とはいえ、わからないでもない

2017年04月

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地方再生とか創生ってないよね、って実感している。
地域の魅力を、とか誰もが言うけれど、そんなもんがあるなら若い人は出ていかないよ。出て行っちゃったから移住者を招こうとしているわけなんだから。
地域活性化という目的で何百万円が注ぎ込まれたある実例を知っていて、それをある人に話したら、「あら、かわいいもんですよ、そんなの」と言って、その方の住んでいる地域での地域活性化事業の金額が二桁違うということを教えてくれた。
もうほとんどの人が利用しないであろう施設を大幅に改修してその金額。名目上は、その施設を再利用するということなのだが……億単位のお金をつぎ込んでやることではない、というのは余所者でも簡単にわかること。そして、その事業を推進したというムラの長の懐にはいったいなにが入ったのだろう、というところまで考えを巡らすのはごく自然のこと。
そういうのが、日本全国いたるところであるのだろうし、そういう事業を引っ張ってくる政治家が「えらい先生」ということになるのだろう(直接的には省庁経由だと思うけど)。
そういう「えらい先生方」のなかのさらにえらいやつが、たとえばデマ情報をもって学芸員批判をして、後日、曖昧模糊とした撤回・謝罪に終始することになる。
現閣僚たちほど仕事ができない、もう少し言葉を選べば任ぜられた職務にふさわしくない人間を、僕は実社会で出くわしたことがない。「あいつ、ほんとダメだなあ」と陰口を叩かれまくりの人間だって、もう少しまともだったように思う。
率直に言って、ああいう人たちを支持している人たちって、同様に無能なのかなと思う。自分たちと同じ程度だから安心できる。そういう理窟なのかな。で、そういう人たちってきっと多いのだろうな、と考えてしまう。そうでなきゃ、支持率が高いはずがない。
僕の知っている「まともな人たち」であれば、おれ/わたしだったら少なくともそんなことはしない、ということをいともたやすくやってのけてしまう人間たちを、支持するはずがない。支持どころか、軽蔑し、怒りを覚えるはずだ。
殊に最近は、専門家や研究者たちの意見と、なにも勉強していないただの素人の放言とを一緒くたにしてしまうタイプの「意見の平等性」という考えが、実際に言語化されていなくても、浸透してしまっている気がする。すごい自信に裏打ちされているのだろうな。僕にはとうていそんな考え方できないけど。

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NHKの朝ドラ『ひよっこ』が始まった。
第一週を観終えて、ひさーしぶりに、観つづけてみようかなと思えた。これまで朝ドラにはさんざんと失望させられてきたから、「絶対観よう!」とまでは言えないのだけれども、それでも、「ん? これってかなりいいんじゃないの?」と感じている。それでも「いまのところは」だなんて留保はつけてしまうのだけれど。

