とはいえ、わからないでもない

2016年11月

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警察発表だか主催者発表だかわからないけれど、ン十万人、場合によっては百万人単位のデモが起こりつづけているみたいで、でもそんなに人が多くいるのなら、「おれ/わたしは行かなくてもいいかな」と思わないのだろうか。
それ以上に気になったのは、あの大人数のトイレをいったいどのように処理したのか、ということ。北方謙三の水滸伝シリーズを読んでいると、何十万人という陣営が布かれたときにいつも問題になるのは兵士たちの便所で、工兵部隊が溝を掘ったり、衛生的見地から人足を雇って糞尿を外部に運び出したりっていうことが結構書かれている。
その観点に立てば、あのデモ参加者の排泄が、仮設用トイレや、あるいは周辺のビルやコンビニに設えたトイレなんかで賄えたのかどうか、ということが気になった。
あと、ワイドショーでちらとやっていたのが、デモ参加者を見込んで屋台も出ているっていうことで、それはある意味あたりまえのこと。たとえば100万人が参加していたとして、ほんとうに政治的メッセージを主張したいのは1万人もいないのかもしれず、あとは「とりあえず友だちに誘われたから」とか「好きな女の子がいたから(三田誠広『僕って何』ってそんなような内容だったっけ)」とかの他に、「商売を目論んで」なんていう人たちも少なくないとは思う。
タイ人シェフによる「退陣トムヤンクンスープ」を売る屋台や、生鮮野菜コーナーの「辞任人参」、出張簡易床屋の「弾劾絶壁ヘア」とかそういうアイデアもあるかもしれないねというテキトーな駄洒落で締めるのは、書いているうちに飽きたから。

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ときどきあることだけど、YouTubeの調子が悪くて、ぐるぐるマークが出ていつまでも待機中になっているものだから、僕のお気に入りのアイドルの動画はいつまでも観られなくて、しょうがないから妄想のなかでそのお気に入りの動画を何度も何度もリプレイして、妄想のグラスに妄想のボージョレ・ヌーヴォーをたっぷりと注いで、妄想のレザンとフィグをつまみに、ドナルド・トランプと森喜朗と石原さとみとで麻雀をやっていたら、森喜朗が牌を捨てながら「なにかと印象の悪くなった東京五輪だけどねえ、」と周りを見渡して、そこで石原「先生、それチーです……。で、オリンピックがどうしましたって?」、森「あれのイメージ回復をだねえ、ここらで図ろうじゃないか、とこのように思っとるんだがねえ?」、トランプ「ファック」、石原「次、先生のツモですよ。で、どうするんですか? イメージ?」、森「そうそう、あのね、うちの孫も観ていたらしいんだけど、ほら、あの『あまさん』(「あま」にアクセント) とかいうドラマ、あったじゃない?」、石原「先生、それチーです……それ、『あまちゃん』ですか?」、森「そうそう、『あまちゃん』。あの東北の海女さんの。あれをやった九官鳥みたいな名前の……」、トランプ「ファック」、石原「クドカンさんですか?」、森「クドカン? そんな名前だったっけ? そのクドカンくんに、大河ドラマでオリンピックをだねえ、」、石原「先生、それポンです……大河でオリンピックですか?」、森「石原くんは、それなにをつくってんの? 鳴きまくるねえ。……でね、大河ドラマで前の東京オリンピックをやればいいんじゃないか、とそういうことを考えたんだよぉ」、トランプ「ファック」、石原「ふーん」、森「いわば国策ドラマだよぉ、籾井くんに言ったら快諾してくれてねえ。いやー、われながらいいアイデアだと思うよ。ハッハッハッ! ……って、西4枚目! クソッ!」、僕「それロンです。国士無双」って森喜朗をトバして、2位だった石原さとみの替りに石原慎太郎が卓に入ってきたんだけど、妄想のなかでも僕は符計算ができなかったので、腹立ちまぎれにドナルド・トランプの髪の毛をくしゃくしゃってやって(「ファック!」って言われた)席を立ったら、ちょうどそこへ酔っ払った米兵のトラックがやってきて、卓にまだ残っていた3人の大きな男たちを次々と撥ねていったのだが、これでも日米地位協定にはなんの影響もないんだってさ。

