とはいえ、わからないでもない

2017年06月

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分不相応とは思うものの、最近ちょっと人を雇っている。
人を雇うというのは難しい。雇われるのは、ある意味簡単だ。気に入らなければすぐに辞めてもいい。けれども、雇った人を気に入らないからすぐに辞めさせる、ということはなかなかできない。田舎だとなおさらできない。ただでさえ人の少ない田舎で、よけいに次に雇うのが難しくなるから。

それじゃあ、雇っている人間に不満があるのか、と問われればそんなことはない、とたぶん応えるだろう。けれども、その「不満」をどのように設定するかによって、僕の返答のトーンはだいぶ異なってくる。
ひとり雇って、そのひとりが100%僕と同じ働きをしてくれることを期待する、という意味においてならば、不満がないわけがない。それほどに僕が働き者である、ということではなくて、単純に、他人は僕とは異なるわけだから、つねに思考・行動において幾許かの齟齬が生じる。そのギャップを埋めるためにコミュニケーションが必要になるわけだが、そのコミュニケーションには技術が要る。
たぶん僕は、そういう技術にものすごく長けているとは言えないまでも、劣っているわけではないだろう。それなりに気を遣い、相手が気持ちよく働けるようにはできるのだが、それじゃあそういう行為が好きかというと、まったくそんなことはない。
雇用契約には金銭が発生しているわけだから、本来ならそんなコミュニケーションなしに、十全に、かつ意欲的に働いてもらえれば、それに越したことはない。けれども、低賃金・低技術の職場環境において、それを労働者に期待するのは酷だ。こんなことを書いている僕だって、立場が逆になれば、手を抜きはしないまでも、100%、120%の働きをするかというと甚だ疑問だ。
魅力的なインセンティブや、高度のスキルを身につけたいというモチベーションがなければ、そりゃあ人間の働きには隙が生まれる。そして、その隙を目の当たりにしてしまうと、雇っている側はなんだか必要以上にがっかりとしてしまう。肉体的な負担を減らすための雇用が、精神的な負担を増やしている、というのが実情だ。
これまでに何度も書いてきていることだが、本来であれば、他人とのコミュニケーションを抛棄するために田舎に移住してきた。けれども結果的には、都市部で住んでいたとき以上に人と人との関係性は濃密になり、苛立ちを腹に抱えることが増えた。なんという皮肉か。

まともなAIを積んだロボットが早く開発されればいいと思う。言ったことを100%の確度をもって達成し、疲れを知らず、また気まぐれを起こさない。僕の雑談をいつまでも憶えておいてくれ、適当な相槌も打てる。
AIの技術が発展していくことで、人間の仕事は確実に減るだろうと僕は考えていて、そのことは憂慮すべきことだと思っている。特に仕事を失うであろう人たちはもっと真剣に怖れておいたほうがよさそう。まあ怖れるだけじゃどうしようもないと思うが。
僕の仕事が、将来どういうふうになるのかわからないが(50:50で取って代わられる気もする)、もし生き残っていたら、そのときの従業員はみなAIロボットにしたい。すくなくともうちのような単純作業には人間は要らない、ってのが率直な感想なんだよな。たぶん50年後くらいの経営者のほとんどが同じようなことを口にしていると思う。「ニンゲン雇うのって、面倒じゃね?」って。

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今年の4月18日、70代の隣人、Yさんと話していて、今年もツバメは巣をつくらないのだなあ、ということを確認し合っていた。
一昨年は、玄関灯の上に巣をつくり、ぶじ雛が孵ったのだが、昨年は、きれいにしておいてやろうと、「オフシーズン」に巣を撤去して玄関灯の上を掃除しておいたものの(その壊した巣のなかに死んでしまっていた一羽の雛の死骸も見つけることになった)、そのせいかどうか知らないが、ツバメが来ることはなかった。
そういう教訓をふまえて、Yさんとは、ツバメの巣というのは、ツバメがいなくなってもあまりいじるものではない、ということもまた確認し合っていたのだが、今年も望み薄ということでなんとなく落胆していたところもあった。
しかし、われわれの話を盗み聞きしていたのか、天邪鬼なツバメの番いがその翌日から巣を作り始めた。

