とはいえ、わからないでもない

2017年11月

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ちいと具合が悪くなって、すわインフルじゃありゃせぬかとかかりつけのようなそうでないような病院に行くことにした。

病院といえば、その数日前にまた別のどでかい病院の整形外科に行ったばかりだった。そこでは学生時代にいかにもスポーツをやっていました、もちろんいまでも現役ですよといった感じの若い医師と、これまたいかにも整形外科の看護師とはかくあるべしといった立ち姿と笑顔の美しい看護師とがいて、日頃からスポーツもやっておらず姿勢も悪く苦笑いしかできない者としてはいささか肩身の狭い思いをしたのだが、当方がそのとき不調だったのは肩ではなく、腰。慢性の腰痛が気になってこりゃほんとうにまずいことになるかもしらんと病院に連絡してからはやひと月。つまり一ヶ月待ちの人気のレストランならぬお医者さんなのであった。
「じゃあこの用紙を持ってこちらでお名前よばれるまで待っていてくださいねー」と案内されソファにすわって本でも読もうかしらと持参していた新書を開いているとやたらとハルマフジハルマフジとうるさい。広い院内にあるいくつかの待ち合わせポイントのすべてにテレビモニタが設置されており、そのスピーカーから流れてくるワイドショウの音がこちらの想定を超えてうるさく、本が読めない。他の待ち人たちは確実に僕より二十は年上の人たちばかりだったが、その人たちは気にしていないどころか画面に釘付けであーだこーだと意見を交わしていてなるほどこういう垂れ流し的な番組に対して垂れ流され的に受容している人たちがいるもんだから需給間に合っているんですねと納得。そのうち、名前が呼ばれる。
先生「どうされました?」「腰が」「どうして?」「たぶん仕事柄」と、あまり意味のない会話が交わされる。なぜかといえば、それは事前に渡した問診書みたいなものにすでに記入済みのことで、彼の手元にそのコピーはあるのだから。彼はそういう会話をこなしながら電子カルテにカチャカチャと入力しており、僕は適当にこたえながらその書かれている文字を眺め、「ああこの人やっぱり理系だからコロンじゃなくてセミコロンつかうんだなあ」なんてことを思っていた。「症状: 腰痛」というのではなく、「症状; 腰痛」というように。
それから、前屈をさせられ、そのあと後屈(というのか知らないけど、後ろに反るやつ)をさせられた。前屈が硬いのは知っていたが後屈が柔らかいと言われたのには驚いた。そんなもんですか。
それからベッドに横になり、片足を垂直に上げさせられた。「これからこの足を身体のほうにゆっくりと倒していくので、ぎりぎりまでがんばって腰をあげないようにしてください」
説明のあったあと、先生が僕の足に触った瞬間「こりゃ硬そうですね」と苦笑したので「そりゃ硬いですよ」と笑って答えようとしたときに足を倒し始めたもんだから、「いたたたたたたた!」と言うべきところを、「かたたたたたたた!」と言ってしまい、恥ずかしい思いをした。
だいじょうぶだと思うけれどレントゲンを撮るかと訊かれて、生来の姿勢の悪さから背骨の湾曲の心配をしていたところもあるので、撮影。その写真を見たうえで、先生から骨に以上はないという太鼓判を押されて一安心。ただ、いまの痛みの原因はわかっているので、腰にベルトを巻いたりストレッチをするようにと勧められた。
いちおう貼り薬も出しておきましょう、などと言いながら隣にすわっていた看護師さんにあーだこーだと指示を出していたが、そのときに先生のほうがなにかの言い間違いをしたらしくふたりで「ふふふふふ」と笑い合っていて、それを聴きながら心のなかで「ああ、おれこういうの知ってるど。こういうの、精神的イチャイチャって言うんだど。ふたりともヤマシイところがないからっつうんで、いまは大きな声で笑い合っちゃったりしてるけど、そういうのは学生のバイト同士くらいまでが関の山で、いい年こいたオトナはあんましやんねーほうがいいんだど。しかも片方が医者とくりゃこりゃめんどーなことになること必至だど。さーてうまいところで互いが身を引けりゃーいいんだがなー、だど。けけけ」とつぶやきながらも、表面上は仏頂面でいた。

