とはいえ、わからないでもない

2017年02月

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最近の仕事上のトピックといえばスクラップ&ビルドでしかなく、とりあえず、肉体作業に従事している間に時間がいともたやすく流れ去っていく。10年前の僕は、将来防護メガネをつけて、サンダーやら小型切断機なんかを使って鉄管相手にバチバチと火花を散らすことになるなんて想像もしていなかった。仕事は強制されているものではないのでその内容にはまったく不服はないのだが、しかしもともと体力が存分にあるという人間ではないので疲れてしまい、帰宅してからなにかをしようと思ってもその気力が残されていないのが残念なところ。
満を持していまさらながら『逃げ恥』を観ようと思ったがTBSのオンデマンドは月額いくらという設定になっており、この月末で加入するのはいささかもったいないということで来月はじめのたのしみにとっておくこととし、かといって早々に大河ドラマは見切ってしまったので(一点、柴咲コウは歌はうまかったということを思い出させてくれた、というのがほぼ唯一の発見)、特段テレビをつけても観るべきものは発見できず、仕方なしにというわけでもないが積読になっていた本を読んでみるとこれが実に面白いものばかりで、「こりゃあネットを眺めているバヤイではないぞ」とひさしぶりに読書にひたることをたのしんだ。
小説なんかもう読めないだろうなあなどと漠然とした悲しさを覚えていたものだが、ジョージ・オーウェルの『動物農場』をぱらぱらと読んでいたら実に面白く、その流れで最近またベストセラーにリストオンされたと評判の『1984』をつづけて読み、いまやめられなくなっている最中。もちろんドナルド・トランプ政権との相似という点で本書は話題になっているわけだが、その予言性にだけ着目するだけではもったいない(ただし、二回目以降の読書という意味ではそれもアリだとは思う)。まだ途中なのでなんとも言いがたいが、純粋に小説としてたのしめるもので、ディックのような――時代的にいえば、オーウェルのように書いたディック、なのかもしれないが――切実さと悲しみがあって、いまのところは僕ごのみの小説である。
トランプといえば、昨年の大統領就任または一昨年からの大統領選で日本では一般的に注目されたように思うのだが、僕の場合は2000年にリリースされたm-floの『Planet Shining』のなかのinterlude 4におさめられたフリースタイルに「ビル・ゲイツ、yo! ドナルド・トランプ」という言葉があって、そこで漠然とそういう金持ちがいるんだなあ、程度の受け止め方をしていたし、なんといっても、マクドナルドとかドナルドダックを連想させるファーストネームと、トランプというファミリーネームが憶えやすく、爾来その名前はなんとなく頭のなかに残っていた。
そのことを確認するために当該CDアルバムをひさしぶりに聴いてみると、アルバム内の設定として2012年(当時から見て12年後)の近未来ということになっていて、いまだにこの仕掛けに新鮮さを感じてしまう。interlude 4では、「saywatchugotta」という曲へのフリとして、3人のラッパーが好き勝手にしゃべっている(という体をとっている)のだが、そのなかで「むかしはCDなんてものを出していたし、デモテープなんてものがあったねえ。今や『デモレコード』をつくっているくらいで、レコードを自分ちでつくれるアナログのいい世の中になった」みたいなところがあるんだけど、これが現代の「一部」を予言していて面白い。実際にCDの流通は、日本はともかく世界的には減少しており、アメリカかイギリスか忘れたが、CDはもちろんもはやDLの売上よりもアナログレコードの販売金額のほうが上回った、ということがニュースになっていた。これはアナログ回帰ということも部分的には指摘できるのだろうが、より定額制のストリーミング配信に移行したユーザーが多いということの証左であるってことをどこかで見聞きした。まあ、それでもレコードが売れているということは面白い現象だとは思うし、2000年当時におそらくは「面白おかしく」のつもりで発したジョークがそれなりの意味を有してしまった、という事象もまた面白く感じられる。