土と藁のようなものを唾でこね、それを次々とどこかから持ってきて、玄関灯にくっつけていく。
Yさんが「左官(ここらへんの言い方だと「しゃかん」)みたいにだいぶ美しゅうつくるもんやな」と感心する一方、僕はだいぶ不安だった。
この玄関灯というのは(そもそもそういう名称で正しいのかどうかもわからないが)、「一」の形をした天から真ん中部分を吊るすタイプの細いもので、その「一」の上に土を積み上げていくのならまだしも、「一」の文字のZ方向にむかって土を付け足していくものだから、直下から見上げるたびに、なんだか不安定で下手くそだなあ、途中で壊れて落ちてしまうんじゃないか、などとつぶやいてたものだが、「仕上げを御覧じろ」とばかりに、玄関灯そのもの+空中にせりだした基礎部分、のうえにいわゆる「巣」である擂り鉢状のスペースをつくったのだった。そうすることで、より広い場所を確保したのである。人間より考えることがすごい。

やがて、番いのうちの一羽が巣から離れないようになった。「ありゃもう温めているんやろ」とYさんが言い、僕も同意する。Yさんが「拾うた」と言ってツバメの卵の薄い殻を見せてくれる。親ツバメがくわえていたものが途中で落ちてしまったものらしく、それを拾ったのだという。不要のゴミだということで真下に捨ててしまえば、おそらくヘビなどが嗅ぎつけ、この上にエサがあるということに気づかれるおそれがある。だからできるだけ遠くに放ろうとするのではないか、とYさんは仮説を立てる。僕もきっとそうだろうと同意する。

やがて灰色の雛たちのぽやぽやとした頭が下からも見え始める。親ツバメがエサを持って帰ると、黄色い嘴でぴいぴいと騒ぐ。オスもメスも代わる代わるにエサを獲ってきては雛たちにやる。そうこうしているうちに、灰色の頭の毛が抜けていき、いわゆるツバメらしい恰好になっていく。相変わらずぴいぴいと騒がしいが、もう嘴は黄色くはない。
そのくらいの時期のある日、昼に仕事から帰ってくると、玄関の引き戸のほんのちょっとのでっぱりの上にヘビが乗っていて、ゆらゆらと揺れながら玄関灯へジャンプする隙を窺っていた。
足があるわけでもないヘビがどうしてそんなところにいられるかどうかはわからなかったが、ツバメの巣を襲うというのはこれまでさんざん聞かされていたことだったので少しも動じることはなく、近くにあった竿上げ(いまこの名称をはじめて知った)でまず落とし、それからその傍の地面をパンパンと叩きながら威嚇し、追い払った。慣れている人間なら殺してしまうのかもしれないが、マムシというわけでもないし、ヘビにはヘビの事情もあろうから殺したくはなかった。ヘビは二度と来ることはなかった。

日中、あちこちを飛び回っている親ツバメも、夕方から日暮れになると戻ってきて、巣の横に番いで宿って休む。雛たちもだいぶ大きくなっていて、下から見上げると、お尻の穴がぺこぺこと開閉しているのが見えたときがあったが、あれはいったいなんだったのだろうか。フンをしていたわけでもないのに。
巣立ちまではあっという間だった。その頃の僕は非常に忙しかったのでゆっくりと観察している暇もなかったのだが、Yさんが、雛たちが飛ぶ練習をして、軽トラの荷台やらに落ちて、またそこから羽撃いて飛び上がるのを繰り返していた、などということを聞くにつけて、そういう姿を目の当たりにしたような気にもなった。
Yさんは仕事をもうしていないので、日がなタバコを吸いながらツバメを眺めるのを愉しみにしていたという。その彼が今年はじめて気のついたことで、オス(こちらでは「オンタ」という言い方をする。ちなみに、メスは「メンタ」)の尾羽はどうやらメスに較べて長いものらしい。「ツバメ オスメス 見分け方」と検索窓に叩き込んで知った「情報」ではなかった。研究者の学術的観察でもなく、ただ単にじっと眺めているうちに、どうやらそうらしいと気づいた知識。70代も半ばを超えて、そういう知識を得られたことに少し嬉しそうだった。

