とはいえ、わからないでもない

2016年12月

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ちょっと熱が冷めたであろうから触れるのだが、最近は、というかずっとそうなのかもしれないけれど、あの流行語大賞における「流行語」については、「いつもどおりつまらん」とか「聞いたことないんだけど」と批判することじたいが流行っているような気がして、そうすることによって自分の「俯瞰感」(これ、ネット上じゃ重要だそうです)をアピれるいい対象(大賞だけに)になっているようだ。これって、近年のエイプリルフールネタとおんなじ。あれも、「いいかげん飽きた」って主張することそのものが年中行事になりつつある。大人だったらスルーすりゃいいだけのこと。あと、流行語に違和感を覚えることについてSNSをからめて論じる「メディア論」にも飽き飽き! 

まあそんなのはどうでもいいんだよ、と言いたいのだが、「お気持ち」あるいは「生前退位」が入っていないところが、もうなんというか、弱い。少なくともニュースをあれだけ賑わせたキーワードなのに、ノミネートすらしていないってところがしょせん一企業のキャンペーンにすぎないと思わせる(漢検の「今年の漢字」だってそうでしょ)。だから「『日本死ね』をノミネートさせました」って偉そうな顔をしたって、一方で天皇ニュースをまったくスルーしているわけだからなんの説得力もないわけよ。
このあいだラジオ番組で原武史という人が、天皇がいったん発言してしまうと社会全体が「そうだそうだ」となってしまい、有識者会議における保守派の生前退位反対論者を「君側の奸」(まさか「くんそくのかん」という言葉をラジオで聞けるとは思わなかった!)呼ばわりするありさまはどうかと思う、と述べていて実にそのとおりだと思った。
これはおそらく構造的な問題で、マスメディアには菊タブーがあるもんだから、天皇および皇室に対する報道に関しては、批判的な意見がほとんど発信されず(でも雅子さんに対しては一部の女性誌が批判しているらしいんだよなあ)つねに好意的なコメントばかりがあふれてしまう。その結果、視聴者や読者のわれわれの多くは天皇に対して無批判に、初孫を見る好々爺のように純真かつ好意的に受け止めるようになってしまった、ということなのではないか。
ラジオでは、天皇のイメージも結局はメディアの作り出したもの、という点まで言及していて、その部分はほんとうに厳格にとらえたほうがよいと思う。「だって陛下はいい人だもん」みたいな子どもっぽい態度(会ったことあるの?)は、戦時中ならいざしらずいまの時代にはふさわしくない。
他方、リベラル派の多くが天皇の「ご意向」をそのまま受け取ってしまっているという指摘も銘記しておくべきだろう。天皇は、憲法でかなり人権が制限されている人物なのであって、その(ある種の)呪縛から解放するには、天皇制をなくすべきだ、と主張している人はどれくらいいるのだろうか。ごくごく率直な考えとして、天皇ってたいへんそうね、なくしてあげたらいいのに、っていうのが人権を重要視したものだと思うのだが。


ま、話は変って。
僕の今年の流行語大賞は、ニック・ハノーアーによる以下の言葉だ。
どんな金持ちも、寝るときに使う枕は1個か2個。
以下、詳細。
9月23日(本放送は2月15日だったようだ)に放送されたBS世界のドキュメンタリー選『みんなのための資本論』('13 米 / 原題: Inequality for all)において、年収1,000万ドル~3,000万ドル未満と自ら認めるニック・ハノーアーが発言したもの。
彼は寝具会社のCEOであり、かつ投資家でもあるのだが、富裕層は金をつかわず貯め込むだけで、ほんとうに重要なことは中間層が消費することだと力説する。つまり、トリクルダウンはないということだ。
彼はこう言っていた。
「わたしは一般のアメリカ人の1,000倍も稼いでいますが、かといって枕を1,000個買うわけではありません。どんな金持ちも、寝るときに使う枕は1個か2個です」
なお、このドキュメンタリーは非常に面白かった。一例を挙げれば、フィリップ・ドーマンという大手メディアのCEOがこんな発言をしていた。
「人員削減を検討しなければならなかったのが辛かった。リストラをすれば従業員が苦労するのは目に見えていたから。しかし組織が生き延びるためにそうせざるをえなかった」
彼が深刻そうにそう言う画面の左下に、こんな文字が静かに浮かぶ。「年収8,450万ドル」と。
2013年製作のドキュメンタリーではあったが、ここにはしっかりと「トランプ大統領」を予見させる現象が映されていた。メインに取材された経済学者のロバート・ライシュは、格差の歪みが、他の人種・宗教への非難へと直結し、分断が生まれている、と発言していた。また、ある共和党の元上院議員は、やがて超富裕層が大統領職を買うようになるという皮肉をこぼし深い憂慮を示していた。オークションで政府を買うなんてことがあってならない、と。
いづれにせよ、上の言葉は今後も憶えておいていいと思う。どんな金持ちも、寝るときに使う枕は1個か2個。

ちなみに、ニック・ハノーアーのTED(これ、いまだによくわかっていない)でのスピーチ原稿がウェブ上にあって、そこでも彼は「枕のエピソード」に似たような発言をしている。しかしこの原稿のなかでもっとも重要なことは以下だ。
我々 超富豪は知っています 表立って認めはしませんが 私たちが このアメリカ合衆国という国以外の どこか別の場所で生まれていたら 舗装もされていない道端に裸足で立ち 果物を売る人たちと同じだっただろうと
この理窟に意味がないという人間は、同様に努力至上主義に意味がないということも認めなければならない。努力は、最初に配られたカードがあってはじめて成り立つものであって、はじめからカードの枚数が少ない者、数は足りていてもその一部が破れている者、そもそもカードが配られなかった者たちは、努力を上乗せすることすら難しい。比喩をやめてもっと単純な表現を選ぶのであれば、それは運だということ。運ひとつだということ。