話はがらりと変わるが、例の極右学校法人に対する報道を見ているといろいろな疑問が噴出して仕方がないのだが、当該理事長は、「安倍晋三記念小学校」なんて名前を考えだしたり、夫人を名誉校長に置いたりと、まともな頭の持ち主にはいっけん見えない。ものすごくストレートにとらえてしまうと、現政権と親和性の高い極右思想組織およびその構成人物が、その権力を笠に着て行政と癒着したというふうに見えるが、はたしてこの問題に出てくる登場人物たちは、大阪の財務局も含めて、それほどバカなのだろうか、とその点にまず疑問を覚えるのだ。億単位の国有地の払い下げ契約について相当恣意的な9割のディスカウントを行って(なおかつ交渉記録をすみやかに廃棄して)バレずにすまそうだなんて、マンガ家が発案して編集者に見せたら「いくらなんでもこんな設定は読者をバカにしている」と突っ返されるレベルだろう。
そう考えると、どうもあの学園の理事長が、安倍や日本会議を貶めその陰部に捜査の手が伸びるよう企んだとしか思えなくなってくるのだ。保護者への恫喝、狂信的に映る思想教育、隠そうともしない民族差別主義。そして例の事件についての、もはや矛盾のないところを探すほうが難しかった説明は、ツッコミ待ちをしているとしか思えない。こうなってしまうと、政権に擦り寄ったり、はたまたその顔色を窺ったりして様子見をしていたメディアまでもが動かざるを得なくなり、結果、現政権への痛烈なダメージを与えている(はず)。
陰謀論を支持することはあまりないのだが、しかしこの場合は、まさに有志の理事長と財務局トップとが密かに諮り今回の問題を企図したと見るほうが自然に感じてしまう。彼らは自分たちが罰されることを前提としていろいろなところで餌を撒き、それがじゅうぶんに達せられたと認識した時点で自らリークしたのではないだろうか。はじめはわかりやすい左右の対立構造を引き出し、そこから現在の「右」がいかに極端な場所に位置しているのかを明らかにし、右傾というよりは右落状態にある潮流を押しとどめ、あわよくば政権を打倒するとそこまで考えての行動、と読み取ることのほうが、「安倍晋三記念小学校」の設立を意図して行政に不当な癒着を持ちかけた(あるいは忖度させた)という構造よりよっぽど自然に思えるのだが。

またまた話は変わって。
小説だけではなく、積読本のなかにはドイツワインについて書かれたエッセイもあって、それをなんとはなしに読んでいたら非常に面白かった。岩本順子の『おいしいワインが出来た!』というものと『ドイツワイン 偉大なる造り手たちの肖像』 というもので、特に前者が面白い。
いままでなんとなく目にしていた、ワイン用のぶどうというものがどのように収穫されてうんぬんという記述は、ほとんどがワイン商の視点、つまりマーケティング戦略の一環として描かれているものであったが、本書は作者が実際にケラーというドイツの醸造所に飛び込み、一年間栽培に携わった記録となっていて、これを読むと、ワイン用のぶどうとはいえ、ほんとうに野菜や他の果樹の栽培と通底するところがあって実に親近感をもってたのしむことができた。もちろん醸造は、田舎の家庭菜園の視点からでは想像するべくもないが、それでもぶどうにはできるだけ手をくわえないでワインにするという思想は、商売者というより農家・百姓の考えのように感じられた。ごく単純に言ってその醸造所のワインに興味を持った。
きっとおいしく感じられることだろう。人間は舌だけで味わっているではないし、もし「純粋に」舌だけで味わおうとしたら、それ相応の訓練を自分に課さなければならない。しかしそのようにして得られるものは、じつは少ないと僕は思っている。味覚を業務の中心に置くような職業にでも就かないかぎりは。
誰々がこのようにして作った、とか、どこそこという場所には伝統的な栽培方法があって、とか、そのようなイメージが味覚に及ぼす影響は小さくないし、そこにいい意味で騙され乗ってしまったほうが、食はたのしめる。ワインでいえば、テイスティングとは試飲とか味見のことだ。それは試飲会やそれに類する場所で行えばいい。けれどもそんな場所にほんとうの食のたのしみがあるのだろうか。 ひとりでも複数でもいいけれど、僕は食卓にこそ食のよろこびやたのしみを見出す。料理自慢はあってもいいが、供された食事や飲み物に対して批判するなんて野暮の骨頂で鼻つまみ者。どうせならおもしろいエピソードを披瀝できるほうがよっぽど好まれる。僕は、嫌われる人間より好かれる人間になりたい。

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先日、実家に帰省したとき、「これ読んだことあるか?」と父から芥川龍之介の『蜜柑』という4ページほどの短篇小説というにも満たない散文を収めた本を渡された。「読んだことないなら、短いから読んでみろよ」
そのとき僕らがいたお茶の間ではテレビがついていて、『臨場・劇場版』が流れていた。内野聖陽という、ずっと「まさあき」という本名を用いていたもののその読み方が徹底されないためについに読みを「せいよう」と変えていろいろな方面を安堵させたあの役者――『真田丸』での家康はほんとうに好演だった――が主演をやっているドラマ発の映画、程度のことは知っていたがドラマも観たことがなかったのでいちおうチェックだけはしておくかと、流し見&流し読みを決行してみた。