巣から発ったとはいえ、夜になるとしばらくは雛たちも玄関灯の上に戻ってきて、窮屈そうに肩を並べて休んでいた。数えてみると雛が6羽いて、親が2羽いた。
ある朝、5時ちょっと過ぎくらいに家を出ようとすると巣が真下に落ちていて、粉々になっていた。玄関灯を見上げるとそこにツバメたちはいなかったが、おそらく狭いスペースに身体の大きくなった雛たちがぎゅうぎゅうに並んでいたものだから、その重さなりに耐えられなくなって壊れてしまったようだ。そのときには雛たちはもう完全に飛び交うことができたし、巣がなくなってもしばらくは、玄関灯の上に親ツバメと一緒に肩を並べていた。

ところが一週間から10日ほど前だろうか、親ツバメの番いが、ふたたび巣を作り始めたのである。
今度は、完全に玄関の壁の部分に例の藁つきの土を貼り付けていき、数日で小型の巣を作り上げてしまった。Yさんに訊けば、ツバメが2回雛を孵すことはままあるらしい。「今年はどうも2回産む気みたいやな」
ツバメが巣をつくる家には幸いが降るという。そういうご利益的なものについてはいっさい信用しないが、すくなくともツバメを毎日見られる幸せというものは存在する。いま、あまり動かなくなった雌ツバメのお腹の下には卵があるのだろうか。そして、ヘビはまた雛の臭いを嗅ぎつけてやってくるのだろうか。
ようやく雨が降るようになったこの季節、ツバメについてもう少し楽しむことができそうなのである。


トマトの話も少し触れておく。
5月15日に納入するように頼んであったトマト苗が来たのが、一週間遅れの5月22日。今年の春先は寒かったのでなかなか花が咲かなかったとのことだった。
それを植えてから一週間ほどすると病気の苗が目立つようになってきた。ウイルス性のものだとまずいので、一本抜き、二本抜き、とやっているうちに、とうとう全体の1割をすでに撤去してしまった。
病気や奇形を抱えた苗というものは一定の確率で必ず存在はするもので、その予備用としていくつか苗を余分にもらっていたのだが、その予備をすべて補植したうえでも、病気の拡大は止まらなかった。いや、拡大というよりは、どうも種苗屋から来たものではないかという疑いが日に日に濃厚になっていった。
電話をかけてその苗屋に事情を説明した。補償をしてもらえるとは思わなかったが、もしかしたら他の納入先から同じようなクレームをもらうことによって、現在どんな病気を発症しているかを特定できるかもしれない、と思ったのである。もちろん、自前で「この病気ではないか」と多少のあたりはつけているが。
苗屋の言うには、クレームは他ではもらっていないということだったが、すでに撤去したとこちらが説明した本数分を、新たに持っていくと約束してくれ、翌々日にまだ小さい苗だったが実際に持ってきてくれた。しかし、ここですぐに畑に植えるのも怖かったので、隔離した場所にセルポットに入れたまま様子見をすることにしたのだが、やはり数日で病気が発症し、これで、病気の感染源を特定することはできた。つまり、もともと保毒した苗が持ってこられたのである。
専門機関に持っていって調査してもらっている最中ではあるが、病気の特定ができても、すでに抜いて捨ててしまった苗は戻ってこない。なんとも残念なことである。

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もうひと月半ほど前になるのか。

そうそう、前回は乙女寮に綿引巡査があらわれたところで終わったのだったけれど……。
はじめての休日で、乙女寮のあの部屋のメンバーの一部が外出したのだが、各々があまりいい結果を得られない。時子、幸子、そしてみね子たちがひとりひとり失意に沈みつつ帰ってくると、向島電機の中庭で、仲間がベンチに腰掛けていて「おかえり」と言ってくれる。「ただいま」
ここは、みね子に限らず、故郷を遠く離れてやってきた女性たちの、東京でできた初めての居場所なのだ。もしかしたら、そんなことが言えるとは期待すらしていなかったかもしれない「ただいま」をここでは言うことができるし、「おかえり」と応えてさえくれるのだ。わたしはひとりじゃない、と思える場所。あまりにも幼い女の子たちの口に、愛子さんが甘納豆を一粒づつ入れていくのは、ほんとうにすばらしいシーンだった。

