とはいえ、わからないでもない

2017年05月

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もはや一週間前のことになってしまうが、13日のFMシアターのラジオドラマのできがよかった。
なんでもNHK名古屋の創作ラジオドラマ公募作品だったらしいのだが、実によくできているものだと感心した。まあたぶん作者はアマチュアということはなかろう。
「私事で恐縮であるが、ついにその夜、死ぬことにした」で始まり、とてもシリアスなものになるかと思いきや、蓋を開けてみれば田口トモロヲと佐藤二朗というふたりの芝居巧者が、テンポのよい滑稽なセリフの応酬を聴かせてくれて、あっというまに1時間弱の時が流れてしまう。
といって、完全なるコメディかというとそうではなくて……ネタバレはしたくないので詳しくは書かないが、音楽、構成、演技・演出等を含めてラジオドラマはかくあるべし、という見本のような作品だ。

ひとつだけ。いちばん心に残ったセリフは、田口トモロヲの「だけどね……きみのあの話はよかったな」というものだった。
おそらくこのドラマを聴いた多くの人は、これとは違うセリフやシーンを取り上げるとは思うし、それが当たり前のような気もする。
けれども、もう一度繰り返して聴いたときも、やはりこのセリフ回しにじいんとしてしまった。「あの話はよかったな」という文章が台本に書かれていたとして、いったいこのように発することができるのだろうか、と田口の表現の豊かさにしびれた。

毎回毎回が面白いなんてことはなくて、むしろ当たりの率は低いくらいだけれど、それでもときにはこのような佳品に出会えるので、やっぱりラジオドラマは面白い。

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きょう(5/17)、たまたまテレビをつけたところテレ朝の『9係』がやっていて、津田寛治と羽田美智子と朝倉伸二が同じ画面内にいて「あれ?」と思った、という話は記録に値すると思う。
朝倉はおそらくゲスト出演だと思い、念のため『9係』の公式サイトをあたってみたら、「あれ? 松尾諭もいるじゃん!」と昂奮したのだが、よくよく見たらまだ田口浩正だった。「田口浩正の枠はすべて松尾諭が奪っていく説」を唱えている僕としては、この仕事もやがて松尾のものとなるだろう。

それはともかく。
第4週「旅立ちのとき」。この一週間は泣きっぱなしだった。
前半からして、飛ばしすぎていた。

美代子が困っているのを知っている君子が、(最初はお金を持ってきたがそれは美代子に固辞されて)お歳暮だと言っていろいろな食物を持って来る。

美代子が、「『東京に行く』と言わせてしまって、ごめんね」とみね子に謝る。美代子の方からお願いしなくちゃいけなかったのだと言おうとすると、それを遮るみね子。お母ちゃんにそんなこと言わせたくねえから、自分から言ったんだよ、だからそんなこと言わねえで、と。

募集が終わってしまって東京に仕事があるかどうかと首を傾げる田神先生(津田寛治)に「どんな仕事でもすっから、なんでもいっから」と懇願するみね子。それに対して、「おめえは大切な教え子だ。『なんでもいい』とか言っちゃなんね」と本気で怒る先生。

で、仕事が決まったときの先生がみね子の家へ飛んでやってくるところとか、そのあと、みね子が時子の家に自転車でやって行くところとか、もうたまらなく面白くてわくわくしたし、時子がみね子が一緒の場所で働くことになったと聞いて泣き出してしまうところなんか、もうぜーんぶ、泣きながら観ていたもんなあ。

このドラマで中心となっている人物たちが活躍しているとき、誰かが誰を演じているとか、そんなふうに観ることができない。そりゃ部分的にはリアリティを逸脱してしまってある種のファンタジーの領域に足を突っ込んでいるところも(意図するとせざるとにかかわらず)あるだろうけれど、そういう些細なことを一足飛びに超越して、いつも僕は1964年、1965年の茨城や東京に連れて行かれてしまっている。
脚本のよさもあるだろうけれど、きっとそれだけじゃない。一カット一カットの撮影がきれいだったり、風景がよかったり、音楽がよかったり、そのうえにほとんどの役者が好演している。熱演というよりは、きちんと物語のなかの人物をそれぞれが生きているという感じがある。息遣いを感じる。仮想の人物たちだからこそ、魂を込めなければこちらの心にまでなにかを響かせることはできない。彼ら/彼女らがほんとうに心を震わせているからこそ、こちらの心にもその震えが伝わる。

