とはいえ、わからないでもない

2017年03月

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1話を観て、すげー文句言って、それっきりにしておいたのを9ヶ月ほど経ってから観て、なおかつ感動したのでどうしてもそれを記録しておきたいっていう姿勢は、ネットにおける当世の一般的な態度――情報の正確さなんてものは二の次でとにかくなるべく早く新鮮なものにキャッチアップするというそれ――とはかなり距離があるが、まあ若人でもない僕はそんなことを気にもしないのだけれども。

すべてを観たのちの感想を思うがままに書くのだが(とここまで書いてさらに2ヶ月経ってしまった……)、まず思ったのは、この「ゆとり世代」の設定っていうのは、もしかしたら半沢直樹を書いて世にバブル世代の矜持というものを示したかった池井戸潤へのアンサーだったのかもしれない、ということ。僕自身はこういう「世代感」というものにまったく共感を覚えられない点は1話への批判として書いたのと同じで変わらないのだが、けれども池井戸の作品の一部には「世間ではバブル世代って悪く言われるけれどおれらは一所懸命だったんだ」というひとつの弁明の意図があったわけで、クドカンはクドカンなりに、「バブル組の弁明があるのなら」ということで、当事者ではないくせに「ゆとり世代」の弁明を意図したのではないか、と思う。

物語は、特に前半、各話の終わりで次の大きな問題が提示され、そのいちいちが重く、かなり本格的な側面を持っていた。たとえば第1話の終わりで自殺したかと思われた部下は実は生きていて、しかしそれを心配して病院に駆けつけた主人公の坂間くん(岡田将生)は、(部下とは別人だったのだが)実際に仕事を苦にして自殺した人間の母親(真野響子)と知り合う。ここには、「コメディだから」とか「ドラマだから」みたいな言い訳はまったく用意されておらず、きちんと(もちろんそれはフィクションの範囲内ではあるが)真正面から問題を取り上げていた。
そのほかにも、SNSと現実における自己の乖離、社内告訴、学習障害(LD)、国籍問題、不妊、離婚した家族における子どもの精神発達、就職氷河期、などが取り上げられていて、すくなくとも「ファッション社会問題」としてではなく、物語上の展開の必要性と絡めていたが、とはいえそれらは、全体をとおしてみればやや散漫としていたという批判は免れないだろう。
たとえば学習障害に触れ、受け入れる学校環境側の未来に対して期待しているという描写をするほどであれば、最終話の性教育の際、思春期を子どもたちへ教えるときの「男の子は男らしく、女の子は女らしくなる」みたいな説明の仕方にはもう少しLGBTの存在に寄り添ったエクスキューズが必要だったろう、というのは最新の知見に触れていればごく当然に出てくる疑問だ。また、不妊のプレッシャーについて悩む坂間くんの兄夫婦(高橋洋&青木さやか)が、最後あっさりと妊娠してしまうことで、「妊娠しなかった夫婦のその後」をまったく描かなかったことに、ちょっとしたご都合主義的ニュアンスを感じとらざるをえなかった。
このように、ひとつひとつの問題じたいはとても重いものではあるものの、(作者の意図はさておき)結果として小さな装置として機能するだけのものも少なくはなかった、という指摘はできる。できるが、それはドラマの良さに較べれば瑣末なことだ。

まず、このドラマは役者の演技を死ぬほど堪能できる。
堪能しすぎて、最終話が終わって喪失感がしばらく抜けなかった。生活のふとしたおりに、「あ、宮下あかねちゃん、もういないんだ」とか「まりぶがにやにやしているところをもう観られないんだ」なんていう感慨がふと浮かんで、鼻の奥が熱くなってしまったことは一度や二度ではない。
DVD出ているのかなあ、とアマゾンで検索して以下の画像が出てきたときにゃあ、もう胸が詰まってしまって……。
yutori
突き詰めりゃ、この3人が笑って話していて、そこに安藤サクラのあかねちゃんがいりゃもうじゅうぶんなんだよね。こんな感情がどうして生じたのかはよくわからない。僕自身にこういう時代があったわけではないし、どっちかっていうと価値観も異なると言ったっていい。けれどもこの3人(+1人)が演じきった4人のもがき生きている姿は、その切実さにおいて僕自身の過去の一部をさえ見せてくれたように感じられたのである。