この週は指揮者も出てくるんだよな。警官にしても指揮者にしても「ハンサム」とか「すてきな人」ってことになっているのだ、設定上。まあ、それはいいとして。背は高い。顔も小さい。清潔感はある。これは、すずふり亭の若い衆にも共通していることでもある。でも、なーんか小粒感が否めないというか、まったく感情移入することができないのだ。
僕が男だから、というわけでもあるまい。三男も三男の兄ちゃんも時子の兄ちゃんも、みんな好きでそれぞれの演技をずっと観ていたい。でも、警官と指揮者が出てくると、「あらら」と急に気持ちが醒めてしまって、「ああ、そういえばいまドラマ観ているんだっけな」とか「いま8:06だからあと十分弱ほどか」とか、そういうふだんなら気づかない部分に気づいてしまう。
しかし、このふたりが出てきたことによって、僕はすこし安心もしたのだ。ああそうだ、きっとこの大好きなドラマにだって、自分の気に入らない部分や首をかしげる部分が今後でてくるはずで、彼らの存在がそのことを先行して僕に知らせてくれている。そう思うことにした。
彼らは、「人生はままならないもの」であり「物事に完璧を期待することなどできないこと」の象徴なのだ。僕の不満の対象が、彼らの存在にとどまってくれるのであれば、どんなに幸せだろう。それにすら耐えられないというほど、ひどくはないのだから。
余談だが、このあいだシャムキャッツの新曲のMVを観ていたら、この指揮者の雄大先生が出演していてかなり驚いた。ドラマに出演しているのがいろいろと奇蹟的なレベルなのに(詳しくは書くまい)、他の場所でもニーズがあるとは!

みね子父を見かけた人がいるらしい、と警官に伝えられ、そのことを電話のある時子の実家にかけて時子母に伝える。時子母は、夜にもかかわらず自転車に乗ってみね子の実家に行き、みね子母にそれを伝えるのだが、すでにわれわれは同様のシチュエーションを二度も経験している。
田神先生が、みね子の働き口が見つかったことを知らせに来てくれたときと、みね子がそのことを時子に知らせに行ったときと。
コミュニケーションツールの未発達がゆえ、というひとことで済ませることもできるが、やや過剰かつコミカルではあれこういう部分を執拗に描くのは、あまりにも情報伝達が簡易になってしまった現代へのアンチテーゼととらえられなくもない、などと僕などは感じてしまうのである。
たいせつなことを、相手に一刻も早く伝えたいというとき、汗をかいて喉をからからにさせなくてはいけない時代もあった、ということだ。それだからよい、というわけではない。この時代の人たちにスマホを渡せば、100人中100人が喜んで使うだろう。それはあたりまえのこと。
ただ(以下はドラマとはまったく関係のない話だが)、以前から書いているように、コミュニケーションツールが発達したおかげで、人々が簡単に他人を罵倒できるようになった点は否めない。
ツールの「向こう側」にいる相手が、自分にとって必ずしもたいせつな人間であるとは限らなくなったし、場合によっては、その相手とはずっと匿名同士のままでいられることもまったく可能だ。
だからこそわれわれは、挨拶のように「死ね」だの「殺す」だのを顔の知らない相手に簡単に投げかけられるようになった。

ドラマに話を戻す。給料日にみね子が妹・弟のためにノートと消しゴムを買い、そしてかわいらしいと手に取ったブラウスについている値段があまりにも高くて(みね子が一ヶ月稼いでやっと自由にできる金額とほぼ同じ!)、ハンガーをもとに戻し、それを別の誰かが買う場面があった。
みね子はこのあと、田舎の気の利きすぎるお母ちゃんからすてきなすてきなブラウスをプレンゼントされることによって、ある種の救いを得られるのだが、たぶんこの一連のシーンの本質は、お母ちゃんの優しさ・ありがたさだけにあるわけではない。
ちょっと考えればわかることだが、みね子のようなラッキーな人間のほうが少なかったはずで、お金のままならなさ、生まれた場所・環境によって出稼ぎして仕送りしなければいけないという理不尽さ、をぐっと飲み込まなければいけなかった人間のほうが多かったに違いない(たとえばこの翌週の澄子がそうだったように)。
ドラマではあえてそこにスポットライトを当てているわけではないものの、みね子が買えなかったブラウスを買ったのが、どこかのお大尽の娘というわけではまったくなく、みね子と同じように、きっとどこか遠いところから向島電機に働きに来ている女性だった、と描くことによって、よけいにその「ままならなさ」を際立たせているようにも感じられた。
もちろん、これらの不条理に対してなんらかの解決策が提示されているわけではないし、今後も提示されることはないだろう。
ドラマの表の部分、つまり陽の当たっている部分では「あなたのことは、きっと誰かが応援している」というのがテーマになっているはずだから、お母ちゃんに限らず、みね子や時子を助けてくれる人間は多い。われわれ視聴者はまず、その優しさや温かさを素直に受け取ろう。
けれども陽の当たっていない部分――より現実に近い部分――においては、有史以来ほとんどの人類が対峙してきた問題がこの時代のあちこちにもあり、残念ながらそれらに打ちのめされてしまった人間も少なからずいたはずで、そのことを忘れ去らないようにはしたい。なぜなら、このドラマにはそのヒントがたくさん隠されているのだから。