で、卒業式。
特に三男の家の朝の描写がよかった。雪のちらつく中、家族みんなはわりあい素っ気なく三男を見送るのだが、道を曲がるその前くらいで三男が振り返り、大声で「きょうまで、ありがとうございました!」と挨拶し、深々と頭を下げるところなんか、ベタベタのベタな演出だとは思うのだが、やっぱりすごくいいところで、けれどもそこで三男の母ちゃん(柴田理恵)が泣き出すのかと思いきや、びっくりしたあまり、りんごの木から落っこちてしまって、三男の兄貴と父ちゃんが慌ててやってきて彼女を担ぎ運ぶ、というコメディ的展開でそのカットを〆るところが、前に指摘したような照れ隠し的演出で、とてもすてきだ。
じゃあ、このびっくりした母ちゃんが、びっくりするだけだったかというと、そうじゃねえんだよなあ。みね子たちが卒業式に出席しているころ、美代子のところへ君子と三男の母ちゃんが集まってきて、茶飲み話をする。そこで三男の母ちゃんが、なぜ三男にこれまでずっと冷たくしてきたのかということを明かす。
三男坊でいづれ出ていくことが決まっているのだから、清々する思いで家を出て行けるように生まれたときからずっと突き放してきて、ついに優しくしてやれずじまいだった、と。だから、こんな母ちゃんのことを嫌いに違いないと大泣きをするのだが、ここで思ったのは、柴田理恵って泣き上戸だから、この台本もらったとき泣けて泣けて仕方なかっただろうなあ、ということ。で、何度も何度も読み込んで、途中で泣き出してセリフを壊してしまわないように自制して、それで本番テイクに臨んだのではないかと思った。

ふつう、この卒業式の回が土曜日、つまりその週のクライマックスとなりそうなものを、『ひよっこ』はそんなケチなドラマではございません。そんなエピソードの出し惜しみというか、一週間につきワンアイデアの薄伸ばしみたいなことはいたしません。

みね子がついに家を出るというとき、妹・弟の手をつないでバス停までの道を行くみね子が振り返り、家の畑から見送る古谷一行に手を振り、そこに古谷が、悲しみ・さみしさを押し隠しているような表情でそっと手を振る。この場面、ほんとよかったなあ。『逃げる女』での古谷一行の演技をあらためて思い出した。
みね子・時子・三男の三人の家族がバス停にまで見送りに来ていて、そのとき時子の父ちゃんが持ってきていた聖火リレーのときの横断幕――助川時子ちゃん、がんばれ!――を見て、これが泣かずにいられようか。
みね子がバスの窓から顔を出してせいいっぱい手を振り、妹の名前を何度も呼び、「がんばろうね、がんばろうね!」と叫ぶところは、やっぱり方言のよさをしみじみと感じた。

上野駅に着いて、米屋のおじさんがやって来て三男をさっさと連れて行こうとするとき、みね子は「がんばろうね!」、時子は「負けんな。負けたら嫌いになっからね」と呼びかけるのにやっぱりじいんとしてしまった。きちんとしたおわかれの挨拶もなしに、奥茨城から一緒にやってきた友だちがあっという間にいなくなってしまうところに、なんだか僕までが心を引き裂かれるような思いをしてしまった。

やがて和久井映見演ずる「愛子さん」もやって来て、ひと騒動(※後述)あったのち、澄子をくわえた三人が連れて行かれる。そこを田神先生がひとり見送る。このカット、みね子たちの後景に田神先生がいるのではなく、田神先生の視点で、その向こうにみね子たちが描かれているところが重要。次いで、バストアップの田神先生が「がんばれ、がんばれ」とつぶやく。
このとき、僕は前回書いたようなことに気づいた。つまり、「あなたのことは、きっと誰かが応援している」というこのドラマのテーマだ。
愛子さんの手違いで、一瞬、みね子の働く場所がなくなるかもしれない、という可能性が出来するが、このときみね子が何度も何度も「(奥茨城には)帰れねーよ、帰れねーよ」と繰り返す。これは現在と違って、軽々に東京と地元を行き来できるわけじゃないし、簡単に仕事を転々と変えられるわけでもない、ということをあらわす意味があるのと同時に、みね子たちの状況が、簡単にお先真っ暗になってしまうような脆く頼りないものだということを暗に示してもいた。
そういう不安や危険に対し、本人たちには聞えずとも、「がんばれ」とつぶやき、応援してくれる大人がいる。その描写が、このシーンで最も大切なことであった。だから、田神先生のアップでなくてはいけなかったのだ。

実は、この何話分か前に戻って、残業していろいろな方面に電話をかけてみね子の仕事先を探す田神先生のところへ、化学の藤井先生がやってきて、一緒に手伝ってくれようとするシーンがあった。
けっきょく手伝いするまでもなく、愛子さんのところから電話がかかってみね子の就職先が決まるわけだが、しかし、みね子は藤井先生のこのときの善意・無償の親切を知らない。
(ちなみに、この場面で田神先生(男)は藤井先生(女)のために自らお茶を用意するのだが、この当時からすればめちゃくちゃ進歩的な男性だったに違いない!)