まあ最初はこのドラマ全編にあふれる「かわいい」について書いておく。
有村架純は、これまでかわいいお嬢さんというイメージしかなくてほとんど興味が持てなかったのだけれど、頬にまでかかっていた髪を上げてついでに額まで見せたら、なんとまあ。劇中「たぬき」という表現があったが、まさに僕の好きな下ぶくれのたぬき顔。
そのたぬきさんが、いい意味で非常に朝ドラのヒロインらしいヒロインを演じてくれている。しかも訛って。厳密にいえば異なるのだろうが、僕は東北や北関東の言葉の響きがたまらなく好きなので(これは男女いづれがしゃべっても同様)、それだけでぐっときてしまう。ありがたやありがたや。
同級生のふたりもかわいい。時子(佐久間由衣)と部長(泉澤祐希)。 いや、部長ってのは役名じゃねーんだけんどもよ、前に『オモコー』ってドラマがやっていたことあって……知ってっか? そう、そのドラマんなかでよ、この泉澤ってのが、合唱部の部長さんの役さやってたことあってな、んでな、そのときの印象がかなりよかったもんだからよ、いまだに部長っておら呼んでんの、でもよ、はじめてこの泉澤ってのを観たのはよ、NHKの『ロング・グッドバイ』でよ、小雪のところの小使をやっていてよ、おら初めてその顔見てよ、なんかうしろの百太郎みてーな顔してんなー、って思ってよ、だからなーんか親近感があるっていう、そういう思い入れみてーなもんが、このわらすにはあんのよ。
時子もかわいいのは当たり前なのだが、初回と、それから3回目か4回目くらいに、朝、みね子(たぬき)が自転車に乗って「おーい!」と手を振りながら時子のうちにやってくるときに、その時子が、(内実嬉しそうに)「毎朝会ってるのに、なーにがそんなに嬉しいんだか」というセリフがあって、特段ものめずらしいものではないかもしれないが、僕にはものすごくいいセリフに感じられた。
二回目のそのセリフがあったとき、そのみね子の嬉しさは、東京に出稼ぎに行っていた父親が稲刈りのために帰ってくることによるものもあったのだが、この場面に限らず、一週目全体に流れる、なんの事件も起こらないまったくもってのどかな感じを、「ああ、いいものだなあ」と思うか、それとも「なんだか退屈で古臭いな」と思うかで、たぶんこのドラマの評は分かれると思う。
いままで多くの朝ドラを「退屈で古臭いし予定調和で芸がないうえ芝居も下手で演出も手を抜いていやがってまあ観られたもんじゃないな」と見切ってきたが、今回のドラマの一週目に対してはなぜか、「いいもんだなあ」と好々爺のように目を細めて観ている。

気に入っている理由のすべてではないが、映像がきれいだなと感心することが多い。稲刈りのときなどは特にそう感じられたが、あの一連のシーンでの主人公は、人間ではなく、自然だった。
カメラが捉えているのは広がる里山と田園風景で、そのなかに愛すべき人物たちが慎ましやかに配置されていた。おそらくこれは、ヒロインたちが東京に行ってからのちに、より効果を発揮するようになるシーンで、何度も何度もこの心象風景に立ち戻ってくる演出がなされるだろうと思う。
それと、一週目を観ていて西岸良平の『夕焼けの詩』(いわゆる『三丁目の夕日』。子どもの頃からコミックに接している身としては『夕焼けの詩』というほうが実感が湧く)をよく連想した。映画の『ALWAYS』ではなく、あくまでも『夕焼けの詩』のほう。映画のなかで六さんが堀北真希というのは驚きはしたものの好ましくとらえられたが、しかしスズキオートの社長が堤真一ってのは……昔から原作を読んでいる人間からすれば別物として観るほかないっていう仕打ちだった。ああいう配役ができてしまう感性の雑さからは、雑で安直な表現しか生まれないと思っていて、これみよがしの「昭和30年代ノスタルジー」を直接的に刺戟しようとする意図は、映画をとても安っぽいものにしていたと思う。まあ、あくまでも別物ととらえればそう腹も立ちゃしないが。
で、『ひよっこ』で連想したマンガ版の『三丁目の夕日』だが、これはほんとうにいいマンガで、大学生くらいのときだったか、ある回を読んでいて、誰も悪人が出てこないのにストーリーが成立していることに新鮮な驚きを覚えたものだ。そして同時に、そういう表現は簡単に見えて実はものすごく難しいのだろうとも思った。
この『ひよっこ』というドラマも、派手な事件はなくてもいいから、「ああ、いいなあ」とずっと思えるものになってくれればいいかな、といまは控えめな期待をしている。「なーにがそんなに嬉しいんだか」というセリフが、そんな予感を僕に感じさせてくれたのだ。