以下は余談。


”表現の自由の擁護者”賞

  • 松井大阪府知事
【受賞理由】
府知事閣下におかれましては、府警の若い巡査が沖縄で「土人」と発言したことについて以下のツイートを発せられ、いかなる表現の自由をも擁護するという強い意志を提示されました。
審査委員会では、鶴保沖縄担当大臣閣下も授賞に値するのではないか、という意見も出ました。大臣閣下は、上記土人発言に対して、「間違っていると言う立場にない」とコメントし、やはり表現の自由に対する擁護の意志を見せたわけですが、府知事閣下の披露した「ご苦労様」のような、より積極的な姿勢までは見られなかった、ということで惜しくも受賞を逃しました。

”誠意の体現者”賞

  • 小泉進次郎衆議院議員
【受賞理由】
9月26日の安倍内閣総理大臣による所信表明演説中、自民党議員の先生方が一斉に立ち上がって拍手したことについて小泉先生は記者団に対して、「あれはないよね。あれは私も含めて、ちょっとおかしいと思いますよ(朝日新聞報道より)」と発言されました。この発言で、全体主義化しつつあるように映る自民党を不安に思う一部の国民の気持を代弁する一方で、その直後に「僕もびっくりして、つい立っちゃったよ(同上)」と付け加えることによって、自民党そのものに対して今後も忠誠心を示し腹蔵のないところを明らかにしています。この一見アンビバレントな言動によって先生は、われわれ凡人の持っている価値観――誠実さや誠意というものは、まったく対立する立場にある集団の双方に対しては発揮することができないという凡庸な価値観――の転換を促してくださいました。
審査委員のうちには、賞の名称を”すぐれたバランス感覚”賞とすべきではないかという意見も見られましたが、「バランス感覚」というのでは小泉先生の振る舞いの大胆さまでは正確にあらわすことができないのではないか、という反対意見によって、中途半端な義理立てには決して陥らない、先生の全方向へ向けたいわば徹底した誠実さがよりはっきりとする当該賞名が定められました。

”愛国者”賞

  • 日本国政府閣僚
【受賞理由】
近年、愛国者を自称する国民が増えているのは非常に喜ばしいことなのですが、その価値観や潮流を規定しているという意味において最大に愛国心を顕しているのは、わが日本国政府を措いて他にはありえず、他の追随を許しません。
その実例といえば、軍属による非道な殺人事件、オスプレイ墜落事故、基地移設、等の沖縄における米国間との諸問題について、国益第一の断固たる決意を以て交渉にあたり相手国との摩擦を回避する努力をおこない、かえって国民(特に沖縄県民)からいったいどの方向を向いているのだと批難を浴びたこと、またその延長線上で次期米大統領の就任前に自宅を訪れて今後起こりうるであろう摩擦を回避する努力をおこない、かえって国民(特に野党)から朝貢外交かと批難を浴びたこと、そしてロシアと経済協力をする条件でその一部を取り戻せると信じていた北方領土返還問題が白紙に戻ってしまっても今後起こりうる摩擦を回避する努力をおこない、かえって国民(特に愛国者と自称する人たち)から食い逃げされたと批難を浴びたこと、などこれら自国民の嘲罵嘲笑を誘う行動には枚挙に暇がありません。しかし、現政権はそのたびに耐え忍び、たとえ腹の中で切歯扼腕、血の涙を流していたとしても、外面はどこ吹く風の構えで、国益第一を信じ「粛々と」国政を運営してきました。そのような政府閣僚たちを愛国者と呼ばずして、いったい誰を愛国者と呼べるのでしょうか。
われわれのような単純浅薄な国民などではとうてい思いつきもしないような百年の大計がきっと彼らの頭のなかにはあって、そのマクロな視点に拠ってわれらが愛すべき日本国の舵取りを行なっているのであります。ああ、素晴らしき哉! 愛国者万歳! 安倍内閣万歳!

編集
今年2回目のウイルス性胃腸炎らしきものに罹って一日半寝込んでいたのだが、ようやくのことで起き上がれるようになった。こういうときは有意義なことに時間をつかいたいと思い、僕が今年聴いたアイドルソングのトップ20をつくった。なお、 2016年以前リリース曲も多いが、「今年聴いた」に眼目があるのでランキングに入れている。

  1. アイドルネッサンス - 君の知らない物語
    ベイビーレイズJAPAN - 夜明けBrand New Days

  2. STEREO JAPN - Dancing Again
  3. BELLRING少女ハート - asthma
  4. Berryz工房 - Love together! @ラストコンサート2015 Berryz工房行くべぇ~!
  5. はちきんガールズ - 雨のスクリーン
  6. アイドルネッサンス - シルエット
  7. 姫乃たま - ねえ、王子
  8. 里咲りさ - Little Bee
  9. わーすた - いぬねこ。青春真っ盛り
  10. PASSPO☆ - Mr. Wednesday
  11. BiSH - オーケストラ
  12. おやすみホログラム - 11
  13. 虹のコンキスタドール - ↓エイリアンガール・イン・ニューヨーク↑ 
  14. わーすた - うるとらみらくるくるふぁいなるアルティメットチョコびーむ
  15. Fullfull☆Pocket - 流星Flashback
  16. BiS - BiSBiS
  17. バンドじゃないもん! - キメマスター!
  18. 絶対直球少女!プレイボールズ - 内野でも外野でもいい球場へ連れて行ってね
  19. Q'ulle - ALIVE
註として、1位は2つ。あと、あまり意識してはいなかったのだが、1つのアイドルにつき1曲みたいな感じになってしまっているけど、アイドルネッサンスとわーすただけ2曲づつをランクインさせた。いづれにせよマニアでもないので、よく聴いた、たのしんだ、というものを並べただけ。

#01 アイドルネッサンス - 君の知らない物語
聴いた瞬間に、「あ、今年ベストだな」と思った。公式のMVもいいけれど、メンバー自身がMVを初めて見たときの動画が好き。これだけで10回以上は再生した(そもそもアイルネを知ったのは、この「MV初見動画」に感動したから)。こういうのを観て、彼女たちの感動を追体験し、自分たちからとてつもなく遠く離れているのではなく、ちょっとだけ先に進んでいる存在として認識できるのがいい。