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なにかの祟りかってくらいに今年は病気がちである。
8月・9月・10月と、それぞれ二週間ほどの悪質な風邪みたいなのをこじらせていたが、ついに11月に入って「解禁!」とばかりにインフルエンザに罹患。おそらく7日の夜くらいに発症したものと思われるが、8日の朝、グレゴール・ザムザのように気がかりな夢から醒めるとまず身体を起こすのが億劫で、それは僕の布団の上で眠る猫2匹(都合7kgほどか)のせいだけでもなくて、全身に固さやだるさというものを感じた。起きて熱を測ってみれば38.2℃。急いで各方面に電話をし、今週中の約束事(業務上のものから、地域イベントごとまで)をすべてキャンセルした。一軒だけふだん電話をしない相手があって、その人に連絡をつけるために軽トラでムラのぐるりを走ったりした(それで見つかったのだから面白いが)。
帰って来て、いよいよ悪寒がしてきて体温計測。38.7℃。ここらへんでもう熱を測るたのしみも失せていた。上るだけで精一杯の登山と似たようなものだ。急いで寝支度をして着替えと水を用意するも、そこらへんから意識がぼんやり。もう一度だけ熱を測ってそれで39.2℃。まだ頂上が見える感じもなかったので、「いま標高なんメートル?」なんて問いも生じなくなってしまっていた。
その夜は気がかりな夢どころか多種多様な夢を見たような気がする。仕事のキャンセルのやり方をミスしていたことに気づき重い身体を動かしてその穴埋めをしているもの。高層タワービル(いま考えればトランプタワーか?)の最上階にあるプールに溺れている女性(これが僕の重い人ということになっている)を助けるためにそのビルに乗り込むとあら不思議、そのビルは100階から成るダンジョンとなっていて、その中層部には町まである始末、というドンキーコングとダンジョン飯とスペランカーを足してぐちゃぐちゃにしたような意味不明なもの。日頃働いてくれているスタッフに感謝の重いをただひたすら述べているという牧歌的なもの。あとは、寝る寸前に目にした「大統領選の開票始まる」の文字になんとなく嫌な予感を覚えたのか、「トランプ大統領」という衝撃を先に夢の中で味わい、げんなりした重いを抱くこととなった。起きてみて真っ先にテレビをつけてみたら9日昼頃で、選挙結果はいまだ出ておらずまだ争っている最中であったが、僕は夢の中で見たことの再放送を見ているような気持ちで、というかまだ目覚めていないような気持で、そのニュースをぼんやりと眺めていた。そう、心も身体もまだ依然として重いままだったのだ……って、重いのはやっぱり猫2匹が布団の上に寝ていたから! よく見たら、上の文章も「想い」や「思い」が全部「重い」になっている!

そこから寝たり起きたりしているうちに「トランプ大統領」が現実世界でも確定して、インフルが確定していた僕は、少し熱も収まっていたので病院に行ってラピアクタという点滴を打ってもらった。それから帰って来てまた寝て……。
起きてテレビをつけるとあの陰気な官房長官のごにょごにょとした話し声がして、画面に目をやるとやけにチカチカする。うん? と目を凝らすと「菅官房長官」っていう字並びは「口」が7個もあるんだな。ふだんは気づかなかったけれど、神経過敏になっているせいかそれが気になった。

5月にラジオ(というかmixcloudだけど)でバーニー・サンダースの「正義とは」の音源を耳にして、それから少し経ってYouTube上でその動画を見て、彼が若者たちに圧倒的な支持を得ているというのが実感できた。文字通りに胸を打つ動画でありスピーチであった。

 

