと無表情で首をちょこっと傾げるクセが彼女にはある。それによって、か弱い女性ではなく、かといって勝ち気すぎる女性でもなく、芯がありつつもけっして押し出しすぎないバランス感覚のよい女性を演じられているのではあるが、なんだか見飽きてしまった。
下手は下手で観ていて腹が立つのだが、ワンパターンの、いかにも「それらしい」演技ばっかりをしていると、「ほかにないのかよ!」と言いたくなる。たぶん器用であるはずなのに、いちど成功した技術に執着しすぎなんじゃないか、とこれは素人門外漢の完全な難癖つけにすぎないのだが、観る気がなくなってしまったのだ。

というわけで、以上の二点でもう今期の朝ドラは観ないことにした。
余談だが、次の朝ドラヒロインは芳根京子だということを知ったとき、やっぱりなとしか思わなかった。朝ドラにちょい役で出演した人がその後ヒロインという流れは最近顕著だったし、彼女の持っている「朝ドラヒロイン感」はオモコーのときからすでに感じ取っていた。朝ドラヒロインっぽくていまだになっていないのは黒木華なのだが、いまは忙しそうだから無理かな。
いづれにせよ、次回の朝ドラでも早いうちから「観るのやめた」ってことになるんだろうな、という予感が今からもうしている。

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