話は唐突に冒頭に戻る。戻るったって一行しか書いていないんだが、そもそもは風邪の具合を見に上に書いたのとは別の医者に行った。「ちょっとインフルかもしれないと思い……」と来院意図を告げると体温を測られ、それから細身の医師に細長い棒のようなものを右の、ついで左の鼻の穴へとどりゃどりゃと突っ込まれた。これが、痛い。痛いという感覚の前に、非常に気持ちが悪い。来るとはわかっていても、辛い。でも、「すみません、それはナシの方向で」と言えるもんでもないし、そもそもインフル検査ってそれだしって話で、耐える。ただひたすらその数秒を耐える。
その後ろで、医師と比べればちょっぴりふくよかな看護師さんが、「うう、痛い。痛いですよね。痛すぎる……」と言ってくれる。なんだか笑ってしまいもするのだが、これがこの医院のめちゃくちゃいいところ。
腰痛でかかったところは大病院だが、ここはもっと町場というかこぢんまりしている。で、たぶんだけど、医師と看護師さんは夫婦。全然不釣り合いな感じなんだけど、たぶん夫婦。
夫のほうは、話せば優しいんだけれど外見は繊細・神経質そうで細身でおしゃれ。奥さんのほうは、豪放な感じもあるんだけど庶民的ですごく親身で親切で声が大きくて安心させてくれ、なにより、こちらが痛がっているときなんかに「痛いんですよねえ……」と非常に心のこもった調子で言ってくれる。去年のインフルのときに点滴でお世話になったのだが、そのときも「インフルエンザの全身の痛みってひどいものがありますよねえ」と寝台で寝ている僕に向かってわざわざ言って来てくれたりして、医者や看護師にそういうことを言われるとそれだけで気持ちがずいぶんとラクになるってことをもっと全国の医者・看護師は知るべしと強く思ったものだ。
医療関係者と患者の関係というのは、その出会いにおいてだいたいが不平等だ。平生であればノしてやるわいという相手でも、病院内での邂逅ともなれば、多くの場合こちらが体調不良であり、向こうが主導権を握ってる。「で、きょうはどうしました?」好きでもねーてめえの顔を見に来たってわけじゃねえことくらいわかるだろ、くそがと言いたいところをガマンしてああだこうだと窮状を訴えなくてはならない。
もちろんこれらは冗談で、互いが互いに礼儀を尽くせばなんの問題もなく、むしろ患者から医療関係者のほうへは感謝の念しかないという状態になるはずなのだが、そのような好ましい例ばかりではないというのがほんとうのようで、大きな病院に行ったことはあまりないのだが、そのわづかな体験のなかでも、若い医師や看護師なんかが高齢の方に子どもにものを言い聞かせるような口調で話しているのを見聞きして、気の短い家族でもいたらぶん殴っているかもしれないなと思ったものである。でもまあ、たいてい家族がいないときやっているんだよね。
まあ貫禄のあってやさしい看護師のおかげで、半分以上気分がよくなった僕は、薬をもらって家へ帰ってすぐさま横になった。と言ってもずっと寝ていたおかげでなかなか眠ることもかなわずなにか読むものはないかと机のうえを漁ったら椎名誠『わしらは怪しい探険隊』の文庫本が出てきて、おおこれはいいぞと思い、さっそくにページを開く。
この本はそもそもがYouTube上にあったTBSラジオのラジオドラマで知ったものなのだが、現在それを聴こうと思っても著作権の通報があったらしく音声ミュート状態。気の利いた人間ならさっさとDLしてアーカイヴしていたりするんだろうなあ……気の利いた人間ならね。
それはともかく、文章を読んでいくとあのラジオドラマはほぼこの文章を読み上げているだけだったということに気づく。いや、そうだろう。椎名調(シーナ調?)とでも呼ぶべきあの独特の文体を他人がへたにいじくったら台無しだった。
そのなかで、ふと隊長の椎名がテントをつかって野宿をしている最中に体調を崩してしまい、タバコをふかしながら「おれも年かもなあ」となんとなく思うシーンがあるのだが、このセリフと感慨が、いまの僕にぴったりだった。いや、へたしたらこの時期の椎名より年上かもしれん。
身体のなかに鈍い針のついたいがいがの重たい玉をずっと抱えているような気分がつづいて、なんとか寝てやり過ごそうと思っても、夢の中でその痛みをどうしようか大勢と相談している。「やっぱり仰向けだろう?」「いやいや、横向きがいいんだよこういうときは」「いっそうつ伏せは?」侃々諤々とやっているのだが、そのたびに身体を回転させても、痛みの方向性はすこし変えられても質と量は変わらなく、それで目が醒めると痛みは夢からの持ち越し。しかもこっちでは大量の寝汗を掻いているときている。急いで布団のそばに置いておいた着替えで早替えするのだが、そのときに二匹のネコが僕の腕を枕にして寝ていたことに気づく。ネコ族! こんなときにまで暖をとろうとして!
もうひとつの痛みは喉で、唾が飲み込みづらく、ぎりぎりまで唾が溜まってしまい、仕方なくごくりと飲むと、炎症を起こした食道部が擦れる。うえ。このせいで涎まみれで起きたこともあった。そのときもそばにネコ!
三日間でまともに食べられたのはリンゴとミカンくらいだったな。味もよくわからなかったし。けれどもなんとか食べなければとうどんを食べたところあたりから回復が始まった。いつ開けたかわからない天つゆをドバドバ入れたらなんだかその香りで急に食欲が出た。やっぱりあの醤油っぽい匂いは効く。お豆の国の人だもの。
看護師夫人の勧めた漢方のせいかわからないが、腹と喉の痛みが薄れていくにつれ、首と頭の痛さがはっきりしてきて、どうやらこれは別源らしい。熱は治まって風邪の部分はなんだか過ぎ去ったようだが、頭上部の疼痛は気になる。ということで、今度また病院に行ってみる予定。とりあえず年内に不調部分を解消させておいて、おそらく人手が足りなくなる来年のために備える。