この週の最後の日、みね子がもらった給料ですずふり亭で食事をしようとする。シェフの佐々木蔵之介はなんでも好きなものを食べさせてやろうとするのだが、それを宮本信子が止める。
このとき、僕の頭のなかにはひとつの俳句が浮かんでいた……のだがとりあえずここに掲げておくだけにしておこう。たぶんあとでも言及するだろうから。
弁当を分けぬ友情雲に鳥  清水哲男
一ヶ月の生活費が1,000円のみね子にとっては、60円のビーフコロッケを註文するのがやっとなのだが、これを食べているとき、宮本信子と蔵之介の親子はもちろん、佐藤仁美(むかし大好きでした……いや、いまでも好きですけれど)やコックふたりもホールに出てきてみんなでそのみね子の様子を嬉しそうに眺めている。コックのうち、やついいちろうは、後輩にあたるヒデに対していつも小者っぷりを露呈しているような人物なのだが、この人間も、みね子が嬉しそうに食べているのを、嬉しそうに眺める。こういうシーンに、作者の平等な優しさみたいなものを感じる。セコくて小狡いところがあるかもしれないけれど、けっして悪人ではないのだ、とわざわざ視聴者に教えているのだ。
しかし、宮本信子はあたりまえだけど、佐々木蔵之介もめちゃくちゃ自然でうまいよなあ。ずっと観ていたい。
「ビーコロ」を食べたみね子が心の底から「うめえうめえ」と喜んでいるのを観られることに、心の底からの幸せを感じながら、翌週へ。

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feedlyをなんとなく眺めていたら、「米朝サイバー部隊」の文字に目を引かれた。
beicho
これは上方落語をちょっとでも聴いたことのある人間ならほとんどが知っている、というか、米朝本人がネタにしていたギャグで、対北朝鮮について「戦略的忍耐」を選択していたオバマ政権時代にはあまり見られなかったものの、トランプ政権に代わって最近やたらと目にすることが多くなった「米朝」の文字。
当該記事の内容になんて毫も興味はないのだが、それにしても「米朝サイバー部隊」というのは、胸踊る言葉である。きっと指揮官はこいつだ。
beicho
アンドロイド米朝大佐
趣味: 落語鑑賞。趣味が高じて実演することも。

一昨年だかにテレビで観た米團治の『地獄八景亡者戯』のことをちょっと思い出した。たしか「米朝、ついに来演!」というネタで、米朝のモノマネをするんだった。面白かったし、でもちょっとさみしかったんだよな。

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ちなみに、きょう現在(6/11)のところ、第8週まで観終えていて、そのときに観た予告編がなんだか悪い予感しかないのにくわえて、仕事が忙しいのでそのつづきを観られていない。

もともと、みね子たち3人が奥茨城を出た時点で、「まあこれでこのドラマのピークは過ぎたろうな。『あまちゃん』じゃないけれど、東京行ったらつまんなくなるんだよ、絶対」と予防線を張っていた。
「東京編」でのキャストもよく知らなかったし、もちろん展開もまったく知らなかった。のちに僕のなかでアイドル的存在となる藤野涼子という俳優のことも、もちろん知らなかった。

月曜日。
はじめの段階で、その藤野涼子の演じる豊子が登場したとき、その第一声である低い青森弁を聴いて「やけにうめぇな」と強烈な印象を与えられた。
実際の青森弁(少しだけ「ネイティヴ」の発音を聴いたことはあるけど)そのものかどうかはわからないけれど、もごもごした感じというのを怖れずに演じているところに、方言指導ももちろんあるのだろうが驚いてしまったのである。僕の拙い経験上、聴いたことのない方言というのは、だいたいにおいて「なにを言っているのか完璧にはわからないもの」であって、もごもご聞えることのほうがリアルに思えるのだが、非方言話者は、そのリアリティよりも「聞えない/伝わらない」ほうを怖れてしまい、わりあい明瞭な発音になりがち(≒あまり方言らしくない)、と僕は見ているのだが、豊子の場合は、一瞬この人は青森の人なんだろうな、と思えるくらいにはもごもごしていた。たぶん、実際の、しかも当時の青森弁というのはニュアンスさえもつかめないようなもっとキツいものだったろうけれど。
とにかくまあ、第一声で心がとらえられてしまったのである。