#01 ベイビーレイズJAPAN - 夜明けBrand New Days
『君の知らない物語』がベストだと思っていたんだけれど、ひょんなことからこの曲の存在を知って、9月くらいからこれにハマりまくった。CDにある音源より、ライブ音源のほうがなおいい。ニコ動にあった「最新が最高」というコメントにも大いに同意するし、大サビの前のイェッタイガーはほんと気持が盛り上がる。ただ、9/25だったかの@JAMの件があって以降、この曲を聴くとメンバーの気持のことを考えてしまって、ひたすら辛い。この辛さが昂じてアイドルソングを聴くことじたいからちょっと遠ざかってしまったのも事実。

#03 STEREO JAPN - Dancing Again
公式MVもいいのだけれど、ステトーTOが77kmを走るというunofficialの動画も非常にいい。この動画のおかげでTOという言葉を知ることもできた。しかしこの曲はほんと名曲で、何十回リプレイしても聴き飽きない。そもそも、「ほら、こんな曲がアイドルソングとして売れるんでしょ」的につくられた曲でそれを隠してもいないらしいが、みごと思う壺にハマっているのであった。

#04 BELLRING少女ハート - asthma
ベルハーは歌うまくないし、いまいちだよなあ、とは思っていたのだが、TIFの動画(12:44~)をたまたま観て、カッコイイ!と思ってしまい、そのアングラ感、カオス感にしびれて、そこから価値観が180度転換(ただし、ベルハーとベビレでは価値観が違うのだから、客のほうはそこをわきまえなければならない)。いまのアイドルブームの終焉が来たとして、そのときに流れるのはこの曲かもしれない、なんて思っている。聴いてすぐに「いいな」って思えるのは、Coldplayの"Vive La Vida"に似ているからだと思うけどね。

#05 Berryz工房 - Love together! @ラストコンサート2015 Berryz工房行くべぇ~!
これは「真夜中のニャーゴ」の2015年の総括をやっていた特集で知ったもんだから、一年遅れということになる。これと、次のはちきんの『雨のスクリーン』もそう。 僕はこれまでベリーズ工房まったく知らなかったんだけど、この動画はさすがにグッとくるものがある。この曲も、ふだんとはまったく違うヴァージョンっぽくて、お客さんのコールも戸惑いつつまとまっていくというところがとてもリアル。歌詞も、ラストにふさわしい。

#06 はちきんガールズ - 雨のスクリーン
2015年もいろいろあったけれど今年になってさらにあったはちきん。ガールズっていってもひとりだもんなあ。ローカルアイドルもたいへん……だけどこの曲はいい。みんな歌がうまくてハーモニーなんかも抜群。いま聴くとよけいにさびしい気持ちになるな。OfficialでMV fullはないんだけど、アイドルってMVはフル尺でアップしたほうが絶対得だと思うんだよね。ショートヴァージョンでいったい誰が得をするんだ。

#07 アイドルネッサンス - シルエット
これは音源的にいえばカップリングなんだけど、ライブでは非常に盛り上がるらしく、セットリストの要にあるみたい(現場に行ったことがないので断言できないけど)。なのでYouTubeではライブ版しかないんだけど、上にリンクを張った7/16のものがいちばん気に入っている。イントロからしてスーパーかっこよくて、こういうのを観ていると特に、(僕のなかの)アイドルのいちばん大切な要素って「カッコイイ」ということに気づかされる。

#08 姫乃たま - ねえ、王子
これ、いつのかと調べたら2014年。なにがいいかって、サウンドがファミコン版グーニーズっぽいんだよね。あと、FFのクリスタルっぽさもある。つまり、すっごく懐かしいサウンドってこと。歌詞世界もなんだかいいんだよな。ユーモアと、でもどこかに切実さもある。

#09 里咲りさ - Little Bee
最近YouTubeにアップされたものについてはピンとこなかったけれど、まあ里咲りさはだいたいいいよね。わりとハードめな曲調のものもあるけれど、こういうかわいらしい舌っ足らずな感じの曲もうまい。応援したくなる。

#10 わーすた - いぬねこ。青春真っ盛り
これは去年のアイドル楽曲大賞(インディーズ部門)で、1位を取ったことで知って、すぐに聴いて「ふうん」という感想しか持たなかったんだけれど、何度も再生しているうちにだんだんと頭から離れなくなってしまい、結果、ものすごく気に入った曲。振り付けも面白く、MVやライブ動画も漁ってしまった。なお、アイドルMV全般において、メンバー個人個人のバストアップ(バストのアップ、ではない)のシーンは好きじゃない派です。徹頭徹尾、振り付けを観たい。ちょっと見方間違っているのかもしれないけど。

#11 PASSPO☆ - Mr. Wednesday
なので、彼女たちには申し訳ないのだけれど、この歌(やグループじたい)の魅力をもっともよく伝えるのはDance Shot Ver.だと思うんだよね。さらに言うと、メンバー自身の「踊ってみた動画」がもっといい。チア系のダンスもそうだけど、全体的にアメリカンな雰囲気があって、なかなか独自色があると思う。

#12 BiSH - オーケストラ
やっぱり松隈ケンタの曲はカッコイイなって思える曲。『KiLLER BiSH』もいいアルバムだった。このサウンドの疾走感のなかで、ヴォーカルが次々と交替して唄っていくのがBiSHとかBiSのカッコよさなんだと思う。

#13 おやすみホログラム - 11
「11月がやけに優しくてまいるな」っていうこの歌詞だけで、頭をガーンと打たれる思いだった。他のアイドルたちと違って、ここだけはライブ動画を観る気にまったくならないってのはどういうわけだ(好きな人は好きみたいだけど)。いや、その理由はきちんと説明できるんだけど、まあこの曲はいい曲なので。というか、他にも『エメラルド』とか『ニューロマンサー』とかいい曲は多い。

#14 虹のコンキスタドール - ↓エイリアンガール・イン・ニューヨーク↑
Official MVもいいんだけど、ライブ動画もいい。あと、歌詞がきちんとネット言語を翻訳しているなと感じさせる部分があって、そこがいい。そのかわり、耳で聴いていてもなにがなんだかわからない部分が多いんだけど。