見えるところだけでなく、見えないところでも誰かの善意はある、というのがこのドラマの基底となっている価値観だ。あるいは、損得勘定のない善意、という言い換えをしてもよい。みね子の父親がはじめて赤坂のすずふり亭に行ったとき、宮本信子と佐々木蔵之介は、彼にこのうえない親切で応対した。そこに欲得の勘定はまったくなかった。
2017年を舞台にしたドラマでは、こんな「夢物語」を描くことはもしかしたらもう不可能なのかもしれない。みながみな、自分の裁量と才覚で自己責任でやり抜いていかなければならないし、仕事とか家族のことなんかは考えないようにするか、あるいはもう完全にほっぽりだしてしまって、それよりは承認欲求を中心とした自己肯定への模索が第一義にあって、きょうもきょうとて、リアルと仮想上の自分との乖離に悩んだり悩まなかったり。
誰かが助けてくれる、とか、誰かが応援している、なんてのはファンタジーで、「けっきょく人間は孤独なんだ」というその感覚はその感覚である種のファンタジーに耽溺している気もするのだが、すくなくともそっちのほうが流行りにあるらしい。
ま、それはそれでいいんだけれど、僕の子どもの頃から接していた価値観って、どちらかといえば、『ひよっこ』寄りのものなのだということを最近特に考えていて、だからこんなにも感動・感激しているのだと自分を納得させようとしている。

そもそも(※2017年5月、これからは「そもそも」の意味もすこし拡大されるようですよ)、このドラマを観て、しきりに感動した・感激した・泣けた、みたいなことをずっと書いていて、実際そのとおりなんだが、もしかしたらそれほどまでのものではないのかも、と疑いたくなることがときどきある。
僕が一種のノイローゼとか神経過敏の状態にあって、そのためにちょっとした刺戟でも心が過剰反応してしまい、ぼろぼろと涙を流しながら「すごくいい!」を連呼するというタイプの症状を呈しているだけなんじゃないか、とそういう疑いを我が身と心に向けざるを得ないほどに、やたらと心が動いてしまっている。
もし僕がそういう病的状態にないのであれば、このドラマは――すくなくとここまでは――大傑作だ。

そして、大傑作週のひとつである第5週「乙女たち、ご安全に!」のことが次こそやっと書けるのがたのしみで仕方ない。乙女寮のメンバー、特に藤野涼子さんのことが書きたくて書きたくてたまらないのだ。ご安全にーっ!

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声を大にして言いたいのは、誰かを不幸にさせたり、病気にさせたり、あるいは殺したり、挙げ句の果てにはそれらのオンパレードを見せつけるためにわざわざ「戦争」を持って来たりしなくても感動を生み出すことはできるってことを、この「聖火リレーの週」は教えてくれたわけだ。
しかもその聖火リレーというのが、東京オリンピックといういわば権威づけられた行事の一部ではなく、そこから派生した村の行事――「オリジナル」からしてみれば「モノマネ」のようなもの――によって感動させる、というのが二重にすごいところなのだ。

もうこの週は奇蹟つづきというか、毎日毎日がスペシャルすぎて濃密。
月曜日。この日は、全部で4回のハグがあった。
  1. 東京から帰ってきた美代子が、みね子に本当のことを話しハグする。
  2. 畑仕事をしている美代子のところへ君子(羽田美智子)が手伝いに来るが、彼女の顔を見て泣き出す美代子を、君子がハグする。
  3. 元気づけるために盛り上げてくれる時子と三男を見て、感謝のあまり少し泣いてしまうみね子を時子がハグ。
  4. ついにリレーの計画書がガリ版であがり、それを見て感動したみね子をまた時子がハグ。
3.と4.とは意味合いが同じだから3回とカウントしていいとも思うのだが、いたわり、なぐさめ、共感、といろいろな感情を抱擁という行為であらわしていて面白いと思った。で、各ハグのシーンは感動的であるのだが、3.のところで、時子に抱かれたみね子が三男の方を見て「うらやましかっぺ?」と少しおどけるところがまた格別によい。「感動」を金看板にするのがまるで恥ずかしいとでも言うように、ここでまたユーモアに逃げるところが僕の好みなのである。