でね、愛子さん(和久井映見)に連れられて向島電機に着いて、荷物も置かないままにみね子たちが食堂に入った瞬間、乙女寮のみなさんが合唱で迎えるシーンで、もう大感激してしまいまして。
なにがどうとかうまく言えないのだけれど(言えるけれど)、北関東や東北の田舎からやってきた女の子たちを迎えるのに、こんなにすてきなシーンがほかに思いつくかいな、ということなのだ。
セリフではない。ストーリーやプロットなどでもない。そういうものとはまったく関係なく、ここには演劇的な感動そのものがあった。歌が、そして唄っている姿が、みね子たちの心を通して視聴者の心を揺さぶる。あらためて観返してみても、大名場面だと思う。
このシーンで、前述した僕の「予防線」は一瞬にして粉々になっていた。ヴァージニア・ウルフの『燈台へ』のなかに、誰だか登場人物が、ひよこを守るため雌鶏が大きく翼を広げるのを路上で見つけて、「すばらしいね、すばらしいね」というセリフがあったが、その言葉以上にそのときの僕の気持ちをあらわすものはなかった。

で、その後の歓迎会で「ごちそう」としてカレーライスを食べるんだよなあ。もちろんこれはみね子が実家できょうだいたちと食べたカレーとの対比という意味合いもあるんだけど、ごちそうをカレーライスで表現できてしまうこの時代に特別な感慨を覚える。
これよりも古い時代を描いていて、たったひとりのためにおにぎり32個を並べるという下品なドラマもあったけれどね。
gochi18
その下品なドラマについてはもう言及しないが(口にするだけ穢れる気がしてしまう)、興味深いのは『ひよっこ』ではけっこうものを食べるシーンが多くて、この後も折にふれて指摘するだろうとは思うが、それはきっと食べられることそのものに価値があった時代のためであり、あるいは脚本家がそのような時代として描きたいためなのかもしれない。これは『なんたらさん』への強烈なアンチテーゼだと個人的には思っている。
しかも、あとでわかることだが(そしてみね子たち自身はわからないままなのだが)、みね子たちがごちそうだと感じた歓迎会の日のカレーライス(肉多め)は、食堂のおじさんが無理をしてつくったものだということが愛子さんとの会話でわかり、そこらへんも丁寧な描写だなあと思う。ごちそうが当たり前のように毎日食卓に並ぶのではない時代に、みね子たちを応援するために、見えない努力によってごちそうを並べてくれていたのだ。
そして、涙を浮かべながらそのカレーライスを頬張るみね子、時子、豊子。で、「涙では終わらせないよ」というように、おかわりの列にいつのまにか並んでいる澄子(松本穂香)でサゲる。完璧。

火曜日。
いよいよ乙女寮での生活が始まるわけだが、みね子たちと一緒の部屋に暮らす山形出身の幸子(小島藤子)と秋田出身の優子(八木優希)にも、(僕が)すぐに馴染めた。彼女たちだけでなく、乙女寮の多くが地方出身者ということで、方言が飛び交い、とても耳が幸せなのである。
早朝、愛子さんが起床用に寮内にかける音楽が『いつでも夢を』なのに、やはり『あまちゃん』を思い出さないわけにはいかない。

水曜日。
ライン長の松下さんの話を聞きながら、みね子の「お父さん……」と呼びかけてのつぶやきが、いちいち面白いのだが、この週あたりから、彼女がこのモノローグを通じて狂言回しになっているのに気づく。
しかしそれにしても、みね子たち4人がラインに入ってくるときの緊張感もよく描かれているし、そもそも流れるライン上の作業だけで4人のキャラクターを描き分けていて、なおかつ面白さもあるのがすごい。聖火リレーのときもそうだったけれど、このドラマは、それほど派手ではない/日常的な題材をひとつひとつ興味のあるものに仕立て上げる手腕がピカイチだと思う。