#15 わーすた - うるとらみらくるくるふぁいなるアルティメットチョコびーむ
これも耳から離れなかったな。RPGをメタフィクション的にパロディにする、ってやり方がこのときは面白かった(『完全なるアイドル』のメタ感は、ちょっと失敗している気がする)。アルバムを聴いてわかったのは、このグループってわりと本格的にヴォーカルを聴かせる方向も意識していて、それでツーヴォーカル体制を取っている(いた?)と思ったんだけれど、お客さんのことを考えると、やっぱり全メンバーに歌を割り振ったほうがいいと思う。

#16 Fullfull☆Pocket - 流星Flashback
たまたま知った曲。この曲も、忙しくてイヤになったときとか、夏の朝4時前なんかに起きたときに聴くと、頭や身体が目醒める。他のアイドル曲もそうだけど、基本的にはバラードよりは、ダンサブルな曲に毎年助けられていると思う。そういう意味じゃ、合法的トビ方(©Creepy Nuts)をしているということになる。これは大袈裟じゃなくて、ほんとうの話。

#17 BiS - BiSBiS
Officialにアップされている動画ではプールイしかヴォーカルを取っていないが(それもそのはず、これが公開されたときには新生BiSの他のメンバーは決まっていなかったのだから)、ニューアルバムの『Brand-new Idol Society2』にはメンバー全員でヴォーカルを割り振っている曲があって、そっちのほうがやっぱりいい。ごった煮感がBiSには合っているということなのかな。

#18 バンドじゃないもん! - キメマスター!
去年あれだけ聴いたでんぱ組.incについてまったく触れていないけれど、でんぱっぽい曲といえば、この曲が代替してくれているんじゃないだろうか。ごちゃごちゃしている歌詞、そして衣装。こういうのにまったく慣れてしまったもんだから、おそろしいものだ。

#19 絶対直球少女!プレイボールズ - 内野でも外野でもいい球場へ連れて行ってね
野球とアイドルっていうコンセプトの目の付け所はいいと思ったんだけれど、いかんせん2年くらい出てくるのが遅かったのでは、とつくづく惜しい。コンセプトのせいか野球にからめた曲が多いみたいで、なかでもこの曲は、球場と恋愛を等価において唄っているのが非常に興味深かった。ベイスターズのTVKとかマリーンズの千葉テレビとかにテーマ曲として使ってもらえればよかったのにね。

#20 Q'ulle - ALIVE
まなこさんの踊ってみた動画で知ったクチ。ようかい体操の人とかJAの年金の人とかいえば、思い当たる人もいるのでは? で、聴いてみたキュールのこの曲だが、意外にハードなEDM系の音楽やっていてカッコイイなと思った。やっぱり、カッコイイは重要。


ベビレのところでも書いたけれど、10月頭くらいからちょっとアイドルそのものから離れていて、そのおかげというか、あまり熱を込めて漁っていなかったけれど、ほんの最近まで欅坂の『二人セゾン』とかNegiccoの『愛、かましたいの』とか全然聴こうとしていなかった(聴いてよかった)し、新生BiSのニューアルバムもよかったし、ギャンパレが『Plastic 2 Mercy』(名曲なのは知ってる)リリースしたりとかで、いろいろとチェックしなければいけないのがあるんだけど、それは来年に回す。
あと、でんぱについてだけど、4月に出たアルバムはよかったけれどだいたい2015年に聴いていたもの(たぶん)なので、ランクインさせなかった。あと、最近公開されたでんぱの集大成みたいな新曲は、一部の噂を考慮すると、とてもじゃないけれど聴く気になれない。もうちょっと気持が落ち着いてから聴くとする(そういう意味じゃスマップファンの気持はわからないでもないが、署名するのはベクトルを間違えているとは思う)。
まあ、ミーハー的にたのしんでいる素人初心者のたわむれということで。

(追記)
いま午前1時半に書き終えてわかったんだけれども、こうやって夜遅くまで動画漁ってリピートしていたもんだから、たぶん免疫落ちて病気になりまくったんだと思う。 

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流行語大賞の審査員をやった廉で叩かれた俵万智が、弁明のツイートをしていたらしい。 いったい、「反日だ」とかいう戦時中を思わせる批難を目にする環境にある、という時点ですでに不用意という感じがする。そんな貧困なボキャブラリーしか持ち合わせのないような人間とコミュニケーションをとらなくてはいけないなんて、なんの罰ゲームなのだろう。表現の世界に与する人間であれば、ネットなんかに自ら関与しなくたっていいじゃないか。ツイッターなんかやってなにがしたいのだろうか?
「日本死ね」という単語を流行語に推したことによってすぐさま「反日だ!」と批難する人間は、そもそも対等に話せるだけの知性や語彙、社交性を持っているのだろうか。僕の感覚からすると、そういう人間は無視して構わないのだが、けれどもやっぱりリアクションはしてしまうもので、「私は国を愛している」と俵万智は答えてしまっている。

去年だったか、たぶん安保関連の問題で盛り上がっている時期だったと思うのだが、松尾貴史が政府への反対意見を述べて「反日タレントだ」 と批判されたらしい。それに対する反論として彼は、たとえば「反戦運動をする人こそが真の『愛国者』である」と主張した(真の「愛国者」の務めとは何か - ポリタス)。
僕は、こういう発言に違和感を覚える。「反日的」というレッテル貼りをされた人は、なぜか「いや、僕/私は愛国者ですよ」と答えることが多い。なんだか、突然強制された踏み絵に対して、「いや、僕/私は踏めますよ」と言って絵をずかずかと踏んでいるような感じがしてしまう。どうして「なぜ踏み絵などしなくてはいけないのか?」と問うことをしないのだろうか。