岡田将生の坂間くんの必死さはほんとうにすてきだった。彼のことはほとんど知らず、はじめはずいぶんとハンサムな子だなあというふうに思ったのだが、このドラマを観ている最中は、彼に対してスマートとかハンサムなんていう形容は思い浮かびもしなかった。お人好しで一所懸命な青年を好演していた。

童貞の山路を演じた松坂桃李だが、この作品で僕のなかの松坂桃李評は完全に定まった。この若い役者はうまい、ということだ。以前からそうではないかとは睨んでいたのだが山路の役で決定的になった。滑舌良く早口でまくしたてる場面が幾度も出てきたが、そこをきちんと演じてみせることによって、俳優としての基礎的技術があるということを証明してくれた。
なお、彼に絡んだ女優ふたりはふたりとも魅力的で、LD児童のお母さんは本ドラマ最強の色気を放っていたし、実習生の吉岡里帆は、配役の人物は好きにはなれなかったが、女優自身には今後にめちゃくちゃ期待する。朝ドラの主演を何年かのちにやりそうな気もする。ちなみに吉岡を気に入った最大の理由は、Wikipediaで以下の記載を見つけたから。
上京資金を貯めるために2015年3月まで約1年間滋賀県大津市の大津プリンスホテルにアルバイトとして勤務し、クロークや配膳などの職務に携わり接客を学んだ。
滋賀ってのがいい。

安藤サクラは、なんなんだ、ってくらいにうまかった。うまい、という言葉が失礼にあたるくらいだ。彼女の演じた宮下あかねという人物はどこかに実在している生身の人間、という感触がドラマをたのしんでいるあいだずっと離れなかった。
ぼそぼそとしゃべってそれでリアルであるとするような演技ではなく、ダイナミックで感情の起伏の激しい人物を演じながらも、そこにはすべて彼女の持っている「本当らしさ」が通っていて、たぶんそれは細かな表情や仕草、振る舞いの積み重ねが鑑賞者にそう感じさせるのだろう。彼女がにやにやと笑っているときは、にやにやと笑っている演技をしているように感じられるのではなく、本当ににやにやと笑っている感じがするのだ。

まりぶの前に、ぜひ山岸にも触れておきたい。大賀。最高だよな、っていつも思う。ハズレの演技を観たことがない。必ずしも目立ったところに配置されるわけではないけれど、でも製作する人たちはとっくに彼の実力を知っているのだと思う。
桐島のバレー部の補欠(だったっけ?)もよかったし、夜のせんせいのニセ不良もよかったけれど、今作の山岸は、少なくとも現時点での彼の最高到達点だと思う。「パワハラだよ!」と逆脅迫するときのいやらしさと、先輩の坂間に叱られて「はじめて叱られて、ちょっと嬉しかったです」と心情を吐露する素直さとが同居しているいわば真正のゆとり世代。坂間世代すらが「ゆとり世代」と少し小馬鹿にするような世代の代表者として好演どころか熱演をしていたが、僕としては彼の心情の不安定さがとても印象に残った。
クドカンは、「ゆとり世代」とは言いつつ坂間世代を理解できる世代として認識していたか、あるいは自分たちと同じ感覚を共有していると思っていたのではないだろうか。そして、彼にとってなかなか理解がしがたい「ゆとり世代」の象徴が山岸だったのではないか。
ちなみに。前述したとおり、ミスをしてでんでんの会社に謝りに言ったときに坂間が山岸を叱り、そこで「はじめて叱られて、ちょっと嬉しかったです」みたいな感動を見せるものの、その後それがパワハラだったと社内で訴え、坂間にとってもたいへんな問題になるのだが、僕は、叱られたときの山岸は、そのときはほんとうに改悛し感動したのではないか、と感じた。
感じやすく心を動かされやすいことと、利己的行動に走り究極的な個人主義を貫こうとする態度は、山岸という人物のなかでは地続きで連続性があるのだと思う。過剰な行動をとるものだから戯画的な人物ととられやすいが、実はリアリティあふれる人物なのではないかと思う。これは、ネットで散見される若い世代の言動をわづかながら観察したうえでの私見でしかないのだが。
とにかく、山岸が新店長となったあとも、バイトリーダーに叱られたり発注をミスしたり、と目が離せない。僕にとってはかわいくてかわいくて仕方のない愛すべき人物となっていた。