簡単なニュースの利用ながらも大統領選をなんとなく追っかけて来た身としてはドナルド・トランプの当選は「心底驚き!」というものでもなかった。ハフィントンポストに載ったマイケル・ムーアの7月の記事が今頃になって再シェアされている(日本人がいつとらえようと自由だけれど、まあ遅きに失してはいるよな)ようだけれど、その次に寄稿されたか転載された記事はいまだにあまり注目されていないようで、なんかもったいないなあとも思う。それはともかく、前者の記事を事前に読んでいれば、おそらくは反語的な意味あるいは希望を込めて書かれた「トランプの勝つ理由」が文字通りのものとして読めないことはなく、むしろある種の心構えをしておくようにという警告文のようにも読めたはずだ。
僕なんかは単純だからイギリスのEU離脱の問題と単純に絡めてしまうのだが、もし多数決の問題に帰着させてその結果がよりよいものでないのならば、市民が最善の答えを選択できるとは限らない、あるいは、その多数決の方法に問題がある、のいづれか、あるいは両方なんじゃないか、と思うようにした。Brexitの問題も、オアシスのノエル・ギャラガーに言わせれば「民衆はバカなんだから重要なことを選ばせるな(それは政治家たちの仕事)」だったらしい。過激な物言いだが真理の一面をも言い当てているように思う。
今回の大統領選は他国のことであるから一概になんとも言えないのだが、けれども国内を振り返ってみれば、民衆がつねに正しい代表者を選択できているとはとうてい思えない。それはやはり、民衆が愚かか、あるいは選択するシステムそのものがおかしいか、が重要な鍵を握っているように思う。この問題についてはまあここまでにしておく。
とにかくまあ、民主党はヒラリーが候補者だったってことがそもそもの敗因だったのではないか。マイケル・ムーアの記事ではないが、サンダース支持者のうちヒラリーに入れなかった人あるいは投票しなかった人も少なからずいただろう。そのくらい、同じ民主党とはいえ「ヒラリーだとがっかり」という人は多くいたのではないか、と愚察する。

さて、そんなふうに考えられるくらいにはやっと恢復したわけだが、ラピアクタは劇的に効いたわけではなく、結局きょう(11日)になってようやくこうやってきちんとPCに起きて向かえるようになったほど。インフルの前に咳がまたひどくなっていたので、その咳止めも含め、なんだか薬を飲むために生きているくらいだ。一日3回飲まなくちゃならないのが、なんたらが1包、なんたらが1包、なんたらが2錠、なんたらが1錠。そして一日1回飲まなくちゃならないのが、なんたらが1錠となんたらが1錠……って、夕食後にはこれらが全員集合するわけだから、5錠と2包をテーブルの上に並べると、自然あたまの中に「終末期」という言葉が浮かんでしまう。おれはこんなに身体が悪いのか、と。いやいや、そんなたいしたことないよ、ただのインフルと、もうひとつは医者に「アレルギー性気管支喘息になってなければいいですね」と言われただけじゃないか(「なった」とは言われていない)と理性ではわかっているのだが、やはりげんなりしてしまう。
そんなとき、テレビではこんな番組をやっていた。
60歳をちょっと超えたきれいめな女性がカメラに向かって語っている。
「母がね……とっても元気なんですけど。89です。周りにくらべて元気すぎる。……なんかあるでしょ、って訊いたら『実は、』って教えてくれたのが……○○酵素