火曜日は、三男たちが青年団の集まりに出席し、聖火リレーの計画を打ち明けるところ。はじめ、三男の兄貴である団長たちが頑な態度で計画をすぐに却下しようとするところがリアル。
そこから先は、泉澤祐希の芝居の見せ所だった。というより、三男というキャラクターが泉澤という役者に取り憑いているように見えた。三男の言うところはつまりこうだ。村のことをいくら好きでもどうしても出ていかなければいけない人間だっているわけで、村というのは住んでいる人間たちだけのものではなく、遠く離れてしまっても村のことを思っている人間たちのものでもある、と。
しかし、ここで兄貴の太郎(団長)の返す言葉が辛辣なのもよかった。生まれたときから村を離れられないさだめにある人間だっている。
村を好きでも離れなくてはいけない人たち。村が嫌いでも住みつづけなくてはならない人たち。これらは対極にはあるものの等位の関係にあるのだ、と。
けっきょく青年団は手伝ってくれることとなり物語としてはハッピーな方向に進むわけだが、脚本が、村を離れられなかった人たちの心情を太郎に代弁させたのがよかった。
太郎たちは決して悪役なのではない。この場で和解したわけではなく、はじめから対立しているわけでもなかった。保守的という言葉が、当節流行っているような趣味としての態度ではなく、どうしても逃れがたい考えや習慣に基づいた態度をあらわす場合において、太郎たちは保守的なだけなのであった。そして、いまの僕にはこういう人たちのことが前よりは少しわかっている。
東京や横浜に住んでいたとき、周りにいた多くの人たちが「人間は自由でなければならない」という考えを持っていたように思うのだが、その人たちがそのような考え方にやはりとらわれていたのであったとすれば、そのとらわれ方においては――あるは保守的な考えをどうしても受け容れがたいという態度においては――同等に保守的なのだ。詭弁のようだがこれもまた事実で、たとえば信仰心が日常生活の基礎になっている人たちの近くで暮らしていると、迷信だとか前時代的だとかバカにする気にもなれないし、その人たちの理窟というのがそれなりに理解できるようになってくる(あくまでも理解どまりだが)。
だから、勇気を振り絞った三男の説得を聞き入れつつも、どうしてもひとこと言わずにはいられなかった太郎の気持ちにも共感できたのだった。