で、まりぶ。ふた月ほど前に観たものだからけっこう忘れてしまっているのだけれど、このドラマのなかでは、彼の言ったセリフがいちばん心が動かされた。もちろん、突然涙をあふれさせて吉田鋼太郎に「なんで謝んだよ!」と怒鳴りつけるところなんか最高だった。「あふれる」という言葉がぴったりの感情の動き。観ている側の心が動かないわけがない。
でも、少しヒネているかもしれないが、僕のなかの最高のまりぶのセリフは、「おっぱいいかがですか、そろそろおっぱいなんじゃないですか?」じゃなくて……、童貞の山路と話しているとき、山路が「でも女って、ヤれば変わるじゃん」ってな話からセックスをしたことによって変わってしまう女性の怖さ・いやらしさを滔々と語るのだが、それを聞いたまりぶが「変わんねーよ?」とあっけなく言うところ。
ここ、ほんとうにあっけなくさらっと言っていたのだが、ものすごく言外のものを感じ取ってしまったのだ。変わるわけねーじゃん。人間ってさ、そんな単純なものなわけねーじゃん。そんな単純なものであってたまるかって話だよ。僕には、まりぶがそう言っているように思えた。山路の幻想は、それはそれで可愛らしい。それをつまらない視点から即座に否定するのではなく、受け止めつつ、おまえが思っているほど人間はつまらなくないよ、と諭すようなやさしさが感じられたので、それをぼうっと観ていた僕は、突然打たれたように感じ入ってしまったのだ。クドカンの脚本もいいのだが、柳楽優弥の演技がすばらしかったのだろう。言わなかったセリフまで聞こえてしまったのだから。

もうひとつすばらしいセリフというかシチュエーションがあった。
このドラマのなかで唯一ド下手と言ってかまわないAKBの女の子が演じる坂間くんの妹。その子が生まれるというので、幼年時代の坂間っちが「どれにしようかな」で女の子の名前の候補を選んでいく場面。「ど・れ・に・し・よ・う・か・な、か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り」の「いうとおり」が幼くて言えないために「ゆ・と・り」となってしまって、それで彼女の名前は「ゆとり」となった、というところ。
これは、「クドカンはなあ……」と嫌いながらも『あまちゃん』を観ていて、『潮騒のメモリー』の「三途の川のマーメイド」が「三代前からマーメイド」となったときの、あのグッときた感じ(もうちょっと言うと、グッとさせられた感じ)に相当するものがあった。すばらしい仕掛けだった。

わりあい急転直下型でこのドラマは終熄を迎えたのだが、最後に出てきたメッセージは「赦し」だった。
山路が性教育のシーンで説明するように、他人の失敗を赦せる大人になってほしい、というのは陳腐かもしれないが、非常に説得力のあるセリフだった。
好きではない人を好きになってしまう、というのは、物語上の関係性についての言及でもあると同時に、昨年の頭くらいから世間がバカみたいに批判していたなんとか不倫の問題を想起させた。すくなくともテレビのメディアはあのバカ騒ぎを反省していないはずで、つまらない正義感をふりかざすことの正当性というのはいまだに視聴者の多くと結託して共有しているのかもしれないが、このドラマは、無粋にならないレベルで、世間の愚かしさというものをやんわりと否定したのではないかと思う。
酔って上司とうっかり寝てしまったあかねちゃんも、何度も離婚した吉田鋼太郎も、いっときは坂間くんを脅した山岸だって、赦されている。これは、単純な予定調和ではない。「世間」の常識に一石を投じる、いわば挑戦的な赦しだ。僕はそれを評価したい。