「反日的だ」とか「愛国者だ」とかいう批難や称揚が日常的となっているコミュニティに、あなたは属しているのだろうか?
もしそうでないのなら、そういう場でとかく口にされる二元論につきあう必要はない。もとより問いの土台を共有していないのだから。
返事をする必要のない質問に対して俵万智や松尾貴史は、金角・銀角の呼びかけに不用意に応えるように、自ら罠に入り込んでしまっている。彼女/彼は、程度の低い批難に応戦することによって、図らずも、その程度の低い批難が存在する余地を認めてしまっているのだ。
この「反日」という言葉は容易に「非国民」という言葉を想像させるし、おそらく同義語として遣われているのだろう。こういう言葉を遣う人間は、ある国民に対して「国民に非ず」と認定できる人や組織があると考えているのかもしれないが、とんでもない話だ。
とんでもない意見や考えに対してはスルーするのが最上で(バカとコミュニケーションをしたってどうせ実にならないから)、もし応対するのなら、根幹となる価値観を容れられない、と前提そのものを攻撃すべし。相手の次元まで降りてしまって、ご丁寧に「非国民ではない」と応対するのは愚の骨頂。まるでどこかに「非国民」というものが存在するかのように聞えてしまう。
僕は、「反日」とか「非国民」などというおそろしい同調圧力に対してこのような「弁明」がもたらす消極的な承認を、罪だと考えている。俵や松尾のような文章をよくする人間が、この点に気づいていないはずがない。それでも彼女/彼は弁明せざるをえない。そこに、空恐ろしさを感じる。そうやって、リベラルと見なされる人間たちが簡単に自分たちの領地を簡単に手放してしまうことを。 

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NHK-FMのラジオドラマ『FMシアター』は毎週チェックしている。このひと月半ほどは録音はしたものの未確認という状態なので断言はできないのだが、今年のラジオドラマのベストはすでに決まっている。しかも2作品。
それについては別のところで言及するか、あるいはしないとして、今回は三谷幸喜(東京サンシャインボーイズ)の舞台版『ラヂオの時間』(1993)の感想。
 
映画版は観たことがあったのだが、舞台版ははじめてで、「へー、YouTubeにあるんだあ」となんの気なしに観始めたのだが、面白くて、見終えてからもう一度あたまから観直した。

最初の驚きは、「伊藤俊人!」 だった。調べたら40歳のときに亡くなっていたんだなあ。テレビで観るときにはきまって脇役という印象だったが、舞台だと準主役くらいの位置づけ。あの黒縁メガネはキャラづけのためだったのかも。

僕はそれほど三谷幸喜の良いファンではないので鑑賞体験は少ないのだが、それでもこれは三谷作品っぽいと感じられた。あまりにも興味深かったために、登場人物たち12人を性格でグループわけをしてみると、以下のようになった。
 
『ラジオの時間』の登場人物グループ分け
A: 日和見主義B: 自分本位C: 常識人
プロデューサー(西村雅彦)メアリー(斎藤清子)脚本家(宮地雅子)
ディレクター(甲本雅裕)ドナルド(小林隆)アナウンサー(相島一之)
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ボブ(伊藤俊人)神父(阿南健治)
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構成作家(野仲イサオ)AD(西田薫)
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脚本家の夫(近藤芳正)音響(梶原善)

こう整理してみると、物語はCグループだけでは絶対に動かない。少なくともシチュエーション・コメディである三谷の舞台では。
まとめる前の印象では、ほぼ全員がトラブルメーカーだと思っていたが、実際はそうではない。おそらく半分くらいはまともな人がいないと、話じたいが安定しないのだろう。このバランス感は憶えておくとよいかもしれない。役に立つかどうかは知らんけど。
なので、Cグループの人物たちが物語の基本線を定めているところへ、AグループやBグループの人物たちがズレを起こしそれによって笑いを生じさせる、というのが基本的な構成となっているはずだ。といって、Cグループの人たちは四角四面で面白くないというわけではなく、マルチン神父やアナウンサーのように笑いをとるシーンがいくつもある場合があって、ほんとよくできているなあと思う。

この舞台版を観ていてもうひとつ気になったのは、主役が脚本家ではないということ。あるいは、脚本家だけではない、と言ったほうがより適切か。
映画版では、完全に鈴木京香の視点から描かれていたように記憶しているのだが(けっこう前に観たもので断言はできないのだが) 、舞台版では、西村雅彦扮するプロデューサーが主役のように思えてくる。
いろいろなところで僕は、この物語のなかの西村雅彦(映画版でも同役を演じている)のセリフが大好きだということを吹聴している。彼が役者たちのわがままに応えるため次々と脚本を書き換えさせてしまうので、ついに脚本家に(時間がないのに)「すべて録り直してほしい」とクレームを受けたところ。演劇版のものを引用すると、
ぼくらは遊びでつくっているわけじゃない。自分のやりたいことをやりやすいようにやる、それは趣味の世界の話です。
妥協して妥協して妥協して、自分を殺してまで作品をつくりあげる。われわれはそういうところで仕事をしている。いいものはできませんよ、それは。でもやらなきゃいけないんです。垂れ流しでもいい、不本意でもいい、とにかく放送しなきゃいけないんです。
でもわれわれは信じている。いつかは満足いくものがそれでもできるはずだ。その作品に関わったすべての人が満足できて、そしてそれを聞いたすべての人も満足できる。
でも今回はそうじゃなかった、それだけのことです。
いつも自分の満足いくものが書きたいのなら、あなたこの世界に足を踏み入れるべきじゃない。ご主人相手に自分で読んで聞かせてあげていればいいんです。
となる。
映画版でもここにはやはり主眼が置かれていたような記憶があって、「ああ、これは三谷本人の言葉なんだろうなあ」と感じられた。もしかしたら、これを書いたときの三谷が、若い頃の三谷に送った言葉なのかもしれない。いや、三谷幸喜の若い頃ってどういう人だったか全然知らないんだけど。
で、僕が西村雅彦を主役(のひとり)と感じたことが、「正解」か「不正解」かなどということは実はどうでもいい。そんなものはない、というほうがより「正解」の気がするくらいだ。そんなことより、「主役は脚本家だけじゃないんだなあ」と感じられた理由のひとつに、舞台という空間に登場人物たちが並列に配置されていることがあった、そのことのほうが面白いことのように思える。
厳密にいえば、上掲動画は舞台を撮影しているものであって、しゃべっている役者などにクローズアップなどしてはいるものの、俯瞰して舞台の全景が見渡せるようなシーンが多めに感じられた。これが、実際に舞台を観劇した人たちからすれば、もっと並列に観られたはずで、しゃべっている役者に注目しながらも、なんとなく空間全体を把握していたはずである。これはわれわれの日常生活と一緒で、誰かがしゃべっているとき、その人に視線と耳を傾けるものの、一方では、周りを歩いている人や車などをなんとなく視界に入れ、その音も意識下で捉えているものである。
映画(映像作品)の場合、あたりまえの話だが、観客はカメラの向けられているほうしか観ることができない。そしてそのカメラは、主人公の視点もとるし、他方で第三者(あるいは神)の視点もとる。ある意味で映画は、「観る」というよりは「(監督の意図した形で)見せられている」に近いのかもしれない。自然か不自然かでいえば、圧倒的に不自然だ。
もちろん、舞台に演出意図がないわけではない。スポットは当たるし俳優の立ち位置も変わるし、だいいちセリフに軽重がある。けれどもそれは、(映像作品にくらべれば)あくまでも日常生活の延長線上にあると観客が感じられ、映像作品のような「不自然」な視点は得にくい。
これらのことが理由で僕は、西村雅彦演じるプロデューサーの言動になにかの芯のようなものが感じられ、単なる「クライマックスになったときだけいいことを言う人」ではない、作者が持っている――とこちらが勝手に推測しているだけなのだが――映像世界(ラジオ世界じゃなくて)の「プロ」像を体現した人物のように思えた。