映画は、柄本佑という、安藤サクラというすばらしい女優を奥さんにしているという点以外はいまのところ特に見るべきところもない役者がいきなりバスジャック&連続無差別殺人をおこなうショッキングな場面から始まるのだが、その瞬間、すぐに秋葉原の無差別通り魔事件が想起され、嫌な気分になった。ショッキングであるということもさることながら、非常に残酷な場面描写が、(秋葉原の件なのかどうかはさておき)ある特定の事件を連想させるような意図だけではない「なにか」がなければただの扇情でしかないはずだし、そしてこのドラマというか映画にそれを期待するのはきっと難しいだろうなあという直感がすぐに閃いたのだった。
犯人はすぐに逮捕され、当然というか例の刑法39条(「心神喪失者の行為は罰しない、心神耗弱者の行為はその刑を減軽する)が適用され極刑を免れたのだが、具体的に僕が期待したのは、上のセンセーショナルな描写はここ(刑法39条)に対する新たな問題提起への布石でなければならない、ということで、しかし結論から言って「被害者やその家族/遺族は悲しいよね、でもいまの法律上それは解決できないんだよね」という悪い意味での純文学的解決(別名「現実を黙認しただけ」)で終わった。やっぱりな、という感じだった。役者が悪いということはなく、原作は読んでもいないからなんとも言えないが、少なくとも映画の脚本と演出はひどい。
ひどい、ということは冒頭からすぐにわかったのだが、いろいろと文句を言うために――そして実際に家族にべらべらと文句を言っていた――観つづけることにして、いっぽう手元にある芥川も「なんだよこれ、いつの時代の話だよ(実際に古いわけなんだけど)」というむかつきがむらむらと沸き起こったためにストレートに読むことができず、「よし、いまCMが流れているから読もう」と思って目を数行走らせただけで、ツッコミどころが満載すぎるうえにすぐにオチというか結末への方向性みたいなものが見えてしまい、早々に発生した読む必要がないという率直な感慨が読書を邪魔した。そして、そういうときにかぎってCMは早く明けてしまうのである。

もうこれはひどいドラマなんだから読書に集中しようと思っているとやっぱりディテールというものは把握できないもので、なんだか唐突に(僕の感知していないところで必然性はあったのだろうと思うが)長塚京三が出てきていて胡散臭さ満点。平田満も「なにかやらかすオーラ」に満ちていて、というか、観ている側が「こんなところに平田満が出てきて、なにもやらかさないわけないじゃないか」と思うのは当然なわけであって、ここらへんがキャスティングの限界なんだろう。
と、偉そうなこと書いたが、これはなかなか難しい問題でもあって、結局なにかをやらかす犯人にまったく無名の人を配するということはできないだろうし、視聴する側も、なるべくフラットに観られる舞台に較べれば、映像のほうが演出意図というものをより大きく受け取ってしまいがちなので、バイアスがかかってしまうのだろうと思う。
話は横道に逸れるが、ひと昔前、2時間ドラマを観ていて山下容莉枝が出てきたら「はい犯人確定しました」って感じだったのだが、それが浸透してしまった反動なのか、いまや彼女は完全な善人役だったりコメディエンヌとして配役されることのほうが多くなり、遊民社の時代を知っている者としては嬉しい限り。それとは違った形ではあるのかもしれないが元MOPのキムラ緑子も、『ごちそうさん』以降、単なる脇役ではなく、 クセのある(あるいはクセを発揮してくれるであろうと期待させる)脇役として登場することが多くなり、これもただただよかったと思うのだが、いま気づいたのだが、ふたりともシス・カンパニー所属なんだな。で、シス・カンパニーのサイトをひさしぶりに覗いてみたら……峯村リエがいるじゃないか! ほらね、って感じである。
話を本線に戻して結論を先に持ってくると、平田満はやらかすのである。マジメな交番勤務の警察官ではあるのだが、冤罪の汚名を着せられたあげく自殺した息子のことが忘れられず、そこまで追い詰めた刑事・段田安則への復讐心はずっと持ち続けていたのだった! ……ってわけで、クライマックスのひとつが段田を追い詰める平田満なのだが、倒れた段田に向かって拳銃を向けたと同時に他の警察官と高嶋政伸がやってきて、平田を正論で説得する。単純な視聴者としては(もはや芥川どころじゃなく)「もう段田を殺しちゃえよ」と思いつつも、「ああ、こりゃ泣いて膝ついて拳銃を落として他の警察官に取り押さえられるパターンだろうなあ……」と予想したのだが、なんとびっくり、平田は段田を撃たずして自分のコメカミを撃ち抜いて自殺してしまうのだ。
けれども僕は、かわいそうとかなんとか思うよりも先に、ある直感が頭を占めてしまい、それが離れなかった。つまり、「これはあれだな、原作もそうなのかもしれないけれど、平田の今後を描くのが面倒になったんだろうな」という直感だ。
こういう事件でなにも起こさずに捕らえられた場合、その結末を、事件から数日とか数ヶ月経って、という設定で刑事同士が「そういえば平田のやつ、執行猶予になったんですって? / 案外はやくに出られそうなんですって?」みたいに話して説明するということがある。『相棒』なんかでもよく見られた風景で、このようなシーンによって同情の余地が大いにある犯人への視聴者の心配をある程度緩和させることができるのだが、このシーンを用意するためには、それなりにリアリティのある法的処置というものを考えなければならず、脚本家は専門家ではないだろうから、けっこう面倒なのではないかと思う。場合によっては弁護士などにコンサル料なども支払わなければいけないかもしれない。それがゆえに、「ええい面倒じゃ。自殺させてしまえ!」となったのではないだろうか。