東京は赤坂の宮本信子の洋食店で、みね子の父親役の沢村一樹がハヤシライスを食べて感動をする。それを見た宮本信子は、帰り際の沢村にポークカツサンドをお土産に持たせる。「東京を嫌いにならないでくださいね」という言葉を添えて。
ずるいだろう。 沢村一樹は特別なにかをしたってわけじゃない。ただ隠すことのできない素朴な人柄で、うめえなあ、田舎(「クニ」と言ったかもしれないし、そっちのほうが正確だろう)の子どもたちにも食わせてやりてえなあ、みたいなことを言っただけである。
たったそれだけなのに、宮本の目配せに、シェフの蔵之介が「あいよ!」みたいな感じでお土産を用意してくれたのである。
観ていた僕は、んなことあるわけねーじゃん、と実際声にも出したが、それでも心はじいんとしているのである。なんだこりゃ。でも、こういう話は、『夕焼けの詩』にもときどきあるのだ。
決して豊かでない人たちが、ちょっとした人のやさしさに触れ、あたたかい気持ちになる。そういう物語に触れた人間にも、そのあたたかさが伝わる。
かつて、安房直子『まほうをかけられた舌』(1971)を読んだときにその主人公たちがみな貧しいことにあらためて時代というものを感じた、ということを書いた。珍しく我田引水してみよう。
思えば、私の子どもの頃に読んだり、聞かされたりした昔話なんていうのは、基本的には貧しい人間が主人公だったのだが、おそらく最近では、そういうのは「暗い」ということで流行らないのだろう。安易な「キャラクターもの」で横溢している印象の昨今の子供向け市場だが、「貧しさ」なんて存在しないという認識の子どもを育てたいのか、あるいは、大人自身がそういう認識なのか。
翻って、最近の朝ドラ(『あまちゃん』以降に限って)はどうなっていたのか。

朝ドラ主人公の属性早見表
放送期間タイトル主人公の家庭環境物語開始時の時代設定
2013年前あまちゃん海女の孫娘
2008年(平成20年)
2013年後ごちそうさん東京の洋食店の娘
1922年(大正11年)
2014年前花子とアン貧しい小作農家の娘
1900年(明治33年)
2014年後マッサン造り酒屋の息子
1920年(大正9年)
2015年前まれ無職の娘
2001年(平成13年)
2015年後あさが来た豪商の娘
1865年(慶応元年)
2016年前とと姉ちゃん工場の営業部長の娘
1934年(昭和9年)
2016年後べっぴんさん商社の創業者の娘
1934年(昭和9年)
2017年前ひよっこ農家の娘
1964年(昭和39年)

まったく観ていないものもあるからWikipediaで確認した情報をもとにつくった。特に「物語開始時」をどう考えるかで数字は異なってくるが、あまり深く考えないことにした。
『あまちゃん』以降、『まれ』と『花子とアン』を除けば貧しい家庭はなく、どころか、スーパーリッチも含めた富裕層階級がたびたび描かれているのが特徴的だ。この「特徴」については、上記のようなやっつけ仕事ではなく、きちんとした研究者がおそらくは真面目に論攷しているのではないかと思う。
ともかくこういった歪な偏りの背景になにがあるのか、あるいは、ないのか、等の推察は頭の片隅に置いておいて損はないだろう。それにしても、『おしん』が記録的視聴率を誇った時代は遥か遠くになりにけり、だな。『おしん』、僕は観ていないけれど。

また、この場面で、僕自身がハヤシライスを初めて食べたときのことを思い出していた。
中学生の頃かそれとも小学生の高学年くらいかで、そのとき母がつくってくれたのを、はじめはカレーだと思って食べたらまったく別種の味がして(いわゆる「外の味」だった)、ものすごく感動した記憶がある。いまから思うに特別な料理ではなかったろうと思うが、そのときの「なにこれ? おいしい!」という感じは、まさに沢村の「うめえなあ、うめえなあ」とぴったり合致する。
僕の食事のレベルが子どもの頃から上がったとはまったく思わないが、それでも、ときどきは洒落た店に行って澄ました顔でワイングラスを傾けたりはする。しかしこれまで、子供の頃にハヤシライスを食べたときのような感動をしたことはないし、これからもきっとないだろうと思う。
誰かがアマゾンレビューかなにかで、アガサ・クリスティの名作について、「この本をまだ読んでいない世の中の人たちに嫉妬します。だって、まっさらな驚きと衝撃をもってページを読み進めて行くことができるのですから」みたいなことを書いていたが、それと似たようなことだと思う。あのときのハヤシライスは、真っ白なページにはじめて書き込まれた絵のようなものだった。いまどれだけ高いお金を払っても、そのページを上書きすることしかできない。はじめて描かれた絵に対する感動は、もう味わえないのだろうと思う。