なんだか別に書きたかったこともあった気がするが、忘れた。代わりに長いあいだ横になっていたときに天啓のごとく降りてきたいくつかの考えを記して終わりにする。
  1. NHKの番組の程度がほんとうにひどくなっていく気がするのだが、一方で良質な番組づくりがつづけられていることを無視することもできない。よって受信料支払者が、それぞれが納めた受信料を何%ずつどの部門に振り分けられるかが選択できるようになればいい。Nスペとか週末の朝方やっているドキュメンタリーなんかはこれからもつづけてもらいたいし、やっぱりドラマは外せないよなあ。情報番組? ぜんぜんいらねー。え、NW9? あれ桑子になって一度も観てねーわ、ゼロ!とかやりたい。
  2. 田口浩正の仕事が徐々に松尾諭に奪われている、ということをこれまで言ってきたが、これって大森南朋と新井浩文の関係でも同じことが言えるのではないか?
  3. 貴ノ岩の兄という人物が国技館で写った写真を見ると、いつも合成写真なのかなと思ってしまう。
  4. いまのこの日馬富士問題をいつか演劇にしたら面白いのではないかと思う。登場人物を、あえてモンゴル人力士およびモンゴル人関係者たちだけに限定して、しかも一人芝居。

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面白かった……とはなかなか言えるような内容ではない。けれども傑作だと感じられた。そう感じるには、まずヴェルーヴェン三部作の『イレーヌ』『アレックス』を読み終えたうえで、この『カミーユ』を体験するという手順が必要だろう。

この小説では、主人公のカミーユが相当に痛めつけられる。いや、肉体的に痛めつけられるのは彼の恋人であるアンヌなのだが、しかしアンヌを通して、カミーユが傷つく。傷つきながらカミーユは、彼女を救おうとして泥沼にはまっていき、周囲から孤立する。もういいよ、と音を上げてしまいそうになる読者も少なくないだろう。もういいよ、カミーユをゆるしてやってくれ。一刻も早く彼を平穏な日常に戻し、幸せにしてやってくれ、と。
だが、作者はその攻撃の手を弛めない。もともと作者は嗜虐的なのかと疑うくらいに前二作においても残虐な描写を繰り返してきたが、本作でも残酷な鞭は振るわれつづけ、カミーユ・ヴェルーヴェンは苦痛に呻く。そしてその辛く苦しい三日間の果てにあったのは、また別の痛みだったのだ。