 もうひとつのクライマックス。真犯人の長塚京三が、ストーリー上/法的には「歪んだ正義感」であり視聴者側からすれば「それを実践しなければすっきりとしない正義感」によって、心神喪失者を装っている柄本佑を襲い、あともう一息で仕留められるというところで、長塚の元教え子であり真相を理解した内野がやってきてそれをとどめようとする。柄本は銃で肩を撃たれて倒れてはいるものの致命傷ではなく、というか、「肩を撃たれただけだったら、このあとなにかあるで!」というヒネた視聴者であれば柄本への意識を決して忘れはしないのだが、現場にいて忘れようとしても忘れらるわけがないはずの長塚と内野は、まこと不思議なことに傍らに柄本なきがごとく(傍若無柄本)長々と会話をして、視聴者の意識を柄本から逸らせるよう必死だ。で、案の定、柄本がこっそり起き上がって長塚をナイフで刺し殺す。ほら言わんこっちゃない、のありさまである。
刺殺しただけならまだいいのだが(よかぁないが)、柄本はあげくのはてには「僕はまた無罪だ! ハハハ!」てなことを言ってまた視聴者の心を煽る。きちんとというかご丁寧に、長塚への正当防衛じゃないよ、ということを示しているのだ。そこに激怒した内野が仁王立ち。当然視聴者は、「よし内野よ、ここだけは討ち損じてはなるまいぞ」と応援する。その結果は……。
なんやかんやありまして、ビンタで終わります。
び・ん・た!
え? さんざん人を殺して心神喪失を偽装して、それをよしとしないとするいわば括弧つきの「正義」の執行人も返り討ちにして、ふたたび無罪を図ろうとする犯人を、び・ん・た?
すぐにでもPCを起動して、「ビンタ 人 死ぬ?」で検索しようかと思ったよ。たしかに内野に頬を張られて空中でぶるんぶるんぶるんっと回転してはいたものの、柄本は死にそうもなかった。ここで僕は、がっかりの駄目押しをしたのである。