となって、ガーン! だ。これはあれだ、笑福亭福笑のネタそのものじゃないか。福笑のネタは以前書いたが、もう一回書く。
このあいだテレビを観ていたら、こんな話があったんですわ。
高齢の方なんだけれど、テニスをやったりジョギングをしたり、とたいそう健康的で、周りからも「お元気ねえ」と羨ましがられていた。
ところが人というものはわからないもので、三年前、原因不明の病気でばたんと倒れた。それから動くこともできない。
医者に見せてもどこが悪いのか要領を得ない。食も細くなってどんどん痩せていく。
「ああ、これが寿命というものか」と途方に暮れていた、そんなときに出会ったのが……このしじみエキス
なめとんのか。真剣に見とった自分が悔しいわ。
いやでも、途中から観ていると、「うん? なんだろう?」と思わず気になっちゃうんだよな。しかもこういう身体の不調を痛感しているときは。
そのときに、フラッグと気づいた。いや、はたと気づいた(これは鶴光の芸風)。ああそうか、昼間に宣伝やってるの、あれはぜーんぶ、病人のため。と思わず三十一文字。味噌ひと舐めして頭をしゃっきりして考えを進めるに、 僕みたいな一時的な病人ではなく、慢性的な病気を患っている人や、もしくは大病を抱えたことがある人は、ああいうCMにかなりの確率で飛びついてしまうのではないか。別にくだんの健康食品を怪しいとかいうつもりもないが、まあでも……お安くないんでしょ? そういうものを、ふだんの健康状態であれば見向きもしないのが、緊急時に見ると「ああこれ!」となってしまう気持ちがやっとわかった。一日ちょっと前まで高熱で身体が動かなくて、うぇ~、苦しい~、そして重いよ~と唸っていた身としてはたいへんよくわかる。具合が悪いと、味がほとんどわからない。そうなってしまうと、自分に食欲というものがあったということじたいが信じられなくなる。毎日毎日なにかを口に入れてもぐもぐとやっていたなんて。味わいどころか食感まで失ってしまう(実際に2日ほど失っていた)と食べることじたいが辛いことのように思えてくる。そんなときに、「高級ステーキ!」とか「日本海で海の幸づくし!」とか言われてもピンとこない。
そうなるとやはり、健康なんだよな。おいしいものを食べられるのも、というか、おいしいものをおいしいと感じられるのも、元気にどこかへ出かけられるのも、テレビで好きなドラマを観られるのも、映画館へ行って話題の映画を観られるのも、カフェに入って友だちと語らえるのも、音楽を聴けるのも、音楽を聴いてダンスを踊れるのも、美術館に行って美術鑑賞に浸れるのも、読書に耽溺できるのも、パチンコを打ったり競馬場へ行ったりできるのも、お酒を飲めるのも、お酒を浴びるほど飲んで他人に嫌われるのも、お酒に溺れて家族や友人や金や仕事のすべてを失えるのも、クスリをやれるのも、クスリの売人をやれるのも、全部健康のおかげなんだよなあ。人って、生きているんだなあ。みつを。って感じに冗談を言えるのも、健康のおかげ。健康って、ほんと失ったときにわかる。ありがたい。健康様々で、健康のためなら僕は命も惜しくないです。僕の家族も、みな同じ気持ちだと思います。
そんな健康志向のわが家で愛用しているのが、牡蠣のエキスなんです。ほんと、オススメですよ。

っていうのが、例の手法。いつのまにか大きなロジックのなかに搦め捕られてしまうからお気をつけあれ。きゅいじーぬ。 

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まあ毎度言っているような気がするけれども、の話だが、「野菜高いよね」っていうのは「このごろ天気悪いよね」みたいな感じでよく口にされるけれど、天気の話とは反対に、「野菜安いよね」っていうのは、ほとんど口の端に上ることはない。
 Yahoo!に取り上げられていた記事に、NHKのあさイチで「冷凍野菜を使おう」という特集をしたら、野菜農家から「野菜を買ってくれ」というFAXが届いた(意訳)、という記事があって、なるほどその気持ちはわかる、と思った。
わかるけど、でも、泣き落としで買ってもらうっていうのも経済としてなんか違うんじゃないか、とも思うんだよなあ。
もやしだったりきのこだったり、あとは豆苗か、メーカーがいろいろ努力して天候に左右されないものを作っていてそれらを安価に買うのも、それから、特集していたように冷凍野菜を買うのも、それからあえて高い野菜を買うのも、消費者の自由で、マスコミがその一部にスポットを当てるのは多少いたしかたない部分があると思う。弱い農家が一所懸命がんばっているんです、というのは事実そうなんだと思うけれど、いっつも弱さをだしにしているようにも感じてしまって、なんかスッキリしないところがある。それでいて政府は「これからは強い農業」の一点張りだもんな。実情と乖離しているわけだ。
マンガ家の荒川弘が、自分は農家だから肉は国産のものを買う、ということを書いていたけれど、それはまあ個人として御立派な態度表明ではあるかもしれないけれど、全農家がそうしろ、というふうに読むべきものではない。ああ、この人はそうなんだな、という程度に考えておけばいい。
安くていいものを買う。その経済原理に愛国心とか同情心とかが混ざってくるよりは、もうちょっと農家が安定できるそもそもの仕組みがあったほうがいいと思うのだが、どうすればいいんだろう。
ふだんが安すぎ、っていうのが僕の個人的意見なんだけど、これはあまり理解してもらえないだろうしね。

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