全回を一度きりしか観ておらず、なおかつ観てからふた月も経ってしまっているので細部についてはかなりあやふやだが、このドラマは必ずもう一度観るつもり。そして、夏に放映予定のSPにそなえる。どんなに忙しかろうと、夏までは死ねない。

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最近ちょっと引っかかったこと(かつ瑣末なこと)。

ほとんどウォッチしていないところなのだが、いよいよ全面禁煙が図られる、みたいなことを風の噂レベルで聞いた。といっても僕は非喫煙者なので細かな規定というのはわからないし興味もわかないのだが、分煙はわかるけれど、完全禁煙って、それはそれでどうなのかと思う。副流煙や歩きタバコの問題が回避できれば、ある程度喫煙場所が設けられてしかるべきだと思う。
健康のため、とか、公共(またもやオリンピックが口実か)のため、という大義名分を振りかざして個人の嗜好・自由を制限するのが「成功」してしまうと、次は禁酒、次は……と際限がなくなるようなおそれがある。
過去を思えば、あらゆる場所でぷかぷか吸われるような状況じゃなくなったいま、もう充分な気がするのだけれど。

時事通信の3月の世論調査のニュースを読んで、現政権への支持率がいまだ50%を超えているというのを知ってたいへん驚いた。しかも、新共謀罪の法案に対しては6割を超える人間が賛成か。すごいな。最近オーウェルの『1984』を読み終えたせいかもしれないけれど、日本人って監視社会を自ら望んでいるとしか思えないな。
支持率を見たところ、たぶんあの教育勅語の問題に関しても(僕からすれば信じられないほどの)多くの人間が問題なしとしているのだろうな。すごいよな。いわゆる「右傾化」という言葉が叫ばれてひさしいけれど、保守というか、愛国カルト集団の皆々様にとっても、今日こんな地点まで来られるとは思ってもみなかったのではないか。この状況をスルーして、遠く離れたトランプを批判している人がいたら、そいつはだいぶ頭がおかしいと思う。対岸の火事より、お前んちがすでに火事なんだよ。

がらり話は変わって。
最近の広告代理店のイースター推しは滑稽すぎる。ハロウィンもだいぶ無理があったけれど、いったん成功しちゃったもんだから、次はイースターってことになったんだろう。お次は謝肉祭で、その次は……アメリカの独立記念日を祝ったりしたら面白い。そんで、紀元節、天長節の復活! それなら政府も喜んでバックアップしてくれるよ。  

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昨年の文化の日のことだった。一年に一回のイベントのようなものがあって、そこである男の人に声をかけられた。「どう? 元気にやってる?」
その声の調子と表情から一度ならず挨拶や言葉を交わしたことがある、ということは明らかだったけれどすぐには思い出せず、「ええと誰だっけかな……」と心中考えながらも「そうですねえ、今年もなかなか……うまくいきませんでしたねえ」なんて適当なことを言いつつ、できのわるい検索システムをフル稼働していたのだが、そのとき、ある女性が視界の隅に入り、そこでその男性が誰だか思い出すことができた。
もともと僕はその女性のほうと知り合いで、たぶん彼女ははじめて会ったときですでに五十代も後半に入っていたはずだからいまはもう六十に手が届いているはずだった。男の人は、その女性の夫だった。
人懐こい人で、一度思い出せたら、その人好きのするしゃべり方や仕草までも一気に思い出すことができた。その前に会ったのが、ちょうど一年前の同じイベントでのことだった。一年という時間をあっという間にジャンプして、僕たちは隣人のように話した。黒く日焼けをした、とても元気な人だった。