それと、このハヤシライスとポークカツサンドのやりとりで、以前ラジオで聴いたあるリスナーの思い出話も思い出していた。といっても、かなりうろ覚えで、かつてブログに書いていたことがなかったかとちょっと検索してみたのだが、見つからない。やっぱりきちんと記録しておくべきだった。
たしか、戦中か戦後直後くらいの話で、ある人(女性)が小学校で遠足に行ったときに、同級生があんパンを半分割って分けてくれた。そのとき、あんパンなんてものを初めて知った彼女は、ちょっとだけ食べて感動し、そのほとんどを残して紙に包んで家に持って帰り、母親と妹に食べさせてやった。
母親も妹もそのときはじめてあんパンを食べて、ふたりとも「おいしい!」と喜んでくれた。
「まるで自分自身が褒められたように感じられて、そのときの嬉しさはいまでも忘れられません」
ディテールは忘れてしまっているが、話の核は誤っていないはず。いい話だな、と思う。

などと、褒めてばかり来たが、三点だけツッコミを入れておく。
ひとつは、みんなかなり歯が白い。殊に沢村一樹に関しては異常なくらいに白い。個人的に審美歯科のスポンサーがついているのかっていうくらいに白くて、さすがに黒くしろとは言わないけれど、もうちょっと自然な白さが望ましい。
もうひとつは、方言フェティシズムをたのしみつつも、茨城言葉って、もう少し激しいのかもしれない、というところ。というか、方言――特に昔は――っていうものは、通常それを聴いたことがない者にとっては「え? え? 聞こえなかった。なんて言ったの?」っていうくらいのものだと僕は思っていて、その仮説に対して、『ひよっこ』の訛は、訛っているということはわかるが、しかしそれでも意味は全然通じてしまうし、全然聞き取れてしまう。
唯一、峯田和伸のムネオのしゃべりは、半分くらい「ん?」という感じがあって、ものすごくいい。調べると、この人、山形の出身で高校まで山形にいたみたいだから、正確な茨城言葉かというのはともかく、言葉のニュアンスの発し方みたいなのが自然なのだと思う。
自分の言葉ではないのだから難しいとは思うのだが、より本物に近いずーずー弁になってくれると、おじさん嬉しくて悶絶してしまいます。
最後、増田明美のナレーションはいいのだが、ひとつだけ、ムネオが初めて登場したときに、「朝ドラってヘンなおじさんがよく出ますよね。なんででしょうね?」みたいなメタ的な内容のコメントがあったけれど、ああいうのはかえって物語の枠組みを矮小化するので、やめたほうがいいと思う。
物語全体にも言えることなのだが、まっすぐ、大きく、のびのびと行ってほしい。
 
とまあ、いまのところではあるのだが、かなり『ひよっこ』に対する期待は大なのであります。そうそう、稲刈りの稲架掛けのところで『いつでも夢を』がまた唄われていた。 また、っていうのは『あまちゃん』でも唄われていたから。『あまちゃん』以前、僕にとってはサントリーのウーロン茶の中国語版のイメージが強かったんだよな。それが、『あまちゃん』でイメージの上書きがなされた。
この『ひよっこ』でもふたたび唄われる場面があるのだろうか。もしあるとすれば、それはきっと重要な場面なんだろうな。 

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「うーん?」という感じが強まる。 2話目にしてすでにストーリーが失速している感じがあるのだ。
前知識をまったく持たないまま観始めたので、だいたいの設定とか展開をまったく知らない。4人が演奏家ということも知らなかったほど。そのため、ストーリーの求心力が奈辺にあるのかがわからず、初回に想定した、松たか子の夫失踪事件→連続殺人?→犯人は誰か、みたいなサスペンスが主軸でラブコメ要素は付随的なものというラインは、もしかしたらまったくの見当違いだったのかもしれない。