『相棒』なんかで水谷右京が、「いやもうこいつ、絶対更生の余地なんてないだろ」みたいな犯人に対して「たとえどんなことがあっても、人を殺していいなんてことはありませんっ! あなたは罪を償わなければならないっ!」なんて激昂する場面があったと思うが、ああいう場面を僕はどうにも茶番というか欺瞞に感じてしまう。特に殺人という場合において、右京は贖罪というものをけっこう気楽に考えているよな、と。
彼の言う償いは、刑法というひとつのシステムのなかのひとつの制度の話であって、特に遺族がいる場合の、彼らの心に対する償いというものについては、たぶん表面上のことしか考えていないだろうと思う。それはおそらく哲学に関する領域だからだ。
わざと曖昧に語るが、少女像のことについてはともかく、「金を払ったんだからもういいだろ」と発言してしまうのは、制度や契約や取り決めに類する話だけを取って、他方厳然として存在する人間の心については無視している表現であって、相手側からすれば「もういい」とはなかなかならず、むしろ「しかたない、諦めるか」としていた気持ちにまで火をつけてしまう。そんなことがなぜ理解できないのか→言葉のあらゆる意味において頭が悪いから、という話になってしまうのだが、まあそれはともかく、実刑判決が出ても、あるいは極刑が執行されても、遺族が「ああ、完全にすっきりした」という日は絶対に来ない。そう考えると、右京がなにをもって償いとしているのかがより明瞭になってくる。すなわち法の執行人としての立場からの「償い」を要求しているだけであり、それなら淡々と執行するだけでいいのに、「決め」のシーンではけっこう顔真っ赤にして青筋立てて唾を飛ばして怒鳴る。上の観点に立てばそういう場面は、日頃事務的で穏健な役人が、ものわかりの悪い市民に対してキレている、というふうに見えなくもない。おまえがそこで怒ったってなにも解決しないのは同じなんだぞ、と。
『相棒』でなくても、刑事ドラマや映画などでこういう場面にわれわれは何度も何度も遭遇している。まったくうんざりするぐらいだ。犯人がつかまってよかったね、で心の底からすっきりできることはほんとうは少ないはず(犯人が野放しになっている、という恐怖から解放されることはあっても、捕まったら捕まったで、その人間がまたこの社会に出てくるという別の恐怖が生まれる)で、現実のわれわれは裁判の結果およびその執行までを注視する。他人事であってもそれくらいで、当事者やその関係者たちは、刑やその執行とはまた別に、長い時間をかけて自分の心のなかでその問題に対峙しつづけていかなければならない。
現実において、犯人に対する厳しい処罰が最良の解決方法だ、というのは人によって判断のわかれるところだろうが、せめてフィクションのなかだけはすっきりさせてほしい、というのは比較的多くの人に同意してもらえると思う。こんな卑劣なことをして、あんな残虐なことをして、という犯人が最終的に誰かに殺されたり、事故死したり、自殺したりすれば、どんなに気分がいいか。フィクションの世界の話であれば、「これで真相は闇の中に……」なんて誰も思わねえよ。思うわけない。
近年話題になったある外国ミステリで、主人公の刑事たちが「悪人」をわざと犯人に陥れて結末とするものがあって好評を博した。そりゃそうだろうと思う。レビューのなかには「法的に正しくない」というものもあったらしいが、おそらく作者はそんなことは百も承知で、だからこそそういうエンディングにしたのだろうとも思う。
一方、これは日本のあるミステリなのだが、高齢(中年とは言えない年齢)女性の犯人(たしか殺人犯)が捕まる際に対して、彼女に恋心を抱いている主人公(こちらも高齢)が「待っているよ」みたいに声をかけるところがエンディングであったと思う(もうだいぶ前に読んだものなので記憶が曖昧)のだが、「けっ」と思った。いやいやいや、もうずいぶんといい年だし、「出てきたら」っていうところに主人公や作者は欺瞞を感じないのだろうか、と。まあもともとたいした話(具体的に書くとけっこうなネタバレになってしまうので書かないが、トリックなどに主眼が置かれている話だったので、思想的には希薄な内容)ではないのだけれど、逮捕された犯人に対して「罪を償ってこいよ」っていうのはあまりにも陳腐であり安直で、21世紀に入ってもう15年以上経っているのだから、もうそういうのは卒業しようよ、というのが素人なりの感想だ。 
総じて、「刑を受けることで罪を償う」ということがどういうことなのか、それが加害者も含めた当事者に対して実際にどういう効果をもたらすのか/なにももたらさないのか、ということをまったく看過する物語であれば、少なくとも、「裁きを受け、罪を償いなさい」というようなセリフを出すべきではない。

