明け方ごろから天井を叩く雨音がすさまじく、いやな気分のまま目を覚ましたのだが、といって仕事をしないわけにもいかず職場へと向かった。
降ったり止んだりのリズムは気まぐれで、なんとなくこちらの眠気が殺がれる。ぼうっとしていることが許される空というか、くつろいだ気分にさえなれた。
何度目かにまた雨脚が強くなって、そんなときに限って土手から眼下の川底を覗くようにして用足しをしていると、獣害対策として何百メートルにわたって張り巡らせた柵の向こうにある茅の自生地から、立派な角を持った牡鹿が飛び出して、そのまま川へと入って行った。


スティーヴン・キング原作の映画『スタンド・バイ・ミー』は実に映画らしい映画だと思うのだが、あのなかで印象的なシーンとなると、ベン・E・キングの『スタンド・バイ・ミー』がバックに流れ、リチャード・ドレイファスが演じる大人となった主人公が、かつての親友が喧嘩を仲裁して刺殺されたことを静かに語る場面、つまりエンディングのことを否が応でも思い出してしまうし、実際ぼくもずっとそんな調子だったのだが、あるときから、「待てよ? もしかしたらキングがいちばん描きたかったのは、そこじゃなかったんじゃないか?」と思うようになった。
別に観直したわけでもないのに、僕のなかで印象が変ってしまったのは、四人の少年たちの旅がいよいよ終わりに近づいたある朝に、主人公がひとりで鹿と出会う場面だ。

原作の小説では、鹿と出会った場面で「わたしが見ているものは、ある種の天からの贈り物、おそろしいほど無造作に与えられたなにかだった」(新潮文庫版『スタンド・バイ・ミー』223p 太字強調部は、傍点)と書かれ、その直後にはこのような文章がある。
雌鹿のことをみんなに話そうと喉まで出かかったが、結局、わたしは話さなかった。あれはわたしひとりの胸におさめておくべきことなのだ。今の今まで、この話は人にしゃべったこともないし、書いたこともなかった。こうして書いてしまうと、たいしたことではなかったような、取るに足りないつまらないことだったような、そんな気がしていることも書いておくべきだろう。とはいえ、雌鹿との出会いは、わたしにとってあのときの小旅行での最高の部分であり、いちばんすがすがしい部分なのだ。ふと気づくと、人生のトラブルに出会ったとき、ほとんどなすすべもなく、あのひとときに帰っている――たとえば、始めてベトナムのブッシュの中に踏みこんだ日、わたしたちのいた空き地に、片手で鼻をおおった男がやってきて、その手をどかしてみると、鼻が撃たれて失くなっているのがわかったとき。わたしたちのいちばん末の息子が水頭症かもしれない(ありがたいことに、あとで、単に頭のサイズが大きすぎるだけとわかったが)と医者に言われたとき。母が死ぬ前の長く、気も狂わんばかりの一週間。そういうとき、わたしはふと気づくと、あの朝にもどっていて、すりきれたスエードのような耳、白い斑点のあった尻尾のことを考えている。しかし、八億の赤い中国人などはどうでもいいのだ。そうだろう? なににもまして重要だということは、口に出して言うのがきわめてむずかしい。なぜならば、ことばがたいせつなものを縮小してしまうからだ。おのれの人生の中のよりよきものを、他人にたいせつにしてもらうのは、むずかしい。

(同上 224p-225p)
キングの小説を多く読んだわけではないが、大きな物語や設定よりも、こういう細部にこそ彼の真髄が潜んでおり、いっけんストーリーには直接影響を与えないように見えるシーンこそ、読者に大きな感銘を与える。
小説を、エンターテインメントと純文学とに分けるのはもはや時代錯誤の感があるけれど、その分類でいけばキングはエンタメに属する、といって軽んじる向きももしかしたらあるかもしれない。
しかし上記のような忘れがたい印象をいくつも与えてくれる彼の小説を、はたしてほんとうに軽視できるのだろうか。


降りつづける雨にうたれて美しい牡鹿の背を眺めながら、僕はそのようなことを考えていた。優雅に跳ねる鹿は、雨で少しばかり増えた水嵩を気にしていないようだった。薄茶色に濁った水流もその歩みをとどめることはできなかったのである。
そうしてずっと川を下って行ったのちに、一度だけ僕の位置を伺うようにして彼が背中越しに振り返った。黒く大きな瞳と目が合った。そのときはただ漠然と感じていたことが、先刻キングの小説を読み返したことによってあらためて言語化され、再認識させられた。すなわち、僕の見ていたものも、「ある種の天からの贈り物、おそろしいほど無造作に与えられたなにか」のひとつだったのかもしれない、と。