水曜日。みね子・時子・三男の計画が晴れて村中に周知されることとなり、各自の協力や「政治」の力によって大会実施にまでこぎつけ、あっけなくリレーはスタートしてしまう。
どこかで耳にした、というレベルの話で、本ドラマを「展開が遅い」と批判する向きがある(あった?)らしいのだが、全然そんなことないよ。だらだらしたところなんて本当になくて、つまらない朝ドラだったらリレーのスタートまでの準備回として一話分を使い切るのがあたりまえくらいなのに(たとえば『マッサン』のだらだらした展開は、いかにも時間稼ぎというのが見え透いていて酷かった)、リレーをスタートさせるどころか、ゴールまでしてしまうのだ(しかも回想が入るから実質はかなり短いと言える)。
僕などは、「ああ、リレーをもっと観たかったのに、きょうだけでおしまいなのかあ……」とがっかりしたくらいなのだが、まあそれは翌日、早とちりだったということが判明することになる。
リレーでは、三男が泣き、時子がよそいきの笑顔を見せ、みね子が内心に不安と希望を抱えながら、走る。
ただそれだけっていう言い方はないけれど、でも、この回のメインは登場人物たちが聖火を持ってただ走るだけ、なんだよね。ただそれだけだからつまらない、ではなくて、ただそれだけなのに、(月並な言い方だけど)ものすごく感動してしまったんだよな。
ひとりのランナーの後ろに何人もの子どもたちがわーわー言いながら追走し、また沿道でも大勢の人たちが立ち並び、拍手や旗を振ることでランナーを迎え、声援を送る。頑張れ
これは、もっとあとまで観たから気づいたことなんだけれども、この構図もこのドラマの重要なテーマで、「あなたのことは、きっと誰かが応援している」ってことなんだよな。熱心に前だけを向いて走っているから気づかないかもしれないけれど、あなたの後ろには大勢の人たちがいて、あなたを応援している。あなたは決してひとりじゃない、だから安心していい。
以下はみね子がゴール地点に戻ってきたところで妄想してしまったことなのだが、この大会に出てくる大勢のエキストラの中には撮影協力している撮影地の人たち(すげーアバウト!)もきっといたに違いないと勝手に決めつけていて、その人たちが撮影前に集合をかけられ、監督から大まかな段取りを聞かされ、各々の「演技」という名のたのしい時間を過ごした。
撮影が終わって、制作陣や出演者からの挨拶も聴き、みんなで和気藹々と帰り、それから何日も何日もその話を繰り返した。「有村架純ちゃん、かわいかったねえ。顔こんなに小さいんだもん。やっぱり女優さんだわあ」「佐久間由衣さんも、もんのすごいべっぴんさんだったなあ。サインもらっておけばよかった」「三男くんやってた子もハンサムだったし」「○○さんとこのばあちゃんなんかセリフまでもらって、有村架純ちゃんと話しているのがそのまんま放送されたんだから、うーらやーましーい!」とかなんとか。
それからだいぶ時間が経っていよいよテレビ放送の当日ということになって、「その回」を観てみたら、画面の隅に写った自分たち――あ、ほら! あそこにいた! え? どこどこ?――が、物語の一部になっているのに気づいて、唯々たのしかったという感想に、誇らしい気持ちまでもがくわわった。あ、なんかおれ/わたし、端っこのほうだけどちゃんとドラマん中にいる。おれ/わたしは、あのとき、ほんとうに三男くんや時子ちゃんやみね子ちゃんを応援していたんだ。ほんとうに、「頑張れ」って言っていたんだなあ。ああ、このドラマに出られて、ほんとうによかったなあ。
……というような妄想をしていたら、そこにもじいんとしてしまって、関わった人がみな誇らしく思えるドラマだよなこれは、と自分の妄想の自画自賛みたいなことまでしていた。
ところで、聖火リレーのイベントを案内するためにみね子たちが掲示板に手作りのポスターを貼るところがあったのだが、その隣には「リヤカー借します」と書かれた張り紙がしてあるのにたまたま気づき、「むむむ」と唸ってしまった。もちろん美術スタッフの誤記ではあるまい。ここらへんの文字遣いの大らかさが時代をうまくあらわしているように感じられた。
余談だが、小学生の頃、近所の図書館に冷水機(足でペダルを踏むか飲み口そばのボタンを押すと、冷えた水がピューッと出てくるやつ)が置いてあったのだが、そこの近くに「冷い水あります」の案内書きがあって、子ども心に「なんと読むんだろうなあ」と首をひねったものだ。それが間違いというわけじゃないけれども、当世なら「”正確”な送り仮名ではない!」とすぐツッコミが入るだろうし、表記の多様性もなかなか認められないだろうから、このような例はほとんどなくなっているかもしれない。

で、木曜日。「たった一話で終わってしまってさみしいなあ」と思っていた聖火リレーだが、結論から言うともう一度繰り返された。しかしそれは、ニュースの一部としてテレビ放映されたものをみね子・時子・三男の三人の家族たちが集まって観る、というもので、単なる繰り返しに堕さない、それどころか、田舎ではなく都会の視点からあらためてとらえなおすというところに、ユーモアとほんのちょっぴりとした毒気があって、このアイデアには参った。
しかしまあ、このお茶の間の風景が実にいいのだ。ナレーションによって持ち上げられたり貶されたりするのに対して喜んだり腹を立てたり。で、放送が終わってしまったら、さみしいような、なんだかものすごく期待していたものに対してあてがはずれたような、そんな放り出されてしまったよう気持ちをあらわす間(ま)が一瞬だけその場を支配して。
この記事のはじめの方に、奥茨城村の聖火リレーを「『オリジナル』からしてみれば『モノマネ』のようなもの」と書いたが、まさしく東京のテレビ局は「まがいもの」と見なしているわけだ。
これは、青年団を説得しようと三男が、自分たちの境遇を涙ながらに訴えたのに対し、兄貴の太郎に「ひとこと物申す」とやり返されたの構図と少し似ている。ただ、今回の「東京の視点」には当事者性がないので、等位ではない。むしろ、これから村を出て行こうという時子・三男(そして結果的にみね子もそうなのだが)を、東京がどのように迎えるかのひとつの象徴でもあるわけだ。自分たちが特別なもの・大切なものと思っていたものが、他者(=東京)から見ればそうとは限らないことを、東京に行く前から少しだけわからせる、そのような演出意図もあったように思う。
しかし――これが非常に重要なことだが――そのような無意識の悪意のようなものに村の人たちが打ちのめされるわけではなく、そんなもんだっぺ、東京から見たら、と軽々と割り切り、「でもたのしかったっぺ?」とたのしむべきをたのしむ、としたところが、やっぱり「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」の精神なのだと思う。
このあとみなで軽食をたのしむ場面まで含めて、ほんとうにすばらしかった。東京の人たちから見ればなんでもないものでも、やはり奥茨城村の人たちにとっては心から大切なものなのだ、と逆説的に描写されていたのだから。
そのあとは、ついに東京でのオリンピックが開催されるところまで描かれる。昭和39年のオリンピックのほうだ。
なお、朝ドラ『ごちそうさん』が放送されたとき、そのあまりにもありえない美食っぷりに対して「ありえなかったものを、さもあったかのように描き、みじめで貧しかった過去を理想化・修正しようとするプロパガンダ的意図があるのではないか」と書いたことがあって、それはいまでも疑っているところがあるけれど(そうでなければ脚本家の頭がお花畑なのだろうが、その脚本家とはいまの大河ドラマの脚本家なわけで、『直虎』において「過去」や「歴史」がどのように描かれているか、ということで間接的に判断することも可能なのかもしれない、僕はくだんのドラマは観ていないけれど)、実は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに対する気運を高め、ついでに家族やふるさとを大切にしようという伝統的保守主義によるプロパガンダ的意図は、むしろこの『ひよっこ』に見出すことのほうが容易なのだ。
いや、それだから否定しようというわけではもちろんない。反対に、仮にそのような制作背景があろうとも、こんなにいいドラマをつくってくれていることを感謝するだけだ。