別の小説の感想のところで、キャラクターものということについて少し書いたのだが、ヴェルーヴェン三部作にも魅力的なキャラクターが登場する。カミーユ、ルイ、アルマン、ル・グエン。
彼らの名前をすぐに挙げた読者は、しかしそれから少しして、カミーユ以外の記述が実はそれほどなかったことを思い出すかもしれない。カミーユは主人公なので別格なのだが、彼以外のキャラクターの視点で描かれることは、ちょっとした場合を除いてほとんどない。
しかしなぜか読者は、彼らが魅力あふれる人物たちであることを当然のごとく知っている。それはなぜなのだろうか。
逆説的にいえば、(ただの偏見かもしれないけれど)ラノベというジャンルが登場人物たちについて饒舌に語るのに対して、ルメートルは登場人物たちについてはあまり語らず、また彼ら自身にもあまり語らせないことによって、かえってその人物像の輪郭の芯をつくったのではないか。作者は、ほんの数ページのやりとりや、ときにはたった一行によってその人物自身や、周りの人物との関係性を鮮やかに描き出してみせる。そしてもちろんわれわれ読者の想像力も、彼らの輪郭を太く豊かに際立たせることに一役買っている。

唐突だが、本書『傷だらけのカミーユ』は、原題を『犠牲』という。一作目『悲しみのイレーヌ』は『丁寧な仕事』で、二作目『その女アレックス』だけは、ほぼそのままの『アレックス』。
こうやって並べてみると、原題のほうがよりその作品の本質をあらわしているように見える。特に『犠牲』というタイトルを知ってしまうと、それ以外に考えられなくなってくる。
物語の最終盤に、その犠牲について語られる部分が出てくる。その観点に立てば、この小説にかぎらず、三部作のいたるところに、誰かが、誰か/なにかのために、なにかを捨てる、という構図を見つけ出すことができる。
ある者は称讃を得るために犯罪をおかし、ある者は復讐のために自らの命を捧げる。また、友人を救うために大金を投げ出す者もいれば、愛する者を救うために自らの自尊心を捨てる者もいる。ほかにもいろいろ。
これほどまでに広義の愛(なかには自己愛もあるが)について描かれた小説だというのに、しかしその愛が結実することは、ほぼない。たとえば、とんでもない金持ちのうえに優秀でそのくせ慎み深いというルイは、上司であるカミーユに特別な敬意と友情を持っていて、窮地に陥っている彼を救いたいと思っているが、その慎み深さのゆえか必要以上のことはできず、悲しい思いを抱いている。アルマン、ル・グエンにしても同様の感情を持ちながらも、それでもカミーユとの一定の距離を縮めることはない。
この他者への距離感と愛情とが相矛盾しつつ並存しているというのが、この小説のいちばんの魅力なのではないか。
他人を理解することはできないという大前提に立ちながらも、決してニヒリズムに陥らずに、足掻く。この三部作に通ずる痛みや苦しみというのはほとんどそこから生まれたもので、だから読者も心を揺さぶられる。軽々しい虚無主義がときに思想的ファッションの意味しか持ち得ないのに対し、愛には、いつの場合も希望が残されているからだ。

最後に、この小説でいちばんぐっと来た一行を引用しておく。最後の最後にあらわれる文章で、ある人物の一人称によるものなのだが、詳細については書かない。
わかってはいたことだが、おれはこいつがずっと好きだった。
(371p)
ここにも、たしかに愛があったのだ。

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これまでは、きっとあんなもんだろう、こんなもんだろう、と敬遠して読んでこなかったのだが、いざ読んでみたら、よくも悪くも読みやすかった。