刑法39条への問題提起はもちろんなく、それを悪用した柄本については、内野にビンタを食らって以降登場はせず、言及もなかったように思う(エンディングらへんはいよいよ惰性で観ており、やっと芥川にも集中していたので明言はできないが)。そこらへん、まったく素っ気ないほどだが、ここでもまた、心神喪失者を偽装していたことが遡って立証できるものかどうか、あるいは、生きていた柄本が長塚への正当防衛をたとえ主張したとしてもその場合の量刑やそもそも有罪か無罪か、等を明らかにするのは、手間を考慮すれば触れないほうがベターであろう、というコストパフォーマンス的観点から制作側が省略したようにも思えてしまうのは、平田満の前科があったから。
そして結局、冒頭の残酷な描写に話が戻ってくる。繰り返しになるが、もし難しい問題には触れないままエンターテインメントに徹するのであれば残酷な描写は控えめにするべきであり、ある種のリアリティに満ちた残酷な描写は現状の司法制度への意欲的な論点化とセットにするべきだ。そうでなければ、ショッキングな表現がただの撒き餌のように見えてくるだけだ、というのが僕の理窟。そしてこの批難は、鑑賞後もまったく修正する気が起こらないのだった。
公平に言えばこの映画では、被害者遺族のまったく救われない感情は描かれていた。見知らぬ赤ちゃんを救うために犯人の注意を自分に向け、結果殺されてしまった大学生の娘の両親は、時間が経つにつれ夫婦仲までも険悪になってきて、母親である若村麻由美は犯人を自分の手で殺すことまで考え始める。ここで殺せてしまえば、すっきりとするのだが、もちろん果たせずに終わりむしろ無力感に打ちひしがれる。このまま終了、となればはじめに書いたような「悪い意味での純文学的解決」で終わる。「純文学的解決」だけを取り出して簡単に言い換えれば、安易な予定調和では終わらせないよ、ということだ。
エンディングに行き着くまで丁寧に、かつなるべく事実に即したような表現で描いてきた場合には、そのような「リアルな結末」というものは相応しく、「解決していないじゃないか」という不満もそうそう起こらずに、むしろ「うーん、リアルで考えさせられるなあ」という高評価に傾くことが多い。けれどもこの映画の場合、それまでがそれまでなもんだから、「なんだよ、投げっぱなしにしたまんまじゃねーか!」と立腹するのは必至……とさすがに脚本家が案じたのか、エンディングは世にも奇天烈なものとなっていて、皮肉たっぷりに言えば「感動」があった。

若村麻由美はひとり町をさまよう。娘はもういない。糸の切れた凧のように、彼女を現実に引き止めるものはもうないのだ。ふと、夜の商店街でたったいま降ろされたシャッターに目が止まる。見たことがある絵がそこにペイントされていた。じっと立ち止まる若村に、少し太めの店主が説明をする。「これはある学生さんが描いてくれたんですよ」
それは、殺された娘の絵だった。いまにも泣き崩れようとする彼女に、ありし日の娘が笑いかける。まだ生きていた頃の娘。彼女の知っている笑顔の娘。そして彼女は、その娘を抱き締め、思い切り泣くのであった
え? え? え?
妄想というか、空想上の人物などが現実の人間に「安心してね」などのメッセージを伝える、なんていう場面はこれまで何百遍と観てきた。それらはだいたいの場合において、文字通りの感動をもたらすことが多い。しかし、その妄想/空想上のキャラクターが具現化して現実の人間と接触してしまえば、一転してギャグになってしまうし、そのキャラクターにつき纏われれば、今度はホラーになる。
し・か・も、である。エンドロールのなか、膝をつき括弧つきの「娘」と抱き合って泣く若村の遠景では、電信柱に凭れて背をこちらに向けている内野がいて、その抱き合っているふたりを背中で確認してから、ゆっくりと向こう側に歩き出していくのだ。いやたしかに、電柱の陰からこちらを覗いているわけではなかったから、内野は若村の妄想/空想を見ていない、というエクスキューズは成立可能だ。しかしそれにしては彼の背中はいかにも「はっきりと一部始終を見させてもらいました」と主張しており、そうなると、ある個人の幻想が第三者にも見えたとなってしまい、これはもはやギャグやホラーの表現ではなく、物語の最後の最後にして急遽、前衛アートに突入してしまったということになる。このぶっ飛び方は、ある意味で観ないと損だと本気で僕は考えていて、それくらい、はてなマークたっぷりのエンディングであった。

というわけで、いいかげんな観方をしたのでいいかげんな感想になってしまったが、まあ対象がいいかげんな映画だからそれでよかったのだろう。なお、役者の演技についてはそれほど不満は起こらず、若村麻由美の演技はやっぱり迫力があるなあという印象を持った。特に、若い頃の娘と一緒のシーンでは、当人も十年近く若返ったようにも見え、あらためて女優はすごいと思った。そのときの彼女は、まだ悲しみや苦しみに疲弊しておらず、幸せで美しい母としてそこにいたのだった。

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