金曜日。まさに三男じゃないけれど、聖火リレーの余韻に力が抜けてしまってなんとなくぼうっと観てしまう回。
ここらへんでついでに忘れないように書いておくけれど、オープニングもめちゃくちゃすばらしい。日常の細々とした雑貨をいろいろなものに見立てて、そのなかに聖火リレーがあったり、バスが走ったり、これまでドラマ内であった場面がさりげなく描かれている(ライン工場らしきものもちらっとある)。であるからして、銀座の服部時計店がライトアップされたりする場面やみね子(あるいは時子?)がネオンに彩られた夜の街に心を奪われるような場面も、今後出てくるのかもしれない。

土曜日。いい意味で垢抜けない雰囲気も持っているんだけど、なにせやたらと手足の長いところが現代的な千代子が家出をする。彼女が怒っているのは、子どもだからという理由で、自分の父親が失踪してしまったという重要な話題から、自分が疎外されてしまったことなのだろう。その態度を見たみね子が、自らが大人としてどのように振る舞うべきなのかということを決心し、母と祖父に対して東京に出稼ぎに行くことを告げる。
ただの気まぐれからではなく、家庭の経済状況を鑑みて出ていかざるを得ないという現実は、これまで丁寧に描かれてきたために視聴者にとっても重く響く。だから、みね子の「わたし、決めたんだ」という言葉のせつなさが、胸に刺さる。
というわけで、次週の「旅立ちのとき」につづく。

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第1週の感想について書いた「ん? これってかなりいいんじゃないの?」という予測というか期待は訂正する。かなり、じゃない。最高に、いい。

現在、第6週をリアルタイムで追っかけているところだが、とりあえず簡単に振り返りつつ記録しておこうと思った。
まず、第2週「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」。
三男の案で、奥茨城村で聖火リレーの企画をしている一方で、みね子の父ちゃんが行方不明になるという週。
次週、次々週……と展開を知っているいま観返してみても、やはりわくわく・どきどきしてしまう。ひとつひとつのシーンの描写が丁寧で、登場する人物がみな生き生きとしていて、ほぼすべての人たちに愛着が湧く。
正直に「ほぼすべて」の例外を書けば、松尾諭だけはまったくもってなんとも思わないし、できれば出てもらいたくないほど。それと、(録画の都合上、どうしてもチラと映ってしまう)次番組はじまりの有働由美子の、いかにも「いままで観ていました」みたいな表情にもうんざりしている。ここ数年とみに感じられるNHKの内輪感がすべてここに象徴されている気がする(別段きょうに始まったことではなく、ずーっとそれをウリにしていることも知っているが)。いやだねえ。