よい点。
物語がいい意味で単調でベタに展開し、そのためすらすらと読める。
この読みやすさっていうのがけっこう大切なことだと実感していて、10月に入ってやっと仕事の忙しさからやや解放されたとなって図書館に行ったところ、第一冊目として手に取ったのが西尾維新の『掟上今日子の備忘録』で、ラノベのこの笑っちゃうくらいの読みやすさ・薄っぺらさが、リハビリ的な意味合いの読書として、非常によかったのだ。
なんにも考えずに文字を読むことができたうえで、単調な展開ながら「あ、そうなんだ」程度には心を動かすことができるというのは、じつは大変なことなんじゃないか。
よく言われることだが、さまざまな娯楽が発達した現代において、読書というのは、それなりに時間がとられるうえ、かつ能動的な行為を要求されるという意味では、なかなかにその体験者を選ぶところがあって、「本を読むくらいだったらSNSやっていたほうがたのしい」とか「アプリのゲームするわ」なんて考える人がいてもまったく不思議ではない。別に読書をしているから偉い、SNSやゲームは偉くない、なんて思わないしね。
読書をするからには、読書のほうに他のものにはないなんらかの優位性を見出しているはずなのだが、その優位性を「これだ!」と確認できる機会は実はなかなか少なくて、『バラカ』の話じゃないけれど、さんざん読んだあげく、「え、これでおしまい? ひでえ!」なんて感じることはゼロではない。僕なんか、ちょっとでもイヤなところがあると心中で不満が噴出し、読書じたいが進まなく、余計に時間がかかってしまう。「こんなことあるわけないよ」とか「めちゃくちゃ適当に書いてるな、ここは」とか。
そういう決して一筋縄でいかない体験である読書のリスクヘッジのひとつの指針として、読みやすいものを選ぶ、ということが挙げられるのではないか。
読みやすく単調な展開のものを選べば、少なくとも時間はかからない。時間がかからないから、「費やした時間を返してくれ!」という不満が湧出する蓋然性は低くなる。そしてそういう不満がなければ、多少面白くなくとも、「ま、こんなものか」と赦せるのである。

悪い点。
これは「よい点」の裏返しで、あっさりしすぎて、あまり心に残らない。するするするっと記憶のふるいからこぼれ落ちてしまう。そばをささっと啜ったときのように、なんだか物足りなさだけが残る。
本書は、辞書編纂に関わる人間の物語だが、その核となる辞書編纂が、よくできた「装置」以上のものには感じられなかった。もちろん、言葉に対する情熱や愛着、細部への拘泥や執心を描いているわけで、作者自身も言葉や辞書について相当な関心・愛情を持っているのであろうが、そのいづれもがこちらの想定の範囲内で、ことさら新鮮な驚きがあるわけでもなかった。


ちょっと前までは、新しい中型辞書の新版などが出ると、井上ひさしがコラムで言及したりしていたものだよね。新版でなくても、丸谷才一、高島俊男、柳瀬尚紀(彼は作品社「日本の名随筆」で「辞書」の編者になっていた)たちのエッセイで、辞書についての彼らの一家言なんていうものをけっこう目にしたせいもあって、そこらに較べると『舟を編む』に出てくる描写は、そこまで深いところまで行ってはいないなという印象を持った。カタログ的というか、きちんと取材をしているため必要な情報は揃っているが、それ以上のものを得ることは難しい、という感じ。もちろん、辞書のつくり手と、それの非常に優秀な読み手、という観点の違いはあれど。
この「装置」の使い方で、小川洋子の『博士の愛した数式』を思い出した人は少なくないだろうと思う。あれは、数学版。こっちは辞書版。そこにヒューマンドラマを絡めていっちょあがり、なのである。
ま、それでもいいのである。多くの読者は、ある単語の世に知られている誤った語源解釈をただす、なんていうディテールに興味があるわけではなく、ふだんあまり知ることのない世界をほんのちょっと垣間見ることができればじゅうぶんなのだ。
すぐれた作家というのはその要求にきちんと応えることができ、三浦しをんもその仕事をじゅうぶん果たしている。
言葉という大海を渡るための舟が辞書であって、辞書づくりというのはその舟をつくることなのだ、というフレーズが幾度となく出てくるが、これをロマンティックだと感じられる人たちはじゅうぶんこの本をたのしむことができるだろうし、うーん、ちょっと陳腐かなと思う人たちは、それなりの感想しか得られまい。ここがたぶんいちばんわかりやすい好悪の分かれ目になると思う。