木曜日。
ラインで作業ミスをしまくり、落ち込むみね子に、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と声をかける愛子さん。はじめは「無責任な」と逆恨みをするみね子だが、やがて傍からはわからない哀しみや苦しい経験を抱えている人だということを教えてもらい、その愛情の大きさを知る。
この愛子さんというキャラクターの、愛らしく、ちょっと間が抜けていて、でも底抜けに優しいところはもちろん脚本によるものだが、しかし観る者に感動を与えるという点では、和久井映見という俳優の技倆によるところ大なのは間違いない。
考えてみれば彼女は変わった声をしている。甲高く、いわゆる腹から出すような発声法は採っていないのだが、彼女が、それまでの明るい演技から一転して口を結んでなにか大事なことをしゃべると、その言葉には自然と魂がこもるのだ。
テレビドラマの視聴経験が圧倒的に少ない僕でさえ、和久井映見といえば、それぞれの役柄での好演がすぐさま思い出される。『ちりとてちん』での喜代美の母親も切ないところがキラリと光る役柄であったし、『デート』では、コミカルな亡霊として娘の杏を鬱陶しがらせていた。なお、両方のドラマにおいて和久井映見の夫役は松重豊が演じている。
ストーリー上では「おばさん」と自嘲し、みね子にお世辞を言ってもらうとものすごく喜ぶという設定になっているが、愛子さんは文字通り乙女寮の大事な乙女のひとりだと僕は思っている。

さあて、金曜日。
前日終わりに、豊子が時子に、みね子のためとはいえ、仕事でわざとミスをするというのは間違っていると指摘をし、そこで口論になり始めたのを承けたところから。
豊子が、仕事のできない澄子とみね子を分析し、みね子のミスの方が問題は大きいとダメ出しをすると、それに対して時子が怒る。「冷静ぶって、自分は他人とは違うって言いたいんでしょ。もうそういう言い方やめなよ!」
これを言われたときの藤野涼子の表情がすばらしかった。「え」とも「う」ともなんとも言わず、ただその表情と潤む目だけで、豊子の心のなかにある硬い殻が、やさしく溶けていくのではなくて、痛みをともなってひび割れていくのが手に取るようにわかったのだ。
たしかに、自分を見ているようだと強い口調で諭す時子のセリフによって、豊子がそれまで地元の青森でどういうふうな思いを抱えながら生きてきたのか、ということを間接的に知ることができたが、しかしもっと直接的に、豊子の表情がそれを伝えていた。
そして時子の、「東京に来たんだから、もう突っ張らなくていいんだよ、豊子。そんなふうにしてたら、かわいくないよ」というセリフに対して、「めんごぐなんか、もともとねえよ」と豊子が言ったとき、なぜだかわからないがこちらも涙が出てきた。
早熟な女の子が、ずっと恵まれない環境にあった自己を守るため必死に築き上げた壁を、それと指摘されたのだ。しかもそれを指摘したのは、彼女と同様に恵まれない環境に育ったのかもしれないが、すぐれた容姿のために他人から愛され、しかも同郷の友人が傍にいるという、豊子から見れば充分に恵まれている人間によるものだったため、単純に悔しかったのだろうと思う。わたしは独りでやっているんだ、誰の助けも借りずにやっているんだ、という思いだったのだろう。
しかし、一悶着あった後、周囲の予想に反してみね子に素直に謝り、再び泣く豊子の涙の、なんとまあ美しいことよ。出来すぎといえば出来すぎの脚本だが、そこはまあただの感動もの(充分に質の高いものではあるけれど!)に終わらせず、寝たふりをしていたみね子の嘘がバレるというコメディタッチにすぐさま移行していくところも含めて(話はみね子と時子との口論に移って、結果、謝り合い、最終的にみね子のことを好きと強い語調で言う時子に対して、ふざけた調子で「ありがとう」というみね子、というか有村架純を含めて!)、非常にすばらしい場面だった。「東京行ったらつまんなくなるんだよ、絶対」って言ったやつ誰だよ! めちゃくちゃいいよ!