峯田和伸演じるムネオが、登場した当初はいかにも親父の古谷一行と確執がありそうなものを、それがまったくなくて、あるいは谷田部家にトラブルを持ち込んでくるかと思いきや、それもまったくなく、どころか、美代子(木村佳乃)が夫の実(沢村一樹)を探しに東京に行くということを相談する段には、ほんとうに親身になってくれるやさしい義弟を好演しており、そのやさしさにやはりぐっと来てしまうのだった。そして、その人生観というかやさしさの根拠がどうやら戦争帰りにあるらしい、というのが、なんというか、時代設定に対して誠実という気がする。
ここ最近の朝ドラで戦争を直接描写したものについても、脚本家たちが浩瀚な資料に当たったことは想像に難くないが(そうでなければ、「戦争を知らない」世代が軽々に戦争を描こうと思えるはずがないのだから!)、しかし、どうしても悲惨さを十倍二十倍に希釈したような括弧つきの「戦争」にいい加減さや底の浅さのようなものを感じてしまい、だったらそんな時代設定を避けりゃいいのに、と思うことがまことに多かったのだが、もしかしたら制作側には、「戦時中を描けば感動モノになりやすい」みたいな安っぽい打算があるのかもしれない。
そういう安直な手法で描出される「戦争」よりも、ムネオの背中の傷に無言で語らせる、というやり方のほうがずっとエレガントで実(じつ)があるように感じられる。

実が帰ってこないことをまずムネオに相談するところでは、木村佳乃の迫真の演技によって、谷田部家の抱える不安が文字通り真に迫ってくるのだが、けれどもそこでシリアスになりすぎず、ムネオが「(もし実が見つかったら)一発殴るよ、おれは」と美代子とじいちゃんを少しだけ笑わせるところが、好きだ。
このようなシリアスで終わらせずに、どこかユーモアを交えて場面を終える、という描き方がこのドラマでは(少なくとも第6週までは)通底しているようだ。これとよく似た演出方法につい最近接したことがある。こうの史代『この世界の片隅に』である。
あのマンガは、戦争そのものを描いているのにもかかわらず、その一方で戦時中の「生活」をも同時に描いているという点に特に優れた部分を見いだせるわけだが(本心を吐露すれば、それ以上に、作者の詩的表現があのマンガの最高で最良の部分だと思っている)、それを成り立たしめているのがユーモアであって、どれだけ辛く苦しいことがあっても、物語の軽重のバランスを取るように、ちょっとだけユーモアが用意されている。
戦争はそんなもんじゃないよ。誰かが傷つくってことは、誰かが死ぬってことは、そんな帳尻合わせがいくようなもんじゃ、決してないよ。と、そういう意見があろうことは理解できる。
けれども一方で、どこかに救いがなくては人間は生きてはいけない。それは作中人物とて同じことで、辛さ苦しさの底でのたうち回っているままでは彼/彼女は救われない。ちょっとした救いが、ちょっとした笑いが、生き残った者たちを明日に一歩だけ進ませる。あのマンガの最後の一ページが、ユーモアと希望に満ちていることに、僕は救われた。物語のなかの生きている人たちもまた救われたことだろう。

深刻であること・悲惨であることのみをもって良質のものとし、喜劇的要素が少しでも入ってこようものならそれは一段下がったところに置かれるべし、なんていうのは近代ブンガク的価値観であり、都市伝説みたいなものだと思っている。もはや現代においては、世俗性や諧謔と深刻さは同居しうるということは当たり前となっており、本作『ひよっこ』も、このまま行けば、その好例のひとつとして映像の歴史にその名が刻まれることだろう。
「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」というのは、きっとこの週だけのテーマだけではないはずだ。

ところで、この週のハイライトは、実を探しに東京に行った美代子が、警察署で泣きながら夫を探してくれと訴えるところだろう。こんな熱演を、朝ドラで観ることができるとは眼福の至りである。
そしてその後、美代子はすずふり亭を訪れて、やはり宮本信子と佐々木蔵之介の親切すぎるといっていいほどの応対を受け、挙げ句の果てには上野駅にまで追いかけてきて「せっかくのご縁じゃないですか」と言って一緒に夜食を食べるわけだが、ここでもぐっと来ないわけがない。
このすずふり亭のふたりのやさしさ・善意というものが、ある意味ではこのドラマの象徴でもあると思っていて、1週の感想のときにも書いたが、西岸良平『三丁目の夕日』と地つづきの世界なのだ。
気持ちのよい人物たちが幾人も出てきて、その人たちは、ただただやさしい。いろいろな物語に毒された現代の視聴者であれば、そういうものを一種の幻想と即断してしまいがちではあるが、それでも少なくない人たちが、このドラマを観て感動していると思う。
それは、安直にエピソードとエピソードを結びつけて強引に展開しようとは決してしない丁寧な脚本、および、手抜きが見られない細部や小道具に代表されるまったく弛緩していない制作陣の緻密な演出、また、役者たちのしっかりとした基礎の上に成り立っている演技力や、あるいは、古き良きアメリカンポップス・マナーを踏襲した桑田佳祐の主題歌(素人的私見として大滝詠一オマージュなのかな、なんて思ったりしている)などがあってのこと。それらのすばらしい複合藝術として、このドラマは存在しているのだ……などとかなり前のめりに高評価してしまっている、きょうこの頃なのであった。