映画版のラストは忘れてしまった。登場人物たちが「いろいろなことがあったけど、まあなんだかんだで、いい仕事したよね。それじゃあバイバイ、またどこかで会えたらいいね」みたいに別れる、なんてまるで『アメリカの夜』のようなエンディングの形で記憶しているんだけど、そもそも『アメリカの夜』も一度観たっきりなので、うろ覚えにうろ覚えを重ねただけ。
それはともかく、舞台版のラストは(もしかしたら映画版と同じかもしれないけれど)いい。「いつか」はいまこの瞬間なのだ、と。 

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知らぬ他人の感想文や「レビュー」等によって、大切な物語の重要な仕掛けなどが鑑賞前に明かされることほど、腹立たしく不愉快なことはない。とは言い条、このご時世、鑑賞前にわざわざ検索などをして他人の感想やら評価を確認する人もいるようで、そのような人たちに対して必要以上の配慮をするまでもないのだが、たまには親切心などを起こしてやるのも徳を積むことになるに違いないと思い、以下に、映画版およびマンガ版『この世界の片隅に』の重要なプロット・描写・表現等を書いてしまう場合がある、ということを明記しておく。まあ事前になにかを確認するという行為そのものが僕にとっては好ましいものではないので、ほんとうは気配りする必要もないのだが。
そして、マンガ版の感想を書いた時には(あえて)書かなかった部分も補足しておく。
 
それはともかく。
あまりにもマンガ版がよかったので、一念発起して、田舎の山奥から都会に出て映画版も観てきた。
率直な感想をはじめに書いておけば、いい映画だとは思う。ただ、いい映画どまりだとも思う。
以下、だらだらと思いついたままに。

オープニングテーマでいきなりコトリンゴの『悲しくてやりきれない』が流れて「ん?」と思ったが、ほかでは使われなかったので安心した。というのも予告篇を観たとき、そこに流れている「悲しくてやりきれない」というのがこの映画のメインテーマだというのだとしたらとんでもない片手落ちだし、だいいちそんなに単純な物語じゃない、という憤慨とも呼ぶべき感情がむらむらと僕のなかで湧き起こったのだ。
そりゃあ、たのしくてやりきれない、というような作品ではないが、しかしこの作品でもっとも重要なことは「日常」が描かれているということである。たとえ戦時下であっても戦時下なりの日常があったわけで、そこをこのマンガは丁寧に描いている。
もちろんその主人公たちの日常は戦争が激化していくなかでなかなか維持し難いものになっていくわけだが、呉の大空襲、そして広島の原爆投下によって大きな変容を余儀なくされながらもなおそれはつづいていくのであって、そこに僕は作者の誠実さを感じる。
僕が何度も単純なお話ではないと書いているのは、まさにこの「日常の尊さ」とでも呼ぶべき点に焦点が当たっているところで、けっして、「戦争もの」にありがちな戦争の悲惨さ・残酷さだけがクローズアップされているわけではない。
予告篇の『悲しくてやりきれない』がもし映画版のメインテーマになるのだとしたら、むしろ悲惨さ・残酷さだけを物語のクライマックスにすることになり、いわゆるお涙頂戴の、「さあここで泣いてください」的なつくりになっていやしまいか、とそこに(本篇を観てもいないのに)憤慨した、とこういうわけなのであった。
で、話を戻すと、当該曲はオープニングで流れただけであったのでまあよしとするが、そんなベタな選曲をしなくてもよかったのに、という思いはいまも残る。