藤野涼子だけではなく、佐久間由衣、そして有村架純と、この週の各人の演技を観ていて、正統な演技をまっとうに演じきるというのは非常に大事だということが強く思われた。
特別ななにかや誰かを想定して言っているのではないが(というかそういう体にしておくが)、激しく感情を爆発させたり、奇矯な役柄を演じたりすることはいっけん目立つし、それがすぐれた技術だと思われがちだが、案外それは役者本人の技倆とは別の部分にウェイトがあることも多い。たとえば脚本だったり演出だったり。
そういう「目立つ芝居」に対する、正統な芝居というものに最近は興味があって、地味かもしれないが、日常的な人物――われわれと地つづきの世界で呼吸をしているような人物――を緻密かつ丁寧に再現しようという意思を持った役者のほうを、できるだけ評価したい気分なのだ。
『ひよっこ』は、脚本だけでなく、俳優にも恵まれていると思う。僕は、みね子たちが東京に来たらさすがに奥茨城のような満足感は得られないだろうと思っていたが、それは大間違いだった(すくなくとも、現時点では)。ただただ、乙女寮を描いてくれるだけでいい。そう思うようになっていたのである。

なお、藤野涼子にもう少し触れておくが、彼女は、セリフ以外の部分でも、その表情によって饒舌に演技をしていた。月曜であれば、食堂でみながはじめてマヨネーズをかけるシーン。火曜日であれば、寮内で幸子の説明などを聴くときの様子。カメラのアップがあるカットでは、もちろん演出指示があったものと思われるが、画面の端っこの方に映っているときも、豊子の表情は豊かだ。気になって気になって、ずっとそこばかり観るようになってしまった。彼女の存在は、いまのところこのドラマの最大の発見だと思っている。

土曜日。
米屋に行った三男。この米屋の父娘がそっくりだし、やりとりがとてもコミカルなのでにやにやしてしまう。斉藤暁にそっくりと言われたら女の子がかわいそうかもしれないけれど、女の子もかわいいし、だいいち斉藤暁もキュートだよ。

乙女寮では入社してはじめての休日で、みながそれぞれにけっして明るくはない元の境遇を話す。そして愛子さんは戦争で亡くした恋人の話をする。
前もムネオさんのところで書いたが、こうやって戦争が間接的に描かれるという手法に、とても好ましいものを感じる。茶番だったりやけに都合のよかったりする「戦中」や、終わるとなにもなかったようになってしまう「戦後」の描写より、よっぽどまともで誠実な気がする。

そうして、最後に「すてきな人」として登場するのが、警官なんだよなあ……。この警官と、それからあとで出てくる指揮者が、全然ぼくの好みじゃなくてなあ……。男だからいいじゃん、なのかもしれないけれど、やっぱりよくないんだよなあ。芝居がうまいのなら全然かまわないんだけど、ねえ。

とにかくまあ、こうして傑作週の「乙女たち、ご安全に!」は終わるのだった。翌週分からはもっとまとめて簡潔に書くつもり。

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『パッチギ』にはきっと呪いがかかっているんじゃあ~。

まずこれまでに、この人たちがなんらかのスキャンダルを起こしたんだけど、これ、Wikipediaに載っているキャストの上から3人そのまんまだからね。
  • 塩谷瞬
  • 高岡蒼佑
  • 沢尻エリカ
この時点ですでに「『パッチギ』には呪いが?」みたいなジョークはたしかにあったのよ。けれどもね、いやいやいや、それでもまだ小出恵介が僕らにはいるよ、と大船に乗ったつもりで安心していたわけだ。
それがなんとまあ……。
(なお、実際になにがあったか知らないが、未成年となんちゃらかんちゃらって、だまくらかしたわけじゃなくて、かつその相手が18、19歳であれば、という場合において、なにが問題なのかって気がする。小出も相手と結婚しちゃえばいいじゃない。「妻っス。ちょっと若いうちからアレしちゃいましたけど、それ、いまの妻っス」とか言っておけばいいのよ。19歳だと活動休止で主演ドラマも全編中止、となって、20歳だと「熱愛!」ってなるの、どう考えてもおかしいよ)

まあいい。問題は呪いの次のターゲットだ。
ざっとキャストを見渡すと、現在『ひよっこ』の三男の兄ちゃん役をやっている尾上寛之と、バンホーソンベこと『火花』の波岡一喜が危ない。おっと、桐谷健太もマークしておこう。彼の名前と顔はこの映画で憶えたのだっけ。

どうでもいい記事は10分で書けるマン。

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