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坂本慎太郎のアルバム『できれば愛を』を何度も何度も繰り返し聴いている。そのなかでも『ディスコって』の歌詞に打たれている。


(※坂本慎太郎のVer.はなく、オノシュンスケのカバーVer.しかYouTube上にはない)
今 男が 女に声をかけた
今 不思議な 沈黙が訪れた

ディスコは君を差別しない
ディスコは君を侮辱しない
ディスコは君を区別しない
ディスコは君を拒絶しない

今年も盆には みんな来る
さあ出迎えよう迎え火で

ディスコって 男や 女が 踊るところ
ディスコって 不思議な 音楽かかるところ

ディスコで君は何もしない
ディスコも君に何もしない
ディスコに君は期待しない
ディスコも君に何も求めない

たまらず先祖も 蘇る
まあ次の日の夜中まで

今 女が 男の肩に触れた
今 男が 男と腕をくんだ
今 女が 女とキスをしてた
今 男が 男と外に消えた

ディスコは君を差別しない
ディスコは君を侮辱しない
ディスコは君を区別しない
ディスコは君を拒絶しない
ディスコで君は何もしない
ディスコも君に何もしない
ディスコに君は期待しない
ディスコも君に何も求めない

ディスコって 男や 女が 踊るところ
ディスコって 不思議な 音楽かかるところ
ディスコって 男や 女が 出会うところ
ディスコって いつでも 一人になれるところ
ディスコ
上に掲げた歌詞を読み、あるいは耳にして、そしてこの曲がリリースされたのが2016年ということを考慮すると、どうしても米国フロリダのゲイナイトクラブ銃撃事件が想起してしまう。
何度も繰り返される「ディスコは君を差別しない/侮辱しない/区別しない/拒絶しない」。そして中盤には男と男、あるいは女と女という同性愛の関係性を連想させる歌詞もあり、ディスコというものが、そういう愛の形態をごく自然のものとして受け入れている場所なのだ、という宣言のようにも思えてくる。

この曲が収録されている『できれば愛を』は2016年7月26日にリリースされた。たとえば2016年6月9日CINRAのニュースではその情報が早くも公開されており、そこに掲載されたジャケットの画像にはside Bの4曲目に同曲の名前が印刷されていることがはっきりと確認できる。
しかし、上記のゲイナイトクラブ襲撃事件は、2016年6月12日未明に起きている。つまり、僕がはじめに思った、事件を発端として書かれた曲ではないということだ。
僕はこの事件を、CNNのレポーター(彼自身がゲイということらしい)が、犠牲者の名前とそのプロフィールをつぎつぎと読み上げながら、込み上げてきたために声が震えてしまう動画とともに憶えている。


菊地成孔が、自身のラジオ番組でポピュラーミュージックにはそのような偶然はよくあることだ、と言っていたことがある。
アントニオ・カルロス・ジョビンの『三月の水』について触れ、「三月の水」という言葉が日本人にとって特別な意味を持ってしまった、と。そのあとに、ポピュラーミュージックにはそのようなことはよくある、と継いだ。

それほどシリアスではない例として。
今年の2月26日に、リリカルスクールという5人組のアイドルグループのうち、オリジナルメンバー3人が卒業するということでその最後のライブがあった。
僕はそれをLINE LIVEで観たのだが、出てくる歌詞のいちいちに衝撃を受け、胸が詰まりっぱなしだった。
たとえば、「楽しもう今日は今日だけだから(『ワンダーグラウンド』)」、「1分1秒でも長く!(『マジックアワー』)」、「多分だけど絶対今日のことずっと忘れないと思うんだ(『サマーファンデーション』)」など。
もちろんこれらの曲は「卒業」を意識してつくられたものではなく、そしてつくられた時期もばらばらだ。
しかし、これらの言葉が耳に入ってきたとき、「ああ、これはまさしくきょうのこの瞬間のためにつくられた曲だったんだなあ……」と感慨の深い深いところにひたりきってしまった。


音楽には魔法があると思うことがよくある。僕自身は音楽は詳しいほうではないが、それでもたぶん、力はある。
たしかきのうとかおとといくらいに、東京レインボープライドがあったはずだけど、そのどこかで、『ディスコって』が爆音でかかっていたりしたら、とてもすてきな光景だったろうと思う。

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