マンガ版は、「漫画アクション」に48回にわたって連載されたもので、1回1回の終わりにはたいていオチがついている。その最後の1ページで、それこそ悲しくてやりきれない物語や、辛く寂しいできごとなどが、なんとなく緩和され読者がホッとできるようになっている。おそらくこれは作者が意図的にそうしたのであって、読んでいてただ重さだけが心にのしかかりつづけるような、そのような物語を否定した結果なのではないだろうか。実際にマンガ版下巻の「あとがき」において作者は、
この作品では、戦時の生活がだらだら続く様子を描くことにしました。
と書いている。そこにつづく言葉も引用しておこう。
そしてまず、そこにだって幾つも転がっていた筈の「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。
この1回1回のゆるやかさ・軽さが、かえって主人公たちの生活感に重みを出しているのだと思う。まるで日記や絵手紙を読んでいるようなゆったりとした気分で、戦禍のピークへと収斂していく物語としてではけっしてなく、あくまでも市井の人々の日常生活の延長に戦争が割り込み、その結果惨禍が引き起こされるという形を追体験できる。
この形式――毎回それぞれにオチがつく形――は、マンガ版ではひとつのリズムとして味わうことができた。それはおそらく、マンガを読み進める速度は読者自身が決定できるというこのことが大きく作用している。
しかし映画版においては、あたりまえの話だがテンポやリズムというものは製作者によってあらかじめ決められているものであって、そうなると、特に冒頭部分のヒロインすずの少女時代などは、やけに暗転の多い舞台演劇を見せられているような、せわしない印象を受けた。簡単に言ってしまえば、間が悪い感じがしたのだ。
やがて観ていくうちに、(僕が個人的に言うところの)映画モードというものに慣れたのか、そのぎこちなさというものは徐々に感じられなくなっていったが、いくつか気になる点は厳然としてあった。
たとえば、すずが晴美と右手を失ったあとに、モノローグで延々と「○○月には××をした右手」とつづけていく場面、あそこはマンガ版で読んでいても見開きのかなり長い部分だったのだが、映画版では途中からそのモノローグをいくつも重ねて聴かせるという演出になっていた。おそらくは間延びしダレてしまうことを回避するための策だったのだろうが、僕はそれが正解だったとは感じられなかった。原作のマンガ版では、淡々とひと月ごとに「××した右手」と回想していくことによって、その失ったものの重さ、そしてそれによる悔しさ・苦しさ・切なさなどが静かに浮かび上がっていたが、いくつものモノローグがエコーをともなって重なるという映画版の表現ではなにかの呪詛のようにも聞えてしまい、すずの心にそのような恨みや歪みを生じさせるものがなかったわけでもないのだが、少なくともあの場面ではやや先走りしすぎであって、少し首をひねるものになっていた。
ここらへんがマンガのモードと映画のモードではっきりと差が出てくる点で、良し悪しは別として、マンガ内にあるセリフやモノローグは、現実の人間による発声をともなう映画において不自然に感じられることが少なくない。
この例として、『この世界の~』からは離れてしまうが、理屈っぽいギャグマンガをアニメ化した場合、そういうマンガにありがちな説明過多なツッコミは、目で読んだときにはなにも感じないものの、実際に声優が発声したときには「長えー」と感じるはずだ。
例としてたまたま手元にあった沙村広明『波よ聞いてくれ』3巻(傑作)をぱらぱらと広げると、こんなのがあった。ボケ部分は省略するが、ヒロインの鼓田ミナレのツッコミ。
最後そんな風にフワッと終わらせるなら「霊体だから」とでも言っときゃいいのに…何なんですか前半の蘊蓄は!?
長い。これからもわかるように、この場面ではボケ部分も相当に長い(気になる人は買って読もう)。ボケはある程度長くてもよいのだが、ツッコミは、ツッコんでいる最中にその内容が視聴者に悟られてはいけないので、自然早くなる。早くなるといっても、上の引用部分を早口で言うとなると、急に不自然な感じが出てくる。これが、黙読と発声によるモードの相違となる。
『この世界の~』に話を戻すと、実はこの作品は後半になると特にモノローグが増え、それと実際のセリフとが重なって文字通り重層的な効果をもたらすのだが、この処理が映画版ではあまりうまくいっていなかったようにも思う。
あまり詳しくは書かないが、すずがリヤカーの後ろを押し、その横で巡洋艦青葉の幻影が浮上していく場面。あそこは絵も音声もそれらが意味するところのひとつひとつが重厚すぎて、僕はマンガ版を二度読んでいたから理解できたものの、初見で把握することはかなり難しかったのではないだろうか。
もちろん映画は一度しか観ないものではない。何度も何度も繰り返し鑑賞すればよいのだ。しかし実際には、リモコン片手に何度も何度も巻き戻し一時停止を繰り返すようなものではなく、上映時間2時間の映画は、2時間きっかりで終わる物語なのであって、何時間ときには何日かけて読んだっていいマンガとは本質的に異なる。
映画とマンガのどちらがよくてどちらが悪いという話ではない。そういうそもそも論ではなくて、『この世界の~』という映画作品においては、マンガ版において成功していた表現を完全に移植できたとは思えない、というだけである。

マンガ・映画の両方を体験した人間が必ず口にしたくなるのは、白木リンの扱いだろう。原作がけっこう長い物語なので割愛するのは仕方ないのだが、僕はリンとすずの関係は周作を介したコインの裏と表だと思っているので、リンと周作との関係がまったく触れられないのであれば、リンとすずの関係も当然変化するはずで、変化というよりもかなり無理がでてくる。もっと率直に言えば、リンの存在はとてつもなく軽くなる。
映画版でも、ちょっとした場面で原作の設定を嗅ぎ取らせるコマはあったのだが、しかしそれもなあ、という気もする。原作を読んだ人間が賢しらに「なあ、知ってるか?」と自慢のネタにするだけなのではないか。
僕は個人的には、最後のほうでうなだれるすずの頭を撫でる右手はリンのものだと思っているが(映画版ではそもそもうなだれる場面が異なるし、その右手は義父のものとはっきり描かれていた)、その重役を、映画版のリンでは担えないということだけは書いておく。

あとは余談程度に。
ときおり出てくるファンタジーの場面にすずが入り込んでいくシーンは、原作のもともとのタッチの柔らかさが鉛筆で描かれた幻想部分へのジャンプを許していたが、映画版では登場人物や背景の輪郭があまりにもはっきりとしすぎていて、現実と幻想との境界の淡さが感じられずやや唐突の感が否めないところがあった(白兎の跳ねる海と水原少年が歩いて帰っていく場面とか)。
また、水原の声がちょっと気障すぎて(実際すずに「キザもたいがいにし!」と怒鳴られてはいるものの)、作品世界にマッチしていないように感じられ、不快感すら覚えた。
のん(能年玲奈)の声はそれほど悪くはなかった。が、ものすごくいいか、と問われるとちょっと迷う程度。