その人が、昨年末に死んだということをきょう聞いた。事故死だった。
話を聴けば、人間、そんなもんで死んでしまうのだろうか、というくらいにあっけない事故で、それを教えてくれた人間も、半ば笑いながら話した。
不謹慎だ、と思う人もいるだろう。けれども、話を聞いた僕も半ば笑いながら聞いたのだ。もちろん、げらげらと笑ったわけではない。僕はまず驚き、それから、笑うしかないから笑った。そういう種類の笑いだった。教えてくれた人もたぶんそうだったのだろうと思う。
僕はやっと四十になろうというところだが、僕のまわりにいる人たちは六十代で若いほう、七十代がざらだ。教えてくれた人も、七十は優に超えている。その人たちにとって、死はいつもかなり近いところにある。両親はとっくに死に、同級も半分以上は死んでいる。病死のほかにも、事故死、自殺、などいろいろな死に方を目の当たりにしてきたと思う。
いろいろな事情が考えられるが、この七年間で僕も、都市部に住んでいた三十数年間で出会った死のおよそ十倍の死に出くわしている。深夜に救急車の音がわりと近くで長く響いているのが聞こえたら、喪服のありかをすぐに思い浮かべるくらいにはなった。
それでも、知り合いが亡くなったことを知らされれば、ついこのあいだ会ったばかりなのに、と思わないことはない。そして同時に、家族や特別に深い友人であったりしなければ、実にあっけないことのようにも感じてしまう。
話に聞いた状況から判断するだけだが、今度亡くなった人は死ぬ間際に、「あ」とだけ思ったのではないか。あるいは、「あれ?」かもしれない。いづれにせよ、ほとんど苦しまずに逝けたことを願う。 

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次々作の朝ドラのヒロインが葵わかなになったと知って、特に驚きもなかった。
2015年からのヒロインを見ると、土屋太鳳→波瑠→高畑充希→芳根京子→有村架純→葵わかなという流れは、朝ドラヒロイン的という観点からすると波瑠以外はすべて納得の配役。波瑠が嫌いとかそういうことじゃなくて、線の細い美人ってのは少しイメージが違う気がしたのだ。次々々作はもう松岡茉優でいいんじゃないかな。
ブクマを確認したら2014年の9月には彼女(葵)をチェックしていたというのが判明したのだが、たぶんこれはラジオドラマの好演が原因だったと思う。声の感じがよくて、そこからその人物を知った、という流れ。オモコーの芳根京子の親友役もやっていた。まあ、ドラマは観ない可能性が高いが。

キャスティングといえば、今朝、ヤフーのヘッドラインで「水戸黄門を武田鉄矢が演じる」というのを見て、エイプリルフールにゃ早すぎると思ったのだが、どうやらほんとうのことらしい。
印籠を見せてからの説教が長そう、名前の由来を懇々と教える、漢字の話をよくする、オリジナルのテーマソングを自分で唄う、マルちゃんがスポンサーにつく、などといろいろなことが頭をよぎる。
 
ヤフーニュースといえば、「ゆとりですがなにか」のSPが夏に放送されるとかいうのがあって、これは嬉しい驚き。またまりぶが観られるなんて、ほんと嬉しい。
 

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いまさらながら観始めていて、いま第4話まで来た。みくり「恋人をつくろうと思いますが、考えた結果、ひらまささんにします」というところで終わる回。
やらなくちゃならないことが多いのですごくさらっと書いておくと、観る前には絶対萌えると思っていたガッキー、というか、ガッキーに萌えるために観ようと思っていたのだが、いざ蓋を開けてみると、まったく萌えない。どころか、このみくりさんという人物が大っ嫌いだということがわかった。まあ、ドラマを観ているとだいたいの女性キャラクターをキライになる、っていうのはよくあることなのだが。
で、石田ゆり子は……やっぱりうーん、という感じ。流行っていた当時は、「○○歳とは思えない!」なんていう褒められ方をしちゃっていたのかもしれない(というかそういうフレーズを実際目にした)けれど、ふだんからあんまりそういうところを気にしたことがない――つまり、年齢のわりに若い!とか、そうでないとか――僕は、フラットに見て、女性としてそれほど魅力的には思えないというのが正直なところ。容姿が整っているために彼女のセリフや存在感に重みがあるのだとしたら、それはキャラクターの魅力じゃなくて、石田ゆり子の魅力だろうから。
同じ理窟で、みくりさんが、ガッキーじゃなくても好きかどうかっていうと、ガッキーの容貌をもってしても「こんなやつ、どーでもいーや」と思ってしまうのだからなあ……。これ、つづきを観ていくと好ましく思えるんだろうか?