さて。
内容についてちょっと感じたことを書くと、この小説の登場人物は、かなりキャラクター的で、こういうところにいい意味でのラノベっぽさを感じた。「人間性とはなんだ」とか「もっとリアリティを」なんてことをいう前に、面白くなるための役割をあらかじめ振り分けておいて、その範囲内で活躍してくれればいい、というのが先に書いた「キャラクター的」という意味だ。
なので、主人公の「まじめ」は、最初から最後まで同じままだ。ヒロインっぽい役どころの「かぐや」も、まあ、そもそもそのイメージが覆るほどの登場回数が与えられていないし、他の人物たちも同様。ただ、西岡というチャラい人間だけに、人間的成長の見られる部分があって、その点がこの小説のハイライトだと個人的には思っている。
あとは予定調和の世界(西岡の成長ももちろん予定調和内なのだが)が粛々と進められ、最後はそれなりに感動させるようにできている。
僕の大好きな上方落語『はてなの茶碗』という噺のなかで、主人公である大阪出身の油屋が、いわゆる「はてなの茶碗」を京都の茶金という茶道具商のところへ持っていくと、主人の金兵衛の代わりに番頭が品物を鑑定するのだが、そのときに、茶碗を見る前に、茶碗を包んだ風呂敷を褒める箇所がある。
「ええ風呂敷どすなあ。更紗もこれぐらいになると……」と言って、油屋に「風呂敷はどっちゃでもええねん」とツッコまれるのだが、この「更紗もこれぐらいになると、」という褒め方がなんとも風情があって、好きなのだ。
『舟を編む』という小説を読み終えたとき、「エンタメもこれぐらいになると、やはりいいもんですな」という感想がぽっと浮かんだ。
これまであまり褒めてこなかったように見えるかもしれないが、どっこい、そんなことはない。適度な登場人物たちによってこれまであまり知られてこなかった世界が紹介され、最後には爽やかな感動を得られる、っていうのは、じゅうぶんに価値のある小説だと思う。中学校・高校の図書室の書架にぜひ並べてほしいものだ。わかりやすいので、映画化やマンガ化、アニメ化もしやすいと思う。
僕個人は、ものすごく気に入ったというところまではいかなかったが、作者の技倆に、職業的作家ってこういう人のことを言うのだろうなと思ったのだった。

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桐野作品は初めてだったのだが、うーん、次を読もうという気にはなれないなあ。

今年読んだあるマンガ家の短篇集に、アイドルについての作品が収録されていたのだが、非常にがっかりした。そのマンガ家には頑張ってもらいたいという期待感があったので、余計にその失望感は大きかった。
というのも、その作品に描かれているアイドルとアイドルヲタクとの関係性が既視感にあふれているというか、作者の「感動的に見せたい」という意図に反して、その界隈のことを「やや知っている」程度の僕ですら、いやなんかこれ、現実に見聞きするエピソードのほうがよっぽど感動するんですけど、たぶん、作者はアイドルファンじゃねえな?なんてことを思ってしまったのである。
このことが『バラカ』にも言える気がする。つまり、震災にまつわる「現実」のほうが、この小説で戯画化されているようにも映るディストピアより、よほどおそろしく、また深刻なのではないか、と。
オビ文にも書いてあったことだからネタバレにはならないと思うのだが、この小説のなかでは、東日本大震災で福島第一原発がすべて爆発したということになっており、その後の日本が描かれている。
首都機能は大阪に移り、それと一緒に多くの人は「西」に逃げて、「東」の人たちの差別や迫害はひどく、国は必死で原発関連の情報を隠蔽・検閲し、あるいは、来るべき2020年の「大阪オリンピック」にみなが夢中になっていて、「東」はまったく関心を持たれなくなっている……というおそらくは作者のものであろう批判の数々は、すべてとは言わないまでも、いま現在の社会にもかなり通用することがあって、それならば、福島第一原発がすべて爆発した、などという設定をわざわざ持ってくる必要はなかったのではないか、とついつい考えてしまう。
そんな「非常事態」にならなくても日本の社会はじゅうぶんディストピア化しているところがあって、そこを直視したほうがよほどこわい、という気もする。650ページ(!)近くのフィクションを読むより、被災地の風評被害や、放射線にまつわる差別、あるいは国家によるメディアに対する圧力などについてのルポルタージュをそれぞれ読んだほうが、よほど学べるものが多いのではないかということだ。
ちなみに本書は三部構成で、大震災前、大震災、大震災八年後となっている。