そのほか、いろいろと問題がありました。

個人的に他人の恋愛話に興味がないせいか、今回の松田龍平を中心とした恋バナには心がまったく動かなかった。風見さん問題もある。
風見さんはドラマ『逃げ恥』のキャラクターだが、扮する役者の演技が下手でまったく感情移入できなかった。あのドラマをすべて観終えて、彼がもう少しまともだったなら、あるいはもっとうまい役者が演じていたのなら、僕はもっと風見さんに感情移入できたし、その恋の行方にもう少し身を入れて注視することもできたのではないか、という疑念をいまだ払拭できないままでいる。
松田龍平にも同じことを感じ始めている。好きでもないし評価もしない役者が演じるキャラクターは、おそらく脚本以上(以下?)に低く評価してしまいがちだ。僕にとって松田龍平は、松田優作と熊谷美由紀の息子という以上のなにかになったことがない。世の中に役者は大勢いるというのに、なぜ彼を起用するのかを理解した瞬間はいままで一度もない。

今回、高橋一生はほとんど活躍するところがなかったが、寸劇しているときの髪型・表情にバナナマン日村との相似問題。
また、マミーDのでかい車に高橋一生を乗せたが、まあこれからピクニックに行くという様子にも見えなかったから借金とかかな。『夜のせんせい』でも高橋一生は借金をしていたな。

すずめちゃんはともかく、まきさんも不思議ちゃんで、松田龍平もわりあい不思議ちゃんっぽさがあって、主要キャラクターの3/4が不思議ちゃん問題。なんかこういうのって、脚本家の女性趣味みたいなものを疑ってしまう。
実はNHKのドラマ『トットてれび』を録り溜めしたまんまにしているのだが、はじめ少し観て、満島ひかり演じる黒柳徹子の奇矯っぷりが辛くて辛くて、そのうえ脚本の粗っぽさが引っかかって今日まで鑑賞し終えていない。
黒柳はともかく、男の描く「奇矯な女性」というのを女性はどうとらえるのだろう。
僕はときどき男女逆転というものを考えてみるのだが、出演する男性キャラクターがみな不思議ちゃんだったら、とてもじゃないけれど観ていられない。「お話」というのは理解したうえで、それでも受け容れがたいものはある。

菊池亜希子(八木亜希子とのW亜希子だ!)が証明するショートカット最強問題。

タイヤ(≒現実生活の象徴)について話すのを「つまらない男」と批判する人間(別府くん)が『人魚対半魚人』を大切にする、という描写が「うわ~、『サブカル層』ウケよさそう~」と苦笑してしまった。やたらとゾンビ映画推しする男子、とか、春画大好きアピ女子、とかがあるんだったら、タイヤについて語る男女も認めてくれよ! おれはすべて興味ないけど。
宇多田ヒカルの『Keep Tryin'』をはじめて聴いたとき(2006年頃らしい)、
「タイムイズマネー」
将来、国家公務員だなんて言うな
夢がないなあ
「愛情よりmoney」
ダーリンがサラリーマンだっていいじゃん
愛があれば
という歌詞が鼻についた。当時はまだ宇多田に対して批判的な感覚というのを持っておらずむしろその歌詞には好ましいものばかりを感じていたが、この部分にだけはイヤなものを覚えた。なんで「将来、国家公務員」だと夢がないのか。御身は「アーティスト」であらせられる宇多田による「サラリーマンだって」の「だって」の部分には、蔑視感情が多少含まれていると感じないわけにはいかなかったし。
「タイヤについて話す男はつまらない」と「国家公務員には夢がない」とには、通底しているものがあるように感じられる。僕は、タイヤのことしか話せない男も、幼稚さに引きこもって『人魚対半魚人』を面白がっている男も否定はしないけれど、けれども両者は同じ地平に等価値に配置されているべきだと単純に思っている。登場しないからといって片方が「手近なチェーン店」に喩えられてしまうほど、もう片方ははたして魅力的なのだろうか。それはただの脚本家の「趣味」だったり「自己弁護」だったりしないのか。
【今週のハルキくん】
すずめちゃんと別府くんがコンビニに買い出しにいくところ。
す「猫好きなんですか?」
別「ハリネズミ、かわうそ、猫の順で好きです」
「アリクイ、しろくま、猫の順です。3位・3位ですね~」
「3位・3位ですね~」
サンドウィッチマンの富澤と八木亜希子と吉岡里帆だけが心のオアシスとなりつつある。