じゃあまったく観る気がしないかっていうと、そんなことはなくて、星野源がめちゃくちゃかわいいから観ている。愛されない感じ、とかすごくよくわかる。ふんぎりをつけるために、もういっそ手放しちゃえばいい、とか。
あとは、古田新太と藤井隆のところがおもしろい、っていうのがなんとかドラマの推進力になっているのかな、というふうに見ている。それ以外の場面は、僕にとってはけっこう中だるみに感じてしまって、まだるっこしい。というか、全だるみのなかにポイントポイントで「お」と思えるところがあって、なんとか観つづけられるというのが現在までのところ。
風見さんとか、申し訳ないんだけど下手くそすぎて、観ている側が素に戻っちゃうんだよな。ガッキーも、特別うまいっていうわけじゃないから、星野源との対話なんかだとなんとか立脚していられるものを、風見さんとふたりで話していると、けっこうきつい。なので、このドラマを観るときは必ずアルコールを入れるようにしている。たぶんシラフだと電源オフにして終わりにしてしまうから。

どうしても杏&ハセヒロの『デート』と比較してしまうのだけれど、丁々発止という言葉がまさにふさわしかったあちらの脚本とくらべて、こっちの脚本はどうも隅の隅まで締まっている感じがしない。たとえば、風見さんに対してイケメンイケメンと臆面もなく連発するみくりさんだけど、これって、男女逆転させたら、けっこういやらしい男じゃない? 美人に対して「美人はいいですよね」ということを連発する男って、意図的であれば当然気持ち悪いし、無意識であっても、なーんか気持ち悪いものを感じる。わざわざそんなこと面と向かって言わねーよ、っていうのが僕の感覚なんだけど、そっちのほうがおかしいのだろうか。もちろん、みくりさんを自信満々に口説き気味の風見さんは男女をどう入れ替えたって気持ち悪いんだけど。
あと、いろいろなテレビ番組のパロディをやるにしたって、ちゃんとやりきったほうが面白いと思うんだけどなあ。情熱大陸はTBS系だからちゃんとロゴまで使って窪田等つかってやっているのに、ビフォーアフター(テレビ朝日)のパロディでは加藤みどりを使わなかったのに、なんだかなあ、と思ってしまった。「他局」だから? 視聴者にとっては知るかそんなもん、だよね。
あと、『奥様は魔女』をはっきりと言及してしまっていたのは野暮ったかったなあ。で、エヴァは言及しないんだよね。ここらへんに、振り切れていなさを感じてしまった。
あと、キャストの8割が不満。風見さん、石田ゆり子の部下たち、ガッキーの幼馴染等々……なんか、一定基準すら満たしていなくて……ヒットして注目浴びたかもしれないけれど、今後は辛いだろうなあ。あと、新垣結衣というタレントはキライではないからけっこう大目に観ているけれど、みくりさんは、『精霊の守り人』をやっている綾瀬はるかに対する「うわあ……」という気持ちといまのところはあんまり変わらない、ってことは書いておくことにする。

まあとにかく、いちおう主人公はガッキーなはずで、彼女の一人称的独白部分は多いのだけれど、でもやっぱりその彼女がどうしても空虚に思えてしまって、これが工夫の凝らされた演出のせいで、もしかしたら、回を重ねることによって感情移入できるようになっていくのかもしれないが、いまのところは、あまり期待できない。でも、つづきは観ることにする。
なんだかんだいって、でもやっぱり星野源はかわいいよ。

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