あとは、つらつらと不満点を挙げていく。

大震災前のパートで、登場人物のひとりである女性テレビディレクターが自分の製作した番組を放送するときにツイッター上で炎上が起こるのだが、2010年ごろってツイッターはまだそれほど盛り上がっていなかった気がするんだけど。
その頃、テレビ局が公式アカウント持って「いまから放送します」みたいなツイートをしていた、なんてことあったのかな。いまちょっと見たら@NHK_PRが2009年11月の登録となっていた。うーん、かなりギリギリかな。
やっぱり、ツイッター人口が劇的に増えたのって2011.3.11以降のような気がする。2010年4月スタートのあるドラマがツイッタードラマみたいなことを謳っていて、それを契機にツイッターを始めただかハマっただとかいう脚本家がいたことをなんとなく憶えている。あの頃は、ツイッターって日本で流行るのかどうかなんてことがまだ言われていたのではなかったっけ。

ひとり、自称「悪事の天才」が出てくるんだけど、それがかなりしょぼい。それでもなぜか彼が日本の悪全体を背負っているような構図になってしまっていて、そのことが小説全体のうすっぺらさの縮図みたいになってしまっている。
また小説の舞台も、東京、福島、ドバイ、それからサンパウロがちょっと……と、一見かなりめまぐるしく行ったり来たりするのだが、それがまるでステージの書割の転換みたいな軽さで、その場所場所が登場する必然性はほとんど感じられなかった。おそらく、震災、原発、放射線汚染後の世界、という大きな物語の枠組みをつくってしまった以上、そのぶん世界を拡大して描こうとしたのだろうけれど、成功していない。
が、どうしようもないくらいに魅力のない登場人物たちのなかで、この「悪事の天才」のストーリーだけは、やや惹かれるところがあった(最終的にその興味は失速に失速を重ねて消滅してしまうのだが)のも事実。やや、ね。というより、その人物と主人公のバラカ以外は、まったくといっていいほど、魅力がない。

あと、びっくりするくらいに人が死ぬ。
震災だから、ということじゃなくて、たぶん作者にとって必要のなくなった順に、どんどんと死んでいく。そうなると、読者が登場人物たちに対して愛着を持てなくなる。「どうせこいつも死ぬんでしょ」としか思わないし、実際その程度にしか描かれない。
また、漫☆画太郎のマンガみたいに、トラックに轢き殺されるという死に方が複数回出てくるのだが、思わず笑ってしまった。

それと個人的に感じたのは、作者は女性が嫌いなのかな。前半の登場人物に女性がふたり出てくるのだが、これが仲がいいという設定なはずなのにコミュニケーションをすればするほどいがみ合う。お互いがお互いに対してどこか気に食わないところを持っていて、その部分を軽蔑したりしている。
しかしもうちょっと客観的に見ると、ふたりとも浅慮で見栄っ張りな性格だというのは共通していて、ふだんの主張は威勢がいいのだが、いざとなるとずるずると流されてしまい、「弱い」といえば聞えはいいが、つまりは愚かしく描かれており、いくらなんでもティピカル――しかも保守的なおっさん層が安直にイメージしがちな典型象――にすぎると思われた。
別の登場人物に強烈なミソジニストがいるのだが、彼のセリフにやけに実感がこめられているように感じたのは、少々ヒネた読み方だっただろうか。

まあとにかく、なんだかんだの些細な短所は、最終的な尻切れトンボ感によって簡単に一掃される。650ページの果てのこの結末はいくらなんでもないだろう。夢オチかと思ったくらいだ。
もうちょっと広げた風呂敷の畳みようっていうものがあるはずで、作家としての誠実さを心の底から疑った。
この作家はけっこう有名なもんだから、ふだん小説を読まない人が「なんか有名な人だよね。どれ、読んでみようかな」と思って手にとったらたいへんなことになると思う(実際、僕が読み始めた動機もそんなもの)。大部のため無駄に名作感を醸し出しているようで、失望感もその反動で大きいのではないだろうか。なんだ、小説ってつまらないなと思って、その人が以後読書をしなくなったら、その罪は大きいよな……なんて、作者の責任とはいえないようなことまで考えてしまったのだった。けっこう先入観を持たずに読み始めただけに、非常に残念。

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