以上、書きたいこと――だいたい批判的な内容ばかりになってしまった――を書いたが、と言ったって、感動して映画館で泣いたのは事実。いい映画なのも事実で、より多くの人に観てもらいたいとも思っている。ヒットもしてほしい(しているのかな? 全然知らない)。
けれどもそれ以上に、原作マンガがより多くの人に読まれることを望む。いいマンガだからではない。傑出して偉大と呼ぶにふさわしいマンガだからだ。


(2016/12/18 追記)
いま突然思い出したのだが、劇中、「落下傘部隊の歌」が流れて、心のなかで「おおおおー!」と盛り上がった。
僕が軍歌大好きの愛国主義者だからではない。川柳川柳の『ガーコン』のなかでこの歌が唄われいて、僕は『ガーコン』が大好きなのである。
余談の余談になってしまうが、じゃあ川柳は軍歌大好きの愛国主義者なのかっていうと、そういうわけでもない。以下に、三遊亭円丈の著作から引用しておく。
数年前に、寄席でよく出る落語ネタを調査したところ、ベストテン上位に「ガーコン」が入っていた。この「ガーコン」は、川柳師以外は演らないのに、堂々のベストテン入り。もう、どんだけ毎日演り倒しているのか。たぶん、ひとりの人間が一生に歌う軍歌の曲数では、ダントツの一位。申請したら、ギネス記録になるのでは?
では、なぜ川柳師は軍歌を歌うのか? それは、単に歌が好きだから。お客のために歌うとか、喜ばせようなんてこれっぽっちも思っていない。自分が歌いたいから、歌っているだけ!


(三遊亭円丈『落語家の通信簿』294p)
 なお、川柳川柳の『ガーコン』を聴いたら、古今亭右朝の『ガーコン』もおすすめ。

編集
いつものとおり、周辺を書く。

このマンガを、もし仕事で、あるいは自分のライフワークなどと考える「書評ブログ」等で、なかば義務的に感想やレビューを書かなければいけないのだとしたら、それはものすごく不幸なことだと思う。この作品について、限られた文字数のなかで限られた側面からしか語れないことをとても不誠実だと考える人間にとっては。

『この世界の片隅に』というマンガをはじめて読み終えたとき、僕は率直に、なにも書くことはできないだろうと感じた。なにかを書けば、また別のなにかを書いていないことについてきっと後悔するだろうし、また、なにか書くことによってそれがきわめて断定的で限定的なことしか書けないことに、自分で不満を持つことになるだろうとも思った。
きのう二度目にゆっくりとつぶさに読み返してみて、その思いは覆らなかった。僕はあるひとつの世界――ヒロインの北條すずという女性が生きた世界――を見せられた気分のままでいる。人は「ひとつの世界」を見たとして、それをすべて語り尽くすことができるだろうか。そもそも世界を語れると思うのだろうか。己の把握しきれないものを語ることは不可能なのではないか。
フィクションだから、とか、マンガだから、などと自分の属する世界から割り切って読むことはできなかった。作品のなかの世界は、僕の世界――つまりこの現実と必ずどこかでつながっているはずであり、時間軸でとらえれば、すずが生きた世界のつづきを僕は生きている、と感じられた。
検証することは僕にはできないが、おそらく、凄まじく丹念に積み重ねられた取材や調査によって、そこから現実の空気を嗅ぎ取らずにはいられないほどのリアリティが成立している。
かといってこの作品は純然たるマンガであり、マンガ表現という見地に立っても、最高級最上級の賛辞にふさわしいマンガである。ひとコマひとコマがすばらしく、僕は幾度も心を奪われた。ため息が自然と漏れ、ときに目頭が熱くなった。単なる「悲しい表現」「残酷な描写」のためではない。そんな単純なものはこのマンガにはない。たのしさ。嬉しさ。辛さ。悲しみ。苦しみ。悔しさ。この世界を成り立たしめているものは単純ではなく、そこに登場人物たちが自己を投影するのであれば、やはり感情も複雑に絡み合う。

このマンガにはいろいろな関係が出てくる。主人公を起点として、兄、妹、両親、幼馴染、夫、義理の父母、義理の姉、義理の姪、近隣の住民、結婚する以前の夫の知己、あるいは友人。これらの人々に軽重はない。もちろんすずにとってより大切な人はいるが、マンガ内においてはすべて同じ重さをもって描かれている。ときには、鷺やバケモノでさえも。そして誰もが、やはりすずと同じようにそこから蜘蛛の巣のように伸びる関係性を抱えながら生きている。現実ではあたりまえのことで、しかしフィクションにおいてはないがしろにされてしまいがちなあたりまえがここにはある。
そしてさらに、現実においてはどうしても越えられない空想への壁を、このヒロインはやすやすと飛び越えてしまう。先に、マンガ表現としても最高級のものと書いたのはこのためであって、マンガでしかできないことをこの作品はやってのけている。僕はこの作品の前知識をなにも持たないで読んだものだから、上巻の、白兎の跳ねる海のほうへ向かって絵の中の少年が歩いて帰ってゆくシーンに思わず声が出てしまった。
これらのシーンのひとつひとつを挙げていって、ここは泣けた、あそこは感動した、などとは書きたくない。「泣けた」とか「感動した」なんていう甘っちょろい言葉のタグをつけるのは、この作品を汚い手でべたべたと触っているようなもので、ふさわしくない。そんな簡単な言葉で、なにかを言い当てたような気分になってはいけない。もっとおごそかで、より似つかわしい言葉を探して黙っているほうがましだ。

まだまだとらえきれていないところがある(たとえば、下巻の表紙ひとつをとってもものすごくよくできていて、こんなふうな意味深長な表現や描写がいくつもあることだろう)。けれども、すぐにはそれを探し出そうとは思わない。虱潰しに一コマづつを精査していくような、そんな読み方はしたくない。もう少し時間が経ってから、本棚の前で見つけてふと手にし、ぱらぱらとページをめくって、それからその場で腰を下ろして読み始め、またちょっとしてから、片肘ついて横になりながらなおも没頭する、そんなふうにしてまたこの物語の世界に入っていきたい。時間をかけて、ゆっくりと付き合っていきたいのだ。

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