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さっとメモ。

基本、満足&期待大。その上での以下。
わたくしイチオシの俳優、高橋一生、満島ひかりが主演クラス。そして松たか子(彼女の芝居は、野田の舞台『贋作 罪と罰』以来だと思うのだが、いまちょっとネットで調べたらもう11年も前の話……ってほんとかよ)。ここでもう僕のなかでは大三元なんだけど、松田龍平でちょっとケチがつく感じ。で、実際に始まるとやっぱり彼は『あまちゃん』のミズタクとおんなじで、観ていられないというわけではないけれど、残らない。まさかヴァイオリンの弓(bow)に掛けてあえてボウ読みをしているのかと一瞬疑ったが、まさかね。
「まさか」で思い出したけれど、「人生には3つ坂があって、上り坂、下り坂、まさか」っていう昭和の結婚式のスピーチみたいなのが決め台詞として出てきて、多少辟易した。
役者の芝居はいいし、つい引き込まれてしまうのだが、どうも脚本がすんなりと頭に入ってこない。難解というのではなく、むしろ書割的というか、上のような古臭い部分も多く感じられるし、あと村上春樹の影響がでかすぎる気がするんだけど、どうなんだろうか。
  • 「音楽ってのはドーナツの穴のようなものだ」
  • 「あー、みぞみぞしてきた」 「みぞみぞって?」「みぞみぞすることですよ」
なんていうのはそのまんまハルキの作品にあっても全然不思議はないという気がするし、
  • 平熱が7度2分ある人は、首元からいい匂いがする
  • 東北ではトマトに砂糖をかける
  • あしたのジョーの帽子
みたいなフレーズ・仕掛け・装置もやっぱりハルキ的だと思う。
あと、いちばん違和感を覚えたのが、壁に躊躇なく鋲を刺せるがどういう人間だとか、唐揚げにレモンをかけることについて黙っていれば夫婦じゃないとか、そういうかなり安直で一方的な価値判断が議論の場の意見を支配してしまう、という設定があまりにも予定調和にすぎるように感じられた。
反対に言えば、上記を言いたいがために、高橋一生はベンジャミンさんのチラシを持って帰ってきてわざわざ家の中で貼ろうとしたのだし、あるいは、唐揚げの皿に1/4レモンを4つ配置した、と言えてしまうのではないか。特に、はじめの唐揚げのくだりがとても面白かっただけに、ちょっと残念。
男が道を歩いていて、バナナの皮に滑って転ぶとする。腰をさすりつつ立ち上がりながらバナナを拾った男は、「人生とはバナナのようなものだ」というセリフを発し、それが物語のなかで重要なメッセージとなる……という筋書きがあったら、おかしいだろう。バナナがあまりにも唐突じゃありゃしませんか、とも言えるし、バナナの皮くらいで人生を喩えるなよ、とも言える。
これはもう好みの問題になってくるのだと思うが、ある人物たちがあって、あるシチュエーションがあって、ある事件や事故などがあって、そういう諸々に配された変数がすべて同じだと仮定して、100回その場面が繰り返されたら、100回すべてが同じ結果になる、というのがエンターテインメント系の考え方。それに対して、100回ごとに異なる結果に至る、というのが純文学系の考え方だと思っている。
であるから、エンタメはある程度の予定調和を排さないし、リアリティと言われるものの一部を放棄する場合がある。それはそれで構わない。が、程度が過ぎれば、気に障る。
第1話で判断するのは早計なので、ここらへんについては、しばらく様子見。上に書いたことは、「いまのところは」という留保つき。だいたい物語の全体がまだ見えていないし、マミーDの説明もまったくなかったからね。

以下、さらに余談。
楽器を演奏する演技のことを「あて弾き」とでもいうのかわからないが、わざとかっていうくらいにみんなうまくない。それを菊地成孔がラジオで「あれはわざと下手にやっていると思いますよ」と断言していたが、その理由は謎。
吉岡里帆、が元地下アイドルという設定で出演していて、面白く感じられた。
俳優については、まったく不満がないので、あとはストーリーが面白くなっていけばいいなあと思っている。明日からつづきを観る予定。

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